第十九部「夜叉の囁き」第3話(完全版)
警視庁のそのフロアには会議室が三つ。
その中でも一番大きな部屋に雫は呼び出されていた。
そこには現在の部署の男性上司と、スーツ姿の男性が二人。警視庁では見たことがない顔だ。もちろん雫が総ての職員の顔を覚えているわけではないが、キャリア組として監察官をサポートする立場。各部署の長は一通り把握していた。
この会議室で雫の上司と会っているということはそれなりの立場に間違いはないのだろう。
年齢は年配の中年男性ともう一人が三〇歳前後だろうか。どちらも印象は悪くない。スーツもくたびれた印象は感じさせなかった。見るからに安物ではない。年齢の割には引き締まった体にも見える。
──……結構な部署ね…………
雫はすぐにそれを感じていた。
「突然すまないね」
男性上司はそう言って立ち上がると、入ってきたばかりのドアの側に立つ雫に近付く。
その耳元で囁いた。
「────内閣府だ…………断れないぞ…………」
そして素早く部屋を出る。
そこに若いほうの男の声。若いとは言っても雫と同じくらいだろうか。
「大見坂雫さんですね。どうぞこちらへ」
二人とも立ち上がりもしない。
雫は大きな会議用テーブルを挟んで二人の向かいに座った。
そしてすぐに口を開く。
「ご用件は」
いつもの強い口調で雫は切り出す。自分でも悪い癖だとは分かっていた。
決して強い人間ではない。代々政治家を輩出してきた大きな家に産まれ、金銭的には恵まれていたのだろうとは思うが、幼少期にそれを幸せとは感じられずに生きてきた。母親から愛情を感じたことはなく、実質的に育ててくれたのは屋敷に雇われていた使用人。どんなに思い返しても寂しさしか思い出せない幼い頃の記憶。
高校生の頃には人と接することを怖く感じることすらあった。事実、過剰に人と関わることを嫌った。
いつの間にか、無意識に他人を遠ざけてきた。人に冷たい印象を与えるだけで、人は寄ってこなくなることを知った。そして弱く見られるのも嫌だった。強く見せていれば、不思議と人は抵抗の姿勢を見せない。
人はその程度の弱いものであることを学んだ。
自分と同じ。
そう思って生きてきた。
だからこそ今の立ち位置まで登ってこれたとも思っている。
最近、自分の立場が弱くなってきていることも感じていた。シングルマザーになることを選び、産休を経て現場に復帰する。父親が誰かは明かすことは出来ない。相手には立場も家庭もある。当然、厳格な実家がそんなことを許すはずもなく疎遠になったまま。縁を切られなかっただけでも良かったのかもしれない。
職場復帰を果たして四年になるが、謎の父親についての噂が絶えなかった。時代という言葉だけで片付けられるものではないだろう。それでも息苦しさを感じるのは事実。
強く見せなければ、生きてはいけなかった。
「キャリアアップをなさるお気持ちはありませんか?」
若い男がそう言って名刺を差し出す。
〝 内閣府 総合統括事務次官 〟
聞いたことがなかった。
「新しい部署でしょうか…………?」
雫がそう返すと、男はすぐに応えた。
「いえ……内閣府の創設当初からございます。もっとも、表立っての組織図には記載されていませんが…………」
内閣府にはまるで裏の組織のような部署があると、噂話程度のことは聞いたことがあった。もちろん噂に過ぎないと思っていた。そもそも、その存在理由が分からない。
「キャリアアップというのは…………」
「大見坂さんは…………宗教への信仰というものはお持ちですか?」
想像していなかった返しに、正直、雫は戸惑った。
多くの日本人と同じように、雫も宗教というものを深く考えたことはない。少なくとも日本は宗教国家ではないと思っていた。神社とお寺が複雑に入り混じっている印象しかない。
雫は戸惑いを隠しきれないままに応えた。
「おかしな質問をされますね……あまり……そういったことには興味がありません」
「ほとんどの方がそうですよ…………この国の国民の大方が、この国の国教が〝神道〟であることすら知らない。仏教国と思っている人々も多い」
「それが内閣府とどういう…………」
──……この人は何を話しているの…………?
