第十八部「花と香りと罪」第3話(完全版)(第十八部最終話)
圭の夫の名前は田口雄二。
実家は地元商店街の小さな八百屋を経営していたが、一人息子の雄二は高校を卒業すると同時に地元の建築会社のセールスマンに職を得た。
成績はよく、三年で大きな部署を任されるようになり、その頃に通い始めたスナックで圭を見染めた。
店に通い詰め、やがて二人が付き合うようになると、雄二の仕事の成績もさらに上向く。
結婚を決めた時、雄二は二二歳。圭は二〇歳。
二人は賃貸のマンションで贅沢な暮らしを始めた。
一年も経たない内に、娘の〝香〟が産まれる。
二人は共に喜んだ。
幸せだった。
雄二の両親も喜んでくれた。
しかし雄二の父が心筋梗塞で倒れる。一命は取り留めたが、急遽の入院に大騒ぎとなった。丁度事業である八百屋の利益が上り調子だった頃。相談の結果、圭が子育てをしながら店を手伝うことになった。
家族三人で店の二階に引っ越し、それでも雄二はしばらく会社員を続けた。収入の大きさが一番の理由だった。
やがて娘の香が三歳の時、雄二の母が脳梗塞で倒れる。亡くなるまで一週間と経たなかった。
葬儀の間だけ店を休み、その後、店は圭がなんとか切り盛りしていた。
しかしその一ヶ月後。入院中だった雄二の父が亡くなる。
立て続けの葬儀に店はしばらく休むことになった。
これからどうするかを夫婦で話し合ったが、雄二は退職して八百屋を継ぐことを決める。
圭は不思議がった。夫が仕事にやりがいを感じていたことを知っているからだ。
しかし、その理由は雄二も話したがらない。
それでも再び店を開けることが出来た。
しかし売り上げを維持できたのは半年ほど。明らかに経営が傾き始めていた。町に大きなショッピングセンターが出来たことも理由だろう。商店街の人々の愚痴が聞こえるようになってきた。
雄二が夜に遊び歩くようになったのはそんな頃。朝まで帰らないことも増えていく。
喧嘩が増えた。
そんな頃に懐かしい人からの電話。
夜。
丁度、香と二人で夕食をとったばかりの時間。
雄二の元上司の奥さんだった。以前はよく世話になっていたが、それも雄二の退職と共に疎遠になっていた。
『最近はどう?』
ただの世間話の声色でないのは圭もすぐに分かった。
嫌な予感がしながらも、圭は言葉を絞り出す。
「ええ……まあ…………なんとか頑張ってました」
『仕事はそうかもしれないけど…………雄二さんのことよ』
──…………え…………?
『たぶんだけど、あなた知らないだろうと思って…………心配だったのよ』
「会社で……何か…………」
反射的にそんな言葉が出ていた。
『私も最近聞いたんだけど、辞めた理由ってどうせ聞いてないんでしょ?』
──……教えてくれなかった…………
「実家を継ぎたいって────」
『それが本心ならいいけど…………会社で問題起こしたんですって…………会社の子に手を出しちゃったみたいで…………それでいられなくなったみたいよ。だからあなたのことが心配なのよ。大丈夫? 浮気されてない?』
その後、どうやって電話を切ったのか、圭は覚えていない。
今夜も雄二は店を閉めるとすぐに出かけている。
薄々感じていないわけではなかった。最近は圭の体を求めることも無くなっていた。
「お母さん! 花火しよ!」
テレビを見ていた香が声を上げる。
少し前に買っていた花火の袋を、香が小さな体で持ち上げていた。
雄二がいる時に、家族三人でやろうと思って買っていた物。生活が厳しい中で高価な物は買えなかった。その中で買った物。
どこかが小さく崩れ掛けた生活の中で、なんとかそれを修正しようとした。その一つでもあった。
──……家族三人で…………
「しよっか、香」
圭は仏壇から蝋燭とマッチを取り出した。
無邪気にはしゃぐ娘を眺めていた。
幸せだった。
香が六歳。
無事に小学校に入学させることは出来たが、生活は切迫していた。
やがて店の経営をするための借金を返せなくなり、店を閉めざるを得なくなる。
二人でそれを決断した直後、雄二は一枚の紙を取り出した。
離婚届だった。
すでに雄二の名前と印鑑がある物。
「…………え…………?」
圭の意識は追いつかない。
「印鑑をついて出してきてくれ」
雄二はぶっきらぼうにそう返すだけ。
「俺はもうアパートを借りた。明日には出ていくよ」
