第十二部「幻の舟」第1話(完全版)
何が起きていたのか
真実は誰にも分からなかった
目の前に見えているものが
本当のことか
間違ったことなのか
☆
六畳一間に小さなキッチンとわずかながらの押し入れ。
お風呂とトイレが別なことと、畳ではなくフローリングであることが気に入った所だった。
もちろん安いだけに古いアパート。
フリーのジャーナリストというよりも、雑誌社で会社員として働いていた頃からの杏奈の住まい。フリーであろうと会社員であろうと、経済的にはそれほど変わらなかった。
収集癖がないためか、持ち物は以前から少ない。生活に困らない限りは必要最低限の物だけで暮らしてきた。
そのため、室内には家具と呼べる物も少ない。最近買った中古のパイプベッド。折り畳みの丸テーブルと一人用の座椅子。小さなプラスチック製の箪笥。ガラス扉の茶箪笥は実家の母がくれた物。茶箪笥とは言ってもマグカップが二つとシンプルなグラスも二つ。たまにスティックタイプのインスタントコーヒーが増えるが、基本的には隙間のほうが多い。
その中で、唯一の異質な物。
一番上の段。
大きく歪んで壊れたままの古い一眼レフカメラ。
現在主流のようなデジタルではなくフィルムのカメラだ。広角レンズに連写用のモータードライブが付いた状態で、カメラバッグと共に見付かった物。
それだけを残し、戦場カメラマンだった杏奈の父親は、海外の戦場でこの世から姿を消した。
当時はまだ杏奈も中学生になったばかり。一〇年ほど前のことだ。
行方不明から半年ほどで、母の希望で葬儀が行われた。もちろん遺骨等は無いまま。
それでも多くの写真は残された。雑誌だけでなく小さいながらも写真集もある。
それは総て父の遺産。
それを見て過ごす内に、いつの間にか杏奈自身も父親と同じ道を目指していた。
いつかは〝戦場カメラマン〟になりたかった。
ほとんど家にはいなかった記憶しかない。たまに日本に帰ってきても、いつも疲れた顔の思い出ばかり。それでも杏奈には出来るだけ笑顔を向けてくれていることは感じていた。
いつも何かに疲れ、そして優しい父。
父がもう帰らないと母から聞かされた夜、初めて杏奈は父親の仕事を知った。
人の死がすぐ隣に存在する世界。
戦場で〝人の死〟を写真に収める仕事。
しかし杏奈は父親の仕事をこう理解した。
父は人間の〝極限の生き様〟を見たかった────もちろん真意は分からない。どうして父親がそれほどまでに〝生き様〟というものに興味があったのか。杏奈の印象では、それほど他人に興味がある人には見えなかった。そんな父がなぜ危険な戦場に自ら飛び込んでいったのか、今となっては想像するしかない。
だから杏奈もジャーナリストの道を選んだ。
父の求めたものを、見てみたかった。
〝死〟を〝エンターテイメント〟と考える人々がいる。
父親もそうだったのかもしれないと考えたことは杏奈にもあった。しかし、それならあんなに寂しい表情を浮かべるとも思えない。
〝死〟を〝生〟と捉える人々がいる。
杏奈には想像もしていない世界だった。真逆の存在だと思い込んでいた。しかしそれが〝生き様〟に繋がるものであると杏奈は無意識に感じていた。
それを気付かせてくれた西沙と出会っていなかったら、自分も戦場に行っていただろうと常々思っている。
そして未だ何かが霧に包まれたまま、今でも戦場への夢を諦めてはいない。
同時にこうも思う。
──……〝戦場カメラマン〟が失業する世の中なら……こんな夢を持つ必要もないのに…………
☆
浅間美津子が鬱病の診断を受けたのは二四歳になってすぐの頃。
本人に自覚はなかった。
そんな美津子を小さな心療内科に連れて行ってくれたのは、高校からの同級生の佐々木玲子。
美津子と玲子は同じ高校の介護福祉課の同級生だった。入学直後から気が合ったこともあり、そのまま二人で介護の専門学校にも進学した。さらなる資格を取得するため。