「我々はこの国の〝神道〟を護っています…………この国の歴史を動かしてきました……遥か昔から…………我々は内閣府の一部ではありません…………我々が内閣府を作りました」
男の言葉を、まるで雫は理解出来なかった。
政府機関、内閣府、警察組織から法律まで、キャリア組として多くのことを勉強してきた。しかし、男の言葉はそこから大きく逸脱しているとしか思えない。
すると、次に口を開いたのは年配の男。
「あなたには四歳になる娘さんがいる…………しかもシングルマザーだ」
その言葉に、雫の神経が刺激された。
「……それが何か」
雫は素早く鋭い視線を男に向ける。
しかし、男はまるで臆さずに返した。
「色々と……お仕事がしにくいようですね…………今のこの国の組織というのは……まあ……そういうものですよ」
「…………お言葉の意味が……」
「父親が誰かも把握しています」
──………………!
言葉尻に余裕を持ったままの年配の男の声が続いた。
「だいぶ以前から我々はあなたを調べさせてもらっています。あなたが特殊な体質であることも分かっている…………だからこそ、ですよ。今の部署では息苦しいのではありませんか?」
「────私は…………」
雫の言葉が小さくなると、再び若い男が言葉を繋げる。
「我々も同じですよ…………中身の違いはあっても、あなたと同じ〝特殊〟な体質だ…………我々と共に…………この国を動かしてみませんか…………」
一週間後、雫の移動が正式に決まる。
給与は警視庁の時の二倍。
それから六年、雫は内閣府の人間として、清国会に関わってきた。
しかし、自分が国の中心にいると感じたことは無い。
毘沙門天神社を任されてはいるが、その神社の詳細ですら未だに触れられない。
──……私は……何のためにここにいるんだろう…………
娘の楓だけが、唯一の心の拠り所だった。
☆
清国会の総本山────雄滝神社。
代々神社を護ってきた滝川家の現代表は長女の恵麻。まだ二〇代半ばだが、神社のトップであると同時に清国会のトップでもある。
両親と同じく若くして当主の座に着き、両親がサポートに回る。その時々の年齢はまちまちだったが、ここ何代かは滝川家での世代交代は早かった。もちろん何か事があれば両親に意見を求められる環境は常にある。
その中でも恵麻は早かったほうだろう。その能力の強さを両親が認めたからに他ならなかったが、同時に清国会の状況も理由の一つ。金櫻家の血筋を見失い、御世の意識操作が続いていた中でその立場自体が揺らいでいた。何か事が起きた時にすぐに動ける環境が必要だと考えた。いざという時に世代交代の騒がしさは好ましくない。
恵麻の妹────陽麻も実質的には姉のサポートの立場。もちろん恵麻の命が脅かされるようなことがあればその立場に登れるだけの修行はしてきた。しかし、よほどのことが無い限り陽麻にそのつもりは無い。
陽麻は自分の〝能力〟に限界を感じていた。間違いなく〝能力者〟ではあったが、その能力値は極めて低い。滝川家としてもそれは認めるしかなく、両親も陽麻の行く末を危ぶんだ。
陽麻自身、神社の娘としての自分の能力の弱さは悔しさそのものでしかなかった。一度は嫁として神社を出ることも考えた。両親もそれを薦めようとしていた頃、陽麻が理系の本を読み漁っていることを知る。
それはまだ陽麻が中学を卒業したばかりの頃。義務教育の卒業と共に本格的な修行が始まる。しかし陽麻はこれまでの修行でその能力を発揮することが出来ないままだった。
元々、滝川家の人間が学校に通う義務は存在しない。その理由は清国会が国の中枢にいたからに他ならない。しかし陽麻の能力の限界を感じていた先代の両親は、陽麻を嫁に出す可能性も考慮して学校に通わせた。それは閉鎖的な清国会の世界ではなく、社会に出るためのもの。
その日も陽麻は分厚い本から小さい本までをも開き、ノートに何かを書き留めていく。
