第十二部「幻の舟」第2話(完全版)
「案内しますので……運転、お願い出来ますか?」
そう言って咲は杏奈を自らの御陵院神社へと案内した。
病院からは思ったよりも遠かった。
そして想像以上に大きな神社を前に、神道に詳しくない杏奈ですら圧倒されたのは事実。
通された本殿の祭壇前も広い部屋だった。広い板間に厚い座布団。当然のように杏奈は初めての環境に落ち着かない。
やがて現れた咲の姿に再び杏奈は驚くことになる。最初に会った時も凛とした印象があったが、巫女服に身を包んだ咲の姿は神々しくも感じる。
その咲は杏奈の向かいの座布団に正座をすると、深々と頭を下げて口を開いた。
「改めまして…………御陵院神社代表……咲と申します」
「…………あ……どうも……水月です……」
そんな言葉しか返せないまま、杏奈は名刺を差し出す。
それを受け取った咲は名刺を見ながら返した。
顔色は全く変えないまま。
「フリー……ですか…………」
「ええ…………まあ…………」
「なるほど…………」
その声色から、杏奈は咲がマスコミに対してあまりいい印象を抱いていないことは経験から感じ取れた。
──…………説教、とかじゃないよね…………
そんな疑念を抱いた杏奈に、咲は鋭い目を向けて続ける。
「今回の〝騒動〟について取材されているのですね?」
まるで自分の気持ちの奥底まで見透かされるような咲の目に、杏奈は身を硬くした。鋭さだけではない。強さと柔らかさが同義語であると思わせるかのような、そんな不思議な感覚も覚えるほど。
そんな目を床に移した咲は、ゆっくりと返していく。
「…………まったく…………こんなことになるとは私も予想出来ませんでした……情けないお話ですが、最初にそれはお伝えしておきましょう。私は代表の田原さんを教団の設立以前から存じております」
言いながら、少しずつ咲の目が優しいものに変化していくように杏奈は感じていた。
「法人の相談役というのは…………」
そう言う杏奈に目を合わせた咲が続ける。
「私です……私は最初から教団と病院を見てきました。それをお聞きになりたいのでしょう?」
「……どうして……私に…………?」
そう応えた杏奈は、自分の言葉がまるで自分のものではないような不思議な感覚を覚えていた。
その杏奈に、妖艶な目を向けて咲が応える。
「……さあ……どうしてでしょうね…………」
その声に、不意に杏奈は何かが弾けるように返した。
「教えてください…………今のマスコミの報道は……何か変な感じがするんです」
ジャーナリストとしてだけの問い。そう杏奈は思いたかった。しかし何かそれだけの感情とも思えない。
それを聞いた咲の目は変わらなかった。
そして口を開く。
「……田原さんが神道の世界に熱心だったのは、若くしてご両親を失われたことともご関係がお有りなのでしょう。ご本人のお話では養子なので血の繋がりはないそうですが……しかし…………だからこそ、だったのかもしれません。心の拠り所を求められたのか、全国の主要な神社は巡られたようですよ。ここにいらした時に少しお話をしまして、奥様も素晴らしい方ですよ。お嬢様はすでに社会人になられているようです」
その代表の田原には、義理の両親の残してくれた土地と建物があった。一〇年ほど放置されていたその土地は親戚が保有、管理していたが、田原自身が医科大学を卒業して総合病院に勤めるようになったタイミングで本人に引き継がれた。もちろんそれを売ることも出来たが、すでにその頃から田原は漠然とした目標を持っていた。
それはホスピスの開業。
大学の頃に終末期医療に興味を持った田原は、同時にそこに神道の世界を重ねていた。決して一神教ではない。学生時代から癒しのようなものを求めて全国の神社を巡ってきた。そして咲に出会ってから、田原の中のイメージはほとんど出来上がっていたのだろう。
信仰の癒しと終末期医療を重ねたかった。
病院で働きながら、両親の残してくれた土地に教団の施設とそれに連なった小さなホスピス用の建物を建て始める。
「小さな病院でしょ? 私は医学の世界は分かりませんが、一度に入院出来る患者さんを最高一〇人までとしたのには、田原さんなりの〝想い〟もあるみたいですよ…………そこは副院長の奥様も同じようです」
「奥さんもお医者さんなんですか?」
「ええ、働いていた総合病院で御一緒だったそうで……便宜上は最初の教団の信者とも言えるでしょうね。宗教法人として申請を出すにも色々と条件がありまして…………もちろんここの神社は出来上がった状態で私が引き継ぎましたが、新しく設立するとなると以前よりも条件は厳しくなってきました。そこで私が協力した形です。珍しく教義の中心が神道ということもありますし、私も田原さんには協力をするべきだと感じていました」
「職員の皆さんは……」
「教団の職員と言いますか信者さんですが……一〇名程です。ホスピスと兼用の方が数名いらっしゃいますが、ホスピスには信者ではない看護師や介護士の方もいらっしゃいますよ。信者であるかどうかは関係ありません。御布施もありませんが、とどのつまりは団体と病院の代表である田原さんの考えに共感してくれるかどうかだけです」
「御布施が、ない…………?」
「はい。病院の利益だけです。まあ、最初は私がこの神社からとして少しだけお手伝いをさせていただきましたが…………」
杏奈の中で何かが変わっていく。
それでも、もう一人の自分がいた。
──…………これは、本当の話なの…………?