二人は決して似たタイプではない。どちらかというと気が強いタイプの玲子は、大人しめの美津子を常に引っ張っていた側面もあり、それなりにバランスの取れた関係でもあった。
涼しげな美人タイプの玲子は異性にも好かれることが多かったが、専門学校に入るまでは誰とも付き合ったことはない。美津子との友情を優先していたが、最初に玲子に恋人が出来た頃から二人の関係性は変化し始めた。同性同士の友情とは違う異性との恋愛経験は、いつの間にか玲子を精神的に大人にしていく。異性に対して奥手だった美津子は自然と出遅れたような寂しさを感じていた。半年で恋人と別れた玲子を慰めながらも、本心のどこかでは嬉しかった。
そんな経験が、やがて自分が精神的に屈折してしまっていた理由の一つであることに気が付いたのは、今回の鬱病の診断結果に他ならない。
卒業と同時に同じ高齢者用グループホームで勤め始めてから、長くても三ヶ月、早ければ一ヶ月程度で恋人を変えていく玲子を、いつの間にか美津子は疎ましく思うようになっていた。もしかしたら恋人を作れないままの自分が惨めに見えていたのかもしれない。もはや友情だけで繋がっていた高校の頃とは何かが違っていた。
もちろん鬱病の原因はそれだけではないだろう。いくら学校で勉強し、実習を何度も経験していたとはいえ、やはり介護の現実は過酷だった。それは学校で学んでいたこととは余りにも違った。〝間違っている〟と教わっていたことが〝こういうものだから〟と押し付けられる日々。精神的に追い詰められていく中で、それがどういうことか考える暇もない労働時間の長さ。職場の従業員から出てくる言葉は経営者と施設利用者への愚痴ばかり。毎月のように退職者と新人が増えていく。いつの間にか美津子も玲子も長く勤めている重鎮となっていた。
もしかすると玲子が恋人を次々と変えていくのは仕事のストレスを誰かにぶつけている結果なのかもしれないと、この頃の美津子にはそうも思えた。
美津子は鬱病を職場に伝えることは出来ないと判断する。伝えることで自分が周りからどんな目で見られるかを想像すると、やはり怖い。外傷と違って目に見えるものでもないからか、何を信じてそれを病気とするのか、それすらも個人の裁量に過ぎない。
玲子も同じ考えだった。
「一週間くらい休んだら?」
玲子がアパートの部屋でコーヒーを飲みながらそう言うと、美津子は何も返せないままに目の前のテーブルにマグカップを置いた。コーヒーの湯気がまるで美津子の気持ちを反映するかのように大きく揺れる。
夕陽が大きな窓から入り込む。
引っ越したばかりの玲子の部屋。今度の部屋は夏の西陽が強過ぎた。
──……また、彼氏できたのかな…………
玲子の近くに積まれた洗濯物を見た美津子はそう思っていた。一番上に置かれた男物の靴下がそう感じさせた。一番下のデニムも小柄な玲子の物にしては大きい。
──…………また秘密なんだ…………
最初の頃と違い、玲子も美津子に報告することは少なくなっていた。もちろん恋人を作れなかった美津子に遠慮していた部分もあるのだろうと、少なくとも美津子はそう思っていた。
──……別に、いいけど…………
「…………そうだね……少し休むよ…………」
美津子はそれだけ応えると、心の中で大きく溜息を吐く。
それに合わせたかのように、窓から涼しげな風が入り込んだ。
「涼しくなったね…………」
玲子が窓の外に顔を向けて口を開く。
空気の湿度が下がり始め、少しずつ過ごしやすい季節に変わっていく頃。美津子にとっては好きな季節だった。今までも人生の中で辛いことはあった。しかしこんなにこの季節を心地よく思えないのは初めてだ。
どこにも明るい未来が見えない。
自分で自分が見えていなかった。
