第十七部「数珠通りの坂」第3話（完全版）（第十七部最終話）
安土桃山時代。
後に戦国時代と呼ばれる時代。
その村はまだ小さな集落に過ぎなかった。
そして仏閣が作られる前からその場所には神社が存在したが、仏教が入ることで神社が潰され、その神社を司っていた雫川家は土地から追い出された。神道も仏教も共に受け入れる土地もあるが、どちらかだけを選択することで争いに発展した歴史も存在する。
上数珠には城があったが、対立する大名との戦の戦火によって城は燃やされた。
同時に城の隣にあった仏閣が燃やされ、墓地だけが下数珠に残る。新しい殿様は仏閣も神社も許さないままに時間だけが経った。
当時は〝僧兵〟というものも存在し、神仏の勢力が力を持つこともある時代。それだけに政治との繋がりも深かったが、少し前に織田信長による比叡山の焼き討ち騒ぎがあったばかり。
この地を落とした新しい大名は織田家の家臣でもあり、信長公の神経を刺激すべきではないと判断した。
やがて時が流れ、明治維新の時点では仏閣も神社も無いのが当たり前になっていた。葬儀もお墓参りも隣の村まで行くのが当然の土地柄へとすでに変化している。
しかし太平洋戦争終戦の直後に雫川依定が戻る。廃墓地が残されていることに胸を痛め、元々神社のあった上数珠ではなく墓地のある下数珠に布袋尊神社を作る。
その後押しをしたのが清国会だった。依定は廃墓地を整備し、見捨てられた墓を弔う。
しかし、古くからの、この土地を追われた気持ちも確かにあった。
僅かな復讐心は確かに依定の中にもあっただろう。
それでも神道に携わるものとして、そういった〝穢れ〟────〝心のわだかまり〟は間違ったものだと感じながら雫川家の人間は板挟みのまま墓地を守り続ける。
そして依定の気持ちに清国会が入り込んだ。
清国会はその〝穢れ〟を欲した。
☆
咲恵に掛かってきたのは西沙からの電話だった。
「三人も？」
咲恵が声を張り上げる。その声が天井の高い本殿の中に響いた。
その中心で未沙が力無く項垂れる。
自分でも気付かないフリをしてきた。
その部分に触れられた感覚。
未沙の中で、記憶と感情が混ざり始めていた。
『そっちはどうなのよ』
スマートフォンから聞こえる西沙の声は決して明るくはない。
咲恵は少し間を空けてから応えた。
「……真っ黒…………目を離せそうにない…………今どこ？」
『中数珠って言うの？ そこにあるテレビ局。こっちはいつでも行けるけど、近隣のマスコミが早速押しかけてきてるみたい。ここも結構バタバタしてる』
「急いだほうが良さそうね。先にマンションに向かって。私たちもすぐに行く」
咲恵は電話を切って続ける。
「例のマンションが大変みたい……死者が三人出てる…………急がないと増えかねない」
「分かった」
そう返した萌江が立ち上がるが、未沙は視線を落としたまま。
先程までの明るい印象はもう面影も無い。
細い声を漏らすだけ。
「……〝上〟で…………三人も死んだんですか…………」
──……あれ？ 悲しいはずなのに…………
──…………この感覚は…………何…………？
未沙の感覚は、なぜか自分でも理解が追い付かなかった。自分の中に自分以外の気持ちが存在する。
そんな未沙に萌江が語り掛けた。
「これ以上の説明は必要ないみたいね。状況は見えたはず…………」
そして膝をつくと、未沙の顔を覗き込んで続けた。
「一緒に行くよ。未沙さんも……もう終わらせよう…………」
☆
西沙と杏奈が上数珠のマンションに到着したのは、お昼を少し過ぎた頃。
マンションの前にはパトカーが二台。現場検証が未だ続いていた。
他にマスコミのワンボックスが一台。次の動きを見越して待機しているのだろう。すでに三人の死者が出たことは地元のテレビでも大々的に流れていた。程なく地元以外のマスコミも到着するだろう。
