第十九部「夜叉の囁き」第4話(完全版)
佐平治と西沙に挟まれたようになった陽麻が、後ろの西沙に振り返って叫んでいた。
「西沙! 来るな!」
竹の筒を握った左手に力が籠る。
すると、その陽麻の隣をあっさりと擦り抜けながら西沙が返した。
「あんた如きと手を組む気はないよ」
そう言い放つ西沙の姿は、なぜか陽麻にはいつもの西沙とは違って見えていた。西沙は陽麻と目すら合わせようとはしない。
子供と勘違いされそうな小さな身長に華奢な体つき。しかし今の西沙は〝力の大きさ〟を感じさせるほど。
その西沙は真っ直ぐ正面の佐平治と、その周りの黒い影を見据えたまま歩き続ける。
佐平治は本殿から参道に降りたところで足を止め、口を開いた。
「我らの信仰を妨げに来たか────貴様らを信仰する気などないぞ」
「信仰?」
足を止めた西沙が続ける。
「笑わせないで。神だの仏だのと…………目に見えないものに縋らなきゃ生きていけないあんたたちと一緒にしないでよ」
「────ならば、今貴様の目の前にいるものは何だ」
「……見えてるよ……全部…………あんたが何者なのかも…………ここがどういう場所なのかも…………」
西沙は口元に笑みを浮かべた。
その目に、気持ちを妨げるコンタクトは無い。
西沙には〝総て〟が見えていた。
──……なんで今まで抑えてたのかなあ…………
そんな言葉が頭に浮かんだ西沙に、背後から陽麻の声。
「……西沙…………これはどういうことだ…………」
それに西沙は振り向きもせずに返す。
「……情けない話…………清国会とはその程度か」
その時、周囲に乾いた音が広がった。
結妃が本殿の祭壇の前で手を叩いた音────。
突如、周囲は夜の闇。
月灯りすら無い夜の暗闇。
瞬時に佐平治の周りの〝影〟が闇に紛れる。
──……見える…………〝影〟がバラけた…………
西沙がそう思った直後、佐平治がゆっくりと歩みを進める。
「……御世如きが────」
佐平治がそう口を開いた。
しかし、西沙が右手を上げた途端、佐平治のその足が止まる。
なぜか体が動かない。
「…………なんだ────」
佐平治が漏らした声は、微かに震えていた。
西沙は掌を広げ、涼しい目で佐平治の目を捉える。
「……あなたは無力…………あなたに〝力〟なんか無い…………」
「力が……無いだと…………」
佐平治は目を見開きながらも、西沙を睨みつけていた。
西沙が手をゆっくりと下げていくと、佐平治の膝が少しずつ落ちていく。
「ほら…………私には勝てない…………」
西沙がそう呟いた直後、膝を着いた佐平治の背後にさらなる黒い塊。
そして、続く西沙の低い声が空気を震わす。
「…………まさかね…………私が、勝てるわけがない…………」
影がしだいに大きくなった。
その光景に恐怖を感じていたのは、西沙の背後の陽麻。
左手には竹の筒。
その左手を大きく上に、右に素早く振る。
筒から振り撒かれたのは〝火薬〟の粒。
それは空気に触れた直後、それぞれが小さく光る。
瞬く間に西沙と佐平治の頭上で、炎が辺りを照らした。
「────っ! ────小者がっ!」
振り向いた西沙が叫んでいた。
☆
毘沙門天神社の当主、利平治と妻の禹妃の間に最初の子供が産まれた。
長女だった。
しかし、産まれて欲しいのは長男。
子供が無事に産まれたのは嬉しいことなはず。しかし利平治も禹妃も素直に喜べない。
当時は定期的に出入りしていた清国会の人間がいた。森の外にいる警察庁の警備職員も清国会からの直接の指示。内閣府が発足するのはまだ数年先のこと。
出入りしていた清国会の人間から雄滝神社に報告が上がる。
長女の前に、先に長男が欲しかった。毎度同じサイクルを繰り返すことで生まれる〝念〟が欲しかった。
新たな〝鬼〟が必要だった。
こういう場合、雄滝神社が必ず子供を用意する。
最低でも一人、雄滝神社には定期的に物心のついていない子供を誘拐してくる必要があった。
それは水乃蛇神社に婿入りさせる男根を作る為。水乃蛇神社では女だけで血筋を繋げてきた。必ず男は婿養子だけ。それによって〝負の念〟を貯め続けた歴史があった。しかしその候補は、過去何度か毘沙門天に回されていた。
長男が産まれた五年後に長女が産まれなかった場合は簡単だ。女の赤ん坊を誘拐してくればいい。
