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第二五部「黒い点」第3話(完全版)

 夜。

 深夜。

 日付が変わった頃。

 そこは静かな場所だった。周囲の新興住宅地からは少し小高い丘の上。かつて山を削って作られた広い敷地に、その総合病院はあった。

 正確に言うならば、そこは〝元〟総合病院。

 廃業から一七年。

 現在は完全に廃墟はいきょとなっていた。住宅地から少し離れ、周囲を林に囲まれているためか、幹線道路となっている敷地前を車で走る以外で目にすることはないだろう。山の入り口のような立地条件もあいまって、もちろん周囲を誰かが歩くような場所でもなかった。

 それでも、地元ではお決まりの心霊スポットとしても有名な側面を持つ。

 過去、医療ミスが騒がれた。

 マスコミの加熱報道に患者が減り続け、経営が成り立たなくなった末に経営者が失踪することで廃業を余儀なくされる。医療法人としても裁判所からの指示で解散。現在は建物の管理者も不明なまま放置され、不法侵入が絶えず、中は荒らされ放題。

「とりあえず、今夜は誰も来てないね」

 車を降りると、杏奈あんなはそう言いながら建物の正面入り口に向かって歩き始めた。林に囲まれているせいかどこかやはり街中よりも肌寒い。それでも風は強くなかった。葉のざわめきも聞こえない静かな空間が広がるが、微かに吐く息は白かった。

「こんな場所だし、肝試きもだめしの人たちとかいると面倒だったけど」

 そう言う杏奈あんなの言葉を追いかけるように、すぐ後ろから西沙せいさが追いかける。

「こんな寒い時期に誰が肝試きもだめしなんかするのよ」

「動画配信者は年中やってるみたいだよ」

「なるほどね……だったら昼間に来れば良かったじゃん。何もこんな深夜に来なくても……」

 すると、そんな西沙せいさ杏奈あんなは笑顔で振り返って応えた。

「これでも一応、不法侵入だからさ」

 それでも後から来るいわゆる〝肝試きもだめし〟の車対策に、敷地に入ってすぐの目立つ場所に車を停めていた。隠すことで誰もいないと思われても困る。仮に警察が来た場合は謝罪とジャーナリストの肩書きを利用しようと考えていた。それでも不法侵入であることは変わらない。

 この場所を見付けたのは杏奈あんな萌江もえからの依頼でもある。杏奈あんなは数日かけて探していたが、結局管理者を探すことは出来なかった。

「元々が人の来るような所じゃないんだから昼間でも同じでしょ」

 そう言う西沙せいさに、杏奈あんなは小さな懐中電灯のスイッチを入れながら。

「管理者がいないって言われてるし……まあ私も辿り着けなかったのは事実だけど、そんなことないはずだよ。絶対にどこかの不動産屋が土地を押さえてる。もしくは行政。でもそれなら辿り着けないのもおかしいか…………どこかの不動産屋の書類の奥って感じかな。放置されてるのは建物の取り壊しにもお金が掛かるから。不動産会社がお金を出しても売れる保証がある土地ならやるんだろうけど」

 杏奈あんなは周囲に懐中電灯の光を回しながら続けた。

「こんな場所じゃ確かに病院かホテルくらいか……取り壊しも含めてお金出せる人が買ってくれればいいんだろうけど……悪いうわさのある場所は売れにくいだろうしね」

「まあね。しかも心霊スポットで有名な場所じゃ、ホテルなんか建ててもダメか」

「そういうこと。せっかくの心霊スポットだし、私たち二人で来るにはちょうどいいでしょ?」

「最悪じゃん」

 西沙せいさのその返答を無視するかのように、杏奈あんなは正面玄関の中を懐中電灯で照らし続け、足を進める。ガラスはすでに大きく割られ、ほとんどが残骸ざんがいとして下に散らばるだけ。

 中は壁紙ががれているのはもはや当たり前の状態だった。むき出しの石膏せっこうボードすらも崩れている場所が多い。天井が崩壊している所もあり、危険は間違いなくあった。

 床も壁やガラスの残骸ざんがいが散らばり、二人は足元を気を付けながら歩くしかないほど。

「やっぱり……何か感じる?」

 足元を照らしながら歩く杏奈あんなが、背後の西沙せいさに言葉を向けた。

 しかし西沙せいさは平然と返していく。

「ああ、そういうヤツ? 別にないかな…………」

「感じられる西沙せいさでもそうなんだ……」

 強力な力を持つはずの西沙せいさの意外な言葉に、杏奈あんなはどこかさびしそうな声。

 杏奈あんな西沙せいさだけでなく萌江もえ咲恵さきえと関わることで、何度も信じられないような現場に立ち会ってきた。今さら死者の存在にどうこうという感情はなかったが、同時に、周りに能力者が多過ぎるせいか、疎外感そがいかんがないわけではない。もちろん自分には自分のいる意味があることは分かっている。だからいられた。居場所があった。それでも西沙せいさと同じものを感じられるわけではない。

