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第二二部「冷たい命」第5話(完全版)(第二二部最終話)

 暗い雨。

 常に目の前で動き続けるワイパーが萌江もえの意識を高ぶらせていた。

 フロントガラスに叩き付ける大粒の雨が、ワイパーの動きの隙間すきまあきらめもせずに波を作り続けている。

『────まっすぐお帰りください……唯独ただひと神社へ……』

 蛭子ひるこ神社を出てすぐに、そんな御世みよの声が頭の中に聞こえていた。

 萌江もえは言われるままにアクセルを踏み続けた。

 夜の闇の中に差し込む雨の音。

 回るタイヤが濡れた路面を削り続ける音。

 街灯と信号の点滅。

 前方を走る車のテールランプと対向車のヘッドライト。

 総てが混ざり合っていた。

 その混沌こんとんとした光景が、車のハンドルを握る萌江もえの意識を遮り続ける。


 ──……助けられたかもしれない…………


 ──……私は逃げたの? 咲恵さきえを見捨てたの…………?


 何度も同じ思考が回る。

 言い訳めいた言葉が奥底から湧き出そうになるのを必死で引き留めていた。


 ──……結果があるから今がある…………


 ──…………先が見えないなら…………今に従ってやる…………


 どれだけ運転したのかも分からないまま、やがて車が山の中の家に到着する。

 誰もいない、みんなの家。

 街灯も無いような山の中。

 雨雲が月灯りを遮っているせいでその暗さはいつも以上に感じられた。みかけていた雨の中、萌江もえは車を降りてゆっくりと歩き始める。

 庭の水溜りはいくつにも別れていた。それを避けて歩く余力すらないまま、萌江もえは濡れた縁側に腰を降ろす。

 一人でこの家に帰ってきたのも久しぶりだった。まるで初めて来た場所のようだとも感じた。しかし、なぜかここでの多くの記憶が頭に木霊こだまする。しかし同時に、それはいずれも遠い記憶の一瞬の歴史のようでもあった。

 萌江もえにとっては初めての感覚。

 それは萌江もえの中で回り続ける。

 いつの間にか疲れが全身を包んでいた。無意識に項垂うなだれ、濡れた地面を見つめると、途端に周りの冷たい空気を感じる。寒さよりは冷たさ。ぬくもりはどこにもない。

 この家はただの家ではない。

 〝唯独ただひと神社〟────古くから金櫻かなざくら家がまもってきた名前。

 〝異形いぎょうの存在〟から逃げるように幾つもの場所を点々としてきた。

 金櫻かなざくら家最後の末裔まつえい────最後の〝血〟である萌江もえが選んだ場所。それがここだった。まるで母の京子きょうこによってみちびかれたようにも萌江もえは感じる。鳥居とりいがあるわけではない。見た目はただの古い一軒家。誰も神社だとは思わないだろう。


 ──……何だっていいのかもしれない…………


 萌江もえはそう考えていた。


 ──……結局……宗教も決まりごとも、人が作ったもの…………


 ──…………何が正しいかなんて……誰にも分からない…………


 足元の小さな水溜りに、小さな雨粒。それが弱い波紋を作り出している。


 ──……水は落ちるもの…………


 その萌江もえの視界のはしに、漆塗うるしぬりの低い下駄げた。赤い鼻緒はなおを挟んだ白い足袋たび

 顔を上げなくても分かった。

 色褪いろあせた朱色しゅいろ巫女みこ服のすそは間違いなく御世みよの物。

「…………どうして? 解放されたあなたが…………」

 萌江もえは驚きもせずにそう言葉を投げた。

 その御世みよ萌江もえのすぐ隣に座る。

 返答は早い。

「私は皆さんの御陰おかげで再び命を頂けました。そして、今の私は〝命を生み出す者〟…………もう……冷たい命は見たくない…………」

「……冷たい……命…………」

 萌江もえは頭を下げたまま。

 御世みよが言葉を繋げる。

綺麗事きれいごとではなく……何度も見てきました…………」

「…………そっか…………」

 小さくそう返した萌江もえの口角が上がるが、御世みよからは見えていない。

 御世みよは構わず返していた。

貴女あなた様が一番の能力者だなんて私は言いません。頂点とも思っていません。それでも、貴女あなた様は必要な御方おかた。だって、今、生きてるじゃありませんか。それだけで充分。萌江もえ様がいてくれて良かった。これからのためにも…………」

