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第十八部「花と香りと罪」第1話(完全版)

    そう


    幸せだった


    一歩

    あと一歩前に出れば

    もう、楽になれる



      ☆



 夕方の六時頃。

 平日の駅のホームは人でごった返していた。

 地方の小さな駅とは言っても時間によってはそれなりだ。もっとも、都会ほどいつも混んでいるわけではない。

 朝が雨だったせいか、今日の電車の利用者はいつもより多く感じた。

 その雨は昼過ぎには上がり、そのせいもあるのか、今はホームに入り込む西陽が強い。それでもその夕陽はしだいにりをひそめ、周囲の深かった影を薄めていった。

 やがて、遠くからの電車の音が小さく空気を振るわせていく。

 かおりの視界のはしにライトの明かりが入り込んだ。


 ──…………一歩だけ、前に出れば………………


 そう思ったかおりの左手を、誰かが握った。

 小さな手。

 暖かい。


 そして、体が前へ────。



      ☆



 田口香たぐちかおりの両親が離婚をしたのは、かおりが六歳の時。

 それからは父親に育てられることになった。

 母親は浮気を繰り返して家にもほとんど帰らなくなり、働くこともせずにたまに帰ってきては父親にお金をせびるような日々だったという。そんな母親に我慢が出来なくなった父親が強引に離婚。まだ幼かったかおりは、後になって父親からそう聞かされた。

 かおりの知らない母の姿。僅かとはいえ、かおりにとっては優しかった印象しかなかったので、正直驚いた。

 父親は実家の八百屋やおやを引き継いでいたが、離婚直後に経営難で自己破産。

 店舗兼住居の実家は売却。

 二人で古いアパートに引っ越す。当時のかおりはまだ小学生になったばかり。その頃は目まぐるしかった記憶しかない。

 それからの父親は何度も転職を繰り返した。正社員になどなれないまま、苦しい生活が続いていく。

 それでもやがて、かおりは公立の高校に通うことが出来た。

 そして生活はますます苦しくなった。

 かおりはいつも塩だけのおにぎりを作って学校に通った。いつもお昼時間はトイレの個室で隠れて過ごす。筆箱ふでばこは父親の使っていた古い物。決して高校生が持つような物ではなかった。

 お洒落しゃれなど出来るはずもない。もちろん興味はあった。毎日同級生の薄い化粧を見ながら、自分で自分の気持ちを傷付けるだけ。

 友達と呼べる相手は作らなかった。たまに話しかけてくるクラスメイトはいる。でもそこまで。深入りはしなかった。家の貧しさからか、無意識に劣等感を持っていたのかもしれない。

 その日、家に帰ると父親がいた。最近父親は昼間だけの仕事をしていたが、掛け持ちで夜の仕事を見付けたばかり。昼が休みでも夜だけ出勤のこともあった。

「今夜も仕事?」

 かおりは横になってテレビを眺めている父親に声をかけながら、台所でスーパーのレジ袋を開け始める。家事のほとんどはかおりが担当していた。父親はそういったことが得意なタイプではなく、事実としてかおりも父が料理をしているのを見たことはない。せいぜいヤカンでお湯を沸かすくらい。

