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第二三部「消える命」第4話(完全版)

 風があるのか無いのか、それすら誰も意識出来ずにいた。

 不思議な空気が参道から本殿に流れ込む。

「…………どうして……」

 小さなさきの呟き。

 しかし同じことを、御世みよも思っていた。

 萌江もえは笑みを浮かべ、西沙せいさは目を見開く。

 西沙せいさのその目は、驚きのみならず、僅かにうるんだ。

 いまだゆっくりと落ちてくる粉雪をまるでき分けるように、参道を真っ直ぐに。

 いつものたけの短目のコート。

 お洒落しゃれよりも機能性重視のデニムパンツ。

 歩きやすさだけで選んだ底が厚めのショートブーツ。

 決して長くはない髪を後ろで小さく一つにまとめる。


「…………杏奈あんな…………」


 西沙せいさが無意識に呟いていた。

 それは見間違えるはずのない、杏奈あんなの姿。

 しかも今までに見たこともないような、堂々としたものに見えた。今までは常に誰かの影にいた。決して正面に出過ぎることはなかった。

 それは本人もそれを良しとしてきたこと。

 誰に強制されたわけではない。自分でそれを望んだ。それが自分の役目だと思っていた。


 ──……私には何の能力もない…………


 杏奈あんなは参道を歩き続けた。

 周りの従者じゅうしゃたちが、なぜか道を開ける。

 誰もかたなを抜ける者はいない。

 それは言葉で説明の出来るものではなかった。圧力のようなものとも違う。

 〝幻〟の中で生きている者には、決して理解など出来ない〝力〟。

 杏奈あんなの気持ちが、周囲を黙らせる。


 ──……私には何の能力もない…………


 ──……………………それがどうした………………


 杏奈あんなは本殿の前まで来ると、階段に足をかけて口を開いた。

「私の母をき付けたのは、さきさんですよね。綾芽あやめさんを使って母を操った…………つまりは、御世みよさんの計画。私たちをバラバラにするために…………」

 ゆっくりと階段を登り始める。

「でも私の母をめないでください。母は、お父さんのことも……私のことも信じてる…………どんなに離れててもね。久しぶりに会っておきながら…………大事な人のそばにいなさいって…………凄い母親を持ちましたよ」

 杏奈あんなの声に、西沙せいさは視線を落としていた。

 まるで表情を隠すように。それでも震える手は隠せない。

 さらに杏奈あんなが続けた。

しずくさんが唯独ただひと神社に置き手紙を残してくれてました。おかげでこの場所に来ることが出来ましたよ。さすがは時を超える能力者」

 杏奈あんなは階段を登り切ると、西沙せいさの隣で足を止める。

 西沙せいさの視界に入った杏奈あんなのブーツは、西沙せいさの黒いパンプスよりも大きく見えた。

 西沙せいさの中の何かがうずく。

 そして杏奈あんなは、さきへ、自信に満ちた目を向けて口を開く。

「ごめんなさいさきさん────娘さんを頂きにきました。もう離れるつもりはありません」

 その言葉に、西沙せいさは顔を下げたまま、震えた声で呟いた。

「……あんたもそっち?」

 杏奈あんなは視線はそのままで、小さく西沙せいさささやく。

「総てが終わるまで……あなたの力で母を守って欲しいの…………西沙せいさ…………」

「一生かけて守ってやるよ」

 即答だった。

 迷いのない声。

 その西沙せいさの言葉に、杏奈あんなの顔に笑みが浮かぶ。

 そして再び声を張り上げた。

「色々と面倒臭くて私みたいな普通の人間には訳が分からないことばっかりだけど……私はサポート役。みんなが主人公じゃ、物語はつまらないでしょ」


 その頃、蛭子ひるこ神社の駐車場には満田みつたの車があった。

 満田みつた蛭子ひるこ神社に萌江もえ西沙せいさを送った後、萌江もえの指示で唯独ただひと神社に一度戻っていた。距離を考えると時間的に厳しいことは予想出来たが、しずくの置き手紙を見た途端にその意味を理解する。


  『 杏奈あんなさんを蛭子ひるこ神社に連れて行ってあげてください

             彼女は必要な存在です

                   今、彼女は苦しんでいます 』


 それもまた、御世みよまどわすため。

 満田みつたは街で杏奈あんなを拾い、車のアクセルを踏み続けた。杏奈あんなの車では出せないスピードだっただろう。そして杏奈あんな蛭子ひるこ神社の駐車場から参道を走った。