感情論で物事を見てはいけない────報道の世界では当然のことだ。あくまで冷静な目で目の前の現実を追求しなくてはいけない世界。
そして、杏奈が口を開く。
「……代表の…………田原さんにお会いすることは出来ませんか?」
本人に会いたかった。周囲からの印象や評価ではなく、杏奈自ら本人に話を聞きたかった。
真っ直ぐに咲を見つめるそんな杏奈の目線を、咲は外して応える。
「……田原さんは……しばらくご自宅を出ることも出来ていません…………ご存知でしょ? マスコミの方々が常にアパートの前にいるので…………相談役の私も電話でしか連絡を取れていません」
「本当に────」
杏奈はいつの間にか軽く腰を浮かせ、続けていた。
「何か隠されていることはないんですか? 悪魔祓いの噂って────」
「私は病院の経営までは分かりません。私が…………田原さんを信じている以外の事実はありませんよ」
☆
杏奈がまとめた途中経過の報告書は、決して編集長の岡崎を満足させるものではなかった。
マスコミ業界が求めているのは〝真実〟ではない。
世間の話題の中心となる〝ネタ〟。
求めているものがシナリオとしてすでにある。
いざという時の〝逃げ道〟が欲しいだけ。
杏奈は今回の仕事で、改めてそれを感じることになった。
杏奈の報告書にマスコミの求める〝派手〟な演出はない。
雑誌社の古いビルを出ると、そのビルの出入口を出た所に古い自動販売機。いつもは視界の中に入ってもそこで足を止めたことはなかった。しかし杏奈はそこに硬貨を数枚入れ、甘めの缶コーヒーを買い、その隣で栓を開けた。
冷たいコーヒーが体の芯に染みていく。
目の前には片側二車線の道路。午前一一時。時間的には車通りも人通りも少ない時間ではないはずだが、この日はそれほど多くはない。道路沿いに等間隔で常緑樹の細い木が植えられていたが、景観のためのそんな景色も今の杏奈には冷たい印象しか感じられない。薄曇りの白い空がそれを増長させるのか、同時に季節の変わり目を感じさせるだけ。
杏奈は寒い季節の訪れに、自然と気持ちが落ちていく自分を感じていた。
そして缶コーヒーが空になる頃、杏奈は気持ちが抜けていたのか、自分に近付いてくる人影に気が付かなかった。
「────ちょうど良かった」
それが自分に向けられた言葉と気付くのにも時間がかかる。
「雑誌の出版社なんて入ったことないし…………」
──……出版社…………?
声に振り返った杏奈の目に映るのは、身長の低い、若い女性。
首が見える短さのストレートの黒髪のボブカット。派手な柄の黒っぽいインナーにショート丈の赤いジャケット。やはりショート丈の黒いスキニーデニムに白い厚底サンダル。肩から下げているのはピンクの小さなショルダーバッグ。
──…………派手…………
しかし直線に切り揃えられた前髪の下の鋭い目線には、なぜか見覚えがあった。
その若い女性は口角を上げて口を開く。
「水月さんでしょ? 協力してあげる」
「…………は?」
「まあ、いきなりで驚くのも無理はないけど…………」
女性は自動販売機の前────杏奈のすぐ隣まで近付くと、胸ポケットから派手な柄の小銭入れを取り出し、硬貨を数枚入れ、ミネラルウォーターのペットボトルを下から取り出した。
「下から出てくるってどう思う? 女性向けじゃないよねえ…………ミニスカートじゃなくても下着のラインとか考えたらしゃがみたくないしさ」
「…………まあ……」
──……考えたこともないけど…………
「古い自販機だから仕方ないか。新しい自販機だと手元に出てくるのもあるんだよね。デザインしたのって女性なのかなあ」
「……さあ…………」
──……何なの? …………だれ?
