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第十三部「水の中の女神」第1話(完全版)

    いつも真実は箱の中

    だから開けてみたくなる

    しかしその箱を開けるには、いつも覚悟が必要だった



      ☆



 安土桃山あづちももやまの時代。

 後に戦国時代とも呼ばれる頃。

 世の中は戦乱の時。


 深い山の奥。

 その地に大きな湖があった。

 遥か昔、火山の噴火の後に生まれたと言われている。

 周囲には三本の川が流れ込む。

 その中でも一番大きな川の上流には激しく大きな滝。

 その荒々しさからか、その滝は〝雄滝おだき〟と呼ばれた。

 長く、湖を信仰してまもり続ける〝雄滝おだき神社〟の修行場所となっていた。

 しかしそんな神聖な川にも幾度か血が流れ、やがて戦は城まで届き、その城から逃げ延びたのは城主の正室せいしつ御鈴おすずと、配下の武士が数名。

 山の木々の隙間から隙間へ。

 敵勢の影に怯えながら。

 武士たちは御鈴おすずを守り、一人、また一人と命を落としていく。

 湖に辿り着いた時、御鈴おすずは自分が一人だけであることにやっと気が付いた。

 自慢の美しかった着物に、今はその面影すらなく、足はいつからか素足のまま。

 急に身体中に痛みを感じた。

 そして、重い。

 周囲からは草木を激しく掻き分ける音。

 後ろだけではない。左右からも敵勢の叫び声。

 恐怖と虚しさ。

 もはや御鈴おすずに残された選択肢は少ない。

 そして、御鈴おすずはゆっくりと湖の中へと足を進める。

 湖の水は冷たかった。

 どこに逃げるというのだろう。それは御鈴おすずにも分からなかった。湖の中に逃げられる希望があるはずがない。

 しだいに、濡れた着物の重みが体を引き留める。

 頭の中には絶望感と諦めだけ。

 腰まで水を感じた時、背後の男たちの声が近付いていた。

 御鈴おすずは振り返る。

 湖畔で、御鈴おすずに向かって弓を構える数名の武士の姿。

 諦めたはずなのに、まだ恐怖からは逃れられていない。


 すると、それまで冷たかった御鈴おすずの足に、温もりを感じた。

 水が暖かい。

 その暖かさは、まるで御鈴おすずの全身を包むかのよう。

 やがて、水面から湯気ゆげのような煙が立ち昇ったかと思うと、それはまたたく間に炎となって辺りに広がった。

 御鈴おすずだけではない。

 湖畔の武士たちも、湖の周りの森にも、その炎は広がり、やがて総てを焼き尽くした。


 やがて、その湖は〝姫神ひめかみ湖〟と呼ばれ、今日まで〝女神めがみ伝説〟の伝承が続いていく。



      ☆



 いつも汗をかいて目覚めた。

 季節はすでに短い春。

 もうすぐ訪れる夏の気配を感じ始める頃。

 確かに急激に夜の気温も暖かくなってはいたが、咲恵さきえの嫌な目覚めの理由はそれではない。しかも夜明けが早くなってきた季節だというのに、目が覚めるのは決まってまだ薄暗い時間。

 横の萌江もえが体を起こす度に、咲恵さきえはいつも同じ言葉を口にした。

「……ごめん…………」

「いいよ。お水持ってくる」

 いつも萌江もえはそう言ってベッド脇のガウンを羽織はおって台所へと向かう。

 萌江もえが戻ってくるまでの一人の時間が咲恵さきえは嫌いだった。言葉に出来ない寂しさに襲われた。いつも萌江もえはすぐに戻ってくる。咲恵さきえも分かっていた。それなのに、なぜか途端に全身を気持ちの悪い感覚が包み込む。


