第三部「蛇のくちづけ」第1話(完全版)
あの子は魔性の子
生かしておいてはいけない
殺せ
殺せ
殺せ
☆
その夏は、蒸し暑い夏だったという。
それでも昔ながらの日本家屋というのは、良くも悪くも風の通りがいい。風の通り方を考えて作られていることが多い。
大正の初期から長く宮大工を生業としてきた安吉は、すでに八三才。五年前に肝臓に腫瘍が見付かってから長い闘病生活を強いられてきた。
それでも回復の見込みが無くなったことと安吉自身が望んだことで、二年前から家に帰ることを許されていた。定期的に病院から医者が来てくれてはいたが、それが形だけのものであることは安吉も知っている。健診や治療とは言っても、苦しみを和らげるだけのもの。
代々続く宮大工の家。お屋敷と言っても差し支えない立派な家だ。
広い一二畳の和室。
大きく開かれた障子の間からは夏らしい風が入り込んでいた。
そんな気持ちのいい風すら、一日の大半を横になって過ごしていた安吉にとっては忌々しくもある。
「もう、いつあの世に行ってもおかしかねえ頃だ…………あんたが来るってことは、そういうこったな」
安吉の、痩せた喉からの枯れた声に、隣に腰を降ろしていたタミが静かに口を開いていた。すでに七一才の齢とはいえ、その声の響きは未だ衰えてはいない。
「縁起でもないこと言うんじゃないよ。ワシは寺の坊主じゃないわな。デカい神社の改修工事になれば必ず声のかかってた伝説の宮大工のあんたがそんな弱腰でどうするね…………」
タミは地元の歴史ある古い神社────唯独神社を長い間護ってきた。現在の代としての神社を護るのは息子夫婦だが、現在でも祈祷や神事から離れてはいない。経験豊富な巫女としての地元の信頼は未だに厚かった。
「……もう昔の話だ…………歳に勝てねえのはお互い様じゃねえか」
田舎の小さな村。
二人の付き合いも長い。
「あんたの歳なら大往生さね。今日来たのは、あんたを看取りたくて来たわけじゃない。あんたに昔頼んだウチの社の改修工事のことで聞きたいことがあってな…………」
安吉はタミから顔を逸らすように天井に視線を移し、ゆっくりと返した。
「……改修? もう一〇年以上は昔の話じゃねえか」
その目はまるで、天井以外に向けられているかのよう。
それに気が付いてか、タミの言葉が少しずつ強くなっていく。
「そうさね……そのくらいにはなるかね…………屋根裏の柱…………〝逆柱〟にしたのは何故だい?」
安吉は開いた障子の向こうに見える縁側に視線を移す。
直接陽の光の当たった縁側の上に、薄らと、僅かな埃が漂っていた。畳の高さからの目線でなければ気付くことはないだろう。
──……こんな体になったからこそ、見えるものもあるか…………
そんなことを思いながら、安吉はゆっくりと応えた。
「そんなことを聞きに……わざわざこんな所まで…………」
枯れた声だからではない。明らかに安吉の声は弱々しいものへと変化していく。
それにタミが気が付かないわけがなかった。
「そうさ……あんたがあの世に行く前に聞いておきたくてね……」
「逆柱? あれは魔除けの意味じゃねえか。わざと一本だけ────」
「屋根を支える柱が総てひっくり返っていたがね…………」
タミのその声が空気を包む。
その雰囲気のまま、タミの声が続いた。
「私に気付かれないとでも思ったかい? 神道の世界に長く生きてきたワシでも…………あの数は〝呪い〟以外では聞いたことがないねえ」
「ほう…………あんたでも知らないものってあるのかい…………」
「ああ……この歳になってもいくらでもあるさ…………応えな、安吉」
再び風が入り込んだ。
蒸し暑い真夏の風だというのに、何故か軽い。
「…………俺は言われた通りに────」
「────誰にだ」
タミのその声は低さだけではない、凄みを持っていた。
