第二二部「冷たい命」第2話(完全版)
室町時代。
大永二年。
西暦一五二二年。
すでに年の瀬。
細かな雪が舞う夜のこと。
加藤砂宮は清国会の後ろ盾により、雄滝神社からの従者五〇名余りを従えて恵比寿神社へと向かっていた。その従者のほとんどが源氏筋の者たち。
砂宮は妻のオユキと共に戌亥村を捨てた。
お互いに村で産まれ、村と共に生きてきた。
しかしその戌亥村の建物も人々も、総てが今や灰と化した。
恵比寿神社の遠藤重富の手によって、加藤家は総てを奪われたと言ってもいい。
その黒幕が雄滝神社の滝川氏綱であることなど、もちろん砂宮は知らないまま。その氏綱に導かれるまま、砂宮は清国会に足を踏み入れる。
「恵比寿の遠藤家を許してはならぬ」
その氏綱の言葉は、冷静な判断を失っていた砂宮にとっては自らの気持ちを奮い立たせるには充分過ぎた。
その〝怨み〟を氏綱は欲した。
清国会が欲した。
その怨みに呑まれた砂宮が恵比寿神社に辿り着いた時、すでに時は子の刻。
恵比寿の遠藤家といえば、その派閥勢力は強大なもの。それは全国的にも有名だった。大きな軍勢が向かうとなれば、それが大きいほどに情報も漏れやすくなるというもの。事前に察知される危険性は高くなる。
そのため、遠藤家の息の掛かった全国の神社にはすでに氏綱が手を回していた。同時に大きな金銭が動く。それだけ氏綱は今回の自作自演の物語に清国会の未来を賭けていた。
多くの時間も掛けていた。
失敗は許されない。
それは、清国会を完全に雄滝神社の滝川家のものにするため。
永きに渡る内紛を終わらせ、朝廷そのものを清国会が牛耳るため。
遠藤家の仕業と見せかけ、氏綱が砂宮を騙した。総ては氏綱の手による台本。遠藤重富は何も知らないこと。
その夜。
深い森に囲まれた恵比寿神社は静かだった。辺りには僅かに松明を燃やした匂いが残るだけで、乾いた空気までもが静まり返る。まるで夜空までもがこれから起こることを待っているかのようだった。
巨大な本殿を軍勢が取り囲む。
夜空から、細かな雪が、ゆっくりと降り注ぐ。
その中から放たれるのは、火を伴った幾本もの矢────空を照らしながら、その矢は瞬く間に空気を切り裂く。
自然の摂理によって生み出された雪の結晶たちが、その存在を散らしていく。
その幾つもの小さな炎は、途端に空を燃やした。
乾いた空気に包まれた本殿の木材が熱を吸い込み、風を作り出す。
そして火が走った。
悲鳴と怒号が響く中、炎から逃げ惑う人々が軍勢によって次々と斬り殺されていく。
火の粉が辺りを照らしていた。
命を絶たれようとする者たちの呻き声がそれを巻き上げる。
血の匂いが炎の匂いの中に漂い始めた。
立ち尽くしていた砂宮は、ゆっくりと腰の刀を抜く。
完全に本殿は包囲されていた。
例え遠藤重富が外に出て来ようとも、逃げられることはない。
殺さずに捕らえるようにと砂宮から指示が出されていた。
人相の特徴も全員に伝えられ、全員が砂宮によって作られた復讐劇のためだけに動く。
──……私が……村人たちの復讐を果たさねば…………
しかし、未だ報告は入らない。
そして、痺れを切らした砂宮が動く。
ゆっくりと、炎に包まれた本殿へと足を踏み入れた。
周囲からの炎の熱さなど感じない。
自分の命などどうでもよかった。
村人を皆殺しにされた怨み。
それだけが砂宮を支える。
やがて本殿の奥の一室。
重富は薄い浴衣のまま妻と思しき女性を抱きしめ、鬼の形相の砂宮へと震えた目を向けていた。
「────恵比寿神社当主……遠藤重富殿と御見受けするが、相違ござらぬか」
砂宮の重いその言葉に、重富が何かを覚悟したように口を開く。
「いかにも……己が遠藤重富である……何者か名を名乗れ!」
「戌亥村…………戌亥神社当主……加藤砂宮…………村を焼き払われた怨みを晴らしに参上仕った」
人を殺したことなど無い。
あるはずがない。
しかし、砂宮に抵抗は無かった。
「────村を⁉︎ 一体何の話を────」
しかしその重富の言葉は、脇腹に深く食い込んだ刀からの激痛で消える。
その痛みの中で重富は妻を突き飛ばし、体を仰け反らした。その呻き声を漏らす重富の体から刀を抜くと、砂宮は一気に振り上げる。その勢いで、視界に血が舞った。
そして、歴史が動いた。
それより数ヶ月。