その夜、陽麻は母の陽恵を自室に呼んでいた。
陽麻は角の掠れたノートを母の前に差し出す。
「……これは…………」
ノートを開きながら、陽恵が言葉を漏らした。
どう捉えていいか分からなかった。
そこに陽麻が口を開く。
「母上…………私には姉様のような〝力〟はありません…………」
「いえ……陽麻────」
陽恵が母親としての言葉を反射的に口にすると、陽麻がそれを遮った。
「────事実です…………それは覆るものではありません」
「しかし……これから開花する可能性もあります」
「待っていられますか? 金櫻家の血筋ですら行方不明のままで…………清国会は大変な時…………今のままでは私は、私の存在理由を見付けられません」
滝川家の懸案の一つであったのは事実。陽恵も父である麻人にとっても日々思案を繰り返していた。
返す言葉を見付けられない陽恵に、陽麻が続ける。
「私は…………頭脳で……姉様を支えていきたいと思っています…………」
「……それは…………」
「小手先かもしれません…………私も分かっています…………ですが…………私は滝川家の人間でいたいのです…………」
恵麻も分かった上で陽麻を側に置き続ける。結果的に、陽麻は実質的な恵麻の一番の相談役の立場ともなっていた。
恵麻のために婿を入れる話も出たが、今はタイミングが悪いと恵麻自身が断る。
現在の清国会の問題を解消してからでなければ婿を迎え入れる気になれないのもあったが、最終的なその判断をしたのは陽麻。
「天照大神様を中心に据えてからでも……婿などいつでも…………」
陽麻は何度もその言葉を繰り返した。
それから現在まで、萌江たちの動きのために滝川家の予想が大きく覆され続け、その中で結果的に姉妹の仲は深まっていく。完全に陽麻は恵麻の片腕だった。
その日、久しぶりに雫が雄滝神社を訪れていた。
もちろん萌江たちが毘沙門天神社を訪れたことに関しての意見をもらうため。すでに報告は伝わっていた。
「報告は上がっているかと思いますが、天照様が毘沙門天に接触しました。今回は引き際がいいようでしたが…………」
雫は祭壇に向かって座る恵麻の背中に声を投げた。数日前、四人が逃げるように走って帰る様子が報告されていた。
「…………引き際……?」
恵麻は微動だにせずに言葉を続ける。
「……素直に負けを認めることなどはあるまい…………必ず理由がある…………」
雫には応えられない疑問。
「……左様で…………」
こう応えるのが精一杯だった。
それをまるで遮るように恵麻が返していく。
「お前の見立てはどうか」
「手の内が見えません……不用意な憶測は危険かと…………」
「そうか…………」
恵麻の声のトーンが僅かに変わり、続いた。
「……正直に話すが…………毘沙門天は清国会の中では異質だ。まあ、お前も分かってはおろうがな…………扱いに危惧しているのは事実だ。お前でも使いこなすことは難しいか?」
「あそこは外部の人間を拒絶しております。そもそもが信仰の対象も違いますゆえ、我々の意見など…………」
「それでも押さえておかねばならん…………自由にさせたら……あそこは必ず我らの〝敵〟になる」
「……信仰の違い、でしょうか…………?」
「我らには天照大神様の血を引く金櫻家が頂点だ…………なんとしても手に入れねばならん」
「…………私も一度……お会いしました」
その雫の言葉に、恵麻が僅かに首を動かす。
「ほう…………お前の力は内閣府でも秀逸なものだ…………だからこそ毘沙門天を任せておる。どう感じた?」
「大したことは、ございませんね」
冷静な雫の声。
恵麻は無言のまま。
「…………」
「……天照様、以外は…………」
独特の雫の冷たさ。
そんな雫の冷徹さは、恵麻からの信頼を少なからず生んでいた。
恵麻は視界の端に雫の姿を捉えて口を開く。
「────潰せるか…………?」