「────でも……咲恵さきえは…………?」

「今でも咲恵さきえ様の中に御母上おははうえがいらっしゃると御思いですか?」

 その御世みよの言葉に、萌江もえは言葉を震わせる。

「……お母さんなんてどうでもいい…………咲恵さきえが…………」

「確かにいらっしゃいます。しかしそれはただの依代よりしろに過ぎません……萌江もえ様を見守るために他なりません……咲恵さきえ様は、咲恵さきえ様そのもの…………お母様ではないのです。そして今は、私のかつての依代よりしろが力を弱めている…………同時に咲恵さきえ様の中の京子きょうこ様も…………」


 ──……ちた命が……冷たくなっていく…………


 御世みよの言葉が続いた。

「そして萌江もえ様……貴女あなた様も…………御母上おははうえそのものなのです」


 ──…………そのもの……?


 御世みよが縁側から降りる。

 小さな下駄げたが地面の雨水を巻き上げた。

 その光景に萌江もえがやっと顔を上げると、そこには妖艶ようえん微笑ほほえみを浮かべて立つ御世みよの姿。その姿は、ゆっくりと夜の闇に薄れていった。

 やがてそこに重なるように現れたのは、立ち尽くす西沙せいさ────いつもの黒いゴシックロリータの服が、まるで喪服もふくのように夜の暗さに溶け込む。

 その背後には車のドアを閉める満田みつたの姿。

 西沙せいさの表情は重かった。

 口が小さく動くが、言葉にはならないまま。

 萌江もえも何かを感じたのか、黙ってその目を見つめた。

 西沙せいさの目に反射するもの。

 それは厚い雲を通り過ぎた月灯りか、やがてその光が西沙せいさほおを流れていく。

 腰を上げた萌江もえは迷いのないまま、西沙せいさを抱きしめていた。崩れ落ちそうになるその体をすくい上げると、その意識が萌江もえの中に流れ込む。

 萌江もえの首筋を西沙せいさの声が震わせた。

「…………ごめん…………何も出来なかった…………」

 それ以上の説明はいらなかった。

 西沙せいさの記憶が萌江もえを過去に引き戻す。

 そして、萌江もえ西沙せいさの体を支える両手に力を込めた。


 リビングのまきストーブに火をともすと、部屋の空気はすぐに熱をびる。直接の火は空気の乾燥が著しいが、それでもその暖かさは温風ヒーターの比ではない。

 まきストーブの中で、まだまきのほとんどは木のまま。その木を伝うように火が広がっていく。


 ──……火は上に登るもの…………


 萌江もえこと顛末てんまつを説明すると、深刻さの浮かんでいた満田みつたの表情に影が増した。満田みつたも急に動き出した清国会しんこくかいの動きには恐怖を感じていた。みずからの身の危険性だけではない。へびの会そのものが窮地きゅうちおちいっていることは明らか。

立坂たてさか大見坂おおみざかさんたちも、仕組んだのはさきさんなんだろうな……」

 満田みつたはそう言いながら、西沙せいさ項垂うなだれた横顔に目だけを動かしていた。しかし西沙せいさの気持ちをみ取ることは難しかった。自分で立ち上げたへびの会が、実の母親の手によってつぶされかねない現状。しかもその家族までもがすでに西沙せいさの知っている家族の形ではなくなってしまっていた。

 萌江もえの頭の中に、血塗ちまみれのさきの姿が浮かぶ。

 三人が視線を落とすテーブルには、萌江もえ加藤苑清かとうえんせいから受け取った文献ぶんけん。しかし誰も開こうとはしない。あの後、苑清えんせいがどうなったのか、それは萌江もえにも分からない。その生死すら予想することがはばかられた。