「────勝手なこと言わないでよ!」
いつの間にか、圭は叫んでいた。
「散々女と遊びまわって! お店のお金にまで手を出して! ……どうして…………」
雄二は何も応えない。
圭は立ち上がった。
「……今夜…………香を連れて出て行きます…………」
部屋の隅で怯える香に近付いた。その手を取ると、今にも泣き出しそうな震えた目で圭を見上げている。
「駄目だ」
それは雄二の冷たい声。
「香は俺が連れてく」
直後、圭は香を抱きしめていた。
「この子は…………香は、私が育てます…………」
「生活力も無いくせに…………昔…………警察の世話になったこともあるんだろ?」
「あなたみたいに家族を裏切るようなことはしてません!」
叫ぶ圭の体に、香が幼い総ての力でしがみついていた。その体が震えている。
「お前に親権は無い。俺はもう仕事も見付けた」
償ったはずの過去は残酷だった。
そして生活能力は無い。
親権の請求は完全に無意味なものでしかなかった。
裁判で争うお金も無い。
再び、圭は一人になった。
手元に残ったのは、母親の骨壷だけ。
再びスナックで働き始める。
寮のある店を探した。寮といっても四畳半のアパートに三人で雑魚寝するような環境。
惨めさだけの日々。
何度か親権の請求もした。
しかし雄二も何か動いているのか、連絡することさえ許されず、香にはとうとう会えないまま。
それからはずっと一人のまま。男性は恐怖の対象でしかなかった。
僅かながらでもお金を貯めながら、さまざまな職を転々とした。正社員という言葉とは無縁の人生だった。
そして、残酷に時だけが過ぎていく。
六〇歳を過ぎた頃。
兼ねてからの腰痛が悪化し、清掃員の仕事を辞める。
正社員などであるはずがない。退職金などあるはずもない。公営住宅で生活しながら、やっともらえるようになった少ない年金で細々と暮らすしかなかった。
変化の無い日々に、張り合いなど見い出せないまま。
──……私の人生って…………なんだったのかしらね…………
苦労しかなかった。
常に何かに我慢し、耐え、最愛の娘にも会えない人生。
あるのは負い目だけ。
そして身寄りも無く、一人だった。
一人には慣れたつもりだった。それでも人生の終わりを考えると、どうしても寂しさが去来した。
そんなことを考える毎日の末に、圭は自宅で転倒して骨折をする。
診断は腰椎圧迫骨折からの下半身麻痺。
奇跡的にも自分で救急車を呼ぶことが出来たことで命拾いした。
──……いっそ…………あのまま死んでしまったほうがよかった…………
年齢的なこともあり、病院の計らいでケアマネージャーに連絡が行く。
要介護度3の結果により、特別養護老人ホームへの入所が決まった。身寄りが無いことも考慮された。
それからは常に車椅子の生活。ベッドから車椅子への移動ですら一人では出来ない。入浴や排泄でも同じこと。体を動かすことが少ないせいか、筋力は削がれ、しだいに体重も減っていく。
自分の惨めさに、夜に涙が止まらないこともあった。
それは何年経っても同じこと。
そして、いつの間にか感情も失いつつあった。
涙すら出なくなる。
元々、食べていくための仕事に精一杯で趣味など持ったこともない。ただ毎日を生きながらえているだけ。
──…………どうして……私は生きているんだろう…………
そして、七八歳。
施設からの提案で、デイサービスに通い始める。
──…………いまさら……………………
圭にはそんな感情しかなかった。
──……どうせ…………もうすぐ死ぬだけ……………………
☆
「……私の人生なんて…………そんなものよ…………」
なぜか、溢れるように、圭は自分の人生を語っていた。
圭自身も不思議だった。誰かに自分の人生を語ったことなど無い。一人になってから、ずっと一人で生きてきた。誰かに寄り添おうと思ったこともない。
過去を振り返って寂しく思う時は何度もあった。
しかし、いつの間にか、そんなことで人生が巻き戻ることがないことを意識するようになって長い。
感情が動かされることのない日々。
何かを楽しいと感じたこともなかった。
そんな中で、誰かに自分のことを語る機会など無かった。もっとも、語りたいとも思わなかった。
それなのに、なぜか見知らぬ介護士に促されるように言葉が溢れた。
──……不思議なことって、あるのね…………
