第二三部「消える命」第5話(完全版)(第二三部最終話)
すでに高い陽が差していた。
朝までの雪は姿を消し、太陽の熱が空気と土を暖めている。
それでも冬ならではの薄い雲。
それは空にかかるベールのように揺れていた。
穏やかな風が、雄滝神社の本殿をすり抜けていく。
早朝まで燻っていた松明の香りもすでにその風に流され、本殿を埋めるのは冬の匂い。
「……すっかりと……寒くなった…………」
外に目をやった恵麻のその言葉に、咲と苑清は何も返せなかった。
〝事〟の顛末を総て話した。
御世の出自、清国会の始まり。
歴史の真実。
総てを。
それに対しての恵麻の返答は二人にとっても完全に予想に反したもの。
咲も苑清も、もちろん恵麻が素直に受け入れてくれるとは思っていなかった。激昂することも覚悟していた。
しかし今、祭壇を背に二人の前に座る恵麻に、いつものような威圧感は感じられない。いつもの鋭い目はない。言葉で相手を押さえ付けるような〝強さ〟は見当たらない。それは祭壇横に控える恵麻の両親、麻人と陽恵も同じ。
まるで別人のように、穏やかだった。
驚いた二人に、恵麻は視線を軽く落として続ける。
「…………面白い話だな…………御主はそれを信じるのか? ……咲」
咲は尚も応えられなかった。
恵麻の心情がまったく見えなかった。
同時に、簡単に受け入れられない気持ちも理解出来る。咲自身も朝まではそうだったからだ。自分の信じてきたものが簡単に崩れていく。その怖さを味わったばかり。
まるで目に見えないままに、長い年月をかけて積み重ねてきたものは、夢か幻のように姿を消した。
それでも、咲は受け入れた。気持ちのどこかに小さく引っかかっていた棘が取れた感覚が間違いなく存在する。その棘ですら見えないフリをしてきた。気付かないフリをしていた。しかしずっと気になっていた真実は、その先にあった。
まして恵麻は清国会の頂点。誰よりも清国会を中心に生きてきた。肩に掛かる重責は咲とは比べ物にならなかっただろう。
恵麻自身、多くのものを噛み締めていた。
自分の歩んできた時間だけではない。
清国会の長い歴史。
「御主は何を信じる…………」
そう口を開いた恵麻が言葉を繋げていく。
「……私は金櫻家の歴史を信じてきた…………長きに渡るこの国の歴史を信じてきた…………」
「…………はい」
そう小さく応えるしかなかった咲の全身に、恵麻の重い言葉が覆い被さった。そしてさらにその声が伸し掛かる。
「しかし咲……御主はどうしてその話を私に伝えに来たのだ…………私が素直に認めるとでも?」
──………………私は…………
「どうしてだ咲……清国会の根幹が崩れる話を…………御主にも……御主の娘にも無理を強いてきた私に…………応えてくれ…………御主が信じているものは何だ……?」
僅かに、しだいに、その恵麻の声が熱を帯びた。
真剣な、同時に純粋な問い。
──………私は……
「……未来を…………信じます」
そう応えた咲の真っ直ぐな目に、恵麻が顔を上げた。
咲が続ける。
「……私は……そのためにここにいます」
「そうか」
意外にもすぐに返した恵麻が続けた。
「応えてくれたこと……嬉しく思う…………では、私の話も聞いてくれるか? 今朝……御世が来たよ」
そう言う恵麻の表情が柔らかくなった。いつも険しい印象しかないその顔に、小さく笑みが浮かぶ。
そして恵麻は再び外に目を向けた。
積もるほど、というわけではないままに、周囲の葉を僅かに白く染めた雪に陽の光が反射する中、言葉を繋ぐ。
「涼沙からも話を聞いた……あれは西沙の幻惑だな。金櫻家との戦は避けて欲しいと言ってきたよ。誰一人として犠牲は出したくないと言いおってな…………御世も滝川家を裏切った分際で……萌江様たちから再び命を頂けたと言っておった…………御世の魂の出自がどこにあるのかなど考えもしなかった…………なるほど、清国会を恨むわけだ……そんな理由があったとはな」
恵麻は座ったまま体を少し回し、祭壇横の母、陽恵に顔を向けた。
「母上、陽麻はどこにおりますか?」
陽恵はその質問を予想していたかのように。
「先ほど遠方の神事より帰ってきたばかり……もうすぐここに来ますよ」
「母上はどう思われますか…………咲と苑清の話…………」
「そうですね…………」
陽恵は隣の夫、麻人の顔を軽く見てから続けた。
「咲殿のお話……嘘をついているとは思えません。少なくとも私の感覚はそう言っています。だから貴女も真剣に聞いたのでしょう? もしかしたら……私たちも……何か〝幻〟を見せられていただけなのかもしれませんね…………」
すると、陽恵の隣の麻人が言葉を拾う。
「おかしな感覚だな恵麻……真実とは何だ…………」
それを陽恵が繋げる。
「もしかしたら…………我等の中にも迷いがあったのかもしれません…………こうなってからではそれも都合のいい話ですが…………しかしどうしてでしょうね…………不思議と嫌な感じがしません。とはいえ私も以前はあなたと同じ立場。清国会代表の前任者として、責任をあなた一人に押し付けるつもりはありませんよ」
