第十三部「水の中の女神」第2話(完全版)
真っ直ぐな石畳。
その先の本殿。
ゆっくりと強くなる風。
そこに立つ巫女は僅かに俯いたまま。
それでもその表情からは強い目が垣間見え、口角が少しだけ上がり、微笑んでいるようにさえ見えた。
身長は決して高くないが、身じろぎすらしない隙の無さ。
その醸し出すような緊張感が、萌江と咲恵の足を止めさせる。
重い空気が、意味も分からないままに張り詰め、それを風が揺らしていた。
そこに挟まる杏奈の声。
「お久しぶりです。すいません、またお願いしちゃって」
すると、それに応える巫女の声に萌江と咲恵は身を硬くする。
「……構いませんよ…………ずっと……お待ちしておりました…………」
理由の分からない違和感。
その声は、まだだいぶ若い。それでも妖艶な響きを伴っている。
そして、咲恵は感じていた。
──……やっぱり……理由の意味は…………ここだ…………
本殿奥の祭壇の前に案内された三人は、その祭壇を背にする形で用意されていた座布団に、それこそ祭壇に背を向ける形で腰を降ろしていた。
巫女が三人に向かい合うように板間に直接膝を降ろしたことで自然と三人はその形になるが、本来は逆だ。客人が祭壇に背を向けるというのは考えにくい。しかもその巫女はかなりの距離を置いている。
杏奈ですらこの状況には違和感を感じていた。以前、取材の時に杏奈が訪れた時には巫女が祭壇を背に座っていたからだ。
顔を横に振ると、見えるのは険しい顔の萌江と咲恵。もちろん二人も違和感を感じ続けていた。そしてそれは座る位置だけではない。
その違和感は、目の前の若い巫女、そのもの。
相変わらず視線は少し下げたまま、決して三人と目を合わせようとはしない。それでもさすがに所作は見事だ。どこにも無駄はない。そこから〝美しさ〟を感じるか〝畏敬〟を感じるかは人それぞれだろう。少なくとも萌江と咲恵にとっては後者だった。いつもならこういう場で胡座をかくことの多い萌江ですら正座を崩そうとはしない。
「代々この雄滝神社を護って参りました滝川家の宮司、滝川麻人の長女……恵麻と申します」
そう言った恵麻が深々と頭を下げた。
歳の頃は二〇代半ばといった雰囲気だが、その割には大人っぽい。杏奈の話では、取材の対応をしてしてくれた窓口のような人だったのだという。
代表である宮司の麻人と、その妻の陽恵。恵麻の妹の陽麻。現在はその四人で神社を運営していた。とは言っても御陵院神社と同じく〝憑きもの〟や〝祓いごと〟専門の神社。一般的な神社の運営とは大きく異なる。
最初に言葉を返したのは杏奈だった。
「二人は私の知り合いなんですが……女神伝説に興味があるみたいで…………」
続くのは咲恵。
「突然すいません……私は黒井と申します。隣は恵元です。急にお時間を頂きまして…………」
すると、恵麻はすぐに返した。
「とんでもございません……御二人に御越し頂きましたことは喜ばしきこと……こちらは御待ちしておりました身…………なんなりと御聞きください…………」
──……随分と大袈裟な…………
萌江はそう感じていたが、咲恵はそれよりも何か別の緊張感を感じているようにも見えた。
その咲恵は恵麻の声に身を硬くするも、大きく唾を飲み込んでから返した。
「ありがとうございます……早速なんですが、文献等は残っていないと聞きました。伝聞だけと言うことでしたが、こちらの神社で代々伝わっていたものなんですか?」
「……はい…………何か形のある物で残っていれば良かったのですが、あるのは湖のみでございます。まあ、私共も特別広めようとしてきたわけではございませんが、興味を持って頂けるのはありがたきことと…………水月様からのご依頼を受けさせて頂いた次第です」
「そうでしたか…………」
「元々は女神伝説も、戦前までは観光の目玉のようなものだったと伺っております。湖にもそれなりに観光客もいらしていたそうですが…………今はあの有様です。当神社どころか湖も知る者のほうが少ないでしょう」
「でも、こちらはお祓い専門と伺いましたが────」
「いかにも……私共はその憑きものを相手に神社を護ってまいりました。観光地である頃には参拝に訪れる方もそれなりにはいらっしゃったようですが、現在はどなたも近付かれません…………それでも我々は伝説の中の御鈴の怨念を抑え続けて参りました」
「そのための祠ですか?」
「左様です」
「しかし…………」
「…………何も…………感じませんか?」
恵麻の突然のその問いに、咲恵は一瞬戸惑った。
──……何か……気付いてる…………?
