第三部「蛇のくちづけ」第2話(完全版)
幼い時から、京子の力はタミを凌いだ。
あの世の者が見えるだけではない。まだ除霊までは出来なかったが、死者と会話が出来た。
そして未来を見ることが出来た。
それはタミでも難しい力。
しかもそれは、能力の強さだけの事ではない、とタミは感じる。
──……幼くして…………宗教が何かを理解している…………
京子のその力は村人から感謝されると同時に、やがて神社そのものも村の外でまで有名になっていった。
京子が五才の時。
午後の祓い事の後。
大きく陽が入り込む本殿の中心で、京子は天井を見上げていた。
それに気が付いたタミが近付く。
「京子や……どうしたんだい?」
顔を下げた京子は、タミの姿を見て笑顔を浮かべた。
──……天井に気が付いてるね…………
タミは祭壇の前に膝を降ろすと、京子に背中を向け、声をかける。
「隣においで」
京子がタミの横に正座をするが、その姿は幼い子供そのもの。
「水晶は持ってるかい?」
「うん!」
京子は首のチェーンを手繰り寄せ、胸元から二つの水晶を出して見せる。
その水晶は京子がいつでも持ち歩けるようにと、ネックレスとして首に下げられるように加工されていた。タミの指示だった。
その二つの水晶に、タミは軽く手を添える。
熱かった。
「……熱くはないかい?」
すると京子は、タミの顔を見上げて不思議そうな顔をして応えた。
「熱くないよ……?」
「そうかい……ならよかった…………」
──……覚悟が、必要みたいだね…………
昭和五三年。
京子一〇才。
小学校五年生の時だった。
朝、いつものようにランドセルを背負って家を出ようとした時、不意に玄関先で京子が言った。
「一ヶ月だけ行ってくるね」
父の清吉も、母の依もその言葉の意味を全く理解出来ずに、京子はそのまま学校へと向かう。
しかしそれを祖母のタミに報告すると、タミは突然に声を張り上げた。
「どうして行かせたんだい! 今すぐ探しな!」
その日、京子は学校には行かなかった。
すぐに警察に捜索願いが出されたが、足取りが全く掴めないままに時間だけが過ぎていく。
田舎の小さな村。しかし目撃者すらも見付からない。
タミは祈祷を続けたが、何の手がかりも掴めないままに一日、そして一日。
「あの子は一ヶ月と言った…………必ず戻ってくる…………」
タミはそう言って連日祈り続けた。
身代金の要請がないので誘拐事件とも考えにくいまま、二週間後には公開捜査となる。警察でも家出をするかのような言動があったことから神経質な捜査が必要となった。
しかし相手は一〇才の小学生。事件の可能性を考えるほうが自然だ。
そしてちょうど一ヶ月後、警察から電話が入る。
確かに京子が言った通り、一ヶ月後に京子は見付かった。
しかしそれは遠くの街。
とある宗教団体の施設。
元々その教団は警察の調査対象。
その日も一人の捜査員が張り込んでいた。ここしばらくは張り込みに穴を空けたことはない。それは教団の動きが活発になってきたことに起因する。
信者は二〇人程度。決して大きな教団ではなかったが、ここ最近はやけに人の出入りも多くなっていた。
そんな、ある日の夜。
教団の施設と言っても、そこは倒産した小さな工場跡の建物。敷地も一般家庭よりは広く、小さなコミュニティーとしては丁度いい規模だったのだろう。しかも周囲に民家は無い。海に近い工業地帯。周囲の目を意識することの多い教団としては都合が良かった。
その夜は人の出入りも激しくはない。夕方に大きく膨らんだレジ袋を手にした信者が二人入ったきり。
夜の九時を回った頃。場所的にも静かな空気が流れるだけ。
だからこそ、その悲鳴はあまりにも突然だった。
夜空に響いたその甲高い声は、やがて次々と波紋のように広がる。
空気が震えた。
驚いた捜査員が車の中から目を凝らすが、何かが見えるわけではない。しかも場所は片側二車線────合計四車線を挟んだ距離。夜になると双眼鏡で何かが見える距離ではなかった。懐中電灯を手に車を降りるしかなく、そのまま周囲に人影が無いことを確認しながら広い道路を横切っていた。
途中、途端に悲鳴が消える。