恵麻は、母である陽恵の真っ直ぐな目に、小さく頷く。
すると、本殿の奥から、足袋が床を擦る音。
「これは咲殿に苑清殿、御苦労様にございます」
そう言って恵麻の隣に腰を降ろしたのは恵麻の妹、陽麻。
「御二人が揃うとは珍しいことですね。定期報告にはまだ早いのではありませんか?」
そう言いながらも瞬時に違和感は感じた。咲だけならいざ知らず、通常であれば苑清が頭を上げていることはなかったこと。しかも咲の隣で恵麻と向かい合っている。それは清国会の仕来たりに反する。何か大きなことが起きていることは分かった。
気が付くと、無意識に鼓動が早まっている自分がいる。
その陽麻に返すのは恵麻。
「陽麻こそ御苦労だった」
「何か緊急の動きでも…………」
訝しんだようにそう言う陽麻に、恵麻は唐突に切り出す。
「……陽麻……お前は我々と違い……〝力〟が弱い…………」
「姉様? どうされました?」
突然の話に驚いた陽麻が恵麻に顔を向けた。
陽麻は恵麻たちのような〝能力〟を持ってはいない。まったくではないが恵麻に比べると微々《びび》たるもの。滝川家では初めてのことだった。もちろん恵麻と同じように修行はしてきた。しかし能力を開花することのないまま、陽麻は自分の存在意義を見失った過去を持っていた。
それでもその中で自分の立ち位置を求め、今では恵麻の一番の相談役でもあった。
不思議そうな表情を浮かべる陽麻に、恵麻が応えていく。
「それでもお前は自分の存在意義を生み出した。感謝している。今までずっと肩身の狭い思いをしてきたであろう。しかしお前がおかしいのではない…………我等のほうがおかしいのだ…………」
「…………姉様……」
「……清国会の真実を聞いた…………真の歴史だ…………」
「真の……とは…………」
当然のように陽麻に理解など出来るわけがない。陽麻も信じてきた。見えるものが無い分、純粋に信じることに邁進してきた。そうしなければ自分の居場所がなかった。信じることで、自分自身を認められた。
呆然とするその陽麻に、恵麻は震える声で続ける。
「……するとどうだ…………何も見えない…………何も感じなくなった…………まるで抜け殻のようだ…………私はずっと幻を見ていたのか…………」
恵麻は背中を丸めて体を震わせた。
その体に、反射的に陽麻が身を寄せる。いつもとは違う恵麻の様子から何かを感じたのか、その両腕が恵麻を包んでいた。
ただならぬものは陽麻も感じていた。恵麻をここまでさせるものが何か、その全容が見えない。しかし自分の唯一の拠り所である恵麻が体を震わせて恐れるほどのものが、間違いなく、今この本殿にある。それだけは分かった。
そして続く恵麻の震えた声。
「…………咲…………皆……ここに来ておるのだろう?」
しかし咲はすぐには応えられなかった。
嫌と言うほど気持ちが伝わっていた。咲も目の前の光景に気持ちを揺さぶられる。それが清国会の崩壊に繋がるのか、どんな未来へ続くのか、それが見えないまま。
ゆっくりと、その咲が口を開いた。
「…………外に…………」
参道に、足音。
風が流れた。
空気が足音を運ぶ。
恵麻がゆっくりと顔を上げた。
そこには、萌江と咲恵、二人の姿。
☆
小さな社だった。
敷地と思われる場所の入り口には鳥居もあったが、決して大きな物ではない。木を組み立てただけ。それでも倒れてはいなかった。
建物自体は堅牢な物。例え小さな集落の小さな神社とはいえ、そこは人々の生活の中心でもあったはず。古くから大事にされてきたに違いない。
しかし今は誰もいなかった。そうなってからだいぶ経つのだろうか。おそらくスズと青洲が弔った武士たちが来るもっと以前に、この地の人々は離れてしまったのだろう。その人たちの亡骸は見付けられなかった。
捨てられた集落。
捨てられた人々の営み。
どんな所にも歴史があったはず。決して歴史の表舞台に出てこないような場所にも、そこには必ず時間が存在した。
そしてそれは過去だけではなく、今もある。
未来もある。
スズも青洲も、それを見ていた。
社の奥にある物を漁り、本殿の中を綺麗にし、周囲の草を刈った。
小さいながらも祭壇もある。壊れかけていた燭台を直し、そこに薪を焼べていく。その火の暖かさは二人の気持ちを少しだけ楽にした。
近くには小川。水には困らない。食べ物は木ノ実や、まだ辛うじて残っていた山菜を中心とした。焼いた馬の肉は燻して保存食とし、冬に備えた。
そうして、最初の〝唯独神社〟が始まる。
集落に辿り着いて一月も経った頃だろうか。
屋根と食べ物を求めて、五人の野武士が訪ねてきた。宿主を失い、国を失った放浪者。
例え小綺麗とは言えなくても仮にも狩衣と巫女姿の二人の容姿に、スズと青洲が神職者であることは明らか。飢えた野武士とはいえ、狼藉を振るうことはしなかった。
