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第二五部「黒い点」第6話(完全版)(第二五部最終話)

 この世界には多次元たじげん宇宙もパラレルワールドも存在しない。

 あると考えることで、強引に何かを納得させたいがため、存在を確認することの不可能な世界線を想像する。それが何かは人それぞれだろう。そして、その考え方のユニークさがやがて〝五分前仮説〟や〝シミュレーション仮説〟を定着させていく。

 もはやそれは概念がいねんですらないのだろう。

 この世が希薄きはくなものであると思えれば、そのほうがつらい現実を受け入れやすくなる。それは過去の歴史を見ても、何度もおとずれている〝流れ〟の一つに過ぎない。世の中の雰囲気がすさんでいくに連れて、その風潮は顕著けんちょになっていく。


 そして、やはり歴史は変わらなかった。

 牧田靖子まきたやすこは妊娠した。

 バタフライエフェクトは一つの思考実験的に広がったフィクションに過ぎない。

 一番驚いたのは医者のほうだろう。がん治療の記録を見れば妊娠など出来るはずがない。しかし靖子やすこは事実として妊娠し、そのおなかの中には胎児たいじが存在していた。

 〝子宮しきゅう〟が生まれていた。

 その現実は受け入れるしかない。記録が間違っていたと判断するしかない。


 靖子やすこも、もちろん夫の太一たいちも子供はあきらめていた。

 子供は不可能なはずだった。

 靖子やすこの体調の変化も最初は想像妊娠の兆候かと思われたほど。それでも胎児たいじの存在を明確にエコー画像で見せられれば、医者ですら妊娠を疑う理由はない。

 やがて産まれた子供は女の子。


 絵留える、と名付けられた。


 やがて幼い絵留えるに、へびの姿をしたスズが取りく。


 そして絵留えるが七歳の時。


 母親の靖子やすこは二人目を妊娠していた。

 妊娠八ヶ月。

 出生前診断しゅっしょうまえしんだん胎児たいじのダウン症の可能性が分かったのは妊娠四ヶ月頃。

 父親の太一たいちはその時点で産むことをあきらめたかった。

 しかし靖子やすこは産むことを望んだ。

 やがて意見の食い違いは家庭の雰囲気をおかしていく。

 二人に喧嘩けんかが絶えない日々が続いた。

 そして、すでに堕胎だたい出来る段階は過ぎていった。


 その日、太一たいちがなぜそんな行動を取ったのか、それは後になっても太一たいち自身分からないままだったという。

 おだやかな気候の一日。僅かに陽が傾き始め、リビングの大きな窓からも強目の日光が入り込み始める。

 そんな時間。

 広いリビングのカーテンはいずれも開いたまま。リビングの向かい合った大きなソファーの裏で立ち尽くす靖子やすこの影に、太一たいちの影が重なるように寄り添っていた。

 すでに大きくなっていた靖子やすこのおなかに当てられた太一たいちの右手。

 その手に握られた包丁ほうちょうが、ゆっくりと靖子やすこのおなかから抜き出されていく。

 靖子やすこは声も出せないまま。

 力が抜けかけた直後、再びその包丁ほうちょうが突き刺さる。

 まるでそれが自然なことのように、抵抗もなく入り込む。

 もはや自分の身に起きていることなのかどうかも分からない。

 視界が揺れた。

 重力が崩れていく。

 体全体に冷たさを感じた。


 床に倒れた靖子やすこの体に、太一たいちは馬乗りになっていた。

 包丁ほうちょうを両手で逆手さかてに持ち、何度も振り下ろす。

 しだいに床に真っ赤な血溜ちだまりが広がる。

 その暖かさが、床に付いた太一たいちの膝から伝わった。

 もはや靖子やすこに考える力は無かった。

 腹部に入り込む太一たいちの手の感覚に、絶望感と共ににくしみすらも薄れていく。


 ──…………お母さん………………


 血だらけの体で、太一たいちは暖かい胎児たいじを取り出す。

 すでに腕と脚が取れかけた胎児たいじを床の血溜ちだまりに置くと、太一たいちはその首に包丁ほうちょうを押し当てた。

 思ったよりも簡単に、その首は離れる。


 血の匂いが太一たいちの鼻に届いた時、やっと背後の気配に気が付いた。

 振り返った先には、絵留えるが立っている。

 その絵留えるは、無表情のまま。

「警察には自分で電話をしろ────お前はもう〝用済ようずみ〟だ」

 その絵留えるの言葉に太一たいちは立ち上がる。

 全身が重く感じられた。体の至る所から血がこぼれ落ちる。

 その時、一瞬だけ、太一たいちの中にうずいたものがあった。

 しかし、太一たいちがそれが何かを知ることは、その先もないまま。

 絵留える靖子やすこの死体をき分けるように、胎児たいじに近付く。

 総てが小さい。そのそれぞれが、バラバラに床に散らばっていた。

 すでに床は血溜ちだまり。

 足の裏が暖かい。

 胎児たいじの体の中心を開くと、中の小さな、小さな心臓しんぞうを取り出した。

 血だらけになったてのひらに乗ったその小さなかたまりを見ながら呟く。

「…………これだけで充分だ…………」


 すると、背後からの声。

「それで……いいの?」

 それは、再び時をさかのぼっていた萌江もえの声。

「……他人の人生を壊してまで…………」

「お前が言うか」

 応える絵留えるの声に感情が込められているとは思えない。


 ──……分かってる…………この時間を作り出したのは……私だ…………


 ──…………私が絵留えるを作った…………


 ──……靖子やすこさんを殺して……旦那だんなさんは刑務所で自殺する…………


 ──…………私は……一つの家族を崩壊させる…………


 ──……スズが絵留えるに取りくタイミングまでさかのぼれば…………


