第二一部「堕ちる命」第5話(完全版)(第二一部最終話)
八頭鴉島。
その中心たる大黒天神社。
この夜、その本殿にて〝予見〟の祈祷が行われていた。
縦に長い本殿の中心が通常の祭壇。そしてその奥、本殿の一番奥にもう一つ、より大きな祭壇があった。そしてその祭壇が塞いでいたのが〝守神〟の扉。
この夜の祈祷に使われていたのは中心の祭壇。誰にとっても慣れた場所でもあった。
中心になるのは大神主の宮津守光歩。
光歩の長男で内神一位の宮津守宇城。
他の神職は官吏従一位の七尾美重季、官吏従二位の高津宮延輝、他、官吏社の従者が三名。
その場を取り仕切っていたのはもちろん光歩だったが、実質的に〝予見〟の中心となっていたのは宇城。宇城自身も結果を出せていなかった近頃の不甲斐なさもあり、焦る気持ちを抑えながらも祈祷に赴いていた。
次男の宇道が自分の立ち位置を狙っていることには以前から気が付いていた。そのために自らの派閥勢力を拡大させていることも知っている。次の〝大神主〟の立場を不動のものとするためには、どうしても今夜の結果が必要だった。
頭に浮かぶは〝黒い霧〟。
まるで手探りの中、時間に比例して疲労だけが蓄積していく。
すでに三時間程が経過していた。
疲労もあるのか、祭壇の前に座っている自分の体が、すでに自分の物ではないような感覚すら覚えた。
──…………まだ……〝守神〟がある…………
閉じた瞼の向こうからの松明の揺らぎが神経を刺激していた。
その炎の向こうには〝守神〟の前にあるもう一つの祭壇。
誰も中を見たことがない部屋────〝守神〟の前。
宇城が立ち上がった。
その衣擦れの音に、横の光歩と背後の全員が顔を上げる。
宇城は祭壇の横を回り、奥の祭壇へ。
「宇城様!」
重季が声を張り上げると、宇城は振り返り、父である光歩に顔を向ける。
「見ていてくだされ父上。私が〝見て〟みせます! 松明を此れへ!」
その姿に、光歩は口元に微かに笑みを浮かべる。
守神の大きな扉。その前に扉を塞ぐようにして置かれた大きな祭壇。その横には松明の燭台。従者が慌てた様子でその燭台に松明を移した。いくつかの薪を追加すると、まるで生き物かのように瞬く間に炎が渦を巻く。あまりの火の回る速さに、従者たちは禍々《まがまが》しさだけでなく恐怖さえ覚えた。
そして、全員が宇城の後ろに集まった。
宇城は祭壇前の板間に膝を降ろすと、両手の指を絡ませて目を閉じる。
先程までとは違う。
形にならない〝異形〟のものが見え始めた。
しかしそれは、暗く、重々しい。
やがてそれは、荒々しい炎のように荒れ狂う。
「……〝凶〟……今宵…………」
宇城が荒い息で言葉を絞り出した。
松明の灯りが激しく揺らめく中、空気が騒つき始める。
返すのは延輝。
「…………今宵……今宵、菊花が咲くと申されますか…………」
すると、宇城の背後にいる光歩が低い声を響かせた。
「──良い。従者に調べさせい。菊花を見付けしだい報告を……」
そして、三人の従者が慌てて本殿を飛び出していく。
外は闇。
月灯りは薄い。
重季の指示で各社に松明が照らされ、しだいに集落は激しく揺れる灯りに包まれた。
その頃、光歩の次男────宇道は十五社の祭壇前にいた。
他には官吏社の従者が五名。いずれも宇道の信奉者だった。
「……宇城の兄様には退いてもらうしかない…………そのためには貴様達が必要となるであろう。今宵…………子の刻……朝までには兄様の御屋敷を灰にする。良いな」
宇道は兄である宇城を失脚させる機会を以前から窺っていた。
しかも、例え命を奪うことになろうとも、とまで考えていた。
そのために何人もの従者を密かに引き入れ、まるで派閥のようなものを作り上げていた。そのために多くの金銭も回した。すでに人数はおよそ三〇人。父の光歩ですら平伏すであろう勢力になっていた。年齢的にも後数年で大神主の交代があると思われた。その時の為に、宇道は今動くべきと考えた。
そして、社の周り。
騒がしく人が走り回る足音が響き始める。
従者の一人が板戸を少し開けると、そこには松明を手にした者たちが何人も走り回っていた。驚いた従者が立ち上がって板戸を素早く開け放つ。