 努力で得られるものでもなかった。

「……どこでも一緒だよ。病院でもそうじゃなくても…………命の消えた痕跡こんせきはどこにでもあるからね」

 そんな西沙せいさの言葉に、杏奈あんなは罪悪感に近いものを感じた。


 ──……私は……まだまだだな…………


 そして、それを振り切る。

「それより、どうしてこんな所でもゴスロリなの?」

 一転して眉間みけんしわを寄せた杏奈あんなが振り返っていた。杏奈あんなの相変わらずのボーイッシュなスタイルに対して、西沙せいさも相変わらずの黒いゴスロリ。

 しかしそんな西沙せいさも負けてはいない。

「私が他に何を着るっていうのよ」

「最初に会った時は違った」

「今はトレードマークみたいなものでしょ」

「デニムだって持ってたでしょ? かわいいヤツ。寒くないの?」

「もう冬バージョンだから大丈夫」

「足に傷なんかつけないでよ。廃墟はいきょに来るって言ったのに……」

「一応今日のスパッツは厚手だけど。寒いし」

「厚手って言ったって、お気に入りの服だって傷が付くかもしれないし……」

 杏奈あんなのその言葉の直後、最初に足を止めたのは西沙せいさ

「あっ、ここじゃない? ナースステーション」

 二人が足を止めた場所の上には、まだかろうじて懐中電灯に照らされた〝ナースステーション〟の文字が見えた。

「一応は総合病院だなあ。それなりの大きさか」

 杏奈あんなはそう言いながらそのスペースに入っていく。中央には大きなテーブル。壁一面には大きなたな。床は様々な物が散乱し、足の踏み場も無い。

 西沙せいさは足元のかたそうなファイルの一つをパンプスで軽く返しながら口を開いた。

「こんな状態でどうやって探すの?」

 しかし、杏奈あんなの目は真剣そのもの。

「……見付けるよ…………牧田絵留まきたえる…………」

 そこは、牧田靖子まきたやすこ絵留えるを産んだ病院だった。



      ☆



 視界が揺れた。

 少しずつ体が浮いていくような感覚につつまれながら、それでも体が重い。

 気持ちと体が離れていく。

 さっきまでの痛みは、もう感じない。


 自分がいつか殺されるかもしれない。

 その考えがきよしの頭から離れることはなかった。


  〝 清国会しんこくかいには気を付けなさい 〟


 その両親の言葉は耶絵やえとの関係が深まるほどにきよしを苦しめていく。

 休日の待ち合わせはいつも遠くの離れた街。職場で場所と時間を決め、それぞれ別々に向かって合流。いつも違うホテルに一泊して別々に帰る。

 理由は総て耶絵やえに説明していた。もちろんすぐに耶絵やえが理解出来たわけではなかっただろう。簡単に信じられる話ではない。きよしが嘘をついていないことを信じるしかなかった。