 ──……どうせ何度も…………キリがないだけだ…………


「つまらんことを言う…………他人に苦しめられる本当の恐怖など……お前は知らない……」

 そう応える絵留える────スズに、萌江もえはどうしても言いたいことがあった。


「そうね…………でもスズ……だったらどうして? どうして私や御世みよに助けを求めたの? 私はそんなにまでして……産まれたくなんか……なかった…………」


 やがてやってきた警察に、太一たいちは逮捕され、絵留えるおびえた表情で自分の部屋にいるところを保護された。



      ☆



 時間がどのくらいか、誰もがその感覚を失っていた。

 毘沙門天びしゃもんてん神社の祭壇前を、ゆっくりと、静かな風が流れていく。

 どうやら夕方が近いらしい。本殿の柱の作り出す影が長い。しかもその影は陽の高い時間に比べるとなぜか濃く見えた。

 そのことに最初に気が付いたのは、立ち上がって周囲に視線を回した咲恵さきえだった。

 大見坂おおみざか親子と、その左右を固める鬼郷おにさと夫妻は祭壇に体を向けたまま、いまだ、萌江もえ咲恵さきえに顔を向けようとはしない。


 ──……気持ちのいい風…………


 萌江もえの背後、床に膝を着いた咲恵さきえは、目の前で小さくなる背中を見降ろす。

 その首筋に両腕を回し、抱きしめていた。


 もはや、抱きしめられた萌江もえは、感情すらも行き場が分からないまま。

 何の抵抗もなかった。

 込み上げるものもない。

 ただ、自然と、両目から涙がこぼれ落ちていく。


 体の震えすらないことが、むしろ咲恵さきえの不安を押し上げた。

 今までに経験したことのない何か大きなうねりが、萌江もえを包む咲恵さきえの気持ちを揺らす。


 咲恵さきえは、萌江もえに触れ、総てを理解した。


 咲恵さきえに流れ込むのは記憶だけではない。

 複雑に絡む感情が記憶をいろどっていた。

 萌江もえとの思い出までもが咲恵さきえの中で暴れようとする。


 ただ、何かを言葉にすることが、一番怖かった。


 そして、やっと咲恵さきえの声が、萌江もえの耳元。


「…………ホントの痛みって……目に見えないよね…………でもあなたは私に総てを見せてくれた…………時に私を受け入れ…………時に抵抗しながら…………」


 ──…………私は…………気持ちを決めなければ…………


「……あなたは……色々な人の人生を見てきた……それだけ色々な人の傷を見てきた…………時にその人生にあらがいながら…………時に求めながら…………」


 ──……覚悟しなければ…………


「……聞かせて…………あなたは、だれ…………?」


 ──…………だって…………目の前にいるのは…………


 咲恵の視線の先。

 そこに見える萌江もえの後頭部が僅かに動いた。

「…………私は………………もえ…………恵元えもと…………萌江もえ…………」

 その小さく震える萌江もえの言葉に、咲恵さきえが笑みを浮かべた。


 ──……目の前にいるのは…………〝神様〟なんかじゃない…………


 ──…………だから大丈夫……総て受け入れてみせる…………


「…………おかえり…………萌江もえ………………ずっと待ってたよ…………」


 ──…………だから萌江もえ…………私に…………隣に、いさせて…………


 ただ、咲恵さきえの感情が、そのほおこぼれ落ちていく。



      ☆



 湖面こめんを渡る風。

 ゆるやかな流れ。

 時間もゆっくりと流れていく。

 変化など無いはず。

 時間の速度は変わらないはず。

 しかし、誰もがその変化を知っている。

 空の色もゆっくりと変わっていた。すでにあわ紅色べにいろが青く移り、空と山の境界を曖昧あいまいにし始める時間。

 その色を映し続ける、かつて姫神ひめかみ湖と呼ばれたこともある湖────雄滝おだき湖。

 その湖は、湖畔こはん雄滝おだき神社に恵みを与え、かつては二つの水晶を清国会しんこくかいに与えたこともある。


 ──……その頃の時間は、今よりゆっくりだったのかもしれない…………


 恵麻えま雄滝おだき湖の静かな湖面こめんを見る度、そう思うことが何度かあった。

 想えば、一番古い記憶もこの湖から。

 そんな感覚がある。


 何が正しかったのか。

 何を持って正しいと考えるのか。

 自分の決断は正しかったのか。

 その評価をするのは誰だろうと、そんなことを考える。


 ──…………私の……決断は…………


 しばらく雨が降っていなかったためか、湖畔こはんは歩きやすかった。穏やかな日々に波も小さかったのか、所々乾いてヒビの入った土が湖の水を求めていた。

 その湖畔こはんにある小さなほこら

 雄滝おだき湖に水を注ぎ込む〝雄滝おだき〟が作り出す川。

 そのそばほこら雄滝おだきとその滝によって作られる雄滝おだき湖の神をまつるため。それは神道しんとうける神。一神教の神とは明確に違うもの。清国会しんこくかいが生まれるよりもずっと古くに作られたほこら

 そのほこらの前に膝を落とすと、恵麻えまは地面に片膝を着いた。

 そして、地面に小さな枯葉かれはを置くと、その上にさらに小さな〝すず〟を置く。

「……〝六神通ろくじんつう〟の使者ししゃを呼びたい時……ここに、こうしてこれを置いておく…………」

 それは古くから使われてきた物。それ以外の用途で使われたことのないすずでもあった。黒ずみ、その周囲だけでなく内部にまで歴史の汚れが蓄積しているのか、決してかろやかな音を立てはしない。

 清国会しんこくかいが決めた物なのか〝六神通ろくじんつう〟の指定による物なのかまでは恵麻えまも知らない。先代でもある母親も知らないという。長い歴史の中で、いつの間にか細部をぎ落とされてしまった〝仕来しきたり〟の一つ。

