第二二部「冷たい命」第3話(完全版)
蛭子神社。
清国会の三番手に位置する大きな神社だった。
全国的に見ても清国会内部での蛭子神社を中心とした派閥は大きく、一番の勢力を誇っていた。
その歴史は長く、室町時代にすでにその名前は全国に響いているほどだった。
しかしその歴史は、清国会に利用された歴史でもある。
現在の当主は加藤苑清。齢はすでに七〇を迎えた。当主の立場を未だに息子に譲らないのは、単に〝日の本〟が大きく変わる瞬間に立ち会いたかったから。
清国会が大きく動いていた。同時に大きく揺れ動いていることももちろん知っている。頂点に君臨する雄滝神社も御陵院神社も大きな変革を余儀なくされていた。
その時に苑清は当主でいたかった。
そして同時に、御陵院神社の立場が欲しかった。
権力が欲しかった。
もはやそれには金櫻家の存在が不可欠だとも考えていた。
そのための模索をしていた矢先、苑清は本殿の奥から一冊の文献を見付ける。
奥深くに隠されるように仕舞われていたその文献は、加藤家の初代当主、加藤砂宮が書き記した物だった。しかし表紙には何も書かれていない。
そしてそれは清国会が存在する理由の確信に触れるもの。
金櫻家の真実に関するもの。
砂宮が〝見た〟もの。
苑清にとって、それは驚愕に値するものだった。
しばらくの間、その内容は苑清を苦しめることになる。とても誰かにに話せる内容ではなかった。
あまりにも大きなその現実。
御陵院家どころか、雄滝神社の滝川家すらもその立場を覆されない現実がそこにあった。
そして、苑清はそこに賭けた。
金櫻家を欲した。
──……最後の末裔…………萌江様はどこだ…………
日々、祈祷を繰り返す。
そしてそれは、西沙にキャッチされることになる。
その苑清の〝穢れ〟を求めて、萌江と咲恵が引き寄せられた。
蛭子神社の鳥居は立派な物だ。
全国に名の知れた神社だけに、風格すら感じられる。
清国会の裏七福神として一番の規模を誇る場所。一般的には〝恵比寿神社〟と表記されているが、清国会としては〝蛭子神社〟。
その鳥居の先には広大な土地。
中心にある巨大な本殿。
そこまでまっすぐ続く石畳。その周囲には細かな玉砂利が敷き詰められている。それは見事なまでに整地されていた。かなりの人手が掛かるものだろう。
萌江も咲恵も、ここに来るのは二度目となる。
しかし前回ここで待ち構えていたのは咲。そのため、苑清には会っていない。今回会いたいのは苑清。しかもいることに疑問の余地はなかった。それは分かるとしか言いようのないもの。
西沙が苑清の〝穢れ〟を感じた。
雄滝神社と御陵院神社を除けば清国会の中で最も影響力のある場所。その当主に穢れがあるとすれば、その真意を確かめたかった。
二人は西沙を信じた。
しかも清国会の動きに大きな変化がある今、萌江と咲恵にとってはここが最後の砦にも思えていた。
──……何があるのかは分からない…………
そう思った萌江にとってもやはり不安は大きい。
物理的に立坂と雫が拘束されている。まだ幼い楓のことも心配だった。
──…………未来が見えない……誰かが邪魔をしてる…………
歩きながらそんな不安を抱えていた萌江の耳に、隣の咲恵の声が響いた。
「……幻みたいなもの…………」
萌江が顔を向けると、咲恵の表情には僅かに笑みが浮かぶ。視線は前を向いたまま。
その咲恵が続けた。
「神社も宗教も……所詮は人が作ったもの…………萌江が最初に気付かせてくれた…………そうでしょ?」
咲恵は萌江に笑顔を向ける。
──……まったく……だからいつも驚かされる…………
そう思った萌江も口元に笑みを浮かべた。
「……面白いね……私たちは幻の中で生きてる……」
萌江のその言葉に、咲恵の中に途端に安心感が生まれる。どんなことも言葉にするだけなら簡単だ。萌江も咲恵もそのことは経験から嫌というほど知っていた。しかし萌江の言葉は違った。自信に満ちていた。それは咲恵にしか伝わらないものなのかもしれない。それでも咲恵にとっては、それで充分だった。