「どうでしょう…………天照様からの阻礙があるかと…………」
そこに、足袋が床を擦る音。
本殿の奥。
巫女服の陽麻の姿だった。
陽麻は祭壇に近付きながら口を開く、
「……姉様…………私が参ります」
その声に、恵麻が声を上げた。
「……陽麻…………信仰の違う相手を組み伏せるのは難しいことぞ」
すると陽麻は恵麻の隣に腰を降ろす。恵麻とは違い、祭壇に背を向けた。
「手の掛かる場所ですね…………しかし、姉様の手を煩わせる必要はありませんよ…………」
陽麻はそう言うと、目の前の雫に笑みを向けながらゆっくりと続ける。
「……まあ……私も〝異質〟な者ですから…………」
☆
家の裏の竹林。
かなりの広さがある。
萌江自身、明確に敷地の境界を分かっているわけではなかった。もっともすぐ隣に家があるわけでもなく、さらに誰かが新たに家を建てることもないような山の中。
一人で暮らしていた頃は林の奥まで立ち入ることはなかった。
春先に姫竹を採る時に少し入るくらいだった。今年四人で暮らすようになって姫竹採りのエリアも広がり、萌江もそこまで奥に入ったのは初めてのこと。
そして、そこが中心となってこの土地が守られていたということを知ることになった。
直径で二メートルくらいだろうか。
小さく開けている場所。
周囲は背の高い竹ばかり。僅かな竹の葉の隙間からの木漏れ日が、林の中で光の筋を作り出し、さらにそれは別の竹によって遮られる。
光と影の強目のコントラストに、その開けたスペースに立った萌江は季節を感じていた。
「…………ここにいたのね……」
背後からのその咲恵の声に、萌江が軽く振り返った。
微笑んだ咲恵の表情に、萌江の気持ちもほころぶ。
そこには小さな祠があった。
見るからに古い物だ。防水処理もされていないような古い板には苔がこびり着き、中には小さなお地蔵様。
もちろん誰が作った物かなど知る由もない。しかも作りは荒い。言うなれば素人が作ったかのような作り。そのお地蔵様にすら至る所に緑の苔が張り付いていた。
萌江は祠の前で膝を曲げて腰を降ろすと、口を開く。
「……この間まで気付かなかったよね…………咲恵も?」
言葉を投げられた咲恵も萌江の隣で腰を落としながら返した。
「…………うん…………この土地を護っていたのは……このお地蔵様なのかもね」
例え苔に覆われていても、その地蔵が柔らかい表情を携えているのが分かった。微笑んでいるようにさえ見える。
その表情に、萌江も釣られるように笑みを浮かべて応えていた。
「人に忘れられても……そんなこと関係ないんだろうね…………誰に評価されるわけでもないのに…………」
「仏教だね…………そういう考え方は好きだよ。仏教とか神道とか……本来は他の宗教と比べるようなことでもないのに…………」
「なんだっていいんだよなあ…………私たちだって誰にも評価されるわけでもないのに、こんな生き方をしてるわけだし」
「まあね」
返しながら咲恵にも笑顔が浮かぶ。
そして続けた。
「この祠、いつか新しくしてあげる?」
「崩れたりしそうならね。今はこのままでいいよ。でも何かお供えくらいはしようかな…………お水とお線香くらいならいいよね」
「うん…………また、あそこに行く前にね…………〝あれ〟……何だったか分かる…………?」
咲恵はそう言うと、無数の竹に覆われた空を見上げた。遮られているからこそ、当たり前のように存在する見慣れた空が遠く感じられた。
萌江の中でもはっきりとはしていない。異形の存在であることは間違いない。しかしこれまで見た〝魔〟なるものとは何かが違う。その萌江が不安そうに咲恵の横顔に目をやってから返した。
「……どっかで…………会ったことないかな…………?」
「あの影? どうだろう…………可能性があるとしたら…………」
そこまで返した咲恵は、咄嗟に言葉を詰まらせる。
