バブル崩壊
「では、頭流しますのでシャンプー台に移動お願いします」
新人スタイリストの私は、まだ手に馴染まないモルクを腰のホルダーに収めて松井さんを案内した。先輩スタイリストの話によると、松井さんは、私がスタイリストになる前から、美容室“プランB”の常連客だと言う。陽気な松井さんは、軽くなった頭髪を満足げに揺らしながらシャンプー台へ向かう。私の提案したヘアスタイルを喜んでいるようで嬉しくなり、彼の後を追いかけるように私もシャンプー台へ向かう。
これ以上手が荒れないようにゴム手袋を装着して、松井さんが、座る椅子の背もたれの角度を調節してシャンプー台に頭が来るようにする。手袋越しにシャワーの温度を確認する。
「流しますね」
言い終えて一呼吸おいてから、松井さんの髪にシャワーを当てた。また5秒ほど時間を置いて「温度の加減はよろしいですか?」と尋ねた。
「うぅん」と気の抜けた返事を私に返すと松井さんの肩から力が抜けていくのを感じ取った。リラックスしてくれているのだと思うと私もつい頬が緩む。
しばらく温水で頭を流してシャンプー液を手のひらに広げて泡立ててから松井さんの髪の泡を塗り込みそのバブルを増殖させていく。
頭皮の血流を良くするようにマッサージのような手つきで頭を洗う。ここまでは何の問題もなくお客様を満足させている自負がある。
「お痒いところはないですか」
アシスタント時代でこれの返事が来たことは何十回の1人くらいのものだ。先輩のスタイリストが苦笑しながら松井さんにシャンプーをする私を見て通り過ぎた。
「右のほう…」
「あ、え?右ですか?」
先輩の表情に気を取られて松井さんの言葉の反応が遅れてしまう。すかさず私は、今の位置から少し右に手をずらしてシャンプーをする。
「この辺りでしょうか?」
「あぁ…もうちょと右」
髪を切っていた時にはあまり声を聞いていなかったが、随分と気持ちよさそうに言葉尻を滲ませている。
もう少し右に手を動かしてみる。
「そこぉ」
「かしこまりました」
松井さんの反応を楽しみながら、指摘した箇所を入念に洗う。時計を見つつ、松井さんに声をかけた。
「スッキリしましたか?」
「はい〜…」
「では、流しますね」
「あ、」
「はい?」
「生え際の方もぉ〜」
シャワーヘッドに手を伸ばしかけたが、松井さんの頭を洗うために戻す。額の方か確認をして、生え際部分を洗い始める。満足げにため息をついたのを確認して、秒針の動きをみる。
「よろしいですか?」
「次は、耳周りぃ」
「あ…はい…」
私の隣を通り過ぎる先輩スタッフは、ガッツポーズをして私を応援しているようだった。
耳周りの頭皮にシャンプー剤を塗り込むように洗う。少しずつ、少しずつ、シャンプーの時間が逼迫し始める。他の客であればもう、トリートメントの終わり頃だと言うのに松井さんの“痒み”は一向に解決しない。
「大丈夫でしょうか?」
「うぅん…後頭部ぅ」
終わらない。私もお客さんの回転率を上げないといけないため、このまま松井さんの痒みに応えてる暇はない。次の予約も入っているため時間内に終わらせてしまわないと、予約客を待たせることになってしまう。多少雑になるのは仕方ない、最初に落ち着いたシャンプーよりも激しさは一段と増し、首が固定されてるとはいえ、後頭部を洗われている松井さんの顔は頬肉がたぷたぷと揺れるほど私の手の動きは早さを増していた。
「はぁ…ふぅ…」
松井さんにバレない程度に呼吸を整える。
「後頭部の方もスッキリしましたでしょうか?」
「…」
「松井さん?」
反応がない。少し激しくして怒ってしまったのか…それとも寝落ちした?私は、少し不安になりながら、声をかけていると、後輩のアシスタントが、アイコンタクトで何かを伝えようとしてるのに気がついた。後輩の視線を辿ると松井さんの腹部を見ているようだった。私もそこに目線を動かす。松井さんは、腹部の上で親指を立ててグッドのハンドサインを出していた。
「あ…良かったです…それでは」
「もっかい最初のとこぉ」
松井さんが口を開いた。
最初のところ、と言うと「右」と言ってたところだろうか。もう記憶も曖昧だ。私は当てずっぽうで頭を洗い始めた。
「ちゃうちゃう、もっと左ぃ」
「あ、失礼しました…」
「あぁん、そこじゃなぁい」
「こちらですか?」
「…」
「松井さん?」
「…」
視線をズラすとぽっこりお腹の上でグッドにハンドサイン。イライラしてきた。いや、イライラは松井の口調のクセに気づいた時から薄々している。それを隠していた。自分はそんなことで怒るような人間じゃない。色んなお客様に綺麗になって欲しくて美容師になったのだ。こんな中年のおっさんにイライラしていては後先が思いやられる。
「つぎ、もいっちょ後頭部ぅ」
パァンッ
破裂音が店内に響いた。頭部で増殖し続けたバブルは私の平手が振り落とされたせいで弾けて崩壊する。舞い上がったそれらはシャボン玉のように松井と私の頭上にフワフワと飛んでいる。なんて綺麗なんだ。
「い、いたぁい」
「流しますね」
「…あっ」
「流しますね」
「はい…」
私は、掴んでいた松井さんの親指を離して、シャワーで泡を流し始めた。
おわり。