その萌江の言葉が続く。
「幻なら…………好きに暴れようか」
「そうね」
咲恵のその言葉の直後、二人の左右から小さな足音。
二人は同時に足を止め、お互いに視線は本殿に向けたまま。しかし周囲の状況は見えていた。総てが手に取るように理解出来た。
左右に一〇名ずつ。狩衣姿の男たち。全員が帯刀。左手をその鞘に。
やがて萌江が口を開いた。
「ご大層な出迎えだねえ。どうせあなたたちは天照の末裔に傷なんか付けられないんでしょ?」
そして抑えた声で続ける。
「黙って本殿に案内しな」
すると、左右の男たちが参道に沿って列を成していく。それでも鞘から左手は外していない。萌江と咲恵は男たちに挟まれるように並んで参道を歩き始めた。
しだいに近付いてくる本殿は久しぶりということもあってか、以前来た時より大きく見えた。
板戸は大きく開け放たれ、中心には大きなしめ縄が下がり、その下には賽銭箱。通常であれば参拝客がいてもおかしくない大きな神社。しかし現在はその参拝客はどこにもいない。苑清が操作しているのだろうと萌江と咲恵は判断していた。仮にも清国会の三番手の神主。とはいえ苑清がどれほどの能力を有しているのかは分からない。しかし目の前の光景の不自然さは否めなかった。現実とは違う別の世界にでも入り込んだかのような違和感。
本殿の奥の影の中に巨大な祭壇。
その祭壇に炎が揺れ、まるでその炎が空気を揺らしているかのよう。
すでに空はだいぶ暗い時間。
暗く沈んだ祭壇前に、人影が一つ。
紫の狩衣姿。
参道を歩く男たちが本殿の直前で立ち止まり、腰を落として片膝を着いた。
すぐに萌江と咲恵も足を止める。
祭壇前の紫の人影が、一歩だけ前へ。
恰幅のいい体つきと、弛んだ顎が見え、そこの口が動いた。
低い、皺枯れた声。
「お待ちいたしておりました……金櫻様…………」
萌江と咲恵の首筋の水晶が、僅かに熱い。
「……御上がり下さい」
その声に、二人は左右の男たちの間を歩いて階段を登った。板間の前で靴を脱ごうとした時、再び声が掛かる。
「御履物はそのままで」
二人が黙って従うと、紫の男は祭壇を背に両膝を落とし、正座をしたまま深々と頭を下げた。
──……何かが見えてる…………?
咲恵はそう感じた。
二人の靴音が響く中、男の声がそれを消す。
「金櫻家の御血筋の方を御招きすることは当社の積年の願い。叶えられた事、これほどの喜びは御座いません」
それにすぐに返したのは萌江だった。
「あなたが大神主様ってこと?」
そして分厚い紫の座布団に胡座をかく。咲恵もその隣で正座をした。ローファーとはいえ靴を履いたままのために両足を揃えて横にずらした。
男も頭を下げたまますぐに応える。
「蛭子神社当主、加藤苑清と申します」
その苑清が、やがて視線を落としたまま、頭を上げた。
本来であれば金櫻家の血筋に対して頭を上げることの出来るのは雄滝神社の滝川家と御陵院家のみ。それが清国会の古くからの〝仕来り〟だった。
それが、なぜか崩されている。
その違和感は萌江と咲恵の緊張を高めていく。
まるで動こうとしない空気の中、口を開くのは咲恵。
「突然にも関わらず迎え入れていただき感謝いたします」
「いえいえ……この世界に長くおりますと色々と勘が鋭くなるものですよ」
微かに苑清の口元が緩む。それでも床に落とした目は鋭いまま。
咲恵は臆さずに続けた。
「今日はお聞きしたいことがあって来ました」
「なんなりと……その御用向きとは……?」
「ここは清国会の中で一番の勢力を誇ると聞いています。清国会の中枢にも関わってこられた苑清殿に〝清国会の真実〟をお聞きしたい。あなたのお考えを…………」
──……この男には〝穢れ〟があるはず…………
小さく、雨の音が聞こえ始めた。
細かく、この時期にしてはやけに湿り気を帯びたその雨は、本殿の中の三人に少しずつ絡まっていく。
その空気の中で、しばらく苑清は表情を変えずに黙った。
そしてゆっくりと口を開く。