 厳格げんかく神道しんとうの世界。

 厳格げんかくな神社で産まれ育った。

 厳格げんかく清国会しんこくかいをまとめてきた。

 古くからの〝仕来しきたり〟で固められた世界だと思っていた。

 しかし、それが〝人の〟というものであることを知った。

 自分しだいで周囲の世界は変えられるとも言えるが、誰でもそれが出来る環境にあるわけではない。

 世界は、決して〝自由〟ではない。

 生き続けるということは〝不自由〟なこと。

 そこと折り合いを付けられるのなら幸せなのかもしれないが、同時にそれは決して簡単ではない。

 そういった感覚の多くを、最近になって恵麻えま西沙せいさから学んでいた。西沙せいさ恵麻えまとは違って若い内に実家である御陵院ごりょういん神社を飛び出した過去がある。恵麻えまと大きく違うのは、それだけ世の中を見てきたという部分だろう。お互いにあゆみ寄ろうとしなければ、考え方や感覚が噛み合わないのは当然だった。

 そしてあゆみ寄ったのは、どちらからということもなく、お互いにだった。

 もちろん西沙せいさからすれば、今後の清国会しんこくかいに関して、という部分にいて〝へびの会〟としての関わりは確かにあるだろう。とはいえ、お互いにそれまでの関係性を認めた上で向き合っていた。

 そしてそれは、それぞれの組織があゆみ寄ったからとはいえ、個人単位ではやはり簡単ではない。

 人が他人と向き合うことには、少なからず、恐怖を伴う。

 それでも西沙せいさ恵麻えまも、それを拒絶きょぜつする気はなかった。

 その恵麻えまが地面に置いた小さなすずを、恵麻えまの隣で膝を落とした西沙せいさが見降ろしながら口を開いていく。

「〝カバネのやしろ〟も〝六神通ろくじんつう〟も、まともな世界ではない…………恵麻えまもそういう認識でいいの?」

 その場にいるのは二人だけ。

 〝六神通ろくじんつう〟の儀式ぎしきを見たいと言ったのは西沙せいさだった。それは事実だったが、雄滝おだき神社に向かっている萌江もえ咲恵さきえが到着する前に二人だけで話しておきたかったのも事実。

 その西沙せいさが続けた。

「それを〝つぶす〟にしても〝こわす〟にしても、それには理由がいる…………だから一つ確認させて……決断するにる理由は、萌江もえから話を聞いてから、でいいのよね」

 すると恵麻えまは、ゆっくりと何かを噛み締めるように間を空けてから口を開く。

「……もちろんだ。萌江もえ様がさかのぼった過去で何を見られたのか…………それを聴いてからでなければ…………私一人で決断の出来ることの大きさではないであろう…………」

 それを聞いた西沙せいさは軽く口元に笑みを浮かべた。

 西沙せいさも多くのことを噛み締めている。そして言葉を返した。

「今回さ…………ずっと嫌な感覚があったよ。でも有耶無耶うやむやにも出来ないことだったし…………」

萌江もえ様は……もしかして……京子きょうこ様に御会いしたのだろうか…………」

 恵麻えまは呟くようにそう言うと、静かに立ち上がる。

 西沙せいさも続く。

 少し強めの、冷たい風が二人の足元をり抜けていった。冷たい湖面こめんでた空気は、軽いままに二人に絡み付く。

 その風に、西沙せいさの声が乗った。

「……かもね…………って言うより、そのほうがしっくりくるよ。多分私たちは、一番大きな〝答え〟を前にしてる…………そうかもって思いながら、その可能性を言葉にするのさえ怖くなって…………でも答えを知りたくて動いてて…………そしてその答えを持った萌江もえを待ってる」

 すると、恵麻えまが湖に首を回して言葉を返した。

「……西沙せいさに……聞いてみたかったことがあった」

「何よ、今回のこと?」

「まあ、関わりがあると言えばあるが…………西沙せいさは……〝神〟というものをどうとらえている?」

「ああ…………それね」

 いつか、西沙せいさ恵麻えまに聞いてみたいと思っていたことだ。

 清国会しんこくかいは数百年に渡って天照大神あまてらすおおみかみとその末裔まつえいと信じた金櫻かなざくら家を〝神〟としてあがめてきた。そういう意味では西沙せいさ恵麻えまも幼い頃から同じ教育を受けてきたと言えるだろう。

 先にその呪縛じゅばくから抜け出したのは西沙せいさだったが、自分の中の〝神〟というものの概念がいねんが何なのか、それは西沙せいさの中でもあやふやなまま。明確に表現出来たことはない。さらには、西沙せいさにそれをう者もいなかった。

「私は一神教的な神って存在は見たこともないし感じたこともない」

 西沙せいさはそう言うと、小さく溜息をいて続けた。

「でもその一神教の神様を信じてる人たちがこの地球上にはいっぱいいてさ……その神様のためなら人まで殺せるような人たちが沢山たくさんいるんだよね。宗教って、私はよく分からないよ…………一つだけ分かるのは、宗教も組織に過ぎないってことかな…………みんな一人がさびしいんでしょ? だから何かにすがって誰かと繋がろうしてるだけなのに…………どうして宗教が悪者になるのかな…………」

 いつの間にか、西沙せいさの声がやわらかい。

 その声に、恵麻えまも引きずられるように返していた。

「……悪いのは…………結局、人か?」

「人間が悪いとしてしまえば結局それは自己犠牲と同じだよ。そうすることで納得したいだけ……ただの自己満足だ…………本質はどんなことも〝使い方〟ってことなんじゃないのかな。例え権力者が人心じんしんをまとめるために宗教を利用したとしても、間違った使い方をしなければ宗教であらそいなんか起きない…………」