 満田みつたは静かに立ち上がると、縁側へのガラス戸へ歩く。ガラスを少しだけ開けると素早く縁側へ出てガラス戸を閉めた。スーツのジャケットの内ポケットに手を入れると、煙草たばこを取り出して火を点ける。

 すでに雨はんでいた。

 しかし代わりにやってきたのは強い冷え込み。

 満田みつたは煙と共に白い息を吐き出していた。


 ──……こうなると、俺なんて無力なもんだな…………咲恵さきえちゃん……


 肺を経由する煙草たばこの煙だけが、咲恵さきえの身を案じる満田みつたの気持ちを誤魔化ごまかす。

 気が付いた時には長い付き合いになっていた。咲恵さきえが自分の店を持つ前のスナック時代からの付き合いだ。その頃に咲恵さきえに心霊関係の相談をしたことが総ての始まり。その頃はまさかこんな事態になるなど、もちろん想像すらしなかった。

 いつの間にか深みにまるように信じられない世界に関わってきた。普通に生きてきたら経験することのないような光景を何度も見てきた。

 それが歴史の一部としての足跡になるのかどうかは分からない。自分にどんな役割があるのかなど考えたこともない。ただ、立坂たてさかと共に裏でへびの会を支えてきた。


 ──……今は……俺だけか…………


 二人だけになったリビングには、ひたすらにコーヒーの香りが漂う。

 想いを言葉にしなくても、二人は繋がりを感じた。

 むしろ、いつも繋がっていたのかもしれない。

 そして、お互いに、示し合わせたかのように言葉を選ぶ。

 最初に口を開いたのは西沙せいさ

「……初めて会った時…………ヒドかったよね」

 二人が初めて会ったのは立坂たてさかからの依頼が元々の始まり。西沙せいさの暮らしていた街での騒ぎが、結果的に萌江もえの母親である京子きょうこ唯独ただひと神社の過去をあばき出すことになった。

 それ以来、西沙せいさ萌江もえたちと関わってきた。もちろんそれが偶然の集積だけだったとは言えないものだろう。裏で深く清国会しんこくかいが関わってきたことは疑いようがない。萌江もえ咲恵さきえも、西沙せいさですらそれは分かっている。それでも、だからこそ関わってきた。

 簡単な間柄あいだがらではない。お互いの感情移入だけで説明の出来るものではなかった。

 何より中心になっている萌江もえ西沙せいさを必要な存在として受け入れている。

 その萌江もえが口元に笑みを浮かべて返した。

「そうだった…………でも可愛かったよ。西沙せいさは」

 その言葉に、西沙せいさの表情もやわらかくなる。

「ボロクソにこき下ろしたくせに」

 西沙せいさがそう言って顔を上げると、応えるように萌江もえ西沙せいさの目を見た。

「ゴスロリの可愛らしい女の子が霊能力者って言ってもねえ」

「私の太もも見て興奮してた萌江もえが何言ってんのよ」

「子供っぽいのは好みじゃないんだよねえ」

「今ならだいぶ大人になったでしょ?」

「そうだね…………」

 萌江もえは立ち上がって続ける。

「今の西沙せいさなら……いつでも抱いてあげるよ」

「……でも────」

 萌江もえを見上げた西沙せいされたまぶたは、何かを確信したように揺れた。

「────咲恵さきえのろい殺されそうだから遠慮えんりょしとくよ」

「それは残念」

 そう応えた萌江もえは、キッチンへと足を進める。棚からお気に入りの四角いロックグラスを二つ取り出すと、今度は冷凍庫の扉を開けた。アイスピックのグリップで手の中の氷を崩し、グラスを埋めていく。