そして、安吉は遠くを見る。
「…………言われたんだ…………あいつにな…………」
☆
長期予報通り、熱い夏になることを予感させるような春の陽気。
それは同時に、もうすぐ春が終わることを感じさせる。
日曜日。
咲恵が毎週通う山の中の一軒家は、街中よりは少しだけ涼しかった。
「あら、熱中症には気を付けてね。畑仕事のおばあちゃん」
車を降りた途端にそう声をかけた咲恵に、ゆっくりと萌江が振り返る。
そして懸命に笑顔を抑えながら返した。
「……ま、まだまだ若いもんには…………」
「コントしに来たわけじゃないわよ」
「冷たい……せっかく朝から考えてたのに」
「そんな冷めたボケより、何それ?」
咲恵は萌江が庭の真ん中で手にしているものが気になった。何やら長い取手の着いた機械を地面に押し当てている。
「あ、これ?」
意気揚々と続ける萌江。
「電動の小型耕運機買った!」
「ああ、畑作りたいって言ってたね」
咲恵はそう言いながら乾いた土をローファーで踏み締め、庭に面した縁側に歩を進めた。
不規則に掘り起こされた庭の土はやはり湿度を纏っているのか、僅かに色が濃い。それを見ながら縁側に腰を下ろした咲恵に向けて、萌江が満面の笑みを浮かべていた。
「うん!」
まるで子供のような表情を浮かべて声を上げる萌江を見ながら、咲恵も自然と笑顔になる。
その表情に応えるように萌江が繋いだ。
「なんだかまだよくわかってないんだけどとりあえずやってみようかと」
「うん、よく分かってないことは伝わった。とりあえず熱中症には気を付けてね」
「まだ春だよ」
応えながら、萌江も軽く息を吐きながら縁側に座る。
春の昼前にしては強い陽射し。
すぐに咲恵が返した。
「春なのに夏日の気温だから言ってんの。でも山の中はだいぶ涼しいみたいね」
「まあね。ここで暮らしたくなった?」
「残念でした。久しぶりに仕事の話したら帰ります」
「…………ずっといてよ……」
少しトーンを落とした萌江のその声に、咲恵は少し驚いた。
視線を落とした萌江が、咲恵の手を両手で包んでいる。
「…………ここで……一緒に暮らしたらいいじゃん…………ずっと一緒にいよ」
その言葉に、少し咲恵は戸惑う。
それでも大きく上がった萌江の瞼がゆっくりと降りていくのを見ると、慌てたように咲恵は返していた。
「ちょっと…………冗談だってば……帰るわけないでしょ。今日は美味しいご飯作ってくれるんでしょ?」
「ふふ…………その通り…………」
途端に萌江はいつもの笑顔を浮かべて続ける。
「一晩塩麹に漬け込んだ鳥の胸肉を朝にはオリーブオイルと白ワインと塩胡椒でさらに漬け込んで────」
「とりあえず美味しいわけね」
「任せなさい」
事実、咲恵は萌江の作る料理が好きだった。
例えアルバイトとはいえ、伊達に料理の世界にいたわけではなかった。最初は化学の実験のように感じたらしい。なんとなくその考え方が、心霊現象を科学的に検証するのが好きな萌江らしいと、常々咲恵は感じていた。
そして街中にいた時以上に、山の中で生活している萌江は料理を楽しんでいるようにも見える。かつては食べてくれる人がいないと料理をする気になれないと言っていた萌江だったが、やはり今の環境のほうが街中よりも向いているのだろうか。
「麦茶飲む? 朝に作っておいたよ」
萌江は立ち上がると真っ直ぐリビングを抜けてそのまま台所へ。冷蔵庫の扉の音と氷の音が縁側まで届き、それだけで涼しげな空気が流れた。
「水周りのリフォームって全部終わったんだっけ?」
縁側から声を上げる咲恵に、グラスを二つ持って近付きながら萌江が応える。
「この間、台所の排水部分も終わったから、これで全部だね」
言葉のやり取りのようにグラスを受け取った咲恵が返した。
「お風呂場もトイレも綺麗になったしねえ。外壁もするの?」