「……使い方か…………人間が苦手な部分だな…………」

 恵麻えまは言いながら枯葉かれはの上のすずに視線を落とす。

 西沙せいさの言葉が続いた。

「そういうこと。恵麻えまはどうなの? 考え方なんて人それぞれだよ。私の考えが正しいってわけじゃない……納得出来る人が納得してくれたらいいだけ。恵麻えまには恵麻えまの〝神様〟がいたっていいんじゃない?」

 西沙せいさはそう言いながら恵麻えまに顔を振る。

 恵麻えまは視線を下げたまま、僅かに見えるその目はうれいを含んで見えた。

 そのまま、恵麻えまはゆっくりと、間を空けてから応えていく。

「…………どうなんだろうな…………あれほど……何よりも大事だと思っていたものが虚構きょこうであることを知った…………結果的に何も無くなった、では、あまりにもさびしい…………」

「何が……残ったの…………?」

「────〝時間〟だ…………〝歴史〟は確かに存在した…………過去は過ぎたものだ。終わったものだ。だが…………無くなったものではないはずだ…………しかもその〝時間〟が無ければ、我々は存在していない」

「まさに〝神様〟だ」

「これは……あくまで私の考えだが…………」

「いいじゃん。私は納得出来た。今のここの時間も無くなったりしないよ。だから……私たちは今、ここにいるんでしょ?」

 そう言った西沙せいさ恵麻えまの横顔を見たまま。

 恵麻えまが顔を振る。

 その恵麻えまの目に、西沙せいさは覚悟を感じた。

 渡る風が、少しだけ暖かい。



      ☆



 深いきり

 くはあるのに、その実態はつかめないもの。

 つかめずとも、その中には深い森があった。そしてその中心に〝カバネのやしろ〟が存在する。

 やしろを背に地面に膝を降ろしているナギの前。

 いくばくかの距離を置き、その日、そこをおとずれていたのは、牧田絵留まきたえる

 しかしすでに本人の思考はどこにも存在しない。その総てをスズがおおっていた。スズの依代よりしろと化した絵留えるは、その見た目はまだ七歳に過ぎない。それでも目付きだけは大人のするどさをそなえ、向かい合うナギと対峙たいじしていた。

 白いもやのようなきりが二人の空間をゆっくりと流れ続ける。

 絵留えるはしばらくの間、うつむき加減に地面を見つめ続けるナギの顔を見続けていた。

 まばたきすら無いまま。

 微かに笑みをたずさえたような口元。

 その思考を読み取ることは不可能だろう。

 時間が流れていくことは構わなかった。ここに時間という概念がいねんが存在しないことは知っている。

 そういう空間を望んだ。

 そういう空間でなければ、この場所は存在し得なかった。

 そして、その場所を作ったのは、自分自身。


 いつの間にか、絵留えるの姿は〝カバネのやしろ〟を創った、かつてのスズのものへ。


 巫女みこ服ではない。

 あさの葉のがら浴衣ゆかた

 それは、スズを保護した滝川青洲たきがわせいしゅうが最初にスズに与えた物。

 その時のスズの姿。

 そのまま。

「……御主おぬしの求める物は用意した…………良いか?」

 そのスズの声に、ナギは視線を変えないままに口角だけを小さく上げる。

 そして返した。

「……問題はございませんよ…………御要望は、御自身の産まれ変わりでしたか…………それは〝みずからが創り出した命〟を持ってしてでなければ不可能なこと……そんなことが御出来になるのは貴女あなた様だけ…………この場所を御創りになられたのも、そもそもの目的はそれでしたね…………御気持ちに御変わりはございませんか?」

「もちろんだ」

 しかし、その声に、僅かながらの疑念ぎねんをナギは感じる。

「……もしや……迷いが…………御有りですか?」

 そのナギの問い掛けに、スズは顔をくもらせた。


 ──……ここまで来ておきながら…………


 スズの中に、牧田まきた家での萌江もえとの会話がき上がっていた。


  〝……私はそんなにまでして……産まれたくなんか……なかった…………〟


「…………これは…………このことは…………正しいことか…………?」

 僅かに震えるスズのその声は、本人の意思とは関係なく、いつの間にか口からこぼれ落ちていた。

「……私はそれを求めていたはずなのに…………今さら……何を迷う…………そのために私はここまで…………」

 それに返すナギの声に、さらにスズは気持ちを揺らされていく。

「……私は……どちらでも…………」

 しかしその本心は、その表情からは隠せていない。

 分かっていた。

 〝カバネのやしろ〟の管理者として。

 ここを求める者は、いつも必ず〝迷い〟を引き連れてくる。迷いの無い者などいない。その迷いがあるからこそ、ここを求めることも知っている。

「……それが…………ことわりです…………」

 そんなナギの言葉に、スズは顔を上げた。

「……六百年のながきに渡り……世話になった…………感謝している…………」

 そして、そんなスズの表情が僅かにけわしく変わる。

「構わん……ナギ…………やってくれ…………」

 そのスズの声に、ナギが顔を上げた。

 視線の先には、するどい目のスズ。

 そのスズの言葉が続く。


「……産まれ代わらせてくれ…………金櫻かなざくら京子きょうこから…………」



      ☆



 萌江もえがそこに足を踏み入れた時、すでに辺りは夜の闇。

 静かだった。

 夜の闇に溶け入りながらも、存在感を失わない深いきり

 みずからの足音すら何故なぜか聞こえない。

 一歩、また一歩。その感覚だけが靴底から全身を巡った。それは決して綺麗きれいに整地されているわけではない荒い土の道。それでもなぜか心地良さがあった。アスファルトやコンクリートとは違う。山の中の自分の家の周囲に、どこか似ていた。

