第二一部「堕ちる命」第3話(完全版)
その雑誌社は、杏奈が何度も出入りしていた所だ。
フリーのジャーナリストになる以前から仕事上で世話になっている所でもあるが、それは多分に父親の影響が大きい。編集長の岡崎が父との交流があったことで、フリーになってからも何かと仕事を世話してもらっていた。
この日、杏奈が岡崎と共にいたのは資料室。資料室と言ってもいくつもあるが、ここにあるものは古い物ばかり。決して人の出入りが激しい部屋ではない。
時間は深夜。
外の弱い月灯りが部屋中の影を濃くし、まるでそれに合わせるかのように、部屋の天井の蛍光灯はどこか薄暗かった。
それなりの広さのある部屋であるにも関わらず、大きな棚ばかりで狭苦しい部屋。そしてその棚には古い紙の束が雑然と並べられていた。本と言えるような物は決して多くはない。スチール製の引き戸は所々が錆び付いたまま。そこからの古い鉄と埃の匂い。僅かに煙草の匂いも染み付いているようだ。古くは大勢の職員の情報の中心になっていたことが窺えた。
多くの歴史が犇めき合う場所。
それが長い歴史を持つ場所の宿命なのだろう。
「国に登録されていない島なんて本当にあるのか? しかもこの時代に……」
そう言う岡崎の声はあくまで真剣だった。
それに対して古い紙の束をいくつも目の前に重ねたままの杏奈が、顔も上げずに応えていく。
「調べてみたら確かに行政には登録されていませんでした。しかも戦前まで遡っても駄目でした。それでも場所は分かっています」
杏奈が調べていたのは離島に関する物。本来ならば行政に保管されているような資料だが、杏奈は古い雑誌社の資料室に存在する可能性に賭けていた。その目論見通り、その資料はかなりの量に上った。現在とは違い、昔のジャーナリストであれば資料のコピーを取ることが可能だっただろうと考えたからだ。
日本本土から遠い沖合にある島々は火山島を中心に構成されていることが多い。そう言った地殻変動等に関するニュースや、もしくは島での事件等の取材に必要だったのだろう。そういった島々となると行くのも簡単ではない。本土と違って場所の把握すらも難しい。そういった理由だろうと思われた。
しかしやはりその資料の山の中にも八頭鴉島は存在しない。その痕跡すら見付けられない。杏奈も俄には信じられなかったが、西沙から得た情報の場所には事実として存在しなかった。
朝の内に行政で調べても確かに見付けられないまま。
しかし、見付けられなかったことが、それが現実であることの証拠となる。
杏奈にとっては不思議な感覚でもあった。
──……でも、これが私の役割…………
「ただの都市伝説じゃないのか?」
そう言いながら煙草に火を付けた岡崎が続ける。
「登録されていない意味が分からん。領海のことを考えたって……しかもアメリカの目だってあるんだぞ」
「何か協定でもあるなら知りたいですけど、それすら見付かりませんよ。まあ、陸の孤島よりホントの孤島のほうが……何かを隠しておくには最高ってことなんじゃないですか」
そう応える杏奈は相変わらず目線は資料に向けたまま。
すると天井に向けて大きく煙草の煙を吐き出した岡崎が短く返した。
「何を隠すって言うんだ……」
「────この国の、秘密とか……」
そう即答した杏奈が顔を上げる。
その目を見ながら、岡崎も目を細めた。
「お前……また何かヤバいネタに足突っ込んでるわけじゃないよな…………いきなり船が欲しいなんて何事かと思ったが…………」
すると目線を外した杏奈が返す。
「まあ…………今回は記事には出来ませんね…………」
「──何のためにそんなこと────」
その岡崎の言葉を杏奈が遮る。
「自分のためです────私は今……大きな組織に所属しています…………詳しくは話せませんが…………」