中に断熱材など入っているはずもない薄い壁。外は板。中は土壁。冬のことを考えたら、例え薪ストーブがあるとはいえ壁のリフォームも考えるのが妥当だろう。
「んー…………やったほうがもちろんいいとは業者にも言われたけど…………屋根と外壁はそのままでもいいかなって思ってる」
こう応えた萌江は、意外にも、この家の古い佇まいが嫌いではない。
「そうなの?」
そう返す咲恵にも、そんな萌江の気持ちが分からなくはない。
「なんか、この家の見た目って、嫌いじゃないんだよね。屋根の瓦とか…………だから、中の床と壁を変えて快適に暮らせれば、それでいいかな。外の壁はそのままで」
そう言って萌江は笑顔を浮かべて続けた。
「いいものは残していきたいじゃん。総てが新しいってなんか寂しい感じがして…………勿体ないしね」
萌江は爽やかな笑顔を見せる。
その表情に、自然と気持ちの穏やかになった咲恵が返した。
「なんだか、分かるかも…………お互い歳とったねえ」
「まだまだ若いもんには負けんよ」
「で、今回の仕事なんだけど…………」
「どうしてスルーされるのか」
「仕事には真面目に取り組んでもらいます」
「はーい」
そしてグラスの麦茶を口に運んだ萌江が後ろに倒れるように寝転がると、軽く笑顔を浮かべた咲恵が話し始める。
「ちょっと遠いよ。だいぶ南」
「いいじゃん。新婚旅行みたいで」
「仕事だと心霊旅行だよ…………みっちゃんの依頼だから少し面倒だし…………」
「みっちゃんの依頼が面倒なのはいつものこと。勿体ぶらないで言ってみなよ。萌江ちゃんが解決してあげるから」
「……霊能力者が絡んでる…………」
「…………ほう……」
萌江が体を起こした。
そして、その口元に微かに笑みが浮かぶ。
その横顔に、咲恵の不安が揺れた。
萌江はいわゆる〝霊能者〟という存在を嫌う。決して同業として見ているわけではない。
理由は〝真に認められる人物に会ったことがない〟というものだった。自ら霊能者と名乗る人物に何人か会ったことはある。しかし、その誰もが嘘の塊だった。きっかけが何かはそれぞれかもしれないが、嘘を吐き続けている内に自分でもそれを信じることに注力してきた人たちばかり。
そのためか、霊感があるという人たちにはなぜか二種類の〝目〟しか存在しない。
嘘を見抜かれるのを恐れての〝怯えた目〟。
懐疑的な相手に対しての〝攻撃的な目〟。
だから自分を信じてくれるコミュニティの中にだけいたがる。否定的な意見を聞きたがらない。そして気が付くと排他的になっていく。
信じる者と信じない者の壁は厚い。
お互いに相手の考えを聞くことには不安が付きまとう。同じ気持ちの者同士では生まれない気持ちの騒つき。それは嫌悪と同時に恐怖するもの。
それは、出来ることなら誰もが〝排除〟したいもの。
それこそが、萌江が最も嫌うものの一つ。
咲恵が続けた。
「〝呪われた土地〟って言われてる所なんだけど…………」
「安っぽいなあ、みんなそういうのが大好きだから世界中にあるが」
「まあ、そうなんだけど、今回は〝首狩の村〟って言われてる心霊スポット」
「ああ、あそこね…………」
再び後ろに体を倒した萌江が続ける。
「昔、処刑場があったって言われてる所でしょ? そういう所って全国にあるみたいだけど…………確かそこって、土砂崩れで埋まったんだっけ?」
「その土砂崩れもその処刑場の呪いじゃないかって言われてる所」
「ありがちな設定だなあ」
予想通りの萌江の反応。
確かに全国的に見ても有名な場所だった。かつてはテレビでも取り上げられたこともあったようだが、あいにく萌江も咲恵も年齢的に話に聞いたことがあるだけ。それでもネット上では未だに話題に登ることがあるほど。
咲恵は冷たい麦茶を喉に大きく流し込んでいた。外気温の高さに反する冷たい感覚が喉の中を滑り落ちていく。
