第十四部「憎悪の饗宴」第4話(完全版)
大学の卒業と共に、咲は正式に神職に就いた。
学生の頃から手伝い程度はしていたが、これからは正式に母である美麗から総てを学ぶ。
そして最初に美麗から聞かされたのが清国会の話だった。総ての代に於いて、いつの段階で清国会の話を引き継がせるかは滝川家が決めることとなっていた。咲に関しては珍しく大学への進学があったためか、それまでよりは遅かった事実がある。そしてそれは咲が在学中に京子の自決現場に遭遇したこととも無関係ではないと美麗は感じていた。
女神伝説、水晶の伝承、雄滝神社や唯独神社との関係。
そして現在の金櫻家について。
「分かりますか? 雄滝神社は我らの分社ではありません。我らこそが雄滝神社の分社なのです」
そう言う美麗に、咲は素直に聞き返していた。
「でも…………どうしてですか? どうしてそんな嘘を…………」
「御世の力から姿を眩ますためです。いずれあなたは雄滝神社の滝川家を助け、この日の本を立て直さなければなりません。この国は腐り過ぎました…………このままでは天照大神様に顔向け出来ません。その御子孫に当たる唯独神社の再興を図るのが我ら清国会の願いです。唯独神社を護る直系の金櫻家を持ち上げて〝大掃除〟をするのです。そのためにはやがて産まれるあなたの娘が必要になるでしょう。その娘は強い力を持つことになるはず…………」
「どうしてその子が…………」
「おそらくは…………イザナミとイザナギの御子の産まれ代わり…………あなたはその母になるのです」
母の言葉に疑問を持つことは許されなかった。
それからは修行の日々。
清国会は長い間、唯独神社を探していた。
唯独神社を護る金櫻家を探していた。
御世の力で隠され、ひっそりと営まれていた唯独神社を見付けたのは二〇年以上前。
見付けたのは政府内の秘密の組織────それが後に内閣府の〝総合統括事務次官〟となる。
二〇〇一年、内閣府の発足と共に密かに作られていた。それは太平洋戦争の敗戦の最中で国の中枢に再び入り込んでいた清国会が熱望していた組織。時代が変わっても、この国の神道の歴史は受け継がれていた。
金櫻家との血の繋がりを作るため、そして二つの水晶の存在を確かめるために送り込まれたのは美麗の妹の依。
しかし、その唯独神社は土砂災害で姿を消す。
災害の救助活動では全員の遺体は見付からなかった。全員がそこで見付かれば血は絶たれる。
「一人だけ…………生き残りがいるはず…………」
そう言ったのは雄滝神社を継いで日の浅かった滝川陽恵。
清国会の調査が始まる。
それからしばらくの後、咲が正式に御陵院神社の代表となり、その直後に父と母を亡くす。
咲が雄滝神社を訪れたのはその直後。
本来であれば代表となった直後に挨拶に行くべき立場。御陵院神社は清国会の中でも二番手。雄滝神社としても直属に当たる。
「お前が御陵院の新しい代表ですか…………挨拶が遅かったですね…………」
出迎えた陽恵が、祭壇の前で背中を向けながらそう口を開いた。
その背中に深々と頭を下げながら、咲が応える。
「大変失礼致しました…………先日まで葬儀が続きまして…………」
陽恵は常に背中を向けたまま、祭壇に向かって正座をしたまま姿勢を崩さない。
嫌な間が空いた。
そしてゆっくりと陽恵が返していく。
「娘に代を譲った直後に逝きましたか…………美麗らしいですね…………」
咲が何も返さないまま、陽恵は小さく息を吐いて続けた。
「蛭子様の産まれ代わりはまだですね…………お前の娘は三人…………三番目が蛭子様…………その前に、まずは金櫻家の再興を急ぎなさい…………唯一の天照大神様の直系をなんとしてでも探し出すのです…………」
「かしこまりました…………」
それから数年、西沙が産まれたのは、陽恵の娘────恵麻と同じ日だった。
☆
西沙を連れてくるように、との指示が雄滝神社から来たのは西沙が小学校に通う直前。
すでにこの頃、西沙の言動には不思議なものが目立った。咲も二人の姉との違いを感じ取ってはいたが、時として西沙には自らの言動の記憶が無い場合もあり、咲自身もその力の度合いを測りかねていた。