二人がいた中数珠のテレビ局もその対応に追われていた。
そして杏奈は少し離れた道路脇に車を停める。
「どうするんですか？ 警官がいるから中には入れませんよ」
そう言う杏奈に、西沙は助手席を降りながら返した。
「私と手を繋いでれば大丈夫」
西沙は杏奈の手を引きながらマンションの前まで行くと、なんなく警官の横をすり抜けていく。西沙の〝幻惑〟の能力だった。
開いたままの自動ドアを抜けると、中庭には黄色のバリケードテープ。二人はテープを潜って中庭へ。そこには黒く焦げた芝生と歩道用のブロック。まだ生々しく匂いも残っていた。
「確かに凄いね…………負の念が渦を巻いてる…………」
芝生の草を踏みしめながら西沙が視線を落としたままそう口を開くと、杏奈は反射的に返していた。
「負の念って…………誰のなんですか？」
「さっき咲恵と電話して納得した…………例の巫女さん…………清国会はそれが欲しいんだよ」
その言葉に、杏奈は目を丸くして返した。
「だって、ボランティアで墓地の管理してるような人なんですよ⁉︎」
「誰にだって表があれば裏もある…………そこを利用されたのかもね…………」
その時、二階から悲鳴が上がる。
西沙はまるでそれを予測していたかのように、迷わず近くの階段を駆け上がった。杏奈も反射的に続く。
西沙の靴音が中庭に響く。
悲鳴で動いたのか、警官の足音が背後からする中、続く悲鳴を追って二人は202号室の前。
西沙はドアを激しく叩きながら叫ぶ。
「死にたくなかったら開けなさい！ 助けてあげるから！」
ドアが開くと、女性が飛び出してきた。
「助けて！」
大粒の涙を流し、震える唇で叫んでいた。
二人は迷わず中へ。そこには包丁を持ったまま目を血走らせた夫と思しき男性。
肩で息をする男性に向けて、西沙は右の掌を伸ばす。ゆっくりと近付きながら、少しずつ手を下げていくと、男性はまるで何かに体を押さえ付けられたかのようにゆっくりと体を落としていく。やがて苦悶の表情のまま床に倒れて包丁を手放した。
「……凄い…………」
杏奈が無意識に呟く。
「ただの催眠術みたいなものだよ」
西沙が真顔でそう返した直後、二人の警官が部屋に飛び込んできた。
「なんだあんたたちは！ いつの間に────！」
「早くこの人を拘束しなさい！ この人にはそれしか効かない！」
西沙が叫ぶと、その声に押されたのか西沙の幻惑か、警官の一人が倒れる男の腕を掴んで手錠をかけた。
すると、外からさらに悲鳴が聞こえた。
西沙はもう一人の警官に向けて言葉を投げる。
「そこの奥さんをマンションの外に連れてってあげて。このままここにいたら、あの奥さんもまずい」
呆然とする警官の横を擦り抜けるように西沙が部屋を飛び出すと、杏奈も迷わず続いた。
そこに中庭から別の警官の声。
「何があった⁉︎」
西沙は階段を上りながら中庭に向けて叫ぶ。
「早く来て！ これ以上死人出したらあんたたちも叩かれるよ！」
303号室────西沙がドアを激しく叩いた。
「開けなさい！」
ノブを回すが当然のように鍵が掛かっている。
そこに聞こえる警官の声。
「どけ！」
西沙と杏奈が首を回すと、若い警官の後ろには初老の管理人。管理人は素早くマスターキーを差し込む。
「やるじゃん」
そう言った西沙が中に入ると、ベランダで二人が揉み合っている。飛び降りようとする夫を妻が懸命に押さえていた。
「二人を中に入れて！」
西沙のその声に合わせるように、警官が二人を室内に引きずり入れると、すかさず西沙が夫の顔に右手をかざす。
夫はそのまま意識を失った。
「まったく……次はどこよ…………」
警官も当然驚きは隠せない。
まるで呟くように口を開く。