 開いた運転席の窓から立ち昇る煙草たばこの煙が、空気に舞う雪を溶かしていく。

「こんな役回りの奴もいないとな」

 満田みつたは溜息をいていた。


 そして今、その蛭子ひるこ神社の本殿に緊張が走っていた。

 空気が止まる。


 倒れていた、咲恵さきえの体が動く────。

 ゆっくりと上半身を起こしていた。


 驚いた表情を浮かべたのは萌江もえだけではない。目の前のさきも反射的に上半身を起こして驚愕きょうがくする。

 しかもその首筋には、姿を隠していたはずの〝水の玉〟が光っていた。

 咲恵さきえは目を閉じたまま。

 細く溜息をいた。

 そして小さく口を開く。

「……まったく…………困った人たちね…………」

 しかしその声は咲恵さきえのものではない。


 〝京子きょうこ〟の声────。


 萌江もえにとっては母親である、京子きょうこの声が続く。

「……水は下に落ちる物……火は上に登る物……その意味を感じて……萌江もえ……」

 目を開いた咲恵さきえは、萌江もえを見上げて続けた。

「あなたにも大事な人がいるでしょ……そしてあなたにはまだやることがあるはず……行きなさい…………総て終わらせて」


 ──…………お母さん………………


 目が閉じられた、かと思うと、咲恵さきえの体がかたむく。

 その体を、反射的に萌江もえが支えていた。

 咲恵さきえは再び意識を失う。

「……私も…………あなたをもう離さない…………誰も犠牲になんかしない…………」

 その萌江もえの言葉を、視線を落としたさきが噛み締めていた。


 板の上で、金属が立てる音。

 その甲高い音が、御世みよの動きに重なった。

 綾芽あやめが床に落とした短刀。

 いつの間にかそれを手にした御世みよが、姿勢を落としてさきに向けて床をる。

 空気が張り詰めたその瞬間、さきの頭の中に声が響いた。


  『 ────西沙せいさを……信じてください──── 』


 ──…………涼沙りょうさ……⁉︎


 しかし直後、御世みよの手を西沙せいさが掴んでいた。

 西沙せいさは体全体を使うように御世みよの足を止める。

 緊張感の中、呆然とする御世みよの横で、西沙せいさが口を開いていた。

「誰も犠牲にしないって言ったでしょ」

 西沙せいさ御世みよから短刀を取り上げると、それを後ろへ。そして杏奈あんなが素早く受け取る。

 御世みよは膝を落として床を見つめた。

 そこに降りかかる西沙せいさの声。

御世みよ……あなたはまだ気が付いてないの? あなたは綾芽あやめとして涼沙りょうさを殺した……でも…………それが私の作り出した〝幻惑げんわく〟だとしたら?」

「────馬鹿な……!」

 御世みよは反射的に返していた。


 ──……それじゃあ…………最初から綾芽あやめは…………


 西沙せいさが続ける。

「あの力はあなただけのものじゃない。昨日の内に御陵院ごりょういん神社に……かえでちゃんが連れて行かれたでしょ…………」


 ──……………まどわされていたのは……私だったのか…………


「お母さんと綾芽あやめがもうここに来てる時間にね。今…………誰と一緒にいるのかな…………」

「…………そんな……それじゃあ……私の邪魔じゃまをしていたのは…………」

 呟いた御世みよが体を震わす。

 そして西沙せいさの声。

「……綾芽あやめ…………姉さんは……あなたのあやつり人形でいることをこばんだ…………」

 そして、本殿の空気をめる声。


『 ……西沙せいさ……もう終わらせて…… 』


 それは間違いなく、涼沙りょうさの声。

 西沙せいさは口元に笑みを浮かべながら返した。

「まったく……えらそうに言わないでよ」

 その西沙せいさは膝を落とすと、御世みよの肩に手を置いて続ける。

「……御世みよ……もう休んで…………清国会しんこくかいは私たちが変えてみせる……これだけは信じて」

 その言葉を、咲恵さきえを抱いたままの萌江もえが拾った。

「あなたは、あの島で幸せになってよ」

 さらに西沙せいさ

「今まで……私たちをここまで連れてきてくれて感謝してる…………ありがとう、御世みよ……」