 もちろん不安はつのる。

 気持ちが近付けば近付くほど、比例するようにその不安はふくらんでいった。

 それでも毎晩掛かってくるきよしからの電話が二人を繋いでいく。

 きよしはいつも幾つかの公衆電話を交互に使っていた。もちろんそれは決まった行動を取らないため。アパートへ帰る道も出来るだけ違う道を通るように意識した。

 それでも完全に尾行びこうから逃げることは出来なかったのだろう。

 その夜も、そうだった。

 もっと早くに相手が行動に出ることは出来たはず。

 しかし、その夜だったことは変わらない。

 そしてその夜は、尾行びこうの人数がいつもより多いように感じていた。

 そのせいか、公衆電話で受話器を持ち上げたのはだいぶ遅い時間。出来るだけ周囲に人の少ないであろう場所。

 しかし、それがあだになった。

 むしろねらわれやすい。

 すぐ後ろからの誰かの圧力。

 続く、左右からの小さな足音。

 腰に何かが押し付けられた。

 一点に集中した服の上からの圧迫感が、やがてはじけるように布を、続けて筋肉を切り裂いていく。

 ゆっくりと奥へ。

 同時に湧き上がる、絶望。

 目の前で、総てが崩れていく。

 いつの間にか、きよしの目の前には公衆電話前のアスファルト。

 体から、自分自身が流れ出ていく。

 もう、痛くはない。

 不思議と、苦しくはなかった。

 ただ、一人になるのが怖かった。

 遠ざかる足音も聞こえない。


 ──……電話……を…………しなきゃ…………


 体をどう動かしているのかも自分で分からないまま、震える手で、やっと受話器を手に。

 電話機の上に重ねていた硬貨こうかを入れようとするが、なぜか入らないまま、数枚は足元で音を立てた。

 いつもの番号。

 そして電話にはいつもの下宿先げしゅくさきの管理人の声。


「あーはいはい、耶絵やえちゃんね」

 受話器を電話機の横に置くと、すでに五〇を過ぎたその女性管理人は、瞬時に表情を変え、階段を駆け上がっていた。古い木の階段がきしむ暇もない。

 そして耶絵やえの部屋のドアを激しく叩いた。

耶絵やえちゃん、電話だよ。早く」

 耶絵やえもいつもと印象の違うその声に何かを感じ、素早くドアを開けて真剣な表情を管理人に向けた。

 その管理人の表情も重い。

「急いで」

 その声に、耶絵やえは階段を駆け下り、素早く受話器を手に取った。

「もしもし⁉︎ きよしさん⁉︎」

 ゆっくりと聞こえてきたのは、荒い息。

 そして、それがゆっくりと形になった。

『…………逃げて…………早く…………』

「どうしたの⁉︎ どこにいるの⁉︎」

『……来ちゃ…………だめだ…………』

「何言ってるのよ⁉︎ すぐ迎えに────‼︎」

『…………………………ごめん…………』

 電話が切れると同時に、総てが、切れた気がした。


 ──…………本当……だったの…………?


 耶絵やえは呆然と受話器を耳に押し当てたまま。

 もはや自分がそうしていることの自覚すらない。

 そして、唐突に、その手がつかまれた。

 横ではいつの間にか、管理人が厳しい表情を耶絵やえに向ける。

「これで分かったね。清国会しんこくかいは彼の妄想なんかじゃない。実在するんだよ」

 そんな管理人の表情を見たことがなかった。しかも、その管理人の言葉も初めてのもの。

 管理人は部屋の奥から分厚い封筒を持ってくると耶絵やえの手に握らせる。そして呆然とする耶絵やえに向かって口を開いた。

「このお金で遠くに逃げな。あんたのおなかには彼の子供がいる…………これから私たちは、あんたと子供を守る…………だから出来るだけ遠くへ」

「……あなた……は…………?」

 あまりに突然のことに、何も理解出来なかった。

 だからそんな言葉しか出てこない。全身で感じるのは自らの大きくなる鼓動こどうだけ。

 管理人は、小さく口元に笑みを浮かべて応えた。

「あんたの子供は、古くに殺された巫女みこの血を引いた子…………だから清国会しんこくかいに狙われる…………私たちはその血を守るために生きてきた一族…………巫女みこつかえてた従者じゅうしゃ末裔まつえいさ」


 ──…………巫女みこ…………? なに……?


「……彼を守れなかったのは我々の落ち度だ……でも……だからこそ、あんたを守らせて……どこに逃げてもいい。我々一族の誰かが、必ず近くで守る。信じて」


 気持ちの中にあるもの。

 不安と恐怖。

 それをこれほど感じたことはなかった。

 そんな状態のまま、耶絵やえはその夜の内に夜行列車に飛び乗っていた。

 どこまで行くのかも分からない。終点駅までの切符は管理人が買ってくれた。

 どう理解すればいいのか、今の耶絵やえには間違いなく不可能なこと。

 ただ、人生の何かが大きく動いた。


 六ヶ月後。

 牧田耶絵まきたやえは女の子を産む。

 小さな産婦人科医院だった。その当時、未婚の女性が子供を産むのは珍しいとされた。通常であれば、耶絵やえは周囲からの冷たい視線を恐れたかもしれない。

 しかし、誰も自分を知らない街。

 逃走前に管理人からもらったお金で細々と生きてきた。

 元々身寄(みよ)りの無い人生。

 記憶にあるのは幼い頃の母親のものだけ。

「……あなたも…………お父さんの顔を知らないのね…………」

 子供を抱きながら、古いアパートの一室で、いつの間にか涙があふれていた。

 あの日、朝に辿り着いた見知らぬ駅で、見知らぬ女性に声を掛けられた。〝謎の一族〟の一人だと名乗るその女性に用意してもらったアパート。その女性とはそれきり。それでもある意味、ここまでは甘えてきたことになるのだろう。しかしこれからは自力で生きていかなくてはならない。


