第十六部「丑の刻の森」第3話(完全版)(第十六部最終話)
すでに時間は早朝だった。
辺りは薄暗い。
美水を洞窟の穴に埋め、総てを終わらせた妃水は、巫女服だけでなく気持ちも擦り切れた状態で神社まで向かう。
小さな鳥の鳴き声が聞こえた。
朝の微かな風に、先程までの重々しさは無い。
それを感じられたことで、妃水はやっと現実に戻ってこれた気がした。
──…………もう終わり………………
──……後は………自分が、殺されるのを待つだけ…………
全身の冷たい汗が少し前までの記憶を引きずる。
神社は静かだった。
音水の婿養子が連れてこられるのは、それほど先ではないだろう。それは滝川家しだい。それまでは音水と二人だけの生活。
しばらくは、静かに暮らしていける。
本殿の扉が開けられたままになっていた。
妃水は吸い込まれるようにそこから中に入ると、すぐに目に入ってきたのは巫女服の音水の背中。その姿は祭壇の前にあった。
嫌な予感しかしない。
妃水は黙って近付く。音水も足音は聞こえているはず。気付かないフリも出来ない。
妃水が掛ける言葉を選んでいると、先に口を開いたのは音水だった。
「……婆様は…………」
その言葉に、妃水は思考が回らない。
音水も〝仕来たり〟は知っている。何年も前に妃水から説明はしていた。そして今回何が行われたのかも知っているはず。だからこそ昨夜の夕食後に濁しながらも話をした。美水が白湯だけの夕食を取っていたことは音水も見ている。
それでも妃水は返答に困った。
自分でも認めたくない罪悪感があったことを認めるしかなかった。
無意識に視線を落とし、やっと絞り出した言葉は小さい。
「……〝本殿〟です…………どうしました? 話なら昨夜────」
「何人目ですか?」
──…………やめて……………………
「…………何人目、とは…………」
そんな言葉しか返せない妃水に向けて、音水は背中を向けたまま、なおも返していく。
「〝仕来たり〟に従えば…………母上は、私の覚えていない父上のことも手にかけているはず…………」
──…………お願い………………
いつの間にか、妃水の声は震える。
「何を今さら…………それが我が藪沖家の決まり事ではありませんか⁉︎」
「……文献を読みました…………気になったものがあります…………〝火の玉〟と〝水の玉〟は……今は…………」
いくつもある文献は、一族の者なら確かに誰でも読むことが出来た。しかしその中で、水晶に関する文献は一つだけ。そしてそれは、必ず読まなければならない物の一つ。
もちろん妃水も過去に読んではいるが、そこに何か疑問を持ったことはない。文献自体も数百年前の物。水晶は金櫻家に奉納されたと聞いてはいたが、実際に見たことがあるわけでもない。気持ちのどこかで御伽噺のようなものだと思っていた。
「金櫻家に奉納されたはずですが…………」
そう応える妃水に、音水は毅然と返した。
「あの水晶は負の念の塊だったはず…………それが埋まっていた洞窟も同じ…………雄滝湖で清められたのではないのですか? それなのにここには〝負の念〟が集まっています…………どうしてですか? あの洞窟を負の念の依代にするために…………負の念を溜めるために我らの仕来たりがあるのですか…………?」
妃水は何も応えられなかった。
妃水自身、そこまで考えたことはない。しかし、仕来たりによって自分が苦しめられていることには疑問を持たなかったわけではない。
それでも、その答えを妃水は知らない。
そこに、音水の言葉が続く。
「…………私に兄は……………………」
──…………どうして………………
その気持ちとは裏腹に、無意識に妃水は返していた。
「…………一人…………」
「殺しているのですよね…………自らの子を…………」
それは動かしようのない事実。
──……私は…………自分の子供を殺した………………
しかし返せる言葉は少ない。
「……音水…………いい加減に────」
「────私も殺さなければなりませんか⁉︎ 私も……自分で自分の子供を殺さなければならないのですか⁉︎」
しだいに大きくなる音水の声に、妃水は少し押される。
そして応える声は、僅かに震えていた。
「……男子の血は…………汚れたものと教えたはずです…………」