二人は野武士たちに僅かな食事と水を振る舞う。
そして青洲が言った。
「ここに座すは天照大神様の血筋を継ぐ金櫻鈴京様だ。我等は訳あってこの地に逃れてきた身。御主たちも同じ境遇なれば、ここで共に暮らすがよい。如何か」
その言葉に、武士たちは訝しんだ。
一番正面に座る武士が口を開く。
「……天照大神…………では帝は────」
すると突然、青洲が立ち上がった。
床の刀を手に取り、素早く抜くと、まさかのことに怯んだ武士に刀を振り下ろす。
後ろに倒れ込んだ武士の首に刀を突き刺し、その呻き声の中、青洲が叫んでいた。
「────あのような紛い者! 真の歴史は我等にある!」
刀を抜きかけた残りの武士を、左手を伸ばしたスズが止める。
その掌からの言葉に出来ない圧力に、四人の武士は動けなかった。
スズの表情は冷ややかなまま。
「……我に平伏せ…………これから新しい戦乱の世がやってくる……尾張の小さな大名が天下を揺るがしていくだろう……貴様たちはどうする? 天下を取りたくはないのか?」
後に戦国時代と呼ばれる戦乱の歴史が、すでにこの頃から動き出していた。
四人はスズに傾倒するしかないまま、二人に従うこととなる。
集落の建物の修繕を始めていく。
やがて年を跨いだ頃、集落には戦によって住まいを奪われた放浪の民が集まってくるようになった。
そして春を迎えた頃には唯独神社を中心とした集落が出来上がる。
畑も耕され、秋には食料だけでなく、四人の武士を中心とした武力までも備えていた。
そしてスズと青洲の間に、女の子が産まれる。
神の血を引く世継ぎとして、盛大な神事が執り行われ、その噂はしだいに周囲に広がっていった。
しかしそんな独立性を伴った集落の存在を、快く思わない者がいた。
しだいに大きくなっていく勢力に脅威を感じたのは、その地、甲斐の国を治める武田信昌。
しかも、そこには〝神の末裔〟がいるという。落武者が守る集落。しかも藩の管轄を離れて独自の信仰を形成しようとしている。
神の末裔は帝だけ────そう信じられていた時代。
武田信昌からすれば、金櫻鈴京の存在は危険なものでしかなかった。
やがて武田信昌は、その集落に五〇名ほどの軍勢を送り込んだ。
☆
本殿をくすぐる風は穏やかだった。
強くもなく、弱くもない。
まるで傍観者のように、漂い、流れるだけ。
祭壇を背に、恵麻が座ったまま視線を軽く落としている。
その斜め後ろには陽麻。
二人の正面。
並んで座るのは、萌江と咲恵。
その後ろには距離を置いて咲と苑清。
おかしな光景だった。昨日までなら間違いなくありえない光景だっただろう。
しかし今、総てがここにあった。
そこは清国会の頂点にして中心、雄滝神社。
国を動かし、歴史を動かしてきた。その清国会を翻弄し続けてきた金櫻家の最後の末裔────萌江を中心に、ここに総てが集まっていた。
咲と苑清からの真実の話は、清国会のトップである恵麻の気持ちを揺らした。そして萌江と咲恵からの総ての顛末が語られる。
それは受け入れられるかどうか、というものではなかった。
なぜなら、真実がそこにあったからだ。
恵麻は耳ではなく、気持ちでその話の総てを聞いていた。
そしてそれは、清国会にとってあまりにも残酷な現実。
外から冬の匂いが漂う。
そんな中で、口を開いたのは咲恵だった。
「────話を聞いた上で、恵麻さんはどうされますか? 清国会のトップとして…………」
冷たい質問なのかもしれない、と咲恵も思った。しかし逃げる気もない。相手は清国会を束ねて国を動かしてきた滝川家。その頂点にいる恵麻に、中途半端な情けをかけるほうが失礼にも感じた。
恵麻はすぐには応えない。
しばらく身動きもせずに床に視線を落としたまま。
やっと聞こえた声は、それまで聞いたこともないような弱々しさ。
「……話の真意は理解致しました。私にも皆様同様に見えるものがあります……我等が清国会として皆様と意見を違えるのは簡単なこと…………しかしながら、これ以上はお互いに望まない争いとなりましょう…………」
──……終わったのね…………
そう思った咲恵が返す。
「…………ご理解頂けて……」
「おかしなものですね……こうして向かい合うことになろうとは…………やっとここまで辿り着きましたか…………」
恵麻はまるで遮るようにそう言うと、少しだけ目線を上げて続けた。
「黒井様…………黒井様が信じておられるのは……何ですか?」
恵麻の予想外なその投げ掛け。
恵麻の中にも〝穢れ〟はあった。しかしそれは本人でも気が付かないままの、形を伴わないものでしかなかったのだろう。今、恵麻は必死にそこに手を伸ばしていた。
咲恵は思う。
──……今まで……どれだけこの人の存在を捕まえようとしたんだろう…………
──……常にアンテナを張ってた…………ピリピリとした感情…………
──…………でも…………もう違う…………