 ──……もうすぐ……もうすぐだから…………


 そう思いながらも、さっきまで見ていた気持ちの悪い夢が頭の中で再びふくれ上がる。


 ──…………やめて…………


「はい、飲んで」

 そう言った萌江もえがペットボトルのキャップを外しながら咲恵さきえの隣に腰を下ろす。

 手渡されたペットボトルを、咲恵さきえはいつも勢いよく喉の奥に流し込んだ。ガウンを脱ぐ隣の萌江もえ咲恵さきえの体に両手を回しながら肌を合わせると、決まって咲恵さきえの目から涙が零れていく。

 いつも理由は分からない。

 しかし、どうしても、体の奥から感情が溢れる。

 それは自分のものか〝誰か〟のものか。

 自分の気持ちの居場所さえも分からない。

 意識の中ではない。体の中に〝誰か〟がいた。

 御陵院ごりょういん神社から帰って来て一週間ほど、咲恵さきえは店を休んで萌江もえの家に泊まり込んでいた。咲恵さきえ自身が少し休みたいのもあったが、何より萌江もえが喜んだ。それが咲恵さきえには一番嬉しい。こんなに連日一緒にいるなど何年振りだったせいもあるのか、二人はただただ一緒に時間を過ごした。

 あえて萌江もえ御陵院ごりょういん神社でのことを聞き出そうとはしなかった。もっとも、どういうわけかその部分の記憶を咲恵さきえから感じられなかったからというのもあった。記憶を失っている可能性もある。だとしたら無理に掘り出そうとすることで何かを刺激しないとも限らない。

 一緒に猫の世話をし、一緒に畑に水をやり、一緒にご飯を作り、一緒に夜を過ごした。

 最初の夜は普通に朝を迎えた。

 しかし嫌な夢を見始めたのは二日目の夜からだ。

 すでに何日も続いていた。

 そして、体質的に、萌江もえ咲恵さきえの夢の光景を〝見ていた〟。

「……嫌な夢だね…………」

 何日目かの朝、夢のせいか暗い表情の咲恵さきえの隣で、入れたばかりのコーヒーを飲みながら萌江もえが続ける。

「何か理由はあるんだろうね。ただの嫌な夢でそんなに感情をおかされるとも思えないし」

 萌江もえはおざなりになぐさめるようなことはしない。咲恵さきえも体質的に何かを感じていた。今はまだその正体が分からないだけ。だから、真剣に向き合ってくれていることが分かる萌江もえのそんな言葉が嬉しかった。

「なんだか……心配かけちゃって…………」

 つい咲恵さきえはそんな言葉を返す。


 ──……甘えたいのかな…………


 咲恵さきえはそうも思った。一緒にいるようになって、ついつい感覚だけ若い頃に戻ったようになる自分を、咲恵さきえは自分でいさめていた。


 ──……もう若くないんだから…………


 しかし夜になると甘えてしまう自分がいる。

 まるでそれまでの空白の時間を埋めるかのように、咲恵さきえ萌江もえの体だけでなく心までも求めていた。出会ったばかりの頃のように、自分の中に暖かい部分を感じる。

 一連の出来事は何も解決していない。どうして〝水の玉〟が突然現れたのか、それはいまだに分からないままだ。しかしお互いに深く追求しようともしなかった。唯一のなぐさめは、その水晶の存在を萌江もえが受け入れていること。ならば、今はそれでいいと咲恵さきえも思えた。

「心配なんて……今さら気にすること? 私たちの仲でしょ? 咲恵さきえが嫌な夢で苦しんでるのに、私が黙って見てられるわけないじゃない」

 咲恵さきえはその萌江もえの言葉に、柔らかい笑顔を浮かべて寄り添った。体が暖かくなるのはコーヒーのせいだけではないようだ。

 それに応えるように萌江もえが続ける。

「本当にある湖だね…………」

「……そうなの……?」

「多分……名前だけは頭に浮かんでる…………〝姫神ひめかみ湖〟…………」


 暗い湖。

 渦を巻いた炎が周囲を焼き払う。

 何人もの人々が焼かれ、のたうち回る。

 森の木々が、炎を受け入れて炭になっていく。


 それから数時間、いつものように二人で猫とたわむれれていた時、咲恵さきえのスマートフォンが鳴った。

「うん……そうだね…………ごめんね…………こんなに長く……」

 咲恵さきえの電話の相手はしばらく店を任せていたナンバー2の由紀ゆき。店には体調が優れないからということにしていたが、咲恵さきえの裏の仕事を知っている由紀ゆきにだけは「少しトラブルがあって」とだけ伝えていた。萌江もえに任せておけば、と由紀ゆきも思ってはいたが、それでもやはり様子は気になる。