「────何事であるか⁉︎」
すると、外の従者が駆け寄って片膝を着く。
そこに本殿の奥から宇道が顔を出した。
それを見た外の従者が声を張り上げる。
「二位様⁉︎ 一位様の予見が出まして御座います!」
「一位の……⁉︎」
宇道はその言葉に、眉間に皺を寄せて続けた。
「話せ」
「今宵────」
「──今宵⁉︎」
「〝凶〟」
その従者の言葉に宇道は外への階段を駆け降りていた。
「────父上も一緒であるか⁉︎ 確かめてくる!」
黙ってはいられなかった。実際に今夜中に伝承が起こるならば、宇道の計画は総てがまた一からともなりかねない。これまで周到に準備をしてきた。信奉者を集め、宇城の派閥に入る従者にも手を回していた。そして今夜は祈祷の夜。宇城も父の光歩も疲れ切って寝静まるはず。
今夜しかないと思えた。
──……確かめなくては…………
その時、遠くからの声。
「────菊が! ……菊が!」
「……馬鹿な……」
宇道は無意識の内に呟いていた、
視線を向けた先、そこには一面の菊の花────。
そして、その香りが風に乗り、一気に空気を埋め尽くす。
「……いつの間に…………」
宇道の足は、すぐには動かなかった。
☆
すでに島の至る所が菊の花に包まれていた。
その中を走る二人の姿。
八重津佐江沙と高津宮延拍。
夕暮れ時、お互いの関係がそれぞれの家族に発覚していた。家族に詰め寄られ、やはり許されない関係であることを再認識する。
そしてまるで示し合わせたように二人は家を抜け出した。お互い確信があったわけではない。しかし自分の家族に発覚したということは相手もまた同じと考えた。
先に取り決めておいた集落の門の外に先に来ていたのは延拍。
「佐江沙殿────!」
延拍は走り寄る佐江沙の手を取った。
佐江沙が息を切らしながら言葉を絞り出す。
「……やはり……延拍様も…………」
「…………さすれば……迷ってはいられません…………」
延拍は唇を噛み締めていた。
二人が手を繋いで向かったのは、広い丘にある小さな祠。古い祠。普段から人が立ち寄るような場所ではなかったが、そのためもあり、二人でよく会っていた場所だった。
「……伝承は……本当でしたね…………」
周囲が菊の花に包まれた祠の前で膝を着き、息を切らしながら佐江沙が口を開いていた。
「まさか今宵とは…………されど……戻ることは叶いません……」
延拍も息を切らしながら応える。
〝菊花伝説〟の伝承の本質が何か、もちろん二人は知らない。その時に起こると言われる〝悲劇〟がどんなものなのか、二人には予測など出来るはずがなかった。
しかし今の二人にとっての大事なものは違った。
ただ、二人で一緒にいたかった。
例え家族に否定されても、もはや気持ちに抗うことは出来なかった。
「……はい…………気持ちは揺るぎません…………」
そう応える佐江沙の目を見ながら、延拍が小さく頷く。
延拍は懐に手を入れると、二本の短刀を取り出した。
その一つを佐江沙へ。
二人は同時に鞘を取り、その鞘は地面で鈍い音を立て、菊の花弁を散らす。
お互いの関係が発覚した場合のことは、以前から二人で決めていた。
島では絶対に受け入れてもらえない二人の関係。このままでは結ばれる可能性が無いことはお互いに理解していた。
菊の花の香りが辺りの空気を包み込む中、二人はお互いの胸に短刀の刃先を当てる。
二人は〝来世〟に未来を見ていた。
そして佐江沙が目を潤ませ、ゆっくりと口を開く。
「……再び…………一〇〇年後に…………」
無意識だった。
佐江沙自身、自分のその言葉に驚いた。
「…………ふたたび……?」
目を見開いて呟く。
延拍も驚いて返した。
「……佐江沙殿…………再び……とは…………」
「………………再び………………」
その佐江沙の目から涙が零れ落ちていく。
〝何か〟が気持ちを揺さぶった。その〝何か〟は、自分のようで自分ではない。そしてあまりにも長い歴史が気持ちの中心で渦を巻く。
佐江沙は震える声で続けた。
「…………どうして…………いつも一緒には……いられないのですか…………登盛様…………」
そして、言葉を漏らす延拍も、無意識だった。
「…………ミヨ………………」
