第二一部「堕ちる命」第2話(完全版)
夕暮れ時。
穏やかで、そして緩やかな空気の流れが、季節の涼しさを増す。
毘沙門天神社。
その参道の石畳を鳴らすハイカットブーツの音に、本殿にいた西沙は立ち上がって駆け出していた。
萌江と咲恵の姿に思わず声を上げた。
「萌江!」
子供のようなその満面の笑みに萌江も軽く笑顔になり、同時にそれは、階段を登ってきた時の張り詰めた表情を隠していた。
「おやおや、まるで遠距離恋愛の彼女にでも会ったみたいな顔だよ西沙」
その萌江のいつもの声に、西沙の口調も普段のものに戻っていく。
「それを言うなら彼氏にしてよ。私は萌江や咲恵とは違うんだから」
「あれ? 杏奈ちゃんとはそういう関係じゃないの?」
「違うに決まってんでしょ! なんでそうなるのよ!」
しかしそう応える西沙の顔が少しだけ赤くなったのを、夕陽が隠した。
そこに咲恵。
「はいはい、雫さんの前でしょ」
そして咲恵は声のトーンを落とし気味に続ける。
「……楓ちゃんのためにも早く始めるよ」
そして本殿への階段を登り始める。
笑顔になった萌江と西沙が咲恵の背中に続くと、やがて雫の声が本殿の奥から。
「お疲れ様です……突然すいません…………私で力になれるかどうか…………」
咲恵が返していく。
「雫さんこそお疲れ様です。大変でしたね」
咲恵はそう言うと、雫の目の前で腰を落としながら雫に抱かれたままの楓に視線を落とす。
そして首の水晶を右手に絡めると、その手を楓の額へ。目を閉じて再び口を開いた。
「…………大丈夫…………元気ですよ」
その言葉に、雫が小さく息を吐く。
そして、西沙に続いて祭壇の前に胡座をかいて腰を降ろした萌江の声。
「雫さんが楓ちゃんと一緒に残れなかったってことは…………誰かの邪魔が入ったってことか…………」
そこに本殿の奥の廊下から足音。
お盆を持った結妃と佐平治だった。
全員の視線を受けながら、結妃が萌江と西沙の前に湯呑み茶碗を置きながら応えていく。
「……確かに〝壁〟がありました…………それを壊せたのは楓様だけだったようで……」
咲恵と雫の前に佐平治が湯呑み茶碗を置くと、西沙の顔を見た結妃が続ける。
「でも良かった…………西沙さんの顔色が戻ってきましたね」
自然と笑顔になった結妃の表情に、西沙はすぐに返した。
「そう?」
「そうですよ。何度〝繋がり〟を断とうと思ったか…………」
「ごめん」
西沙がそう応えながら苦笑いを浮かべ、そこに萌江が挟まる。
「西沙をそこまで追い詰めるなんてね…………それほどの相手なんてそうはいないよ。確かに咲恵が関与しなきゃならないくらいの長い話になりそうだ。しかもなぜかは分からないけど私たちに関係のありそうな話だしね」
その萌江の口元に笑みが浮かんだ。
その萌江を西沙が見上げる。
「でも……どうするの?」
「雫さんの力で遡る────そのために楓ちゃんはまだその島にいる…………今回は過去の断片を見るだけじゃない…………歴史を辿る……そのためには咲恵の力は絶対に欠かせない」
その言葉に、それを聞いていた咲恵の口角が上がった。
しかしその表情を見て声を上げたのは西沙。
「私は⁉︎ 私は何をすればいいの⁉︎」
西沙は強い力を保有しながらも、決して一人で生きていけるタイプではない。常に誰かに寄りかかるところがある。それは萌江も咲恵も理解していたし、それでいいと考えていた。元はそれが美由紀であり、杏奈であり、現在はそこに萌江と咲恵が加わった。萌江にとってはそれが西沙であり、同時に西沙の強さの源だとも考えていた。
自らの立ち位置を定めれば、西沙の能力はいくらでも強くなれる可能性を秘めている。
それを熟知していた萌江が応えた。
「元々その島は強力な〝何か〟に守られてた……誰にも見付からないようにね。どうせ衛生写真にも写らないように清国会が守っていたんだろうけど…………それが今回崩された…………」
西沙の目が見開かれ、萌江の言葉が続く。
「……場所は分かった……ここからでも私も感じる…………今までで一番の結界だ…………よく崩せたね……西沙……」
萌江は西沙に柔らかい笑顔を向けた。