今回欲しいのは男の子。いつも年齢は大雑把。大体の年齢ということにする。あまりにも年齢が離れている場合は新たに誘拐して記憶を消す。
しかし今回はちょうど四歳の男の子がいた。五歳ということにして毘沙門天に連れて行く。
最初の報告は母親の禹妃へ。なぜなら、正式に血を繋いでいたのは禹妃だけだったからだ。
利平治も元は誘拐されてきた子供。血を繋いではいない。それは本人だけでなく禹妃も知らなかったこと。清国会の人間から初めて聞かされた事実。
利平治も禹妃も幼い頃から厳しい修行を続け、生まれ持ってとまではいかなくてもそれなりの能力は開花させていた。その力を使って、禹妃が利平治の記憶を改竄する。
成人した長男は佐平治と名付けられ、長女は結妃と名付けられた。
時が経ち、利平治と禹妃は、佐平治と結妃の手で裏山の墓地に埋められる。
総ては〝仕来たり〟。
やがて二人の間に長男が産まれる。
それから数年。
五年が経っても長女が産まれない。
そして仕来たりを続ける為、清国会の手で長女が連れてこられる。
結妃は清国会の人間から佐平治に血の繋がりが無いことを聞かされた。もちろん結妃は驚いたが、その理由も聞かされ、自分を納得させるしかなかった。
自分が何とかするしかない。
結妃は佐平治の記憶を作り替えた。
佐平治の記憶は新しく作られた。しかし結妃には、なぜか完全に記憶を改竄出来た自信が持てなかった。
気持ちのどこかに、迷いがあった。
記憶は確かに変わっている。大丈夫なはずだった。
しかし結妃には不安が付き纏う。
「何か…………気持ちのどこかに……〝わだかまり〟が御座います…………」
夕食の直後、結妃は思わず気持ちを吐露していた。しかしそんなことを口にしたところで、佐平治に何かが伝わるわけではない。
「……わだかまりとは…………〝穢れ〟があるとでも…………?」
佐平治にはなぜ結妃が突然そんなことを言うのか、皆目見当もつかないままに続けた。
「せっかく〝娘も産まれたばかり〟…………母が〝穢れ〟を抱えているようでは…………」
「……何か…………これは間違っています…………」
佐平治の言葉を遮るような結妃の声が震える。
佐平治の記憶を操作したのは自分。佐平治にこんな抽象的な話をしたところで理解されるはずもない。説明も出来ない。
その矛盾は結妃自身も分かっている。
──…………自分の記憶も操作出来たら…………
☆
西沙と佐平治の頭上に、火の粒の幕。
それは緊張と共に瞬時に広がる────。
しかしその直後、その火は眩しく光り、弾けた。
やがて、ほっとする西沙の周囲に、まるで霧雨のような細かな水が舞う。
西沙が本殿に目をやると、そこには右腕を伸ばした咲恵の姿。咲恵は座る結妃の横に立ったまま、左手を結妃の頭の上へ。参道に向けて伸ばした右の掌には〝水の玉〟。
結妃は動けなくなっていた。
咲恵が口を開く。
「〝物理〟に〝幻〟が勝つなんて…………おかしな話ね」
そう言った咲恵は本殿の外に目を向けたまま、優しくも厳しい声を結妃に落とす。
「大丈夫…………そのまま…………動かなくていい…………」
立ち上がった佐平治は、未だ周囲に漂う霧を見ながら呟いた。
「……〝水の玉〟か…………」
すると、すぐ背後からの別の声。
「────〝火の玉〟もあるよ」
それは萌江の声。左手にチェーンを絡めた〝火の玉〟を佐平治の背中に向けていた。
その声が続く。
「もう一回燃やす?」
佐平治は振り返ることも出来ない。
いつの間にか小さく体が震えていた。
そしていつの間にか、黒い影はすでに無い。
空も元に戻っていた。
厚い雲が低く広がるだけ。
萌江が続けた。
「……〝第六天魔王〟か…………前回ここに来た時に気付いたよ。本当にこの神社が信仰してるのは仏教の教義に反した第六天ね。あれは悪魔だ。毘沙門天の夜叉も悪鬼……もしくは鬼神……武闘派と呼ばれた理由が分かったよ…………でもあの影は違う…………第六天のフリをしながら……あなたたちを守ってきた…………」
☆
毘沙門天には、古くから第六天魔王への信仰があった。
第六天魔王は元々仏教の教義に反した信仰。
歴史的に神道と仏教の争いの中で仏教に対抗する為、仏教に反する悪魔を崇拝した過去があった。