 咲恵さきえはソファーに背中を預けたまま、片手にマグカップを持ったまま電話を続けた。

「……うん…………え? 飲みに? うーん…………」

 すると、すぐ後ろから萌江もえささやくような小さな声。

「いいじゃん……行こうよ」

 すると萌江もえ咲恵さきえの背後から首筋に両腕を回し、あごに指をかけ、その唇をふさぐ。

「……もう……電話中…………あっ、ごめん────うん、その内行くから…………」

 そして慌てたように咲恵さきえは電話を切った。

 軽く溜息をいた咲恵さきえの手から、萌江もえはマグカップを取るとテーブルに置く。そしてソファーの上で咲恵さきえおおかぶさるように再び唇を重ねていた。

 お互いの唇の余韻がまだ残る中、萌江もえがその口を開く。

「久しぶりにいいんじゃない? 今夜行こうよ。気晴らしにさ」

 すると、咲恵さきえ萌江もえの首に両手を回しながら応えていた。

「……うん…………久しぶりに私の部屋も掃除しないと…………」

「掃除だけ?」

「……ん…………酔っ払っちゃうし…………」

「酔ってる時のほうが…………いいくせに…………」

 そう言うと萌江もえは、咲恵さきえの腰に手を回した。



      ☆



 その夜、萌江もえ咲恵さきえが店に到着したのは開店したばかりの一九時過ぎ。

 さすがにまだ他の客はいない。

「たまにはゆっくりしてってくださいね。でもそっちに座ってると落ち着かなかったりして……」

 そう言いながら、由紀ゆきはカウンターの椅子に座る咲恵さきえに笑顔を向けた。

 カウンターの中にはまだ由紀ゆきだけ。他の従業員はまだ出勤していない。バーという業態上、客が入り始めるのは早くても二一時頃。開店準備から咲恵さきえの代わりに出勤している由紀ゆきと違って他の女の子たちが出勤するのは二〇時から二〇時半頃。

 二人の体質のことを知っている由紀ゆきとしては、同時に自分自身が関われることではないことも理解している。他の女の子たちには疲れが溜まっているだけだからと誤魔化ごまかしていた。

「んー……なんか照れくさいね…………」

 咲恵さきえがそう返しながらロックグラスのブランデーに口をつけると、そこにすかさず挟まるのは隣の萌江もえ

「自分の店でしょ。でもまあ、ごめんね由紀ゆきちゃん…………もう少し咲恵さきえ休ませても大丈夫?」

「問題ないですよ。寂しがってる常連さんはいますけど……ママに倒れられても困ります」

 由紀ゆきが即答すると、それに返すのは咲恵さきえ

「私の店なんだけど」

 しかしその表情には笑みが浮かぶ。

 由紀ゆきが続けた。

「でも萌江もえさんの所にいるなら安心ですよ…………やっぱりお二人はこれからも一緒にいてくださいね」

 詳細を聞いていないとは言っても今までは無かったこと。つい由紀ゆきの言葉にも不安が見え隠れしてしまっていた。

 それに応えるのは萌江もえ

「まあ……お互いに…………一緒にいられる相手は他にいないしね」

 すると、それを聞いていた咲恵さきえは胸元に軽く右手を当て、インナーの下の水晶の感覚を確かめた。

 突然手の中に現れた〝水の玉〟。

 その理由はいまだに分からないまま。

 萌江もえが何年も探し続けていた水晶。

「……そうだよね…………萌江もえで良かった…………」

 そう咲恵さきえが小さく呟いた時、店のドアの鈴が鳴る。

 三人がドアに顔を向けるよりも早く店内に大きな声が響いた。

「あっ! あんたたち!」

 そこに返すのは笑顔の萌江もえ

「うるさいオカマだねえ」

 同じテナントビルでゲイバーを経営しているリョウだった。リョウの店は二〇時オープン。よく開店前は仲のいい咲恵さきえの店に顔を出していた。開店以来リョウのボトルが切れたことはない。

