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第十九部「夜叉の囁き」第2話(完全版)

 毘沙門天びしゃもんてん神社。

 現代のこの国でその存在を知っているのは清国会しんこくかいに関係する人間だけ。

 代々受け継がれてきた〝夜叉やしゃ〟────〝鬼神きしん〟を受け継いできた。

 ここには、厳格げんかく仕来しきたりが存在する。

 総ては、〝鬼〟を育てる為。


 神社をまもってきた鬼郷おにさと家では、必ず一男一女。

 歳の差は必ず五歳。

 一五歳で成人とみなされた。同時に幼名ようめいから新しい名前へ。

 長男の名を決め、五年後に長女の名。

 その名前を決めるのが、当主の最後の仕事。

 長男が二〇歳、長女が一五歳。


 同時にそれは、二人の子供が────両親をあやめる時。


 佐平治さへいじ結妃ゆいひの両親、利平治りへいじ禹妃うひも、仕来しきたりに従うことに疑問は持たなかった。

 二人も、神社を引き継ぐと同時にみずからの両親をあやめた。

 そして、自分たちが子供たちに殺される時。


 世代が変わる。

 そして、新しい〝鬼〟が生まれる。


 夜。

 祭壇に向かい、利平治りへいじ禹妃うひが並んで座る。

 利平治りへいじの後ろには佐平治さへいじ

 禹妃うひの後ろには結妃ゆいひ

 二人はそれぞれ、鬼郷おにさと家に古くから伝わる日本刀を手にしていた。


 深夜はすでに過ぎていた。

 静かな夜。

 風も無い。

 その中で、不自然なほどに祭壇前の松明たいまつが火のを巻き上げる。

 天井までも明るく照らされた。


 板戸を開け放たれた本殿には、虫の音すら入らない。

 佐平治さへいじが振り上げた日本刀が、空気を揺らす。

 その音すら大きく聞こえた。


 死装束しにしょうぞく姿の利平治りへいじの肩に、佐平治さへいじ逆手さかてに持った剣先けんさきが触れる。

 そして、佐平治さへいじは、首筋の骨の間を探した。

 隣で結妃ゆいひが刀を振り上げる音が聞こえ、佐平治さへいじは両手に力を込める。


 朝までに、裏山の先祖代々の墓に両親を埋めた。

 そして、朝日が本殿に差し込む中、大量の血を吸った祭壇前の板間を綺麗に拭き上げる。


 そのまま、佐平治さへいじ結妃ゆいひ夫婦めおととなった。



      ☆



 静かな日だった。

 風もない。

 カーナビも使えないままに四人はその神社に辿たどり着いていた。

 地図にも存在しない場所。

 まだ昼時を過ぎたばかり。

 幹線道路からの入り口はすぐに見付かった。しかしそれは能力者でなければ見付けることは難しかっただろう。決して物理的な何かで隠されているわけではない。しかしそこには分かりやすいほどの〝結界けっかい〟が存在していた。

 しかし運転席の杏奈あんなにその結界けっかいは見えない。

 助手席の西沙せいさの指示で森に向けてアクセルを踏んだ。

 大きな二本の木の間。

「普通の人がここを通っても森が続くだけ」

 西沙せいさがそう言った時、目の前に道が現れる。

 車一台が通れる幅の砂利じゃり道。

 左右は深い森のまま。

 唖然としたまま運転を続ける杏奈あんなの横で、西沙せいさが再び口を開く。

「入ったね」

 距離的にはそれほどではなかった。

 急にひらけた空間に出たかと思うと、目の前には大きな鳥居とりい。そこからまっすぐ続く階段が見えた。

 杏奈あんなが車を停めると、すぐに全員が降りる。

「どこまでが見せられてる部分だと思う?」

 最初にそう口を開いたのは咲恵さきえだった。

 反射的に返すのは萌江もえ

「綺麗過ぎるね…………〝幻〟の作り方としては完璧だけど…………」

 西沙せいさもそれは感じていた。

 人の訪れることのない森の中の神社。綺麗な石の鳥居とりい。綺麗な石の階段。それは不自然な均整きんせいに見えた。ここまで管理するとなれば、相当の人手と手間が掛かるだろう。