「まさかお前……おかしな宗教とか…………」
すると、そう言う岡崎の煙草の灰が落ちたのを確認したかのように、間を空けた杏奈が応えた。
「……違います。そのおかしな宗教に対抗する組織です」
「みんなそう言うんだ!」
叫んだ岡崎は反射的に立ち上がっていた。
そして続ける。
「……誰も……自分が間違っているなんて微塵も思ってない。自分たちが正しいと思わされて…………手を引け……この間から内閣府を調べたりして……ホントに危険が無いと言い切れるのか⁉︎」
「内閣府にマークされてることは知ってます…………」
応える杏奈の声は不安を含んでいた。
それを感じ取ったのか、岡崎はさらに声を張り上げる。
「それじゃテロ組織じゃないか⁉︎ お前の親父さんの墓に何て報告すればいいんだ…………」
すると杏奈が顔を上げ、その視線が岡崎へ。
その強く真剣な目に、岡崎は小さく身を引いた。
そして杏奈が口を開く。
「……父は…………必ず理解してくれます」
「詭弁だ!」
その岡崎の声に、今度は杏奈が身を引いた。
そこに岡崎がさらに切り込む。
「……お前がそう思いたいだけなんじゃないのか…………?」
杏奈は目線を外すと、その視線を再び手元の資料に戻し、口角を僅かに上げた。
「…………そうかも、しれませんね…………」
──…………そうなのかな…………
──……他の人から見たら…………そうなのかな…………
岡崎は椅子に再び腰を落とすと、ゆっくりと煙草を吸い込む。
大きく煙を吐き出すと、ゆっくり返した。
「…………船が……欲しいのか?」
「…………はい」
「船を手に入れたって、どうやってそんな島まで行くつもりなんだ……」
続けながらも、岡崎は杏奈と目を合わせようとはしない。
そして杏奈は力無く応えるだけ。
「……そう……ですよね…………」
「どうせそれを頼みたくて来たんだろ? 確かに俺なら何とかならなくもない…………」
「……お願い出来ますか?」
杏奈は早る気持ちを抑えていた。
そして岡崎が声を落とす。
「今回も内閣府絡みなのか?」
「…………まあ……そんな感じです」
「なら高くつくぞ」
「構いません」
「口止め料も必要になる」
「お金ならいくらでも…………」
杏奈の声が何かを覚悟しているのは岡崎にも感じられた。
例えどんな覚悟も、絶対に不安の無いものなど存在しない。それでも進もうとするからこそ、それが覚悟になる。それは岡崎も経験から分かっていた。
「明日……いや明後日だ…………ここに来い。時間はまた連絡する」
そしてその岡崎の言葉にも、なぜか杏奈は心から喜べずにいた。
覚悟はある。
迷いは無いはず。
それでも、抗えないほどの不安が胸の奥から消えない。
☆
舗装されていない砂利道に入った。
それでも咲恵は車のスピードを落とさない。
しばらく無言のまま。
助手席には項垂れたままの萌江。シートベルトをした上にサッチェルバッグを持たされ、萌江は力無くバッグを両手で支えるだけ。
そして後部座席の西沙が声を張り上げていた。
「急に何なのよ咲恵! いい加減に説明してよ! 毘沙門天で雫さんと楓ちゃんがいないとあの島に繋がるのは難しいから行ったのに────!」
車が大きく揺れる。
その直後、やっと咲恵が口を開く。
「……あの島の前に…………どうしても確かめることがある……」
「にしたってどうして毘沙門天じゃダメなのよ⁉︎」
「今まで私も気が付かなかった……京子さんが私の中にいるのに…………あの家がどうして守られてるか、どうして清国会が見付けられないのか分からなかった…………西沙ちゃんだって分からなかったでしょ?」
「……うん……それはそうだけど…………それが何よ…………」
次の大き目の振動が三人の体を揺らす。
それはまるで会話を邪魔するかのようだったが、ここまで何時間も運転を続けてきた咲恵にとっては都合が良かった。
