第二一部「堕ちる命」第4話(完全版)
小さな港だった。
漁港の建物の周りは潮の香りに混ざって魚介類の生臭さが風に乗る。
細い三日月の晩。
暗い月灯りから隠れるように、大きな荷捌き所の建物の影に、杏奈と岡崎がいた。
「分かったな? プライベートな会話はするな」
そう言う岡崎に、周りに視線を配りながらの杏奈が応える。
「…………はい」
「向こうはお前たちの名前すら尋ねようとはしないだろう……聞いてくるのは迎えの時間だけだ。金だけを渡せ」
「……そうします」
「しばらくは電話も無しだ……」
そう言いながら岡崎はやっと煙草に火を付けた。そして足を前に出しながら続ける。
「だから今夜もわざわざここに来たんだ…………気を付けろよ…………」
そして小さな足音と共に闇に紛れていった。
残るのは僅かな煙草の香りだけ。
昔ながらの煙草。
独特の強い匂い。
緩い風のためか、煙はすぐには消えなかった。それに合わせたかのように時間もゆっくりと流れる。
なぜか杏奈は時計を確認する気にはならなかった。
待ち合わせの時間まで、あとどのくらいだろうか。
しかし杏奈が今確認すべきは〝覚悟〟に思えた。
一歩踏み出せば、もう元に戻れないことは分かっている。
表を堂々とは歩けなくなるかもしれない。
常に何かに怯えて生きて行くことになるかもしれない。
なぜそんな覚悟をしなければいけないのか、杏奈は不思議に思えてきた。
──…………こんな生き方って…………
その時、風に乗ったような、数人の小さな足音が杏奈の耳に辿り着く。
淡い闇の中から、三人の姿がゆっくりと浮かび上がった。
そこから聞こえてきたのは咲恵の声。
「────準備はいい? 杏奈ちゃん」
杏奈は即答する。
「はい。この向こうの桟橋です」
咲恵の後ろには萌江と西沙の姿。
その三人の目は、杏奈には同じものに見えた。
──……私は…………どんな目をしてるんだろう…………
すでに二三時を回った頃。
多くの漁船が並ぶ船揚げ場の横を通り、その向こうの桟橋に向かった。
静かな夜。
岡崎のようなマスコミの業界人というのは確かに顔が広い者が多い。長く業界にいれば尚更だ。しかし今回の秘匿性には異常なものを杏奈も感じていた。どうやら岡崎は表だって言えないような裏の一面も持ち合わせているのかもしれない。しかしその詳細を知ることは憚られた。
内閣府が絡んでいると読んだ上で、岡崎も絶対に情報が漏れないルートでの船の持ち主を探したのだろう。それは決して簡単なものではなかったはず。岡崎自身にも危険が及ぶ可能性がある。
船の持ち主がどういう人物なのか、もちろん杏奈は知らない。
桟橋に所狭しと並ぶのは漁船ではなく個人所有のボート。かなりの数だ。夜釣りに出ている船もあるのか、いくつかの船は停泊していた跡だけ。
桟橋の上にはロープで数珠繋ぎに並んだ街灯のような照明が淡く辺りを照らしていたが、それは強くないにも関わらず、海の上で不思議と広く漂う。
──……右側……五つ目の照明の下で…………
杏奈は先頭になって歩きながら言われていた場所を探した。そこで立ち止まると、右手を大きく上げ、正面に向かって懐中電灯を消す。数秒待ってから三回だけ点灯させる。
すると、桟橋の奥から、懐中電灯らしき灯りが三回点滅したのが見えた。
杏奈がゆっくりと足を進めると、後ろの三人もその後ろを着いていく。
四人の足が大きく桟橋を揺らし、その桟橋の一番奥と思われる辺りに、それほど大きくはない人影。
そこから届いた小さな声が、空気を震わす。
「────止まって」
女の声。
低い。若くはないようだ。
その声が続く。
「行き先だけ聞いてる。あそこは地元の人間でも行かない。海保が監視してる場所だ。引き返すなら今だよ」
今回聞いていた女の名は祥子────しかもそれは、今回だけの名前。
〝海保〟とは海上保安庁のこと。
その言葉に杏奈が息を飲む。
すると、その杏奈の横をすり抜けて祥子に近付いたのは萌江だった。
驚いた杏奈を無視し、萌江は祥子のすぐ目の前で足を止める。
祥子の目は、鋭くも落ち着いていた。そして、すでに五〇は過ぎていると思われる目尻の皺に、萌江は人生の深みすら感じていた。
その萌江が口を開く。
「私は金櫻萌江────もしも誰かに聞かれることがあったら正直に応えていい。でもその前に……私はあなたを必ず守る。絶対にあなたの身に危険が及ぶようなことは起きない。唯独神社の当主である私が保証する」