今まで萌江が満田からの依頼を断ったことはない。しかし今回に関しては、よりによって萌江の嫌がる要素が複数含まれていた。だからこそ咲恵は今回の依頼に関しては初めから〝不安〟を持っていた。
その不安を完全には拭い去れないままの咲恵の説明が続く。
「そこもだいぶ前に再開発で住宅地になってたみたいなんだけど、結局自殺者とか体調不良者が続出して今は廃墟が並んでるって場所…………子供の頃にテレビとかでも紹介されてた気がするんだけどさすがに覚えてないなあ…………」
「そうだったねえ。今はテレビも見なくなったから知らないけど…………最近はネット動画かなあ。あそこはまだまだ根強い人気みたいだけど…………地元の人間からしたら迷惑もいいとこだろうね」
「でしょうね…………実際行政側も困ってるみたい。元々周りを山に囲まれた擂り鉢状の街なんだって。だからどうしても閉鎖的になってきた歴史があるみたいなんだけど、そこに変な噂があるんじゃ人口なんて増えないからって…………」
「人口減少の理由がそれだけとは思えないけどね…………」
そう言った萌江がグラスの麦茶を喉の奥に押し込む。
その汗ばんだ首筋を横目で見ながら、咲恵が続けた。
「その〝首狩の村〟の近くにトンネルを掘ってるらしいのよ。そしてお決まりの事故の多発…………それが最近また処刑場の呪いって話題になってるみたい。行政はどうしてもトンネルが欲しくて一〇年くらい前から工事をしてるらしいんだけど、今じゃ呪いを怖がって請け負う業者も無くて困ってるみたいね」
「トンネルで交通の便が良くなれば企業誘致もしやすい、か」
「そんなところでしょうね。地方の街からしたら人の流れが活性化に繋がるわけだし」
「そういう時代か…………」
萌江はそれだけ呟くように応えると、縁側から立ち上がって体を伸ばす。Tシャツが僅かに汗で肌に張り付いたまま、両腕を上に伸ばし、軽く左右に体を揺らした。
咲恵はなぜかその姿から目が離せない。
その咲恵が立ち上がりかけた時、萌江が首だけで振り返った。
咲恵はその目にハッとし、浮かしかけた腰をそっと降ろす。
口を開いたのは萌江。
「まさか今回の依頼って、市役所とかじゃないよね」
僅かに慌てた自分を見透かされまいと、咲恵は平静を装いながら応えた。
「まさか…………奉行所が必殺仕事人に依頼したらビックリだわ」
「それもそうだ」
その萌江の笑顔を見て、なぜか咲恵は胸を撫で下ろしながら返す。
「最初に話した霊能力者って……神社のお祓いじゃ手に負えないからって宮司さんが依頼したみたいなんだけど、その霊能力者も息詰まって…………自分の所の税理士に相談したみたいなのよ」
「税理士? 耳の痛い話だ」
「相談っていうか、愚痴みたいなものだったんでしょうけど…………その税理士って、みっちゃんの知り合いだったのよねえ」
「さすがに顔広いねえ。でも税理士はまずいなあ。奉行所に目をつけられちゃマズいじゃん」
「それは大丈夫。お金を払うのは霊能力者だけど、税理士経由で直接みっちゃんに渡るし、私たちが税理士に会う必要はないよ。それに…………裏の仕事だって分かって依頼したみたい。もちろん私たちが何者かも知らずにね」
「あの業界の人って、なんだか〝裏の仕事〟が好きだよねえ…………」
「まさか…………みっちゃんってほら、なんか裏で手を引いてる悪代官みたいだからじゃない?」
「どんな理由だ…………ま、よほど困ってるってことかな。税理士ってことは行政とも繋がりがあるか…………地方の閉鎖的な田舎街ねえ……手間のかかりそうな仕事だなあ」
咲恵には、萌江が乗り気じゃないのが口調から分かっていた。税理士の存在だけが問題ではないようにも見える。
──……まさか…………早速何か感じてる…………?