恵麻が続ける。
「貴女様が普通の方と違うことは気付いておりました…………御隣の御方も…………」
その恵麻の言葉に、萌江が僅かに口元を浮かせる。
そして口を開いた。
「…………別に大したものじゃないよ。ちょっと人より〝見える〟だけ…………色んなことが…………」
「…………そうですか…………」
静かなその恵麻の返しに、やりとりを黙って聞いていた杏奈も背筋に嫌なものを感じていた。以前の恵麻への取材でも確かに独特の雰囲気は感じていた。しかし今の恵麻から醸し出されるものはそれだけではない。まるで萌江と咲恵に影響されているかのようにさえ見える。さすがにオカルトライターの杏奈でも、どういうことなのか分からないままに戸惑っていた。
──……なんだろう…………胸騒ぎがする…………
そして続く恵麻の声。
「先ほど御話に出た祠はもうご覧になりましたか? 元々、伝説の〝御鈴の怨念〟を鎮める為に作られたものです。あそこならもしかしたら…………何か感ずるものがあるやもしれません……御案内致しましょう」
そして立ち上がった恵麻に続くように、全員が参道へと降りた。
恵麻は先頭に立って歩きながら、説明を続ける。
「元々姫神湖は火山の噴火の影響で出来た湖と伝え聞いております。不思議なものでして…………この国で大きな地震のある時には決まって湖の水が暖かくなります…………もっとも数日前のこともあれば数週間前のこともありまして…………地震がいつ起こるかが分かるわけではありませんが…………」
それは杏奈の記事にも書かれていることだった。
姫神湖の女神伝説の謎の一つ。壮絶で恐ろしい伝説の内容だけでなく、御鈴の呪いが今でも続き、現実とリンクしているミステリーの一端として取り上げられていた。
「僅かながらでも未来を告げてくれるありがたい存在ではありますが…………同時に怒らせてはならない存在でもあると考えております…………その為の祠でもあるのですよ…………」
湖に流れ込む川の河口から少しだけ上流に、大きな滝。
現在はそれほど多くの水が流れ落ちているわけではなかったが、それは充分に雄大という言葉が似合う光景だった。その滝の周囲に、広く雑草を刈り取られた開けた場所。
そこにその祠はあった。
しかしそれが視界に見えた時、そこに人影があることに萌江と咲恵、杏奈は驚いた。
巫女服の後ろ姿。
高い身長に、一箇所だけ軽くまとめた長い黒髪。
見間違えるはずがない。
全員が確信していた。
巫女姿の────咲の背中。
杏奈に伝説の話を持ち込んだことは聞いていたが、まさか咲がそこにいるとは誰も予想してはいない。しかも風光会の一件以来。
その咲に最初に声をかけたのは恵麻。
「これはこれは咲様…………御苦労様でございます…………」
そして恵麻は三人に振り返ると、続ける。
「我々雄滝神社は、元々御陵院神社から分社した所なのです…………咲様にはいつもお世話になっておりますよ」
──……どうしてこのタイミングで…………
萌江がそう思った直後、咲は全員に背中を向けたまま口を開いた。
「……やっとここまで辿り着きましたね…………御待ちしておりました…………」
──…………やっと……?