 細い道。

 周りは腰より高い草と、遥か上が闇に隠された大きな木。

 先の見えない無数な羅列られつ

 家の周囲の環境と違うのは、音が無いことだけ。

 草木のれる音すらしない。

 まるで耳をふさがれてしまったかのような、不思議な感覚が意識を埋め尽くしていく。

 その中で、萌江もえが口を開いた。

「あなたはもういい。ご苦労さま」

 萌江もえの前を歩く男の足が止まる。

 〝六神通ろくじんつう〟からの使者ししゃ。その男がゆっくりと首だけを回して萌江もえに顔を向けるが、その目が萌江もえとらえるよりも、その姿が消えるほうが早かった。

 萌江もえは小さく溜息をきながら、それでも足は止めない。


 ──……今まで…………ありがとね…………


 先に何があるかは分かっていた。

 そして、やがて、そこは現れた。

 萌江もえもやっと足を止める。


 ──…………やっと来れた…………


 大きな、古めかしいやしろ

 どこまでの大きさなのかまでは、漆黒しっこくに隠されて見えなかった。


 ──……時間の無い場所なら…………昼間に来たかったな…………


 われながらおかしな考えに思えた。そもそもが萌江もえ自身は神社のやしろなどに興味を持ったことはない。人間が作った物でしかないと思ってきた。

 それは宗教というものに対しても同じ。

 どうして自分が以前からそういう思考を持っているのか、今は理解出来る。


 ──…………興味なんか無いはずだったのに…………


 ──……私は宗教を知っている…………その世界から離れられなかった…………


 ──……離れたかった…………自分自身から…………


 ──…………自分という存在を…………消したかった…………


 ──…………清国会しんこくかいなんか……作らなければ…………


 ──……自分がいなくなってしまえば…………


 ──…………例え産まれ代わった後でも……自分がいなくなれば…………


 ──…………だから…………


 ──……だから私は…………自分を殺そうとした………………


 やしろの前。

 薄らと浮かぶ姿。

 地面に正座をしたその姿は、萌江もえにはとても小さく見えた。

 まるでほのかに光るかのように闇を反射する白い着物。

 そこに浮かぶナギの表情は、萌江もえからはうかがえない距離。

 口が動いているかも分からないままに、そのナギの声が聞こえた。


「……御待ちしておりました…………金櫻かなざくら鈴京れいきょう様…………」


 萌江もえは表情を変えない。

 自らの心臓の鼓動こどうだけが体を揺らしていた。

 そしてそれは、本人が思っているよりも大きい。

 萌江もえの言葉が、その口からこぼれていく。

「……古いだな……ひさしく聞いていなかった」

 それに、ナギはすぐに。

「御嫌いですか?」

 すると、萌江もえの口元が微かにゆるむ。


 ──……自分が何者かなど…………今さらか…………


「……いや…………しかし今は、必要の無いだと感じる」

左様さようですか……では今は…………」


「……萌江もえ…………金櫻かなざくら……萌江もえ…………」


 その萌江もえの言葉に、ナギの顔が僅かに上がる。

 続くのは萌江もえ


「……可愛い名前でしょ? お母さんが付けてくれたんだ…………私には…………それだけで充分…………」


 ナギの細い目が、僅かに開いた。

「……つまり…………」


「……だから私は…………産まれて良かった…………お母さんから…………産まれてきて良かった…………後悔こうかいなんか必要ない」


 何かを確認したい。

 自分が産まれたことを、ここで確認したかった。


 萌江もえは、首の後ろに両手を回す。

 ネックレスのチェーンを外すと、そのチェーンを左手に巻きつけた。

 そのてのひらから下がる〝火の玉〟が、周囲の僅かな明かりを取り込み、光る。


「……私は99.9%……〝神様〟なんか信じない…………自分がなるつもりもない…………でも…………自分が生きてることだけは信じたい…………私が信じるものは〝神〟じゃない…………〝いのち〟だけだ…………」


 そして、暗い夜空を見上げた。

 目を閉じ、再び小さく口を開く。


「…………けたよ……………………咲恵さきえ…………」


 辺りが、一瞬だけ、明るくなった。

 そして萌江もえの左隣。

 きりの中から現れたのは咲恵さきえの姿。

「あんまり待たせないでよ。呼ばれないかと思ったでしょ」

「別の人でも呼んだと思った?」

 咲恵さきえに顔を振った萌江もえは笑顔で返していた。

 それは何の迷いも無い表情。

 咲恵さきえが一番よくそれを知っていた。

 その咲恵さきえも笑顔を返しながら、両手を首の後ろへ。やがて〝水の玉〟のチェーンを右手に巻きつける。

 それを確認するようにした萌江もえは、その視線を再びナギへ向けた。

「私たちの二つの水晶は……この時のために私が生み出した…………総てを終わらせるため…………過去の連鎖れんさを終わらせるため…………」

 すると、ナギの応えはすぐ。

「……われには関わりの無きこと…………」

「そう? あなたもここが無くなったら、行く所が必要になるんじゃない?」

「……くべき所など…………元々ここにあるのは〝黒い点〟だけ……これまで、貴女あなた様の目の前にも、いくつもの黒い点がおありになったはずです。それを繋がれたらよろしい。それはいずれ、線になります。時の流れというものは、そういうことですよ。したがって、私がいるべきはここだけです…………」

「なるほどね…………その黒い点を繋ぎ続けてた人を知ってる…………私が気が付いてないとでも?」

 その萌江もえの言葉に、ナギの視線が再び下がった。


 ──…………やっぱり…………


 萌江もえが言葉を繋ぐ。

「過去は変えられない…………それを希望が無いと考えるか、もしくは、だからこそ意味があると考えるかは人それぞれだけどさ。でも私は…………スズの作った〝今〟のお陰で生きてる…………それも変えられない…………あなたもね…………」