すると祥子は表情も変えずに応えた。
「神社ねえ……あんたら巫女さんには見えないな…………どうでもいいけど…………」
萌江も表情を変えない。
祥子と、お互いに鋭い目を合わせ続けるだけ。
敵か味方か、四人にとってはまだ測れないまま。
すると、僅かに口角を上げた祥子が続ける。
「……でもあんた…………いい目をしてるよ…………追い詰められた目だ…………」
すると萌江は、まるで感情を表さずに分厚い封筒を差し出した。
そして口を開く。
「迎えに来てくれた時に同じ物をもう一つ…………時間は船の上で伝える……」
祥子は黙って封筒を受け取る。
「乗りな」
それだけ言うと、背後の船に乗り込んだ。
☆
室町時代中期。
応永三一年。
西暦一四二四年。
登盛は一目で心を奪われた女性────ミヨとの関係を深めていった。
ミヨも登盛にしだいに惹かれていく。しだいに気持ちの中で何かが膨れ上がり、それはやがて自分自身で制御出来るものではなくなっていた。
島民も二人の仲を祝う。
この頃、登盛も島に骨を埋めようとまで考えていた。島での生活に幸せを感じていた。島民との関係性にも不満は無い。自分のような他所者を受け入れてくれた。
登盛は当初から島の有力者の家で暮らしていた。
島を統治していたその家は平家でもそれなりの家柄だった者の血筋。登盛はその家で傷を癒やし、やがて島の人間になっていった。しかし島に人々が渡ってきた経緯も、それが逃げ延びた平家の人々であったことも、登盛には知らないこと。島民にとっても、もはやそれは過去の歴史となっていた。
「そろそろ、貴殿も所帯を持たれてはいかがか」
家の当主、沖左守良寛が夕食時にそう口を開くと、登盛は少し驚いた顔で箸を置いて応えた。
「そのような……私は皆様にこの命を救って頂いた身…………しかもまだ三月足らず……まだまだ大それた御話にございます」
「貴殿は島の者たちとも上手く付き合っておるではないか。皆、貴殿を受け入れておる」
「有り難き幸せに御座います」
登盛は頭を下げた。
素直な気持ちだった。
一度は死んだと思った命。それを救ってくれたばかりか自分に居場所まで与えてくれた。感謝以外の言葉が見付からない。
例え何世代も経過していたとはいえ、島民は元々迫害から逃れてきた血筋。生きることに対する苦労は血で受け継がれてきた。そして島を平和に導いてきた歴史があった。その気持ちが島民を繋ぎ、やがては他所者である登盛の命を救うことになった。
登盛も島民も、お互いへの感謝の念で溢れていた。
「しかし私にはまだ所帯など…………」
そう続ける登盛の頭に、ミヨの顔が浮かんでいた。
その気持ちに気付いてか、良寛が返す。
「そうは言えど、近しい者がおると民の間では噂になっておるぞ」
「いや……それは…………」
隠せるものでないことは登盛にも分かっていた。相手がミヨで良いなら、登盛自身にとってもありがたいこと。
「ミヨ殿はそれなりの位の御血筋と伺いました…………私のような他所者では…………」
「しかしミヨ殿もそれを望んでいるのならば、何も問題は無いであろうて」
やがて、島を上げての祝言の準備が始まった。
そんな中、登盛とミヨは海沿いの洞窟にいた。
「これは昨夜、沖左守様より預かりし物です……」
そう言って登盛はミヨの手を取り、その中に小さな水晶を握らせる。
そして続けた。
「これは〝水の玉〟……沖左守家で祝言を挙げる者が授かる物とされているそうです。そんな有難い物を私達に預けて下さった…………」
「…………〝水の玉〟…………」
ミヨは呟きながら水晶を眺めた。洞窟の入り口からの日光が微かに届き、水晶を通り抜け、それはミヨの表情を輝かせた。
登盛が続ける。
「私が預かる水晶はこれです」
登盛はもう一つの水晶を取り出して見せた。
〝水の玉〟より僅かに黒い水晶。
「────〝火の玉〟です」
ミヨは目を輝かせた。
そして顔を上げ、口を開く。
「……では……よろしいのですね⁉︎ 私達のことは────」
「もちろんですミヨ殿。私と……祝言を挙げて下さいますか」
「……はい…………喜んで…………」
応えたミヨの目が潤む。
その頃、沖左守家では騒ぎが起きていた。
「……旦那様…………如何様になさるおつもりですか…………」