 流し込まれたスコッチの熱が氷を割った。

 その音はリビングの空気を震わす。

 萌江もえは二つのグラスを左手の中指と親指で挟むと、そのままリビングのテーブルへ。

 テーブルに置かれたグラスの振動が氷を揺らす。

 西沙せいさがグラスの一つを手に取ると、スコッチの香りが西沙せいさの鼻を刺激した。

「いいね……この香り…………」

 西沙せいさがそう言って目を細める。

「たまにはいいでしょ……付き合ってよ」

 返した萌江もえはソファーに腰を降ろし、すぐにスコッチを喉に流し込んだ。その香りが喉から鼻へ。

 そして何かが込み上げた。

 天井を見上げると、四つの電球が並んだシーリングライトが二列。いずれもリフォームの時に萌江もえが選んだ物。暖色だんしょく明度めいどは暗目。萌江もえの好みの明るさに設定してある。萌江もえはあまり明るい照明が好きではなかった。

 幼い頃から色々なものが見えた。時間は関係ない。昼でも夜でも同じように見えた。せめて夜くらいは目を休ませたいと思った。照明が暗くなったからといって何かが変わるわけでないことは分かっている。

 ただの気休め。

 萌江もえも理解はしている。

 そして、そんな体質を変えられないことも同じ。


 ──……何か……変わったのかな…………


 萌江もえは、氷で僅かに薄まったスコッチに視線を落とした。完全に混ざり合ってはいない。濃い部分と薄い部分が、境界線を曖昧あいまいのままで氷と氷の間を滑っていく。

 萌江もえは無意識に笑みをたずさえ、口を開いていた。

「…………くやしい?」

 西沙せいさは何も応えない。

 萌江もえがそれを分かっていたかのように続けた。

「……ごめん、くやしいよね……私も……」

 やはり西沙せいさは何も応えない。

「……でも……私はあきらめない」

 その萌江もえの言葉に、西沙せいさは少しだけ顔を上げた。

 萌江もえの言葉が続く。

「私は咲恵さきえを連れ戻す…………それには西沙せいさの力がいる…………」

「……私は…………」

 やっと口を開いた西沙せいさの声は消えそうに小さい。

 そのまま頭を下げる。

 萌江もえがその西沙せいさの声をすくい上げるように言葉を返した。

御世みよが戻ってきたよ……バカだよね、せっかく解放されたのにさ……でも…………御世みよがいなかったら私はここにはいなかったかもしれない……まさか解放されて強くなって帰ってくるなんて…………だから、次は負けない。いるんでしょ? 御世みよ

 萌江もえのその言葉に応えるように、台所に現れた人影が二人に近付く。

 巫女みこ姿の御世みよだった。

「いつでも」

 そう応えた御世みよがソファーで項垂うなだれたままの西沙せいさの隣に腰を下ろすと、西沙せいさも反射的に顔を上げる。

「……御世みよ……」

 その西沙せいさの目はれたままで痛々しいほどだった。

 御世みよやわらかい笑みを浮かべたまま口を開く。

「私は皆さんに助けられました。恩返しをさせて下さい。まあ、断られてもしますけど」

 その優しい御世みよの口調に、西沙せいさの顔にも僅かに笑みが浮かぶ。

「……あのまま幸せになってればよかったのに……でも……そんなバカな御世みよが大好きだよ」

 そう返した西沙せいさの目に再び涙が浮かんでいた。

 しかし笑みは消えない。

 そんな西沙せいさ御世みよが応える。

「お気付きになりました? 念のため、私も時を超える能力者ですので」

「だろうね。もうみんな知ってる」

 しかし、そんな二人のやりとりを見ていた萌江もえの目は、なぜか真剣だった。


 ──……どうして御世みよは…………私を助けたのに…………


「では改めまして」

 御世みよがそう言ったかと思うと、顔を萌江もえに向けた。

 声のトーンを下げて続ける。

「…………復讐ふくしゅうを続けましょう…………」



      ☆



 すでに空気は明るい。

 深夜からの再びの雨は暗い内に粉雪へと変わっていた。

 まだ積もるほどではなかったが、それも時間の問題だろう。

 気温が高い時の大粒の雪ではない。

 冷えた時の細かな雪。

 その雪の存在は、寒さを助長した。

 蛭子ひるこ神社。

 その本殿からさき綾芽あやめの声が聞こえなくなって、すでに長い時間が経っていた。

 外の従者じゅうしゃたちは外を向いて立ったまま。その精神の研ぎ澄まし方は常人に出来るものではないだろう。まるで群れのように本殿の周りを埋め尽くしている。どこから〝敵〟が現れるか分からないまま、全員の視線は本殿の外へ向かっていた。