咲恵は〝黒い蛇〟を思い出していた。
萌江の母親である京子を中に宿した咲恵にとっては、あの〝黒い蛇〟は因縁の相手。京子は自らの命を懸けてまで〝黒い蛇〟から萌江を守った過去がある。その感情が痛いほどに咲恵には伝わり、それはまるで自分の経験したことのようだった。
その感情が萌江に通じたのか、萌江は咲恵の言葉を追求しようとはしない。
萌江の中でもその可能性が感じられていたからだ。
「あれじゃ仕方ないね。清国会でも入り込めないっていうのはホントみたいだ」
萌江が何かを振り払うように口を開くと、咲恵もどこか気持ちが楽になる。
「そうね…………あれじゃ誰も入り込めない…………」
そう言いながらも、やはり咲恵の不安は消えない。
そこに、背後からの草を踏みしめる音。
萌江と咲恵が立ち上がった。
そして振り返ると、そこには黒いスウェット姿の西沙。
明らかにその表情からは緊張が感じられた。
その西沙が口を開く。
「…………気になることがあってさ…………」
「毘沙門天?」
その咲恵の声に、西沙が僅かに張り詰めた気持ちを和らげた。
「……うん…………あの黒い影なんだけど…………」
その西沙の言葉に、萌江と咲恵に僅かな緊張が走る。
萌江が返しかけるが、先に声を出したのは咲恵。
「どうしたの? 何か気が付いた?」
その咲恵の声には微かに焦りのようなものが混じる。
「……ホントに敵なのかな…………分からないんだけど…………何か違う気がして…………」
その西沙の言葉に、咲恵は自分で自分を抑えた。やはりいつもとは違う。西沙の言葉がそれを裏付けた。しかし咲恵の見立てとは違う。
──…………敵じゃ、ない…………?
「何を感じてるの? あの黒い蛇って────」
咲恵から思わず出たその言葉を西沙がすぐに拾った。
「────〝蛇〟じゃない……と思う…………」
──…………え?
咲恵が西沙の言葉に驚いた直後、聞こえたのは萌江の声。
「先入観は捨てて」
そして萌江は左手に絡めた水晶を咲恵の額へ。
「……大丈夫…………〝あいつ〟じゃないよ…………」
力の抜けた咲恵の体を萌江が支えた。
「お母さんのせいだね…………ごめん咲恵…………」
そしてすぐに西沙に顔を向けて口を開く。
「まだ総ては見えてないんだよね…………」
それに応える西沙の目には、不安が見てとれた。
「…………うん…………何者かは分からない…………でも…………敵には思えない…………」
「とりあえず、神社の過去も、あの二人の過去も見えた…………」
「あっちは私たちを退けたつもりかもしれないけど、何を見られたかまでは分かってないよ…………裏をかけば次は有利に動ける」
前回のことがよほど悔しかったのか、そう返した西沙の目が力強くなった。
すると、未だ萌江に手をかけたままで体を支える咲恵が祠に顔を戻して口を開く。
「そうね…………色々と過去は見えた…………後は私たちがどうするかだけ…………」
すると萌江も祠に向く。
そして背中で西沙に言葉を投げた。
「でも西沙…………その前に、あなたはもうコンタクトを外していい」
「え?」
西沙は驚いて目を見開いた。
西沙は幼い頃から人と目を合わせることを嫌った。まだ自分の力をコントロール出来なかった幼い頃、目を合わせることで他人をコントロールしてしまうことがあったからだ。今はもちろん力の調整が出来るが、それでも過去のことはトラウマとなっていた。未だにコンタクトをしないと人の目を見るのが怖い。コンタクトをしたからと言って何かが変わるわけでないことは西沙にも分かっていた。あくまで精神的な先入観だけのものだった。
そして萌江と咲恵に特別その話をしていたわけではなかったが、逆に言えば二人が気が付かないわけもない。もちろん二人に西沙の力が影響することはない。むしろ毘沙門天神社の時のように、萌江が西沙の〝幻惑〟の力を使うことが出来るくらいだ。しかしだからこそ一緒にいられた。