言葉で簡単に説明の出来ることではない。
実際に〝目〟にするのが一番だと咲恵は考えていた。
確かに西沙の不安も当然だ。
あと少し。あと少しであの島の核心まで辿り着きそうな時、まさかの過去が萌江を歴史の中心から呼び起こした。そしてその意味は咲恵にも分からない。だからこそ、咲恵自身が確かめなくてはならなかった。
多くのことが見えた。
まだ自分でも整理などついてはいない。
自分でも未だ信じられない部分のほうが多い。
それでも萌江が全身で〝それ〟を感じている。
それならば、咲恵としてはそれに賭けるしかなかった。
いや、咲恵は自分の感じたものに賭けた。
──…………私は…………萌江を信じる…………
やがて到着したのは、萌江────そして四人の家。
早朝。すでに周囲は薄らと明るくなってきていた。
咲恵はいつもの駐車場に静かに車を停めた。
目の前には住み慣れたいつもの家。
静かだ。
今、誰もいないことは三人にも当然分かっていること。
しかし、何かいつもとは違って見えた。
少なくとも西沙はそう感じていた。
──……ここが…………何なのよ…………
なぜか車を降りることが出来ないまま。
西沙は後部座席の窓からいつもの縁側を眺める。
やがて、ゆっくりと、そして静かに咲恵が運転席のドアを開けた。
そして庭の中央まで歩くと、自然と縁側に体を向ける。
西沙も咲恵を追いかけるように庭に向い、そして咲恵の横顔に視線を向けた。その寂しげにも見える咲恵の目に、西沙の胸の中に湧き上がるのは不安だけ。
いつの間にか心臓の鼓動が大きい。
そして咲恵の口が、小さく開いた。
「…………ここが…………本殿………………」
──………………え…………?
咲恵の言葉が続く。
「……ここはただの家じゃない…………神聖な場所…………」
「…………なによ……それ…………」
やっと西沙が言葉を漏らす。
そして、次の咲恵の台詞に、西沙は再び言葉を飲み込んだ。
「……ずっと……清国会から隠されてきた……ここは…………〝唯独神社〟…………」
──……………………
「例え意図していなくても……萌江がここを選んだことには意味があった…………」
そして、やっと西沙が言葉を返す。
「……咲恵…………あなたは何を見たの……⁉︎」
すると咲恵は、まるで西沙の言葉に返すかのように玄関へと視線を移した。
釣られるように西沙も視線を移していく。
そして、違和感を感じた。
玄関は古い家特有の曇りガラスの引き戸が二枚。
何もおかしな所は無い。
──…………あれ?
おかしかった。
いつも玄関の出入りのために開け閉めしているのは左側の引き戸。
右側は元々の引き戸が取り外されて板が填められていた────はずだった。
それは萌江が猫用の小さな扉を取り付けたため。
冬に冷たい空気がなるべく入り込まないようにと、動かす左側の引き戸と接する部分にスポンジを貼り付けて対策がなされていた。それでも猫用の扉からは僅かに空気の出入りがあった。
しかし、今、そこに板は無い。
曇りガラスの引き戸が並ぶだけ。
西沙の耳に、咲恵の吐いた小さな吐息が聞こえた。
そこから感じた寂しさに、西沙は全身に何かが通り過ぎて行くのを感じながら、自然と視線を再び縁側へ。
リビングに続く大きな窓ガラス。
その向こうには茶色のカーテン。
見知らぬ人が立ち寄るような所ではない。いつもガラス窓には鍵を掛けることもなかった。
無意識に西沙の足が動く。
縁側に登り、ガラスを開けた。
西沙を掠るように、外の冷たい空気が中に入り込もうとカーテンを揺らす。
そのカーテンに手をかけ、開けると、いつものリビングは静かだった。
外はまだ薄暗い。家の中は影に覆われている時間。
──………………どこ…………?