「あなたたちは…………」
その言葉を遮るように、西沙はすぐに返した。
「勘違いしないで。正義の味方じゃないから。ただ〝視力〟がいいだけ」
そして次の悲鳴はさらに上。
全員が部屋を飛び出す。
405号室────悲鳴というより泣き叫ぶ声。
全員が走った。
管理人が鍵を開けると、真っ先に入った西沙が叫ぶ。
「救急車！」
エアコンに紐を固定して首を吊っている夫に妻が抱きついていた。天井の高さが仇になった。夫はすでに力がない。
杏奈が無意識の内に素早く台所から包丁を持ち出して西沙に手渡すと、西沙は素早く倒れていた椅子を立てて登り、紐を切った。
落ちる夫の体を杏奈が支える。
そして西沙が右手をかざす。
「まだ大丈夫」
そう言った西沙が顔を上げると、無線を終えた警官が飛び込んできた。
そして西沙が叫ぶ。
「心臓マッサージの経験は⁉︎」
警官は状況を理解すると、無言で倒れる夫にマッサージを始めた。
西沙は今度は管理人に向けて叫ぶ。
「AEDあるでしょ⁉︎ 持ってきて！」
管理人が慌てて部屋を出ると、西沙は小さく息を吐いて心臓マッサージを続ける警官の横顔を見た。
そして呟く。
「へー、結構いい男じゃん」
☆
交通事故は、突然起こる。
車同士の衝突事故。
未沙の両親の乗った車は衝突の衝撃で川に落ちた。
警察からの電話を受けた未沙が中数珠の病院に到着した時は、すでに死亡診断が出された後だった。
「御遺体の確認はして頂きますが…………」
警察にもやはり躊躇はあるのだろう。
交通事故の遺体────当然、綺麗とは限らない。
未沙もそれは覚悟していた。
相手の車の男性は怪我だけで済んだという。
未沙は安心した。
事故で全員が死んだわけではない。一人でも生き残ったほうがいい。
きっと両親もそう考えるだろう。
そう思った。
「相手の車の男性は、上数珠の方でした。退院とともに過失致死で…………」
何を意味して警官がそれを未沙に伝えたのかは分からない。
──…………上数珠……………………
未沙の中に、懐かしい感覚が蘇った。
もちろん未沙の中に、古くからこの土地に住まう差別の意識は無い。無いはずだった。もちろん、現在でも残るその差別を正しいと思ってはいない。
しかし幼少期の頃にまで理解出来ていたわけではない。
それでも〝知識〟としてはあった。
この町と神社の歴史を学んだ。
かつて神社を強制的に潰され、雫川家がこの地を追われた歴史を学んだ。
城に住む大名だけではない。町ぐるみだった。それが一神教の求心力というものなのか、人々は仏教に傾倒した。
しかし攻め込んだ隣の大名によって城と共に仏閣が焼け落ち、墓地だけが残ったが、人々の気持ちは亡き人々ではなく仏閣にあった。
やがて、いつしか忘れられたようになったその墓地は、管理する人もいないままに朽ちていく。
それでも曽祖父はこの地を許した。
憎まなかった。
この地の先祖を粗末に扱うことは出来なかった。
最初からその曽祖父の感情を理解出来たわけではない。
曽祖父の依定に本当に〝憎しみ〟が無かったのか、幼少期の未沙には分かり兼ねた。
しかし神道の世界を学びながら、曽祖父の気持ちがゆっくりと未沙の気持ちに浸透していく。
それでも、今回の事故。
不思議な感覚だった。
何かが心の奥底に顔を出す。
それが〝憎しみ〟というものなのかどうか、未沙には分からない。
葬儀屋に相談の上で、未沙は神式の葬儀────神葬祭を布袋尊神社で行い、隣町で火葬、埋葬は神社の隣の墓地。
翌日、未沙は祭壇の前で一日を過ごした。
繰り返し、ただただ祈り続けた。
何を祈っているのか、自分でも分からなかった。
それから数ヶ月。
上数珠のマンションを管理する不動産屋からの連絡を受けた。
