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第十一部「粉雪」第5話(完全版)(第十一部最終話)

 聖堂の祭壇の前を何度も往復し、その夜、絵留えるは何人もの信者の前で落ち着きの無さを露呈ろていさせていた。

 信者の誰もが聖堂の長椅子に腰掛けながらも、その日もやはり絵留えると同じように落ち着かない時間が続く。

 冷静な顔のまま祭壇の段差に腰掛けているのは波瑠はるだけ。すでに波瑠はるは団体の実質的なナンバー2になっていた。卒業後は予定していた高校へは通わず、常に絵留えるの側に寄り添う。すでに母親である栄子えいこの意見を聞こうともしなかった。

 栄子えいこ自身、団体への執着心はありながらも、いつの間にか娘の波瑠はるに対して恐怖心を抱いていたことは事実だ。それまでの娘とは思えないような言動ばかりの日々に、精神的にも追い詰められていく。それがカリスマ性の怖さだということにも気が付けないまま。

 事実、その絵留えるのカリスマ性で信者は増えていた。

 もはや団体は聖書の勉強会という側面を失い、従来のキリスト教への矛盾を暴き出そうとする教義へと変化していた。そしてそれまでの概念とは違う絵留えるの言葉は、不思議なほどの求心力を発揮するが、もちろんそれは絵留える自身の特殊な能力にもあるのだろう。しかし当然ながら、誰もそれには気が付けないまま。

 誰も増え続ける御布施おふせの金額に疑問を持つことすら出来ず、ただただ絵留えるの指示通りに動くだけ。

 信者は〝恵元萌江えもともえ黒井咲恵くろいさきえ〟を探し続けた。

 しかし分かっているのは名前だけ。

 しかも無意識にバリアを張っている二人を簡単に見付けられるはずはない。

 そして、日に日に絵留えるのストレスが蓄積していった。

 それをいやすのが波瑠はるの表向きの仕事だった。しかし波瑠はるにはもう一つの顔がある。それは萌江もえ咲恵さきえを探す信者たちの統括。当然総ての信者に捜索が指示されていたが、その中でも動きやすい信者たちを集めた組織が作られていた。多くても五人程度のチームが三つ。それをまとめ、絵留えるからの指令を伝えるのが仕事だった。

 そして力を保持するための儀式は、もはや教団内では当たり前の光景。

 祭壇前に流れるのが自分の血ではないことに、つぶされた命の行き先をあんずることもないままに、他の信者は安堵あんどするだけ。

 多くの信者の目の前で、今まで波瑠はるは何人もの信者たちの命を奪ってきた。

 それは大概たいがい、祭壇の前。

 時には他の信者への指示で、時にはみずからの手で。

 それを何度も、他の信者の前で、母親の目の前で。

 誰の感情にとっても、それはただの恐怖でしかない。

 しかし母の栄子えいこにとっては、それは寂しさ以外の何物でもなかった。すでに自分の娘としての波瑠はるは、そこにはいない。教祖である絵留えるの手足として動く人間でしかない。