「ああ……」

 そんな父親の低い声が背後から聞こえた。

 しかしその背後へ、かおりの体が引っ張られる。

 驚いたその背後から、父親の両手が腹部と胸へ。

「なに⁉︎」

 かおりは反射的に声を上げた。制服のスカートをたくし上げられたかと思うと、下着にかかる父の手を懸命に払おうとするが、その腕力には叶わない。

 混乱しつつも理解の行き着く先は一つしかなかった。

「────や……やめて!」

 しかしかおりが声を出したのはそれが最後だった。

 かおりを畳に押し倒した父親は、一言も言葉を発しない。

 ただことに及ぶだけ。

 どのくらいの時間だろう。

 小さな涙がかおりの目から流れ続けたが、気が付いた時は、ことが終わってホッとしただけ。

 息の荒いままの父親の声が耳に届く。

「……お前が学校に行けるのは……俺が毎日働いてるからなんだ…………」

 かおりは無言のままに風呂場に向かう。

 制服のままシャワーを出した。

 総てを洗い流してしまいたかった。

 小さく玄関のドアの音が聞こえる。

 父親の舌がった首筋くびすじを念入りに洗った。

 濡れた制服を可能な限り絞って外に干すが、すでに空が赤くなる時間。明日までに乾くかは怪しい。

 そんな時に、やっとかおりの口から言葉が漏れた。

「……明日…………土曜日だ…………」


 それから、何度もかおりは父親に体を求められ続けた。

 そしてかおりはスーパーでのアルバイトを始めた。家にいる時間を少しでも減らしたかった。

 それから時々ではあったが、家に帰らないことが増えた。

 金銭的に週に一度だけ。それでもそのためのアルバイト。

 最近出来たばかりの二四時間営業の漫画喫茶。唯一落ち着ける場所だった。未成年者かどうかなど調べられもしない。当時はまだゆるかった。嘘の年齢を書けばいいだけ。

 それでも父親と顔を合わせる時間が無くなるわけではない。

 その度に体を求められたが、かおりはまだ逃げ出す方法を知らない。

 何度目かの時、かおりは無言で避妊具ひにんぐを差し出す。父親も反対はしなかった。

 しかし、すでにそれは遅かった。

 父親と同様に、自分が女であることをにくんだ。

 かおりはなるべく遠くの小さな産婦人科で中絶手術を受けた。

 高校一年生の終わり頃に一度。三年生に上がった頃に一度。それぞれ別の病院で処置を受ける。どちらの病院でもプライベートなことには踏み込み過ぎず、精神的な部分でかおりを気遣ってくれたのが嬉しかった。

 中絶のためのお金が必要だった。高校生に払える金額ではない。父親も子供が産まれては厄介やっかいだと感じたのか、それでもまるで紙屑かみくずを投げ捨てるかのようにかおりに数枚のお札を投げつけた。

 三年生。進路を決める時、かおりは悩まなかった。

 他県の社員寮のある職場から採用をもらい、それを父親には伝えないまま卒業。

 そのまま家を出た。

 もちろん、父から逃げるため。

 高校を卒業するまでの感情のどころというのは不思議とあまり記憶に無かったが、それでも何度か父親の相手をしたことだけが頭にこびり着いたまま。

 そう思うほどに、その頃のかおりには、自分という存在はいなかった。

 それから父親が自分を探したかどうかは分からない。

 自分の荷物は二つの鞄だけ。

 半導体製造工場だった。

 携帯電話を契約し、それから一年でお金を貯め続け、アパートに引っ越す。直後に仕事を辞める。

 父親からの追跡が怖かった。


 短い期間でアルバイトを転々とするが、その度に職場の男性が擦り寄ってくるのが気持ちが悪かった。男性に魅力など感じたことがない。誰かと夜の暗い道ですれ違うだけでも逃げ出しそうになる。かおりの中の〝男〟のイメージは父親が作っていたのだろう。どんなに優しそうな笑顔を浮かべても、求めているものは分かっていた。


 やがて見付かった仕事は飲食店。居酒屋だった。

 そして二〇歳の時、二歳年上の同じ居酒屋従業員────佐藤慎二さとうしんじと付き合い始める。

 優しかった。

 父親とは違った。

 そしてかおりが妊娠に気付くのは、経験のためもあり、早かった。

 伝えるべきか悩んだ。

 産むべきか悩んだ。

 自分に子供を産む資格があるとは思えなかった。

 二人も殺してきた。

 例え父親が誰でも、自分の子供。

 しかも自分でそれを選んだ。


 ──…………もう……殺したくない…………


 かおり慎二しんじに伝えた。

 かおりの予想に反し、慎二しんじは喜んだ。

 過去も話した。

 泣きながら父親のことも話した。

 それでも慎二しんじは受け入れた。


 せきを入れ、新しいアパートを借りる。

 慎二しんじの実家には、二人で相談の上で、父親はすでに亡くなったことにした。

 慎二しんじの実家は貧しかったからなのか、結婚式や披露宴をするお金が無いことをかおりに謝った。しかしかおりからすれば、むしろ自分の側に両親がいないことを説明することに申し訳なさを感じた。