西沙は薪ストーブの横に目をやる。
そこにはいつも、猫用の大き目の座布団が一つ。三匹が丸まって乗れる大きさの物があるはず、だった。
しかし今は何も無い。
その横にあったはずの給餌器も無くなっていた。
西沙は靴を脱ぐと、ゆっくりとリビングを抜けてキッチンへ。
途中で視線を左へ向け、リビングから玄関へと続くドアにあったはずの猫用の扉が無くなっていることを確認しながら、西沙は流し台下の扉を開いた。
そこには常に、猫用の缶詰が保管されていた────はず。
あるのは不自然に開けられた空間だけ。
──……どうせ…………どうせ玄関に置いてあった猫砂も…………
体が震えた。
今、自分の目で確かめた。
そして、非情にも、理解は出来た。
しかし、気持ちは納得出来ない。
指が震える。
口元が震えていた。
西沙は縁側まで戻ると、庭で立ち尽くす咲恵と視線を合わせる。
咲恵の目が大きく震えていた。
──……そうだよね……咲恵だって…………認めたくなんかないはず…………
それでも、最初に口を開いたのは咲恵だった。
「…………幻…………全部…………京子さんが創り出した…………私たちは見せられてた…………」
その言葉に、西沙の目に涙が浮かぶ。
僅かに震える声で返した。
「……何のために…………」
「萌江が子供を作れない体なのは知ってるでしょ? それなのに萌江は……自分で作り出した想像上の子供たちを見ていた…………二人…………その子たちは常に萌江の中にいた…………妄想にしか過ぎないのなら、魂は無いはず…………でも…………なぜかその二人は…………京子さんと一緒にここに来た…………」
──…………やめて…………
「西沙ちゃんなら分かるよね…………幻を創り出すのは簡単なことじゃない…………しかも私たちまで騙された────」
「────騙されたなんて、言わないでよ……」
西沙が咲恵の言葉を遮る。
その声は、震えていた。
西沙の頬を、涙が流れていく。
「……私は…………楽しかったよ…………家族だったからね…………絶対に忘れない…………どんな幻だって……記憶からは消せない…………私が一番よく知ってる…………」
「そうね…………今はまだ……京子さんが何の意味を持って私たちに幻を見せ続けたのか…………それは分からないけど…………」
「あの子猫の兄弟は、萌江の中のその二人で間違いないのね…………」
「……毘沙門天で見たのは間違いなくあの二人…………」
「…………どうして萌江の想像が…………」
西沙はそう言いながら、車の助手席にいるはずの萌江に視線を回していた。
「────あれ? 萌江は⁉︎」
その西沙の言葉に咲恵も首を回すが、驚きも焦りも見せないまま返すだけ。
「……大丈夫…………あそこしかないよ」
咲恵は西沙を促すように、家の裏にある竹林の中へ。
西沙は涙を手で拭いながら着いていく。
現実と幻の区分けなど誰にも出来ないことを西沙は経験から知っていた。目で見えているものは、同時に視覚を経由して頭で創り上げているものに過ぎない。目で見えているだけで、そこにそれが存在すると誰もが疑わずに生きている。誰も自分の頭の中で想像したものだとは思わない。幻を創り出す能力を持った西沙ですら、たまに混乱することがある。
何が現実か。
何が幻か。
だからこそ西沙は、目で見えているものに全幅の信頼を寄せてはいない。それなのに、西沙自身何の疑いもなくあの三匹の黒猫を受け入れていた。幻である意味を感じなかったからには違いないが、もしも最初からそれに気が付いてさえいれば、こんなにも感情を揺さぶられることは無かっただろう。
──……どうして…………幻は記憶から消えてくれないの…………
西沙は自分の能力に限界を感じた。
〝幻惑〟の使い手としては、自分自身、おかしな考えだと思えたからだ。
──……このままじゃ…………みんなを守れない…………
竹林の中の開けた空間。
その中心にある小さな古い祠。
朝日がだいぶ登ってきたのか、薄暗い周囲に、竹と竹の間を縫うようにして弱い陽の光が差し込む。
咲恵と西沙は、そこで踞る萌江の背中を見付けた。
二人は萌江の少し後ろで足を止める。
なぜかそれ以上近付き難い。
──……大丈夫…………私は萌江を信じる…………
そう思った咲恵が口を開いた。
「……全部…………見えたよ…………」
その咲恵の声は、何かを覚悟すると同時に、何かを確認するかのようだった。
しかし萌江は何も応えない。
西沙が何も言葉をかけられないまま、咲恵の声が続く。