 すると、ゆっくりと御世みよの体が薄れ始めた。

 西沙せいさを見上げる。

 やがて西沙せいさに向けられたその笑顔は、ゆっくりと消えた。

 薄れていくのは、きりのような、無数の光のつぶ

 西沙せいさが無意識に視線を落としていた。

 御世みよ依代よりしろとしての過去が頭の中を巡る。思えば、ずっと御世みよと一緒にいたような気もしていた。


 ──……ずっと……一緒だったんだろうな…………


 当たり前に自分の中に存在していたものが、突然消える。

 受け入れられるかどうかではなく、それが事実。

 何かが心の中に穴を開けるというより、もう一人の自分が消えたような感覚だった。

「……ホントに行っちゃったみたい…………私の中から……いなくなっちゃった…………」

 そう言う西沙せいさを、背後から杏奈あんなが両腕で包んだ。

「これからは……私がいるでしょ」

 その杏奈あんなの声に、思わず西沙せいさは笑みを浮かべてから応える。

「……仕方ない……我慢がまんしてやるか」

 西沙せいさは顔を上げた。

 さきに向くと、真剣な眼差しを向けていた。

「お母さん……行くよ」

 さきはその西沙せいさに目で返すかのように、大きくうなずいた。

 もはや今の自分がどう感じているかどうかではない。目の前の事実が総て。

 大きく、自分という存在が崩れてしまったかのような、そんな感覚がさきを襲う。体の中に入り込む不可思議な感覚。寒気さむけとも違う。鳥肌が立つ感覚とも違う。

 それでも、何かが、大きく自分の中で変わっていった。

 そしてさきは立ち上がり、姿勢を正すと、その目を苑清えんせいに向けて口を開く。

「…………終わらせましょう…………」

 いつの間にか、さき巫女みこ服を染めていた鮮血せんけつも消えていた。

 その姿に、苑清えんせいも真剣な表情を返していた。

 そしてうなずく。

 そして天井を見上げた西沙せいさの声。

「────涼沙りょうさ、聞こえたでしょ? あんたも行くよ。まだ警察庁に二人いるんだから」

 すると涼沙りょうさの声が天井から降り注ぐ。

『命令しないでよ』

 いつの間にか、外の雪が止んでいた。



      ☆



 二人は御陵院ごりょういん神社にいた。

 祭壇前で並んで座ったまま、二人同時にやっと両手を下ろす。

 そして小さく息を吐いた。

「……ありがとね、かえでちゃん……私だけじゃ難しかったよ」

 涼沙りょうさはそう言うと、隣のかえでに笑顔を向けた。

 すると、かえでから向けられた言葉は思ってもみないものだった。

「……お姉ちゃんに…………また会いたい?」

 その言葉に、涼沙りょうさは言葉を詰まらせながらも返した。

「…………んー……どうかな…………」

 ずっと姉だと思って生きてきた。

 それを疑う理由はどこにもなかった。

 共に母であるさきを支え、清国会しんこくかいのために邁進まいしんしてきた。にも関わらず、今回の一件で、一瞬でその感情がくつがえされた。その西沙せいさの能力も去ることながら、やはり涼沙りょうさにとっても〝真実〟は残酷ざんこくすぎた。


 ──……私は……どこかで西沙せいさを信じていたのかもしれない…………


 ──…………あんなに恐れてきたはずなのに…………


「いつでも会えるよ」

 かえでの言葉に、涼沙りょうさに何かが込み上げる。

 その言葉が続いた。

「私ならいつでも協力するから……でもこれで、お母さんにはまた会えるね」

 かえでが満面の笑みを浮かべ、涼沙りょうさは祭壇に視線を戻して返す。

「……うん…………西沙せいさにもね…………」

 涼沙りょうさは、ほおつたう涙をぬぐおうともしなかった。



      ☆



 雄滝おだき神社。

 そこは清国会しんこくかいの中心にして頂点。

 長い歴史の中で、雄滝おだき神社の滝川たきがわ家はこの国を動かしてきた。

 そのトップに立つことの難しさは、もちろん現代表の恵麻えま自身も感じていたこと。総てが思い通りになどいくはずもなく、国の中枢ちゅうすうにいながらいまだに金櫻かなざくら家を手中しゅちゅうに納めてはいない。その抵抗に翻弄ほんろうされ続け、やがては内側にも敵を作ることになった。