そしてさらに続ける。
「さすがだよ…………でも、西沙以外に邪魔をしてるヤツがいる……辛いだろうけど、もう一度お願い。たぶん、西沙にしか出来ない」
西沙が大きく頷く。
萌江は体を咲恵に向けた。
ネックレスを外すと〝火の玉〟を左の掌へ乗せて咲恵の前へ。
咲恵がそれに応えるように右手に下がった〝水の玉〟をその上へ。
ゆっくり腕を降ろすと、二つの水晶が小さく音を立てた。
萌江と咲恵の体に、何かが走り抜ける。
二人の手に包まれた二つの水晶が熱を持つ。
「────行くよ」
その萌江の声で、全員の意識が溶け合う。
「私たちを……その島へ…………」
意識が覆い尽くされる。
しかしその直前、咲恵の中に何かが走り抜けた。
──……………………?
☆
江戸時代初期。
寛永元年。
西暦一六二四年。
八頭鴉島と呼ばれる島があった。
元々は対清国会の組織として結成された組織〝八頭鴉〟の八人が清国会によって捕らえられ、島流しになったことからそう呼ばれた。
清国会からは密教とされた組織だったが、その八頭鴉に信仰を寄せる者達も少なくはなかった。すでにこの頃では最初の八人を慕って島に自主的に渡った人々の血筋から三世代目の子供達が育っていた頃。
その世代の子孫の中に、八重津黄華────一七歳がいた。
家の生業は代々宮大工。先祖が島に渡ってすぐの頃、その知識と技は重宝されたという。現在でも八重津家は新たな社の建築や修繕で存在意義を確固たるものとしている。
この島の信仰の中心でもある大黒天神社の維持には必要不可決な存在でもあった。特殊な建築技法とそれを代々受け継げるのは八重津家のみでもあったからだ。
現在の八重津家当主、八重津萩里の娘、黄華はその美しさで島でも話題となっていた。
そろそろ祝言も考えなければならない年齢ということもあり、萩里が嫁ぎ先を模索していた折、黄華は運命的な出会いをすることとなる。
それは八重津家と同じ頃に島に自主的に渡った高津宮家の長男、李瀚────二三歳との出会いだった。
しかし八頭鴉島には厳格過ぎる〝位〟が存在した。
それは島の生活基盤を構築していく過程で、どうしても人々をまとめるために必要だった規律。そしてそれがなければ、宗教への信仰心だけでは人心は一つにはならなかったことだろう。
高津宮家は島に渡る以前、朝廷の帝を代々守り続けてきた血筋。もちろんその存在意義は八頭鴉島でも大きく、島の最初期より〝相談役〟として実質的な二番手の立場に君臨し、八頭鴉そのものの存続に貢献してきた。
血筋が重要視される世界。
二人の間には大きな〝位〟の開きがあった。
しかし初めて会った時から、二人は一目で惹かれ合った。
それは言葉ではなかった。
ただ、感じるもの。
それからはお互いに常に相手のことを感じ、体の中心で想い続ける日々。
二人とも立場の違いは理解していた。
しかし感情が動く。
気持ちが走り始める。
何かが繋がっていた。
お互いの気持ちと同じように手を繋いだ時、すでに言葉は必要なかった。
激しくお互いを求め合い、心の繋がりを確信する。
三日と間を置かずに逢瀬を重ね続けて二月程。
陽の高い時もあれば、夜、月の輝く頃、会い続けた。
会い続ける程に、少しずつ気持ちの中の何かが膨れ上がっていく。
しかし二人のその感情は、決して許されるものではなかった。
その現実が二人の背中に大きくのし掛かり続けた。
会い続ける程に、それはしだいに大きくなっていく。
その二人の姿は、その日、十二社の影にあった。
「これを…………」
李瀚は黄華の手を取り、その掌に小さな巾着袋を握らせる。
「…………これは……?」
黄華は不思議そうな表情でその巾着の中身を掌へ。
それは小さな〝水晶〟。
李瀚が言葉を繋げる。
「昨夜、夢の御告げで授かりました……これは黄華殿に受け継がれるべき物とのこと…………」
「李瀚様⁉︎ ……どういうことですか⁉︎」
「……私にも分かりません…………しかしこれは神の御告げに違いありません」
その二人の姿を見ている者がいた。
建物の影に隠れているのは、雫の姿────。
──……あの二人…………先祖も同じだったっていうの?