「それよりさあ」
再び振り返った萌江が、咲恵の目を見ながら続けた。
「咲恵…………さっきからいやらしい目してる」
「ちょっとだけでしょ⁉︎ してません!」
「認めたじゃん。私の背中に興奮して────」
「してないから!」
☆
さほど夜の業界が忙しくない時期でもある。
五月のゴールデンウィークが終わった直後。人の動きは少ない。咲恵の店は元々観光客をターゲットにした店でもないため、旅行を中心に世間の動きが激しくなるゴールデンウィークはそれ自体が静かな期間だった。しかもお金が動き続ける時代でもない。多く使った後の財布の紐は硬くなる。そんな頃。
今回の仕事はさすがに咲恵も店を休まざるを得なかった。距離もあるが、それより長期の案件になる可能性が高かったからだ。念のために一週間、店を女の子たちに任せてきたが、長く働いている子たちばかり。時期的にも何の問題もないだろう。咲恵が危惧しているのは新婚旅行と思われていることぐらいだ。
季節外れの夏日が続いていたが、その街は海から距離があるにも関わらず比較的穏やかな気候だった。
周囲の山の連なりが影響していることは明白だ。低い山々とは違い、標高が高めの山が多い。山から降りてくる風の通り道も形状的に確保されているため、空気が淀みにくい所だった。
そんな説明を、なぜか萌江と咲恵の二人は街の税理士事務所で聞かされていた。
古いテナントビルの三階。
昨今の陽気のせいか、すでにエアコンのスイッチが入っていた。
その応接室には三人だけ。
萌江と咲恵の二人は五〇代くらいと思われる税理士と、麦茶の入ったグラスが三つ乗ったテーブルを挟んで対峙していた。
立坂修二────周囲の三つの村を吸収合併した、この市の税理士協会の会長でもある。
その立坂が街の立地条件を説明した後、ゆっくりと話を本題に持ち込む。
「それで、今回のご依頼の件なのですが…………」
穏やかな笑顔。
萌江はあちこちに視線を転々としながら落ち着かない。
目の前のグラスの隣に置いた名刺に視線を落としたまま、咲恵が返す。
「ええっと…………立坂さん…………私たちは…………そのですね…………」
──……みっちゃん……寝返ったな…………
「ご安心を…………お二人のことは満田さんから総て伺っております」
笑顔でそう応える立坂に、反射的に咲恵が声を上げた。
「すべて⁉︎」
「満田さんは私の大学の先輩に当たります。大変お世話になりました。お二人のことは常々…………」
「つねづね⁉︎」
「実は以前から存じ上げておりました」
「以前から⁉︎」
──……目をつけられてたか…………
「すでに何度か、お二人には私からの依頼を受けて頂いているんですよ」
そう続ける立坂はやはり笑顔。
麦茶を冷やしている氷が小さく音を立てると、咲恵ももはや条件反射で返していた。
「────何度かって──」
「私の名前と職業は伏せておりましたが」
「……はあ」
「なんか…………隠れてこういうのって、かっこいい感じがしてましてね…………」
そう言って、まるで子供のような笑顔を浮かべる立坂に、萌江が身を乗り出す。
「立坂さん」
萌江が真面目な声で続ける。
「これからもよろしく」
「それはありがたい」
立坂の満面の笑みを見ながら咲恵は思った。
──……裏の元締めか?
その立坂が続けた。
「いつかお会いしたいとは思っていましたが、私の職業柄…………お二人が嫌がるんじゃないかと満田さんが申されましてね」
──……そりゃそうだ…………
そう思いながらも咲恵が返す。
「そうでしたか…………それで、今回のご依頼ですが────」
「ドキドキしますね」
無邪気な笑顔を見せる立坂を見て咲恵は思う。
──……この人もだいぶヤバいな…………
「ではまず、時系列順にご説明します。現在〝首狩の村〟と呼ばれている場所の説明からになりますが…………そこは確かに昔の処刑場があった場所で間違いないようです」
「心霊スポットって嘘のウワサ多いけど、本当なんだ」
その萌江の言葉に立坂はすぐに返した。
「そうですね。戦国時代というんですか…………今はありませんが慰霊碑まで建てられていたそうでして……とは言っても昔の物ですから当時の村が定期的に管理する程度だったと聞いています。そこが昭和六〇年に小さな村ごと土砂災害で埋まってしまったことも事実です。村人もほとんどが犠牲になったと伺っておりますが、実はその村が吸収合併されることはその前から決まっておりましてね。村全体がそんな状況ですから、強制的に吸収を急ぐしかなかったんでしょうな」