そう思った萌江の目が自然と鋭くなっていた。無意識に全身が何かに身構えた。
すると恵麻が咲の隣で軽く腰を曲げ、小さく何かの言葉を投げている。
咲とは違うが、独特な威圧感がある。
一般的な神社とは違い、まるで人々の目から隠れるように湖と伝承を護ってきた神社。そこで女神伝説と生き続けてきた。
恵麻自身、巫女として神社に仕える中でその伝説に対して疑問を持ったことはない。
確かに文献は残されていない。それに対しては疑念があった。しかもその理由は代々不明のまま。
そして咲が言葉を続ける。
「……御二人が御知りになりたいのは、女神伝説ですよね? 確かに文献も残されてはいません。我々としても伝聞以上のことは分からないのです…………」
それを三人に体を向けた恵麻が掬い上げた。
「改めて水月様からの御依頼もあって、私共も探してはみたのですが…………」
祠の前に出た恵麻のその言葉に、返したのは萌江だった。
「その伝説のお姫様ってさ…………そもそもホントにここで死んだのかな…………咲恵がその〝過去を見れない〟のが気になるんだよね。夢では見てるのに…………何か変な気がする…………」
そして隣の咲恵は何も言わずに、黙って恵麻の出方を待った。
しかし、そこに応えるのは咲。
その咲は依然背中を向けたまま。
「……夢…………ですか…………黒井さんなら……何か御分かりになるかと思ったんですが…………」
すると、萌江がその言葉に目付きを変えて口を開いた。
「やっぱり何か気になるなあ」
萌江は風光会の一件以来、咲に対しての疑念を払拭出来ずにいた。何か違和感を抱えたまま、どうして咲があれほどまでに関わったのかも分からない。ただ単に萌江と咲恵を守ろうとしたのか、それとも咲恵に用があったのか。咲恵の持つ〝水の玉〟に用があったのか。
そして、その疑念は直接聞くしかないが、同時に話してくれないだろうとも思っていた。
それでも萌江が続ける。
「咲さん…………何か私たちに話があって来たんじゃないの? 私たちほどじゃないけど、ここは咲さんの所からも近くはないよ」
そして、やっと咲が振り返る。
その瞳はそれまでの咲のものではなかった。
いつもの涼しげなものでもなく、時折見せる妖艶なものでもない。
何か、僅かに怯えて見えた。
その咲が口を開く。
「…………私の知っている…………昔話をしましょう…………」
☆
それは咲がまだ高校生の頃。
卒業間近。
神事の手伝いが毎日の日課になっていた。すでに大学への進学を決めてはいたが、大学卒業後には神社を継ぐ決心まで固めていた咲にとっては、修行に専念出来る今の時間は貴重な時でもあった。
咲は三人姉妹の三女。すでに歳の離れた姉二人は他の神社へ嫁に嫁いでいた。どちらかが神社を継ぐ話ももちろん出たが、それを選択しなかった理由は、偏に咲の力の強さ。明らかな才能の強さは姉二人を諦めさせるのには充分だった。
そして咲には、一時的とはいえ家を出る前に確かめたいことがあった。
それは書庫で見つけた文献の一つ。かなり古い物だ。正直神社の修行を続けてきた咲でも読み解くのは難しかった。すでに判別の難しくなっている文字も散見されたほど。
もちろん神社に保管されている文献は一つや二つではない。それは神社の長い歴史を感じられるものでもある。咲も姉たちと同じく、勉強の傍ら多くの文献に目を通してきた。歴代の先祖たちもそうやって修行を繰り返してきた歴史がある。
しかし咲は、なぜか一つの文献に固執した。
惹かれていたと言ってもいい。
──……何か、理由があるはず…………
それだけを信じて咲は文字を読み解き続けた。しかし全体を把握することは難しく、まだ見ぬ歴史の一端に自分の限界を感じるほど。
大学に入るまでに、母にその文献の意味を問いて見たかった。
「……母上…………この文献のことなんですが…………」
ある夜、本殿の祭壇前でそう言って咲は切り出した。
母の美麗のその目の前に文献を出して続ける。
「〝水晶〟のことが書かれていました…………」
「古い文献ですが…………よく見付けましたね…………」
美麗は五〇を超え、その力は他の神社からも一目置かれる存在だった。歴代の御陵院神社の中でも群を抜く能力者と言われていたが、その美麗からしても咲は逸材と言っても差し支えない。それだけに、咲は二人の姉より大事にされてきた。