そして、二人の頭に声が響く。
『……もう…………終わりにしよ…………』
☆
「────火を放て!」
宇道が叫んでいた。
その指示で、周囲を走り回る従者たちが足元の菊の花に火を付け始める。
しかし切りが無い。
とても焼き払える量でもない。
すでに宇道はまともな精神状態ではなかったのだろう。
兄である宇城を退けるための計画は、今夜だった。
長い間、待ち続けた時。
しかしそれは〝悲劇を呼ぶ伝承〟によって阻まれる。
宇道にもその悲劇の本質は見えていなかった。
これから何が起こるのか────誰にもそれが見えないまま、菊の花を燃やす火が周囲の建物に移り始めた。
もはやパニックとなっていた。
広がり、大きく立ち登る炎がさらに広がっていく。
「燃やせ! 燃やせ!」
そんな宇道の声とは別に、多くの建物から人々が飛び出した。
悲鳴や怒号が広がっていく。
井戸からの水を汲んで火を消していた従者もいたが、その井戸の周りの菊も炎に包まれる。
燃え広がる炎は、やがて本殿へと移り始めた。
すでに光歩や宇城、その他全員が本殿から外に避難していたが、空気の乾燥が進んでいる季節。あっという間に広がる炎になす術もない。
しかも広がる炎は、自ら風を巻き起こした。
誰もが、ただ呆然と立ち尽くす。
大黒天神社は島の中心。何よりも大事にされてきた場所。神に護られた神聖なる場所。そこが今、目の前でその全体が炎に包まれていく。
そして立ち尽くす光歩たちの背後から、足音。
全員が振り返ると、そこにいたのは二人の女性の姿。
萌江と咲恵だった。
周囲に火の粉が舞う。炎が作り出す空気の畝りが、その火の粉を風に乗せた。
光歩たちは呆然と二人を見ているだけ。
萌江も咲恵も、炎に包まれる本殿を見ながら、それでも落ち着いた表情のまま。
二人の髪が、火の粉と共に揺れる。
最初に口を開いたのは、光歩たちに視線を落とした咲恵だった。
「我らは金櫻家の者…………本殿奥に安置されている〝即身仏〟に会いに来ました」
その咲恵の声に、見たこともない人間であるにも関わらず、重季が声を張り上げる。
「……か……金澤だと⁉︎ 馬鹿な……当にそんな血筋は────」
「血筋は途絶えてはいません…………我々の中にあります」
そう応える咲恵の低い声は、その場の全員を黙らせるには充分だった。
そして、萌江の左手と咲恵の右手が真っ直ぐ上がる。
そこには〝火の玉〟と〝水の玉〟。
光歩が目を見開いて口を震わせた。何かを言おうとしているが、その言葉が出ない。
そんな中で、咲恵が続けた。
「ご存知ですよね…………大黒天が守ってきた三宝の一つ…………でも、それはここにあります…………」
「馬鹿な!」
反射的に叫んだ宇城が続ける。
「紛い物だ! 我等の三宝なら守神に古くから────!」
「────否……」
その声は宇城の言葉を遮った光歩のものだった。
その声がゆっくりと続く。
「…………偽物ではない…………」
必ず、と言えるだけの確信が光歩にあったわけではない。しかし光歩は感じるままに言葉にしていた。
そして、それを咲恵が繋ぐ。
「扉の鍵を持っているのはあなただけです…………見てみたかったんですよね…………最近のはず…………何日前ですか? 鍵を開けたのは」
全員が驚いた表情で光歩に顔を向けた。
──…………父上…………
光歩は震える目で咲恵を見続ける。
咲恵の言葉が続く。
「水晶なんて……どこにも無かった…………あなたは知っていたはずです……ですが、おかげで私たちはここの存在を知ることが出来た…………あなたが扉を開けてくれたお陰で、その中の〝即身仏〟が私たちを呼んだ…………あなた方が守ってきた〝結界〟が開いた…………」
「…………そんなことが……」
そう呟いたのは宇城。
続く宇城の言葉が周囲に漂う。
「……誰も開けた者はいなかったはず……それなのに水晶が……まさか最初から…………」
「そうです」
そう返した咲恵が続ける。
「金櫻家と水晶を取り込めれば清国会に復讐出来ると御先祖は考えていた…………その時に水晶を安置しようと思っていた…………でもそれが叶わないままに戦に負けた…………自分たちの側に〝真〟があると後世にも伝え続けるために、どうしても必要だった〝嘘〟……だから誰も部屋に入ることを許されなかった。本当にあったのなら水晶だけで良かったはず…………その嘘を〝結界〟で包むために〝即身仏〟を作った…………だから……それも二つ…………」