──……この人は……私たちの〝覚悟〟を知りたいんだ…………
「私は……〝私自身〟を信じます。金櫻萌江を信じる自分を信じます。血筋ではありません。人生を共にする仲間がいます……私はそれを信じたい…………」
咲恵はそう応えながら、無意識に凛とした目を恵麻に向けていた。
──……だから私は……今…………ここにいる…………
「そうですか…………その上で、皆様が我等にお求めになるのは────」
その恵麻の問いかけを、萌江が素早く遮った。
「清国会を貰い受けたい」
一瞬、空気が張り詰める。
外の音も消えた。
「────って、言ったら?」
その萌江の言葉に、恵麻はすぐに。
「解体は望まぬと?」
「清国会はすでにこの国を動かしてる。解体したら国そのものが傾くよ。元々あなたが望んでいたのは私が頂点に立つことではないはず……自分が国を動かしたかっただけ…………そうなんでしょ? だからそのためだけに金櫻家の血筋を求めてきた……〝神〟という存在を作るためにね。そして私を手に入れるために母を利用しようとした……そして御世に阻まれた。そして聞かされた真実は信仰の根底を覆すもの…………結局スズって何者だったのかな……本当に特殊な能力を持っていたんだとしたら、いくらでも血筋の捏造は出来るのに…………スズはそれをしなかった。そしてあなたも、なぜかそれをせずに素直に私たちの前にいる…………どうして?」
恵麻は身動きもせずに、何も応えない。
咲恵とは真逆。
萌江は恵麻を追い詰めた。
その恵麻の後ろから、陽麻が唾を飲み込む音。
そして、やっと恵麻。
「……私の気持ちに〝穢れ〟があったとすれば話は簡単でしょう。しかし、現実的に我々は犠牲を生み出した……しかも命の犠牲です……これでは恨まれて当然のこと。それは簡単には消せないはず。それでも清国会を取り込むと?」
萌江は即答した。
「どうやら私はスズの血を引き継いでいるらしいけど……長い歴史の中で、そのスズのために失われた命って……何人だったんだろうね…………」
「人数の問題では────」
「──西沙と…………」
その遮る萌江の言葉に恵麻が息を飲み、萌江がそれを確認するかのように続ける。
「……杏奈ちゃんに、直接聞いてみる?」
「それは…………」
さすがの恵麻も言い淀んだ。
事実として、西沙も杏奈も清国会との争いの中でそれぞれ大事な存在を失っている。そういう深い念が簡単に消えないことは恵麻も理解していること。だからこそ清国会はその〝念〟を求めてきた。
「二人とも確かに恨みはあるよ。特に清国会のトップである、あなたにね…………でも同じように別の人がトップだったら……その人を恨むだけ…………あの二人が恨んでるのは恵麻じゃない…………清国会を今の形にした…………〝私の血〟だよ…………」
──……これは……私が受け入れること…………
すると、萌江の視線の先で、恵麻の頭がゆっくりと落ちていく。
そして、萌江の低い声が続いた。
「……出てきな…………スズ…………」
その萌江の声に、瞬時に周囲が暗くなる。
まるで陽が落ちたかのよう。
完全に項垂れたような恵麻の体から、黒い霧のようなものが立ち登り始めた。
それはしだいに恵麻の頭上で塊となっていく。
やがて闇よりも深い〝影〟へ。
「……やはりお前か…………久しぶりだね…………スズ…………」
そう言った萌江の口角が上がる。
その〝影〟は、萌江と咲恵が京子の記憶で見てきた〝異形の存在〟そのもの。
金櫻家を苦しめ続けた〝異形〟────それがやっと目の前にいる。
そして萌江の言葉に応える厚い声が、重くなった空気を震わす。
『……魔性の子よ……よく聞くがよい…………我の血を継いでいるのは貴様のみ…………滝川も御陵院も一度その血は途絶えておる…………これが真実だ…………』
すでに誰も臆してはいなかった。
萌江と咲恵の後ろにいた咲と苑清も、黙って鋭い目を〝影〟に向け続ける。
二人には恐怖と共に、不思議な安心感があった。目の前の〝異形の者〟に対峙しているのは、今まで自分たちが〝神の末裔〟と信じてきた萌江。その歴史が例え嘘であったとしても〝神〟がそこにいるとしか思えなかった。
そして応えるのは萌江。
「その血を途絶えさせたのはお前か……そして最後に母と私を殺そうとした。お前は母によって水晶に閉じ込められたわけじゃない…………結果的に金櫻家を苦しめることになったお前は……常に水晶と共にいた…………最初から水晶の中にいた。なぜだ。なぜお前は自分の血を終わらせようとする…………」
萌江は首に下がる〝火の玉〟を左手で握った。
そこに〝異形〟の声。
『……京子はどこだ……京子は貴様の中に閉じ込めたはずだ…………』
すると、萌江の隣の咲恵が口を開く。
「見えないでしょ? ここ……私の中…………」
『……馬鹿な……魔性の中にいるはずだ…………二人は一体のはず……』
「あなたへの…………京子さんの抵抗……」