 ナギの表情に、笑みが浮かぶ。

 少なくとも萌江もえ咲恵さきえには、その目がやわく変化したように感じられた。

 その表情が再度、微かに上がった時、周囲に小さな音が溶ける。


 小さく、土をる、草履ぞうりの音。

 そこに重なるローファーの音。


 それは萌江もえ咲恵さきえの背後から近付いた。二人ともまるで最初から知っていたかのように振り向きもしないまま。

「……萌江もえ様……咲恵さきえ様…………」

 静かなその声は、巫女みこ服の恵麻えまの姿と共に、やがて二人の前へ。

 そして続く。

清国会しんこくかいたばねる者として……私が……責任を取ります」

 そして恵麻えまは、左手に握ったかたなさやを横一文字に突き出す。

 を右手でつかむと、さや越しにナギの表情を見据みすえた。

 しかしその恵麻えまの右手に重なる手。

 一緒に現れた西沙せいさの手だった。

「あんた一人じゃ無理だってば」

 落ち着き払った西沙せいさの声は、決してこの場に似つかわしいものではないだろう。

 思えば西沙せいさは常にそうだった。萌江もえ咲恵さきえもそれをよく知っている。もちろんその本心は本人でなければ分からない。それでも何度もその西沙せいさの冷静さに二人も助けられてきた。

 そして、そうでなければ〝へびの会〟を作ることなど出来なかっただろう。

 その西沙せいさと、敵対していた清国会しんこくかいのトップが、今は萌江もえ咲恵さきえの目の前にいる。


 ──……掛けた時間は、無駄むだじゃなかったね…………


 そう思った萌江もえの声が、西沙せいさ恵麻えまの背後から響く。

「……責任って言った? もしかして…………刺し違えてここののろいをこうとでも?」

 きびしいようにも聞こえるその声に、二人とも振り返ることすら出来なかった。まるで想像していなかった萌江もえの言葉。

 西沙せいさは〝へびの会〟の創設者として。

 恵麻えまは〝清国会しんこくかい〟のトップとして。

 お互いに萌江もえに責任を取らせるわけにはいかないと感じていた。

 総ては萌江もえのため。

 今までの総てが、萌江もえのためだった。

 形が違うだけ。

 萌江もえのために生きてきた。

 だから今回も、お互いに〝萌江もえのため〟。


   〝萌江もえのために命をかけてでものろいの連鎖を終わらせる〟


 二人に、そのことに、迷いは無い。

 恵麻えま萌江もえの反応に戸惑とまどいながらも、言葉を絞り出していた。

「……お二人を……死なせるわけには参りません…………それは私の求めるところでは────」

「だから? だから死んでびるの? 死んだって責任なんか取れないよ…………例えのろいを退しりぞけたとしても……それは、ただ逃げてるだけだ…………」

 いつの間にか空気が変わる。明らかに萌江もえの口調が変化していた。

 そして、恵麻えま西沙せいさも何も返せないままに萌江もえの言葉が続く。

「……責任を取りたければ後処理まで責任を持たなきゃね…………それに、私も咲恵さきえも初めから死ぬつもりなんかないよ」

 その萌江もえに、振り向き、顔を向けたのは西沙せいさだった。

 言葉の意味に驚きながらも、どこか落ち着いた目を向け続ける。

 その西沙せいさやわらかい表情を返しながら、萌江もえが繋いだ。

「……誰も死なせるつもりはない…………だから私はここにいる…………西沙せいさもでしょ?」

 西沙せいさの口元に笑みが浮かぶ。

 そして、恵麻えまの右手に重ねた手に力を込めた。

 その小さな口が開く。

恵麻えま、古いってさ。こういうの」

「────ふるいっ……って…………萌江もえ様……そういうことでは…………」

 そう言う恵麻えまあわてた表情を想像しながら、その背後から掛ける萌江もえの言葉はやわらかかった。

「言ったでしょ? 誰も死なせない…………西沙せいさも、あなたも…………まだやることがいっぱいあるしね。だから────」

 萌江もえはそう言うと、左手を真っ直ぐ前へ。

 〝火の玉〟の下がったてのひらをナギへ向けた。

 その隣で咲恵さきえ萌江もえに続いて〝水の玉〟の右手を前へ。

 繋げられたのは萌江もえの声。

「────この水晶を信じてよ」


 それを見たナギの目。

 その目が開かれていく。

 ゆっくり。


 誰もが、萌江もえの言葉に耳を傾けていた。

「……あなたも…………〝水の玉〟に助けられたことがあるはず…………最後の時…………あなたが守ろうとしたスズに…………助けられた…………助けたのは…………私だったんだね…………」