 そのリョウは咲恵さきえの隣にまるで飛び込むような勢いで座ると、いつものテンションの高さで続ける。

「どうしたのよ⁉︎ 休みすぎでしょママ。もう一週間以上じゃない⁉︎」

「ごめんね、ちょっとお休みしてて……」

 咲恵さきえは少しバツが悪そうに返すが、リョウの口は止まらない。

「ウチの常連でも重い病気なんじゃないかってうわさしてる人もいるし大丈夫ならいいけど萌江もえとイチャイチャしてるだけじゃダメよあっちもほどほどにしないとお互いにいい歳なんだからそりゃあ萌江もえは性欲だけは強そうだけど私なんか夜にギックリ腰になったこともあるんだから」

「で?」

 挟まったのは咲恵さきえを挟んだ呆れ顔の萌江もえ

 リョウともやはり仲がいい。

「リョウちゃんの今夜のネタは何? 開店前にわざわざ遊びにくるってことは余程のネタ?」

「そうなのよ!」

 リョウはそう叫ぶと、手にしていた雑誌を開き始める。そしてとあるページを二人の前に出して続けた。

杏奈あんなちゃんの新しい記事が面白いのよ」

「へー、まだ雑誌にも書いてたんだ。最近はネットのほうが多いって聞いてたけど……」

「そうなのよ! 久しぶりだったから私も思わず買っちゃったわ。最近は由紀ゆきちゃんしか話し相手がいなかったからいまいち盛り上がらなくて」

 その言葉にカウンターの中の由紀ゆきが苦笑いを浮かべて呟く。

「そりゃ毎回オカルトじゃあ…………」

 それにすかさず返すのは萌江もえ

「そりゃイヤだね」

 負けずに反論するリョウ。

「何よ、可愛い杏奈あんなちゃんの記事よ。いつ有名になるか分からないんだから」

 そして呆れ顔の萌江もえが話を戻す。

「で? 今度はどこの心霊スポット?」

 萌江もえがそう言いながら雑誌に視線を落とすが、しかしそれより早く、咲恵さきえはその誌面に釘付けになっていた。

 その咲恵さきえの声は小さい。

「…………姫神ひめかみ湖…………」

「……姫神ひめかみ?」

 萌江もえも思わず口に出していた。

 続くのはリョウ。

「面白かったわよ。〝女神めがみ伝説〟ってのがあるんですって」

 リョウは由紀ゆきが目の前に出したボトルセットで、手慣れた手つきで水割りを作り始める。

「へー……面白そうじゃん…………」

 そう応える萌江もえは、僅かに体の中の激しい鼓動を感じていた。


 ──…………なんだ……これは…………


 しかし構わずにリョウは話し続ける。

「安っぽい幽霊話よりよっぽど面白いわ。伝説とかいいわよねえ……こう見えても占いとか好きなのよね」

「見るからに好きそうだね」

 萌江もえはそうふざけたように応えながらも、やはり隣の咲恵さきえが気になる。


 ──……ただの偶然なわけがない…………


 萌江もえも気持ちの中は穏やかというわけではなかった。

 咲恵さきえは雑誌に視線を落としたまま。

 その目にしんに見えているものが何なのか、萌江もえでも完全にははかれない。

 そして、時間はすぐに過ぎていく。


 やがてリョウが雑誌を置いて店に戻り、他の店員の女の子たちも出勤し、二一時を回り、常連が来店し始めると少しずつ店内が賑やかになっていった。