女性はペットボトルの水を喉に流し込むと、さらに続ける。
「別にお母さんから頼まれたわけじゃないよ。私が自分で〝未来〟を見ただけ。お母さんに連絡したら納得してたけどさ。だから名前も分かったの」
──…………お母さん?
「昨日、お母さんに会ったでしょ? 娘の西沙です。よろしく」
☆
吉原美優が兄の優作を亡くしたのは三歳の時だった。
優作────五歳。
先天性の血友病の症状が分かったのは二歳の時。それからはほとんど病院のベッドの上での生活。体内の出血に幼い体が耐えられないままに亡くなる。
一般的な子供としての生活はもちろんなかった。
二歳年下の美優にとっては、残念ながら兄の記憶はほとんど無い。朧げなものだけ。
小学校に入る頃に両親の憲一と優子から説明を受け、やっと仏壇の写真の意味を知った。
「あなたには、二つ年上のお兄さんがいたのよ」
母の優子は、もう理解出来る年齢だろうからと、美優に優作のことを話し始めた。
「お仏壇に男の子の写真があるでしょ? まだ五歳だったのに…………病気で亡くなったの…………あなたが三歳の時…………二歳の頃からずっと病院だった…………」
遠くを見るようにして話し続ける母の顔を、まだ幼い美優は見つめ続けるだけ。
「……外で遊ばせてあげることも出来なくてね…………あなたが元気に育ってくれて……それだけでもお母さんは嬉しいの…………」
まだこの時の母の感情を理解出来る程、美優は精神的に大人ではなかった。
死因となった血友病のことを理解出来たのは高校を卒業して社会人になった頃。父方の親族に過去に血友病で亡くなった者が数人いることを知る。
「……お前もいつかは誰かと結婚して子供を産むだろう…………」
いつもの夕食の席で、父の憲一は優子と目配せをしてから話し始めた。
「お前のお兄さんのことだ…………血友病だったって話は前にしたと思うが……あれは遺伝性がある病気なんだ。とは言っても滅多に出るものではないらしい。実はお父さんの家系に何人かいてな…………お父さんは大丈夫だったし、お前も問題ない…………でも、お前の未来の子供に無いとは言えない。脅かすわけじゃないけど…………記憶のどこかには覚えておいてくれ…………」
父のその時の表情を、その先も美優は忘れたことはない。
もちろん父に責任が無いことは分かっている。例えそこに責任を押し付けたとしても、むしろ自分の息子をその病気で亡くしている時点で充分だと美優には思えた。
社会人になってすぐ、両親を安心させたい感情もあって美優は病院で検査を受けた。結果、美優にその兆候は見られなかったが、血友病には後天性のものもある。社会人になってこれから家庭を持つに当たって、一応、覚悟だけはした。
地元のスーパーマーケットを数店舗経営する会社の事務員として働いていた美優は、二一歳の時に結婚して専業主婦となった。夫は同じ会社で働いていた男性。兄と同じ二歳年上。無意識の内に記憶の中で作り上げていた兄の面影を重ねていたのかもしれない。
美優に他に兄妹がいないことから婿養子になることも夫から提案されたが、夫も一人息子。娘への負い目もあったのか、憲一と優子は美優が嫁に行くことに反対はしなかった。
そして夫の実家は何代も前からのキリスト教徒。強制されたわけではなかったが、美優は迷わず改宗を決める。両親も反対はしなかった。決して怪しげな新興宗教でもない。元々多くの日本人と同じように、それほど深く宗教というものを考えたことがない。
子供が産まれたのは二三歳の時。男の子だった。
そしてすぐに、血友病が発覚する。先天性のものだった。
そのまま二歳の誕生日の直前に亡くなる。
悲しむ間も無いままに、夫の両親から責められる毎日が始まった。
「遺伝の可能性があるのを隠していたのね…………葬儀の時にご両親から頭を下げられたわ」
義理の母からのその言葉は、美優に絶望感を与えるには充分なものだった。
意図して隠していたわけではなかったが、美優は専門的な知識まで持ち合わせていたわけではない。自分にその兆候が見られない中で、自分の子供に先天性のものが現れる可能性はゼロに近いと思い込んでいた。ゼロではないというだけだと思っていた。