その咲恵の言葉を、萌江が繋ぐ。
「お母さんはね……あなたの監視を逃れて私を守るために、咲恵の中にいたの」
周囲の暗さが増した。
空気まで小刻みに振動を始める。
『────あの小娘が! 我を邪魔するのか!』
〝影〟が膨れ上がった。
途端にその姿は大きな人の物へ。
萌江と咲恵の目の前に立ち塞がる。
二人は動かない。表情も変えないまま。
そして〝影〟の中に恐ろしい形相の顔が浮かんだ。
しかし直後、動きが止まる。
〝影〟の背後にいたのは、恵麻。
片膝を立てた恵麻が、右手を〝影〟の背中へ。
「……二度も三度も死にたいのか…………スズ…………」
『馬鹿な……京子は私が魔性の中に閉じ込めたはずだ…………だから私が魔性の子を生かしたというのに…………』
萌江が静かに応えた。
「笑わせないでよ。母が守ったから私はここにいる…………母は私の中に押し込められることで、私を守った。だからあなたは私を殺せなかった…………そして今は咲恵の中にいる……私を守るため…………母親が子供を守る……愛情があれば当たり前のことでしょ? あなたは? あなただって母親だったんじゃないの? あなたにとって子供の存在って何だったの?」
『…………終わらせねばならんのだ…………我が力を継承するな…………』
「それが青洲さんの願いか……苦しかったのね……………………咲恵、遡って」
その萌江の声に、咲恵が首に下がる水晶を右手で握る。
☆
集落が〝火〟に包まれていた。
周囲の山ごと燃えていた。
武田信昌の軍勢によって、集落の人間たちが次々と殺されていく。
暗闇に響く悲鳴と怒号を、軍勢が取り囲んでいた
響き渡るのは馬の鳴き声と蹄の音。
唯独神社の周囲を囲む森も燃え続け、やがて社までも煙で包まれ始める。
しだいに炎の作り出す風の畝りが強くなっていた。
外の様子を伺い続ける青洲とは違い、スズは涼しい表情で本殿の中心に座っていた。
そして、声を上げた。
「青洲……ここを捨てる時だ」
青洲は振り返って声を張り上げる。
「民はどうするのだ⁉︎ ここまで共に生きてきたのだぞ!」
それに応えるスズの言葉は冷徹だった。
「……生き永らえるのは我等のみ」
「そんな…………」
「何を恐れる。総ては我等の血のため」
しかし、それでも青洲は声を上げ続ける。
「ならん! 御主なら民を救えるはずだ!」
「救う理由は無い……武田の軍勢も焼き払う…………」
周囲からは木が焼かれて割れる音。急激な温度変化で乾燥し、社の木材が亀裂を生んでいた。
炎の熱がしだいに二人を取り囲んでいく。
青洲が途端に声を落として返した。
「……よもや……この〝火〟も御主が放ったものなのか…………」
「無事に世継ぎを産めた。すでにこの地に用は無い」
「…………スズ…………」
──……〝魔性の者〟か…………
青洲がそう思った時、更なるスズの言葉が、青洲の中の何かを壊す。
「〝鈴京様〟と呼べ────」
──……違う…………どうして…………
「────御主を…………御主を〝神〟にしたくて救った訳ではないぞ‼︎」
叫んだ青洲は無意識にスズに滲み寄っていた。
いつの間にか、その目が潤む。
スズは横に置いていた刀を手にすると、鞘から抜いた。
その乾いた音と共に青洲の耳に届くのは、スズの冷たいだけではない声。
「……やはり我を裏切るか…………」
スズが青洲の体に刀を突き刺していた。
薄らと見えていた。しかしスズはその未来を信じたくなかった。信じたくないまま、ここまで来た。違う未来を掴めると、僅かな糸に縋った。
しかし、スズはその糸を見失う。
そして、同時に、青洲の手にも刀。
その刃はスズの胸を貫いていた。
弱まる力の中で、青洲が声を絞り出す。
「……最初から…………こうしておけば良かったのか…………」
──…………どこで間違った………………
震える体の中で、スズの胸に懐かしい感覚が蘇っていた。
──……こうするしか…………生きられなかった………………
スズの頬を、何かが零れていく。
やがて、痛みの苦しさは力を奪い、感覚をも弱めていく。
その痛みが消えた。もはや感覚すら無い。
そして、二人は折り重なる。
社が炎の力で崩れ掛けた時、近くの川から突如として〝水〟が溢れた。
その大量の水は集落の火を押し消しながら、しだいに広がっていく。
燃え盛ろうとする炎と鬩ぎ合った。
やがて、土に染み込み、木に染み込んだ水が炎の熱を弱め、集落が静かになったのは明け方。
あちこちに煙が漂う中、水の引いた土地に死体が並ぶ。
辛うじて生き残った武田の軍勢が数名。
〝神〟と言われた金櫻鈴京────スズを探していた。しかし神社の焼け跡にも見付からないまま時間だけが過ぎていく。
焼け焦げた匂いの充満する神社の跡。
その焼け跡で、武士の一人が泣き叫ぶ赤子を見付ける。
武士はすぐに抱き上げ、思わず呟いていた。
「……赤子に罪はあるまい」