 咲恵さきえは久しぶりの常連たちへの挨拶のためにテーブルに足を運ぶが、カウンターの萌江もえの背中が気になる。

 その萌江もえはカウンターでブランデーを飲みながら杏奈あんなの記事に目を通し続けていた。


 ──……どうして杏奈あんなちゃんの記事に…………しかもこのタイミングで…………


 杏奈あんなの記事に書かれていた〝姫神ひめかみ湖の女神めがみ伝説〟は、咲恵さきえの夢そのもの。


 ──……やっぱり理由はある…………


「これから…………咲恵さきえの店に来れない?」

 萌江もえ杏奈あんなに電話をすると、早速さっそくそう切り出していた。

『あれ? 咲恵さきえさんもう復帰したんですか?』

「んー、今日は気晴らしに二人で飲みに来ててさ…………杏奈あんなちゃんのさ……姫神ひめかみ湖の記事読んだんだけど…………」

『読んでくれたんですか? ありがとうございます、珍しく今回は編集長が乗ってきて────』

「ちょっと詳しく聞きたいんだよね…………」


 そして杏奈あんなが店に到着するなり萌江もえが捕まえる。久しぶりの咲恵さきえに挨拶をする暇もない。

 最初に切り出すのは萌江もえ

「現地にも直接取材したんでしょ?」

「はい、記事にも書いたんですけど、あの湖のそばに古い神社があって、そこで色々…………」

 杏奈あんなはいつものロングネック瓶のバドワイザーを一口喉に流し込んで続けた。

「結構協力的でしたよ。でも伝説は総て伝聞でんぶんだけなんですよ。もちろん後から文章にされた物があるので今はそれがベースみたいになってますけど、決して古い文献ぶんけんが残ってるわけじゃなくて……にしてもどうしたんですか? 何かそんなに気になるネタでした?」

 すると、萌江もえは手にしたグラスの中のブランデーを見つめながら目を細める。するとそれは直感のようなものだろうか。その萌江もえの目に杏奈あんなも何かを感じていた。

 萌江もえはゆっくりと返していく。

「うん……ちょっと…………記事にあった〝女神めがみ伝説〟ってさあ…………ここ一週間くらい、咲恵さきえが毎日夢に見てるんだよね…………」

「まさか…………今までメディアで取り上げられたことはないはずですよ。地元でも誰も知りませんでしたし、知ってるのは村役場の人が数人…………神社も存在そのものが知られていないくらいでした。元々御陵院(ごりょういん)神社みたいな〝きもの〟専門だったみたいです。だから普通の人が立ち寄るような神社でもなかったみたいで…………」


 ──……珍しい神社がまた一つ、か…………


杏奈あんなちゃんはどうして知ったの?」

さきさんです。さきさんが教えてくれました。仕事柄さすがに詳しいですからね。今までも何度かネタを提供してくれましたし…………でも他の似たような話と混ざったんじゃないですか? 夢って色々な記憶が混ざるって言うじゃないですか」

「……姫神ひめかみ湖の名前まで〝見えてた〟から間違いないよ…………」

 萌江もえはいつの間にか声のトーンを落としていた。目の前のロックグラスに多めにブランデーを注ぐ。ブランデーの色の透ける氷を眺めながら、萌江もえの中で咲恵さきえの夢の映像が巡り続けた。