再び辺りが静寂に包まれるが、捜査員は自分の心臓の音の大きさに、そんなことには気が付けないまま。工場の建物に到着し、窓から中を伺うが、暗く、何も見えない。
音も声も、聞こえない。
荒い息のまま、捜査員はドアのノブに手をかけた。
心臓の鼓動が益々早まる。
小さく開き、中を覗き込むが、その光景は、ゆっくりと向けた懐中電灯の灯りの中で、初めて見ることが出来た。
まるで折り重なるように、そんな表現で正しいのか、少なくとも捜査員にはそう見えた。
何人もの倒れている人影。
やがて、床からゆっくりと上げた灯りの中に、たった一人で立つ少女。
光源の矛先に顔────鋭い目を向けた京子だった。
その目に、捜査員は恐怖したという。
教団は京子の力を欲した。
それは村の外にまで京子の〝力〟が知れ渡った結果の誘拐だった。
しかし、その日、その夜、教団の全員が施設内で死亡する。
全員の首にロープのような物が巻かれた跡があったという。
そして京子は保護された。
誘拐されて監禁されていたとの供述を残すが、それは警察に疑念を残させることとなる。それでも誘拐されたことは事実。傷ひとつなく、それどころか健康状態も良好なまま京子は家に帰ることとなった。
もちろん清吉も依も喜んだが、タミだけは違和感を感じていた。
PTSDのような精神的な症状が心配されたが、京子自身には〝怖い経験をした〟という認識すら無いように見える。決して虐げられていたわけではないらしいが、大量の人間の死を目撃したようにも見えない。そもそも信者の集団死は謎のまま。
そしてこの事件はテレビでも大々的に取り上げられた。
年齢的に京子は小学生。本来であれば精神的に影響を受けていてもおかしくないはず。周囲の大人たちは誰もがそう思った。
周りからの過剰な気遣いがありながらも、無事に小学校を卒業。
そして、イジメは中学校から始まる。
その発端はやはり誘拐事件からのものだったが、同時に京子の能力を同級生が〝気持ちの悪いもの〟と認識したことに起因する。しかもそれは陰湿なものだった。
この頃から、明るく活発だった京子の表情が変わり始める。口数が減り、神社の催事にも顔を出さなくなっていた。
そして、同級生が死に始める。
一人、また一人。
それは京子をイジメていた生徒だけではない。異常なペースだった。
しかも、その全員がなぜか首をロープのような物で締められて殺害されていた。
殺人事件として当然警察が動くが、すでに警察の捜査の中には京子がいた。しかしまだ子供だった。警察の中でも京子の関与を疑う者のほうが多い。それでも過去の誘拐事件の件もあり、可能性が残されたまま、総ての殺人事件が暗礁に乗り上げる。
そして昭和六〇年。
京子一七才。
高校二年生。
その夜は雨。
京子は高校に入ってからは平穏な生活を続けていた。環境が変化することでイジメと無縁になったからではない。誰も京子に近付く生徒がいなかったからだ。京子が醸し出す雰囲気が人々を遠ざけていたのかもしれない。
どこから来るのか分からない、大人びた冷たさ。
それは家である神社に帰ってからも同じ。
両親からも距離を置かれていたことを、京子自身も感じていた。両親がどことなく自分に対して〝畏れ〟のような感情を抱いていることにも気が付いていた。
それでもタミだけは違った。
タミだけが、何かを感じていた。
そして、その目を見るのが、京子は嫌いだった。
その夜も、京子はタミに呼ばれて本殿にいた。
「少し、前の話をしてもいいかい?」
そして座布団に座ったまま、向かい合ったタミからの質問が始まる。
シトシトと、小さな雨粒が屋根の瓦を打ち、雨樋を流れる夜。
タミは深夜にも関わらず巫女服。その正装と祭壇の松明の炎が、自然と京子を追い込んでいた。それでも京子は顔色を変えず、いつもの冷たい表情のまま。
タミの真意は、松明の揺れる灯りの中で計りにくい。
そのタミは少し間を空けて、京子の中の何かを感じ取っていた。
「……ほう…………天井が気になるかい?」
決して京子は天井を見上げていたわけではない。しかし何かを見透かしたようなタミのその言葉に、京子も身を硬くして応える。
「……いえ…………別に…………」