蛭子の産まれ代わりとは言われても、何かその確証があるわけでもない。あくまで滝川家の言うことを信じるしかない。
駐車場で送迎車を降りると、西沙が咲の右手を握った。
咲は驚いた。西沙の手を握ったことなどほとんどない。いつもなら振り解く。西沙もそれは分かっていたはず。しかも西沙が自分の手を握る力が強い。そこから咲は西沙の恐怖心を感じていた。
──……何かを感じているのか…………
咲は駐車場から西沙の手を引いたまま参道を歩き始めた。
確かに不思議な圧力を感じる。
季節は秋。枯れ葉が舞う気持ちのいい風が流れているはずなのに、咲にはあまり心地のいいものではなかった。
そして、西沙を守ろうと思った。
普通の母親なら当たり前の感情なのだろう。しかし西沙に関しては違った。自分の子供でありながら自分の子供ではない。西沙は蛭子の産まれ代わり────そう言われてきた。それに疑問を持ったことはない。しかも自分がその母になる。
これほど名誉なことはない。
そう、思っていた。
本殿が見えた。
参道を二人で歩く。
近付く本殿の扉が開いた。
そこに見えるのは陽恵の姿。
そして、その声が参道に響いた。
「その御子が蛭子様ですね。入りなさい」
二人の姉ですら未だ雄滝神社に呼ばれたことはない。三姉妹の中で最初に呼ばれたのは西沙だけ。それを伝えた時点で綾芽と涼沙の二人からの嫉妬としか思えないような言葉を、昨夜の内に西沙は浴びせられていた。
自分で選んだことではない。自分で決めたことではない。西沙にとってそれは理不尽そのものでしかなかった。
咲が本殿への階段の前で一礼をし、片足をかけた時だった。
「……ダメです…………母上…………」
決して大きな声ではない。
しかも子供の声。
それでも大人かと思うような口調。
「……〝御世〟がいます…………上げてはなりません…………」
その声は本殿奥の祭壇の横から。正座する巫女服を着た子供────恵麻の声。
陽恵が返した。
「恵麻…………今日は蛭子様をお迎えする大事な日であるぞ……そのような名前を…………」
「なりません…………〝御世〟がいます」
──……あれが……恵麻様…………
咲はそう思いながら、階段の下から声の主を伺った。
影に隠れた恵麻の顔が辛うじて見えた。影の中でその口元に笑みが浮かぶのを見た時、咲の背中に冷たいものが走っていく。
西沙と同じ日に産まれたことは聞いていた。何か運命的なものを感じていないわけではなかったが、恵麻と西沙では〝位〟が違い過ぎる。だからこそ、同じ日に産まれたことは西沙には話していない。
その恵麻の声が本殿を揺らした。
「こそこそと…………騙せると思ったか」
それはもはや子供の声とは思えない響きだった。
咲の額から頬にかけて、冷たい汗が流れていく。
その時、咲の足元から小さな西沙の声。
「わたしに……勝てるの?」
「────西沙‼︎」
咲は思わず声を上げていた。怒りの形相で西沙を見下ろすと、そこには怯えた表情の西沙がいるだけ。
そこに聞こえるのは恵麻の声。
「…………滑稽な…………去れ…………」
「咲…………」
そう続いたのは陽恵の声。
その陽恵の低い声を、咲は慌てて遮る。
「────陽恵様! 大変な御無礼を致しました────」
西沙の手を振り解き、砂利に膝を落として深々と頭を下げて続けた。
「我が娘には再教育を施します…………ここは…………何卒…………」
そして陽恵が返す。
「……咲…………励め………………」
陽恵は声色を変えて続けた。
「…………本日は御苦労様に御座いました」
☆
大きな神社だった。
全国的にも名の知れた神社だけに、その管理された印象は強い。
到着した時はすでに暗くなっていた。空を見上げると僅かに青みがかっている時間。
風は僅か。微かに周囲の林の木々が揺れる。
萌江、咲恵、そして杏奈の三人の目の前には大きな鳥居。
その周囲の灯籠が淡く足元を照らす。その灯籠は鳥居の奥に向けて、石畳の左右にまっすぐ並んでいた。参道はそれほど長くない。そのため、広い敷地と巨大な本殿が視界の先に見えていた。本殿の左右には別棟もある。