 結婚から半年ほどが経ち、無事に子供が産まれる。二度の中絶のことがあったために無事に出産が成功するか心配だったが、かおり慎二しんじも、幸せだった。

 娘だった。

 しかしそんな幸せも、それから半年ほど。

 子供を託児所に預け、かおりも働きに出た。スーパーで昼間の短時間だけ。慎二しんじの居酒屋の給料だけではギリギリの生活だった。

 パートだけでなく、朝と夜には子供の世話と家事。決して楽ではなかったが、それでもそれを苦しいとは思わなかった。

 常に、過去の二度のことが頭にあった。しかし、だからこそ目の前の娘を精一杯立派に育てようと思った。


 ──…………もう……苦労はいらない…………


 ──……これからは……家族で幸せになるだけ…………


 やがて、慎二しんじが家に帰らないことが増えた。

 居酒屋での仕事は深夜の二時くらいまで。しかし帰ってくるのは昼過ぎ。シャワーだけを浴びて再び仕事へ。毎日ではないが、かおりと顔を合わせない日が増えた。

 かおりは何度かそれを問い詰めたが、その度に慎二しんじの機嫌をそこねるだけ。

 かおりは、いつの間にか自分が、再び〝我慢がまん〟をしていることに気付く。まるで父親と一緒に暮らしていた頃のようだった。

 洗濯機に投げ込まれていた慎二しんじの服からは、いだことのない香水こうすいの匂い。


 ──…………どうして……………………?



      ☆



 気持ちのいい夜だった。

 もう夜になっても寒くはない。かと言って真夏の夜の蒸し暑さはもう少し先。

 その日の夕方に、ネットで注文していた荷物が届いたばかり。一番楽しみにしていたのは西沙せいさだ。門の前にトラックが停まると同時に荷物を受け取りに駆け寄ったほど。

 四人で夕飯を食べていても、何やら西沙せいさは落ち着かない。

 チラチラと足元に目を配り続けていた。今夜はあまり西沙せいさのお気に入りの日本酒も進んではいないようだ。

 そんな西沙せいさに、突然立ち上がった萌江もえが声をかける。

「よし西沙せいさ。やるか」

 途端に西沙せいさの顔が輝く。

「うん!」

 子供のような目をした西沙せいさは、そう声を上げると立ち上がる。

 その手には、足元に置いてあった〝花火セット〟。夏になるとスーパーやコンビニに並ぶような一般的な物だ。ここ一週間ほど街まで行くことの多い杏奈あんなに探してもらってはいたが、時期的にまだ取り扱っている店が見付からないままにネットで注文し、届いたのが今日。

 花火を欲しがったのは西沙せいさだったが、萌江もえ咲恵さきえにもその理由はすぐに分かった。聞く必要などなかった。心を読み取る必要もない。

 厳格げんかくな神社に産まれ、幼い頃から巫女みことしての修行を重ね、何より西沙せいさ自身が普通ではなかった。そんな家庭環境の中で、普通の家族の生活など皆無かいむだったことだろう。以前にも、家族で旅行どころか買い物もしたことがないと言っていたのを二人も覚えていた。

 そして最初に西沙せいさが花火が欲しいと言った時、すぐに反応したのは咲恵さきえだった。

 普通の家庭環境でなかったのは咲恵さきえも同じだったからだ。新興宗教を立ち上げた両親から神童しんどうと持ち上げられ、やがてその両親のうそに気が付いて自分から逃げ出した。

 咲恵さきえも子供の頃に家族で花火を楽しんだ記憶は無い。ある時、偶然に見かけた家族のそんな微笑ほほえましい光景を萌江もえと二人で見た後に、何も言わなくても萌江もえかん付いた。