新たな本殿が建築され、加藤砂宮は全国でも有数の派閥を手に入れ、同時に清国会の三番手の地位を手に入れた。総ての神社が派閥の頂点を失ったことで清国会への反発心を削がれることになる。同時にそれは恐怖政治の始まりでもあった。
名は〝恵比寿神社〟から〝蛭子神社〟へ。
その新たな蛭子神社の祭壇前で、砂宮は雄滝神社の滝川氏綱の御前。
頭を下げる砂宮の耳に、氏綱の低い声が響いた。
「御主にも見えるか」
「はい」
「やはり天照大神様の血を継承するのは金櫻家で相違無いな。金櫻家さえ手中に納めれば、いずれ朝廷は我ら清国会のものぞ」
「…………はい……」
しかし、砂宮には別のものが見えていた。
真実が見えていた。
遠藤重富の怨念が見せたのか、それは清国会の発端。
行方をくらました金櫻家の真の歴史。
砂宮は初めて、自分が利用されていただけであることを理解した。
そして砂宮はそれを口にすることを恐れた。
──……もはや……戻ることは出来ぬ…………
それでも、誰かに伝える義務を感じていた。
──……清国会とは何だ…………
──…………私は何のためにここにいる…………
もはや砂宮には、何が正しかったのか、それを見極めることは出来ていなかった。目を背けていたと言ってもいいだろう。
そして砂宮は自分の見た真実を後世に託すため、文献を残す。
それは蛭子神社の中で長く眠り続けることとなった。
やがて、現代。
加藤苑清が見付けるまで、砂宮の文献は埃を被り続けた。
☆
毘沙門天神社。
蛇の会の中心となっている場所。
元々は清国会に所属していた神社。そのため清国会の歴史へのアクセスには申し分ない。萌江たちの策略によって清国会を離れることとなった。現在は清国会の干渉からは守られていたが、その中心となっていたのは西沙の〝幻惑〟の能力。
しかし同じように西沙によって守られていたはずの立坂が内閣府によって拘束されたことで、西沙の気持ちは揺らいでいた。
実の母親である咲に捨てられ、まるで親代わりのような存在が立坂だった。しかも御陵院神社を追い出された西沙に居場所まで作ってくれた。そして蛇の会を立ち上げ時から支えてくれた存在。間違いなく今の西沙を作った人物の一人。西沙の人生に大きく関わってきた。その立坂が今、清国会によって奪われた。
杏奈も蛇の会を去って行った。いつも隣にいてくれた存在だった。しかも何度も杏奈には助けられた。杏奈がいなければ解決が遅れた事案は今までにいくつもあった。
萌江ほどではなくても西沙もある程度は未来が見えた。その未来が不確定なものであることを知りながら、だからこそ杏奈とここまで深い関係になる未来までは見えていない。
だからこそ声をかけた。
だからこそ関わった。
でもだからこそ、杏奈を苦しめた。
そして、西沙はまだ杏奈に何も返せてはいない。
──……こんなに不安があったら……涼沙にだって付け込まれかねない…………
店を急遽休んだ咲恵の運転で、萌江と西沙────三人は毘沙門天に集まっていた。
「私も胸騒ぎを感じていました……」
そう話すのは毘沙門天の当主、鬼郷佐平治の妻、結妃。
佐平治も修行の過程である程度の能力は持ち合わせていたが、結妃の能力はその比にならない強さを持っていた。繊細でありながら、同時に大胆な一面を持つ。
毘沙門天での祈祷の中心になるのは主に西沙。結妃はそのサポート役としては適任だった。西沙とは波長が合うのか、西沙の能力を安定した形で増幅させることが出来るのは結妃だけだった。
その結妃も数日前から理由の分からない胸騒ぎを覚えていたと言う。
「……何かしらね…………」
そう言って返した咲恵が続ける。
「ここにいる結妃さんまで感じてるなんて……物理的な動きをされた時点で今までと違うのは間違いないか…………それとも、何かが崩れたか…………」
外の雨音が空気の振動を埋める。まだ昼間だというのに黒く厚い雲が陽射しを遮っていた。しだいに強まる雨音が西沙の気持ちをさらに揺らしていく。
その西沙の気持ちに、萌江も咲恵も気が付いていた。
そして萌江が口を開く。
「……清国会が新しい動きをしてきたって考えるべきかな…………西沙はどう思う?」
そう言って敢えて質問を投げ掛けた萌江は西沙に顔を向けた。
祭壇の前で俯き、全員に背を向けたままの西沙は動かないまま。
雨音だけが間を繋いでいた。
──……私は、どうしたらいい…………?