そして、最初は美優のことを庇ってくれていた夫にも責められ始める。もしかしたら、この時点で美優はしだいに精神的におかしくなっていたのかもしれない。この頃の記憶がほとんどないくらいだ。
夫だって精神的にはキツかったはずだ。美優はそう思いたかった。そんな状態の生活に疲れた結果だったのだろう。子供を亡くして悲しんでいたのは美優だけではない。
しかしその時の美優に、そう考えられる精神的な余裕はない。
美優が離婚をして実家に戻ったのは二六歳の時。
そして美優は、しばらく実家に籠り続けた。
両親は美優を優しく受け入れる。その優しさだけは、美優は理解することが出来た。
それでもやはり、すでに美優の中で何かが変わっていた。両親から見ても、嫁に行く前とはまるで別人のようなその印象に悲しさが込み上げる日々。
両親は娘に対して負い目を感じ、娘は両親に頭を下げ続けた。
いつの頃からだろう。
家の中には暗さしかなかった。
その暗さが呼んだのか、美優はしだいに、落ちていく。
☆
杏奈と西沙は出版社の近くのファミレスに場所を移動した。
確かにちょうどお昼過ぎ。店内は平日とはいえ、ほとんどの席が埋まっていた。
そして杏奈は、西沙の注文した料理の量に驚く。
西沙は身長が低いだけでなく華奢な体つき。とても大食いには見えない。二人分とはいえ、ピザを二つ、サラダは大盛り、パスタは三種類。ドリンクバーの影が霞むほど。
「こんなに食べられるんですか⁉︎」
すでに食べ始めていた西沙に杏奈が声を掛けるが、西沙はすぐに返した。
「わざわざこんな遠くまで来たんだからいいじゃん。旅行気分でさ」
「ファミレスですけど…………」
「まだ一九だから未成年だし、おしゃれなお店って落ち着かないんだよね」
「未成年⁉︎」
「仕事はちゃんとしてるよ」
西沙はおしぼりで指の脂を拭き取ると、ポケットから名刺を取り出し、それを杏奈に手渡した。
杏奈はそれを見ながら返す。
「心霊相談所⁉︎ でも…………御陵院さんの娘なら…………神社じゃないんですか?」
「姉二人は継ぐみたいだよ。どっちかは嫁に行くかもしれないけど。私は居場所無いし」
神社は世襲制の世界。そのくらいは杏奈も知っていた。アルバイトとは違う。外の人間が就職出来るものでもない。
「まあ、色々とあってさ…………養子じゃないけど身元引受人が別にいるし……それより、あの病院の一件でしょ? お母さんが絡んでることは私も知ってるし、色々と協力出来ると思うよ」
「協力って言っても…………」
「お母さんの血を引いた三姉妹の中で一番の能力者は私…………それでも心霊相談なんてなかなか仕事が無くてさ…………あなたもフリーになったばかりなんでしょ? 一緒に顔売るチャンスじゃん」
──……フリーになったばかりなんて昨日は…………
「なんで知ってるか知りたい?」
──…………あれ?
「知ってるんじゃなくて────分かるの……空腹じゃ力弱まるんだよねえ。大体はあなたの過去も分かったけど、説明する必要はないよね。とりあえず、その隣のカメラバッグは大事にしなさい。大事な物なんでしょ?」
──…………何者…………
「問題の中心に入り込みたいんでしょ? 真実を知りたかったら協力してあげる。私も大体の話は掴んでるよ。そしてテレビは教団を悪者にしたがってる…………何か変…………」
西沙はピンクのバッグから取り出したポケットタイプのウェットティッシュで口を吹いた。真っ赤な口紅があまり落ちていないことから、安物でないことは杏奈でも分かった。日頃杏奈が持ち歩いているような安い口紅とは違うようだ。もっとも杏奈はその安物ですら着けることは少ない。
その西沙が、目付きを変えて続けた。
「確信部分は代表を突いても出てこないよ。別の人たち。お金はいらない……私は顔を売れたらそれでいいし…………それとも怪しい霊能力者は信用出来ない?」
西沙はそう言ってわずかに頭を傾ける。
幼くも、それでいて総てを見通す目。
──……昨日、見た目だ…………
そう思った杏奈は辿々しく返すだけ。
「そういうわけじゃ……ないですけど…………」