 咲恵さきえはゴミ袋の中の開いたトマト缶を取り出すと、その中にアロマキャンドルを入れて火を灯す。

蝋燭ろうそくって他にないのよねえ」

 萌江もえはガーデニング用の小さ目のバケツに玄関横の水道から水を汲む。

 杏奈あんなは折り畳みテーブルをリビングからの明かりに照らされる庭に出すと、そこにロングネック瓶のビールを並べ、残った料理を寄せ集めた大皿が一枚。

西沙せいささん、どれからやります?」

 そう言いながら杏奈あんな西沙せいさに笑顔を向ける。

「え? ……ど……どれ…………」

 戸惑いながらそう返す西沙せいさに、萌江もえの声。

「よし、開けちゃいな」

 しゃがみ込んだ西沙せいさ辿々(たどたど)しく袋を開ける。

 上から覗き込む三人も、心なしか目を輝かせていた。

「え……っと……」

 西沙せいさの指は堂々巡(どうどうめぐ)り。

「それとか……私は好きだよ」

 その咲恵さきえの声に、やっと西沙せいさの指が止まる。

「……こ……これ?」

「そうそう、花火って言ったらやっぱりそういうのだよね」

 そこに萌江もえが挟まる。

「……確かに。よし西沙せいさ、こう持って…………」

 萌江もえは花火を西沙せいさの手に持たせると、蝋燭ろうそくに誘導する。

「先端に火をつければいいだけだよ」

 西沙せいさは恐る恐る火を灯した。

 やがてその火が火薬に点火。同時に激しく火花が飛び出し、光が辺りを回る。

 驚いた西沙せいさが一瞬体を引くが、すぐに満面の笑顔を見せた。

 その笑顔を見た萌江もえが声を上げる。

「よし! 始まったよ! 一〇袋もあるから遠慮はいらないからね!」

 全員が思い思いに花火に火を灯すと、萌江もえは小さな打ち上げタイプを離れた所に設置した。

「あの時も……私よりはしゃいでたなあ」

 そう言う咲恵さきえに太い花火を振り回しながら杏奈あんなが言葉を返す。

「そう言えば、前に一緒に花火したって言ってましたっけ」

「私も子供の頃にしたことがなくて……そんな話したら萌江もえが大量に花火抱えて店に来て……お客さんまで一緒になって深夜にビルの前でさ…………」

 そう言って咲恵さきえが笑う。

 杏奈あんなも笑いながら返した。

萌江もえさんらしいじゃないですか」

「一階の喫茶店のマスターまで参加してたなあ…………楽しかったんだ…………だから……西沙せいさちゃんが笑顔になってくれて良かった」

「私はお母さんとだけでした…………父はほとんど家にいなかったし…………」

 杏奈あんなの父親は主に海外の戦場を主体とするジャーナリスト。杏奈あんなが中学生になったばかりの頃に海外で行方不明になったまま。杏奈あんなも父を追いかけてジャーナリストの道を歩んだ。なかなか自分の求める道には進めずにフリーになったが、気持ちのどこかにはいまだに戦場へのあこがれを持っている。