 ──……いざとなれば……あの一族はこの子を守るのだろう…………

 ──…………無事に産まれた…………私はもう守られる対象じゃない…………

 ──……だから、清国会しんこくかいに見つかるまでは……この子は私が守る…………


 ──…………守るよ…………靖子やすこ………………



      ☆



「……もう……分かってるんじゃないですか?」

 祭壇を前にしたまま、最初に口を開いたのは大見坂雫おおみざかしずくだった。

 一度(さかのぼ)った過去から戻った萌江もえ咲恵さきえは、何も応えないまま。

 その二人に背を向けたままの、しずくの言葉が続いた。

「もっとさかのぼりますか?」

 僅かに強い声。

「……いえ…………」

 小さく応えた咲恵さきえが繋ぐ。

「必要ありませんよ……しずくさん…………」

 すでに、理解していた。

 咲恵さきえに分からないはずがなかった。

 それは、自分の血筋。

「……〝滝川御世たきがわみよ〟です……彼女の血筋です……私もその血をいでいますので……分かりました…………」

 清国会しんこくかいを裏切り、清国会しんこくかいに殺された、一度は清国会しんこくかいのトップを務めた過去を持つ巫女みこ

 咲恵さきえは、その御世みよの長女の血筋。

 そして御世みよには長女と歳の近い長男もいた。その血筋を継承けいしょうしたのが靖子やすことその娘の絵留える

 それは同時に恵麻えまと同じ滝川たきがわ家の血でもある。そしてその血は、京子きょうこの母親の血。京子きょうこ萌江もえにも滝川たきがわ家の血が入っているということになる。

 咲恵さきえつむぐ。

「長男の血筋がどうなったのか……分からなかった…………もう……終わってたのね…………」

咲恵さきえが終わらせたわけじゃないよ」

 その声は隣の萌江もえ

 咲恵さきえは反射的に返していた。

「でも…………終わる瞬間に立ち会った…………」

 最後の絵留えるが死んだ時────殺された時、確かにその場に萌江もえ咲恵さきえがいた。もちろんその時は絵留えるの血筋のことなどは知りようがない。分かっているのは、スズが取りいた絵留える萌江もえ咲恵さきえを探していたという事実だけ。

 そして、スズが絵留えるを選んだ理由は不明なまま。

 咲恵さきえにはもう一つ、どうしても絵留えるを忘れられない理由があった。

 咲恵さきえの持つ水晶────〝水の玉〟。萌江もえの持つ〝火の玉〟と対になるものだが、絵留えるが現れた直後に突然咲恵(さきえ)の手の中に現れた物でもあった。それまでは長い期間に渡って所在が分からなかった物だけに、絵留えるがどう関係しているのか、もしくは絵留えるとの関係はないのか、ずっと咲恵さきえにとっては謎のままだった。

 その咲恵さきえの言葉があふれる。

「……私に近い血筋だったのに…………どうして…………どうして……私はそれを見せられた…………私が生きてる間は……終わらないの…………?」

 僅かに、その声が震えていた。

 冷静をいている事実に、咲恵さきえ自身は気が付いていない。

「違うよ」

 そう応えた萌江もえの強い声が続いた。

「私が生きてる限り…………」

 萌江もえはこういう時、いつも、わざと声のトーンを上げてみせた。

「私が死んで……スズの血が絶えれば……その時にやっと終わるんだよ。スズも御世みよも、もう救われた。論点を見失っちゃダメ。今必要なのは、私たちが今、こうして存在してる意味…………過去の誰かをうらんだって…………何も終わらないよ」

 重い話を、いくらかでも軽くしようとする萌江もえの悪いクセ。

 同時に萌江もえは、救われたはずの御世みよに関していまだに気持ちの中に〝わだかまり〟があることも気が付いていた。それは気持ちのどこかに存在する〝けがれ〟そのもの。それが何なのか分からないままここまで来ていた現実を改めて感じた。

 咲恵さきえもそれを分かっているからこそ、萌江もえ声色こわいろに、どこか気持ちが楽にもなる。

「ごめん……そうだね…………」

 その咲恵さきえの返答に、萌江もえの口元に小さく笑みが浮かぶ。

 そしてその口が再び開いた。

「結論から言えば確かにお母さんには繋がるけど、なんだか強引な引きだなあ…………それにまだ、どうして御世みよの血筋の胎児たいじをスズが欲しがったのかは分からないね。その胎児たいじでスズがしたかったことって何だったんだろう…………」