──…………そんなことが…………
それから二人が会う度に、それを見守る雫の姿があった。
──……どうしてあの二人だけを見せられるの…………
「……あの二人の人生に……どんな意味が…………」
──…………教えて……楓…………
そして、二人の関係が八頭鴉の上層部に見付かるのは、それほど時は掛からなかった。
それは大黒天神社の大神主までをも巻き込んで協議が繰り返される。しかし意見は平行線を辿り続けた。
誰も疑いを持つことのない〝血筋〟の規律。
今までも同じようなことが無かったわけではない。しかしその度にその二人は粛清の対象とされてきた。そうするしかなかった。そうしなければ島の規律を守れなかった。そうしなければ統制を維持することが出来なかった。
当然島の誰もが今回もそうなると考えた。過去の文献からもそれは疑いようもない現実。
二人に、会えない日々が続く。
それぞれの自宅に監禁されることとなって七日程。
黄華は自宅離れの座敷牢にいた。牢の扉の外には神社からの従者が常に二人。
下弦の月。
月灯りは決して明るくはなかった。その月灯りが壁に四角く穴を開けただけの窓から差し込む。
座敷牢の中にあるのは布団と木桶に入った水だけ。すでに冬の足音が聞こえる季節。土壁の座敷牢の中はだいぶ冷え込んでいた。薄い布団に包まっても、心の冷たさすらも温めることが出来ないまま。
しばらくの間、黄華は満足に睡眠も食事も取れていなかった。
募るのは李瀚への想いだけ。
その強さだけで生き続けていた。
手の中に李瀚から譲り受けた〝水晶〟を握ったまま。
その夜、黄華の頭の中に、誰かの声が響く。
『……ここを抜け出しなさい…………今夜…………』
「……今夜⁉︎ あなたは誰⁉︎」
『……李瀚様があの海辺の洞窟へ……今夜……』
──…………李瀚様が……あそこに…………
手の中の水晶が熱い。
その時、黄華の目の前の小さかった窓が音も無く崩れていく。
──……李瀚様…………
気持ちが高揚した。
──……今…………参ります…………
闇に紛れるように、黄華は走った。
やがて、二人で何度も逢瀬を重ねた海沿いの洞窟で、二人は再開する。
「……水晶が……熱くなって…………李瀚様に会いたくて…………」
言葉のまとまらないままの黄華は、そんな言葉を零しながら大粒の涙を流すだけ。
その体を李瀚が抱き締めた。
「私もです黄華殿…………神の声が聞こえました…………」
「同じです……私にも声が…………」
その二人の姿を、やはり側で雫は見せられていた。
洞窟の入り口を見下ろせる崖の上。
──……現代でも……もしかしたら同じ流れになるっていうの…………?