 その萌江もえの表情に、杏奈あんなは最近のことを頭に浮かべていた。


 ──……変なことにならなきゃいいけど…………


 どうしても〝風光会ふうこうかい〟の一件が頭を過ぎる。

「まあ……不安になるのも分かりますけど…………最近色々ありましたからね…………」

 杏奈あんなは心無しか、そう小さく返していく。

 そして返さない萌江もえに向けてやわらかく続けていた。

「協力出来ることがあれば…………」

「──その神社の名前ってなんだっけ?」

「〝雄滝おだき神社〟です。そんなに大きな所でもないですけど…………」

「連れてってもらえないかな」

「大丈夫だと思いますけど…………明日アポ取ってみますよ」

 その杏奈あんなの言葉に被せるように、萌江もえのスマートフォンが音を立てる。

 モニターに表示されたのは西沙せいさの名前だった。


 ──……いいタイミング…………やっぱり……なにか…………


「どうした? 新しい仕事?」

 出来るだけ平静を保った萌江もえの耳に、久しぶりの西沙せいさの声。風光会ふうこうかいの一件以来会ってはいない。咲恵さきえから話を聞いただけだ。

『何を調べようとしてるの?』

「いきなり何よ」

『────雄滝おだき神社には行かないで』


 ──……相変わらずかんの鋭いやつだ…………


 そう思いながら、萌江もえも今さらなぜ分かったのか、などと言うことは聞かない。

「どうして? 何かあるの?」

『二人は知らないほうがいい…………〝絶望〟が待ってる…………』

「…………聞くと思って言ってる? 私の人生を決めるのは西沙せいさじゃないよ」

 萌江もえはまるで突き放すようにそれだけ言うと、一方的に通話を切った。

 直後、背後からの咲恵さきえの手が肩に乗る。アルコールの熱だけではない、それは萌江もえだけが感じられる温もり。

「どうしたの? ……イライラしてる…………」

 その咲恵さきえの声のやわらかさに、近くの杏奈あんなは気持ちを揺さぶられる。元々分かってはいたが、咲恵さきえにはやはり〝大人の女性〟を感じていた。自分には無いものを持っている他人に対する憧れ。しかし、今杏奈(あんな)の目の前にいる咲恵さきえから感じられるものはそれだけではない。今までとは明らかに違う〝あやしさ〟。

 その妖艶ようえん咲恵さきえの目が、杏奈あんなに向けられた。

「どうしたの杏奈あんなちゃん……萌江もえに呼ばれた? 私が相手しないから寂しくなったかな?」

 そう言って顔を覗き込む咲恵さきえに、萌江もえは子供のような目を向ける。

「…………早く隣に来てよ……」

 小声になったその萌江もえの声に、杏奈あんなはそれまでに感じたことのないような色気を感じた。


 ──……こっちまでドキドキする…………


 咲恵さきえ萌江もえの隣の椅子に腰を上げると、萌江もえが再び口を開く。

「リョウちゃんの持ってきた雑誌の話。放ってもおけないでしょ」

 それに返す咲恵さきえの声はまだつやを含んだまま。

 口元には微かに笑みをたずさえていた。

「まあね…………まさか杏奈あんなちゃんが繋がってくるとは思わなかったわ……さっきの電話は西沙せいさちゃん?」

「うん…………関わるなってさ」

「……ふーん……総てのことには理由があるんだよね…………ということは、西沙せいさちゃんのその言葉にも意味があるのかな…………」

 そう言った咲恵さきえの頭に、夢の光景が浮かぶ。

 薄暗く、気持ち悪く、重い。

 とても現実とは思えない光景。

 しかし、湖と伝説は実在した。

 どうして自分がそれを夢に見るのか。以前ならば精神的に追い詰められていたかもしれない。しかし今の咲恵さきえにその恐怖はない。


 ──……総てのことには意味がある…………


 そう思えたからだろう。

 そして、それは萌江もえとも共有している。それどころか、咲恵さきえからすると萌江もえは元々そういう考えだった。やっと萌江もえの隣に並べた気がした。いつも自分は萌江もえの後ろにいた。下にいる気持ちだった。それで良かった。しかし、だからこそみぞが生まれたとも思っていた。