その赤子は、しばらくの間、泣き続けていた。
そして、その赤子の下には、小さな二つの水晶────。
☆
「最初の唯独神社を焼いた炎は〝火の玉〟に…………その炎を消した水は〝水の玉〟に…………こっから先は……蛇足かしらね…………」
そう声を落とした咲恵が続ける。
「結果的に場所を変えて唯独神社は受け継がれた…………そこにスズさんの意思が介在していたことは明らか…………でもどうして? それならいつでも血筋を絶つことは出来たはず……」
目の前の〝影〟────スズは応えない。
それを、萌江が拾う。
「二人で水晶に閉じ込められていたから? それだけじゃない。青洲さんと鬩ぎ合っていた…………〝火の玉〟のスズと……〝水の玉〟の青洲さんが……青洲さんはあなたを救おうとしただけ…………でも後悔があったのは……スズも同じなんだよね…………」
さらに咲恵が繋ぐ。
「火は上に登るもの……水は下に落ちるもの…………歴史という流れの中には光と闇がある…………何が正しかったのかなんて誰にも分からない…………もしかしたら、私たちも一〇〇年後には悪者かもしれない」
大きな人の形になっていた〝影〟が、少しずつ小さくなっていく。
やがてそれは、二つの人の形へ。
そして、もう深い〝闇〟ではなかった。
いつの間にか、白く周囲を照らしていた。
その人の形は、青洲とスズの二人のものへ。
その光を浴びながら、柔らかい表情を浮かべた萌江が口を開いた。
「……青洲さんに出会った時のこと……忘れないで…………それだけでいいから…………」
スズが顔を上げる。
萌江が続けた。
「……もう……終わりでいいんだよね…………私は……まだ生きていくよ…………ごめんね」
スズは、小さく頷く。
その顔に浮かぶものは笑顔のようにも見えたが、萌江と咲恵には計りかねた。
そして、二人が手を繋ぎ、その姿が霧が晴れるように消える。
本殿の中を静けさが包んだ。
もはや外の音も聞こえない。
僅かに暖かい風が渡った直後、衣擦れの音。
意識を失った恵麻の体が傾く。
一瞬緊張が走るが、その体を支えたのは、突然現れた西沙だった。
「────間に合った」
西沙は目を開け掛けた恵麻に笑顔を向けて続ける。
「ごめんね。立坂さんと雫さんを迎えに行ってたら遅くなっちゃった」
その光景に、萌江も咲恵も小さく息を吐いた。
恵麻は西沙に抱かれながら呟く。
「……西沙…………」
「これからは仲良く出来そうだね」
その西沙の言葉に、返すのは咲恵の明るい声。
「あら、西沙ちゃんが仲良くだなんて珍しい」
すると、返す西沙の声も幾分明るい。
「失礼ねえ、これでも恵麻とは同じ日に産まれたんだよ。双子みたいなものなんだから。ね? 陽麻」
突然話を振られた陽麻は戸惑った表情を見せるだけ。
「え……ええ……まあ…………」
そこに萌江が挟まる。
「いきなり現れて姉妹って言われても……妹さんも戸惑ってるじゃん」
その背後からは咲の溜息。
しかし、次の咲恵の声が全員の気持ちを高揚させた。
「……だったら…………〝仲間〟で…………」
まるで後光のように、咲恵の背後から陽の光が差し込む。
そして恵麻の顔に、笑みが浮かんでいた。
☆
『娘の西沙が迎えに行きます』
その咲の指示を電話で受けたのは総合統括事務次官の西浦だった。
──……西沙……?
西浦も何か嫌な予感のようなものは感じていた。自分たちの分からないところで何か今までとは違う動きがあったのは事実のようだ。
そう思うしかない今回の咲の指示。何も無いと考えるほうが不自然だった。
──……やはり何か動きがあったか…………
咲の指示は〝立坂と雫の釈放〟。
しかも西沙が迎えに来るという。
──…………清国会の根幹が崩れてる…………
しかしその説明は無い。言い知れぬ不安が西浦を包んでいた。
やがて二人を迎えに来たのは、西沙と杏奈、そして満田の三人。
──……何が起きた…………
西浦は三人の姿を見ながら、そう思っていた。
やがて満田が立坂と雫を乗せて御陵院神社の楓の元へ。西沙は杏奈の車で雄滝神社へ向かう。
そして事が終わると、咲と西沙は杏奈の運転で御陵院神社の涼沙の元へ。
その御陵院神社はすでに、うっすらと夕刻の始まり。
開け放たれた板戸をくすぐるように、本殿の中に緩やかな風が舞い込んでいた。
そこには三人だけ。
「綾芽のことは……忘れないであげて…………」
そう言ったのは涼沙だった。
側には咲と西沙。久しぶりに西沙を交えて家族が集まっていた。
「まあ……御世の忘れ形見みたいなものだしね…………しかも最後は助けられた……」
そう返す西沙の表情には、やはりまだ陰りはあった。あんな形で綾芽と再開し、少し前までは想像もしなかった結果となった。西沙も気持ちの整理が完全に出来ているわけではない。
そしてそれは咲も同じ。
三〇年近くに渡って実の我が子同然に共に生きてきた。
しかしその存在は、御世の作り出した幻だった。