 鳥の鳴き声さえも聞こえない静寂。

 木々の葉が僅かにれる、その音だけ。

 そしてゆるやかな風を感じ始めた。

 山の中の風にしては、ぬるい。

「私たちに反応してるのかな? 風が出てきた────行くよ」

 そう言った萌江もえが先頭になって階段を登り始めた。咲恵さきえ西沙せいさ杏奈あんなの順に続く。

 かなりの段数があった。真っ直ぐな階段。かろうじて一番上の鳥居とりいが見えるが、そこはかなり上。

 空気の動きを感じない。

 それでも周囲には、木々の葉がれる僅かな音。

 普通の空間ではなかった。

 急な階段。

 しだいに足から全身に疲労が伝わっていく。


 やがて、半分も登った頃だろうか。

 空気がゆるやかに動き始めた。

 萌江もえは無意識に見ていた足元から顔を上げる。

 〝力〟を感じた。

 横からの風が、萌江もえの顔をかする。

 上の鳥居とりい

 そこにある人影に、萌江もえは足を止めた。

 咲恵さきえ西沙せいさも何かを感じていたのか、同時に足を止める。

 一瞬だけ遅れて最後尾の杏奈あんなが止まった。

 人影の、長いストレートの髪が、ゆっくりと風になびく。

 僅かな逆光に、その女性のゆるいシルエットが浮かんでいた。

 ショート丈の黒いジャケットにスリムなパンツ。何かを隠すような細い眼鏡めがねが両眼を影でおおう。

 その姿がゆっくりと階段を降りてくると、萌江もえはそこに〝つや〟のようなものを感じていた。乾いた空気の中で、まるでそこだけにきりがかかっているかのようだった。


 ──…………もう一人、いる…………


 しだいに近付くその人影に、西沙せいさが動いた。素早く萌江もえの前へ。

 その西沙せいさも何かを感じていた。それが何かは分からなくとも、初めての感覚であることは直感で感じるもの。

 西沙せいさは黒いゴスロリの服をらしながら、萌江もえを守るように数段上へ。

 近付き、その表情が見えてくる。

 眼鏡めがねのレンズを通した細い目が、萌江もえに向けられた。

 そしてゆっくりと階段を降り続ける。

 擦れ違いざま、萌江もえからはその女性が僅かに微笑ほほえんでいるように見えた。


 やがてその姿が階段の下へ。

 その姿が小さくなった頃、小さな咲恵さきえの声。

「…………総合統括事務次官────大見坂雫おおみざかしずく…………」

 相手を読み取るのは咲恵さきえの能力。今更そのこと自体は誰もが驚きはしない。それでも内閣府の人間に会ったのは初めてだった。

「さすが咲恵さきえ…………」

 西沙せいさが小さく呟くと、すぐに咲恵さきえが返した。

「……違う…………向こうから教えてきた…………」

「何よそれ…………」

 反射的に西沙せいさが呟く。

「…………能力者ね」

 咲恵さきえがそう応えた直後、すぐに西沙せいさの目が鋭くなった。

 僅かに背中を丸めて身構える。

 すると、同じ何かを感じた咲恵さきえが声を上げた。

杏奈あんなちゃん────私の前に」

 杏奈あんなはすぐに咲恵さきえの前────萌江もえの後ろに移動するとせわしなく首を左右に振る。感じないからこそ、落ち着かない。

 そこに萌江もえの声。

「なめられたもんだね」

 左右の森がざわつく。

 葉と葉が大きくこすれ始めた。

 続く枯葉かれはを踏みしめるような音。

 無数。

 それはしだいに早く、そして増えた。

 空気までもが小刻こきざみに震える。

 心無こころなしか、空からの陽の光までもが暗くなった。

 森の暗さが増す。

 その暗さが、少しずつ黒いモヤのように変化していった。

 やがて、それは太いおびのように、輪になって四人を取り囲む。

 そこに西沙せいさの落ち着いた声。

「私だけで充分」

 西沙せいさは片膝を着くと、右のてのひらを石の階段に押し付けた。

 途端に周囲に明るさが戻り始める。

 黒いモヤが薄れていく。

 そしてもとの空気が戻った。

「これが武闘派ぶとうは? 幻を見せてるだけ…………子供(だま)し」

 西沙せいさがそう言って立ち上がる。

 杏奈あんなの大きな溜息が聞こえ、続いたのは咲恵さきえの声。

「…………私たちにはね」

 そして、全員が顔を上げた。

 一番上の鳥居とりいに向けて階段を登り始める。


 ──……もう一人は……誰だ…………


 萌江もえはそんなことを考えていた。

 しずくに重なるように〝誰か〟が見えていた。

 しかも、それはしずくよりも、強い。


 鳥居とりいからは、空間がひらける。

 真っ直ぐ続く参道は長い。その先に本殿が見えた。広い空間が開放感を感じさせるが、人気は無い。

 静かだった。

 聞こえるのは僅かな風にれる木々の葉の音だけ。その風に地面の小さなちりが転がる。

 四人は石畳の参道を歩き始めた。萌江もえ咲恵さきえのハイカットブーツの靴底が音を立てる。それに比べると西沙せいさのローファーと杏奈あんなのアウトドアブーツの音は低い。