その西沙の気持ちは、解決を導き出せるものではない。そんなことは西沙にも分かっていた。しかし考えはまとまらない。同じ感情だけが何度も回り続ける。
そんな西沙に、再び声を掛けるのは萌江だった。
「……西沙……結妃さんと佐平治さんのバックアップがあれば、あなたなら今回の解決策が見付けられる。だからここに来た。自信を持てなんて無責任なことを言うつもりはないよ。無くしたものを持てって言っても、そんな言葉に意味はない。でも西沙には今まで積み上げてきた実績があるはず。それが、やがて自信になるんだ…………あなた自身の手で作り上げるものだよ。そして、西沙はすでに高い所まで積み上げた…………誰も届かない高さにね」
西沙が僅かに頭を上げた。
そこに、萌江の言葉が繋がる。
「……〝敵〟を見付けて…………私たちは西沙に従う」
すると、小さな西沙の声が雨音を消した。
「…………未来はここにある…………今も…………過去だって…………」
西沙は両手を目の前で合わせ、指を絡めた。
──……そうだ……みんなに応えるのが……私の役目だ…………
「……総てが…………ここで見えるはず…………」
その西沙の声に応えるように、結妃が西沙の斜め後ろで祭壇に体を向ける。佐平治が燭台の松明に火を付けた。
「…………ここで、見る…………」
そう言った西沙に応えるかのように、炎が激しく立ち昇った。
そして、萌江と咲恵が感じる熱は松明のものだけではない。二人と違い、西沙は水晶の力に頼ったりはしない。
自分だけ。
その強さを全員が認めていた。
本殿を不思議な空気が包んでいた。
決して呪文のようなものを唱えるわけではない。
ただ祈るだけ。絶対に余計なことを考えられない集中力が必要だった。独特の空気が流れ、言葉で説明の出来ないような空気の揺らぎが漂う。
──……誰だ……出てこい…………
そしてしばらくの時間、西沙が空気と時間を掌握した。
空気が張り詰める。
やがて西沙が口を開いた。
「……直接動いてるのは御陵院…………でも今回のターニングポイントになるのは……蛭子…………蛭子神社────」
「あそこか…………」
萌江が思わず呟く。
構わず西沙の言葉が続く。
「蛭子の当主…………加藤苑清…………〝穢れ〟がある…………」
それに返すのは口元に笑みを浮かべた萌江。
「どうする?」
「────行って。多分あれは清国会に対しての〝穢れ〟だ。私はここで御陵院を押さえる…………涼沙が邪魔だ……」
「そういうことか……分かった」
萌江は咲恵に顔を向ける。
「雫さんに電話。蛭子まで来れるか聞いてもらえる?」
「分かった」
咲恵はそれだけ応えると素早くハンドバッグからスマートフォンを取り出した。
そして萌江は再び西沙の背中へ。
「……西沙…………私は誰も犠牲にしないと言った…………相手が誰でもね…………」
そう言った萌江にも、西沙にも、何か、小さく何かが見えていた。
それは霧に霞んだ少し先の未来。
まだはっきりとしない、決まっていない未来。
──……相手が…………誰でも…………
西沙の中で、過去と未来が絡まっていく。
そして、今に繋がる未来に体が震えた。
その西沙の背中に続くのは、萌江の声。
「あなたに…………間違ってほしくないんだ…………」
そして〝今〟が動いていく。
咲恵の声が本殿に響いた。
「────萌江、雫さんがOKした。向こうで合流するよ」
その咲恵の声に、萌江が立ち上がる。
しかし、萌江が見えていたものは、まだ漠然としたものだけだった。
☆
──…………嫌な雨…………
そこは、都心からはすでにだいぶ離れている場所。
楓を助手席に乗せて数時間が経っていた。
途中で休憩を挟みたい気持ちもあったが、なぜかそれすらも危険に感じていた。
雫がその胸騒ぎを感じたのは数日前から。
明らかに今までに感じたことのないもの。この先に対する精神的な不安の蓄積とも考えたが、雫自身の魂にとってはそう感じられるものではなかった。
ここまで見えないことも珍しい。それでも咲恵からの電話をもらった今日、何かが繋がって見えたような気がした。
──……邪魔をしてるのは、誰…………?