「それは……清国会の教えですか?」
その音水の言葉に、妃水は無意識に目を見開いていた。
続くのは音水の声。
「藪沖家の仕来たりがいつから続いているものなのか、それは母上でも知らないと仰っていましたね…………何のためですか? 誰のためですか…………」
音水が投げた言葉に、妃水が返せるのは、こんな言葉だけ。
「……女子が産まれれば…………」
すると、音水が体を妃水に向ける。周りを真っ赤に腫れさせた目から涙が零れていた。
そして叫ぶ。
「そうすれば今度は夫ですか⁉︎ 夫を殺すのですか⁉︎ 何が仕来たりですか⁉︎ 何が清国会ですか‼︎ 何のためにこんなことを続けるのですか‼︎」
その声は、妃水の中で木霊する。
☆
石の階段は百段はあろうかという長さ。
森の中の暗さもあるせいか、一番上は見えない。
木々の隙間に見える空も暗く見えた。曇り空だろうか。階段を登る全員が雨が降りそうな湿度を感じていた。
なかなか頂上が見えない状態で気持ちだけが萎えていく。
西沙への気持ちだけが三人を支えていた。
誰も口を開かない。無言で階段を登り続ける。
やがて、先頭の萌江の足が止まる。
一番後ろの杏奈が顔を上げると、そこには大きな石造りの鳥居。
そして萌江の隣で咲恵も止まる。
杏奈がそこに辿り着いた時、そこには開けた空間と目の前の本殿の建物。見るからに古い。そしてその姿の重さに、杏奈ですら重圧のようなものを感じた。
どこにも看板のようなものはない。そもそも普通の人が来れるような場所でもない。
さらに明確な参道と呼べるような道もなかった。決して綺麗に整地されているわけではない土の地面が本殿まで続いているだけ。
萌江が足を進ませ始めた。
咲恵が横に着いたまま続く。
二人の後ろに杏奈も続いた。
本殿が近付く。
すると、小さく、複数の足音。
どこから現れたのか、周りを一〇人ほどの巫女が取り囲む。
三人は足を止めざるを得ない。
巫女は誰もが顔を伏せたまま、薄暗い中でその表情は見えなかった。
不安を抱える杏奈の目に映るのは、周囲に鋭い目を向ける萌江と咲恵。
そして萌江の低い声が響く。
「……笑わせるな…………消えろ…………」
すぐだった。
すぐに巫女たちの姿が薄れていく。
全身に鳥肌を立てる杏奈が驚愕の表情を浮かべる中、巫女たちの姿が消えた。
「……な……なんですか今の…………」
反射的に声を出した杏奈に、咲恵の低い声が応える。
「見せられただけ…………そんなものよ…………」
その直後。
扉の開け放たれた暗い本殿に、小さな足音。
小さな人影が浮かぶ。
その黒い人影に、三人は注視した。
萌江が無意識に小さく呟く。
「…………西沙…………」
しかしその西沙の姿はいつものものではない。明らかに擦り切れたゴスロリの服が痛々しいくらいだった。
思わず杏奈が口を開く。
「どうしたんですか西沙さ────」
片手でそれを遮ったのは咲恵。
「待って…………」
小さく咲恵が口を開いた。
やがて、聞こえるのは西沙の声。
「……待っていました。見せたいものがあります…………着いてきなさい」
しかしそれは西沙の口調ではなかった。
西沙は背中を向けると奥に入っていく。いつもの西沙のパンプスの足音。靴を履いたままのようだった。
萌江は階段を登ると、靴を履いたまま西沙を追いかける。咲恵と杏奈も続いた。
本殿裏の扉から建物の裏に抜けると、そこにあるのは裏山。裏山と言っても深い森が続くだけ。西沙に続いて三人もその森の中を進んでいった。
草の朝露が足の邪魔をする。
風がほとんど無いせいか、湿度の高さが際立った。その湿度は空気を重く感じさせるには充分なものだ。
しかし、それは湿度だけではなかった。
周囲を取り囲むような、溢れるような視線。
杏奈にとって、それは恐怖でしかない。理由の分からない恐怖。感情の深い所をえぐられるような感覚だった。
そして、その理由が目の前に広がる。
やっとの思いで杏奈が口を開く。
「…………藁人形…………やっぱりここ…………」
周囲には大小様々な藁人形が刺さった木々。
その藁人形の多くはすでにボロボロ。原型を留めていないような物が多い。それでも存在感を感じられる〝負〟の塊。
しかも目に見えないその塊は、まるで生き物のように蠢く。