「…………? なに?」
足元が明るい。
視線を落とした雫が見たものは、突然足元を埋め尽くした大量の〝菊の花〟。
周囲の、それまでただの草地だった場所が黄色く染まっていた。
「……これは…………」
──…………菊花伝説…………
「……黄華殿……本当によろしいのですね?」
洞窟の中。
李瀚の言葉に、黄華は大きく頷いて応える。
「…………はい……李瀚様と一緒になるためなら私の命など…………」
李瀚は着物の懐から二本の短刀を取り出した。
その鞘を取り去ると、一つを黄華に手渡す。
二人は洞窟の中で膝を落とした。
お互いの刃先を胸に。
そして、黄華の声が、李瀚の耳に響く。
「…………来世で…………再び…………必ず……………………」
静かになった。
洞窟からの二人の声が聞こえない。
──…………まさか……!
雫は崖を駆け降りた。
その足元には、風に巻き上げられた菊の花弁。
淡い月灯りが反射し、辺りを黄色く染める。
しかし、遅い。
二人は体を重ねたまま、笑顔で、息絶えていた。
両の目には涙が浮かぶ。
お互いに短刀で胸を刺し合ったまま。
「…………どうして…………」
──…………もしかして……あの二人も…………
☆
「────菊花伝説の始まり…………これからちょうど一〇〇年ごと……三回同じことが起きてる…………同じ血筋の二人でね…………まったく同じように最後は…………」
萌江はその言葉の最後を濁らせる。
すでにだいぶ暗くなった本殿に松明の灯りが大きく揺れていた。
しばらく本殿に静けさが漂うが、それを崩したのは雫の呟き。
「…………産まれ代わり…………」
しかしそれにすぐに返したのは西沙。
「やめてよ、そんな安っぽい言葉……そんなものは存在しない……ただの宗教概念だ……」
西沙は〝産まれ代わり〟という言葉を嫌った。それは自分自身がそう言われて育てられたからに他ならない。
それが真実か、何が真実かは実際のところ西沙にも分からないこと。それでも西沙はその考えに甘えるのを良しとしてこなかった。
再び静まる空気を、萌江が引き裂く。
「でも、あの二人が伝説の始まりではないね……起源はもっと深くにある…………」
それに西沙が繋げる。
「……もっと深く…………〝誰か〟がいる…………誰かが助けを求めてる…………」
「…………萌江…………」
そう言って声を上げた咲恵が続けた。
「あれは…………〝水の玉〟だった…………あれを過去に使いこなせたのは…………」
「その可能性もあるか…………でも、どうして…………」
そう返した萌江の中にも、整理出来ていない情報が多過ぎた。
「清国会のかなり深いところに手を出したみたいね…………あそこ、ただの神社とは思えない…………そして西沙ちゃんも感じてる〝誰か〟が救いを求めてる」
そう言った咲恵が目を細める。
──……もしかして…………
それを萌江が繋げる。
「清国会が求めているものは────」
その萌江の言葉を今度は西沙が掬う。
「〝負の念〟…………清国会はそれを利用しようとしてる…………」
拾うのは咲恵。
「それは私たちにとっては〝人の想い〟そのもの…………でも、こんなに強いものはそうはないよ…………萌江、真実を見れる?」
「やるよ」
そう即答する萌江が続ける。
「やれるかどうかじゃない……やる…………それが私たちの求めるものでしょ…………負ける未来なんか見る気はない…………」
萌江は語尾に含みを持たせた。
それでも、そこには間違いなく何かの〝覚悟〟が感じられた。
それに気が付いた咲恵が、ゆっくりと返していく。