 のぼってきているはずの朝日も厚い雲に遮られたまま。

 空気を広く埋め尽くしている雪の密度がしだいに濃くなっていく。

 本殿では絡めていた両手を降ろしたばかりのさきが、肩で息をしていた。

 そのひたいには空気の冷たさとは正反対に大粒の汗が浮かぶ。それは全身に絡まるようにまとわり付いていた。

 目の前に静かに横たわったままの咲恵さきえから〝京子きょうこ〟は現れていない。

 眠り続けるだけ。


 ──…………なぜだ………………


 さきあせる気持ちが悪循環を生み続けていた。そこに〝いる〟のは明白めいはく。しかし京子きょうこかたくなに姿を見せない。

 咲恵さきえを挟んだ向いに座るのは綾芽あやめ

 綾芽あやめさきとは正反対にすずしい表情のまま。汗もかいていなかった。そして、その存在の圧力は大きい。空気に熱をびさせるほどの重厚じゅうこうさがあった。

 それを長時間見せられていた苑清えんせいいまだ動けないまま。すでに蛭子ひるこ側の従者じゅうしゃは本殿奥に引き下がっていた。苑清えんせいは孤立したようなもの。まるで敵地に取り残されたような感覚を味わっていた。

 同時に、真に恐れるべきがさきではないことも理解していた。


 ──……今までに何度も会っているはずなのに…………


 あまりにも今までと印象の違う綾芽あやめのその雰囲気に、苑清えんせいは戸惑い続ける。そして、さきも同じ気持ちであることに気付いた。明らかに、さき綾芽あやめに対して一歩引いているかのように見えたからだ。しかし何が起こっているのかまでは理解の範疇はんちゅうを超える。


 ──……御陵院ごりょういん家を壊す存在なのか…………


 苑清えんせいは二人の巫女みこ服を染める〝血〟が誰の物であるかはかりかねていた。


 ──…………あの血は誰のものだ…………

 ──……どうしてここに……涼沙りょうさ様がいない…………


 何が起こったのか。

 何が起こっているのか。

 苑清えんせいには見えない部分が多過ぎた。

 しかし一石いっせきは投じた。後は萌江もえたちに任せるしかない。それでも御陵院ごりょういん家、いては清国会しんこくかい出方でかた苑清えんせいを持ってしても分からないまま。

 その苑清えんせいの耳に、静かだが存在感のある綾芽あやめの声が届く。

「……なかなか、ですね…………」

 空気に溶けるような、妖艶ようえんとも思える声。

 それに応えるさきの声は、疲れを隠せない。

「……やはり恐ろしい御方おかただ…………依代よりしろも大したものよ…………京子きょうこ様の依代よりしろになるために産まれてきたとでもいうのか…………」

「いえ────」

 返す綾芽あやめの声は、まるで時を止めるかのような落ち着きを持っていた。

 その声が冷たい空気を揺らす。

「この者の力をあなどってはなりません…………この者は……京子きょうこ様を守っています…………」

「……それほどの力が────」

 返すさきの言葉を綾芽あやめは遮った。

「────この者だけではありませんよ母上…………萌江もえ様も…………あなたの娘の西沙せいさも…………」

 綾芽あやめは僅かに顔を上げる。

 その目がさきに合うと、さきは動けなかった。


 ──…………あなたの……娘の…………


 さきの中に、さびしさが通り過ぎる。

 その言葉に別の感情を抱いたのは、話を聞いていた苑清えんせい


 ──……まさか……!