杏奈が恐怖に包まれていると、前を歩く咲恵の声。
「ここはまともな場所じゃない…………気持ちで負けたらダメだよ」
その声は、小さくも力強い。
先頭の西沙は歩き、登り続ける。
やがて足を止めた所は、入り口を石で固めた洞窟。上には板を数枚這わしただけの屋根。
西沙は振り返ると、足を止めた三人を見下ろしながら口を開いた。
「ここに〝呪い〟の感情が集まった理由は……この洞窟の奥にあります…………この中には、水乃蛇神社を護ってきた藪沖家の人々が眠っています。しかも全員が自然死ではありません。殺されています」
反射的に返すのは咲恵。
「水乃蛇神社?」
「ここの本当の名前です。弁財天など仮の名前に過ぎない…………清国会によって隠されていただけ…………しかも本当の本殿はこの洞窟…………そしてこの中で……………………〝火の玉〟と〝水の玉〟は見付かりました…………負の塊であるこの場所から……それを雄滝湖に沈めたのが藪沖家の先祖…………〝黒い蛇〟のお告げだったそうです…………」
西沙の言葉に、咲恵が呟く。
「…………そんな…………」
「萌江…………あなたのその石は……あなたを本当に守ってくれていますか? あなたを幸せにしてくれていますか?」
そう西沙が問い掛けるが、萌江は何も応えない。
──…………分からない……………………
そう思うのが精一杯だった。
実際、萌江には分からない。
水晶が無かったらどうだったのだろう。今までの人生は水晶に振り回されてはいなかっただろうか。もしも水晶に出会わなかったら人生は違ったのかもしれない。こんな人生を歩まなくてもよかったのかもしれない。
──……………………違う…………
そして聞こえるのは杏奈の呟き。
「…………水晶が……負の塊…………?」
西沙の言葉が続いた。
「このままでは…………ますます人の負の念がここに積み重なっていく…………その二つの石にも…………」
萌江が何も応えないまま、咲恵が返す。
「どうすればいいの…………私にはどうすることも出来なかった…………教えて…………〝京子〟」
萌江も気付いていた。
今、西沙の中にいるのは母である京子そのものだった。
西沙の中の京子が返した。
「……〝御世〟…………あなたは充分にその力を全うした…………未練は無いはず」
咲恵の中には、御世。
杏奈が驚いた表情を浮かべる。咲恵と西沙の顔を交互に見比べた。そして二人の会話を見るのは初めてのこと。
西沙の中の京子に、咲恵の中の御世が応える。
「いいえ…………あなたたちが苦しんでいる…………だから私はここにいる」
直後、小さな声。
いつの間にか俯いた萌江の声。
「…………違う…………」
萌江は首元の水晶に左手を当て、続けた。
「……過去は変わらない……変えられない…………私は……今までの時間を否定したりしない…………その時間が私たちを作った…………だからこの水晶は……私に未来を見せてくれる…………」
萌江はそう言って顔を上げ、首から下がる水晶を握っていた。
西沙が────京子が微笑む。
その柔らかい表情のまま。
「いいでしょう…………これで…………あなたは最後まで立ち向かえます」
──…………お母さん……………………
そして、足音。
まだ朝露に濡れた、土の上の草を踏みしめる音。
小さな枯れ枝が折れる。
三人が振り返ると、そこには歩いてくる二人の巫女。
妃水と音水の姿。
萌江は、小さく、何かを感じた。
咲恵の手を握る。
咲恵も理解した。
そして咲恵は、横を通ろうとする妃水の手首を掴んでいた。
妃水と音水が足を止め、同時に萌江と咲恵の中に、妃水の記憶が流れ込む。
瞬時に理解した咲恵の感情を、萌江も感じた。
長い時間の記憶だった。
二人の中に流れる、何代にも渡るあまりにも長い時間。
その総てを、妃水と音水だけが継承していた。
妃水は咲恵に顔を向けた。
柔らかい笑顔。
──…………重すぎる………………
咲恵は妃水から手を離した。
萌江と咲恵の中で、藪沖家の歴史が渦巻き続ける。
そして、二人は総てを理解した。
それは二人の親子────妃水と音水の覚悟。
──……そのために…………お母さんが…………
そう思った萌江に、妃水は柔らかい笑みを浮かべたまま頭を下げた。