「影響なんか無いと思いながら、無意識の内に自分で力を抑え込んでる…………解放して…………」
その萌江の言葉に、西沙は気持ちのどこかが解き放たれた気がした。
「…………うん……」
小さく頷く西沙に、萌江の言葉を拾った咲恵。
「……もう怖くないよ…………あなたの力の〝総て〟を見せて。そうすれば、残る問題は内閣府だけ」
それに西沙がすぐに返した。
「あの女の人? 何者かは分かったけど、素直に首を縦に振るとは思えない…………」
すると、咲恵は小さく溜息を吐いて呟く。
「清国会の出方しだいね…………」
そして、萌江も呟く。
「………………引き込むか…………しかも、もう〝一人〟いる」
☆
階段を登り切った鳥居の真下。
能力が低いとはいえ、陽麻にでも分かるくらいにその結界は濃厚だった。
夏の湿度の高さとも違う独特な密度。
──……夜叉か…………
頭に浮かぶその言葉に、陽麻は恐怖を感じていた。
それでも懸命に気持ちを落ち着かせようと努める。
しかし空気が落ち着かない。
静かなのに、騒がしい。
陽麻は巫女服の右袖に入っている〝形代〟の存在を確かめた。それは恵麻から預かった何枚もの紙の〝人形〟だった。
──……姉様が魂を込めた人形があれば…………
陽麻はそう思いながら、石の参道をゆっくりと歩き始めた。
真っ直ぐ正面には本殿。
空気が騒つく。
それに合わせるように、陽麻の心も騒ついた。
その騒つきに混ざる影。
右から左。左から右。さらには下から上へ。
素早く動く小さな影。
陽麻の鼓動が早くなる。
──……これが……悪鬼なのか…………
陽麻は反射的に〝人形〟を握っていた。
そして、大きく、数枚を頭上に振り上げる。
途端に軽い破裂音が頭上で鳴り続けた。
陽麻はまだ落ち着かないままに残りの人形を握る。
周囲の地面に人形が落ちると、影が消えた。
すると、小さな人形たちから煙が立ち登り、途端に炎となり、消えた。
恐怖心に合わせるように、陽麻は息の荒くなる自分を嫌悪した。
そこに、男の声。
「────恵麻殿の人形か…………? つまらんことをする」
本殿から陽麻を見下ろしている佐平治だった。
その佐平治が続ける。
「滝川家の人間が何用か」
階段を降りながらのその低い声に、陽麻は怯えを見せないように努めた。
そして返す。
「……手に余しておるくせに、よう言う…………」
「どうせ金櫻家のことであろう。あんな血筋如きに何を騒いでおるのだ」
「貴様らに分かるものか────!」
思わず陽麻は言葉を荒げていた。
しかしその感情の波の間に、佐平治は容赦無く入り込む。
その佐平治の返す言葉は落ち着いていた。
「姉の力を借りなければ何も出来ないような小者に用は無い」
「貴様らは清国会に与する者ではないのか────」
──…………だめだ…………落ち着け…………
次の瞬間、佐平治の背後が暗くなる。
瞬く間に、黒い、巨大な影が空を広く覆っていく。
──…………なんだ────!
陽麻は左の袖に手を入れた。
それほど長くはない。細い竹の筒。
中には火薬が詰められていた。
その筒を握った時、背後からの声。
「それじゃ勝てないよ」
反射的に振り向いた陽麻の視界には、いつもの黒いゴシックロリータの西沙の姿。
鳥居を背後に、西沙が悠々と歩を進める。
いつもの西沙の小さな体が、なぜかその時の陽麻には大きく見えていた。
──…………西沙…………⁉︎
そして佐平治の声が周囲に低く響いた。
「〝御世〟に操られただけの女が────」
そして、それに返される西沙の声が空気を震わす。
「〝夜叉〟に利用されただけの男が────」
その西沙の両眼が、怪しく陽の光を反射した。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十九部「夜叉の囁き」第4話(完全版)へつづく 〜