二階の賃貸の部屋で自ら命を絶った人がいたという。すでに部屋は綺麗にされたが、一度〝お清め〟をお願い出来ないだろうかという依頼だった。そういった依頼は何度か経験していた。悲しいことだが決して珍しいものではない。
部屋には何も禍々《まがまが》しいものなど存在しなかった。
この部屋に住んでいた人の魂は解放されたのだろう、と未沙は感じていた。そして、なぜか未沙はその人の気持ちを理解することが出来た。
──……もう大丈夫ですよ……総て……終わりましたから…………
どうして自ら命を絶ったのか、それはもちろん分からない。しかし本人にはそれだけの苦しみがあったのだろう。
それで充分なはずだった。
「ここには…………良くないものが渦巻いておりますね…………」
突然、未沙がなぜそんな言葉を口にしたのか、その時の未沙自身にも理解出来ていなかった。
しかし当然不動産屋としては落ち着かない。
「良くないものとは…………」
反射的に不動産屋が返したその言葉に、未沙は冷たい目で返した。
「この地にあった仏閣のものでしょう…………大勢が焼き殺され…………大勢が首を撥ねられています…………その呪いは簡単には消えません…………」
「そんな昔の…………」
「土地に憑いたものを侮ってはなりません…………その根は深いものです…………大変な所に建物を建てられましたね……これからも何かが起こるやもしれません…………」
その未沙の言葉は、話をドア越しに聞いていた隣の部屋の住人から、少しずつ他の部屋の住人にも伝わっていく。
結果的にマンションの住人を精神的に追い詰めていった。そんなもの、と思いながらも、やはり気にはなるのだろう。賃貸の住人ならいざ知らず、分譲の住人はすぐに引っ越すことも出来ない。
やがて起こる集団心理が多くのことを心霊現象に結びつけ、パニックが起こった。
それからマスコミを交え、何度かのお祓いが行われることになる。
──……悪い噂が広がれば…………再開発計画も…………
しかし、行政というものは幽霊話に簡単に動かされるものではなかった。
☆
目の前の〝数珠通りの坂〟を登り切ればマンションが見える所で、咲恵は車を停めざるを得なかった。
狭い道。
何台ものパトカーと救急車。さらにはマスコミと思われるワンボックス数台が行手を阻む。
大量の野次馬によって完全に道は塞がれていた、
咲恵は少し手前の道路脇に車を停める。
「歩いたほうが速そうね」
咲恵が運転席でそう言い、三人が車を降りるが、未沙は視線を落としたまま。ずっと表情が優れないまま。
時間はすでに夕方といってもいいだろう。
僅かに空が暗くなり始める時間。
三人が坂を登る。
そして萌江と咲恵は無意識に水晶を手に。
その咲恵が口を開く。
「何かあったね。西沙ちゃんはもう着いてると思うけど…………」
それに応える萌江の声に不安は無い。
「大丈夫……西沙なら…………」
そして、萌江と咲恵が同時に足を止める。未沙も合わせるように足を止めた。
顔を上げると、坂の上には人影。
一人の巫女。
逆光で顔は見えない。
しかしその鋭い目は坂の上から三人を見下ろしていた。
そして、いつの間にか周囲の音が聞こえない。
その人物に向けて最初に口を開くのは咲恵。
「あらあら……わざわざこんな所まで…………」
そして、その巫女姿から聞こえてきたのは、涼沙の声だった。
「西沙は〝穢れ〟の中に囲いました」
すると、すぐに応えるのは目を鋭くした萌江。
「なるほどね。この騒ぎはあんたたちのせいか。〝穢れ〟の根源はここにいるけど」
「そんなもの……引き金に使ったに過ぎません。この土地の穢れはもっと根の深いものです」
「あなたたちが無理に掘り起こしただけでしょ。どうしてそこまでして穢れが欲しいの？」
すると涼沙は足を一歩前へ出して返した。