 特別何かを感じるわけではない。

 全員が〝武闘派ぶとうは〟という言葉に引っ張られていた。

 広く平らな土地。

 ここが山の上であることを忘れた。

 しかし広い空は低い。いつの間にか厚い雲が埋め尽くしていた。

 少しずつ大きくなってくる本殿は板戸が開け放たれたまま。正面だけでなく左右も大きく開けられている。

 影に包まれた本殿の奥には祭壇らしき物。

 そこには動かない人影が一つ、こちらを向いて立っている。

 顔は影で見えない。

 その人影だろうか、本殿から声が届く。

「…………お待ちしておりました…………」

 女性の声。

 小さな声にも関わらず、なぜかその声は外まで響いた。

 そして四人は本殿の少し前で足を止める。

 祭壇の前には巫女みこ姿で立っている女性が一人と、よく見ると、その横で背を向けて座る人影。髪が長いが性別までは分からない。

 そこに再びの女性の声。

「…………どうぞ……こちらへ…………」

 女性はそう言うと、祭壇に背を向け、そのまま腰を降ろした。


 ──……なるほど……武闘派ぶとうはだ…………


 萌江もえはそう思いながら靴を脱ぎ、本殿に上がる。全員がそれに従うが、その全員が萌江もえが正座をしたことに驚いた。こういう時、萌江もえ大概たいがい胡座あぐらで座る。しかし今回は違った。萌江もえのその姿勢が結果的に全員の緊張感を高めていく。

 咲恵さきえ西沙せいさ萌江もえを挟むように腰を降ろすと、杏奈あんな西沙せいさの後ろへ。

 すると、背中を向けていた人物が体の正面を向けた。その衣擦きぬずれの音が空気に浮かぶ。

 まだ若い男性だった。

 しかも、その線は細い。

 こけたほおの上の細い目が萌江もえに向いた。


 ──…………嫌な目だ…………


 萌江もえがそう思った時、その目の前の小さな口が開いた。

「わざわざお越し頂けるとは…………」

 意外にも、決して弱々しい声ではない。

 その声が続く。

われ毘沙門天びしゃもんてん鬼郷佐平治おにさとさへいじ。隣は妻の結妃ゆいひと申します。そして、皆様のご紹介は御不要ですな…………清国会しんこくかいから総て伺っておりますよ」