咲恵から立坂のことは聞いていた。しかしそれは一つのパズルのピースにしか思えない。
本筋はそこではない。
──…………杏奈さんも……偶然のタイミングではないはず…………
大きな幹線道路。とは言っても左右には田畑のみ。その向こうの山々がしだいに近く感じられてきた頃。
遥か前方に、信号とは違ういくつもの明かり。
そしてそれは、薄暗くなり始めた夕暮れの中で点滅して見えた。
──……やっぱりおかしい…………周りが見えない…………
前方に見えるのは、明らかにパトカーの回転灯。しかも一台や二台ではない。
雫はしだいにアクセルを踏む足を緩め、スピードを落としていた。
残りは一〇メートルほどだろうか。
車を停めた。
パトカーから数名の警察官が降りるが、なぜか近付いてこようとはしない。
──……検問には見えないわね…………
雫は経験からそれを理解していた。
すると、背後には脇道から突如として現れた黒塗りの車が二台。それは間違いなく内閣府の物。元内閣府の雫が見間違えるわけがない。
──……私が気付かないなんて…………誰だ…………
後ろの内閣府の車から降りた人影が、雫の車に近付いてきた。
特徴のある歩き方。
忘れるわけがない。内閣府に引き抜かれる前に警視庁にいた雫にとっては、人間それぞれの特徴を意識するのは体に染み付いた癖のようなもの。
清国会のためだけに動く部署。内閣府、総合統括事務次官────西浦幸人。雫と同じく〝裏七福神〟の一端を担っていた上司でもある。
その西浦が運転席側のドアの横に立ち、窓を軽くノックした。
雫が小さく溜息を吐いた直後、助手席の楓の声が聞こえた。
「大丈夫だよお母さん。私を信じて……」
そしてパワーウィンドーのスイッチを押す。少しずつ開いていくガラスの隙間から冷たい空気が車内に入り込む。そこに混じる煙草の匂い。ヘビースモーカーの西浦のものであることは疑いようがなかった。
その声が冷気と共に聞こえる。
「久しぶりだな」
しかし雫は西浦の顔さえ見ようとはしないまま口を開いた。
「お久しぶりです。ここまでの手間を掛けてまで私に接触する理由を説明願います」
しかし西浦も決して臆することはないまま応える。
「相変わらずの口ぶりだな。せっかくお前が逮捕される前に話せる時間を作ってやったのに」
──…………逮捕…………?