「〝力〟の為です。結局は力でなければ人心を掌握することなど出来ません。綺麗事ではないのです……誰かがまとめなくてはならない」
「私も綺麗事なんか言うつもりはないよ。でも、この国の中心になるつもりはもっと無い」
そう言う萌江の言葉は力強かった。
萌江は左手、咲恵は右手を同時に上げ、涼沙に掌の水晶を向ける。その中の光の粒が、傾きかけた夕陽を小さく反射する。
その光の粒に、涼沙は見入った。それまで見せられてきた水晶とは明らかに違う。それは水乃蛇神社の一件の後に水晶の中に突然現れたもの。
──……あの光は……なんだ…………
しかしそう思った涼沙はさらに一歩近付いて言葉を荒げた。
「そんなもの…………このままではこの国は────」
それでもその言葉は咲恵に遮られる。
「────それこそ綺麗事じゃないの？ どんな理想を掲げたって、結局はどんな指導者も権力に甘えてきた…………目の前の美味しい餌に手が届いたら……もっと欲しくなるだけ…………」
咲恵のその言葉に繋げるのは萌江。
「しかもやり方が好きじゃないな。そんな理想とは関係の無い人間の穢れを利用して、犠牲にしてまで…………」
さらに咲恵がそれを拾う。
「あなたたちは未沙さんを利用した…………未沙さんの穢れを自分たちの理想のために犠牲にした…………許すわけにはいかない…………」
すると、少し間を空けて涼沙が小さく応える。
「…………綺麗事を…………」
その時、聞こえたのは未沙の声だった。
「……私の穢れは…………歴史に向けたもの…………」
それまで黙って話を聞いていた未沙の中で、それまで目を背けてきた漠然としていた感情が形になる。
そしてその言葉が続く。
「……決して…………今に生きる人々に向けたものではない‼︎」
「言うか……それこそ綺麗事ぞ…………貴様の両親を殺された恨みは穢れそのものではないか！」
事実だった。
未沙は何も言い返せない。
ただ、体が震えた。
──…………私のせいだ……………………
その耳に届くのは萌江の声。
「あなたたちがそう仕向けたんでしょ。まさか……捨てられた墓地だけじゃ足りなくて…………恨みを持つようにわざと…………」
その直後、三人の足元が明るくなる。
三人が視線を落とすと、足元には大量の〝白い蛇〟。
それでも三人は決して慌てず、動かなかった。
──……そのまま…………
その萌江の心の声が、咲恵と未沙の頭に広がる。
そして、涼沙の後ろにもう一人の巫女の影。
「……困りましたね…………穏便に済ませたかったのですが…………涼沙では事を荒立てるだけ…………無様ですよ……涼沙……帰りなさい」
それは、綾芽の声。
涼沙は綾芽に頭を下げると、その姿を霧のように消した。
そして綾芽の言葉が続く。
「貴女様にあのような物言い……大変失礼致しました。しかしながら付け加えさせて頂きますが、未沙様はすでに必要ありません…………お帰りを」
萌江は顔を上げて言葉を投げ付けた。
「未沙さんは自分の意思でここにいる…………あなたに指図されることじゃない…………どいて…………」
その萌江の鋭い目にも、綾芽は怯がない。
「なりません。あの土地はさらに穢れを溜め込める土地…………貴女様に必要なものです。その為に、今一度、西沙を取り込みます」
しかし、直後に聞こえたのは、誰も予想しなかった声。
「────残念でした」
その声は三人の背後から。
三人が振り返ると、そこにはしゃがみこんでアスファルトに右手を着いた────西沙の姿。
すると、足元の白い蛇が消える。
すぐに立ち上がった西沙が口を開く。
「まだ形代なんか使ってるの？ 古いよ。私たちが騙されるわけないじゃん姉さん。それにあの程度でこの私を取り込めると思ってる？」
西沙は右の掌を綾芽に向けながら静かに三人の間を進み、ゆっくりと綾芽に近付く。