その〝強さ〟に萌江も咲恵も口を開くことすら出来ないまま、そこにあるのは、何者も介入できないほどの〝想い〟。
我が子を想う強さだけではない。
〝総て〟を背負う壮麗さ。
すると、再び妃水が歩き出し、音水が続く。
二人は洞窟前の西沙の隣まで登り、やがて妃水が口を開く。
「……ここの負の念を断ち切れば…………終わらせられますか…………?」
それに、西沙は黙って頷く。
妃水が応えた。
「…………後を…………よろしくお願いします」
そう言って、深々と頭を下げ、妃水は洞窟の中へ姿を消す。
音水も深々と頭を下げた。
そのまま妃水の後を追おうとしたその背中に、声が掛かる。
「待って!」
それは萌江の声。
音水が足を止め、その背中に、萌江の声が続く。
「…………忘れないよ…………待ってる…………」
──……ここに私たちを導いたのは…………水晶だ…………
振り返った音水は、微笑んでいた。
そしてその微笑みは、そのまま顔を伏せるようにしながら、洞窟の闇に消える。
周囲に、微かに風が流れ始めた。
空気が動く。
そして、細かな雨粒が空気を遮る。
周囲が、ゆっくりと白く。
空気が、ゆっくりと曇っていく。
突然、萌江と咲恵が首の後ろに手を回す。
そして外したネックレスを素早く手に巻きつけた。
それを後ろから見ていた杏奈の神経が張り詰め、周囲に響く再びの足音。
横。
再び現れた巫女の姿に、杏奈の緊張感が増した。
「────西沙‼︎」
まるで怒号と言ってもいいようなその叫びが霧の中から映したのは、涼沙の姿。
「水乃蛇神社は我ら清国会が護ってきた場所であるぞ!」
その叫びに、萌江が左手、咲恵が右手の掌を向け、水晶が指で揺れる。そしてゆっくりと足を前へ。涼沙に水晶を向けたまま、間合いを取るようして少しずつ西沙に近付いた。
西沙も右腕を上げていた。掌を向け、口を開く。
「私が断ち切ります…………あなたは必要ありません」
「一度死んで見せた貴様が…………口を開くな‼︎」
叫んだ涼沙がゆっくりと西沙に近付いていく。
萌江と咲恵もゆっくりと距離を縮め、そして西沙が返した。
「死んで見せなければ…………見せられないものもあるのですよ…………」
直後、何かに気が付いた涼沙の視線が頭上へ。
白く光る布────紐のようなものが何本も、ゆっくりと頭上から降り注ぐ。
それはたちまちの内に白い蛇へと姿を変えた。
自らの体に纏わりつく白い蛇を払おうと両手を振り回しながら、涼沙が叫ぶ。
「────なんだ! 誰だ!」
そこに、西沙の声。
「…………分かってくれるはずだよ…………姉さん…………」
その時。
萌江は開いた掌に熱を感じた。
──……水晶が熱い…………
そして、突如、森の至る所が炎に包まれた。
木が燃え、葉が燃え、土が燃える。
周囲を包む炎が、たちまち空気の温度を上げた。
突然の強い風が舞う。
涼沙の体が炎に包まれたかと思うと、涼沙は西沙を睨みつけたまま、その姿を消した。
そして西沙が動く。
「行くよ!」
西沙が走り、三人もその後ろを走った。
総ての木が燃えていた。
風が巻き上げる熱風が、容赦無く四人の周りの空気を揺らす。
神社の建物も炎に包まれていた。
崩れかけ、燃える神社を背に、四人は階段を駆け降りる。
すでにその周囲の森も燃え盛っていた。
火の粉が舞う中で走り、熱に背中を押されるようにして四人は山を駆け降りていく。
車に飛び込むと、杏奈がアクセルを踏み込む。
周りも確認せずに舗装道路に飛び込むと、タイヤがアスファルトで乾いた音を立てた。
全員が胸を撫で下ろす中、意外にも、最初に口を開いたのは西沙。
「……京子さんと御世は…………あの二人の望みに応えたかった…………あの二人が終わらせたいと思ったから…………だからあの二人は…………私を呼んだ…………二人を許してあげて…………」
西沙はそれだけ言うと、意識を失うように隣の萌江の膝に倒れ込む。
それからしばらくは、誰も口を開かなかった。
ただ、杏奈だけは涙を拭っていた。
☆
雄滝神社の祭壇の前で、倒れた涼沙の体を綾芽が抱き抱えていた。
強い朝日がその姿に濃い影を作り出している。
涼沙の全身は汗に包まれ、その熱は、僅かに湯気を帯びる。熱かった。
涼沙の体には何本もの白く細い布が絡まる。綾芽はその布を取りながら、震える声を絞り出す。