そして、その言葉に、光歩が膝を落とした。
そして呟く。
「…………天照様は……我等に…………」
その言葉に反応したのは、咲恵の横で黙っていた萌江だった。
「…………まだ……そんなこと…………」
その声に、その場の空気が凍りつく。
「……会ったこともない神様なんか…………そのために二人の子供まで人柱にして…………お前たちは清国会か⁉︎ それとも八頭鴉か⁉︎ 何が違うと言うんだっ‼︎」
そして萌江は、震えた唇を噛み締める。
「……私は金櫻家最後の血筋として二人の御魂を弔いに来た……道を開けろ…………そこをどけ‼︎」
☆
そこには緩やかな風が流れていた。
菊の花の香りだけが辺りを包む。
そして、短刀を握る佐江沙と延拍の手に添えられた小さな手。
いつの間にか二人の横には、幼い楓の姿があった。
「……もう……終わりにしよ…………私も、もう見たくないよ…………」
佐江沙と延拍はお互いの目を震えた目で見ていた。
佐江沙の中の〝ミヨ〟。
延拍の中の〝登盛〟。
六〇〇年、ずっと待ち望んできた。
楓の声が続く。
「……何度も出会って…………何度も引き離されて……もういいよ…………もう苦しまなくていい…………」
そして、楓とは違う別の手が、佐江沙と延拍の手から短刀を取り上げた。
それはいつの間にか現れた西沙。
二人とも抵抗すらしない。
驚いてもいなかった。
そして、菊の花の中で膝を落とした西沙が、短刀を後ろに置いて口を開く。
「……〝御世〟…………あなたはもう充分に苦しんだ…………もういいよ……もう休んで…………」
そしてその西沙の背後から杏奈の声。
「後は、私たちで……」
すると、佐江沙が小さく口を開ける。
「……もう……いいの?」
その頬を涙が伝う。
佐江沙が西沙に顔を向けて続けた。
「…………八頭鴉に私達の〝想い〟は抑え込まれた…………どうして? 清国会がいなければ……清国会さえいなければ! ここで登盛様と…………死んでも生き続けられたのにッ‼︎」
西沙は佐江沙の肩に手を乗せ、返す。
「もう大丈夫……二人はここで、これからも生き続けられる……というより、生きて…………もう苦しむ必要はないよ…………」
「…………私の……生きる意味は…………生きる意味を教えて下さい…………」
すぐには、西沙は応えられなかった。
誰にもそんなものは存在しないと思っていたからだ。与えられるものではない。自分で見付けるもの。意味を持って産まれてくる者などいない。その意味を作り出すのは自分であり、自分の中にしか存在しない。それを生み出せる者もいれば、生み出せない者もいる。それが世の摂理だと考えていた。
だから誰もが、それを求める。
そして、ミヨはそれを、六〇〇年の間求め続けていた。
やがて、ゆっくりと西沙が言葉を繋ぐ。
「…………生きて…………これからもここで生き続けて…………二人で…………もう、誰も二人を引き離したりなんかしない…………その未来を見た人のことを私は信じる……それが誰か……今のあなたなら、分かるよね」
佐江沙が目を細め、柔らかい笑みが僅かに浮かんだかと思うと、その両目から大粒の涙が溢れていた。
西沙が楓に顔を向ける。
「楓ちゃん、二人が避難出来る場所は?」
すると楓はすぐに応えた。
「あるよ。海の近くに洞窟があるの」
「ありがとう楓ちゃん。二人を案内してあげて」
そこに杏奈が挟まる。
「私と西沙さんは萌江さんと咲恵さんを追いかけるから……後はお母さんに任せて」
「うん!」
満面の笑みで声を張り上げた楓が、佐江沙と延拍の手を持って促す。
二人は立ち上がると、合わせて立ち上がった西沙と杏奈に深々と頭を下げた。
そして楓に手を引かれて足早に海に向かいながら、それでも何度も振り返る。
二人とも、その表情は柔らかい。
それでもまだ不安はあるのだろう。この先の結果は、まだ二人には見えていない。
西沙が杏奈に振り返った。
そして小さく頷く。