「……元はと言えば……私も養子であることを隠していました…………」
咲は冷たくなった本殿の床に視線を落とす。そこは前日まで血溜まりが出来ていた場所。しかし今はその痕跡すら見当たらない。総ては西沙の作り出した幻。
殺されたと思い込んでいた涼沙は、今、目の前で生きている。
咲はそのことを西沙に感謝した。
──…………さすがです…………西沙………………
その西沙が声を落として咲に返していく。
「御世がそうさせてたのかもよ。私と涼沙に信じ込ませるためにさ…………それに、綾芽はやっぱり長女だったよ。今までの記憶まで御世は持っていかなかった……忘れたほうが楽なのは御世が一番知ってるくせに……でもそのほうが、私は嬉しいかな……でしょ? 姉さん」
西沙が涼沙に顔を向けると、僅かに潤んだ目で涼沙が応えた。
「……いいこと言うようになって…………西沙も大人になったね」
「姉さんたちに鍛えられたからねえ」
「口の悪さは変わってないけどな」
「何よ偉そうに」
そこに咲が挟まる。
「……まったく……やめなさい二人とも」
しかし咲はその顔に僅かに笑みを浮かべたまま。
以前までとは何かが違う関係性に、自然と気持ちが綻んだまま続ける。
それでも現実は目の前。
「それより大事なのはこれからのことです。この国を本当の意味で正しい方向に導くために、清国会を立て直す必要があります」
それに、西沙が目を鋭くさせて返した。
「内閣府はどうするの?」
「内閣府そのものは良しとしても総合統括事務次官は解体すべきでしょう……裏七福神など……この国にはもう必要ありません」
そう言う咲の目に、西沙は覚悟を感じていた。国のためと思って組織したものを自らの手でこれから解体しなければならない。しかも内閣府の一部門だけとは言っても簡単なことではないだろう。清国会そのものを解体出来ない現実を改めて感じた。
「そっか……じゃあ、蛇の会も解散だね…………」
そう返しながら、やはり西沙の中にも寂しさは残る。立坂と二人で立ち上げ、やがて大きくなった蛇の会。西沙は常にその中心にいた。総てを見てきた。
──……私は清国会をどうするつもりだったんだろう…………
──…………萌江と咲恵がいなかったら、もしかしたら…………
西沙の表情に何かを感じたのか、咲が言葉を向ける。
「負けましたよ西沙……あなたが正しかった…………」
しかし西沙は表情を変えないまま。
「勝ち負けじゃないよ、お母さん…………歴史の流れの一部だっただけ…………未来の総てを見通せるわけじゃない。萌江の言ってた未来の可能性を掴むって、そういうことなんだよね。あるのは結果だけ。それには逆らえない」
すると、明るい声で返したのは涼沙だった。
「やっぱり大人になったね」
「うるさいわね」
反射的に返した西沙に笑顔が浮かぶ。
そして、咲が真剣な声を西沙に向けた。
「……あなたが必要です……西沙…………滝川家は清国会の未来を我々に託しました。もちろん協力体制は変わりませんが、これからはあなたの力が必要です。戻ってきませんか?」
それを涼沙が拾う。
「事実だね……悔しいけどさ」
それでもその目は優しいもの。
西沙は本殿の外に目をやった。
そしてゆっくりと応える。
「そうだなあ…………でも、私に惚れ込んだ女が一人いるからさ…………もう少し唯独神社にいるよ」
その視線の先には、本殿に上がる階段に腰掛けた杏奈の背中。
杏奈は清々しい表情で、薄くオレンジ色になり始めた青空を仰いでいた。
☆
陽が落ち始めていた。
この時期は夜の訪れが早い。
しかし萌江はこの静かな時間が好きだった。
少しずつ空の色が変わり始め、やがてオレンジ色へ。真っ赤な時もある。同じ色は一日として存在しない。気温や湿度、様々な条件でいつも空の表情は変化してきた。それを一番感じられる時間。その時間を萌江は大事にしたかった。
昔、人々は夜を恐れた。
そのため、空が暗くなり始める時を〝大禍時〟と呼んで嫌った。夜の闇は〝魔〟の時。〝闇〟に紛れるものの時間。そう考えられてきた。
神社の鳥居は文字通り〝鳥の居る所〟。朝の鳥の鳴き声を求めた。陽が登ると〝魔の時間〟は終わりを告げる。
しかし歴史の流れの中で、夜は闇ではなくなった。
いつの間にか、この時間も、夜も、時代と共に意味を変えていく。萌江はそれでいいと思っていた。それが時間の流れ。結果でしかないからだ。
結果とは、受け入れるためにある。
萌江はコーヒーメーカーからポットを外した。二つのマグカップに少な目にコーヒーを注ぐと、それを持って縁側に向かう。
そこには咲恵の背中。
電話をしている咲恵の声が聞こえた。
「ええ、色々とすいませんでした。立坂さんにも迷惑かけて……総て解決しましたから……ええ、これから忙しくなると思いますけど少し休んでください。次に集まった時にはよろしくお願いします。では────」
通話を切った咲恵の横に、コーヒーの香り。咲恵が笑顔でマグカップを受け取ると、横に萌江が座った。