翌日から美津子は有給休暇を利用して一週間の休養を取った。建前は体調不良としたが、もちろん職場はいい顔をしない。それでも玲子が施設長を宥める形で申請が通る。美津子としても休み明けに対しての不安がなかったわけではない。その不安が休暇中の美津子を苦しめることにはなったが、とりあえず〝仕事漬けの毎日から解放されること〟という医者と玲子の言葉を信じるように努めた。
休んでいる間に特に何かをしたわけではない。今までのことを考えながら、僅かな期待の中でむしろネガティブな感情が美津子を押し潰していく。仕事を休んだだけで何かが変わるわけではなかった。
決して従業員が主体とされている職場ではない。復帰後すぐに、改めて美津子はそれを感じることになる。職場内での風当たりは思っていた以上に重かった。
そして、それはやっと美津子が転職を考え始めた頃。
美津子は同じグループホームで働いている同じ介護職員と付き合い始めた。
一年先輩の田中昌幸。以前はそれほど意識していたわけではなかったが、美津子はもしかしたら寄りかかれる相手を探していただけなのかもしれない。
付き合って半年程。美津子は二五歳。昌幸が二六歳の時、二人は結婚する。ちょうど昌幸が他のグルームホームに転職をした直後。
そして結婚から数年。美津子も転職を考えていた。
そんな時、施設内でトラブルが起き始める。
それは施設利用者の家族からの訴えが始まりだった。
しかも複数。
それは決して簡単に解決の出来る問題ではない。
その訴えは明確に施設内での虐待を現すもの。
そして職員の間で懐疑的な噂が広がり始める。
しかも施設としては完全にそれを否定出来ない現実があった。法律スレスレの運営の中で、叩けばいくらでも埃は出る。事実、それは職員の誰もが感じていた。
古い施設。
利用者を〝人〟ではなく〝物〟として扱っている現実。
いつかこうなるであろうことは、職員全員が想像していたことでもある。
そして。
ある日、美津子は仕事中に施設長に呼び出された。
「虐待が疑われる時間って……浅間さんが介護してた時間みたいなんだけど…………」
施設長は、まるで用意していたかのような言葉を美津子にぶつける。
身に覚えの無い〝嫌疑〟に、美津子は何も言い返せずにいた。口を開いても小さく、言葉はなぜか出てこない。いつの間にか全身を恐怖だけが包んでいた。
記憶のどこにも存在などしない、美津子に降りかかる〝罪〟。
施設長は尚も続ける。
「ウチも悪い噂とか出ると困るんだよね…………」
──…………〝嘘の噂〟はいいの……?
「ご家族は改善案を出して示談金さえ出してくれたら訴えは取り下げると言ってくれてるんだけど…………」
「……明日まで…………」
無意識の内に、やっと、美津子の口が動いていた。
「…………考えさせてください…………」
説明はどうせ無駄────美津子の中に生まれたのは諦めだけ。
──……どうせ、私の話なんか聞くはずがない…………
──…………今までと同じ…………
だから美津子は精神的に病むことになったと思っている。結婚直前まで通院を続け、薬も飲み続けた。昌幸がいなければ立ち直ることは出来なかっただろう。
──……もっと早く転職してれば…………
そんな後悔が浮かぶまま、美津子は別の噂も耳にすることになった。
「…………浅間さんが疑われてるんですか?」
帰り際に更衣室でそう話しかけてきたのは、働き始めてまだ半年程の女性職員。
美津子はすぐには応えなかった。すでに誰のことも信用出来ない。自分の発した小さな言葉が他人の中で大きくなっていくことを美津子は知っている。
「私見ましたよ…………〝玲子〟さんが虐待してるとこ…………最近、施設長ともコソコソ話してましたし…………」
その言葉を聞いても、美津子の中にその職員に対する信頼が生まれることはなかった。
そして〝玲子〟の名前にもなぜか動じない自分がいる。
──……玲子は…………私の味方?
──…………誰を信じたらいい…………?