そして続けた。
「どうせ、私に勝てないんでしょ」
すると綾芽は、口元に笑みを浮かべ、そしてその姿を霧のように消した。
西沙は三人に振り返る。
「じゃ、この先で待ってるよ」
そして、その姿も消える。
すると、途端に三人の耳に戻る周囲の音。
唖然とする未沙の前で、咲恵が溜息混じりに呟いていた。
「まったく…………相変わらず西沙ちゃんも派手好きよねえ」
それに返す萌江の口元には笑みが浮かぶ。
「西沙らしいじゃん」
すると、二人の後ろから未沙の声。
「行きましょう……急がないと…………」
二人が振り返ると、未沙の目は力強い目に変わっていた。
何かを覚悟した目だった。
☆
マンションは完全にパニックと化していた。
総ての部屋で次々と誰かが異常行動を起こし、それを西沙と杏奈が走り回って食い止め続ける。
萌江たち三人は、警官と救急隊員をなんなく避けながら中庭へ。
そして異常なほどの負の念を感じた。
──……〝穢れ〟か…………
萌江がそう感じた時、四階の廊下から中庭を見下ろした西沙の声。
「早くなんとかして！ 私はこっちで手一杯だから！」
「…………そういうことか」
見上げた萌江がそう呟くと、未沙が中庭の中心へ。
そこで両膝を着く。
目を閉じて両手の指を絡ませた。
しだいに、周囲の負の念とは違う感覚が少しずつ空気に混ざり始めていった。
──……〝私の穢れ〟は……私が抑える…………
目に見えるものではない。
それでも確かに萌江と咲恵は感じていた。
二人も膝を着き、地面に水晶を持った掌を押し当てる。
空気が変わった。
不思議と、周りの雑音も消えていく。
そして咲恵が口を開く。
「……これは…………集団心理が作り出したもの…………」
それに返したのは目を瞑ったままの未沙。
「──それを作り出したのは、私です…………私が〝穢れ〟を作り出さなければ…………こんなことにはなりませんでした…………利用されることもなかった…………」
しっかりとした未沙の声に、萌江の柔らかい声が被さった。
「……私たちだって……ただの人間だからさ…………99.9％ね…………特別な人なんていないよ…………」
やがて、三人の静寂の中に、階段をゆっくりと降りてくる足音。
西沙と杏奈だった。
そして西沙の声。
「あんな所で足止めされてんじゃないわよ。ま、来てくれたおかげでなんとかなったけど」
西沙の新しい靴の音が響く中で、立ち上がった咲恵が笑顔で返した。
「こっちもおかげで助かったわ。綾芽さんって形代を使うの？ この間のも綾芽さんだったのね…………」
「今時だよねえ…………で、この巫女さん？」
西沙は未沙に近付いた。
未沙も立ち上がり、西沙の優しい目に見惚れる。
最初に口を開いたのは西沙。
「あなた、強いね」
「いえ、私はまだ未熟者です。皆さんに助けて頂きました」
その控えめな未沙の目を、西沙は見つめ続けた。
西沙は未沙の潜在的な〝強さ〟に気が付いていた。
──……〝想い〟の強い人間は……時として〝驚異〟にもなる…………
そう思いながら、西沙は柔らかい笑みを浮かべて返していた。
「ま、何かあったらいつでも呼んでよ」
「はい。ありがとうございます」
未沙の顔にも笑みが浮かんだ。
しかし、すぐにその顔が曇る。
「ですが…………亡くなられた方が三名もいらっしゃいます…………まだ増えるかもしれません…………」
西沙は何かを察したのか、あえて平然と応えた。
「大丈夫。これ以上は増えないよ」
「しかし…………」
「私が保証する。でも……後始末をするのは、あなただよ」
その西沙の言葉を拾ったのは萌江だった。