 御世みよの存在はやはり大きかった。

 直接対峙(たいじ)すれば、勝てる補償のない相手。

 恵麻えま御世みよを恐れていた。

 生と死を超越ちょうえつした存在。

 いつの間にか、本当の敵が誰なのか分からなくなっていた。

 もはやこの国から清国会しんこくかいを取り除くことは出来ないはずと恵麻えまは考えていたが、それでも金櫻かなざくら家はそれを受け入れようとはしない。

 そして、ここ数日落ち着かない日々が続いていたことも事実。御陵院ごりょういん家からの報告があるわけでもない。しかし恵麻えまも何かを感じ取っていた。


 ──……何かが…………大きく動いている…………


 気持ちがざわつく。


 ──……この、わだかまりは何だ…………


 恵麻えまは自分の中に〝けがれ〟があることに気が付いていた。

 しかもそれは、それまで感じたことのないもの。


 その夜は眠れないまま。

 外が明るくなったことに気が付いたが、恵麻えまは祭壇の前を離れようとはしなかった。

 夜に開けたままの板戸が風に音を立て、そこから朝の匂いが本殿に入り込むが、不思議と恵麻えまは眠気も感じない。祭壇の松明たいまつはすでに微かな煙を立ち登らせるだけ。その匂いを朝の風が散らした。


 ──……この〝影〟は何だ…………蛭子ひるこで何が起きている…………


 頭に浮かぶのは蛭子ひるこ神社。

 確かに御陵院ごりょういん神社のさきに指示は出していた。

 〝萌江もえ様をえさに、京子きょうこ様を手中しゅちゅうに納めろ〟と。

 京子きょうこが頂点だと考えた。総ては京子きょうこの手の上のシナリオ。京子きょうこを手に入れることこそが、清国会しんこくかいが〝神〟をる時。そのためには他の者たちの生死は問わない。他の神社に対するへびの会からのアクセスを考えると、もう猶予ゆうよはないと思った。清国会しんこくかいが追い詰められていたのは事実。

 だからこそさきまかせた。おそらく恵麻えまと同じレベルの危機感を持てるのは、清国会しんこくかい二番手の御陵院ごりょういん神社だけだろう。恵麻えまの中の不安があるとすれば、それはさきが娘である西沙せいさ退しりぞけることが出来るかどうか。この一点にあった。

 一度決別(けつべつ)したことはもちろん恵麻えまも報告は受けている。しかしそれから何度も関わってきた。そこに気持ちの揺らぎの可能性があることは、子供を持っていない恵麻えまでも想像が出来ること。