それでもその態度は堂々としたものだ。少なくともタミにはそう見えた。決してタミの圧力にも臆してはいない。
一七才とは思えない、妖麗さ。
タミは、自らの感情を押し殺しながら言葉を投げ返した。
「まあいいさね…………ただ…………これからこの家を継いでいく京子には、どうしても聞いておかなきゃならんことがある」
京子は何も返さない。
僅かに視線を落としたまま、決してタミと目を合わせようとはしなかった。
そして、微かに京子の口元に浮かぶ笑みが、タミには気になった。
「まだ子供の頃のように未来が見えるのかい?」
「もちろんです。今も見えていますよ…………」
「あの時も見えていたと? 京子…………どうやって…………あの信者たちを殺した?」
京子は微動だにしない。
そして小さく口を開く。
「……お婆様は…………私が殺したと?」
「質問しているのは私だよ京子。聞かれたことに答えな。見えていたんだろ?」
「目を覚ましたら周りで死んでいました」
「警察にもそう言ったんだろ? 私は警察じゃないよ京子」
「さすがは、お婆様…………私は……死ぬところを見ただけですよ…………」
「ほう…………」
「…………蛇に…………巻きつかれていました…………」
それを聞いたタミは、すぐには返せなかった。
外の雨が大きくなってきたことにすら気が付かない。
背筋に冷たいもの。
しかし、タミは言葉を絞り出す。
「最初から分かっていたのかい? 誘拐されることも…………」
「もちろんです。私には総てが見えています」
京子は表情も変えない。
そしてタミが、ゆっくりと返した。
「自分の未来が総て見えているとでも言うのかい⁉︎」
少しだけ語尾が荒くなってきていたタミに対して、京子は冷静そのもの。
「はい…………私は二二才で死にます…………二一才で子供を産みますが…………それまでは子供を授かることはないでしょう」
その言葉の意味を理解するよりも早く、タミは言葉を投げ返す。
「……蛇に……卵を食べられたね…………」
しかも、半ば無意識に口から出ていた。
京子も相変わらず冷静に返すだけ。
「…………いずれ、返しにきますよ」
タミは唐突に立ち上がると京子の額を左手で掴む。
そして、タミの声は低い。
「……京子に何をした…………出てこい…………ワシが相手をしてくれるわ」
しかし、その手首を京子が掴む。
「…………お婆様…………痛い…………」
タミは手を離さないまま口を開く。
「京子……水晶は持ってるかい⁉︎」
「はい…………」
京子は胸元から二つの水晶を出した。
そしてタミの左手が京子の額から離れる。
同時にタミの右手が二つの水晶を掴むとチェーンを引きちぎった。
次の瞬間には、畳に押し付けた水晶に懐から取り出した短刀を突きつけていた。
鞘が畳で鈍い音を立てる中、刃の切先が〝火の玉〟を畳にめり込ませる。
「さすがは代々伝わる石だよ」
タミは吐き捨てるようにそう言うと、乾いた音と共に素早く短刀を鞘に納めた。
そして再び座布団に正座すると、短刀を横にして京子に見せながら、軽く息を吐いて口を開く。
「この短刀は神物だよ…………代々この神社を護ってきた…………この刃でも割れないとは大した石だ…………もうこの石はお前を守る石じゃない。蛇に入られた…………」
それを聞く京子の目は、先程とは明らかに違った。
僅かに震えるその目を見ながらタミが続ける。
「呪われた石に魅入られたね」
──……崩せるか…………
そう思ったタミは、京子の膝の前に短刀を差し出す。
「預ける…………意味は分かるね…………その時は慎重に選ぶんだよ…………残念だが京子…………我が家の血筋を絶ってでも、この蛇を生かしておくわけにはいかない…………」
その夜、雨がしだいに激しくなる中、タミの祈祷が夜通し続いた。
タミのすぐ後ろには清吉と依がつく。
そしてその中心には、短刀を抱えながら震える京子。
外には夏の大雨が降り続いていた。
その雨粒は容赦無く本殿を揺らす。
そして、本殿に朝の陽の光が入り込んできた。しかしそれは空が僅かに明るくなった程度で、分厚く黒い雲から大雨が降り続くのは変わらない。
やがて、玄関の裏口を叩く音がした。