 感情の向かう先など、どこにあるのだろう。それを願うことすらむなしいままに、栄子えいこの感情は一人の人間のものとしては不安定だった。

 事実として波瑠はるは〝絵留えるのため〟に、恐怖で信者を押さえ付けていた。

 しかしそれでも情報を収集出来ないまま、絵留えるは深夜に総ての信者を教会に集めた。

「お前たちは仕事をしていない…………」

 その低い絵留えるの声が教会の冷たい空気を揺らす。

「この数ヶ月…………何の情報も得られていない…………あの二人は我々の脅威なんだぞ!」

 祭壇の段差に座ったままそう叫ぶ絵留えるの横には、いつものように波瑠はるが寄り添うように立っていた。その手はいつものように絵留えるの肩から首筋へと滑る。

 すると、突然、絵留えるが立ち上がった。

 首筋の波瑠はるの手をつかむ。

 そして、力任せにその体を床に叩きつけた。

 うつ伏せになった波瑠はるは声も出せないまま、その全身を痛みが包み込んでいく。

 教会内の空気が揺れた。

 そして、なぜか忘れていた感覚が記憶をつつく。

 それは、初めて絵留えるに声を掛けられたあの時の記憶。

 あの、いじめにあっていた時の記憶。

 周囲からのザワつきを無視するように、絵留える波瑠はるの体に馬乗りになると、叫んでいた。

「早く見付けないとどうなるか────よく見ておけ!」

 聖堂の奥で、栄子えいこが立ち上がっていた。

 絵留えるは腰の後ろからさやの付いた果物ナイフを取り出すと、さやを外し、波瑠はるの背中へ。

 栄子えいこの詰まらせた小さな悲鳴が空気を伝わる。

 しかしその声は、何度も背中に突き立てられる刃物に呼応するような、そんな波瑠はるうめき声にき消された。


 ──…………どうして…………助けて…………お母さん…………


 翌日、絵留えるが向かったのは、西沙せいさの事務所。

 それは、前日に波瑠はるからもたらされた情報だった。



      ☆



 周囲はすでに闇。

 沈みながら空を赤く染めた太陽の姿はもうない。

 そして、静かだった。

 月灯りもわずか。

 萌江もえは黒い空を見上げていた。幾重いくえにも重なる雲が鈍く夜空に浮かぶ。それでもそのあわい光は萌江もえの足元を照らしていた。

 冷たく、びついた門。

 そこから教会の建物に向かうであろう石畳は、その大部分が土に埋まっていた。スニーカーの裏に荒目の土がからむのを感じながら、萌江もえはゆっくりと進む。

 石畳は周囲の雑草に大きく隠されているものも多かったが、萌江もえは決して足音を消そうとはしていなかった。

 すでに〝中〟の存在には気付かれている。

 萌江もえもそれに気が付いていた。


 ──……待ちがれてたみたいだ…………


 ──…………嫌な感じだけど…………


 建物の横には雑草の少ないエリアがあった。そこには大小様々な葉っぱが並ぶ。自給自足のためなのか小さな畑のように見えた。それでもとても現在の信者全員の分にしては小さい。

 そして教会の入り口前には五段程度のコンクリートの階段。幅は広くはない。大人二人が並んでちょうどいい程度。大きく広がったヒビ割れが一箇所あるが、それほど古いものにも見えない。