「三カ所目でいきなりデカイね」
萌江がそう言うと、続けるのは咲恵。
「有名なだけあるね」
そして、鳥居の横にある石の柱を見ながら続けた。
「一応この漢字で〝恵比寿神社〟って書いてるけど、ホントは別の〝蛭子〟のほうの漢字なんでしょ…………しかも読み方も〝ヒルコ〟か…………手の込んだ隠れ方ね」
杏奈が挟まる。
「こんな遅い時間になっちゃいましたけど、話聞けますかね…………」
すると腰を落として石畳に右手をついた咲恵が応えた。
「…………いるね…………話聞けるどころか…………咲さんがいるよ」
「いきなりですか⁉︎」
そこに挟まるのは萌江。
「いいじゃない。手っ取り早くて」
そして歩き始める。
咲恵と杏奈も後に着いて鳥居を潜った。
住宅地からは多少離れた山沿いとはいえ、参拝者が来るにも簡単な立地。
とはいえ静かだった。
不思議と闇は神経を刺激する。
聞こえるのは微かに葉の擦れる音と三人の足音だけ。
その広い空気の中、萌江が口を開く。
「あの人たちって結界好きだよね」
返すのは咲恵。
「私たちが朝にコーヒー飲むようなものよ。なんとなくいつも当たり前のようにやってるでしょ。まあ……ただの気の持ち様とは言っても、目に見えない何かであることは事実よね。とは言ってもそれだけ…………何の力も無い…………」
「〝念〟みたいなものかな…………それとも超能力?」
「そこは私たちも一緒…………明確に説明出来る人なんていないよ」
「まあね…………ただ、いい加減に…………私たちに無駄なことは気が付いて欲しいね」
やがて大きく開けた敷地。
真っ直ぐな石畳とその左右を囲む砂利。
夜の神社の独特の雰囲気に包まれていた。
石畳を歩きながら口を開くのは、萌江と咲恵の後ろを歩く杏奈。
「夜の神社は昼間とは違うって聞きますけど、結局それって泥棒対策でもあるんですよね」
すると、笑顔の萌江が振り返って返す。
「杏奈ちゃんも分かってきたねえ。他にも理由はあるけど正解。水の事故を減らすために水場は幽霊が集まるって言ってるのと同じレベルだよ」
そこに咲恵が挟まる。
「昔の人の知恵よね。でも現代の人たちには確かに気が付いて欲しいけど……所詮は人間の作った物でしかないのに…………」
そして本殿の前。
三人が足を止めると、すぐに本殿の扉が開く。
隙間から見える細い指がゆっくりと扉をスライドさせていくと、そこに現れたのは咲の姿。
無表情に細めた両眼からでも、相変わらずの隙の無い鋭さ。
灯籠と月灯りのせいか、巫女服がまるで白と黒。
その咲の声が周囲に流れる。
「御待ち致しておりました…………どうぞ、中へ」
すると咲は中の暗闇に姿を消す。
三人が数段の階段を登った直後、杏奈が反対側の扉も大きく開けた。
一気に本殿の中に月灯りが刺し込む。
奥の大きな祭壇の左右には燭台の上の松明。
暗闇に飲まれた高いはずの天井は闇そのもの。
三人は板間に足を進める。
祭壇に向かって咲が腰を降ろすと、その隣にも巫女姿が一人。
その女性は三人に正面を向け、僅かに俯いていた。
思わず咲恵が呟く。
「…………美由紀さん…………?」
すぐに返すのは背中を向けた咲。
「いえ……彼女はすでにイザナギとイザナミの御子…………蛭子様の産まれ代わり…………」
そこに萌江。
「やっぱり。だから〝ヒルコ神社〟か…………でも残念、私たちが探してるのは彼女じゃない」
咲は少し間を空けてから返す。
「……元々は西沙の役割でした…………美由紀様はその依代に過ぎません…………」
「役割? 咲さんが勝手に決めた役割でしょ? いい加減にしてよ…………西沙はそれを望んでいたの⁉︎」
いつの間にか、萌江は声を荒げていた。
「違うんでしょ⁉︎ だからあんなことになったんじゃない‼︎」
──……杏奈に言わせちゃいけない…………
萌江は叫びながらも、そう思っていた。
背後で杏奈が体を震わせているのを感じていた。
杏奈は動き出しそうになる気持ちを懸命に抑えていた。