そう言って使用人の一人が良寛に詰め寄る。
家の座敷で、目の前に置かれた甲冑に視線を落としながら、良寛は全身が震えるのを感じていた。
その甲冑は蔵にしまっておいた登盛の物。蔵に出入りしていた使用人の一人が、その〝異質な事実〟に初めて気が付いた。
その甲冑の裏には────〝源家の家紋〟。
「……これは…………あってはならぬこと…………」
声を震わせながら、小さくそう言う良寛に、使用人が返した。
「……知らぬことにされては…………」
「…………ならぬ」
「しかし祝言も近く────」
「ならぬ!」
良寛が立ち上がっていた。
そして声を張り上げる。
「我らの血に……奴等の血を混ぜろというのか…………我らは……奴等によって滅ぼされた…………! 先祖より伝えられし積年の恨み…………見逃しては御魂に会わす顔が無いわ‼︎」
季節は秋。
すでに夜が早くなっていた。
辺りが短い夕焼けに包まれ始める。
集落の至る所に松明が灯された。通常とは違うその雰囲気に、海の側にいた登盛とミヨは身構えた。
「……一体、何でしょう…………」
ミヨが不安気な言葉を発すると、登盛はすぐに動く。
「何かあったのかもしれません……戻りましょう」
二人は集落の入り口まで急いだ。
そこにいたのは、門を塞ぐ島民達。それぞれが片手に松明を持ち、別の手には斧や鎌。刀を持っている者もいる。
その異様な光景に、二人は身を硬くして足を止めた。
島民達の鋭く、冷たい目が二人に注がれている。
「────……何があったのですか⁉︎」
その登盛の声に、島民の群衆が騒つき、そして動いた。
奥から現れたのは良寛。
そして低い声。
「……源の末裔か…………我等、平家の積年の恨み! ここで晴らしてくれようぞ!」
群衆から歓声が上がる。
──…………源? ……何のことだ…………私は…………
登盛がそう思った直後、その頭に記憶が蘇った。
そしてまるで雪崩のように、それまでのことが崩れていく。
──……そうか……私は………源の……………
良寛が刀を振り上げて怒号を上げた。
群衆の波が動く。
登盛は反射的にミヨの手を取った。
「ミヨ殿!」
「はい!」
ミヨも平家を迫害したのが源家であることは知っている。そう教え込まれてきた。そしてそれに何の迷いも持ってはいない。
しかし、今、ミヨの手を握って前を走っていく者は、自分にとっては登盛という若者。
──…………源…………違う…………登盛様…………
いつの間にか、二人の足元が明るくなっていた。
草原が、一面、黄色い菊に埋め尽くされる。
走る二人の周囲を〝菊〟の香りが埋め尽くした。
数名に追い付かれ、揉み合いになりつつも刀を奪い、登盛が追手を凌ぐ。
菊の花弁が舞う。
その途中で、登盛の持つ〝火の玉〟が菊の花の中へ。
それに気付かないまま、やがて二人は、海辺の洞窟に逃げ込んだ。
「────登盛様! もう我々はこの島で生きてはいかれません!」
叫ぶミヨの目には涙が浮かぶ。
そして震える声が続く。
「……来世で……! ……お会いしとう御座います…………」
ミヨは刀を持つ登盛の手を両手で包んだ。
その中には〝水の玉〟。
そしてその熱さを、二人は共に感じていた。
「いたぞ!」
追手の声が響いたのは洞窟の入り口。
二人がその姿に顔を向けた直後、突然の波が追手の男を攫っていく。
──…………そんな…………
ミヨがそう思った直後、二人の手に挟まれた〝水の玉〟から、水が溢れ出した。
二人が慌てて手を離す。
大量の水はあっという間に二人の腰までの高さ。
そして〝水の玉〟はその中へ────。
そこに流れてきたのは、追手が持っていた刀。
ミヨはそれを手に取る。
そして、気持ちを決めた。
刃先を登盛の胸へ。
そして、涙の浮かぶ目を登盛に向けた。
「────…………来世で………………!」
登盛も心を決める。
大きく頷き、刀の刃先をミヨの胸元へ。
「──……来世で…………必ず………………!」
そして二人は、同時に両手に力を込めた。
その頃、菊の花の中の〝火の玉〟が炎を上げる。
それは瞬く間に周囲の菊の花を燃やし、建物を焼き、やがてその炎は島全体を燃やした。
☆
室町時代後期。
永正一七年。
一五二〇年。
宮津守雁粛が八頭鴉を結成する。
その四年後、清国会によって八頭鴉は島へ幽閉。
やがてそこは、八頭鴉島と呼ばれた。