そして二人が顔を向けた先には、燃え広がる炎の海。
その朱色が、空までも大きく染めていく。
☆
松明の炎が激しく暴れる。
周囲の壁や天井にも火が見え始めているからだろうか。まるで呼応するかのように風を巻き上げていた。
萌江と咲恵はその状況に臆することもなく、本殿の祭壇の裏へ。
背後からは宇城の声が聞こえた。
「危険だ! 焼け死ぬぞ!」
それでも二人は〝守神〟の前へ。
しかしその扉の前には大きな祭壇。
「誰か手を貸しなさい! これをすぐに除けて!」
あくまで冷静な萌江の声。
しかし背後の従者たちはその声に凄みを感じ、震える手で従った。
五人の従者が重い祭壇を横に動かすと、そこに現れたのは煤に覆われて黒くなった大きな扉。
萌江がその扉の取っ手に手を掛けると、背後から光歩の声がした。
「────鍵は私しか持っていない! どうやって開けるおつもりか⁉︎」
すると、振り返ったのは咲恵だった。
「問題ありません。鍵は内側から開けられるので」
「……内側……⁉︎」
驚く光歩を無視し、萌江が取手を引く。重々しい音。木と木が擦れ合う音。その強い抵抗は歴史の長さを感じさせるには充分なものだった。
そして、途端に手に伝わる響きが幾分軽くなる。
扉の向こう、そこには、人影。
「お待たせ」
その萌江の言葉に笑顔で返した人影は、雫だった。
「五〇〇年待ちましたよ」
雫はその能力で時を超えていた。守神の部屋が作られた時から、そこに忍び込み、この時をずっと待っていた。
その雫が二人を中に促す。
そして萌江が柔らかい表情を雫に向けた。
「ありがとう雫さん。もう少し付き合ってもらうことになるけど…………」
「問題ありません。娘はすでに戻りました。西沙さんと杏奈さんもこちらへ向かっています」
「さすが千里眼。じゃあ、ここで間違いないのね」
言いながら萌江が足を進める。
小さな部屋だった。
採光用の窓でもあるのか、僅かに月灯りが差し込む。
不思議と静かだった。部屋の外はすでに炎に包まれかけているというのに、この部屋の中ではその熱すら感じない。まるで別空間のようだった。
部屋の中央には小さな祠が二つ。
それぞれ四本の木の足で床からは高い。どちらも観音開きの扉が閉められたまま。
その前には小さな机があり、その上に鏡面を上にした銅鏡が一つ置かれているだけ。その鏡面はとても鏡とは思えないほどに濁っている。
咲恵が口を開いた。
「……よく五〇〇年もこのままで…………本当にあの人が開けるまで誰も入ってないの?」
雫が応えた。
「ええ……誰も…………たまの掃除は私がしてました。時間を持て余してましたから」
そう雫が応えた直後、萌江が祠の扉に手を掛けた。
その光景を見ていた咲恵に緊張が走る。
それでも、その気持ちに抗うつもりはない。
そして、扉がゆっくりと開けられていく。
そこには高さが五〇センチほどのミイラ────即身仏。
祠には二つとも、同じくらいの大きさの即身仏が座禅を組んだような姿で納められていた。
やがて、しばらくそれを見ていた萌江が、ゆっくりと呟く。
「……子供を殺してから…………この姿勢にしてミイラにした…………」
萌江には何が見えたのか、その言葉に、咲恵の中にその光景が浮かんだ。
そして体が震えた。
非情にも、萌江の言葉が続く。
「…………そんな簡単に出来るはずがない…………成功するまで…………何人殺されたんだろう…………」
それに返すように咲恵が重い口を開いた。
「……仏教の考えを取り込んでまで…………信仰なんかのために…………」
「…………でも…………生贄と何が違うっていうの…………」
そう応える萌江の目に涙が浮かんでいた。
月灯りを反射したその涙は、やがて床に落ちていく。
萌江は二つの即身仏に、右手と左手をそれぞれ添えて続ける。
「……ごめんね…………こんなに遅くなっちゃって…………」
──……ずっと……見付けて欲しかったんだね…………
──…………これからも……一緒だよ…………
その直後、室内に甲高い音が響いた。
見ると、机の上に置いてあったはずの銅鏡が床へ。
幾つにも割れたその姿は、まるで何かの答えのようにも見えた。
それを見た雫が呟く。
「……神の姿を映す鏡…………」