大学に行きたいという咲を最初は引き留めた過去もある。元々は高校にも行かせずに修行を本格的に始めたい意向もあった。しかし同時に、美麗はそこに〝意味〟を見出そうともしていた。
咲が求めることにも〝理由〟があると考えた。
その美麗が続ける。
「あなたがこれを見付けたということは……それにも何か意味があるのでしょう。水晶の文献ということは……この神社に伝わる話は〝火の玉と水の玉〟のみ…………」
「……はい…………その水晶です…………母上も知っているのですね…………」
夜に大きな祈祷を終えたばかり。
二人の横の祭壇からはまだ松明の燃えていた匂いが漂っていた。微かな煙がどこからかの風に流され、高く煤に染まった天井へと流れていく。
障子を抜けた月灯りが部屋の中を柔く照らし、二人の顔に影を作り出していた。
そんな中、やがて、ゆっくりと美麗が応えていく。
「〝雄滝湖〟ですね…………神の啓示があったことで、御陵院家の御先祖が雄滝湖から二つの水晶を引き上げたようです。しかも〝唯独神社〟の〝金櫻家〟に奉納する為…………しかしその石には強力な力が込められていたといいます。その力を一度はこの神社で祓おうとしたようですが……祓いきれなかったのでしょう…………恐ろしい力だったと聞いております。それでも遷納されました。この話は代々語り継がれているのですよ…………いずれはあなたにも伝える話でしたが…………」
「…………唯独神社…………」
「……私の…………〝妹の依〟が……嫁いだ神社ですよ。まだそこにはあるはず…………もっとも、現在の唯独神社とは場所が違います。いくつかの場所を点々としたようです。しかし金櫻家の血筋は変わりません。やっと見付けたのですよ」
「見付けた? 金櫻家が身を眩ませていたということですか?」
「そうです……しかしその理由までは私でも分かりません」
咲の中には疑問しか湧かない。
身を隠すように各地を転々とした金櫻家と唯独神社。そしてそれを御陵院家は探し続けていた。美麗の話はそういうことだったが、伝承と言いながらも唯独神社は実在する。しかもどうやら御陵院家から一人が嫁に行ったことにも理由がありそうだと咲には思えた。
「その水晶とは……その……唯独神社に実在するのですか?」
すると、美麗は途端に目を細めた。
薄暗い中、瞼の影がその目を隠し、ゆっくりと口が開かれた。
「確かに唯独神社には二つの水晶が存在しました……依からも話を聞きましたから間違いはありません」
──……やはりそのためか…………
反射的にそう思った咲が、僅かに腰を浮かしかけて返していた。
「その水晶とは…………〝何者〟なのですか?」
「……さて…………残念ながら私にも分かりません…………そもそも伝承とは言っても、どこまでが真実に沿った伝承なのかも不明なもの…………雄滝湖が本当に実在する湖なのかも分かりません」
結局、美麗も昔話を語り継いでいるだけ。
過去の理由は分からない。
あくまで伝承として、それからは咲も深くは考えないまま、数年後、大学の卒業と共に神社に戻った。
咲が京子の自決現場に居合わせたのは在学中のことだ。更にその前にすでに唯独神社は土砂災害で無くなっている。水晶の行方など分かるはずもない。
そしていつの間にか、あれほど取り憑かれたように調べた文献のこともすでに過去。
しかしそれから一〇年以上が経った頃、意外な形でそれは再燃する。
しかもそのきっかけは、まだ四歳の西沙。
「どうして?」
その純粋な目から向けられた質問の意味を、咲はすぐには理解出来なかった。
更に西沙の質問が続く。
「……どうして? どうして水晶をカナザクラにわたしたの?」
「西沙…………水晶とは────」
そして頭に浮かぶ文献の文字。
咲はあくまで優しく続けた。
「……誰かに……その話を聞いたのですか?」
「ちがうよ…………知ってるの」
それから何度か、咲は西沙から同じ質問をされるたびに返答に迷った。
どうしてまだ幼い西沙が水晶の話を知っているのか。水晶の伝承の話を受け継いでいるのは、現在は咲だけ。母の美麗も西沙が産まれる前にすでに亡くなっている。
知っているはずがない。
三姉妹の中で西沙が一番勘が鋭いことには気が付いていた。
それでもどうして水晶の話を切り出すのかは謎のまま。元々はただの古い伝承に過ぎない。例えその水晶が実在するとしても、もはや御陵院家とは関わりは無いはず。