 すると、それに対して声を上げたのは咲恵さきえだった。

「────では、我々が本日ここへ来た理由をご存知でしょうか?」

清国会しんこくかいのことなれば、ここへ来ても無駄むだなこと…………ここは清国会しんこくかいすら近付けぬ場所ゆえ…………」

 そう応える佐平治さへいじの口角が上がる。

 そこから全員が感じるのは不気味ぶきみさだけ。

 その中で咲恵さきえがさらに返していく。

「それならば、こちらの清国会しんこくかいのお立場とは────」

「はて…………雄滝おだき恵麻えま殿にでもお聞きになられると良い…………われらの神は…………天照あまてらすなどではありませんからな…………」

清国会しんこくかいはその〝神〟を欲しがったのでは…………?」

無駄むだなこと…………われらの神はわれらのもの…………誰にも操られはせぬ…………」

 そう応えた佐平治さへいじの目が鋭くなった。

 その目は萌江もえに向けられたまま。

 しばらくの静寂の後、口を開いたのは、その萌江もえ


「出てきな」


 直後、佐平治さへいじの背後が黒くうごめく。

 影とももやとも見てとれるその塊は、あっという間に高い天井から、巨大な塊となって四人を見降ろす。

 それは〝威圧感いあつかん〟そのもの。

 強力な存在感を伴っていた。

「…………やっぱり……」

 萌江もえはそう呟きながらも、姿勢を崩さない。その後ろで杏奈あんなだけが体をらせていた。

 まるで〝異形いぎょうの塊〟。

 この世のものではない。

 まるでその影におおわれるかのように、周囲までもがしだいに暗くなった。


 〝 ────誰だ…………見えぬ──── 〟


 低い声。

 それが四人の頭の中に響く。

 そして、萌江もえが口を開いた。


「私は…………金櫻萌江かなざくらもえ────」

 続けて咲恵さきえ

金櫻京子かなざくらきょうこ────」

 さらに西沙せいさが続く。

滝川御世たきがわみよ────」


 ゆっくりと萌江もえが立ち上がる。

 咲恵さきえ西沙せいさも続き、後ろの杏奈あんなは慌てて立ち上がった。

 そして萌江もえの低い声。

「…………お前は…………誰だ──────」


 その時、結妃ゆいひが動く。

 両手を胸の高さへ。

 手を叩いた。

 乾いた音────。


 四人の目の前の光景が変わる。

 それはあまりに突然だった。


 いつの間にか、四人がいるのは参道の上。

 なぜか脱いだはずの靴を履いている。

 四人の目の前には本殿。

 胸の位置で両手を合わせたままの結妃ゆいひの口元に、笑みが浮かんだ。

 小さく呟く杏奈あんなの声。

「……どうして────」

 まるで魔法でも見せられたかのよう。

 突然、自分たちの居場所が移動した現実をすぐに受け入れるのは難しい。

「────……引くよ────」

 萌江もえの低い声が三人の耳に届いた。

 間合いを取りながら、少しずつ後ろへ。

 西沙せいさ萌江もえ咲恵さきえを守るように前に出た。その西沙せいさは鋭い目を本殿に向け続ける。

 西沙せいさの左の手首を萌江もえが握った。

 反射的に西沙せいさが口を開く。

「────いやだ……!」

 が、萌江もえの返しもすぐ。

「…………今引かないと…………次が勝てない…………」

 その声にあせりは無い。萌江もえの声は落ち着いていた。

 背後から咲恵さきえの小さな声。

杏奈あんなちゃん、先に行ってエンジンお願い」

 続く杏奈あんなの足音。

 西沙せいさの踏みしめる足に力がこもった。膝を僅かに落として身構える。

 そして、萌江もえの柔らかい声。

「…………大丈夫…………見えてるよ…………」

 西沙せいさの体の力がゆるむ。

 少しずつ後ろに足を動かすと、途端に風が動いた。

 萌江もえが左手を上げる。

 そのてのひらには〝火の玉〟。

 

 佐平治さへいじ結妃ゆいひの前で、三人の姿がきりの用に消えていく。

 佐平治さへいじが立ち上がった。

 そして呟く。

「……〝幻惑げんわく〟…………あの石はまさか…………」



      ☆



 毘沙門天びしゃもんてん神社には警察庁から派遣された職員が数名だけ警備に付いていた。もちろん中に入ることは出来ない。周囲の森の外で隠れているだけだが、外から人が入り込んだ場合や特殊な事例があった場合には動き、その職員から報告が来ることになっていた。

 とは言え、清国会しんこくかいや内閣府の人間以外が入ることは今まで無かった。

 今回、萌江もえたち四人が入った報告は形だけ。事前にしずくが接触していたからだ。すでにしずくからの報告がある。しかし一応マニュアルに沿う形で段階が踏まれる。

 総合統括事務次官の中で情報が共有されたが、今後の対策はしずく一任いちにんされた。そのくらいに毘沙門天びしゃもんてん神社は扱いの難しい場所だった。警備は内閣府によってされていたが、対応のほとんどは清国会しんこくかいの役割。むしろ清国会しんこくかいでなければ対応が出来なかったとも言えるだろう。


 しずくも数えるほどしか入ったことはない。今日行ったのもおよそ一年ぶりのこと。

 その時、本殿で出迎えたのは結妃ゆいひだった。

御上おかみのお使いの方がどのような御用件でしょう…………」

 結妃ゆいひには他意たいは無かったが、御上おかみという言い方がいつもしずくには皮肉めいて聞こえた。


 ──……まるで子供扱いね…………


 そのしずくが小さく溜息をいて応える。

金櫻かなざくらの血筋の者たちが動いております…………こちらを調べているとのことで…………」

「……その程度のこと…………わざわざ御苦労様にございますね」


 ──……電話線くらい引きなさいよ…………


 警備の職員に伝言を頼むわけにはいかない。警備の理由を知らないだけでなく、二ヶ月もすれば交代となる程度の警備職員。何も聞かされずに形だけ置かれている職員に過ぎない。むしろ内閣府としては知られたくなかったのだろう。そうしてでも清国会しんこくかい毘沙門天びしゃもんてん神社を隠したかった。直接会いに来るしかない。