「……すいません母上…………勝手な真似を致しました…………」
白い布は、綾芽が使いこなすことの出来る形代の一つだった。
すると、祭壇の前で背中を向けたままの咲が応える。
「いえ、綾芽…………良い判断でした…………あのままでは危険だったことでしょう…………恐ろしい水晶です…………」
綾芽の体は僅かに震えていた。
未だ震える唇のまま。
「……しかし母上…………このままでは涼沙が…………」
その震える声を、咲が背中で拾う。
「……このままでは終わらせません…………」
そう言った咲は立ち上がると、振り返り、二人を見下ろして続けた。
「…………邪魔はさせませんよ…………」
咲にもその光景は見えていた。
そして咲は、水乃蛇神社の存在を初めて知った。清国会の二番手である御陵院家ですら知らない場所。咲ですら恐怖を覚えるほどの場所だった。
──……どうして…………あんな場所が…………
☆
その日の夜。
四人が家に帰り着いた時は、すでにだいぶ遅い時間。
杏奈はラップトップに向かい続けていた。萌江と咲恵からの話をまとめる。杏奈が見て感じただけのものでは話はまとまらない。杏奈も不思議な体験は初めてではない。萌江たちと行動するようになって何度も経験していた。しかし、それを辻褄の合うようにまとめるのは至難の技でもある。
西沙は未だ意識を失ったまま。寝室の布団で横になっていた。
「お腹空いてるよねえ…………たぶん…………」
咲恵がそう言うと、萌江がすぐに返す。
「栄養が欲しくなったら自然と目を覚ますよ。今は休ませてあげようよ…………」
「よく頑張ったね…………」
「……そうだね……やっぱり無駄な力じゃないみたいだ…………」
「でも────」
咲恵は声のトーンを落とし、続けた。
「少し危険なことが多過ぎるよ…………清国会に関わるようになってから実際に犠牲者だって出てる…………」
その言葉に、キーボードの上の杏奈の指が止まる。
頭に浮かぶ顔があった。萌江と咲恵が不安の籠る視線を自分に向けていることにすら気が付けない。
大事な存在を失った。
清国会と対立するということは、国に歯向かうということ。清国会しだいでは、いつでも自分たちが犯罪者となる可能性があった。しかし今のところ清国会にその動きはない。それでも常にそれを警戒しながら生きることになった。
まるで〝呪い〟のようだ────杏奈はそうも思う。
同時に、終わりが見えない。解決の形が見えていない。
杏奈の中にも復讐したい気持ちはあった。しかし今の現状はそれとは程遠い。まるで遠回りをしているような、そんな隠れていた感情が、杏奈の中でゆっくりと形になっていく。
──……私は……私の役割を果たせているの…………?
「……杏奈ちゃん……杏奈ちゃんは…………」
咲恵の柔らかいその声に、杏奈が顔を上げる。
──……言わせちゃいけない…………
杏奈は咲恵の次の言葉を打ち消すように、微かに笑顔を浮かべていた。
「──私は感謝してますよ。後悔なんかしてません」
そして仄かに滲んだ両眼を、杏奈はラップトップのモニターに向け続けた。
そしていつものように、その雰囲気を破るのは萌江の声。
「彼氏が出来るまではいさせてあげるから安心して」
「じゃあしばらくかかりますねえ」
──……やっぱり……大丈夫みたいだ…………
応えながら大きく笑顔になった杏奈に、今度は咲恵が返した。
「杏奈ちゃんも早目に休んだほうがいいよ。ほとんど寝てないし、運転だって疲れたでしょ」
「そうですね…………もう少ししたらで…………」
すると、萌江がネックレスを外して水晶をテーブルに置いた。
「ところで、これ…………どうする?」
「そうねえ」
咲恵もそう応えながら自分のネックレスを外して水晶をテーブルに置く。
二人は二つの水晶を見つめる。
「どうしたんですか?」
杏奈もそう言って水晶に視線を送った。
僅かに黒味がかった〝火の玉〟。
曇りのない透明な〝水の玉〟。
その中に、それまでは無かった、いくつもの光の粒。
それが、月灯りに照らされる。
山の火は、それから一〇日間、燃え続けた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十六部「丑の刻の森」(完全版)終 〜