裏口といっても通用口。家の人間が通常使っている玄関でもある。しかも、その玄関を叩く音はけたたましい。
「警察の方が…………京子に話を聞きたいと…………」
応対をした依が戻るが、その声は震えていた。
直後、拝殿の砂利を踏みつける足音。
そして、傘を打ちつける雨の音。
清吉と依が振り返ると、そこには警察の人間と思しき数人のスーツの男たち。
タミは祭壇の前で、振り返りもせずに声を上げた。
「お巡りさんたち…………朝からご苦労さまにございます。京子に話があるということでしたら、ここで話されたらいい…………ほれ…………ワシらの後ろで震えておるのが京子じゃ」
なぜか、その場の全員がその声に圧倒されていた。
まるで雨の音までも静かに聞こえる中で、タミが続ける。
「まさか……ワシを知らんわけでもなかろう…………」
やっと、辿々しくも口を開いたのは一人の刑事。
「……いえ、タミさん…………そういうわけには…………」
「ワシらの血筋に隠し事など無いわ! 何用じゃ!」
そのタミの大声に、慌てて別の刑事が返した。
「以前の……誘拐事件と…………京子さんの同級生の殺害事件についてお聞きしたいことが…………」
すると、声のトーンを戻したタミの声。
「あんたらは、京子がやったと思っとるんじゃろ?」
空気が凍りつく。
そこに切り込めるのは雨の音だけ。
そしてタミが続ける。
「……蛇じゃよ…………不浄のものに魅入られた蛇の仕業じゃ。こんなか弱い京子に…………」
タミは後ろを振り返って繋げた。
「人殺しなど…………そうじゃろ? 京子…………」
京子は頭を大きく垂れたまま動かない。
その体の震えが止まっていることに気付くよりも早く、別の刑事の声。
「タミさん、この時代にそんな────」
「時代ではない! 我らが変わったとて、あいつらに何の関係があるものか!」
そして、その時、なぜか京子の頭には映像が浮かんでいた。
それは、自らの目の前で、何人もの人間の首に大きな蛇が巻き付いているもの。
──……私が…………殺してたの…………?
「時代など…………勝手に人間が作ってきたものじゃ…………人間の枠に当てはめるなど、そんな烏滸がましいことがあるかね」
タミがそう言って視線を前に戻した。
すると、目の前にあったはずの二つの水晶が無い。
「────しまった! 京子!」
振り返る。
京子が立っていた。
左手に短刀。
右手には水晶のついたチェーンをぶら下げている。
そしてその目は、京子のものではなかった。
口が開く。
「……お婆様…………終わらせましょうか…………」
そして、タミの目が見開かれていた。
──……此奴は…………
「…………蛇じゃないのか…………」
タミが、まるで呟くように言葉を漏らしていた。
その時。
振動が本殿を揺らした。
地面が揺れる。
やがて、それは大きく。
あっという間に、誰も立っていることが出来ない。
しかしその中、なぜか京子だけが本殿を飛び出していた。
タミはそれを追いかけたかったが、揺れで立ち上がることも出来ない。
その振動の中で、なぜか京子だけは走っていた。
そして、地面が、流れ始める。
もはや止められるものではなかった。
京子の背後で、本殿と人々が土砂に飲まれていく。
京子だけが分かっていた。
どこに行けば助かるか。
どこに逃げれば助かるか。
そして、下半身だけが土砂に埋まった状態で助けられ、京子は村で唯一の生存者となった。
☆
「若いからって舐めないでほしいわ」
そう言って御陵院西沙は足を少し広げて立ち、腰に両手を当てて小さな体で虚勢を張って見せた。
その目の前にしゃがみ込んだ萌江が口を開く。
「やっぱり若い子の生足っていいね」
僅かに広がるスカートの裾を押さえながら西沙が叫ぶ。
「本気で変態じゃないの⁉︎ ちょっと! 立坂さん! なんなのこの人!」
明らかに困った表情の立坂も苦笑いしか出来ずにいた。
そして萌江の声。
「で? 西沙ちゃん」
「──ちゃんはやめて! これでも二一なんだから!」
「霊感あるの?」
萌江のその一言で、その場の空気が変わった。
咲恵は立坂の車まで行くと、寄りかかって腕を組み、そして口元に笑みを浮かべる。
西沙はしゃがみ込んだ萌江を見下ろしながら叫んでいた。