「玲子ちゃんがそんなことするわけないだろ」
そう即答したのは夫の昌幸。
「お前の親友じゃないか」
そう言う昌幸自身、元々は玲子とも同僚だった過去がある。
その上での発言だと思いたかった。
「お前…………ホントに何もしてないのか?」
「……ちょっと……なんでそんな…………」
「────鬱病ってさ…………明確に治るとか、そういうものじゃないだろ……?」
触れてほしくない過去。
例えそれが夫の言葉でも、そこを掘り返してほしくはなかった。
しかも、今。
「ストレスの溜まる仕事だしな」
──……やめて…………
人間関係というものは、簡単に崩れていく。
昌幸が支えてくれていたのは本当に自分のことだったのだろうか。何か、色々なものが音を立てて崩れ落ちていった。
そんな想いを抱えながら、美津子は翌日、辞表を手に施設長の部屋を訪れる。その後、更衣室のロッカーで荷物を鞄に詰めていく。他の従業員は仕事中。
そして、その更衣室を訪れたのは玲子だった。
「別れるの? 昌幸さんと」
背後からの玲子の低めの声に、美津子は手を止めながらも背中で応えていた。
──…………どうしてそれを…………?
そのまま玲子の声が続く。
「この世界って狭いからね…………同業の妻が〝虐待〟で退職なんて…………昌幸さんも働きにくくなるんじゃない?」
確かに、昨夜の内にその話は出ていた。
交わることのないままの平行線の会話だった。
「こうなったら…………もう最後だし、言っちゃってもいいよね…………」
その玲子が続ける。
「昌幸さんって……私の元彼…………アンタが鬱病で休んでた頃に…………すぐに別れたけど…………でも少し前からまた誘われるようになってさ…………アンタの愚痴とか聞かされて…………〝夜〟もあんまり無かったんでしょ? 良かったじゃん。子供できる前で」
三日後に市役所に離婚届を出した時、美津子は二八歳になっていた。
☆
それは杏奈がフリーになって最初の仕事だった。
小さな雑誌社で記者として働いていたが、芸能人のゴシップネタを追いかけるだけの毎日に嫌気を感じて退職。もちろん後押しになったのは今までの仕事で作り上げた人脈という部分が大きい。
元々杏奈が求めていたのは事件記者。あちこちのマスコミ関係に顔を売ってきたのが功を奏した。総てが計画通りというわけではなかったが、自分を売り込むためならお金も掛けてきた。フリーが綺麗事だけでやっていけない世界であることも知っていた。
「いきなりでちょっと面倒な仕事なんだがねえ」
雑然とした広い雑誌社のオフィスで、今回の件で杏奈に声をかけた中年の男性編集長────岡崎がソファーに腰をおろしながら続ける。中年とは言っても、そろそろ六〇は過ぎた年齢のはずだ。
「宗教絡みだからな……手を出さないって決めた週刊誌もあるみたいだ」
するとすぐに振り返り、腰を浮かしかけて声を上げる。
「おい! あの病院の資料どこ行った⁉︎」
昔ながらの出版社のオフィスは未だにアナログだ。常に騒々しく誰かの声と足音。そして縦横無尽に職員が走り回る。
決して杏奈はその雰囲気が嫌いなわけではない。
岡崎は顔を戻すと、すかさず杏奈の隣のカメラバッグに目をやって口を開いた。
「まだ使ってるのか? 今までは聞かなかったが……親父さんのだろ?」
「……あ……ええ……まあ……形見なんで…………」
少し遠慮がちに杏奈は応えていた。目の前の岡崎が父親と仕事で関係していたことは聞いている。
「親父さんが戦地から送ってくる写真は大したもんだったよ。あの頃はまだフィルムに拘るカメラマンも多くてな。親父さんもそういう人だった。空港のX線でフィルムがダメにならないように専用のケースがあってな。分厚いケースで……それが届く度に興奮して現像に回したもんだ…………お前さんが娘だって知った時は驚いたよ」