 萌江もえの言葉で少しずつ組み合わされていくピースに、咲恵さきえもやっと物語を整理出来るようになってきていた。

 その咲恵さきえが繋ぐ。

「確かに御世みよの能力は弱いものじゃない……だから欲しがって……その力を何かに利用したかった可能性は高いのかもしれない…………」

「能力が強いのは分かるよ、咲恵さきえのようにね」

 返した萌江もえ咲恵さきえの横顔に顔を向けた。

 咲恵さきえも小さく目を振る。

 そしてその口角が少しだけ上がった。

 萌江もえはその表情を見届けるようにして続ける。

「でもどうして御世みよの血筋だったのか……何かしっくりとする理由がほしいなあ」

「もう少し情報が必要みたいね」

「しかもあの胎児たいじは出生前診断で障害を持って産まれてくることが確実とされてた……だから父親は出産に反対だった。その父親の意思が……例えスズに取りかれた絵留えるにコントロールされてても表面化した…………だから靖子やすこだけでなく胎児たいじも殺してしまった…………」

萌江もえの推理……だいぶリアルになってきたんじゃない?」

「でしょ? でもまだ足りない。スズが偶然に絵留えるを選んだとは思えない。絵留えるを選んで〝御世みよの血〟を欲した…………その理由が知りたい…………」

「大丈夫……少なくとも私たちが求めるものはハッキリした…………」

 そう返した咲恵さきえの声に、萌江もえの目付きが変わった。

 その口が開く。

「……そうだね……スズが…………〝カバネのやしろ〟で何をしようとしたのか…………」



      ☆



 昭和が五〇年代に入ると、その頃は後に高度経済成長の安定成長期と呼ばれた。それがやがてバブル景気へと繋がる。教科書的に、表面上は世界からも注目されるほどに日本の敗戦からの回復具合は目覚ましかった。

 そしてそこに存在するのは、その繁栄を支えた裏の世界。

 決して陽の目を見ることのない歴史の闇。

 耶絵やえは、まだその闇の中にいた。

 新聞やテレビの明るい雰囲気を横目で見ながら、安い労働力を搾取さくしゅされ続けていた。いくつもの仕事を掛け持ちし、丸一日休みの日など何年も経験したことがない。生活が困窮こんきゅうするたび、短期間ではあったが何度か体を売ったこともあった。

 現在以上に、シングルマザーへの風当たりの強い時代。

 それでも、そうしてでも、どんなことをしても守りたいもの。

 たった一人の娘────靖子やすこ

 そのために自分を傷付け続けてきたことに気が付いてはいない。

 そのくらいに必死だった。

 病気や事故で命が失われる可能性は誰にでも存在する。誰もがそれを受け入れて生きていくしかない。しかし、産まれてからずっと、誰かに殺される可能性というのは決して大きくはないだろう。限りなく低い。

 しかし靖子やすこは、常にその可能性を持って産まれてきた。

 いつ、誰に殺されるかも分からない人生。

 その靖子やすこを守ることが耶絵やえの人生にいて最も大事なことだった。そのため、働く場所は子供を連れて行ける所だけ。誰かに預けることなど出来ない。誰も信用出来ない。風俗店に靖子やすこを連れて行った時はさすがに気持ちも痛んだが、それでも生きるために耐えるしかなかった。

 いつも短い期間のパートやアルバイトだけ。

 そんなところを渡り歩いて、およそ五年。

 年が明ければ靖子やすこも小学生になる。耶絵やえにとっては不安も大きかった。今までは常に一緒にいられた。むしろそうしてきた。しかし学校に通うようになるとそうもいかないことは耶絵やえでも分かる。

 もちろん〝謎の一族〟が守ってくれるかもしれないという期待はあった。しかし初めて逃げた時から、あの一族は姿を見せてはいない。耶絵やえはずっと、ひっそりと見守ってくれていることを期待するしかなかった。


 夜の仕事の帰り。

 すでに深夜近く。

 そんな時は大概たいがい、眠りについた靖子やすこを抱きながらアパートに戻るのがつね。そのたびにいつも耶絵やえの中で申し訳無さがつのる。体はどんどんと大きくなるが、重いと思ったことはなかった。むしろゆっくりと寝かせてあげられないことが不憫ふびんで仕方ない。


 ──……私があなたを産まなければ……こんな苦労もしなくて済んだのに…………

 ──…………ごめんね…………


 そのアパートに引っ越してからは半年くらいだろうか。

 そろそろ次の引っ越し先を探そうと考えていた。それはきよしから聞いていたこと。逃げ続けるための一つのさく

 きよしはまるでこうなることが分かっていたかのように、耶絵やえにいざという時の生き方を教えていた。しかし対する耶絵やえきよしに妊娠のことを話してはいなかった。そろそろ話そうと考えていた矢先やさきだったというのもあるが、同時に、知らせてあげたかったという気持ちもやはり消えない。