「……そうね……そのために私たちはここにいる…………もっと深いところまでいこう…………西沙ちゃん、お願い。八頭鴉の起源まで行かせて────」
☆
室町時代後期。
永正一七年。
西暦一五二〇年。
京の都。
いずれも名のある神社の宮司達が八名、密かに〝八頭鴉〟を創設する。
その名目は、すでに京の都で勢力を伸ばしていた清国会に対抗するため。清国会が朝廷への謀反を企てていることを最初に知ったのは、伊勢神宮で長く宮司として修行を続けていた宮津守雁粛。雁粛の考えに賛同した宮司達は七名。全員で八名であることから八頭鴉と名付けた。
やがて密かな活動は信奉者を増やしていく。神職に就く者から宮大工、鍛冶屋、その職種は様々な分野へと広がっていく。
清国会への、静かな抵抗が始まっていた。
しかしその中で、清国会の信仰の対象である金櫻家が清国会そのものを完全に受け入れていない内紛のようなものも調査の過程で把握していた。八頭鴉としてはその金櫻家を取り込みたい考えもあった。
伊勢神宮。
内宮。西宝殿。
朝廷の公家たちからも信頼を得ている伊勢神宮の宮司の一人、八尾萬宗易。
一度は伊勢神宮で神主まで上り詰めたが、二〇年ほど前に一度仏門に出家した変わった経歴を持つ。数年後に神職に戻るが、それからさらに数年で高齢を理由に自らその立場を辞していた。現在は朝廷での相談役のような立ち位置に収まっている。齢は七五。
この日、宗易は広い和室の中央で、距離を置いて宮津守雁粛の向かいに座っていた。
「……清国会か……天照大神様の血筋が唯独神社の金櫻家であるとする者達…………それは詰まるところ、同じく天照大神様を神とする我ら伊勢と朝廷に刃向かうことでもある」
そう言いながらも、なぜか宗易は口元に笑みを浮かべる。
雁粛はすぐに返していた。
「しかしすでにあの者達は朝廷にまで入り込んでおります。いずれは帝である天皇様をすげ替える算段かと……」
「事はそう簡単でもあるまいて雁粛……貴様も金櫻家の動きに関しては聞いておろうが……どうにも清国会には与する気が無いとも聞く…………例え今はあの者達の手の内にあろうともな…………」
「さすれば……如何様に……」
「簡単なこと…………金櫻家を取り込め…………」
そう言って目を光らせた宗易が声を潜め、続ける。
「……唯独神社を取り込め……その場所を探せ……金櫻家が恐れながらも所持しているという二つの〝水晶〟も手に入れろ…………あれは魔性の石だ……決して清国会の中心に据えてはならん…………」
雁粛も伝え聞いてはいた。
〝火の玉〟と〝水の玉〟。
それは金櫻家を天照大神の真の末裔とたらしめる〝水晶〟と言われていた。
──……やはり…………あの噂の水晶は、ただの〝石〟ではないのか…………
宗易が続けた。
「さすれば貴様ら八頭鴉も表舞台に立てようぞ…………」
「しかしながら……天照大神様の末裔などと言われる誤った血筋など…………」
「────己が眼で確かめい。何人も天照大神様を見た者はおらぬ……真のその世継ぎを知る者もおらぬ……さすれば、よもや金櫻家が本物であったとすれば…………御主の名も知れ渡るというものではないかな」
宗易のその笑みに、雁粛は恐怖すら感じた。
雁粛は当初より、神道だけでなく仏教の概念すらも取り入れてきた過去を持つ宗易に傾倒していたところがある。そして宗易の持つ、威圧感とは違う重厚さに常に圧倒されてきた。
──……私に……迷いがあってはならぬ…………
大永四年。
西暦一五二四年。
京都御所。紫宸殿より奥、萩坪の庭の側────鬼の間。
清国会の頂点である雄滝神社の当主、滝川氏綱────四五歳。