「あのねえ、私は霊能力者よ! あんたみたいな変態と一緒にしないでよ!」
しかし少しずつ腰が引く。
「でも〝呪い〟を断ち切れてない」
そう言った萌江は西沙を見上げた。
「大変なんだってば! ここの呪いは龍神様を怒らせたからなの! 分かる⁉︎」
「龍神様なんだ。私は会ったことないなあ」
「当たり前でしょ? 修行しなきゃ見れないんだから────」
「修行ねえ…………」
「ここの近くに古い池があるのよ。そこには祠もあって…………」
「連れてってよ。そこ」
すると、やっと立坂の声が聞こえる。
「お連れいたしますよ。近くですので」
その立坂も車の側に移動していた。
その隣の咲恵が小さく呟くようにして立坂に声をかけた。
「もしかして、以前にもあの子に連れてってもらったの?」
「そんな感じですね」
立坂はそう言って応えた。
その池は地元でも知っている者は少ない。
しかしかつての村にとっては〝神のいる池〟。
廃墟群から車で少し林の中を抜けると、その池はすぐに姿を現した。
湖というには小さく、それだけに大きな池。長く、そして大きくカーブしたその池の周辺には遊歩道も用意されていた。しかしあまり人の手が入っているようには見えない。舗装された遊歩道の周辺には雑草が幅を利かせ、あちこちにゴミも散乱している現状だ。
全員でその遊歩道を歩きながら、西沙が言う祠を目指していた。
古くから存在する池。
ある時、その側の土地を、人間が処刑場として汚した。
それによる〝神〟の怒りだろうと、西沙は考えていた。その怒りからくる〝負の感情〟に、かつて殺された武士たちの怨念が擦り寄る。
だからこそ、この池は西沙にとって重要な場所となっていた。
その西沙が先頭を歩きながら話し始める。
「あんたたちをいちいちここに連れてくる時間も本当は勿体ないんだけどさ…………お盆の前には終わらせたいのよね」
「なんでー?」
後ろから萌江の声が聞こえた。
明らかにからかったような口調だったが、西沙は振り向きもせずに応える。
「お盆の時期になると仕事が増えるのよ。あんなものがただの宗教から来る風習だってのは分かってるけど、それでも世間一般的には関係ないんじゃない? ま、そんな雰囲気からくる理由の依頼なんて眉唾なものしかないけど……それでも事務所なんか構えてると色々あるのよ。仕事だし」
──……へー…………
咲恵がそう思った直後、隣を歩く萌江も同じことを感じたのか、明らかに返す声色が変化していた。
「日本だけの風習だしね。地域によって時期だって違う。あの世に国境があるわけじゃないだろうし……年に一回はご先祖を思い出して墓参りしようねって言う風習なんだから、みんな素直にお墓参りすればいいじゃんね。いちいち生きてる人間の地域事の風習になんか合わせて帰ってくるとしたら、あの世のスケジュール管理も大変だ」
「まったくよ…………私だって暇じゃないんだから」
そう言って振り返った西沙が声を張り上げる。
「なんで女同士で手繋いでんのよ⁉︎」
「いいじゃん。池に落ちたら大変でしょ」
そう応えた萌江は隣の咲恵と繋いだ手を前後に大きく振って見せた。
そして続ける。
「西沙ちゃんも繋ぐ?」
「繋ぎません! 私は同性愛者じゃない!」
「愛と性欲に性別は関係ないのに」
しかし咲恵が刺さる。
「この場合は性欲はいらなくない?」
「いや、大事だ」
そう言い切った萌江に、咲恵が小さく囁いた。
「……からかいすぎ…………」
「でも」
その萌江の声は、小さく、そして低い。
「…………ちょっと……面白い子だけど」
やがて一行は祠に到着した。
小さな物だったが、岩を掘った所に祠を納めた立派な物だった。しかも周囲の荒れ方から考えると整備されているほうだろう。花も真新しい。
池のほうを向いて設置されたその祠を前に西沙が口を開く。
「去年、私が来るようになってから綺麗にしたけど、酷い状態だったわ…………」
その横に立った萌江は祠を覗き込むようにして返した。
「ふーん、凄いじゃん。こういう風習はいいと思うよ。山でも川でも池でも〝そこには神様がいる〟って言って大事にしてきたんでしょ? 自然に対して感謝の気持ちを持つことは大事なこと。私は好きだよ」