「いいでしょう……本日は世継ぎでもある息子たちも人払いをしております。私としましても本日は大事な日になることは承知していた事……そして清国会と金櫻家の真実をお話出来るのは、おそらく私だけでしょう…………」
苑清が視線を上げた。
強く、萌江の目を見つめる。
その表情は、鋭くも、どこか自信に満ちていた。
「……清国会を…………終わらせて頂きたい…………」
雨の音が大きくなってきた。
苑清の言葉が二人の前で留まり続ける。
──……そういうことか…………
咲恵がそう思った時、隣の萌江の声。
「その言葉を私たちが信じられる保証は?」
迷いの無い声だった。
その声は、瞬時に萌江を場の中心に据える。
苑清は萌江の目に顔を向けたまま、応えた。
「……元々ここが恵比寿神社と呼ばれていた頃、納めていたのは我が先祖ではありませんでした。加藤家は清国会によって焚き付けられたようなもの。もちろん後になって〝見えた〟ことのようではありますが……その頃に清国会と金櫻家の過去も〝見えた〟と……この古い文献は私だけが存在を知っているものです」
苑清は背後に手を伸ばし、一冊の古い書物を前へ。
表紙には何も書かれてはいない。それほど厚くはないが、今にも崩れそうなほどに古い物であることは分かった。
それは苑清が偶然見付けた物。しかし苑清は偶然とは思っていなかった。
今、この総てを〝必然〟であると思いたかった。
萌江も咲恵もすぐには動けない。
祭壇からの炎の揺らぎだけが辺りを照らす中で、その文献も怪しく揺れる。
その中に〝真実〟がある。
それを雨の音が隠そうとしていた。
☆
萌江と咲恵が毘沙門天神社を出てから数時間。
新たに西沙が感じられたのは、雫と楓の拘束。
他には何も感じることが出来ないままに祈祷を続けていた。
頭の中に見えるのは加藤苑清の〝穢れ〟────心の〝わだかまり〟のようなものだけ。
焦りもあった。
立坂だけではなく雫と楓までもが清国会によって拘束されたとなれば、杏奈がいない今、もはや萌江と咲恵に賭けるしかない。誰にも頼ることは出来ない。しだいに追い詰められていく恐怖を、西沙は初めて感じていた。
そして度々《たびたび》浮かぶ涼沙のイメージ。はっきりとしたアクセスをしてくるわけではないが、なぜか頭から離れない。
──……様子を伺っているのか…………
しかしこの場所が見付かるはずはない。
いつもの西沙なら自信を持ってそう思えただろう。しかし今の西沙の気持ちは揺らいでいた。明らかに〝幻惑〟の効果は薄れていたからだ。だからこそ三人もの拘束者を出した。
──……私なんて…………
そんな考えも時々顔を出す。
いつも虚勢を張っていたのかもしれない。少なくともそうして生きてきたのだろう。無意識の内に染み付いた生き方。それに自分で気が付いた時、あまりにもそれは脆く簡単に崩れていく。
しかし、どこかに自分を信じたい気持ちもある。
それは西沙の心臓を何度も揺らしていく。
引き返せないことは最初から分かっていたこと。どんな終わり方になるのか、それだけはなぜか西沙だけではなく萌江と咲恵にも見えていなかった。特に未来を見ることに長けていた萌江ですら未だ見えてはいない。終わりはずっと先になるのか、もしくはあまりにもその未来の枝分かれが多いのか。
過去と今、それは未来と同時に存在している────それが全員の一致した考え方だった。
だからこそ過去だけでなく未来をも見ることが出来る。しかしならばなぜ未来だけが変動の可能性を含んでいるのか、それだけは誰にも分からなかった。時を超えることの出来る雫と楓にも理解の出来ないこと。
すでに暗くなった毘沙門天の本殿に松明の灯りだけが揺れていた。
その松明の燃える音に、いつの間にか小さく雨音が混じる。
その音に西沙が気が付いた直後、空気が変わった。
「────涼沙様です」
斜め後ろからの結妃のその声に、西沙は身構えた。
──…………来た……
「まったく、面倒な姉妹だよ…………」