すると若い社員が無言で紙の束を岡崎の目の前に置いた。すかさず岡崎がそれを手に取る。
「遅いぞオイ」
一見すると荒い印象の言葉のやりとり。しかしそれはよくある雑誌社のオフィスの光景。杏奈もそんな中で働いてきた。
「あまりお勧めの仕事じゃないが……どうする?」
そう言った岡崎から手渡された分厚い紙の束を手に取ると、杏奈は素早く目を通し始める。最近マスコミで取り上げられ始めていた事件だけに、杏奈もある程度はその事件に関して情報は得ていた。しかしそれはテレビから流れる表面上だけのもの。
そこに岡崎の声が被さった。
「お前さんも若いって言ったって過去の宗教絡みの事件は知ってるだろ? ウチも誰もやりたがらなくてな…………それでも世間の関心は高いときた…………」
もっともと言えばもっともだ。
宗教絡みは神経を使う。新興宗教と言っても様々だ。勢力を拡大しようとする所もあれば小規模のままの所もある。
そんな中でテロ組織と化してしまった新興宗教団代の起こした事件のせいで、宗教に対して怪しい印象を抱く人間が未だに多いのも事実。しかしほとんどの団体は堅実な活動を続けているのが現状。それでも世間一般のイメージというものは簡単に覆るものではなかった。
事件だと思って先入観で取材をしたことで訴訟に発展したことも事実としてあった。
だから仕事としては避けられる。誰もいざという時の責任は取りたくない。結果的に、いつでも切り捨てられる〝フリーの記者〟に仕事が回ってくる。
杏奈もフリーになった時点でそういうことは覚悟していた。
そして杏奈も自分を売り込みたい時。しかも宿泊費や交通費等の諸経費は領収書を持ってきてくれてもいいという。
お互いの利害は一致していた。
「地味な取材になるし……無理にとは言わないが…………」
岡崎のその言葉に、杏奈はすぐに応えていた。
「いえ……興味あるんで……やらせていただきます」
そう応えて、上げた視線に軽く笑みを含ませる。
☆
新興宗教団体────〝神波会〟の経営する医療法人ホスピス医院〝安寧病院〟。
患者の一人────吉原藤一郎が亡くなる。
その家族が病院の実態をマスコミにリークしたことで今回の問題が発覚した。最初は小さなテレビニュースだったが、病院の母体が宗教団体であることと、そのリークの内容がセンシティブであったことで途端に世間の注目を集めることになる。
ホスピスとは終末期医療のための病院。不治の病となる難病や、余命宣告された患者がほとんどだ。回復して退院することはほとんどない。数字だけで言えば当然通常の病院よりも死亡率は高い。
しかし吉原藤一郎の家族の訴えは特殊だった。
患者が悪魔に取り憑かれているとして病院が〝悪魔祓い〟を行い、その結果、非科学的な施術で死亡したというものだ。そのベースになっているのが宗教的な要素から来ているという。
杏奈が雑誌社から取材の依頼を受けた時には、すでにマスコミの取材が加熱し始めていた。岡崎からの要望は事件の訴えの真相はもちろんのことだが、それ以上にマスコミ他社の情報で出て来ていない新たなネタ。ゴシップ的に求めるものとしては〝悪魔祓い〟の詳細だが、その情報が飽きられる前に次の進展が欲しかった。
当然杏奈は現在のマスコミとは違う切り口でネタを集めていくしかない。最近の報道の中心になっているのは、その派手さからかやはり悪魔祓いの話題が中心になっていた。
今後の流れは母体である宗教団体の実像と、誰が悪魔祓いを行っていたのか。そして、マスコミ報道の〝真実〟の部分と〝嘘〟の部分がどこなのか。
杏奈はマスコミ各社に先んじて団体の実態の部分に切り込もうと考えた。
もちろん協力者はいない。