その萌江の声には、明るくも疲れが見て取れる。
「立坂さん大丈夫だって? まあ手荒なことはしてないだろうけどさ」
「それは大丈夫。でも大きな仕事の途中で拘束されたから仕事が溜まってて大変みたいよ」
「そりゃ大変だ。でも雫さんも楓ちゃんも無事だったし……二人には今回も助けられたね…………」
「そうだね……後で電話しておく。今は家族二人で休ませてあげなくちゃ」
「…………うん……」
萌江にも咲恵にも、もちろん安堵感はあった。
大きな懸案が解決したことは事実。それでもそれが望んだ結果なのかどうかは、正直二人にはまだ分からない。
しかし、萌江は濁すのを嫌った。
「色々な意味で、犠牲はあったね……結果は覆せない。それはこれからも消えることはないよ……受け入れたくないこともあるけどさ…………でも……だからこそ私は未来の可能性に賭けてきた」
その萌江の真剣な横顔に、咲恵も改めて萌江の〝強さ〟を感じた。
「……そうだね……でもだからこそ…………望む未来のために今を大事にしなきゃ…………」
「そんな咲恵の〝強さ〟がやっぱり好きだな」
萌江はコーヒーを口に運ぶ。空気の冷たさのせいか、その暖かさは瞬く間に全身を巡った。
そんな萌江に、咲恵の声が響く。
「……そんな萌江の〝弱さ〟が…………私は放っておけないんだ…………」
咲恵はそう言うと、冷たい縁側の板の上で、萌江の手を握った。
萌江はその手を握り返しながら返していく。
「放っておかないでよ…………」
「うん…………これから忙しくなるしね…………まさか国の中枢を建て直すなんて…………」
「そっちは清国会の仕事だよ。もう大丈夫……咲さんが中心ならね。滝川家だって協力してくれる。もうみんな〝仲間〟だしさ」
「新しい仲間が増えたら……水晶が軽くなった気がするよ…………」
咲恵はそう言いながら、首に下がる水晶を胸元から取り出した。そして柔らかい表情で見つめると、隣の萌江もその水晶────〝水の玉〟に目をやりながら返す。
「そうだね……キラキラしてた粒々も消えたし…………」
「ちょっと寂しい気もするけど……」
「そう? でも…………咲恵ももう気が付いてるでしょ?」
──……やっぱりか……やっぱり…………
咲恵がそう思った時、萌江の言葉が続く。
「今さら咲恵に誤魔化しが効かないことは分かってるよ……だから話しておかなくちゃ…………色々と、これから〝見える〟んだろうね」
「それって、スズさんの…………〝置き土産〟なの?」
「多分ね」
明確にいつからなのかは分からない。
しかし、萌江に〝変化〟が現れていたのは事実。
二人以外に気が付いていたのは西沙だけ。
しかし今までこの話をしたことは、まだない。
「……それに……どんな意味が────」
そう言いながら咲恵が顔を向けた時には、その体は萌江に倒されて縁側の板の上。
咲恵の顔を見下ろし続ける萌江に対して、咲恵自身は僅かに視線を外す。それでもすでに、唇には萌江の唇が軽く触れていた。
咲恵が、小さく。
「背中……冷たい……」
「…………暖めてあげるよ…………久しぶりに…………」
萌江は再び、そのまま咲恵に唇を重ねた。
受け入れながらも、咲恵の言葉は逆。
「……ここで?」
「萌江様が我慢が出来ぬと申しておる」
「バカ」
こんな時に咲恵が見せる子供のような笑顔が、萌江は昔から好きだった。
しかし、二人の耳に聞こえる車の音。
それは聞き慣れたRV車のエンジン音。
二人の頭に西沙と杏奈の顔が浮かび、同時に小さく溜息。
そして咲恵。
「あら」
「あいつら……」
萌江が言葉を漏らした時、聞こえたのは、もう一人の声。
「ちょっと!」
そんな西沙の声が空気を変えるように続いた。
「明るい内から何してんのよ!」
「夕方なんだからいいじゃん! 時間なんて関係あるか!」
萌江が瞬時にテンションを西沙に合わせる。
「見てるこっちが恥ずかしいのよ」
西沙はそう言いながら縁側に足をかけた。
「見ろとは言ってない…………ってコラ────」
そう応える萌江の横で西沙はリビングへ。
「とりあえず日本酒ね」
西沙のその声がリビングへと吸い込まれると、今度は杏奈の声。
「私はビールで。萌江さんもビールですよね。咲恵さんはやっぱりワインですか?」
杏奈は西沙を追いかけてリビングからキッチンへ。
すると、萌江の下から咲恵の声。
「あらあら……まだ空は明るいのに……」
そう言って笑顔になる咲恵の上で、萌江が軽く空を見上げながら呟く。
「〝仲間〟のやることだ……許してやるか」
そして、笑みが浮かぶ。
こんな時に萌江が見せる子供のような笑顔が、咲恵は昔から大好きだった。
その首に下がる〝火の玉〟が、夕陽を映す。
そこに、光の粒は、もうなかった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二三部「消える命」(完全版)終 〜