 ──……それならば…………なぜさきまかせた…………


 ──…………私は…………何を期待している…………


 すみとなった松明たいまつの僅かなあかりが、その周囲に闇を作り出している。

 しかしその向こうに、さらに深い何かがうごめいていた。

 それは闇よりも深い。


 ──……まともな相手ではないな…………


「何者だ……姿も見せられぬとは……随分ずいぶん小者こものだ……」

 恵麻えまは背中に広がる汗を隠すように虚勢きょせいを張っていた。

 闇の中に〝何か〟がいた。


『────姿だと? そんなものを必要とするほど〝低く〟はない』


われ清国会しんこくかいあずかる者と知ってのことか」


 ──……この気持ち悪さは何だ……誰の手前てまえだ…………


清国会しんこくかいか……それは言わば虚構きょこうより作られしものに過ぎぬ…………ここだ……ここで〝京子きょうこ〟をほうむれ』


 ──……京子きょうこ様を…………⁉︎


金櫻京子かなざくらきょうこを……その〝命〟の存在を消し去れ…………それがおのが使命』

 それに恵麻えま毅然きぜんと応えた。

「駄目だ……京子きょうこ様を手中しゅちゅうに納めることこそが我等われらの使命……さすれば萌江もえ様も我等われらに従ってくださるはず…………」

『〝魔性ましょうの子〟か……一度、ほうむそこねた…………あの〝血〟は貴様の命を取るぞ…………』

「だからこそ京子きょうこ様を…………」

『まだ分からぬのか……萌江もえ京子きょうこそのものだ……あの〝血〟は存在してはならん…………京子きょうこほうむれば萌江もえも消える…………』


 ──……まよごとを…………


 恵麻えまが声を張り上げる。

「────何者だ!」

『……清国会しんこくかいしければ…………京子きょうこほうむれ…………』

 そして、影が消える。

 静かだった。

 外の音が聞こえなくなっていたことに、恵麻えまはやっと気が付く。

 やがて、小さな音が微かに聞こえた始めた。

 恵麻えまが外に顔を向けると、そこには細かい雪が舞い始める。


 ──……さき…………どこにいる…………


 気配けはいを感じた。

 背後。

 距離を置いて頭を下げている。

 恵麻えまはすぐに口を開いた。

「……何用なにようだ…………涼沙りょうさ…………」

 その気配けはいは間違いなく涼沙りょうさのもの。涼沙りょうさ恵麻えまに向かって深々と頭を下げていた。

 いつの間にか、という表現しか恵麻えまには出来なかった。どうやって本殿に入ってきたのかも気が付かなかった。

 それは西沙せいさの作り出した幻。

 その涼沙りょうさの声がゆっくりと空気に漂う。

「……蛭子ひるこ神社で……〝こと〟が起きております…………」

 恵麻えまは嫌なものを感じながらも冷静をよそおった。

「私が感じていたものはそれだったか…………さきもそこか?」

「はい…………綾芽あやめも…………西沙せいさも…………」

 涼沙りょうさはゆっくりと応えていた。

 まるで何かのタイミングをはかるかのような話し方。

 何かを感じ取った恵麻えまは、慎重しんちょうに返していた。

「…………話せ」

 しかし、


「────終わらせに来たよ…………恵麻えま…………」


 それは、御世みよの声。

 すぐ横から。

 恵麻えまが目だけを動かす。

 そこには巫女みこ服のまま短刀を逆手さかてに振り上げる御世みよ

 振り下ろされる刃先が恵麻えまの目の前。

 しかし直後、はじかれるようにしてその短刀は床で音を立てた。

 甲高い音が広がり、すぐに消える。

 呆然とする御世みよに声を向けたのは、涼沙りょうさだった。

「……まだ分からないのか……御世みよ…………」

 涼沙りょうさは片膝を立て、右腕を真っ直ぐ、てのひら御世みよに向けたまま。

「今、蛭子ひるこ神社の光景が見えた……たった今、母を殺せなかったようだな……昨日は私のことも殺せなかった…………」


 ──……涼沙りょうさは何の話をしている…………


 そう思いながらも、恵麻えまは表情を変えなかった。

 汗のにじむ手を膝の上で握り、目だけで御世みよを見上げる。

 涼沙りょうさが言葉を繋いだ。

「……西沙せいさの言葉を聞け……萌江もえ様の言葉を聞け……お前はもうあの島へ戻るべきだ…………これからは……にくしみだけで生きるな…………」

 御世みよは立ち尽くすだけ。

 何を思うのか、天井を見上げる。

 しかし、そのそでを引っ張る感覚に、顔を下へ向けた。

 そこには、かえでの姿。

「帰ろうよお姉ちゃん。みんながあの島で待ってるよ」

 その声に、御世みよの目に涙が浮かんでいた。

 震える声が広がる。

「……私は…………萌江もえ様たちに再び命を頂いた…………スズが見えた…………放ってなどおけなかった……助けたかった…………スズの人生に……どんな希望があったというのだ…………」

 両手を強く握りしめていた。

 その手が小さく震える。

 その御世みよに、再び涼沙りょうさが声を掛けた。

西沙せいさを信じろ……西沙せいさに任せろ……我々が西沙せいさを支えてみせる……西沙せいさは強い……だから依代よりしろにしたのだろ? 御主おぬしも分かっているはずだ……だから……信じろ。絶対に私たちが清国会しんこくかいを変えてみせる」


 ──…………涼沙りょうさ……? 何を………………


 恵麻えまがそう思った直後、御世みよかえでの姿が薄れていく。

 御世みよは顔を上げた。

 小さな笑顔を涼沙りょうさに向けると、うなずく。

 そして、その姿が消えた。

 静かになった祭壇前で、涼沙りょうさは座り直し、再び頭を下げる。

「────〝こと〟の顛末てんまつを、御話し致します」

 恵麻えま鼓動こどうが音を立てて全身を駆け巡った。



      ☆



 甲斐かいの国。

 その中の小さな集落跡地に、スズと青洲せいしゅうは辿り着いた。

 戦乱の世が落ち着いたとは言っても、こんな小さな集落でも小競こぜり合いの舞台になっているのが現実。騒乱そうらんというものは決して綺麗に収束するものではなかった。

 ほとんどの建物が焼かれ、崩れ、人の気配は無い。

 まだ燃えたすすの匂いが周囲に漂う。

 数人の甲冑かっちゅう姿の武士の遺体。数頭の馬の亡骸なきがら

 血の匂い。

 二人が集落にやってきたのはうしこく頃だろうか。

 二人は共に、世の中の現実に直面していた。清国会しんこくかいの内紛に寄りかかっている間にも、世の中はすさんだまま。乱世らんせが終わったと伝え聞いても、それで真実が見える訳ではなかった。