他のマスコミの報道を見る限り、まだ団体の代表まではどこも辿り着いてはいない。初期の段階での短いインタビュー記事があるだけだった。現在の信者や病院の職員の声は聞けてはいない。出てくる情報は元信者や元職員のものばかり。その口から出てくる情報が偏っていない保証はない。
情報が偏っているならば、そこには必ず〝嘘〟がある。
偏った情報は何らかの〝嘘〟を作っていく。
情報が偏ることで何かが隠されていく。
そして何かが見えなくなっていく。
杏奈は、最終的には団体の代表に話を聞かなければ意味がないと考えていた。しかしそれさえも真実に辿り着けるのかは分からない。
そして、それは簡単なことではないだろう。しばらくマスコミ関係者の誰もが代表に接触出来てはいない。
切り口が欲しかった。
杏奈にとってはいきなりの遠征取材になる。動く時間がどうなるか分からなかったために、宿泊はシャワールーム付きのインターネットカフェ。問題の病院からそれほど遠くない所に頃合いの場所を見付けていた。
その団体の本部に当たる部分は病院の施設内にある。病院がメインとは言っても同時に宗教団体の総本山。
杏奈は一週間張り込みを続けるが、代表の姿すら見付けることが出来ないまま。
──……代表が自宅に引き籠ってるって噂はホントみたいだ…………
張り込み場所は病院の裏手にある平面駐車場。そこにはあからさまなマスコミ関係のバンが数台。
「駐車場の領収書もいいのかなあ…………」
病院の従業員入り口は常に数人のマスコミ関係者が張り付いていた。杏奈も元はその世界の人間。動きや服装を見ただけで分かる。
「いいよねえ……あの人たちは交代要員がいるからさあ……」
車の中でそんな愚痴をこぼしながら、杏奈はそのマスコミたちとは少し離れた別の出入口にカメラの望遠レンズを向けていた。
そこは宗教団体の信者が使用しているドアと思われた。同じ建物なので分かりにくいが、明らかに毎日そこから出入りしている女性が一名。病院関係者ならばそこを使用する理由はない。少なくとも杏奈はそう読んでいた。もう一人、張り込みの一週間の間に一度だけ出入りした女性もいた。
岡崎に報告すると、まだその二人の人物の情報は掴んでいなかった。事実、マスコミ各社がどこかから入手していた従業員リストには無い人物のようだ。しかも毎日のように出入りするのは一人だけ。
その日も夜の八時頃、暗くなってからその女性が外へ。
近くのマスコミはその出入口の存在に気が付いてさえいない。
季節は秋。
すでに外はだいぶ暗くなっている時間。
エンジンを切ったままの車内では涼しく感じる季節。
杏奈は少し離れて女性を尾け始めた。
まだ息が白くなるほどの空気の冷たさはない。擦り切れてだいぶ色落ちした黒いデニムに履き疲れたスニーカー。上には古着屋で買ったダークブラウンの革ジャン。和柄がワンポイントのキャスケットを被り、その後ろで肩までのショートカットを無理に一つに結んでいた。革ジャンのポケットの中にはスマートフォンだけ。こういう時にいつも杏奈は〝いい時代になった〟と感じる。ターゲットを尾行するとしても大きなカメラを用意する必要がない。しかも音声の録音も出来る。
だいぶ目の前を歩く女性の後ろ姿は、猫背のように丸まった背中のせいもあってか、決して若い女性には見えない。服装的には大人の匂いのする暗い色のワンピース。落ち着いた緑に見えた。いつもの小さなショルダーのハンドバッグを肩からかけてはいるが、それも子供っぽくはない。
杏奈からは、その女性がマスコミに見付からないように小さくなって歩いているように見えていた。どことなく後ろ向きな印象を感じさせた。
しばらく歩いたところで女性はコンビニに立ち寄る。その後、小さなレジ袋を手に、人通りの少ない細い道を何度も曲がりながら向かったのは古い市営住宅の入り口。
──……やっぱり警戒してる?