「お母さんも、お父さんと花火したこと無いって言ってたなあ…………」

 そう続けた杏奈あんなは、僅かに寂しげな声になっていた。

 咲恵さきえも釣られるかのように声のトーンを落として返していく。

萌江もえも、義理の両親だけなんだよね…………幸せだったとは言ってるけど…………京子きょうこさんとは…………ね…………」

「そっか…………」

 そして、萌江もえそばで小さな打ち上げ花火が音を立てた。

「おお!」

 西沙せいさが声を上げて走り回った。両手からは花火の火の粉が舞う。

 火薬の匂いが辺りを包む。

 そしてその匂いを、四人の笑顔が消していく。

 腰を落とし、線香花火に火を灯した咲恵さきえに、萌江もえがビールを手渡す。咲恵さきえが笑顔で受け取ると、萌江もえも線香花火を手に取った。

「この歳になるとこのくらいがちょうどいいねえ」

 そう言いながら火を灯す。

「よく言うわねえ、さっき一番派手なので楽しんでたくせに」

西沙せいさが楽しんでくれたら、それでいいじゃん」

 二人の笑顔が消えない。

 これでいいと、思えた。

 すると、両手に二本ずつの花火を持った西沙せいさが振り返る。

「ねえ! 花火大会に行きたい!」



      ☆



 明日、娘が一歳の誕生日を迎える。

 シフトの関係で少し早目にスーパーを後にしたかおりは、託児所に娘を迎えに行き、アパートに帰った。

 出勤直前の慎二しんじがいた。

 あからさまに嫌そうな顔をする慎二しんじに、出来るだけかおりは言葉を選ぶ。


 ──……また、今日も我慢がまんしてる…………


「……明日も仕事?」

「ああ……」

 返ってきた慎二しんじの声は小さい。

「私……明日はお休みにしたの。昼間だけでも一緒にいられないかと思って…………」

「なんでだよ」

 その低い声に、かおりは気持ちの何かが破れそうになる自分を感じた。

 それでも声を絞り出す。

「……あの…………明日…………一歳の誕生日だから…………」

 その声は震えていた。

 しかし、それに返す慎二しんじの冷たい声に、何かが崩れていく。

「知らねえよ……そんなの…………」

 そして、かおりは無意識の内に、一線を越えた。

「────女?」

 慎二しんじもまるで呼応するかのように何かが弾ける。

「お前には関係ないだろ」

「どうして? 浮気相手なら私にも関係あるじゃない」

 何かが、どこかが破れた。

 まるで洪水のように、言葉が溢れ出す。

「明日は私たちの娘の誕生日なんだよ。それなのに浮気相手の所に行くの?」

 ちょうど一年前、娘の出産を満面の笑みで喜んだ慎二しんじの顔が、かおりの頭を一瞬だけよぎった。

 その娘も空気の変化を察するのだろうか。

 ベビーベッドから大きく泣き声が上がる。

 舌打したうちをして玄関に向かう慎二しんじの腕を掴んだかおりが声を上げた。

「どれだけ私が我慢がまんしたか分かる? 最近のあなたは娘を抱こうともしない…………最初は…………最初はあんなに喜んでくれてたのに!」

 すると、慎二しんじが腕を振り解き、かおりの体がベッドのはしに叩き付けられた。

 恐怖がよみがえった。

 目の前で冷たく見下ろす慎二しんじの目が、父親の目と重なる。

 隣では娘が泣き続け、かおりの神経を刺激した。

 初めてかおりに暴力を振るったからか、それとも娘の泣き声に神経を刺激されたのか、慎二しんじも声を荒げる。


「父親の所に帰れよ」


 その言葉は、かおりの中の何かを壊すには充分だった。

 それが続く。

「お前みたいなのを売女ばいたって言うんだろうな。この赤ん坊だって誰の子供か分かったもんじゃねえ」


 ──…………どうして…………こうなったんだろう…………


 ほとんど無意識だった。

 かおり慎二しんじに掴みかかる。

 その首に両手を伸ばすが、やはり力では敵わない。

 何度も何度も畳に叩き付けられた。

 あの時、父親に抵抗した時のように。

 そして、慎二しんじが娘を抱き上げる。

「やめて!」

 そのかおり甲高かんだかい声にまるで応えるかのように、慎二しんじは娘を両手で高く持ち上げた。

 娘の泣き声に慎二しんじの声が重なる。

「子供なんか出来るから面倒なことになるんだろうがっ‼︎」

 慎二しんじは腕を振り下ろした。


 そこは台所の板間。

 そこに叩き付けられた娘の声が止まる。


 かおりの意識が、止まった。


 慎二しんじは娘の小さな体に、繰り返し足を食い込ませる。

「……や…………やめ…………て……………………」

 かおりが涙と共に絞り出す声は、もはや慎二しんじの耳には届かない。


 慎二しんじが玄関から外に飛び出した。

 かおりはゆっくりと娘に近付く。

 娘は静かなまま。

 そこにすでに鼓動は感じられない。

 ゆっくりと抱き上げた。

 震える体で救急車を呼ぼうと電話をするが、涙で声が出ない。

「…………娘が…………娘が……………………私の…………娘……………………」


 病院に運ばれるが、すでに処置をほどこせる状態ではなかった。


 ──…………明日…………誕生日だったのに……………………


 そして病院からの連絡で到着した警察に、かおりは総てを話す。

 何も隠さなかった。

 もう、何も守る必要はない。

 その夜の内に慎二しんじは逮捕された。


 葬儀を行うお金も無い。火葬だけをしたが、慎二しんじの実家の墓に入れる気はなかった。


 留置所での最初の慎二しんじとの面会で、かおりは無言で離婚届と慎二しんじの印鑑を差し出した。すでにかおりの名前と印鑑は押してある。

 慎二しんじも黙って従うが、最後までかおりと目を合わせることはなかった。


 娘の骨壷こつつぼを抱えたまま、僅かな荷物だけを持ってアパートは解約。売れる家財道具はリサイクルショップに売ったが、小さな物はほとんどが引き取ってもらっただけ。それほどのお金にはならなかった。