「……ま、これから色々と仲良くすることになるみたいだしさ」
そう応えると、西沙は左手でピザを持ち上げ、右手で、運ばれてきたばかりのパフェのメロンを摘み上げていた。
☆
雑誌社のある場所まで、西沙は電車とバスを乗り継いで片道二時間掛けて杏奈を訪ねて来たという。乗り継ぎの時間を考えると妥当な時間だろう。車なら長くても一時間というところだろうか。
ファミレスを出るのが遅くなったこともあり、すでに陽の傾きを感じ始める時間。
西沙は杏奈を自分の事務所に案内した。街の繁華街の外れ。そしてその更に郊外には昨日の御陵院神社がある。
古い二階建てのテナントビルの二階。一階のコンビニで食べ物と飲み物を買って事務所に入ると、西沙は電気を点けて口を開く。
「シャワーあるけど使う?」
言いながらコンビニのレジ袋をテーブルに置き、派手なカバーのソファーに体を沈めた。
「いつもなら事務の子がいるんだけど……今日はもう退社時間過ぎちゃったしね。まあ座ってよ。運転疲れたでしょ」
その感謝の気持ちの表れか、ファミレスは杏奈が支払って領収書をもらったが、下の階のコンビニは西沙が支払っていた。
杏奈は装飾の激しい丸いカフェテーブルを挟んで西沙の向かいのソファーに腰を下ろすと、そこで初めて体が疲れている自分に気が付いた。
その杏奈の耳に西沙の声が届く。
「張り込みなんて意味ないよ」
続く西沙の言葉は柔らかい。
「今日からインターネットカフェなんかやめてここに泊まりなよ」
「いやあ……でもそこまで…………」
──……なんで知ってるかは聞かないでおこう…………
──…………ここじゃそもそも遠いし…………
「あなたは私を売り込める人…………だから声かけたんだよ。そのくらいさせてよ」
──……よく分からないけど…………
「ちなみに私は隣のアパートに暮らしてる。まあここはシャワーもあるし……たまには私も泊まるけど…………アパートのほうがいい?」
「え⁉︎ いや……それは…………」
「変な趣味はないけど」
「────そういうことじゃありません」
「だよねえ。からかっただけ…………とりあえず食べながら話そっか」
西沙はコンビニのレジ袋の中身をテーブルに広げる。お惣菜のパックを給湯室の電子レンジまで運びながら話を続けた。
「二人いるよ」
「二人……?」
「中心になる人物が二人ってこと。例の〝悪魔祓い〟の犠牲者って言われてる人の孫娘と…………もう一人は元職員…………介護士っていうの? そういう人」
「……どうして分かるんですか?」
杏奈がそう聞き返すと、西沙は温めたパックの両端を両手の指で摘んだまま小走りにテーブルまで戻りつつ応える。
「怪しげな呪文でも唱えて〝見る〟と思った? あんなことやってるのは嘘つきな奴らだけ」
「…………そう……なんですか?」
正直、杏奈はそういったことに詳しいわけではない。オカルトライターでもなければ、今までの人生の中で心霊的な世界に触れたこともない。直接神社の巫女と話をしたのですら昨日の咲が初めてだ。
「こっちが意識して〝見ようとすれば見れる〟よ。私の場合は空腹の時は見にくくなるだけ。人によって違うみたいだけど。お腹空くとイライラするし、集中出来ないでしょ」
そう言いながら西沙は温めたばかりのチャーハンを口に運ぶ。
──……さっき食べたばっかりなのに…………
杏奈も話を聞きながら温めてもらった唐揚げを食べ始めると、西沙が続けた。
「餃子も食べてよ。このコンビニの美味しいよ。デザートもあるし」
「でも……元職員なんて何人もいますよ」
その杏奈の言葉に、西沙はテーブルの端にあるメモ帳に手を伸ばしてサラサラと何かを書き始め、一枚めくって杏奈に手渡しながら口を開く。
「この二人」
〝浅間美津子〟
〝吉原美優〟
「浅間って人が元職員。いわゆる〝悪魔祓い〟をしたのはその二人…………法人の代表は関係ないね。でもマスコミは宗教法人っていうか……いわゆる新興宗教団体が怪しげな悪魔祓いをしていたってことにしたいんでしょ?」
その通りだと杏奈も思った。
マスコミの求めている〝ゴシップ〟の中心はそこにある。