 しかし咲恵さきえの考えは変わっていた。

 前か後ろではない。

 上や下でもない。

 同じところにいる。

 そこに幸せを感じられた。

 だからこそ、命をけても、萌江もえを守る────。

「…………行くしかないね。私はそう思う」

 その萌江もえの言葉は、小さくも力強い。

 その横顔に、咲恵さきえあやしげな笑顔を向けて応える。

「どうしよっかなあ…………一緒に行って欲しい?」

 その咲恵さきえを見ながら、杏奈あんなは思っていた。


 ──……女同士の気持ち…………ちょっと分かるかも…………



      ☆



 二日後、早速神社に行くことが許された。

 その日は朝から曇り空。

 杏奈あんなが迎えに行った時から、萌江もえ咲恵さきえの表情は硬い。二日前の妖艶ようえんな雰囲気は感じられない。毎晩夢でうなされるとは聞いていた。受け入れているとは言ってもつらいのだろうと杏奈あんなは思った。

 二人の服装も明るくはない。

 無意識の内に気持ちが反映されるのか、二人とも重い色合いで統一されていた。それでもいつものパンツスタイルの萌江もえとロングスカートの咲恵さきえという組み合わせは変わらない。スタイリッシュなハイカットブーツの萌江もえに低いヒールのローファーの咲恵さきえ


 ──……なんだかんだ言って二人ともオシャレだよなあ…………


 いつも機能重視で服装を選んでしまう杏奈あんなからは別世界の人間に見えた。

 杏奈あんなもすでに三〇目前の年齢。無意識ながらも気持ち的にあせりがあるのか、最近やけに〝女らしら〟ということを考える時がある。

 そんなものは人それぞれと振り切ってみても、自分の中にも女を感じる時はある。しかし今の自分に一般的な〝女性としての魅力〟というものがあるとは思えなかった。いつの間にか萌江もえ咲恵さきえに対してあこがれを抱いていたのは事実だ。西沙せいさとは違う大人の魅力だろうか。ただ、今の自分にとっては遥か遠くの存在でしかない、とも思っていた。

「車でどのくらいかかるの?」

 萌江もえが後部座席から運転席に声をかける。

 杏奈あんなが運転しながら返した。

「結構ありますよ。三時間以上はかかりますね」

「山道ばっかり?」

「いえ、途中で高速挟んで、下の道も入れて三時間です」

「ハードだねえ、じゃあ途中のお勧めのサービスエリアでご飯食べよっか」

「了解です」

「経費は全部出すからさ」

「さらに了解です」

 出発時間は昼過ぎ。高速道路に乗るまででも一時間近く。

 湖に到着した時はすでに一六時。

 風は無かった。

 一応駐車場はあるが、舗装されたスペースが一〇台分程度あるだけで整備された印象はない。あちこちがひび割れ、雑草が顔を出している所まである。周囲は森に囲まれ、寂しさが漂う雰囲気は定着した感まであった。山の中にあるためか、春とは言っても肌寒い。

「神社は湖の湖畔にありますけど、とりあえず湖を先に見れますよ」

 杏奈あんなは細い砂利じゃり道を歩きながら、萌江もえ咲恵さきえを案内していく。その砂利じゃりも綺麗にならされてはいないせいで歩きにくい。上には冬を経由した枯葉も散らばり、砂利じゃりよりも目立つほど。

 僅かに川の音が聞こえ、それはしだいに周囲の空気を揺らす。

 萌江もえ咲恵さきえも独特の〝匂い〟を感じていた。しかし、それは直接嗅覚を刺激する匂いではない。湖の匂い。土の匂い。木々の葉の匂い。しかしそれだけではない。二人が感覚だけで感じる〝何かが燃える匂い〟。