「つまらない人生でしょ…………」
しかし、そう言う圭の車椅子のグリップを支えたまま、圭の背後で香は涙を堪えていた。
体の震えが止まらない。
今、目の前に────〝母〟がいる。
六歳で生き別れた母がいる。
四十年以上会えなかった母がいる。
会いたかった母がいる。
やっと本当のことが分かった。
一度だけの母との花火の光景が鮮明に甦っていた。
幸せだった。
香は首から下げていた名札を外す。
そっと、圭の膝の上に乗せた。
圭がそれを手に取ると、そこに流れるのは、まるで、止まったかのような時間。
圭が何を考えているのか、もちろん香には分からなかった。香も自分がどうすればいいのか分からない。
ただ、何もせずにはいられなかった。
そして、圭が小さく呟く。
「……あなたの…………人生を聞かせてくれませんか…………」
香は、ただ、泣き崩れていた。
何十年ぶりだろうか。
幼かった頃のように、母の膝で泣き崩れていた。
施設は理解を示してくれた。
通常一人の利用者に何時間も接し続けることはない。
香は圭が生き別れた母であることを伝えた。その香の説明に、施設長も他の職員も協力を惜しまなかった。そんな職場だからこそ香も長く働くことが出来たのだろう。
香は暗くなるまで圭と話し続けた。
明るい話は少ない。辛い話が多かったが、それでも圭はにこやかに話を聴き続けた。
生き別れてから四十年以上。
二人が総てを語るには時間が足りなかった。
窓からの大きな光。
やがて、外からの音。
小さな振動。
職員が利用者を促して庭に出始めた。
香も圭の車椅子を押した。庭には芝生の匂いがする季節。
僅かに青みがかった夜空に、眩しいほどの花火が舞う。
微かに、煙と火薬の香りが漂う。
圭が細い手を上げた。
香がその手を握る。
──…………私…………生きてて良かった……………………
☆
華やかに彩られた夜空に、群衆からも歓声が上がる。
その中で、花火に見惚れながら上ばかりを見続ける西沙の手を杏奈が掴んでいた。
出店を楽しむ萌江に、毎回咲恵が溜息を吐きながら楽しんでいる様子に、やはり杏奈の顔にも笑顔が浮かぶ。その杏奈に手を引かれながら、西沙は子供のように花火に釘付けになっていた。
西沙が育ったのは憑きもの専門の神社。
お祭りなどは無い。そもそもお祭りに行くこと自体も禁止されていた。
自室から見る遠くの花火が唯一の思い出。
他の家族のように、花火や出店を楽しんでみたかった。
一度だけ学校の帰りに唯一の友達の美由紀と通りかかったことがあった。その煌びやかな楽しさに心を踊らせた。
言わなければバレないと思った。しかし、気持ちのどこかから湧き上がる罪悪感が恐怖に変わる。結局、祭囃子に後ろ髪を引かれるように帰った。
──……美由紀もここに一緒にいられたら良かったのに…………
花火が散る度に辺りの影が濃くなった。
その影に浮かぶ笑顔が、四人の気持ちをさらに高揚させる。
やがて歩道の花壇に四人で腰を下ろすと、萌江が早速たこ焼きを広げ、隣の咲恵も手を伸ばす。
西沙は相変わらず子供のように目を輝かせながら空を見上げていた。でも、その横顔にはどこか憂いが重なる。
──……美由紀…………あなたにも見えてる?
そこに珍しく炭酸のペットボトルを飲みながらの杏奈。
「こういう時の出店って異常に飲み物の値段が高いですよねえ」
すぐに返すのは咲恵。
「いいじゃない。この雰囲気も買ってるようなものなんだから」
「ああ、そっか、お店と同じか」
「そうよ。どんなに大きなテレビで見たって、この雰囲気は味わえないからね」
そこにお好み焼きを広げながらの萌江。
「商売商売」
その萌江の手に触れながら、咲恵が続ける。
「せっかく四人揃ったし…………たまにこんな時があったっていいよね…………家族みたいなものだしさ…………」
萌江が咲恵の手を握り、その横顔に顔を振る。
それは、まるで母親の京子のように見えた。
☆
およそ一年後。
香は三人の子供の墓に、母の持っていた小さな骨壷と、母の骨壷を埋葬した。
小さく、立派な葬儀だった。
香は、再び一人になった。
しかし、なぜか寂しくはなかった。
幸せだった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十八部「花と香りと罪」(完全版)終 〜