 ──……話していたら……何か変わったのかな…………


 それでも目の前の現実は同じ。

 これからの生き方も、これまでと変わらない。

 引っ越した先で小学校への入学手続きをし、その後も引っ越すたびに転校を繰り返すことになるだろう。


 ──…………大変だろうな……


 疲れていたのか、すぐに横になって最初にそう思った。

 いつもの固いはずのまくらですらやわらかく感じるほどに疲労感に包まれる。

 横で小さく寝息を立てる靖子やすこの寝顔を見ながら、続けて思う。


 ──……私がこの子を産まなければ…………


 ──…………この子は苦しまなかった…………


 意識が夜の静けさに溶け始めた頃、その意識が小さな音に揺り動かされた。

 初めは何の音かは分からない。

 小さく、小刻みに、続く。

 途端に空間を包む人の気配。

 玄関の扉の向こう。

 扉からの廊下などは無い。直接部屋に繋がる狭く古いアパートの一室。

 その扉はすぐそこ。

 ドアノブが小さく揺れる。

 古い扉は揺れやすい。

 音を立てやすい。

 やがて、そのドアノブから、何かが外れるような甲高かんだかく、小さな音。


 ──…………かぎが開いた…………


 耶絵やえの体が自然と動いていた。隣の靖子やすこの体にかけていたタオルケットに手を伸ばし、その体を包んで抱き上げ、畳に静かに膝を立てる。他に手にしたのは財布さいふの入ったハンドバッグだけ。

 ドアが静かに開き始めた時、すでに耶絵やえは窓のかぎを開けていた。

 それは靴を履いた直後。

 窓のそばに靴を置いておくというのは、やはりきよしからの情報だった。


 ──……役に立ったよ……きよしさん…………


 窓から飛び降りながらも、肩越しに、扉を開けて驚く男の顔。

 部屋は二階。

 隣の家のトタン屋根に飛び乗っていた。そこから一階部分の屋根伝いに細い路地へ。いざとなると一階の屋根の高さも低くはない。屋根の下にあるブロックべいにお尻を着くような形で降りた。靖子やすこを抱きながらではそれが限界。足腰を痛めるほうが問題だ。それでは逃げられなくなる。


 ──……足はくじいてない…………


 そして闇雲やみくもに走った。

 もうあの部屋には戻れないだろう。

 警察に行っても無駄であることは分かっていた。それでどうにかなるなら、そもそもこんな事態にはなっていない。きよしが何度も言っていたことが頭の中でうずを巻く。


 ──……警察に行ったら……あいつらに引き渡されるだけ…………


 すぐに背後からの走る足音が耳に届いた。

 見付かったことを全身で理解すると、後は恐怖に包まれるだけ。

 そして、その足音は一人のものではない。

 少しずつふくらむ恐怖が近付いた。

 静かな夜。

 月が明るい夜。

 空気を揺らすのは足音とみずからの鼓動こどうだけ。

 両手で抱いた靖子やすこが重く感じられてきた。

 すでに目を覚まし、不思議そうに周囲に目を配るだけ。

 耶絵やえは背後の恐怖のかたまりに意識を集中していた。

 近付く。

 荒い吐息すらも聞こえてきた。

 すでに足を動かしていたのは、気持ちだけ。


 ──…………追いつかれる…………!


 その耶絵やえの、すぐ横をすり抜ける影。


 ──…………だれ⁉︎


 無意識に目で追いかけたその影は、大きくバットを振り下ろし、周囲に甲高かんだかい音が広がった。見知らぬ男が、何度も、耶絵やえを追いかけてきた男にバットを振り下ろす。その度に甲高かんだかい音を立て、しだいにその音がにぶい音へと変わっていく。

 足を止めた耶絵やえの視界に、追いかけてきていた男たちの姿。

 その男たちを取り囲む別の複数の影。

 呆然とする中で、耶絵やえは突然誰かに腕をつかまれた。

 そして引っ張られる。

 驚いた耶絵やえの視線の先には一人の女性。その女性に引っ張られるまま、耶絵やえも走るしかなかった。

 しばらく走ったところで、さらに横に走り寄る別の女性。

「この先なら大丈夫────一人待ってる────」

 そしてすぐに離れた。

 耶絵やえが何も理解出来ないままに事態が進んでいく。

 分からないということは、恐怖でしかない。


 やがて行き着いたのは、小さな商店。

 古い八百屋やおや軒先のきさき

 時間は深夜。

 もちろん周囲は静まり返ったまま、耶絵やえと先導していた女性の荒い息遣いだけが夜の空気を温めていた。改めて耶絵やえが見ると、まだ若い女性だった。それほど耶絵やえと変わらない年齢にも見える。