そこに言葉を挟んだのは萌江だった。
「土砂災害で生き残ったのって何人だったの?」
「お一人と伺っております」
「一人だけ?」
「確か若い女性だったと聞きましたが…………残念ながらそれ以上は…………」
「ふーん…………」
小さくそう応えた萌江の目が、僅かに遠くを見る。
そして続けた。
「ごめん、続けて」
「はい…………市が再開発を始めたのが平成元年です。年号が変わったことでイメージを変えたかった意図もあったようですが、平成最初の公共事業ということで力を入れたそうですよ」
「その時の住宅地は無事に完成したんでしょ?」
「はい、最終的には五年ほどで…………それなりに事故はあったでしょうが、村の名前も無くなったことで災害とは言っても風化いたしますし、住民も増えて何も問題はなかったといいます。私が税理士の職に就いたのがその頃でしてね。おかしな話が広がり始めたのが、確か平成一〇年頃だったと思います。世帯数は五〇程度あったのですが…………そのほとんどで次々と自殺者が出ましてね」
「呪いの始まり?」
そう言って麦茶を一口だけ飲み込んだ萌江に、立坂は肩を落として続けた。
「そうです…………しかも精神疾患を患う住人が増えました…………市は昔のことがあったのですぐに神社にお祓いをお願いしたのですが、それからも自殺者は増えました。テレビに取り上げられたのは丁度その頃だったと記憶しております。それからはいくつもの神社から宮司さんをお呼びしたのですが、結局解決しないまま住人はいなくなっていきました」
萌江はソファーの背もたれに背中を押し付ける。小さく息を吐くと、少し間を空けてから返した。
「そして廃墟群になって今は心霊スポットか…………嫌な話だね。その廃墟の街…………市はどうするつもりなの?」
「もちろん以前から新たな再開発の話はあります。近くにトンネルを掘って、同時進行で廃墟を総て取り壊して再び住宅地にしたいと…………」
「元の住人でまだ生きてる人は? 土地の所有者問題とか」
「総て市が買い取りました。そのくらいに大規模な公共事業計画だったんです」
「そっか、トンネルが出来て企業進出を誘致出来れば、いずれは人口が増えるし」
「そういうことです。しかし、事故があまりにも多過ぎました。いくら大規模な工事とはいえ、一〇年で三〇人近くが亡くなっています…………元々噂のあった土地ですし、最近になってまた話題になってきましてね」
「それで霊能力者を頼んだの?」
そう言った萌江の目が僅かに鋭くなったのは、立坂にもすぐに分かった。
それでもすぐに返す。
「直接的には、以前にお祓いをお願いした宮司さんからの紹介だったようです」
「地元の人?」
「ええ…………残念ながらまだ効果は無いのですが…………事務所の立ち上げ段階で私が絡んでいる方でもありましてね」
──……やっぱり気になるか…………
そう思った咲恵が口を挟んだ。
「なるほど…………事の流れは分かりました。でも満田さんに話を持ち込まれたということは、立坂さんの中でも何か引っかかるものでも?」
「ええ」
そう言って立坂は少しだけ身を乗り出して続けた。
「今回は私の地元ですし、だからこそ……今回は無理をしてお二人に会わせて頂きました」
そして萌江の口元に笑みが浮かぶ。
──……変なことにならなきゃいいけど…………
そう思った咲恵が一番気にしているのは、そこだった。
立坂の言葉が続く。
「お祓いで事が収まらないということは…………必ず他に理由があるはずです。私は〝呪い〟の理由が知りたいだけですよ」
そこに笑みを浮かべた萌江。
「元締めに頼まれちゃ断れないねえ」
そして、咲恵が小さく溜息を吐いた。
☆
強い陽射しが容赦無くフロントガラスを突き抜けていた。
すでに車内もエアコンが必須の暑さ。
すでに街中から少し離れ、周囲の建物が少なくなり、やがて舗装された道路は登り坂へ。
車の外に山の影が見えてくると、後部座席の咲恵も幾分か気持ちが引き締まった。しかしその理由までは、なぜか見えない。何かが少しずつ足元から浮いてくるような、そんな感覚があった。
──……やっぱり、土地に何か…………?