 萌江もえ咲恵さきえの中で、夢が少しずつ形になっていく。

 咲恵さきえはいつものうなされて目覚める時の感覚がよみがえるのを感じていた。それでも懸命にその気持ち悪さを胸の中に飲み込む。

 風のない中で、ダイレクトに周囲のよどんだ空気が二人におおかぶさる。

 そんな二人の前を歩く杏奈あんなに、萌江もえが言葉を投げた。

「記事にはほこらがあるって書いてたけど…………」

 杏奈あんなは軽く振り返りながら応えていく。

「はい、近くに湖に繋がる川があるんですけど…………その川の、湖に流れ込んでる所にあって…………まあ、ほこら自体は小さな物なんですけどね」

 そして、目の前が開けた。

 それは、萌江もえ咲恵さきえの思い描いていた光景。

 広く、大きな湖。

 急に空間が広がる不思議な感覚。

 しかし、そこにある空気は重い。空気が、まるで落ちてくるかのように気持ちをふさいだ。

「……間違いないよ…………」

 足を止めた咲恵さきえが呟く。

 横で同時に足を止めた萌江もえが返した。

「…………ここだね……」

「うん…………私はここを夢で見た…………初めて来た…………初めて見たはずなのに…………でも理由は必ずある…………」


 ──……変な感覚…………

 ──……前だったらこんなに自信を持って言えなかった気がする…………


 そう思った咲恵さきえの手を、萌江もえが握る。

 最近、事あるごとに萌江もえ咲恵さきえと手を繋ぎたがった。咲恵さきえこばむ理由はない。嬉しかった。まるで長い間、手を繋いでいなかったのではないかと思えるほどに、今は手に触れるだけで幸せを感じられた。

 触れるだけでお互いの感情を読み取れる。そういう体質をお互いに恨んでいたことが今は嘘のようだ。

 その萌江もえの手を、咲恵さきえは守りたかった。

「行こう」

 萌江もえ咲恵さきえうながし、二人で湖畔を歩いていく杏奈あんなに着いていった。

 海岸のような砂浜ではない。僅かに濡れた土の湖畔。それほど柔らかくはないのがまだ救いだった。極端に歩きにくいわけではない。風が無いせいで波も僅か。しばらくそこまでは波もきていないらしい。

 そして萌江もえが歩きながら続ける。

「でも……変だね…………」

「…………うん……やっぱりそうだよね…………過去が見えない…………」

 咲恵さきえも返しながらずっと不思議で仕方なかった。この湖に着いてから、何も感じない。あの夢の光景が現実だったとすれば、咲恵さきえの体質的に映像がリンクしてもいいはずだ。咲恵さきえを通して萌江もえも感じられるはず。そして今まさに萌江もえもそこに疑問を持っている。

 いつもとは明らかに違う流れに、咲恵さきえは戸惑っていた。


 ──…………過去が、見えない…………


 しかし不思議と咲恵さきえに不安はない。


 ──……でも大丈夫…………萌江もえがいる…………


 やがて、湖畔に赤い鳥居とりいが現れた。それほど大きい物でもなかったが、そこからの石畳が森の中に繋がっている。そのまっすぐ先には神社の本殿。

 鳥居とりいくぐった。

 風が吹き始める。

 途端に緑と土の匂いが辺りをおおっていく。

 石畳は綺麗だった。駐車場とは違って管理された印象が続く。湖畔の空気がしだいに軽くなるが、それに合わせるかのように風が巻いていく。

 本殿のすぐ手前には五段ほどの階段。そこを登ると残りの参道は決して長くない。周囲の砂利じゃりは綺麗だ。

 空気は重くないのに、決して大きくはない本殿の威圧感だけは強い。

 しだいに強くなる風が、明らかにその威圧感を増長させていた。

 不思議なほどに、その圧迫感は異様だった。もちろん二人の前を行く杏奈あんなが何かを感じている様子はない。

 物理的なものではなかった。

 萌江もえ咲恵さきえだけが感じられるもの。

 それはつまり、あまり二人にとっては好ましいものではない。

 二人の繋いでいた手に、どちらからともなく力がこもる。

 空をおおう雲が厚い。

 夕方とはいえ季節はすでに春。まだ暗くなる時間ではない。

 しかし、目の前の古い本殿は暗かった。少なくとも二人にはそう見えている。

 その本殿の入り口。

 そこには、一人の巫女みこが立っていた。





          「かなざくらの古屋敷」

    〜 第十三部「水の中の女神」第2話(完全版)へつづく 〜

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