その女性が階段を登ろうとした時、杏奈は足早に女性の前に身を乗り出していた。
驚いて足を止めた女性の前に、杏奈は名刺を見せて口を開く。
「ごめんなさい……言えることだけで結構です」
「…………すいません────」
女性は顔を伏せて階段を登ろうとするが、その手に杏奈が紙のような物を押し当てると、再び驚いて動きを止めた。
杏奈の声は小さい。
「……あなたのことを知ってるのは私だけです…………他には漏らしません…………あなたのことももちろん匿名で…………」
杏奈のその言葉に女性が軽く手を開くと、そこには小さく折り畳まれた一万円札。
杏奈は敢えて女性の顔を見ていない。
むしろ周囲に人影がないかを気にしていた。
そして再び小さく口を開く。
「……ご近所の誰かに見付かる前に……行きましょ…………」
半ば強引な誘い方。相手に考える余地を与えないように。そうやって杏奈も今まで仕事をしてきた。それは今でも変わらない。
二人はしばらく歩き、人通りの少ないエリアの小さな喫茶店に入った。
杏奈がよく使っていた店だ。こういう時のために都合のいい店をいくつか押さえている。それほど混んではいないが、常に客がいる店。こっそりと人から話を聞くなら、ある程度の人混みに紛れるほうが不思議と隠れやすい。もちろん席は選ぶが、小声で話す分には声は店のBGMに掻き消える。
「あなたの存在に気が付いたのは私だけみたいです。他の連中は従業員用の出入口しか張ってませんよ……時間の問題かもしれませんが今はまだ大丈夫です。だから安心してください」
杏奈はコーヒーが運ばれてきた後に、そう言って女性に笑顔を向けた。
俯いたままの女性は、杏奈の見た印象ではおそらく三〇代半ば。整った顔立ちの地味な印象だったが、何より、やつれて見えた。
杏奈が続ける。
「……疲れたお顔ですよ…………眠れてますか?」
──……私はわざと心配したようなことを言ってる…………
──……疲れてることなんて分かり切ったことなのに……嫌な仕事だ…………
「ちゃんとご飯は────」
「────食べてます…………お聞きになりたいこととはなんですか⁉︎」
女性の、少し早口な、お世辞にも印象のいいとは言えない言葉が杏奈の形だけの気持ちを遮った。
それでも杏奈も口を閉じるわけにはいかない。
「……すいません……まあ…………最近話題のあそこのことなんですけどね」
すると、俯いたままの女性の声が震え始める。
「…………私たちが…………何をしたんですか…………田原さんは何も悪いことなんかしてません…………」
──……田原…………?
──…………代表の田原達夫のことか…………
杏奈はそう思考を巡らせながら返した。
「でも……実際に告訴の動きがあります。その前に〝御家族〟の側がマスコミにリークしたことで騒ぎになってるようですが…………」
「…………私たちは…………何も…………」
しだいに小さくなる女性の声に、杏奈はさらに切り込む。
「核心の部分を聞かせてください。噂になってる〝悪魔祓い〟は本当に────」
「────ありません……そんなもの…………団体はホスピスを作るために田原さんが立ち上げたものです。私たちは神道をベースにしてます。患者さんたちの入院費だって最低限しか頂いていません…………儲けを第一に考えるような所とは違うんです。運営だって周りからの援助でやっとなんですよ…………それなのにどうして…………」
「あなたは────」
「────団体の経理をしています。だから分かるんです…………悪魔祓いなんて……どこにメリットがあるのか教えてください。田原さんだって贅沢をするような人じゃないんです。アパートだって安い所ですし…………」
杏奈の中に疑問がいくつか生まれていた。
〝教祖〟ではなく〝田原さん〟。
〝神道〟。
〝周りからの援助〟。
確かに悪魔祓いのメリットとして考えると不思議だった。教団の教義のためという可能性は考えられたが、だったらホスピスである理由が分からない。悪魔祓いを行うなら宗教団体だけで充分なはず。
新興宗教団体────正確には宗教法人。杏奈は決してその世界に詳しいわけではない。なんとなくイメージでキリスト教や仏教のような一神教をベースにしているものとだけ思っていた。
──……何か……変だ…………