西沙が続けた。
「でもそれが分かったってさ、残念なことに裏が取れなきゃどうしようもないよ。だからここからはあなたの仕事…………その二人がどういうわけか病院の中で犠牲者と言われてる患者に〝悪魔祓い〟を行った…………その光景が見えてもその理由までは分からない。まあ私も、こんなことで自分の母親まで悪者にされたくないしね…………で? 話に乗る?」
杏奈は考えていた。
西沙の言っていることが事実かどうかは、動いてみなければ分からない。
しかしそれでも、杏奈は気持ちを決める。
──……求めてられているのは選択じゃない…………行動だ…………
☆
吉原藤一郎の家族が正式に病院を告訴したことで、警察が動いた。
朝。
西沙が事務所の扉をいつもより早目に開けると、すぐに聞こえてきたのは杏奈の声。
そして入ってすぐの事務机に座り、眉間に皺を寄せてパソコンのモニターを見つめるのは事務員の美由紀。
その美由紀が朝から西沙を睨みつける。
西沙が僅かに作った笑顔を浮かべると、先に口を開いたのは美由紀だった。
「誰なの? 人を泊めるなら昨日の内に連絡くらいしてよ。私が来た時にはもう電話してるし…………事態が全く飲み込めないんだけど」
そう言って美由紀が杏奈に顔を向けると、その長いストレートの明るい髪が緩く揺れる。
杏奈はソファーに座ってスマートフォンを片手に話し続けていた。そのソファーの横には小振りな液晶テレビ。映し出されているのはホスピスが正式に告訴されたニュース。誰かと電話で話を続ける杏奈の表情は硬かった。
「……お願い…………難しいことは分かってる…………でも裏が欲しいの…………そっちの〝対象〟を教えて…………もう動いてたんでしょ?」
西沙に視線を戻した美由紀が続けた。
「あの事件絡み? どうしたの? あんな分かりやすいくらいのマスコミの人間を連れ込むなんて…………」
確かに美由紀の言うことももっともで、マスコミ関係の典型的な動きやすい服装に無駄に大きな鞄。決して若い女性の好むスタイルではない。歩くことの多い外向きのマスコミ関係者であることを表すような歩きやすいスニーカー。
「連れ込むだなんて…………」
微妙な笑顔を浮かべながら西沙が続ける。
「そういう趣味はないんだけどね」
「あっても困るよ。私も無いし。〝例の事件〟?」
「まあね……お母さんの絡みもあるし…………知らないフリは出来ないからさ…………」
「でも、どうしてあの人?」
「〝見えた〟から」
「ああ、そういうこと…………」
西沙が杏奈を選んだ理由は、決して杏奈が母親と接触したからというだけではない。
それは言葉で説明出来ることではなかった。
そう感じたから────しかもそれは、毎日のように一緒にいる美由紀にとっては初めてのことではない。美由紀に西沙のような能力があったわけではないが、高校からの西沙を見ている。西沙がいわゆる普通の人と違うことで人生を翻弄された姿も見てきていた。
だったら西沙を信じるしかない────それが美由紀の考え方だった。
やがて杏奈がメモ用紙にボールペンを走らせながら電話を続ける。
「……やっぱり……この二人で間違いないのね…………分かった。こっちも何か掴んだら連絡するから」
杏奈は電話を切ると、すぐに顔を上げた。
「朝から、ごめんなさい…………」
そう言う杏奈に近付きながら、西沙が向かいのソファーに腰を降ろす。
「いいよ……警察に知り合いいるの? やっぱりもう動いてた?」
「はい…………警察がチェックしてるのも……やっぱり同じ二人でした…………」
杏奈はメモ用紙を西沙に見せながら続ける。
そこには、昨夜の西沙のメモと同じ〝浅間美津子〟と〝吉原美優〟の名前。
「確証の無い部分が多くて動きづらいみたいです…………それにマスコミが言ってる死亡率の高さも嘘みたいで……」
「そりゃそうだよねえ……そもそもがホスピスだし。体調が良くなって退院する患者の率は通常の病院よりはるかに低いはず…………ほとんど無いくらいにね。それにあの二人も犯罪を犯したわけじゃないから警察も切り口を作りにくいんだろうね」
──……もう何か……確証を持ってる…………?