虚勢を張った自分のそんな言葉に嫌気がさしながらも、西沙は続ける。
「チャンネルはそのまま……私を御陵院神社へ」
その御陵院神社の祭壇前には涼沙がいた。
その背後には長女の綾芽。少し離れて横に咲が控える。
どうやら中心になっているのは涼沙のようだった。その光景がまるでその場にいるかのように西沙の頭に浮かぶ。
そして涼沙の声が毘沙門天の祭壇の前に響く。
『萌江様が蛭子に行ったようだな…………西沙……貴様たちをこれ以上野放しには出来ぬぞ…………』
「へー、今まで野放しだったの?」
『やめろ西沙……貴様たちの未来には悲劇しか見えぬというのに…………今ならまだ戻れる。私とて実の妹を失いたくはない…………』
「ふーん、小さい頃からずっと私を恐れて嫉妬してきた涼沙とも思えない言葉ね。今さら優しい言葉で説得? 笑わせないで」
──……落ち着け…………感情的になるな…………
そう思った西沙を、不思議な感覚が包む。
それは今までに感じたことのないもの。違和感と言ってもいいだろう。
──……流されるな…………絶対に誰も犠牲になんかしない…………
その西沙の耳に涼沙の言葉が続く。
『西沙……本当の敵はどこだ? お前は誰と戦っている……見誤るな…………』
「何度もぶつかってきた相手に向かってよく言える」
──…………本当の敵……?
──……何のことだ…………?
何かがおかしい。
少なくとも西沙はそう感じた。しかしそれが何か、霧のように掴めないまま。
「血の繋がりなんて興味はない……もっと深いものを見てきた……血筋に寄りかかってきた姉さんたちとは違うよ」
西沙のその言葉の直後、祭壇の炎が大きく立ち昇った。
突然、空気の熱量が変わる。
──…………⁉︎
そこに涼沙の声。
『西沙……頂点に立つのは私だ…………萌江様ではない…………』
──………………!
無意識に西沙が立ち上がる。
背後からの強力な気配に振り返っていた。
そして叫ぶ。
「涼沙‼︎」
御陵院神社の祭壇前────。
涼沙も立ち上がっていた。
背後に、まるで寄り添うように立つのは、綾芽。
背中を丸め、頭を涼沙の首筋に押し付けている。
涼沙の腰の後ろ。
そこからまっすぐに────涼沙の腹部を貫く短刀。
小さく震える涼沙の巫女服が赤く染まっていく。
体温が急激に冷えていくのを感じた。
しかし中心だけが熱い。
涼沙は目を見開き、小さく唇を震わせながら、ゆっくりと首を回す。
その背後から聞こえるのは、綾芽の低い声。
「…………頂点に立つのはあなたではない…………涼沙……」
綾芽は手首を回す。
立てられていた刃が涼沙の体の中で横に回り、その衝撃が涼沙の意識を遠のかせた。
その横で、咲は表情を変えずに座ったまま。
綾芽が僅かに頭を上げる。
一筋の涙を零した涼沙の横顔を確認するかのように、綾芽が低い声で続けた。
「…………私です…………」
そして、短刀を真横に薙ぎ払う。
その血飛沫は、床を伝うように咲の巫女服までを濡らした。
その咲の口元には、小さな笑み。
──…………やはり…………覚えていた…………
涼沙の体が板間の上で立てた鈍い音は、毘沙門天の西沙の耳にも響く。
そして西沙が再び叫んでいた。
「────切って‼︎」
雨音が戻る。
それでも、静かだった。
西沙は膝を落として両手を床に着く。
全身から汗が吹き出した。
結妃と佐平治も震えが止まらないまま。
──……絶対に誰も犠牲にしない…………萌江…………
そう思った西沙の目には、もはや涙すらも浮かばなかった。
☆
雄滝神社。
当主への正式な引き継ぎの神事が終わって間もない頃の滝川麻人と陽恵の前で、まだ若い咲は深く頭を下げていた。
滝川恵麻の誕生はもう少し後のこと。
夏の強い夕陽が入り込む本殿。
改めて雄滝神社を訪れていた咲は、すでに当主への引き継ぎを確定させ、神事のスケジュールが模索されていた頃。
仮にも古くから御陵院神社は清国会の二番手。そこを引き継ぐということがどういうことか、咲ももちろん理解はしていた。それでもまだ世継ぎのいないまま、その肩に掛かるプレッシャーは思っていたより大きかった。