 萌江もえの目。

 そこから、一筋ひとすじだけこぼれた。


「……ありがとね…………〝御世みよ〟…………嬉しかったよ…………」


 さやの中、はがねる微かな音。

 西沙せいさ恵麻えま

 二人の握るかたなが地面に突き刺さる。


 二つの水晶が揺れた。

 そしてそれは、重かった。

 萌江もえ咲恵さきえも、初めて感じる重さ。

 そして、あわく光に包まれた。


 直後、瞬時に、総てが消えた。


 そこは静かな森。

 夜の森。

 きりもない。

 わる微かな湿度。

 耳に届くのは、緩やかな木々のざわめき。

 それが静寂せいじゃくというものであることを感じる空気。


 今、ここにあるのは、それだけ。


 〝神無かみなし〟と呼ばれた不思議な空間も、ふるめかしいやしろも、もう存在しない。


 総てが、一瞬だった。


 もうここには、多くの〝〟を背負った〝御世みよ〟という巫女みこの存在もない。


 最初に緩やかな空気の流れに乗ったのは、西沙せいさの声だった。

「やっぱり……御世みよだったの…………?」

 そして後ろの萌江もえに体を向ける。

 その萌江もえの表情は、やわらかくも、どこかうれいを含んでいた。

西沙せいさも気が付いてた?」

「もしかしたらって程度かな」

「色んなものを……一人で背負ってたんだね…………」

 そう返した萌江もえの表情は、西沙せいさからは、何か今までとは違って見えた。

 何かが違う。

 何かが終わった。

 だからなのか、それにも関わらず、西沙せいさの中に何かがくすぶる。

 その何かが西沙せいさの口を開かせた。

「終わったんだよね…………私たちに責任を負わせたくなかったのかな……御世みよらしいけど…………バカだよ…………そんなにまでしてスズのために…………」

「…………私は…………ずっと御世みよに守られてきたんだね…………」

 そう応えて視線を落とす萌江もえの体を、咲恵さきえの両腕が包んだ。

 そして、その咲恵さきえの言葉はやわらかかった。

「……みんな…………みんなが……あなたを守ってきた…………そして…………誰も後悔こうかいしてない。御世みよみたいにね…………」

「救われたかな…………」

 その萌江もえの言葉に返したのは西沙せいさ

「……御世みよは……どこに行ったの?」

「分からない…………私でもね…………でも…………大丈夫だと思うよ」

 萌江もえはそう言うと、左手の水晶を胸に当てた。

 そして続ける。

「…………〝けがれ〟が消えたから…………」

 その萌江もえの言葉に、心なしかあわてたような西沙せいさの声。

「そっか、なら後は萌江の感覚を信じるだけだ…………で? どうして咲恵さきえもここにいるのよ」

 西沙せいさはそう言うと今度は咲恵さきえに顔を向けていた。

 咲恵さきえもそれを予測していたかのように応える。

「ああ、それ? かえでちゃん。時をさかのぼるってことは〝今〟でも大丈夫だろうと思ってね。さすがだったよ」

「そういうことか。萌江もえが一人でって連絡してきたからあわてて〝六神通ろくじんつう〟にアクセスしてさ、大変だったんだよ。やっと追いついたらなぜか咲恵さきえまでいるし…………」

萌江もえが一緒じゃなきゃここには来れなかったけど、最初は一人で話したいって言うから…………それでね」

「やっぱり萌江もえのほうが一枚上手だったか」

 西沙せいさのそんな、少し明るくなった声を聞きながら、萌江もえは空をあおいでいた。


 ──……そうだ……まだ昼間だった…………


 い青。

 ゆっくりと流れる、白い雲。


 ──…………終わったね…………お母さん…………


 それでも、木々の間、葉の間からのぞく空は、小さい。


 すると、ずっと黙ったままだった恵麻えまの声が空気を揺らした。

 その恵麻えまは地面にかたなを刺したまま。

「…………下に…………何か…………」

「どうしたの?」

 反射的に西沙せいさが返していた。

 恵麻えまも即座に応える。

「……土の感触だけじゃない…………この下に何か……かたい物がある…………」

 西沙せいさが素早く動いていた。地面に落ちていたさやを拾うと、そのさやの先で地面をり始める。

 その姿に恵麻えまが声を上げた。

西沙せいさ⁉︎ 雄滝おだき神社に伝わる神剣しんけんさやだぞ!」

「手でったらネイルが禿げちゃうでしょ⁉︎」

「────ネイル⁉︎」

つめだって割れるじゃん! 早く恵麻えまって! かたなだって掘れるでしょ!」

「だからこれは雄滝おだき神社に代々伝わる────」

「適材適所でしょ! 早くして!」


 やがて、土の中から現れた物。

 それは小さなほこら

 粗末そまつな物だ。

 かわき切った古い板で形作られた、ほこら

 横に倒した状態で地面に埋められていた。

 古い。

 何度も水分を含み、何度もかわくことを繰り返し、古くから埋められていた物。

 そして同時に、誰もが想定していない物。


 西沙せいさ恵麻えまも、開けることに躊躇ちゅうちょした。

 しかし、その二人の間に割って入る腕。

 萌江もえの腕。

 その細い指が、固まっていた扉を揺らす。


 開かれた扉の奥。

 そこに現れたのは、白い、あさの葉の模様の布。

 その布に包まれた、赤子あかご


 まだ生後間もない、赤ん坊だった。

 その鼓動こどうが、萌江もえの全身を包んでいく。



      ☆



 そこは山の中。

 人里から離れた山の中。

 周囲にはアスファルトもコンクリートも無い。

 夏には空気の湿度を土が吸収し、冬にはその土に雪が降り積もる。


 そこにある古い一軒家。

 そこより先は道が細くなるだけ。


 そこは山の中のやしろ

 〝唯独ただひと神社〟。


 祭壇は必要なかった。

 それでも、やがてそこは〝清国会しんこくかい〟にとって最も必要な場所とされた。


 萌江もえを中心とした世界。

 それは決して終わりがあるものではない。

 例え萌江もえの命が終わりを迎えても、終わることはない。


 時は止まらない。

 繰り返すこともない。

 ただ、積み重なっていくだけ。

 流れていくだけ。

 だからこそ、萌江もえ咲恵さきえもここを離れるつもりはなかった。

 そしてこれからは、新しい同居人が増える。

 今は萌江もえ咲恵さきえもその準備に余念よねんのない日々。

 すでに、花の芽吹めぶく季節。

 緑と土の匂いが空気に溶け込む季節。

 庭の小さな畑も最近(たがや)したばかり。

 今年育てるつもりの野菜は、ジャガイモ、ニンジン、キュウリ、オクラ、カボチャ、サニーレタス。室内のプランターでは大葉とプチトマト、水菜。

 咲恵さきえが以前のようなかよいではなく、定住ていじゅうすることを決めたことで野菜の種類を増やせた。と萌江もえは思っている。増やしたことで畑仕事に追われる日々が待っていることまでは考えていない。

 ただ、今は、楽しかった。

 冬の、気持ちまでをも冷やす日々も寒くなかったほど。

 続く、落ち着いた毎日。

 それでも、もちろん不安がないわけではない。むしろ不安がなくなることなどないことは二人も知っている。そして、それでいいと思っていた。その不安を解消しようとすることが、生きていくためのかてとなることを経験から理解していた。