反射的にそう思った杏奈を他所に、西沙が続けた。
「それに吉原美優には会えそうにないよ。告訴した側の家族だし、どうせマスコミのせいで家からは出られないだろうし…………」
「じゃあ……もう一人の…………」
「浅間美津子…………吉原藤一郎が亡くなった直後に退職してるはずだよ。職員のリストってマスコミは掴んでないの?」
「掴んでます────」
杏奈は再びスマートフォンを手に取る。
西沙がどうして美津子の退職を知っているのかは、聞くまでもないと思った。
──……考えなくていい…………動け…………
☆
浅間美津子のアパートは街の郊外。
周囲には田畑も多い。
病院からは少し距離があった。
民家やアパートが並ぶ住宅街。たまに車や人影を見かける程度。
その中でも、雨樋が所々外れかけているような、そんな古いアパート。壁の色も変わってしまったのだろう。暗く燻んだ印象が二階建ての建物全体から漂う。
「部屋は?」
アパートの二階を見上げながら西沙がそう聞くと、隣の杏奈も同じく二階を見上げていた。
そして応える。
「そこの階段を登って……一番奥の部屋です」
言いながら足が動いていた。
先頭に立って階段を登り始める。
「────情報ではここに引っ越したのは一年くらい前……何も変わってなければ独身のはずです…………」
完全に錆びついた階段は、杏奈のスニーカーでも大きく空気を揺らした。それ自体も不安定にグラつく。そのまま繋がった二階の手摺りも、すでに元の色すら分からない。おそらく今は触る人もいないのだろう。微かに積もった塵がそれを物語っていた。二階の廊下にもそれは目立つ。その塵を見る限り、周囲に足跡は多くない。一階、二階共に三部屋ずつ。満室ではなさそうだ。二階で玄関の前に足跡があるのは、一番奥の美津子の部屋だけ。
表面が何箇所もヒビ割れ、角から錆びついたドア。
呼び鈴は無かった。
杏奈は迷わずドアをノックする。
玄関の郵便受けにはチラシが詰め込まれていた。
──……いるのかな…………
ドアの奥からは何も聞こえない。
独特の嫌な時間が過ぎていく。
途方もない長い時間に感じられた。
やがてドアの向こうからの小さな声。
「…………はい…………なんでしょうか…………」
目を伏せたままの、やつれた顔がドアの隙間から覗く。
強い影が、その顔の大半を隠す。
杏奈は、あまり意識せずに口を開いていた。
「……浅間……美津子さんですね…………」
ドアの奥の影────美津子はさらに深く目を伏せる。
その表情に、杏奈は慎重に言葉を選んだ。
「……病院でのこと……お話を、伺えませんか? ご迷惑はお掛けしません…………」
「────…………すいません……………………」
小さく低い声と共にドアが閉まり始め、錆の匂いがした時、そのドアは隙間に差し込まれた杏奈のスニーカーに遮られる。
──……今を逃したらもう助けられない…………
──……? ……助けられない……?
美津子がドアノブを握る手に力を入れた直後、杏奈が続けていた。
「────本当のことを知りたいんです」
それに続くのは、杏奈の背後の西沙。
「あなたは何も悪くない!」
杏奈は驚きのあまり、咄嗟に振り返っていた。
そこには、予想だにしなかった、両目を潤ませた西沙。
「あなたには何の罪もないの! あなたを守らせて! 美優さんのことも…………」
他人の過去、感情が見える。
それが西沙の能力であることは確かに杏奈も聞いてはいた。そして美津子と美優の存在自体を最初に教えてくれたのも西沙。
しかし、それは杏奈にとっては唐突過ぎた。
──…………西沙さん……?
その西沙は、突如として我に返ったような表情を浮かべると、その頬を涙が一筋零れていく。
西沙にも理解が追い付いていなかった。自ら発しようとした言葉ではない。まるで誰かに言わされたように感じる。しかし感情は昂っていた。
──……守らなければ…………
そんな感情だけが西沙を包み込む。
そして、ドアが開いた。
☆
その日の夜。
杏奈と西沙は御陵院神社にいた。
暗い本殿の中を照らすのは、祭壇前の松明の灯りだけ。それが周囲の濃い影を揺らし続けていた。
西沙の実家でもあるはずだが、祭壇の前で西沙が落ち着かない姿なのが杏奈には気になった。
座布団で正座をする杏奈とは対照的に、西沙はあぐらをかいて片膝の上で肘を立て、その手に顎を乗せている。
涼しい夜になった。日に日にそれを感じることが増える頃。そしてそんな感情は、杏奈の中に生まれた寂しさを増長するには充分だった。
二人の間のそんな空気に飛び込んでくる声。
「安心しなさい西沙。姉たちはいませんよ」
二人の前に姿を表した咲は、目の前の西沙の姿を見るなり、そう言って祭壇に背を向けて腰を降ろした。
「──別に…………」
小さく呟いた西沙に、咲はすぐに返す。
「二人は今夜は出張です。少々面倒な依頼でしたので、まだしばらくは帰らないでしょう」