──……〝未来に産まれし金櫻の幼な子に〟…………
咲の頭の中に、文献の文字が浮かんだ。
──……金櫻家とは……なんだ…………
そして、大人になってからの西沙に、この記憶はなかった。
何者かに言わされたとでもいうのか、その謎は咲の中で解決することはなかった。
☆
「……何よ…………それ……」
萌江は思わず呟く。
それに対し、咲はあくまで柔らかく応えた。
「唯独神社の金櫻家とは……恵元さんの御産まれになる前に失われた御実家に相違ありません…………そこに水晶を遷納したのは我が御先祖……これは事実です…………」
「じゃあ……咲さんは水晶のことを知ってたの⁉︎」
反射的に声を荒げる萌江。
ほぼ同時に、その手を隣の咲恵が握っていた。
そして咲が応える。
「私が知っているのは出所まで…………あの時、京子さんが持っていたことにも気が付かず…………どうして恵元さんが持っているのかも最初は分かりませんでした」
「知らないって言ったのに…………ホントは火の玉の存在を知ってた…………まさか咲さんほどの人が間違うわけがない…………その文献の水晶だって知ってたんでしょ⁉︎」
声を荒げる萌江に、咲は視線を落として返した。
「…………いかにも……」
「まだ何か隠してるんじゃないの⁉︎ 私は咲さんを信用できない!」
思わず叫んでいた萌江に、咲も僅かに声を高く応える。
「────私にも分からないことはあります……だからこうして…………」
──…………だから……?
言葉を濁した咲は、まるで何かを誤魔化すように話し続けた。
「そもそも〝雄滝湖〟という名前の湖は現存しません…………もしかしたらこの近くにあったものかとも思います。雄滝と同じ水源だった湖が過去にあり、遥か昔に枯れてしまったのでしょう。私はその真実が知りたいだけなのです…………」
その時、萌江の横から声がした。
囁くようにか細い、それは咲恵の声。
「…………雄滝湖って……………………ここ…………」
一瞬、萌江はその言葉の意味が理解出来なかった。
咲恵は呆然とした表情のまま。
そしてその咲恵に、咲と恵麻が目を向ける。
その恵麻の口元が僅かに笑みを伴うと、咲恵の両目が見開かれた。
その咲恵の〝見えている光景〟が、手を繋いだ萌江に流れ込む。
──…………これ…………なに…………?
萌江がそう思った時、続いたのは咲恵の声。
「────お二人は……どこまで知っていました…………?」
しかしその咲恵の言葉には、咲も恵麻も応えない。
構わずに咲恵が続けた。
「伝説など…………所詮は人が作るもの…………」
☆
慶応四年。
後に幕末と呼ばれる時代。
その最後の年。
その年に雄滝神社を継いだのは、まだ若い娘の御世。
一九才だった。
突然に宮司であった父を失い、御世が雄滝神社の総てを担う。一つ歳下の妹がいたが、まだ修行の途中。御世も修行を終えて日が浅かったとはいえ、他に神社を継げる者はいない。
その年の九月、時は明治へと変わる。
やがて時が流れ、明治四年七月。
行政改革の一環として藩から県へ。大きく世の中が動いていた。
時はまだ血生臭い話が聞こえる頃。同時に先の見えない世の中への不安が蔓延していた頃。
新しく作られた〝県〟から行政の使いがやってきた時、季節は秋。
これからどんな世の中がやってくるのかは、誰にも分からない頃でもあり、それは行政の人間たちにとっても同じだった。
渡された名刺を見ても見慣れない肩書き。多くのことに違和感を感じるのは御世だけではなかっただろう。
使いの男は額の汗を手拭いで拭きながら背中を丸めていた。
「今年はまだ暑いですな」
歳の頃は五〇くらいだろうか。あまりスーツを着なれているようには見えない。曲がったネクタイは違和感でしかなかった。
──新しい異国の服は新しい文化そのものですね
そんなことを思いながら、御世は男の向かいで涼しい表情を浮かべながら言葉を返す。
「〝御国〟の方が…………本日はどのような御用向きで……」
「いえいえ私はただの県の観光課でして…………」
「カンコウ、とは────?」
「えーっと、まあ、旅ですね」
「旅? なるほど……旅には城主の許可が必要なもの…………その御方が何用でしょうか?」
「いや……これからは許可は必要ありません。ですので、遠くからも旅の人たちが増えると思われます」