 階段を登った萌江もえは、ゆっくりと色のくすんだ木の扉に手をかけた。


 ──…………子供なのは……見た目だけか…………


 扉から感じるのは木の感触ではない。

 視覚から当たり前に予想された手触りは、萌江もえの中でおかしな混乱を生む。

 外の空気は冷たい。

 それなりの距離を歩いてきた萌江もえの体は幾分いくぶんぬくもりを持っていた。

 扉は冷たいはず。

 しかし、それは暖かい。

 生暖かい。

 〝木〟とは違う〝木の感触〟。


 ──……だまされるな…………


 萌江もえは扉のノブに手を掛けたまま目を閉じると、ゆっくりと、大きく息を吐いた。

 そして指に力を入れる。

 途端に手に感じるのは、視覚情報が脳に作り出した感触そのもの。


 ──……なめられたものね…………


 両開きの扉を小さく引くと、中から吹き出すのは外よりも冷たい空気。

 教会の聖堂。

 薄暗い。

 間接照明がそれを際出させていた。

 その幾つかは蝋燭ろうそくの炎だろうか。

 小刻みに、大胆にオレンジ色のあわい色を揺らす。

 空気の揺らぎは僅か。

 そして萌江もえの目は、最初から聖堂の奥に向けられていた。

 そこに足を広げて座る小さな人影。

 その鋭い二つの目だけが、なぜか距離を感じさせない。

 まるで目の前にあるかのように、怪しく揺れる闇の中に浮いていた。

 萌江もえは開けた扉から体を半分だけ中に入れたまま、ゆっくりと口を開いた。

「────…………今夜は冷えるよ…………」

 しかし〝二つの目〟は何も応えない。

 直接会ったことはない。

 それ以前に、祭壇に座るその少女は、杏奈あんなからもらった資料の写真とはまるで別人かのようだ。

 それでも、それが〝牧田絵留まきたえる〟本人であることは間違いない。

 そして、その〝目〟に、萌江もえは見覚えがあった。

「……ここ…………外より冷えてる…………」

 萌江もえのその声に、絵留えるは微動だにせずに鋭い目付きを向けるだけ。

 その周囲に誰かがいるようには見えない。

 感じない。

 しかし、目に見えない重厚じゅうこうな圧力のようなものが絵留えるの全身を覆っていた。それは空気をゆがませるかのように萌江もえの頭の奥をつつく。

 萌江もえが後ろ手で扉を閉めると、重いその音の直後、それまでの外からの緩い風の音が消えた。

 萌江もえはゆっくりと足を前へ。

 スニーカーとは思えないほどに、なぜか聖堂の硬い床でその足音は響いた。

 そこに、やっと絵留えるの声。

「…………お前が、萌江もえか…………」

 もはや若い女の声ではない。

 重厚じゅうこうでありながら、深みを伴っていた。

 しかし萌江もえはそれを分かっていたかのように、驚きもせず、いくつも並ぶベンチとベンチの間で足を進める。

 そして続く絵留えるの声。

「……もう一人はどうした……?」

 その声の圧力は強い。

 まるで空気で作られた壁のようなその重さは、不思議と萌江もえの周囲でだけ軽く崩れていく。

「もう一人?」

 雰囲気に似つかわしくない萌江もえのその声に、絵留えるは少し苛立いらだった。

「お前の〝れ〟だ」

「…………ああ……あなたには会いたくないってさ」

 萌江もえはそれだけ応えると、足を止める。

 絵留えるの正面。距離は一〇メートルもあるだろうか。目線は萌江もえのほうが少しだけ高い。

 萌江もえ絵留えると目を合わせたまま、手にしたペットボトルのキャップを回す。その水を軽く口に含むと、萌江もえは再びキャップを戻した。

 そのまま降りていくペットボトルの向こうの萌江もえの首筋に、水で光を反射した水晶が光る。

 それに反射的に声を上げたのは絵留えるだった。

「やはり〝それ〟はお前の所にあったか…………ついの〝もの〟はどこだ…………」

 すると、萌江もえは軽く口角を上げて応える。

「…………さて……どこかしらね…………」

「どうして〝あいつ〟がいない…………〝あいつ〟を呼べ」

 しだいに絵留えるの声が高くなっていた。

「お前だけじゃダメだ……二人同時でなければ────」

「一人ずつのほうが相手しやすいでしょ?」

 応える萌江もえは声のトーンを変えずに続ける。

「で? 私たちを探すために何人殺したの? あなたの周りには〝うらみの念〟が何人分も渦巻うずまいてる…………一人や二人じゃないんでしょ?」

「もちろんだ」

 応えた絵留えるは途端に口に笑みを浮かべていた。

 そのまま、その口を大きく開いて言葉を続ける。

「お前たちを探すために……お前たちを殺すために何人も殺してきた…………お前たちのために何人も犠牲にしてきた…………くやしいか? 形だけの正義感の中でしか生きられない、この時代のお前にはさぞ悲しかろうな」


 ──……時代…………?

 ──…………なんだ…………?


「忘れたか……お前の周りは常に血にまみれていたぞ…………思い出せ……お前は────!」


 ──…………外道げどうが…………


 そう思った萌江もえ絵留えるを遮った。

 意識の奥底で、自分ではない何かがうずく。

「────忘れたよ…………だから私はここにいる…………」

 その言葉に、絵留えるの目が変わる。

 それまで以上に強い。

「……お前が…………お前がいなければ────!」

 その絵留えるの声に重なる鈍い音。

 萌江もえの背後。

 扉の開く音。

 そして、すぐに聞こえる声。

「…………相変わらず…………落ち着きを失うとは…………」

 後ろから近付くその声に、萌江もえは聞き覚えがあった。

「お久しぶりです……恵元えもとさん」

 周囲の空気を暖めるかのようなあやしくも柔らかいその声は、さきのものだった。

さきさん……どうして…………」

 軽く振り返りながら思わず萌江もえがそう言葉を投げると、さきはいつものりんとした立ち振る舞いのまま、萌江もえの隣まで歩みを進めると絵留えるにらみつけていた。

 萌江もえの見慣れた巫女みこ服ではない。まるで喪服もふくのような黒で埋め尽くされた服。

 その服のすそを揺らしながら、さきが静かに応える。

「まあ……私も関係してましてね…………詳しくは後でお話ししますよ…………」

 絵留えるはそのさきに目を向けていた。

 そして、口元が大きく笑みを浮かべる。

 それにさきが応えた。

「……はじめまして…………じゃ、ないわね……」

「お前が出てくるとはな……御陵院ごりょういんの血か…………」

 絵留えるが小さくそう応えると、さきは片足を軽く一歩前へ。ヒールが床で立てた音が聖堂に広がった。


 ──……御陵院ごりょういんを知っているということは…………


「おかしなえんね…………でも本命は来ないわ…………あなたごときに会わせるわけにはいかない…………」

「────お前(ごと)きがそれを決める立場にはない」

「……あの時……私はあなたに見事にだまされた…………あなたは私に〝嘘〟を見せた…………」

「やっと気付いたのか…………」

 応える絵留えるの声は、それまでより低い。

 そして目を伏せた。

 言葉を繋げるのはさき

「あの時…………靖子やすこさんのお腹の中にいたのは〝あなた〟じゃなかった…………〝京子きょうこ〟さんね…………」


 ──…………お母さん……?