 鞄は二つ。

 少ない洋服の入った物は一つ。

 娘の骨壷こつつぼを大き目の鞄に入れて首から下げた。そして片手で娘を抱くように支えた。

 スーパーにも事情を話して辞めた。いられるはずがない。どうせすぐにうわさが広がって居づらくなるのが簡単に想像出来る。

 行くては無かった。

 時間はすでに夕方。

 世界が薄暗くなり始める。

 空腹感と疲労。

 朝からリサイクルショップやアパートの解約。食事も取っていなかった。

 財布には一万円ほど。


 ──……娘だけ死なせるなんて…………


 かおりは裏路地の喫茶店に入った。

 以前から、一度来てみたかった店だった。

 中途半端な時間だからか、他に客はいない。

 かおりは四人掛けのテーブルに座り、隣の席に骨壷こつつぼの入った鞄を置く。そして軽くでるように手を添えた。

 コーヒーとチーズケーキを頼んだ。空腹なのに、あまり食が進まない。それでも美味おいしかった。


 ──……最後に…………娘と一緒に美味おいしいものが食べられた…………


 店には初老のマスターとその奥さんと思しき初老の女性だけ。

 その女性が、かおりの向かいに座った。

 驚くかおりに、柔らかい笑顔を向けて口を開く。

「どこに行くの? そんな鞄持って…………ちょっとお買い物、じゃないでしょ」

「……え…………」

 かおりの髪はボサボサ。化粧もしていない。

 やつれた顔で大きな鞄が二つ。

 何も無いと思うほうが不自然だったのだろう。

 サバサバとした印象のその女性の言葉は、なぜかかおりの気持ちを揺らした。

 無意識に零れる涙は止まらなかった。

 総てを話した。

 総てを、誰かに聞いて欲しかった。


 喫茶店の二階は住居となっていた。かおりはその一室に案内される。

 その老夫婦には、かつて娘がいた。

 女性が部屋の窓を開けながら言う。

「そうね……今のあなたと同じくらいの歳だったかしら。もう何年も前になるけど…………病気で亡くしてね。それからは夫婦水入らず…………」

 かおりには何も返せない。

 女性は布団を出しながら続ける。

「ちょうど昼間に干したばかりで良かった。こんな偶然ってあるのね…………部屋は好きに使って。お店には明日から出てもらえばいいから。今夜はゆっくり休みなさい」


 それから三年ほど、まるで家族のようにかおりはそこで暮らすことになった。

 喫茶店で働き、給料までもらい、ただただ感謝の日々。

 それでもマスターが体を悪くして入院することになると、店を閉めざるを得なかった。

 それからは様々な仕事をした。

 清掃、コンビニ、夜のスナック。僅かとはいえ、お金も貯められた。

 目まぐるしく日々が過ぎていく。

 やがて、いつしかかおりも三〇代半ば。

 長く入院していたマスターが亡くなった。それから一年もせずに奥さんが亡くなる。まるで本当の両親のように接してくれた二人を失い、再びかおりは一人になった。本当の親子ではなかったが、二人の遺言はかおりに残された。遺言通りに住居兼店舗の建物は売却され、そのお金はかおりが相続することになっていた。

 最後まで感謝しかなかった。

 かおりはそのお金で、夫婦の墓の隣に小さな墓を建てた。

 それは娘の墓石。

 やっとかおりは、娘を埋葬してあげることが出来た。しかしかおりはお寺にお願いして空の骨壷こつつぼも二つ一緒に埋葬してもらった。この世に産んであげることが出来なかった子供たちの物。

 過去を洗いざらい話すと、お寺の善意で、位牌いはいも三つ用意してもらえた。

 これで、やっと三人のお墓参りが出来る。


 それからの就職活動は決して簡単なものではなかった。

 何か手に職を付けるでもなく、そして目的も持てないままにただただ転職を繰り返すが、年齢が上がるのに合わせて選べる仕事も少なくなっていく。やがて職業安定所で勧められるままに介護の世界へと足を踏み入れていた。

 最初は三ヶ月の職業訓練。そこで最低限の資格を取得して就職活動に切り替わる。

 すぐにデイサービスの仕事に就いた。夜勤などもなく、最初としてはハードルが低いだろうと考えた。それでも一年もすると、それまでの経験と同じく職場の人間関係が面倒に感じられてきて、やがて次の施設へ。

 そこもデイサービスの施設だった。そしてそこで忙しく働く内に一〇年以上の時が経っていた。長く働いてこれたというだけでも職場には恵まれていたのだろう。

 そんな頃だった。

 施設で不思議なことが起き始める。

 いるはずのない子供の姿を見かけるようになった。他の職員に聞いても誰も見ていない。かおりだけにしか見えていないようだった。

 男の子が一人。女の子が二人。みんな五歳か六歳といった雰囲気。

 自分に霊感があると感じたことはなかった。それでも幽霊というものなのかもしれないとかおりも思ったが、恐怖を感じるわけではない。いつも施設の中を走り回っている姿をチラチラと見かけるだけ。