そこに生きる宮津守雁粛は、その力で島の過去に残された〝念〟を感じていた。
その〝念の強さ〟を恐れ、自分たちへの災難を生む前に祈祷で抑え込む。
しかし、それは一時凌ぎに過ぎなかった。
抑え込まれた〝念の強さ〟は、その一〇〇年後から〝菊花伝説〟を生み出していく。
☆
それは咲恵が読み取った過去。
島に初めて人間が渡った一番古い記憶。
そして〝菊花伝説〟の始まり。
咲恵はその記憶を萌江と西沙と船の上で共有した。
暗い船の上。
ライトは点けられていない。闇の中をコンパスとレーダーだけを頼りに船は進んでいた。
裏の世界で生きてきた祥子にとってはいつものこと。誰にも見付かってはいけない仕事ばかりをこなしてきた。それが祥子の生きる世界。
共有された情報がよほど重いものであることは、共有の出来ない杏奈は三人の表情から察するしかなかった。
杏奈は西沙の顔を見ていた。
西沙は目を見開き、その目を潤ませる。
「…………ミヨ…………って…………」
まるで呟くような西沙の小さな声に、咲恵が返した。
「そう……〝御世〟…………あの子の始まりの場所…………あの子はあそこで初めて清国会の歴史に関わった…………水晶もね…………」
今、西沙の体を震わせているのが自分の感情なのか御世の感情なのか、それは西沙自身にも分からなかった。しかしあまりにもリアルに西沙は御世の存在を感じていた。そして御世の気持ちが感情を大きく揺さぶっていく。
西沙の中の〝ミヨ〟が、何かを訴えていた。
咲恵の言葉が続く。
「その時のミヨが気付いていなかっただけで、元々強い力は備わっていたと見るのが自然ね…………ただの水晶に力を込めることが出来たのもミヨの力…………その力を八頭鴉が抑え込んだ…………例え肉体が無くなっても、せっかくあの島で静かにしていたのにね…………しかもやっと産まれ代われるはずだったのに…………だからミヨは菊花伝説を生み出して恐怖を与えた…………一〇〇年周期になったのは死んでから八頭鴉に〝念〟を抑え込まれるまでの期間に相当する…………」
そこに西沙が挟まった。
「でもそれなら八頭鴉を恨めばいいのに、どうして清国会を…………」
「八頭鴉が島に来た理由は清国会…………八頭鴉も元々は清国会を憎んでいた…………その感情をミヨが吸収したのかもしれない……恨みの連鎖……ミヨ自身そんなものは望んでいなかったのにね……結果的に二つの水晶を雄滝湖に沈めて、そして金櫻家を苦しめた…………」
咲恵がそう返した直後、萌江の言葉が空気を凍りつかせる。
「……リアルな話じゃ……ないね………………〝御世〟が救ってほしいのは……自分だけなの? 何かが足りないよ…………まだ見えていない何かがある」
船の前方に浮かぶ影。
黒く大きな塊。
その威圧感は、全員を圧倒するには充分なものだった。
灯りは見当たらない。
目に映るのは闇だけ。
その闇の中に薄らと浮かぶ小さな桟橋。そこには小さな船が四隻だけ見えた。
人影は見えない。
桟橋の先端に船を停めると、祥子が小さく声を張る。
「明日の朝の四時でいいんだね……私はこうしてあんたたちに関わった。裏切るつもりはない」
四人が降りた。
船はすぐに動き出す。
その船を見送ることもせずに、四人は桟橋を歩き出した。現代の物に比べたら粗末な作りにしか見えない。板の長さもバラバラ。歩く度に軋みが大きく波の音に絡まった。
──……ここに…………あの子たちがいる…………
萌江の頭に、そんな想いが浮かぶ。
そして、新しいイメージが萌江、咲恵、西沙の頭に浮かんだ。
総てが、見えた。
──…………そんな…………
そう思った萌江が唇を噛み締める。
──……本殿の奥…………そこで…………
周囲に舗装された道路など、もちろん存在しない。
足元と周囲を照らすのは、僅かな月灯りのみ。
砂利道から緩やかな丘が上へと続く。
それは月灯りで照らされた、黄色い丘。
よく見ると、周囲はその黄色で埋め尽くされていた。
「…………菊の花…………」
咲恵が呟く。
小さな菊の花が周囲を埋め尽くしていた。
四人はその菊の花をかき分けるようにして丘を登っていく。
見上げるとその上、薄らと、小さな人影が、三つ────。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二一部「堕ちる命」第5話(完全版)
(第二一部最終話)へつづく 〜