その横に控えるのは蛭子神社の当主、加藤砂宮────三七歳。
その日、朝早くに二人が呼び出したのは公家である従一位、二条尹房────二八歳。
襖を開けるなり、眉間に皺を寄せた尹房は声を張り上げた。
「鬼門と言われる鬼の間に我を呼び出すとは、いかなる要件か」
朝廷に仕える公家の一人である二条尹房の前で、氏綱も砂宮も当然深く頭を下げ続けていた。
尹房が二人の前に腰を降ろすと、最初に口を開いたのは僅かに頭を上げた砂宮。
「先立って御報告致しておりました〝八頭鴉〟の一件にございます」
「御主らが密教と呼ぶ者達か……危ぶむべきものなれば排除すればよいではないか」
その尹房の言葉に、今度は氏綱がゆっくりと頭を上げて応える。
「しかしなれど……仮にも我等と同じ神職に就く者が八名……しかもその力は強大に御座います。尹房様は大内家に御仕えの陶興房殿と御交流がおありと伺いましたが……」
尹房は軽く顎を上げて返した。
「いかにも。陶殿は武将でありながら教養もある御方。我ら公家とも交流は深いが、それが……?」
「…………御協力を……」
その氏綱の言葉に、尹房が声を強くする。
「過ぎるぞ氏綱」
「陶様の主君である大内様も教養のある御方との噂。神道のみならず異国の神にも御興味が御有りとか……八頭鴉は我等に楯突く者達……いずれは朝廷の脅威になると思われます」
そこに砂宮が挟まる。
「いえ……近い内に必ず…………」
そして、これより一月後。
すでに京都御所に入り込んでいた清国会によって八頭鴉の八名が無人島へ。
そこには尹房の言葉に感化された大内家、陶興房の軍勢の力があった。
やがて八頭鴉の支援者たちは八名を追いかけるように島へとひっそりと渡って行った。もちろん清国会から逃げるため。
そして無人島だった島に、ゆっくりと社会基盤が作られていく。
農家や漁師、料理人から機織り職人等、島に渡った人間たちは社会基盤のために働き続けた。
そして島に大黒天神社が作られた。
清国会が押さえ付けようとした組織は結果的にそれを大きくしただけ。
気が付いた時にはかつて以上の脅威となっていた。
清国会は八頭鴉を取り込もうとする。
しかし八頭鴉側は過去の怨みからそれを良しとはせず、武力で抵抗した。
武力を持てるくらいに本土との密輸が行われていたと同時に、島内での基盤が整備されていた。すでに〝社会基盤〟が出来ていた八頭鴉島を攻略することは清国会でも難しく、その戦は二年に渡った。
その中心を担ったのはやはり大内家の陶興房。
安土桃山の時代。
日本の正史には残されていない戦。
結果的に双方に多くの犠牲者を出した後、八頭鴉が清国会の軍配に下る。
八頭鴉は清国会に支配されることになったが、清国会が密かに欲しがった〝負の念〟を作り出す密教としての立場は守られた。
多くの犠牲を出したとしても、その〝力〟は清国会を恐れさせるものであり、清国会が日の本の頂点に君臨するためには野放しは出来なかった。
そして同時に、すでに行方の分からなくなっていた金櫻家の血筋が八頭鴉側につくことを恐れ、監視し続けた。
☆
「さらに一〇〇年遡ったのに……菊花伝説は起きていない…………八頭鴉の始まりが分かっただけ…………」
西沙は半ば狼狽えるようにそう言って続けた。
「どういうこと? 起源はもっと前なの⁉︎ 誰を救えばいいのよ!」
そして萌江の声が西沙を遮る。
「落ち着いて西沙────あなたが構えなくてどうする…………伝承は必ず誰かによって作られた…………」
「でも誰か……誰かが助けを求めてるんだってば! 私の中の誰かが────!」
──……西沙ちゃんの中の…………?