 しかし、帰り際、しずくことが動き始めたことに気が付いた。


 ──……まさかこんなに早く来るなんて…………


 能力者でもあるしずくの神経が、萌江もえたちの存在を感じていた。

 もちろんそれまで会ったことはない。報告書で写真を見ていただけだ。

 正直、しずくの気持ちは高鳴った。

 天照大神あまてらすおおみかみ末裔まつえいと言われる人物が何者なのかなど知らない。金櫻かなざくら家への信仰しんこうなど内閣府に入ってからの〝知識〟でしかない。それでも内閣府を動かしてまでの存在であることは確か。

 この国を動かせると言われるほどの人物に、興味があった。


 ──……気付かれてる…………


 しずく鳥居とりいから階段を見下ろした。

 全身に鳥肌が立つ。


 ──……これは…………なに…………?


 恐怖ではない。

 圧力のようなものでもない。

 むしろ、何の〝力〟も感じない。

 しかし、階段で顔を上げる萌江もえの目に釘付けになった。

 初めての感覚でしかない。

 総てを見られているような感覚。


 ──…………何者…………?


 しずく懸命けんめいに冷静を装った。

 これから何が起こるのか、予想すら出来ない。


 ──……周りの使者ししゃは…………三人だけじゃない…………


 しずくはすぐに内閣府に帰って情報を伝える。程なく警備の職員から報告が入った。

 一通り事務処理を終わらせてマンションに帰ったのは夜の八時を過ぎた頃。

「ごめんなさいかえで!」

 しずくは玄関を開けるなり声を上げた。リビングに通じるドアのガラスからは明かりが漏れ、それがむしろ寂しさを増長ぞうちょうさせる。

 ドアを開けると、ソファーから立ち上がったばかりの一〇歳になる娘────かえで

「ごめん…………今日も遅くなって……」

 そう言って大きく息を吐くしずくかえでは笑顔で応える。

「大丈夫だよ。でもごめんなさい……お腹空いたから昨日の残り少しだけ食べちゃった」

「いいよいいよ。ごめんね────」

 しずくは膝を着き、無意識にかえでを抱きしめていた。

「明日はお休みだから……ずっと一緒にいようね」

 なぜか寂しさがしずくの心を満たしていた。いつも娘に寂しい思いをさせている負い目も確かにあった。でもこの日はそれだけではない。無性に娘に会いたかった。会いたくて仕方がなかった。それだけに不安も大きいままで仕事をこなした。

 かえではもっと幼い頃からかしこい子だった。

 急に道路に飛び出すこともない。言いつけは必ず守った。もちろんしずく理不尽りふじんな子育てをしたつもりはないが、それでもかえではしっかりとした娘だった。ある意味、実年齢にそぐわない大人びたところが多い。

 そのかえでが優しい言葉をしずくに返した。

「うん……お母さんはいつも大変なお仕事してるから、明日はゆっくり休もうね」

 しずくはその声で涙が出そうになる自分に驚く。


 ──…………私…………怖かったのかな…………


 気持ちが張り詰めていたのだろう。

 毘沙門天びしゃもんてん神社で初めて報告書の四人に会った。初めての感覚を味わった。


 ──……怖かったのかもしれない…………


 ──…………なんて存在なの…………


「よし。夕ご飯作るね」

 しずくは気持ちを切り替えるように、立ち上がってキッチンに向かった。


 ──……大丈夫…………私にはかえでがいる…………


「うん。簡単でいいからね」

 かえではそう言いながらソファーに戻り、テレビに顔を戻す。

「すぐ作るからね」

 しずくも少し気持ちが楽になったのか、急に空腹を感じ始めた。

 そしてしずくはいつも水道の蛇口横に置いてあるヘアゴムを手に取って長い髪を後ろでまとめる。

 冷蔵庫の材料を眺めながらメニューを考えていると、再びかえでの声が耳に届く。


「……中にいると、見えないこともあるよね…………」


 ──………………?


「外から見てみて」

「え? どうしたの?」

「……お母さんが信じてるのは、だれ?」

 かえでのその言葉にしずくが顔を向けると、かえでも顔を向ける。

 娘の純粋なその目に、しずくは釘付けになった。





           「かなざくらの古屋敷」

    〜 第十九部「夜叉の囁き」第3話(完全版)へつづく 〜


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