そんな疑問を抱きながらも、杏奈は限られた時間で次の疑問をぶつける。
「あなたと同じドアから出入りした女性がもう一人いたと思うんですが────」
「あの方は……法人の相談役の女性です。神社の方で……色々と最初から援助してもらっていて…………私の一存では…………」
結局、杏奈は次のアポイントも取れないまま、この日の取材を終えた。
そして疑問が膨れ上がる。
杏奈の中で、何かが変化していた。
杏奈の次のターゲットはもう一人の女性。
というより、足掛かりは他になかった。
以前に一度遠くから見掛けただけ。
昨日の女性は詳細を教えてはくれなかった。
もはや張り込みを続けるしかない。直接団体に電話をするも、当然のように取材は断られた。
しかし杏奈にとってはフリーになって最初の仕事。雑誌社からの依頼とはいっても所詮はフリー。どこからもバックアップは無い。
──……待つしかないか…………
フリーになって最初としては大き過ぎる仕事だったのかもしれない。
お昼を過ぎた頃、少し前に寄ったコンビニで買った温かったコーヒーもだいぶ冷めてきた。
駐車場の車の中でそのコーヒーを一口飲み込み、杏奈が大きく溜息を吐いた時、その横、運転席のガラスをノックする音が広がった。
同業者かと顔を上げると、そこには見知らぬ長い黒髪の女性。
杏奈は反射的に窓を開ける。
口を開きかけた杏奈よりも早く、女性の柔らかい声が空気を揺らした。
「あなたですね。話は聞きました……」
あちこちにレースの施された黒いワンピース姿のその女性は、凛とした立ち振る舞いのまま続けた。
「教団のことでしたら…………私が真実をお話しします」
それは、ツバの広い帽子を深く被った────御陵院咲の姿。
──…………あの人だ…………
☆
離婚と同時に、美津子は他県に再就職を決めた。
それは行動力の結果ではない。自分のことを知っている地元では働けないと判断したからだ。それどころか、生きていくことも厳しかっただろう。
誰も信用することが出来ない。
そう感じていたからだ。
就職と共に〝嘘〟の話をその就職先には伝えていた。離婚の理由も転職の理由も真実を話すことは出来ない。嘘と真実を織り交ぜて、自らもその〝新しい嘘〟を信じることに努力した。新しい職場の寮に引っ越し、ひたすら仕事のことだけを考えて過ごす毎日。
嘘の罪と離婚のゴタゴタで両親とも疎遠のまま。
いつの間にか、しばらく電話すらしていない。
掛かってもこなかった。
美津子は養子だった。産まれてすぐに養子に出され、実の両親が誰なのかも知らないまま。その話を義理の両親から聞かされたのは高校に入ってすぐの頃。本当の両親だと思っていた相手との血の繋がりが、簡単な言葉だけで絶たれた。
義理とはいえ、両親も打ち明けるかどうか悩みはしたのだろう。そして血の繋がりが無いことへの負い目もあったのかもしれない。しかし美津子がそう思えたのは疎遠になってから。いつしか自分の側からの接触もしにくくなっていた。
そのまま時だけが重ねられていく。
何か大きな理由があるわけでもなかったのに、一度離れた感情は戻りにくくなることを知った。
仕事はもちろん介護の仕事。特別養護老人ホーム。介護の仕事しか知らなかった。決して給料が高いわけではなかったが、寮の安い家賃のお陰で貯蓄も少しずつ出来た。一年後にはアパートも借り、いつの間にか転職を繰り返すことになる。
人を信用することが出来ない。
同僚も信用出来ない。
職場も信用することが出来ない。
そんな感情のままでは、どんな職場も長続きなどするはずがなかった。
さらに、転職の理由はそれだけではない。どこで働いても美津子の過去が〝噂〟となって広がっていった。どこまでも狭い世界。県境を跨いでもそれは変わらなかった。自分に罪がないことは分かっている。しかし誰も信じてなどくれるはずがない。その度に玲子の顔が頭の中に浮かび、美津子はその過去から逃げるように職場を変え続ける。
そのまま数年。
訪問介護やデイサービスの施設でも働いた。
気が付くと、すでに三二歳。
やがて美津子が辿り着いたのは〝安寧病院〟だった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十二部「幻の舟」第2話(完全版)へつづく 〜