そう思った咲恵が思わず口を開く。
「それって…………誰?」
「……分からない…………でも……まるで自分のことのようで…………」
西沙の目から無意識に涙が溢れていた。
自らの中から何かが流れ落ちていく。
体の中心で他人の心臓の鼓動が聞こえた。
──……誰かがいる…………誰かが私を動かす…………
西沙がそう思った時、その耳に届くのは萌江の声。
「────それが誰か知りたければ…………もっと深い所まで潜れ…………西沙にしか出来ない……私たちがそれを支える…………」
それを咲恵が拾う。
「西沙ちゃん…………あなたの中の誰かは……私たちの中にもいる…………西沙ちゃんにだけ背負わせる気はないよ…………」
すると、西沙が涙を拭った。
そして小さな声。
「…………ごめん……」
その西沙の中で、何かが少しずつ形作られていたのだろう。何か明確なものが見えているわけではない。でもだからこそ苛立つ。あるのはもどかしさだけ。
自分でも冷静さを欠いたことは理解していた。そして萌江と咲恵がいてくれることに感謝した。それでもまだ気持ちは落ち着かない。
確実に分かることは、自分の中で〝何か〟が間違いなく蠢いているということだけ。
そして次の雫の声がさらに西沙の気持ちを刺激する。
「……救って欲しがってるのは…………あの二人だけじゃなさそうです…………」
「……二人だけじゃない?」
そう返したのは萌江だった。
雫は確信を抱いたまま、その質問に応える。
「…………はい。感じます。あの二人以外にも…………さらに二人……」
「二人?」
そう挟まった咲恵が続ける。
「その二人に、清国会への恨みは?」
「残念ながらそこまではっきりとしたものではありませんが……似たものは感じました……」
「……どうにもあの島の組織……引っかかるね…………今まで清国会は自分達への〝恨み〟ですら利用してきた…………でも、それなら私たちの気持ちは?」
返すのは萌江。
「どうやら、今までの神社とは違うようだね…………」
「清国会にとって、あの島は〝怨みの念を作り出す工場〟になってるってこと?」
その咲恵の言葉に、萌江が返した。
「その一つが菊花伝説か……それとも別のところにあるのか……」
答えに行き着けずにいるその場の空気に、雫が切り込む。
「…………本殿の奥…………大黒天とは三宝を守護する神…………本殿の奥にその三宝があるんです…………」
「三宝? ────何があるの?」
返したのは萌江。
雫もすぐに応える。
「……そこに……………………〝二人〟がいます…………」
そして、次の声が本殿の空気を変える。
それは西沙の低い声。
「────涼沙が来た────」
急な静けさが辺りを包む。
西沙が立ち上がった。
空間が張り詰める。
そして、本殿に響く、涼沙の声。
『……西沙…………何をしている…………』
「教えると思う? 涼沙……」
即答する西沙に、涼沙の声もすぐに返ってきた。
『私の邪魔をしているのは……誰だ…………小賢しいことを……』
──……邪魔? 何のこと?
『……この二人は誰だ……』
その言葉に反応したのは萌江だった。
──…………二人?
反応した萌江に咲恵が気付く。
そして叫んだ。
「────西沙ちゃん! 切って!」
途端に、本殿に外の風が戻る。
涼沙の気配が消え、全員が息を吐いた直後、最初に聞こえたのは雫の声。
「────楓……」
雫の前で横になっていた楓が上半身を起こしていた。
そしてその視線は萌江へ。
「一緒にきてくれたの?」
「え?」
萌江が反射的に返していた。
──…………なに…………?
雫が楓の顔を覗き込む。
「楓? どういうこと?」
「だって、ずっと一緒だったよ。お姉ちゃんと」
その楓の言葉に、再び萌江が言葉を漏らす。
「……一緒って…………」
そして、突然その目から涙が流れ落ちたのに気が付いた咲恵が、萌江を抱きしめていた。
「……なに? なんなの?」
萌江が呟き、咲恵がその意識を探る。
そして、見えた。
──……そんな…………ありえない…………
その咲恵の耳元に、萌江の震える声。
「……〝あの子たち〟…………誰なの? …………教えてよ…………お母さん…………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第二一部「堕ちる命」第3話(完全版)へつづく 〜