 そして背にしていた店の扉で小さく音がした。

 緊張が走る。

 中の暖簾のれんが小さく揺れ、そこから誰かの目がのぞいた。そして小さく扉が開く。

「はやく」

 女性は耶絵やえの腕を引いて先に中に入れると、周囲に目を配りながら素早く入り、静かに扉を閉めた。

 中にいたのは中年の女性。その中年女性は扉のかぎを掛けると、すぐに耶絵やえに顔を向けた。

「危なかったね。もう大丈夫だよ」

 助けてもらった。

 それは理解出来た。しかし相変わらず目の前の人たちの素性すじょうは分からない。


 ──…………あの人たちだ…………


 そして、無意識の内に、耶絵やえは両腕を伸ばしていた。

 タオルケットに包まれた靖子やすこを中年女性に向け、その両眼からはいつの間にか涙が零れる。

「……この子を…………守ってください…………」

 靖子やすこは目を見開いて母親である耶絵やえに顔を向けるだけ。

 その耶絵やえの言葉が続いた。

「私だけじゃ……守れない…………私はこの子の足手纏あしでまといにしかならない…………生き残るのは私じゃダメ…………靖子やすこを守って……お願い…………この子だけのほうが守りやすいはず…………」

 動いたのは、若い女性だった。

 靖子やすこを包むようにして、そのまま耶絵やえを抱きしめると、小さくその耳にささやく。

「確かにこの世界には、必要のない親はいる。子供に愛情を注げない親…………でもあなたは違う……全部、見てきたよ……あなたは自分を捨ててまで愛情を注いできた…………自分が傷ついてることにすら気付いてない…………だからあなたは必要…………だから私たちは、あなたのことも守るって決めたの」

 耶絵やえは、その女性の腕の中で、靖子やすこを強く抱きしめていた。

 零れ落ちるのは涙だけ。

 言葉も選べないまま、夜がけていく。


 ──…………まだ…………一緒に生きていける…………


 翌日。

 早朝の内に動いた。

 逃げ込んだ商店の一室で睡眠を取り、朝、中年の女性から分厚い封筒を受け取り、若い女性と共に電車に乗る。

 まだ昨夜の余韻よいんがあった。

 眠りが浅かったせいもあるのか、気持ちが張ったまま。

 自分が知らない世界があるということを頭で理解はしていても、改めて実感した夜。

 怖さはもちろんまだあった。しかし不思議と何かが変化していた。ただ怖いだけではない何か。それが何かは耶絵やえ自身まだ分からない。

 行き先を決めて切符を買ったが、行き先がバレないように、少し前の駅で降りると言う。しかも今回は昨夜の若い女性が付き添う。正直、心強かったのは事実。

「何かあっても……私は命をけてもあなたたちを守るよ…………」

 ホームで聞いた女性のその言葉は、嬉しくも、やはり重い。自分たちのために死んで欲しいとは、やはり思えなかった。

 早朝という時間帯のためか、ホームも電車内もまばらな人影。

 それでも耶絵やえは気持ちがいまだ落ち着かないのか、座ってからも靖子やすこの手を離せないまま。女性が反対側から靖子やすこを挟むように守っている。

 そんな中、女性の声が小さく耶絵やえに届いた。

「顔を動かさずにそのまま聞いて。この電車の各車両にも、何人か仲間がいる。今回は大人数だから私が知らない人もいるみたい。敵がいるかどうかも分からない…………見分けをつけるとしたら動きだけ…………だから…………気を抜かないで…………」

 電車が進むと同時に、時間も進み、少しずつ乗客が増えていく。

 同時に、緊張も高まった。その緊張が手を繋いだ靖子やすこにも伝わるのか、大人しいままではあったが耶絵やえの手を強く握り返す。その暖かさで、耶絵やえかろうじて平静を保つことが出来ていた。