「…………辞めちゃダメだよ。いい人見つけて結婚して……必ず神社を盛り上げていくの。自分の罪を常に認識しながらね。それは生きてるから出来ること。今までだって、会ったことのないような人たちのお墓を守ってきたんでしょ。あなたなら出来るなんて無責任なことは言わない。でも…………責任は取らなきゃね」
☆
「……控えているようにと…………申しました…………」
しばらくの静寂の後、最初にそう口を開いたのは、祭壇に向かって座る綾芽。
その背後、床に額を着け続けていた涼沙にとっては、すでに一時間は経過したのではないかと思えるほどに長い時間だった。すでに燭台で燃えていた松明の音も聞こえない。
やっと聞こえた綾芽の声にも、何も返せないままに思考も止まる。
紡がれるのは綾芽の言葉だけ。
「神聖な場所である〝準祭壇〟を私的に利用してまで……あなたは私の指示に刃向かった…………」
涼沙の全身を冷たいものが包んでいく。
綾芽の声がまるで振動のように床を伝わる。
「……いずれも許されぬこと…………処分の覚悟をしてまでのことですね」
その言葉に涼沙の口が僅かに動くが、それでも声は喉の奥で足踏みをしていた。
「今後……私に〝異〟を唱えることは許しません…………あなたの考えは求めていない…………私の指示通りに動きなさい…………いいですね…………」
綾芽の立ち上がる僅かな音に、涼沙の気持ちは騒つくだけ。
やがて、足袋の音だけが遠ざかっていく。
しかし、しばらくの間、涼沙は顔を上げることすら出来なかった。
☆
二週間後。
再び山の中の一軒家に四人が揃っていた。
少し遅めの朝。
日に日に朝晩の暖かさが増していた。
西沙が猫用の缶詰を開けると、この日も猫は元気に西沙に飛び付く。
コーヒーの香りがリビングから縁側を経由して外にまで広がっていた。
咲恵が縁側でマグカップを片手にスマートフォンを耳に当てている。
「うん、そういう寄付金って税金とかどうなるのかなって思って……ごめんね。ちょっと調べてくれる？」
電話の相手は満田だった。
リビングのソファーでは萌江が分厚い封筒を三つ、杏奈に渡していた。
「これをあの神社のポストにでもこっそり入れてきてもらえる？ これだけあれば道路も動かせるよ」
すると杏奈は慣れた感じで素早く鞄に封筒をしまい、そして返した。
「中身は知らないことにしておきます。上手くいけばいいですね」
そして電話を切った咲恵がソファーの萌江の隣へ。
「みっちゃんが知らないフリして神社に行ってみるってさ。行政にも掛け合ってくれるって。道路のこと」
「さすがだねえ。後でボトルの一本でもご馳走してあげてよ」
萌江がそう言うと、咲恵の表情にやっと笑みが浮かんだ。
「仕方ないわねえ。萌江のツケで二本ね」
その直後に叫び声を上げたのは西沙。
「げっ！ 未沙ちゃん結婚するかもってメール来たよ！」
その声に、食事中の三匹の猫が一斉に顔を上げる。
それを見ながら咲恵が返した。
「あら、良かったじゃない。彼氏いないって言ってたのに」
そして杏奈が西沙のスマートフォンの画面を覗き込むと、そこには送られてきた写真が表示されていた。
つい言葉を漏らす。
「あっ……あの時のイケメン警官だ。……って、なんで西沙さんが悔しそうな顔してるんですか⁉︎」
「別に…………ちょっといい男だなって思っただけよ…………」
しだいに小さくなる声のまま、西沙はスマートフォンをモニターを隠すようにテーブルに置いた。
当然のように満面の笑みの萌江が口を挟む。
「そろそろ西沙と杏奈ちゃんにも彼氏の一人や二人くらい見付けてあげないとねえ」
「一人でいいわよ一人で」
「予備」
「いらない」
そう応えた西沙のゴスロリの服に、猫が三匹ぶら下がる。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十七部「数珠通りの坂」（完全版）終 〜