「へー、ただの変態かと思ったらいいこと言うじゃない」
「でも」
萌江は池に体を向けて続けた。
「よく分からないんだよなあ…………龍神様だっけ?」
西沙はその背中に鋭い視線を送りながら返していく。
「この池の守り神……この祠だって────」
「だからさ」
そう応えた萌江の背中から、西沙は不思議な圧力のようなものを感じた。言葉で説明の出来るものではない。同時にそれは、西沙が初めて感じるもの。
しかも、続く萌江の言葉はその圧力に拍車を掛けた。
「神様はいるよ…………人が〝想う〟限りね。でも、その神様が何を怒るの? 人間様如きに神様が怒る? その程度の神様だったら、西沙ちゃんだって祠を綺麗になんかしないはず」
すると西沙は、何も応えないままに祠に顔を戻した。
すぐに反論するかと身構えていた咲恵は、その姿に不思議そうな目を向け、やがてその視線は萌江の背中へ。
そこに聞こえてきた声は萌江のものだった。
「池……水の神様か…………」
「そうだよ」
唐突に、弾けるように背中で返した西沙の言葉が続く。
「水は昔から大事にされてきた……少なくとも今みたいに蛇口を捻れば出てくるものなんかじゃない。だからこんな田舎の池にだって龍神様がいて────」
「田舎とか都会とか、神様にはそんなこと関係ない」
「……水場は昔から〝畏れ〟の対象だから…………」
まるで呟くような西沙の声。
萌江は背中を向けたまま。
西沙の言葉が続く。
「…………〝穢れ〟が集まりやすい…………」
「穢れ?」
即答したのは萌江。
その言葉も続く。
「水場だから〝穢れ〟が集まりやすいの? 誰から聞いたの?」
「誰って…………」
「なんとなくそう言われてるし、みんながそう言うからでしょ?」
萌江は池を見渡すように首を回して続ける。
「遊歩道があるくらいだから一応街灯はあるんだね…………いつ設置されたのかな。私たちが歩いてきた遊歩道って、いつ舗装されたんだろう…………昔はどっちも無かったよね。遊歩道に沿って池を囲む柵だって無かったはず。そんな頃にここに来てたら、誰かと手を繋いでいても危険だよね。しかも夜なら尚のこと」
萌江が振り返ると、そこにあるのは西沙の背中だけ。
さらに萌江が続ける。
「水場が危険なのは池だけじゃなくて川でも海でも同じでしょ? そして家の周りだと井戸…………落ちたら大変だよね。しかも電気の無い時代の夜は現代よりも暗い。満月の頃だとしてもね。水場は幽霊が集まって怖いから近寄るな────しかも、なぜか昔は幽霊が出るのは夜だけだった。だから夜の水場は危険」
西沙は無意識に視線を落としていた。
「でも…………」
「水場が危険ならお風呂場は? トイレは? 台所は? それすらも昔は不浄が溜まる場所とされた。危険があるから。そう思うことで危険に対しての身構えが出来る。家の下とか道路の下に走ってる水道管は? あれに幽霊は集まらないの? どうして誰もプールに幽霊が集まりやすいって言わないの? ただの昔の人の知恵だよ。教えと言ってもいいかな。夜に爪を切ると親の死に目に会えないって言うのと同じ。今と違って夜は蝋燭に火を灯すくらいでしょ。今みたいな爪切りだってない。しかも指先の怪我はバイ菌が入ると抜けにくいからそこから化膿して大きな病気にも繋がる。幽霊は指先から入るなんてことも言われてたんだ。なんでも幽霊のせいにする前に冷静に考えたほうがいいよ。昔から伝わってきた言葉には、その裏に必ず意味がある」
西沙は視線を落としたまま、体を小刻みに振るわせていた。
それを見ながら咲恵が思う。
──……反論は無理そうね…………
「萌江」
その咲恵の声に萌江が顔を向けた。
そして咲恵が続ける。
「今日はこのくらいで…………続きは明日」
「分かった…………」
そう言って歩き始めたところで萌江は足を止めて続けていた。
「西沙ちゃん……明日の一一時…………さっきの慰霊碑で…………」
すると西沙が言葉を絞り出す。
「……分かった…………逃げるつもりはない」
「……明日は短めのショーパンで」
「変態!」
☆
街の中心にある駅。
その側のビジネスホテル。
とは言っても披露宴会場も用意された大き目の所だった。