 そして、ある時、事故が起きた。

 かおりが階段から転げ落ちる。そこは従業員だけが使用する階段。施設の屋上へ洗濯物を干しに行く時にしか使うことはない。

 そこで、かおりは背中を押されたような気がした。

 そのまま体が回転する中で、一瞬だけ、視界にあの子供の姿。

 それでも運よく右腕の上腕じょうわん骨折と肩の打撲だけで済んだ。複雑骨折とまではいかず、全治一ヶ月との診断。

 軽い事務仕事なら出来るからと、かおりは仕事に出続けた。利用者との関係性を続けたかったというのが一番の理由だった。

 しかし、あの時に一瞬見えた子供の幽霊が気になる。

 あれからも時々姿を見ていた。


 ──……あの子たちかもしれない…………


 かおりにはそう思えてならなかった。

 幼くして亡くなった子供は、少し成長した姿で現れるという話を聞いたことがあったからだ。しかもかおりにしか見えていない。


 ──…………うらまれているのかもしれない…………


 ──……私だけが生き続けて……あの子たちはきっと私を許さないだろう…………


 ──…………あの子たちに、私は殺されても仕方がない…………


 夕方の六時頃。

 平日の駅のホームは人でごった返していた。

 地方の小さな駅とは言っても時間によってはそれなりだ。もっとも、都会ほどいつも混んでいるわけではない。

 朝が雨だったせいか、今日の電車の利用者はいつもより多く感じた。

 その雨は昼過ぎには上がり、そのせいもあるのか、今はホームに入り込む西陽が強い。それでもその夕陽はしだいにりをひそめ、周囲の深かった影を薄めていった。

 やがて、遠くからの電車の音が小さく空気を振るわせていく。

 かおりの視界のはしにライトの明かりが入り込んだ。

 不思議と怖くはない。


 ──…………私に生きる資格は無い…………一歩だけ、前に出れば…………


 そう思ったかおりの左手を、誰かが握った。

 小さな手。

 暖かい。


 そして、体が前へ────。


 列車とそれに伴う大きな風が目の前をかすめていく中、誰かが右腕を掴んでいることに気が付いた。

 ゆっくりと回した視線の先には、スーツ姿の中年の男性。

 生気せいきのないそのかおりの目に何かを察したのか、男性は駅員にかおりを預けた。やがて連れて行かれた小さな部屋の中で、すぐにやってきた警官にも言葉を投げられるが、応える言葉もまとまらないままに出てくるのは大粒の涙だけ。


 ──……あの子たちのところに行きたい…………


 色々と話を聞かれ、厳重に注意をされ、その夜はアパートまで送ってもらうことになった。


 ──……どうして……まだ生きてるの…………?


 アパートに帰ると、ベッド脇の小さな棚には三つの位牌いはい

 その前で膝を落としたかおりは、小さく位牌いはいに語りかける。

「……呼んでるんだよね…………」

 そして、ただただ、涙が溢れた。

 頭に浮かぶのはあの〝小さな手〟。その感触は、ついさっきのことのように肌に張り付いたまま。誰なのかなど分かるはずもなかったが、大人の手には思えなかった。

 誰かと手を繋いだ記憶は、幼い頃の顔も覚えていない母親との思い出だけ。

 記憶の奥から突然浮かび上がったそんな思い出をなぞるように、まだ左手が僅かに暖かい。

 古いアパートの部屋の中で電気もけず、畳に座り込み、かおりの中に忘れかけていた記憶が少しずつ浮かび始めていた。

 思い出すことも難しい母親。

 しかしなぜか、父親が言っていたような悪い印象はよみがえってはこない。

 おぼろげながらも、優しい過去だけ。


 幸せだった。


「……待ってるんだよね…………もう…………そっちに行ってもいいよね…………」


 ──……私は……子供たちを助けられなかった…………


 ──……ねえ…………どうしてここにいないの? …………お母さん…………


 四八歳。

 人生の岐路きろで、かおりは多くのことを振り返った。





           「かなざくらの古屋敷」

    〜 第十八部「花と香りと罪」第2話(完全版)へつづく 〜


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