 ──……守らなきゃ…………靖子やすこを…………


 いくつ目かの駅を通り過ぎた後、靖子やすこが降ろしていた顔を上げた。

 それに気が付いた耶絵やえの視線の先には、靖子やすこするどい目。

 耶絵やえが初めて見る目だった。

 その、靖子やすこが立ち上がる。それでも耶絵やえの手は離さない。

靖子やすこ?」

 耶絵やえのその声にも、靖子やすこは車両の奥に目を向けるだけ。自然と耶絵やえと女性も視線を送っていた。

 その視線に気が付いたのか、一人の男が動き出す。黒いスーツ姿。何かが、周囲の動きとは違う。

 耶絵やえには、まるで空気がざわついて見えた。

「お母さん……ここにいちゃだめ」

 靖子やすこ耶絵やえに首を振る。

 その靖子やすこの手を、耶絵やえは立ち上がって強く握っていた。そして体が動く。

「行って」

 立ち上がったその女性の声で、耶絵やえ靖子やすこを抱え上げていた。手を引いて歩いてしまっては、最初に捕まるのは靖子やすこになると思ったからだった。しかしその大きな動きは、周囲からの視線を集めることにも繋がり、結果的に敵から見付かりやすくしてしまったのは事実。しかしこの時の耶絵やえにそう考える余裕はない。

 走っていた。

 頭の中にあるのは、靖子やすこを守って生き延びることだけ。


 ──……絶対……死なせない…………!


 その時、背後から、甲高かんだかい音が聞こえた。

 聞いたことのない音。

 何かが破裂はれつするような音。

 続く、いくつもの悲鳴。

 そして、走ってくる、あの女性の声。

「行って! 逃げて‼︎」

 その直後、再びの甲高かんだか破裂音はれつおん

 小さく、女性の体が浮く。

 すぐにその体は車両の床に叩きつけられた。

 その向こうに立つ男。

 その男がこっちに向けている物。実際に見たことがなくても、普通の人間でも分かる。


 ──…………拳銃けんじゅう……?


 しかしそのリアルな音は想像していたものとは違った。

 間違いないのは、その銃口が耶絵やえに向いていること。

 耶絵やえは反射的に膝を落としていた。

 そして次の銃声は、耶絵やえの隣の男性を倒れさせる。

 やがて、銃を持った男におおかぶさる人影。それが仲間なのかどうかも分からない。

 悲鳴と繰り返される銃声。

 恐怖と絶望感。

 総てが入り乱れた。

 相手がどんな組織なのかも分からないまま、リアルに接することのない拳銃の音までも聞くことになり、もはや自分たちの身に起きていることが現実であるという確証が持てない。

 逃げ惑う人々の中、やはり違う動きというのは目立つ。

 一人の中年女性が、右腕を上げた。

 その手には、違う形の拳銃。やはりそれは耶絵やえに向けられている。

 その耶絵やえの体が大きく押された。隣の車両へ押し込まれるように倒れ込んだ直後、車両の間の扉が閉じられる。

 同時に聞こえた声。

「逃げろ!」

 その男性の顔が小さなガラスに押し付けられ、その目が銃声と共にゆがんだ。

 しかし、その車両でも、再び敵と味方が入り乱れる。

 耶絵やえ靖子やすこに向けられる銃口。

 その銃口の前に出る人物が次々と倒れる。

 しかし、それでも、もはや耶絵やえの思考は止まらなかった。

 靖子やすこ窓際まどぎわ椅子いすに座らせると、その頭上の窓を大きく開ける。

 強い風が吹き込んだ。

 朝の空気。

「────え?」

 驚く靖子やすこを再びかかええ上げると、その足を窓から外へ。

「え⁉︎ お母さん‼︎」

 靖子やすこは暴れながら、振り返りながら窓のわくつかむが、耶絵やえの気持ちにはかなわなかった。


「…………生きて…………」


 いつしか、電車は高架線こうかせんの上。

 下には大きく、深い川。

 その上に、靖子やすこの体が、舞った。


 ──…………生きて………きっと誰かが助けてくれる……………


 耶絵やえが首を振ると、その視界の先、床に倒れながらも震える手で銃口を向ける男がいた。

 体のあちこちから血を流しながらも、みずからの役割を遂行すいこうしようとする男。


 ──……どうして…………そこまでして…………


 耶絵やえは男にゆっくりと近付いた。

 近くの女性が倒れたままで叫ぶ。

「ダメ‼︎」

 それでも耶絵やえは、まるで感情の無い表情で、男の拳銃を取り上げていた。

 もはや男には抵抗する気力も体力も残されていない。

 耶絵やえにとっては初めて触る拳銃。それがどんな拳銃なのかなど知るよしもない。知っているのは、引き金を引けば弾丸が出るということだけ。

 想像していたよりも、重かった。

 ゆっくりと、銃口を男のひたいへ。

 もう、耶絵やえに、迷いはなかった。


「……あの子は…………死なせない…………」


 ただ、引き金を引いた。





         「かなざくらの古屋敷」

    〜 第二五部「黒い点」第4話(完全版)へつづく 〜


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