──……抑えて…………抑えて…………
杏奈はただそう思い続ける。
そして口を開くのは咲恵。
「…………依代…………? 彼女を巻き込むなんて…………」
咲はすぐに応えた。
「美由紀様の御力に御気付きにならなかったのですか? 御本人も御自覚は無かったようですが…………」
「分かってたよ…………」
すぐにそう返した萌江が、声のトーンを落として続ける。
「初めて会った時に分かってた…………西沙が懸命にその子を守ってたこともね…………でも、知らないほうが幸せな人だっている…………西沙はそれを分かってた。無理に気付かせるなんて…………私は他人の人生に影響を及ぼしたいと思って生きてるわけじゃない。咲さんとは違うよ」
「いえ萌江様……人は誰しも他人に影響を及ぼさずに生きることなどは出来ないもの…………貴女様御自身も、我々に影響を及ぼしているではありませんか」
「勝手な人…………関わってくれなんて頼んだ覚えはない」
「貴女様は天照大神様の血を引く唯一の御人…………すでに世界に影響を与えておられる…………」
「いい加減に目を覚ましなさいよ‼︎ ただの神話でしょ⁉︎ どこにそんな神様なんかいるの? 顔も見せにこない神様なんか咲さんに関係ないでしょ⁉︎」
──……分かってる…………言っても無駄…………
萌江にも分かっていた。
信じたものに疑問を持ちたくないだけ。一度疑問を持つと、自分のそれまで寄り添ってきたものが崩壊するのを本能的な部分で知っているから。
自分を否定したくないだけ。
自分を守りたいだけ。
そうやって自分を作り上げてきた人間には、何物も否定することは出来ない。
それが〝一神教〟というものであることを萌江は知っていた。
咲は背中を向けたまま何も応えない。
嫌な時間だった。
ただ、何かが張り詰める。
その時、咲の頭の中に、西沙の顔が浮かんでいた。その西沙の表情が松明の灯りに揺れる。それでもなぜか、気持ちは落ち着いていた。
──……あの時……私は西沙の目を見ていない…………
咲が、その〝何か〟に気が付いた時、静寂を破ったのは杏奈だった。
「聞かせてください…………内閣府が絡んでるのは事実なんですか?」
「内閣府、ですか…………」
咲はそう言うと、軽く腰を浮かせて三人に正面を向け、続けた。
「今はそのようですね…………」
自分に向けられた咲の鋭い目に、杏奈は怯まずに返していく。
「今は? どういうことですか⁉︎ 清国会って────」
「内閣府は新しい組織です。たかだか二〇年ほど前に作られたもの…………もっと昔から我らは日の本の中枢に存在していました。日の本自ら〝大掃除〟を行おうというのです。その為には神が必要です。今の日の本には神がいません。萌江様…………貴女様が神に────」
──……ダメだ……何を言ったって…………
萌江がそう思ったその時、咲の隣から声が上がる。
「…………面白いお話ですね…………」
それは空気を凍らせるかのような、美由紀の声。
美由紀はゆっくりと顔を上げて続けた。
「……私は……何をすれば…………」
それに平然と応えるのは咲。
「美由紀様にも神になって頂きます。かつての日の本には幾人もの神がおりました…………もちろん頂点は萌江様が天照大神様として…………その下には美由紀様が蛭子様として────」
「…………お断りします」
そう言って立ち上がる美由紀に、咲は顔を上げて目を見開いていた。
美由紀が続ける。
「……私には…………すでに咲さんが求めるような力はございません」
「────何を…………」
明らかに狼狽える咲の口からは、それが精一杯。
続く、咲を見降ろした美由紀の声は、とてもこの場には似つかわしくなかった。
「まだ分かりませんか? もう気が付いているかと思ってました…………」
そして、美由紀の目が変わる。
その場の誰もが気が付いた。
それは、西沙の目────。
「……………………西沙…………」
咲が思わず声を漏らした直後、萌江と咲恵は僅かに身構える。
杏奈は動けなかった。
──…………西沙…………さん…………?