やがて道路の左右を埋める住宅の群れが突然現れた。
ほとんどが似たような二階建ての家。行政の土地開発の一環で建売の新築が多かったのだろうか。
「確かに見事なまでの廃墟群ですね」
外の景色を眺めながらそう呟いたのは咲恵だった。
運転席から立坂が返す。
「取り壊しの業者ですら見付からない有様ですよ」
道路の連なり自体は碁盤の目状のよくある新興住宅地だったが、並ぶ家々は明らかに人の手が入っていないことが伺えた。多くが雑草に囲まれた状態で放置され、ガラスの割れた場所も見える。不法侵入が横行していることは目に見えて明らかだった。
しかも住宅地全体ではかなりの広さ。その点でいくと行政が見捨てられないのも頷けた。
市の中心部からは若干の標高の高さがあったが、目線を変えれば見晴らしのいい場所とも言える。小さなスーパーマーケットのような建物も見えた。中心地からの交通の便も悪くはない。元々冬でも雪が積もるようなことは稀な地域。立地条件だけなら住みやすそうにも見える地域だった。
咲恵の隣に座って外を眺めていた萌江が、突然胸元に左手を添えた。
「萌江? どうかした?」
思わず声をかける咲恵に、萌江は平静を装う。
「ん…………大丈夫」
しかしその目は何かを訴えていた。
──……水晶が熱いんだ…………
咲恵がそう思った時、車が静かに停まる。
「こちらが、土砂災害の時の慰霊碑です」
そう言って外に出る立坂に、二人も続いて外に出た。
標高のせいか、陽射しの強さに反して、まだお昼時だというのに風が涼しい。
住宅地の外れ、周囲の林に隣接した場所。
五メートルはありそうな立派な慰霊碑がそこに聳えていた。周りの廃墟群の雰囲気からすると異質に見えるほどの物だ。すぐ隣には説明文が彫られた石碑もある。添えられている花も最近の物だ。しっかりと人の手が入っているのが分かった。
「毎年の慰霊祭は今でも続いています。もっとも、最近の参加者は市役所の職員だけですがね。あとは地元新聞社のカメラマンが来てくれるだけです…………」
そう言いながら、立坂の声はどこか寂しげ。
そして、慰霊碑の周りは林に囲まれていた。
なぜか萌江はその林に目を配り、上を見上げている。
──…………どうしたの?
咲恵がそう思って萌江を目で追った直後、萌江が呟く。
「鳥の声がしない」
──……ホントだ…………
咲恵も言われてから気が付いた。
慰霊碑の周りだけでなく、住宅地自体が山に続く林に囲まれているにも関わらず、確かに静かだった。
春。
季節的にも野生動物の静かな時期でもないはず。萌江も山の中で暮らしているせいか、この静けさが異質なものに感じるのだろう。
応えたのは立坂だった。
「そうですね…………この近辺の山にはどういうわけか野生動物がほとんどいないそうですよ」
「まさか」
萌江の言葉に立坂はすぐに返した。
「下には畑もありますが、獣害と無縁の土地だそうでして……住みやすい所だと思うんですけどねえ」
──……そういえば…………この街に来てから虫も見てない…………
咲恵の頭にそんな言葉が浮かんでいた。
──…………どうして………………
そして、遠くからの車の音。
ここは廃墟だけが並ぶ街。
心霊スポット巡りの車なら夜。それ以外の車が来る理由はない。
咲恵が少しずつ大きくなるその音に顔を向けると、そこに現れたのは一台の黄色い軽自動車。
やがて、その車は立坂の黒い車の隣に停まった。
そこに振り返る立坂と違い、まるで萌江は分かっているかのように林の奥に目を向けたまま。
車を降りてきたのは小柄な女性だった。
萌江や咲恵よりもかなり若い。二〇代前半だろうか。黒いショートボムの髪に、実際に見ることの少ない黒いゴシックロリータの衣装。車を運転するためか、底の厚いブーツのヒールは決して高くない。
唖然とする咲恵を無視し、その女性は白いレースの装飾を揺らしながら口を開いた。
「立坂さん、こんな所に呼びつけるってことは…………この人たち?」
威圧的な態度に少し違和感を感じながらも、咲恵の中にイメージが浮かぶ。
──……なるほど……そういうことか…………
すぐに咲恵の側に寄ってきた立坂が、西沙の表情に目を配りながら返した。
「お待ちしてましたよ西沙さん。こちらのお二人です」
──……策士な元締めだこと…………
咲恵はそう思うが、女性の感情までは見えない。
女性は自らの身長の低さを利用するかのように腰を軽く曲げると、わざと低い位置から咲恵を見上げて口を開いた。
「ふーん…………」
女性は目を細めながら続ける。
「どんな霊能力者が来るのかと思ったら…………ただのおばちゃんじゃん」
──……やっぱりそうくるか…………