 それでも以前までの不安より、現在の悩みのたねは小さなものだ。

 大きな歴史のうねりを紐解ひもとく必要もなければ、誰かの命の危機を感じることもない。

 今でもたまに〝心霊相談〟と呼べるような依頼が無いわけではなかった。それでも今のところ大きなものは来ていない。一頃ひところに比べると静かなものだけ。

 そのため、日中はおおむね穏やかな日々。

 その日も暖かい陽差しがリビングの縁側に降り注ぐ。

 ほとんど毎日あるようなそんな時間が、二人は好きだった。

 何気ない会話とお気に入りのコーヒーの香り。

「そろそろブランケットは必要なさそうね」

 そう言って咲恵さきえは、羽織はおるタイプの赤いブランケットのボタンを外していく。

 隣の萌江もえが笑みを浮かべながら返した。

「次の冬からは年相応としそうおうの色にしたら? 真っ赤なのは若すぎるよ」

「そう? 私はまだ若いつもりだけど」

「その内に体が追い付かなくなるよ」

「お互いにね」

 咲恵さきえはそう返して、満面の微笑みを浮かべた。

 そして続ける。

「もう若くないのに…………こんな歳からで大丈夫? 私はまだ少し不安」

 すると、萌江もえは庭の畑に視線を戻しながら応えた。

「まあ……しずくさんが先生になってくれるって言ってるし、考え過ぎてもさ…………それに…………」

 そして庭用のサンダルに足を通すと、そのまま立ち上がる。

 深い所ではまだ雪溶けの水を含んだままの乾いた地面。そのためか、この季節の土は足に優しく感じられた。

 だからこそ畑の土をたがやすのに適している。自然の成り立ちは現実的なことの繰り返しに過ぎない。何かの意思を感じさせることもなく、ただただ季節を繰り返していく。時に大きく環境が変わっても、それに対して反発することなく受け入れていくだけ。

 変化には良いも悪いもない。

 ただ、変わっていくだけ。

 それが時間の流れ。

 背中に咲恵さきえの視線を感じながら、萌江もえが言葉を繋いだ。

「誰がどう考えたって…………私たちが引き受けることになるよ…………なってた…………私たちは受け入れるだけ…………」

「ま、不安はあっても断る気なんかないから安心して。ちょっと楽しみなところもあるしさ」

「いいの? 結構イタズラ好きらしいよ」

 萌江もえはそう言いながら咲恵さきえに笑顔を返すが、咲恵さきえも負けじと悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 そして、二人の耳に音が届く。

 タイヤが土の道路を踏みしめる音。

 やがて、庭の一角に入り込んできたのは杏奈あんなの四輪駆動車。咲恵さきえが引っ越してきてからあまり動くことのなくなった小さな軽自動車の隣で、そのエンジン音が止まる。

 先に助手席から降りてきたのは西沙せいさの姿。しかし萌江もえ咲恵さきえの視線がそそがれたのは、いつもの黒いゴスロリの服ではない。

 その西沙せいさが両腕でかかえる荷物。

「ごめん、ちょっと早かった?」

 その小さ目の西沙せいさの声に、すぐに返したのは萌江もえだった。

「大丈夫だよ。ありがとね」

 近付きながら、気持ちだけがはやる。

「お昼寝タイム?」

「そ、だから大声は出さないであげて」

 西沙せいさはそう応えながら、両腕を伸ばした。

 受け取る萌江もえは、すぐに大きくかかえ、その〝いのち〟を受け入れる。

 それは〝カバネのやしろ〟の最後の地で見付かった〝いのち〟。

 あれから一冬ひとふゆの間、その子は御陵院ごりょういん神社で育てられていた。かこわれていたと言ってもいいだろう。その〝いのち〟がどういう存在なのか誰にも理解出来ないまま、その真意しんい見定みさだめるための時間。しかし、結局何も分からないままだった。

 そしてこれからのことが話し合われ、一つの道が示される。

 みずから進んで立候補したのは萌江もえ咲恵さきえだった。二人が一緒に暮らし始めたタイミングもあったのか、そこに意味があるようにも、誰もが思えていた。

 その〝いのち〟は、まだ赤子あかごの姿。

 おだやかな表情を浮かべ、静かに寝顔を見せている。

 咲恵さきえ萌江もえの隣からその子の顔をのぞき込んでいた。その不安から来る興味の表情は笑みをたずさえてもいるが、それがなぜか萌江もえには嬉しかった。


 ──……大丈夫…………何が正しいかは……私たちが決められることじゃない…………


 小さな〝いのち〟をかかえながら寄り添う二人を前に、西沙せいさは気持ちがざわついていた。


 ──……これは…………本当に〝かせ〟ではないの…………?


 西沙せいさは、何かそんな不安をかかえながら口を開く。

「…………女の子だけど…………名前は、決めたの?」

 萌江もえやわらかい表情を上げて応えた。


「……うん…………〝スズ〟…………漢字はどうしようかな……」


 西沙せいさの目が見開かれる。

 無意識だった。

 萌江もえの目は、西沙せいさが初めて見たもの。

 覚悟。

 不安。

 さらにそれだけではない〝何か〟。

 それが見えない。


 ──……ホントに…………大丈夫なの…………?


「……出生しゅっしょう届けは名前が決まってからでも大丈夫みたい。ま、清国会しんこくかいなら何とでも…………書類上の素性すじょうはどうとでも出来るみたいだけど…………」

 西沙せいさ語尾ごびにごる。

 しかしその西沙せいさの不安は、まだ萌江もえ咲恵さきえには届いていなかった。

 萌江もえ咲恵さきえにやがておとずれる静かな慟哭どうこくも、西沙せいさには届いていない。





       「かなざくらの古屋敷」

    〜 第二五部「黒い点」(完全版)終 〜


                 エピローグへつづく


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