歴代の御陵院神社の当主は必ず三姉妹の世継ぎを産んでいた。その中から次の当主が選ばれてきた。そのプレッシャーもあった。
しかしその歴史の真実の一端を、咲はこの日、知ることになる。
「先日は大義であった。これからも清国会のために励みなさい」
陽恵のその強くも柔らかい言葉に咲は再び頭を下げながら応えた。
「ありがたき幸せにございます」
「御主ももうすぐ御陵院を引き継ぐ身でありますね。神事の準備は進んでおりますか?」
「はい……滞りなく……」
「そうですか……蛭子の加藤苑清も来るでありましょうが、そう言えば、御主は蛭子の歴史を知っておりますか?」
「……蛭子は清国会の中で一番の勢力を持つ社と伺っております」
咲ももちろん、今までの修行の過程で一通り清国会の歴史は学んでいた。しかし敢えてそれを問いてくる陽恵の真意は計りかねた。
陽恵の声は決して威圧感を感じさせるものではない。
その陽恵が返した。
「その一番の勢力を誇る蛭子がなぜ三番手に甘んじているのか…………そこには清国会の設立まで遡る必要があります。いずれ御陵院の当主となった暁には御主にも知ってもらうことになるでしょう。しかしそれより前に……御主の不安の種はやはり世継ぎですか?」
陽恵の言葉に、咲は視線を床に落として小さく応える。
「…………はい」
「心配は入りませんよ。男子が産まれたらここに連れて来ればよい。女子だけを残しなさい。女子の数が足りなければここに来ればよい。我々が用意します」
──……そういう……ことか…………
そのシステムによって御陵院の血筋は繋がれてきた。
それが現実だった。
それでも驚くと同時に、咲は気持ちが少し楽になる自分を感じた。あまりにも残酷な現実にも関わらず、咲はそれを受け入れている自分に恐怖する。その子供たちはどこから来てどこへ行くのか、それよりもこの時の咲にとっては自らの立場のほうが重要に感じられた。
「そして咲…………」
その陽恵の言葉に咲は顔を僅かに上げる。
次の陽恵の言葉に驚いた。
「これは異例のことでありますが……女子を一人…………預かってはくれまいか?」
「女子を……ですか? 養子ということでしょうか…………」
咲は陽恵の言葉の真意を計りかねた。
まだ最初の世継ぎが産まれていないのならば、様子を見てもいいはず。これからであるにも関わらず、なぜいきなりなのか。
陽恵は軽く息を吐いてから応えた。
「それで良い……まだ赤子です。長女ということにして構いませんが、修行の過程で見極めて欲しいことがありましてね」
──……どこから来た子なのか……出自は聞けないのだろうな…………
そこに、陽恵の言葉が続く。
「先ほど私は異例なことであると言いました…………出自は姫神湖です」
姫神湖とは雄滝神社の側にある大きな湖。
そこには姫神伝説が伝承として伝わっていたが、元々それは滝川家の数代前の当主────滝川御世によって作られたもの。清国会の思想に反発していた御世が清国会関係者の記憶を操作するために作った作り話。長い間、清国会は御世の作った嘘の歴史に振り回された過去があった。
陽恵の言葉が続く。
「数日前、従者の一人が湖に浮かぶ赤子を見付けました。もちろん最初は流木か何かだと思ったそうですが、動いていたので動物かと思って舟で近付いてみると赤子だったと…………沈まないだけでも不思議な話とは思いませんか? 何らかの〝意思〟が存在すると思われます。しかもどう見てもまだ産まれたばかり…………」
──……そんなことが…………
「姫神伝説と、何か関係のある赤子かも知れませぬ。咲…………御主の目で確かめてはくれぬか…………」
断れるはずがない。
咲はそのまま、まだ幼い赤ん坊を預かる。
名を〝綾芽〟と名付けた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二二部「冷たい命」第4話(完全版)へつづく 〜