御陵院神社は〝憑きもの〟や〝祓いごと〟専門の神社。すでに正式な巫女としての立場から、咲抜きで西沙の姉たちが仕事に赴くことも多くなっていた。
そして咲は、一度杏奈に向けた視線を西沙に戻し、続けた。
「どうしてあなたが関わっているのですか? 電話の時に少々話はしましたが…………あなたにどうこうして欲しいと伝えたつもりはありませんよ」
「私も頼まれたからやってるわけじゃないよ。〝見えちゃった〟ものは仕方ないでしょ」
強気に応える西沙の口調に、杏奈は二人の関係性が少しだけ見えた気がした。
──…………色々ありそうだなあ…………
それでも、西沙は何も言われずとも自ら崩していた足を正座の形へ。
──……犬猿ってわけでもなさそう……
そう思った杏奈に、目の前の咲の声が飛ぶ。
「では……水月さん────」
咲は気持ちを切り替えるように杏奈に視線を戻して続けていた。
「今回の御用向きは…………」
そして、杏奈は語り始める。
「はい……病院の元職員の方と話してきました…………あの一件のすぐ後に退職された方です。そして、今回の問題の中心にいました」
咲は一度も口を開かないまま、杏奈の話を聞き続けていた。
決して短い話ではない。
しかも、西沙も口を挟まない。
俯いたまま、目の前の板間を見つめ続ける。
杏奈の話が終わると、やっと咲は視線を杏奈から外した。
そして小さく息を吐く。
杏奈は話し疲れた様子もないまま、そんな咲の姿を目で追っていた。
そして、次に口を開いたのはその咲だった。
「面白い話……と言ったら不謹慎でしょうが、珍しい方ですね…………マスコミ的にはこんな結論は求めていないはずでしょうに…………」
「娘さんのお陰です」
杏奈は咲の寂しげにも見える目を見ながら応える。
それに咲はすぐに返した。
「しかしもう一人……裏を取らなければ誰も信用してはくれないでしょう…………どうするおつもりですか? なにせ病院を訴えている側…………代表の田原さんが動いたとて無駄なこと…………」
すると、杏奈がわずかに身を乗り出して応える。
「……お願い出来ませんか?」
──……私の役目は…………
驚き、反射的に咲が返していた。
「……私ですか…………」
「娘さんでは目立ち過ぎます」
即答する杏奈に、すかさず西沙。
「失礼ね」
しかし杏奈は言葉を続ける。
「神社という後ろ盾があれば接触はしやすいはずです。マスコミの報道でもこちらの神社にバックアップされてる事実はまだ出ていません。何か適当な理由をつけて────」
──……ベストじゃない……じゃないけど…………
そう思う杏奈に咲はすぐに応えた。
「難しいでしょうね。それ相当の理由がなければ…………私までマスコミに追われることになり兼ねません……そっちは娘にお願いしますよ」
「でも目の前に本当のことがあるのに────」
「どうにかして…………真実を伝えて下さいませんか…………私は田原さんのほうが心配です…………」
すると、床に置いてあったスマートフォンが音を立てる。
咲の物だ。
西沙が顔を上げる。
その西沙は咲が手を伸ばすより早く口を開いた。
「────来た────」
西沙には何かが見えていた。
その目が大きく開かれ、震える。
モニターを見た咲が目を開くと、杏奈の中で何かが疼く。
それは、嫌な感覚だった。
「失礼」
立ち上がった咲は、祭壇前から続く広い廊下へと足を滑らせる。ドアは無い。微かに聞こえる咲の声に、杏奈と西沙は無意識の内に耳を側立てていた。
二人の元に小さく届く咲の声は、西沙の予想通り、動揺を隠せてはいない。
「…………いつ…………そうですか…………分かりました…………すぐに…………」
やがて、その咲が西沙と杏奈の元に戻り、二人は咲の言葉を待った。
空気が澱む。
嫌な時間。
そして、ゆっくりと口を開いた咲の表情が曇る。
「つい先ほど…………代表の田原さんが亡くなりました…………」
電話と同時に予想出来ていた西沙。
嫌な感覚を感じながらも、何も見えていなかった杏奈。
二人は共に、口を開かなかった。
咲が続ける。
「…………ご自宅で…………自ら命を絶ったところを…………奥様が見付けられたとのことです…………」
「…………どうするの?」
すぐ、そう小さく返したのは西沙。
そして続ける。
「病院に運ばれたんでしょ? 奥さんもそこにいるなら…………」
そこに挟まったのは咲から視線を外した杏奈の声。
「────どうせ…………マスコミが病院を囲ってる…………」
「……遺書があったということです…………」
そう返す咲が、ゆっくりと続けた。
「水月さん…………病院までお願い出来ますか? 私と一緒に……あなたに真実を見て欲しい…………」
それだけ言うと、咲は立ち上がった。
巫女服の衣擦れの音が、空気を大きく揺らす。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十二部「幻の舟」第3話(完全版)
(第十二部最終話)へつづく 〜