──……何を……映し続けて来たんだろう…………
咲恵がそう思った時、三人の背後から声。
「…………すいません……」
三人が振り返った時、開いたままの扉の所に立っていたのは杏奈の姿。その背後には炎が渦を巻く。杏奈は視線を落としたまま。
「……間に合いませんでした…………」
その言葉に、三人は誰もがその意味を察した。それでも取り乱しもせず、三人は杏奈を促して守神の外へ。
燃え盛る炎は足元、目の前を埋め尽くしていた。
しかし、誰も慌ててはいなかった。
「ここを抜けるには人数が多過ぎます……私は先に戻りますね。後をお願いします」
それだけ言った雫の姿が霧のように消える。
「相変わらず去り際が素敵ね」
そう言った咲恵の右手────〝水の玉〟から、水が溢れる。
その水はまるで生き物のように周囲を飛び回り、三人の周囲の火を消し、道を作っていく。
──……これが現実の光景なんてね…………
咲恵がそんなことを思っている内、やがて三人は本殿の外へ。背後からの熱風に押されるように階段を降りると、そこには、西沙が立ち尽くしていた。
その足元に広がるのは、何人もの、倒れている狩衣姿の男たち。
そして広がる血の匂い。
「…………ごめん…………遅かった…………」
そう言う西沙が顔を上げた。
男たちは誰もが小さな刃物を自ら首に刺し、すでに動かない。
その光景を見下ろしながら、返すのは萌江。
「……こういう道しか選べない人たちがいる…………二人のせいじゃないよ…………これも一つの未来だっただけ……」
それは、萌江に見えていた、一つの形。
それでも萌江は両手の拳を強く握りしめていた。
左手の中には〝火の玉〟。
──…………こんな……水晶なんか…………
それに呼応するかのように、本殿が大きく音を立てた。
屋根が崩れていく。
大きな火柱が上がる。
そこに、呆然とした表情の男が近付いた。
覚束ない足取りの宇道だった。
服のあちこちが煤にまみれ、もはやその目に生気は無い。
燃え盛る本殿を見上げながら、まるで呟くように声を漏らした。
「…………父上…………兄上…………三宝が……燃える…………」
──……この人の未来も……同じか…………
萌江の頭に、短い未来が見えていた。
周囲は炎の海。
いつの間にかそれは、すでに島のほとんどを埋め尽くしていた。
四人は桟橋を目指して走る。
菊の香りを炎の香りが追いかけた。
海が見えた。
すでに海岸線まで届いている炎もある。
空が明るく照らされていた。
崖の下。
小さな洞窟が見えた。
周囲を炎が覆い尽くしているにも関わらず、そこには波が打ち寄せ、炎に覆い被さるようにして打ち消していた。
──…………大丈夫…………〝水の玉〟が守ってくれてる…………
萌江はそう感じた。
その頃、桟橋の前で停泊している船があった。
船の上には燃え盛る島を呆然と見上げる祥子の姿。
──……何が起きてるんだ……あいつらホントに巫女か…………⁉︎
空が明るくなってくる時間とはいえ、それ以上に炎が空を明るく照らす。むしろその明るさで空が暗く見えるほど。
──…………まずいな……これじゃ海保が駆けつける…………
そして、桟橋に向かって走る人影を見付けると、慌てて船を着けた。
祥子が叫ぶ。
「急げ!」
四人が無言で船に乗り込むと、波を蹴るようにして船が走り始め、祥子が再び叫んだ。
「海保が来る! 飛ばすよ!」
すると、その背後から落ち着き払った杏奈の声がした。
「大丈夫ですよ……この船は見付かりません」
「どういうことだ⁉︎ 何を根拠に────!」
「不思議なことって…………あるんですよ…………」
そして、船の後ろで息を切らす萌江に、咲恵が声を掛けていた。
「……大丈夫?」
純粋な気持ちだった。
何かを解決したことで、同時に何かとの決別を余儀なくされる。何度も二人はそんな経験をしてきた。それが正しい選択だったのかどうか、分かる者はいない。
いつも残るのは結果だけ。
萌江はゆっくりと応えた。
「……うん…………〝血〟より濃いものがあるって……あの子たちが教えてくれた…………私はあの子たちを絶対に忘れない…………それで、いいと思うんだ…………」