 そしてスズには、これから始まる更なる戦乱の世の中が見えていた。

 スズは武士の亡骸なきがらを見下ろしながら静かに口を開いた。

青洲せいしゅう……この者たちをとむらってやろう…………この者たちは加害者でありながらも被害者でもあることは事実であろう…………」

 青洲せいしゅうはそのスズの言葉に、少し気持ちが安堵あんどする自分を感じていた。

 意外な言葉に思えたからだ。常々スズからは感情の起伏きふくを感じることがなかった。感じるのは冷たい印象だけ。人としての感情を感じなかった。人の死にも気持ちを揺るがされることのない冷徹れいてつとも言える部分があったのは事実。

 そのスズが赤の他人である見知らぬ武士をとむらおうと言う。

 〝神〟とは違う〝人間〟としての部分を初めて見た気がした。

 しかしそれが〝神〟としてなのか〝人間〟としてなのか、そこまでは青洲せいしゅうでもはかれないまま。

 二人は崩れかけた家屋かおくに、見付けられた数人の武士の遺体を運ぶと、その家の中にあった火打ち石で建物ごと火を着けた。

 満月。明るい月灯りのお陰で、作業は難しくはない。しかも空気が乾燥してくる季節。周囲から掻き集めた枯葉かれはに、火は簡単に着いた。

 その火で馬の亡骸なきがらも焼いた。

 そしてやっと二人は馬の肉を食べ、食事を取ることが出来た。

 二人で、明るくなるまで眠った。久しぶりに寄り添って眠った。途端に疲労が押し寄せた。

 朝、近くの川で水を飲んだ。


 ──……まさかこんな生き方をすることになろうとは…………


 そんな青洲せいしゅうの気持ちを見透みすかしたのか、川のそばの石に腰を降ろしたスズが口を開いた。

「……貴様は……後悔こうかいしているのか?」

「いや…………そんなことは…………」

 青洲せいしゅう咄嗟とっさにそう応えながらも、流れる川の水に視線を落としていた。その川面かわもが朝日を照らしている。青洲せいしゅうにはまぶしくさえ見えた。

 なぜスズがあの騒乱そうらんの中で雄滝おだき神社を捨てたのか、まだ青洲せいしゅうは聞けていない。あのまま残ったとしても、おそらくは麻紀世まきよことを収めただろう。三人の子供たちを捨ててまで逃げる理由はなんだろうかと、青洲せいしゅうの中で考えが巡り続けていた。

 そんな青洲せいしゅうにスズが言葉を繋げる。

われにはこうなることが見えていた……だから後悔こうかいは無い。ここでこれから貴様と新しいやしろを作り、金櫻かなざくらの血筋を繋げていく。しかしいずれはこの地も離れることになろう」

「ここで? そうか…………」

 少し驚いたが、青洲せいしゅうはその話を受け入れていた。今までスズの〝予見よけん〟が間違っていたことはなかったからだ。

 しかし続くスズの言葉はにごる。

「……しかし見えぬこともある…………おのれ最期さいごだ…………」

 珍しい弱音よわねのようにも聞こえたが、青洲せいしゅうはさほど驚かずに返した。

「運命に逆らわずに受け入れる……それが人の世のならわしだ」

 この世界の初心に戻ったような不思議な感覚を覚えながらも、青洲せいしゅうは自分の感覚にいきどおりを感じた。


 ──……こんな当たり前のことすら忘れていたかのようだ…………


 それにスズは淡々と返すだけ。

「貴様の命も同じなのか?」

「もちろんだ。総ての時で最善さいぜんの選択をしてきた……後悔こうかいは無い」


 ──……本当にそうだろうか…………


 スズは青洲せいしゅうのその気持ちを読んだのか、すぐには返さなかった。

 やがて、ゆっくりと口を開く。

「これからこの地に作るやしろを〝唯独ただひと神社〟と名付ける」

「……ただ……ひと……?」

 それに、スズは立ち上がって応えた。

「そうだ…………唯一ゆいいつの……ここだけのやしろだ…………他とはなるやしろ…………」

 朝日の作り出した木漏れ日が、スズを照らす。

 まるで後光ごこうが差し込んだようなその光景を、青洲せいしゅうはしばらく眺めていた。





           「かなざくらの古屋敷」

    〜 第二三部「消える命」第5話(完全版)

                   (第二三部最終話)へつづく 〜


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