咲恵はそう思いながらも表情を変えることすらないまま、そのピリピリとした雰囲気を恐れた立坂が口を開く。
「こちらは御陵院西沙さんです…………まだお若いですが、街ではちょっとした有名人でしてね…………」
御陵院西沙と紹介された女性の目を、咲恵は見続けた。
──……あれ? ……この子…………
何か、吸い込まれるのとは違う。
それでもその目は、咲恵がそれまで見たことのない目。
「黒井咲恵です。よろしく」
身長の高い咲恵は、意図せずに見下ろすように手を差し出していた。
軽く視線をずらしながら西沙が手を出す。
「……よろしく」
すると立坂が額の汗をハンカチで拭いながら挟まった。
「それで……あちらの方が…………」
全員が顔を向けた時、林を見上げて背中を向けたままの萌江の声。
「大したことないね」
そしてゆっくりと首だけ振り返った萌江が続けた。
「でもそのゴスロリのスカートから伸びる太もも…………私は好きだよ」
「変態⁉︎」
西沙の張り上げた声が林に木霊した。
そして、咲恵が小さく溜息を吐いたのには誰も気が付かなかった。
☆
昭和四三年。
その村で古くから続く唯独神社に、京子は長女として産まれた。
父、清吉。母、依。祖母、タミ。
清吉は代々の血を受け継ぐ宮司として村人から尊敬を集め、依は隣町の神社の血を引き継ぐ巫女として嫁いできた。
清吉の母であるタミはたまたま男兄弟がいなかったために神社を護ることになり、その類まれな能力で村人をまとめてきた過去を持つ。
決して大きな神社ではなかった。それでもその村にとっては生活の中心。
そして唯独神社には、代々伝わる二つの水晶があった。
しかも必ず女系に授けるようにと言い伝えられてきた。そしてなぜか神社を引き継ぐのは男女が交互。そして清吉の次はやはり長女の京子。いずれはその京子が水晶を受け継ぐことになる。
僅かに黒味がかった〝火の玉〟と、透明な〝水の玉〟。
必ず対になる形で保管されてきた。
純日本産の水晶は珍しい。そしてこの二つの水晶は災厄を退ける効果があるとされた。
通常は三才になる時に正式に伝承されてきたが、タミの言葉によって産まれた直後に伝承されることになる。
「安吉は嘘は言わん…………まだボケてもおらんしな」
田舎の小さな神社。鳥居を抜けるとすぐに拝殿があり、そして本殿となる。その本殿の中、早朝の神事が終わったところで清吉はタミに呼び止められていた。
そのタミが続ける。
「屋根裏の逆柱の件はお前にも分かったであろう。一〇年以上も結界で隠すとはどういう了見かと問い詰めたら白状しおった」
清吉にもそれは驚くことだったが、理由を分かりかねていた。
本来、建物の柱は太さや長さに関わらず、木が地面に生えていた時と上下は変えない。わざと一本だけ逆にするという考え方もあるようだが、それは〝完成したものは後は衰退していくだけ〟という考えから、敢えて不完全にするためだ。しかしそれは稀であり、基本的には上下を逆にすることはない。
それをするとしたら、その多くは〝呪い〟をかける時。さらにその柱に呪物を括り付けることもあるという。建物の柱を〝呪い〟で逆柱にするのは当然誰でも出来ることではないし、大抵は指示を受けた大工が行う。古くは必ずしも家の持ち主が家を建てるとは限らない時代に存在した呪詛。そして歴史的な建造物で見られるとしてもそう多くはない。よって、呪詛としてはあまり有名なものでもないのが実情だ。
「それで母上、理由とは、どういう…………」
「…………〝蛇〟に…………言われたそうじゃ……逆らえなかったと…………」
「蛇…………ですか……しかし、蛇は守り神として祀られている神社も多くありますよ」
「神が逆柱で呪いなんぞかけるものかね。神と魔というものは紙一重じゃ…………魔に魅入られた神もおる。その類のものかもしれん。細かいことが分かるまでは下手に屋根裏には手を出さんことじゃ」
「そうですね……警戒はしておきます。無事に京子も産まれたばかりですし…………」
「京子にはすぐに水晶を授ける…………水晶無しであの子を本殿に入れるわけにはいかん」
母の依と産まれたばかりの娘の京子が退院するには少々日数がかかった。
出産時、京子の首に臍の緒が巻きついていたからだった。一時は小児集中治療室に入ったが、それでも一〇日で退院することが出来た。
退院した日の夜、寝ている京子を見下ろすタミがいた。
「お母様…………どうされました?」
そう聞く依の声に、タミは呟くように応えていた。
「…………蛇が…………巻きついておる……………………」
その夜、安吉が亡くなる。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第三部「蛇のくちづけ」第2話(完全版)へつづく 〜