「そうですか…………よくは分かりませんが…………まだまだ都のほうでは嫌な話もあるようですし……大事に至らなければ良いのですが…………」
「──それでですね…………」
男は困った表情を浮かべながらも、真新しい皮の鞄から数枚の書類の束を取り出し、御世の前に出して続ける。
「我が県でも何か観光の目玉になるものが欲しくてですね…………つまり…………遠くからでも来たくなるような…………そんな話題になるものがですね…………えーっと……」
御世は不思議そうに書類を手に取った。
男が続ける。
「こちらには雄滝湖もありますし、その景色は全国的にも決して恥ずかしくはないものです。それで、雄滝湖を守護されているこちらにご相談がございまして…………」
とどのつまり県としては雄滝湖を観光名所にしたいということだった。それによって来年度の春からどのくらい経済が動くかまで資料にはまとめられていたが、もちろん御世には理解が難しい。ただ〝景色〟だけでは難しいであろうことが記されていることは御世にも分かった。
更に男が続ける。
「それでなんですが、何か雄滝湖に…………伝説とかがあると嬉しいのですが……それが話題になってくれればですね……こちらでしたら何かご存知かと…………」
「……伝説……ですか」
応えながら、御世の頭には〝水晶の伝承〟が浮かんでいた。
しかし、それは世に出せるものではない。
決して出してはならない。
しかし、御世は思っていた。
──…………これは…………利用出来るかもしれない…………
「一応……お聞きしたいのですが…………」
そう言った御世が続ける。
「……まだ分かりませんが…………湖の名前は、変えてもよろしいですか?」
「名前、ですか?」
「幸い、雄滝湖はそれほど有名でもございませんし…………」
「えーっと……まあ、そうですが…………名前くらいならなんとか…………」
「分かりました……少々、お時間を頂くことになりますが…………お引き受け致します」
いつの間にか、御世の表情が変わっていた。
男は、その表情に言葉に出来ない悪寒を覚え、早々に立ち去る。
一週間後、御世は〝女神伝説〟を作り上げる。
そして湖の名前は〝雄滝湖〟から〝姫神湖〟へ。もちろん地名等を変える手続きというものは行政的にも簡単なものではない。実際に名前が変わったのは伝説がある程度流布されてからだった。
その作り話のために、雄滝神社では祈祷が行われた。
県に御世の案が引き渡されてからの三日間、御世は寝ずに祈祷を続けた。食事も取らずに祈り続けた。
──……これで…………〝あの人たちの記憶〟を書き換えられる…………
御世には、その〝理由〟が必要だった。
☆
咲恵の話が終り、先に口を開いたのは恵麻だった。
「……つまり…………伝承は……作られたものだったと…………」
そこに萌江が呟く。
「だから見えなかったんだ…………」
咲恵が言葉を繋げた。
「伝説を作り上げる〝きっかけ〟が欲しかっただけ…………そして御世はそれを〝依代〟にして、みんなの意識を祈祷で書き換えた…………〝水晶の出所〟を隠すため…………自分の希望だけでは書き換えられなかった…………理由も無しに祈っても土台が不安定なだけ…………すぐに崩れる可能性が高い…………」
すると恵麻がさらに食い下がる。
「……分かりません…………そこまでのことをする〝理由〟とはなんですか⁉︎」
「それは私にもまだ見えない…………しかし……本当に恵麻さんは何も知らないのですか?」
その咲恵の言葉に、恵麻は顔を伏せた。
そこに挟まるのは咲。
「しかし黒井さん…………あなたがその真実に辿り着いた〝理由〟は……お気付きですか? あなたに夢で嘘の伝説まで見せた理由は…………」
「…………ええ……分かりました……御世は私に気付いて欲しかったはず…………だから私に〝水の玉〟を授けた…………」
そう応える咲恵の横顔に、萌江が顔を向けた。
その表情は、僅かに怯える。
認めたくない現実。
知りたくなかった現実。
しかし、咲恵の能力は知っている。
間違いなく、それは現実。
その咲恵が、ゆっくりと続けた。
「……私は…………御世の血を受け継いでいます…………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十三部「水の中の女神」第3話(完全版)へつづく 〜