毘沙門天の夜叉────鬼神を従えさせ、密教の中枢としての権威を誇った。
清国会との関係は浅く、明治元年三月に神仏分離令が出された時点で第六天魔王の存在を隠そうとするが、同時に清国会が近付く。
清国会は毘沙門天神社の中の〝悪魔〟を欲した。
毘沙門天の仕来たりが作り出す〝鬼〟を求めた。
そして清国会は、毘沙門天神社を歴史から消した。
結果的に毘沙門天は、清国会を隠れ蓑とした。
清国会の信じる信仰には興味がなかった。
毘沙門天の鬼郷家が信じていたのは〝第六天魔王〟だけ。
〝悪魔〟に命を捧げてきた。
〝鬼〟と共に生きてきた。
恵麻が毘沙門天を最初に訪れたのは、雄滝神社の代表となってすぐのことだった。
それは同時に清国会の頂点に立った直後でもある。
恵麻もすぐにその結界の強さには気が付いた。それは階段の下の鳥居から始まっていた。
──…………噂通りか…………
階段ですでに禍々しさを感じる。
左右の森からの視線は一つや二つではない。そこには夥しい数の〝鬼〟がいた。
様子を見ているのか、それとも手を出せずにいるのか、それは小さく蠢くだけ。
階段を登った先の鳥居で、その結界はさらに深くなった。
毘沙門天の鬼郷家は、恵麻の代表就任にも挨拶に顔を見せなかった唯一の神社。清国会に吸収されてからその姿勢を崩したことがない。鬼郷家の人間に会ったことのない者がほとんどだった。
本来であれば恵麻がわざわざ訪れる場所ではない。しかし状況を調べようにも、使者の誰もが階段を登り切れずに神社を後にしていた。警備の人間も森の外周から中には入ることは出来ない。入れるかどうか、入れてもらえるかどうか、鬼郷家の判断に任せるしかなかった。
──……強力だ…………扱いにくい…………
「滝川家の者か」
本殿からのその声は、結妃の声。
「要件は何だ。それしだいでは話を聞く」
その声に、恵麻が声を張り上げた。
「第六天魔王を信仰しているのはお前たちか。我々の神道にはすでに仏教との争いは存在しない。神道はこの国の国教でもある。我らと信仰を共にする気はないか」
「ほう…………我らを支配したいと申すか…………」
──……恐れているのは…………どっちだ…………
そう思った恵麻はさらに踏み込む。
「ここも清国会の一部なはず…………我らに従わない理由を述べよ」
「滑稽な…………隠れ蓑として利用しただけのこと…………貴様らも我らの〝神〟を利用したいのだろう?」
結妃の声は変化が無い。
恵麻の言葉に感情を動かされた印象は感じられない。
歴史の中で、毘沙門天のように仏教の概念を取り入れてきた神社が全国に存在した。その仏教の要素を神社から取り払おうとしたのが神仏分離令。しかしそれは毘沙門天神社にとっては到底受け入れることの出来るものではなかった。
毘沙門天としては国の政策から逃れるために清国会を利用したに過ぎない。
──…………小賢しい女が…………
恵麻がそう思った直後、周囲に黒い霧が立ち込めた。
それはしだいに形を作り始める。
しかし、見えない。
──…………この影は…………
「────何者だっ!」
恵麻は叫んでいた。
いつの間にか、恐怖に包まれる。
その震える神経を刺激するのは結妃の声。
「…………夜叉を従えた悪魔…………我らを護る第六天魔王だ…………」
周囲からの視線。
目には見えない。
それでも、何かがいる。
どれだけの数の視線なのかも分からない。
しかし、恵麻は感じていた。
──……違う……これは……第六天ではない…………
☆
「……第六天でなければ…………何だと…………」
佐平治は後ろの萌江に振り向けないままに声を漏らしていた。
それはただの恐怖だけだろうか。体が僅かに震える。
「知りたい?」
背後からのその萌江の声が、佐平治の気持ちを揺さぶる。
何の疑問も持たずに信じてきた。毘沙門天は代々第六天魔王を信仰し、そして護り、護られてきた。
しかもそれはただの伝承などではない。実態として姿を見せていた。
いつも側にいた。だからこそ何者も怖くはなかった。清国会に頭を下げるつもりはない。必要もない。この神社は護られているはずだった。
しかし萌江は違うと言う。
──……何が、違う…………?