そこが今夜の二人の宿泊場所。
しかも、どう見ても安い部屋ではない。
立坂が用意した。
「ごめんね。うん、思ったより早く帰れそう…………え? ゆっくりって…………いや、新婚旅行じゃないから…………ちょっと由紀ちゃん⁉︎」
大した業務連絡もないままの店への電話だった。
バスローブ姿で大き過ぎるベッドに横になりながら、咲恵はスマートフォンをベッド脇に置いた。
そして大きく溜息を吐く。
──……まったく……新婚旅行ならもっと別の場所に…………
何気なくシャワールームに目をやる。
シャワーの音が気になった。
なぜかソワソワとした気持ちと、それを誤魔化したい自分がいる。
──……昼間にあんなイメージ見た後なのに…………
──…………まだ……言えないな…………
シャワーの音が止まると、咲恵の鼓動が早くなり、誤魔化せない自分を認めざるを得ない。
咲恵はシャワーの音が止まってからドアが開くまでの時間が嫌いだった。自分から迎えに行きたい衝動に駆られるからだ。しかも、そうすると萌江が喜ぶことも知っている。
ドライヤーの音が微かに聞こえ、時間の経過を知らせた。
咲恵は萌江のドライヤーの時間も体感で分かっている。
──……だめ……大人気ない…………
分かっているはずなのに、ドアが開く音に気持ちが疼く。
しかし、咲恵の隣に横になった萌江は何かいつもとは違った。少し寂しさを感じながらも咲恵が口を開く。
「どうしたの? 明日のこと?」
「んー…………」
歯切れが悪いままの萌江が続ける。
「答えは分かったんだ。思った以上に簡単だった」
「そうなの? 今回は私は難しいかも…………見えてるイメージはいくつかあるけど、それが今〝呪い〟って言われてるものと関係がないことだけは分かる」
咲恵は自分が萌江と違うものを見ているのを感じていた。そして同時に、なぜかそれがリアルなものとは思えないまま、あまりにも出来すぎた偶然に自分が戸惑っているのも理解している。
──…………これは…………繋がるの?
そんな咲恵の気持ちに気が付いているのかどうか、萌江は〝呪い〟の根源にターゲットを絞り続けていた。
萌江に見えないもの。
咲恵だけに見える過去。
それが咲恵の不安材料であることは事実。
「明日、業者に調べて貰えば解決。後は行政が動いてくれるかどうかだけ」
その萌江の言葉に、咲恵は現実に意識を振る。
「ロビーで立坂さんにお願いしてた業者?」
今はそう返すのがやっと。
ロビーで萌江から説明は聞いていた。カラクリも理解した。おそらくは間違いない。萌江らしい理に叶った説明だった。
立坂も納得し、明日のために動いてくれた。
そして、だからこそ、咲恵の不安は膨らむ。
──……それだけじゃない…………
「うん…………それで終わり。それよりあの子」
萌江のそんな言葉に、咲恵は気持ちを切り替えて応えた。
「イジメ過ぎ…………萌江があの手の霊能力者を嫌う気持ちは分かるけどさ…………」
「まさか、あんなに若いとは思わなかった」
「そっち?」
咲恵は上半身を上げるとベッド脇のロックグラスを手に取ってウィスキーを軽く喉に押し込む。
「私も飲む」
萌江が上半身を起こしてベッドから降りようとすると、その顔の前に咲恵がグラスを差し出した。
「これ飲んで」
「ん? 嫉妬した?」
「違います」
そう言って目線を逸らした咲恵の後ろから、萌江はその体を両手で包み込む。
「……私の気持ち分かってて…………そうやって困らせるんだ…………」
こういう時の萌江の声に、いつも咲恵は意識を持っていかれる。
──……やっぱり…………離れたくない…………言えない…………
そう思った咲恵の口を塞いだ萌江の唇から、声が漏れた。
「……あの子も…………助けてあげたい…………」
「うん…………でも…………先に私…………」
その咲恵の言葉が、萌江を疼かせた。
☆
昭和六二年。
京子は一九才になっていた。
村の土砂災害での唯一の生存者。
入院中にも関わらずマスコミから向けられるマイクに辟易し、京子はその地を離れることを決める。
当時まだ一七才だった京子は病院から逃げ、遠くへ。
やがて離れた街。
年齢や経歴を偽って、寮のあるスナックで働いていた。