「ここを守っていたのはその祠だけじゃなかった…………あの三匹の黒猫たち……だから家の敷地から外には出なかった…………京子さんと、存在するはずのない二人の子供たち…………萌江が創り出した……産まれてくるはずのなかった子供たち…………」
項垂れていた萌江の頭が、僅かに上がる。
それに気付いた西沙が声を出し掛けるが、何も言えないまま。その指先だけが空気を揺らす。
咲恵の声が続いた。
「……京子さんには総てが見えていたのね……萌江のお母さんだもの…………萌江がここに来ることも…………ここが〝唯独神社〟になることも…………その祠はもしかしたら京子さんが残した物かもしれない…………」
そして、咲恵の声が変わる。
「〝あなたが唯独神社を再建するために〟」
それはまるで、京子の声にも聞こえるもの。
西沙が咲恵の横顔に視線を振り、それに応えるように、萌江の声が聞こえた。
「…………会いに行かなきゃ…………きっとあそこに…………あの子たちがいる…………」
その萌江の声に、西沙が反射程に呟く。
「……命とは…………違う存在…………?」
その西沙の耳に届く、萌江の震える声。
「……あの子たち…………誰なの? …………教えてよ…………お母さん…………」
☆
平安時代末期。
西暦一一八五年三月。
源家に於いては元暦二年。平家に於いては寿永四年。
壇ノ浦の戦い────その戦の結果として、平家が滅亡する。
しかしその平家の生き残り────まだ幼い子供も含む三五名が、五つの小舟で闇夜に紛れるように海へ。三日間海原を漂い、やがて島に辿り着く。
人を探すも誰も見付からないまま、島で暮らすのは小動物と様々な昆虫、渡り鳥。
人の暮らした痕跡も無い。
食べられそうな木の実、草の根を食べた。
それによって命を縮めたであろう者もいた。
それでも、人々はここで生きることを決めざるを得なかった。
体力や食糧のことを考えれば、これ以上別の島を探す余力は誰にも無い。
そして生活の拠点を作り始めた。
初めから家と呼べるような物があったわけではない。
海辺や山肌の洞窟等、雨風を凌げる場所を転々としながら、建物を建てられる場所を探した。出来るだけ平らな場所を見付けて、太い木を斜めに組んだ。草木を乗せ、そこで闇を凌いだ。
誰かが畑を作ることを提案したが、野菜の種子は無い。
最初は魚を主な食料とした。
やがて食べられる果物や野菜を山の中から見付け、その種子から畑を作ることに成功するまで二年程。
しだいに集落と呼べるものが形作られていった。
直接人々に脅威となる動物もいない。
少しずつ人口が増え、社会が出来上がっていく。
その中ではもちろん問題も発生する。その度に厳格な決まりを作り続けていった。
それから二〇〇年以上。
室町時代中期。
応永三一年。
西暦一四二四年。
すでに社会基盤の作られていた島に、一人の兵士が流れ着く。
意識を失ったまま海岸で見付かったその兵士は、早朝に漁に出ようとしていた島民が見付けた。
刀こそすでに持ってはいなかったが、甲冑等の装備品から兵士であることは明らか。しかし重い甲冑を着たままで海を泳いで来られたとも思えない。
それでも、島民は兵士を介抱した。
しかしそこには、情報を聞き出したいという思惑もあった。すでに長く本土との交流は無い。世の中がどうなっているのか知りたいというのも真実。
やがて兵士が息を吹き返す。
兵士は戦の最中、敵兵から逃げる為に小舟に乗った。しかし潮の流れに逆らえずに沖へと流され、戻れないまま、食料も無く体力が奪われていく。やがて嵐に巻き込まれて舟が沈む。重い甲冑を背負ったまま泳ぎ始めたところまでは覚えていた。
そして断片的な記憶が欠落していることが判明する。
名前は光生登盛────二三歳。
精神的な戸惑いは見受けられたが、感じのいい若者だった。
登盛はすぐに島の生活に馴染んでいった。畑を耕し、建物を建て、三月もすると島の人間となっていた。その顔には、いつの間にか兵士の頃の鋭い目は存在しない。
登盛自身も幸せだった。
戦で神経を擦り減らすことの無い生活。幸いにも家族の記憶を失っていた登盛にとっては文字通り新たな人生そのもの。
そしてそんな登盛が、島で一人の女性に出会う。
ミヨ────一七歳。
若く、美しい女性だった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二一部「堕ちる命」第4話(完全版)へつづく 〜