「────あやかしか…………!」

 しかし片膝を立てただけでその動きは綾芽あやめの〝目〟で止まる。

 動けなかった。

 そして綾芽あやめは、ゆっくりと口を開く。

「…………あやかし、だと?」

 しだいに細くなる二つの目に、苑清えんせいは動けなかった。

 動こうとすら思えないまま、完全に意識をうばわれる。

 ゆっくりと立ち上がった綾芽あやめが言葉を繋いだ。

「……われあやかしと申すのか…………われあやかしなら貴様は何だ…………清国会しんこくかいに利用された被害者だとでも言うのか? ここまで清国会しんこくかいを盛り立てておきながら────」

 綾芽あやめはそれまでとは別人のような鬼のような形相ぎょうそうへ。

「────利用しておきながら何を言うか! 貴様もその権力を欲した一人ではないのか! 金櫻かなざくら家の末裔まつえいに取り入って我等われらを裏切った…………今になって裏切る程度の小者こものが、先祖のうらみを晴らすなど片腹かたはらいたい! その前にわれ加藤かとう家を根絶ねだやしにしてくれるわ!」

 苑清えんせいだけではない。

 さきも初めて見る綾芽あやめの姿に驚いていた。

 さきの知っている綾芽あやめではない。

 例え血が繋がっていなくても、赤子あかごの時から見てきた。育ててきた。涼沙りょうさ西沙せいさと同じように愛情を注いできた。例え恐れていても、本当の自分の娘のように思ってきた。

 しかし今、目の前のその変貌へんぼうに、さきは気持ちをみだされていた。


 ──…………これは、だれだ…………そんな………………


 足音が聞こえる。

 石の上で鳴る甲高い靴底の音。

 参道の従者じゅうしゃの群れが割れる。

 鳥居とりいから真っ直ぐ並ぶ石畳。

 そこを歩く人影。

 視線を向けたさきが小さく呟いた。

「……やはり……来たか…………」

 そこには、一人で歩く、萌江もえの姿。

 従者じゅうしゃの群れが、進んでくる萌江もえの動きに合わせながらゆっくりと参道を取り囲み続けた。全員が左手を刀のさやに当てて間合いを取る。

 一人一人を取り巻く空気を粉雪が遮る。その不思議な緊迫感が本殿のさきまで届いていた。

 萌江もえが階段の手前で足を止めると、立ち上がったさきが最初に口を開く。

「何度も御苦労なことですね…………しかしながら、今の貴女あなた様に用はありません。我等われらしんに必要なのは〝京子きょうこ様〟のみ」

「へえ……そうなんだね…………」

 そう返した萌江もえは視線を落としたまま。

 少し間を空けて続ける。

「……冷たい雪…………命が消えていくみたい…………」


 ──…………何を……


 さきはそう思ったまま何も返せなかった。

 前髪で両眼が隠れた萌江もえの口角が小さく上がる。

 それを見たさきは全身に鳥肌が立つのを感じ、小さく片足を下げた。


 ──……何だ……この空気は…………


 さきが感じた通り、いつの間にか独特の空気が辺りを包んでいる。

 気が付かなかった。

 重い、それでいてんでいる。

 その空気に漂うのは〝恐怖〟だけではなかった。

 言葉で表現するなら〝神々(こうごう)しさ〟。


 ──…………馬鹿な……!


「────来るな! それ以上足を進めることはならん!」

 さきは無意識に叫んでいた。


 ──……落ち着け…………何を恐れることがあるか…………


 しかし体の震えが止まらない。

 左足を小さく前に出した萌江もえが口を開く。

「私が会いにきたのはお母さんじゃない…………好きにすればいい…………だから…………」

 右足が階段の一段目へ。

 萌江もえが顔を上げる。

 鋭い目。

 続く、低く、空気を押さえ付けるかのような、その声。


「……咲恵さきえを返せ……返さなければ…………つぶす…………」


 その目の前の空気がゆがんだ。

 それは、少しずつ広がっていく。





        「かなざくらの古屋敷」

    〜 第二二部「冷たい命」(完全版)終 〜


              第二三部「消える命」(完全版)へつづく


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