「お前が内閣府を辞めてからなぜかその所在が掴めなかった……あれは蛇の会のやり口だ。そうなんだろ? まったく……やっぱりお前らはまともな人間じゃないらしいな」
西浦は総合統括事務次官の中では数少ない、いわゆる〝霊感〟や特殊な能力を持ち合わせていない。いわば組織のまとめ役のような存在だった。ただの口の悪さからか、以前から雫のような体質を揶揄する発言もしばしばあり、組織の中では浮いた存在でもあった。
その西浦の言葉が続く。
「御陵院西沙だな……とは言っても、もう今までのようにはいかないようだぜ。だから俺たちが直接動いてる」
──……やっぱり……清国会に何か動きがある…………
「私の罪状は…………?」
話を断ち切るような雫のその言葉に、西浦はすぐに返した。
「情報漏洩だ。内閣府の内部情報を漏らした罪、なんだとさ」
「……娘には関係のないこと…………丁重にお願いしたい…………」
「俺には関係のない部分だな」
西浦は冷たくそう言い放つと、体を回し、パトカーに背を向けた。
そして小さく続ける。
「最後の慈悲だ。お前の娘は御陵院神社に連れていく」
──…………御陵院…………⁉︎
西浦の革靴の音が響き、その姿は後ろの車へと向かった。
入れ替わるようにして前方の警察官が近付く。
二名の警察官の後ろにはスーツの刑事らしき男。その男が折り畳まれた紙を開きながら口を開いた。
「大見坂雫さんですね。あなたに逮捕状が出ています。御同行を」
雫が楓に顔を向けると、楓は真剣な眼差しのまま、黙って小さく頷いた。
☆
蛭子神社の駐車場に到着したのは萌江と咲恵のみ。
すでに夜と言ってもいい時間。
他の車は見当たらない。
少し前までは雨が降っていたらしい。この時間でもアスファルトの濡れた色が分かったが、何より雨の匂いが強く空気に残っていた。
運転席の咲恵がエンジンを切るが、すぐには動かなかった。
嫌な胸騒ぎを感じていたのは咲恵も同じ。
キーを抜く直前、咲恵は窓を少し開けた。冷たい空気が車内に入り込む。雨の匂いに混ざる木々の香りがした。
その香りと共に、咲恵は目を向ける。
その視界に入り込む物────小さな白い紙。
──…………え?
その小さな紙切れが、風に舞うように窓の隙間から車内へ。
それはやがて、咲恵と助手席の萌江の間に落ちた。
さすがに萌江も不思議そうに咲恵と目を合わせる。
二つ折りにされたその紙を手にしたのは咲恵だった。
『私と楓は内閣府に拘束されました
事の理由はまだ分かりません
一つ確かなのは、中心に御陵院家がいるということだけです』
その字は間違いなく雫の物。
時を超えられる雫の能力が残した物。
萌江も咲恵もすぐにそれは理解出来た。
「……御陵院…………」
咲恵が小さく呟いていた。
それからしばらくはお互いに黙ったまま。
今までとは違う恐怖があった。明らかに自分たちが着々と追い詰められていることを感じる。敵が小さくないことは初めから分かっていたこと。国の中枢を相手にしていることは理解出来ていたはず。
事は清国会だけではない。
この国の歴史そのもの。
外の冷気が車内の空気を程よく入れ替えた頃、先に口を開いたのは下を向いたままの咲恵だった。しかしその声は消え入るかのように小さい。
「……萌江…………戻るか進むか…………誰が決めればいいの…………?」
萌江はすぐには応えなかった。
やがて助手席のドアノブを軽く引く。
その音に咲恵が顔を上げた。
少しだけドアを開けたまま、萌江は前だけを見ている。
「……私は誰にも答えを求めない…………自分で決める…………」
ドアを大きく開け、萌江は外に出た。
そのまま。
「だから…………未来に進むよ……」
萌江はドアを閉めた。
その光景に、咲恵が言葉を漏らす。
「…………そうね…………」
──……今までと同じ…………
そして咲恵も運転席側のドアを開けた。
車のキーを抜くも、なぜかすぐにまた戻して外に出る。
外の空気は澄んだもの。気持ちよくさえ感じる。不安が払拭されたわけではない。しかし咲恵の中で何かが変わっていた。
──……大事なことを忘れてた…………
「でも例え萌江に嫌われたって……私はあなたに着いていく…………後ろじゃなくて隣でね。ごめん…………もう決めてくれなんて言わない」
すると、その咲恵の言葉に、萌江が軽く笑みを浮かべた。
「咲恵らしくていいね。やっぱり好きだな…………咲恵のそういう弱いところ」
「萌江が思ってるよりは強いつもりですけど」
「だからいつも驚かされる」
そう応えた萌江が、笑顔を咲恵に向けた。
咲恵も笑顔で返していた。
追い詰められていた。
だからこそ今大事なものが何か、二人には見えていた。
ここに来たのは二度目。
二人は一つ目の鳥居を潜り、並んで参道を歩き始めた。
左右は均等に並んだ木々と石の灯籠。
未だ萌江の中の〝未来〟は霧に包まれたまま。
西沙の言っていた〝邪魔〟が二人の前に立ち塞がっているかのようだった。
やがて二つ目の鳥居と共に視界に入るのは、巨大な本殿。
──…………西沙…………任せたよ………………
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二二部「冷たい命」第3話(完全版)へつづく 〜