杏奈は自分の目に涙が浮かんでいることにも気が付かない。
そして、立ち上がった咲が叫ぶ。
「────我を謀ったか西沙‼︎」
そして美由紀に向けて伸ばした右手には短刀。
その剣先を顔の前に向けられても美由紀は表情を変えない。
むしろ、僅かに微笑んでさえいる。
その目を見ながら、咲の目に涙が浮かび、やがて零れた。
美由紀は右手を上げると、その掌を剣先に当て、そのまま咲に向けて足を進めた。
切先が掌に吸い込まれていく。
やがて突き抜けても、美由紀はそのまま前へ。
驚愕の表情を浮かべる咲に向け、美由紀が囁く。
「〝本気で私を殺せるの…………? 最低だね…………お母さん…………〟」
そして、その姿が消える。
全員が呆然と宙を見続けていた。
咲が膝を落とす。
その体は僅かに震えていた。
その時、外、参道からの声。
「────私の力…………忘れちゃった?」
全員が一斉にその声に振り向いた。
その歩いてくる巫女服は、間違いなく、西沙の姿そのもの。
颯爽と階段から本殿に登ってきた西沙が再び口を開いた。
「〝幻惑〟…………お母さんまで簡単に騙されるなんてね」
その西沙の目は鋭い。
呆然とする三人の後ろで、咲が叫んだ。
「────西沙‼︎」
片膝を立てて短刀を握り返した咲に、西沙は右の掌を開いて向けた。
そして、小さく口を開く。
「私に、勝てるの?」
その西沙の声が低く続く。
「例えお母さんでも許さない…………美由紀を利用しようとした…………」
咲の体は動かなかった。
ただ震えるだけ。
そして声を絞り出す。
「……まさか…………あの時の萌江様と咲恵様の幻は…………」
「私…………二人にあんな力はないよ。まあ、咲恵の〝水の玉〟が役に立ったけどさ」
そして右手を下ろすと、咲の短刀が床で音を立てた。
☆
ドアノブに触れてみると、冷たかった。
こんなに冷たく感じたことが今まであっただろうか。
回してみるが、もちろん鍵がかかったまま。
何度も右に左にと回すが、少しだけで何かに引っかかる。
途端に感情が溢れた。
涙が止まらない。
美由紀はいつの間にか、ドアノブに手をかけたまま膝を落としていた。
剥き出しのコンクリートに大粒の涙が吸い込まれていった。
叫びたくなる衝動を抑え、隣の自分の部屋に駆け込む。
鍵もかけずにリビングへと飛び込んだ。
何度も、数え切れないほど、西沙と過ごしたリビング。
小さ目の座椅子に座る西沙の姿が目に浮かんだ。
これからどうやって生きていけばいいのか分からなかった。
この世の中で唯一自分を理解してくれた。
せめて、最後に何かを話したかった。
分かっていたなら、もっと何かを話せたはず。
押し寄せるのは後悔だけ。
──…………私はいつも…………守られてばかりだった…………
──……どうして? 私なんかを…………
大きな窓から入る光は、いつしか夕陽から月灯りへ。
部屋が暗いままであることも、今の美由紀にとってはどうでもいいこと。
自分の体が、まるで自分のものではないような感覚が意識を包んでいた。
──…………もっと……一緒にいたかった…………
キッチンに歩くと、何の迷いもなく包丁を手にしていた。
何も怖くはない。
そして、美由紀は包丁を首に押し当てた。
手前に引く。
感覚はあった。
しかし痛みはない。
少しだけ、寒くなった。
──…………また…………会えるかな……………………
少しずつ、体が楽になった。
もう、何も感じない。
体が軽くなる。
そして、やっと、西沙の温もりを感じた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十四部「憎悪の饗宴」第5話(完全版)
(第十四部最終話)へつづく 〜