仕事自体もそうだったが、夜の人間をメインの顧客とするような不動産屋でも、戸籍まで調べられることはない。住民票を求められるわけでもない。そういう時代だった。
安いアパートを借りた京子は短いサイクルで店を点々としていた。
決して楽な生活ではなかった。慣れない生活の中で神経をすり減らしていたのは事実。
しかしなぜだろう。
生活に慣れてきた頃から、なぜか子供を作りたい衝動に駆られていた。
子供が欲しかった。
しかもなぜか、頭に浮かぶのは〝娘〟。
そしてたまに頭に浮かぶのは、自分が人を殺している光景。
覚えがないはずなのに、時としてその感覚が両手に蘇る。その度に、部屋で一人で震えた。
いつからか、家族のことを思い出せない。
なぜか過去の記憶はバラバラ。
分かっているのは土砂崩れの唯一の生き残りということだけ。
そして、早く子供を作らなくてはならない衝動。
その感情だけが京子を揺り動かしていた。
健二と出会ったのはそんな頃。
京子が働いていたスナックの客だったが、なぜか京子は健二が気になった。二六才。大手の会社で働いていることだけは分かっていた。しかし恋愛対象として見てはいなかった。そもそも京子はそういう感情が分からない。しかも健二には家庭があった。
しかし、なぜか健二と肉体関係を持つ未来だけは見えていた。
そして京子は健二に近付き、肉体関係を迫る。
翌年、京子が二〇才の時、妊娠が分かる。
体調の変化ではない。まだ妊娠の兆候はない。しかし京子には総てが見えていた。
年の瀬。
雪の降り続く夜。
健二は当然のように京子に中絶を迫る。
「俺に家庭があることは分かっているはずだ」
ホテルの一室、服を着ながら健二は焦りを含んだ言葉を吐いていた。
それに対して京子は冷静なまま。
「だったら、どうして私を抱いたの? しかも……何度も私の中で…………」
「君が……大丈夫だって言うからじゃないか」
「うん…………大丈夫だったの…………でもね…………〝卵〟が帰ってきたみたいなの…………」
声の響き。
健二はその声に凄みを感じた。
それまでの京子から感じられるものとは明らかに違った。
京子は自分のお腹に手を当てながら続ける。
「ずっとこの子を待っていました…………私が産むんです…………この子のために、私は産まれてきた…………」
翌年、平成元年。
京子二一才。
一〇月二三日。
京子は女児を出産する。
その首には、臍の緒が巻きついていた。そのため入院は少し長引いたが、それでも無事に退院することが出来た。
病院の費用を出したのはもちろん健二。出し渋りはしなかった。揉めることで問題が表面化するのを恐れた。
それでも退院時は京子と娘だけ。
久しぶりのアパートに戻る。
安いアパート。決しておしゃれな新生活ではない。
そして、今は一人ではない。
──……あと一年…………私が育てる…………
数日後、夜になって健二が訪ねてきた。
退院した日に連絡だけは入れていたが、健二がすぐに来ないのは分かっていた。
健二は複雑な目で子供を見下ろすだけ。
健二には子供がいなかった。妻が産婦人科の不妊治療に通っていることはもちろん知っている。健二自身も検査を受けていた。
そして、目の前の子供が自分の子だという。
健二になんの疑念もなかったわけではない。京子が他の男と関係を持っていたとすれば、自分の子ではない可能性だってある。
いや、そのほうが助かる。
しかし、健二のそんな考えすらも京子は見透かしていた。
「大丈夫ですよ……私もその内、仕事に戻りますし…………ただ、夜に子供を預ける所にもお金が必要ですから…………そのくらいだけ援助してもらえれば…………」
「そのくらいなら……大丈夫だ。なんとかする…………」
いつの間にか、健二も京子から離れられなくなっていたのかもしれない。
「……名前は…………決まったのか…………?」
その健二の言葉に、京子はゆっくりと応えた。
「…………萌江……………………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第三部「蛇のくちづけ」第3話(完全版)
(第三部最終話)へつづく 〜