そう思った佐平治が声を絞り出した。
「……ずっと…………護られてきた…………清国会など……必要ない…………」
「必要かどうかじゃないよ…………」
少し柔らかく感じる背後からのその萌江の声が続く。
「信仰が違うだけ…………でも、清国会に利用されちゃダメだよ………あの影が守ってきたんだから…………」
「…………あれは………………」
未だ震える佐平治の声に、萌江は声のトーンを落とした。
「…………〝滝川御世〟…………まだ生きてる時から……産まれる前から…………」
「────馬鹿なっ!」
その佐平治の声は、まるで空気を引き裂くかのようだった。
滝川家の血筋であり、かつ清国会の代表であったにも関わらず、その清国会に弓を引いた巫女────御世の話は佐平治も伝え聞いてはいた。未だにその力が清国会に影響を与えていることも知っている。
背後からの萌江の声も熱を帯びていく。
「…………ここで私たちを待ってた…………長い間ずっと…………」
「……そんなことが…………」
そう呟き、目を見開いて体を震わす佐平治の正面。
西沙が口を開く。
「…………私の中にもいるからね…………本人が教えてくれた…………あなたたちが清国会に飲み込まれないように護り続けてきた…………私が勝てないはずだよ」
西沙の目の前で、佐平治が再び膝を落としていた。
その体が大きく震える。
そして西沙の言葉を、佐平治の後ろの萌江が掬う。
「でも……御世でもここの〝負の連鎖〟までは断ち切れなかったみたいだね…………だから私たちが直接来ることになった。御世は私たちに気が付いて欲しかった…………それが数日前…………不思議なことって、ホントにあるんだよね…………」
そして西沙が繋げる。
「物理的な確証なんか無い…………でも、信じるしかないし、信じられるからとしか言えない…………今は、御世の気持ちがよく分かるよ…………あなたたちにも知るべき真実がある。それを分かった上で、ここの〝悪夢〟を終わらせて────それが御世の願い…………」
そこに、
足音。
低めのヒール。
鳥居に人影。
そして立ち尽くす陽麻の背後から、落ち着いた声。
「……陽麻様…………後は私が…………」
陽麻が振り返ると、歩いてきたのは黒いスーツ姿の雫。
雫は陽麻の横を通り過ぎ、西沙のすぐ後ろへ。
それを見ていた萌江が小さく呟いた。
「────〝彼女〟が来た…………」
その声はなぜか咲恵と西沙の耳にだけ届く。
そして、雫の声が低く響いた。
「……御陵院家の末娘とは貴女様ですね…………」
西沙の口元に小さく笑みが浮かぶ。
雫の声が続いた。
「…………〝潰すように〟と…………指示を受けております…………」
「恵麻か……ご苦労なことね…………私に、勝てるの?」
「……私はそのために来ました」
「嘘ね。あなたは本命じゃない…………操られているだけ」
──……本命? 操られている? …………馬鹿なことを…………
そう思いながらも、雫は感情を表に出さずに返す。しかもそれが精一杯の虚勢でしかないことは雫自身でも感じていた。
「私は自分の意思でここに来ました────」
そこに、本殿の咲恵の声が届く。
「それも嘘」
それに対して雫が反射的に声を上げていた。
「金櫻家の血を引く萌江様を清国会として護るために私は────」
「本命を連れて来なさい────金櫻京子の指示だ」
力強さを持った咲恵の声が本殿から響く。
応える雫の声は弱い。
「本命などと…………」
──……なに? 何を言ってるの…………?
雫の声は、少しずつ冷静を欠き始めていた。
そこに、咲恵の言葉に繋ぐ萌江の声。
「────〝娘〟…………あなたの一〇歳の娘に会わせなさい。金櫻萌江が指示する」
──………………楓………………
「……あの子が…………何を…………」
そう言葉を漏らした雫に、次に口を開いたのは西沙。
「……忘れてた過去を……思い出させてあげる…………」
西沙は雫に振り返り、その手を握った。
雫の中に、記憶が蘇る。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十九部「夜叉の囁き」第5話(完全版)
(第十九部最終話)へつづく 〜