「私には、まだよく分からなくて…………答えなんか誰にも分からないんだろうけど、でも自分をどこまで信じたらいいのか…………」
その咲恵の声はあくまで優しかった。
西沙がその咲恵の言葉に顔を上げる。
誰もが不安だった。咲恵のその珍しい弱気にも聞こえる言葉に、さらにそれが増幅される。
それでも萌江は、咲恵の声に、その手を握って言葉を返した。
「今はそれでいい…………あの島は若い二人に任せよう…………これから子供たちがいっぱい産まれるからね…………みんな何百年も待ってた…………もう……菊の花は咲かないよ」
それは間違いなく、萌江が見た未来。
その未来の光景が咲恵の意識に流れ込む。
そして、その萌江の言葉は誰もが待っていたものだった。
☆
杏奈の車が山の中を走っていた。
咲恵が翌日からの店への出勤に合わせて車を街中に置いてきたため、そこで西沙と杏奈と合流し、久しぶりに四人揃って杏奈の車で移動していた。
しかし、誰もが口数が少ない。
確かに疲労もあっただろう。咲恵はそのままマンションに戻ってもよかったが、やはり今の状況で萌江を一人にしておく気にはなれなかった。
でもそんな中、なぜか杏奈は寂しさと同時に清々《すがすが》しさのようなものを感じていた。もちろん杏奈は萌江たちのように過去の人たちの感情を感じられるわけではない。状況から理解出来たものは本筋の断片的なものに過ぎない。
それでも何かが終わり、そして何かが始まろうとしていることだけは分かった。
それは杏奈なりの、身の置き方でもあった。
そんな中、ずっと寂しげな表情をしていた助手席の西沙が口を開く。
「……少しさ……体が軽くなった気がするんだ…………」
すると、返したのは後ろの咲恵。
「……ちょっぴりだけ…………私は寂しいかな…………」
「でも良かったよ…………幸せになることは、罪じゃない……」
そう言う西沙の表情が、少しだけ柔らかくなっていた。
「……そうね…………少し肩の荷が降りたかな…………」
「……私も…………」
西沙がそう応えた直後、咲恵のスマートフォンが鳴る。
毘沙門天神社にいる雫だった。
「お疲れ様です……楓ちゃんは大丈夫ですか?」
『ええ、ご飯を食べて今は眠っています。あの島のことなんか忘れてるみたいに……』
その雫の言葉にホッとしたのか、咲恵は軽く息を吐いてから返した。
「そうですか…………二人にはホントに助けられました。ありがとうございます」
『そんな……私たちは出来ることをするだけですよ』
「これからもよろしくお願いします。次の予定が決まったらまた連絡しますので、今はゆっくり休んでください。鬼郷さんたちにもよろしく伝えてくださいね」
『はい…………それで、私たちは楓が目を覚ましたら帰りますけど……皆さんは……』
「直接帰ります。私たちも、今は次のためにゆっくり休みたいので…………」
やがて、車が到着する。
いつもの家。
しかし、何かが変わった家。
意外にも、先に車を降りたのは萌江だった。
萌江はまっすぐ庭に向かうと、そこから縁側に視線を向ける。
咲恵と西沙、杏奈は少し離れた所で、なぜか自然と足を止めていた。萌江のその横顔をどう捉えていいのか、誰にも分からないまま。
寂しげで、どこか鋭くも見え、誰もが萌江の心情を測りかねていた。
事の中心にいたのは御世であり、同時に萌江。想像していなかった展開が、痛々しいほどに萌江と歴史の繋がりを露呈させた。触れずに済むなら、そのほうが楽だったはず。しかし関わった。すでに関わり過ぎた。
逃げることは可能だろう。しかし萌江自身がそれを許さないように咲恵は感じていた。
──……やっぱり……行って良かった…………
咲恵がそう思った時、細めていた萌江の瞼が大きく開く。
そして大きく口が開いた。
軽く息を吸い込む。
「────巫女の諸君」
それはいつもの、そして明るい萌江の声。
誰もが、その声に胸を熱くした。
高揚した。
そして萌江が三人に笑顔を向ける。
「ようこそ────〝唯独神社〟へ────」
その萌江の目が、僅かに潤む。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二一部「堕ちる命」(完全版)終 〜