 そう思った萌江もえの意識に、さらにさきの声が重なる。

「だからあなたはそれを排除したかった…………私に形だけの祈祷きとうをさせて…………」

「さて……お前のその言葉が正しいとしたら、さぞ屈辱的くつじょくてきだったことだろうな。だから私を探したのか? 仕返しがしたかったのか? ご苦労なことだ…………」

 すると、唇を噛み締めるさきの横顔に、萌江もえが顔を向ける。

 さきは視線を絵留えるに向けたまま、萌江もえに言葉だけを振った。

「…………恵元えもとさん…………私はあなたのお母さんを守れなかった…………あなたを守るために……もう一度、この世に産まれようとしていた京子きょうこさんを…………」

「……産まれようと、してた…………?」

 応えた萌江もえの声は呟くように小さい。

 顔を絵留えるに戻し、そして続く。

「…………ありえない…………」

 さき絵留えるが同時に萌江もえに顔を向けた。

 その目は、あくまで冷静だった。

 決して感情を揺さぶられてはいない。

 反射的に声を上げたのはさき

「でも…………恵元えもとさん────」

 素早く、萌江もえはその言葉を遮っていた。

「宗教の概念がいねんなんか知るか……輪廻りんねは宗教の中で作られたものだ。人々に進むべき道を伝えるための〝おしえ〟の一つでしかない。そして、その宗教を作り出したのは人間だ…………その人間(ごと)きがこの世の真理しんりを知っているはずがない…………」

 それに最初に応えたのは意外にも絵留えるだった。

京子きょうこの娘にしては…………面白いことを言う……では誰なら分かるというのだ…………」

「自らを〝神〟と名乗る者には見えない真理しんりだ」

「お前が輪廻りんねを否定するとはな……世もすえとはこのことだ」

「あなたがそう思いたかっただけ…………その〝思い込みからくる感情〟がさきさんまでだますことになった…………そんなに…………私のお母さんを思い通りに出来なかったのがくやしかったの? その程度の〝おもい〟だけで…………何人も犠牲にしてきたの?」

「…………京子きょうこは────!」

「覚えてるの? あなたは〝彼女〟の意思をいだだけ…………〝彼女〟そのものではない…………そう思いたいだけ…………」

 萌江もえの言葉に、絵留えるの口が止まる。

 目だけが鋭いまま、何も応えない。


 ──……〝彼女〟…………?


 そう思ったさきは、無意識に両目を見開いていた。


 ──…………まさか…………


 そして、萌江もえの言葉が続く。

「お母さんと対峙たいじした時の知識と記憶を辿って私と咲恵さきえを探してた…………あなたが取りいたその子を犠牲にしてまで…………私に会ってどうする気だったの? 私に勝てると思うの? あの時も勝てなかったのに…………」

 すると、絵留えるの視線が少しだけ落ちた。

 その心の内までは萌江もえでもさきでも見えないまま。

 そして、萌江もえはいつの間にか自分の鼓動が大きくなっていることに気が付いた。


 ──……誰だ……〝ここ〟にいるのは…………


 ──…………いや…………分かってるはずだ…………


 そう言葉が浮かんだ直後、萌江もえが小さく口を開いた。


「……〝彼女〟は今……私の────」


「────もう一人いた…………」

 絵留える咄嗟とっさ萌江もえの言葉を遮っていた。

 そして僅かに震えるかのような声で、今度はさきを見上げていた。

 そして続ける。

「……あの時、邪魔をしたのはお前か…………お前を〝利用〟しようと思ったのに邪魔が入った…………」

 さきも強い視線を絵留えるに向けたまま応える。

「……利用? あなたはあの時、京子きょうこさんに負けた…………くやしいけど……私はその場に居ただけ…………」

「…………わたし…………」

 そう口を開いたのは萌江もえ

「あの時、さきさんを守ったのは…………わたし…………」

 絵留える咄嗟とっさに返す。

「……まだ幼かったお前に────」

「本当にそう思う? お母さんが守ったのは私だけじゃない…………私の力を使ってさきさんも守った…………そこにさきさんがいるのを知ってたから…………」


 ──……知っていた…………? まさか…………


 そう思ったさきの中に瞬時に生まれたものは〝恐れ〟だったのか、もしくは〝おそれ〟か。

 ただ、まるで何かを隠すように、さきが声をあらげた。

「────お前にう…………お前は誰だ! どうしてそこにいる! お前が取りいてる少女を犠牲にしてまで────!」

「取りいてる? 笑わせるな! 私は最初からこの姿だ! 靖子やすこを殺すために産まれてきた! だからあの胎児を殺した…………あの胎児に取りいてると思わせた! お前が細工したところでなんの意味も無い!」

 叫ぶ絵留えるに、さきは少し間を空け、そして返していた。

「…………どうして……靖子やすこさんが何を────」


「────京子きょうこと繋がる人間だからだ‼︎」


 その絵留えるの声が、聖堂の空気を震わせた。

 天井から降り注ぐようなその声は、萌江もえさきを黙らせる。


 ──…………繋がる…………?


 萌江もえがそう思い、やがて、ゆっくりと口を開いたのは隣のさきだった。

「…………それは…………」


 その声に被さる音。

 低めのヒール。

 重い音。

 それに重なるもう一つの音は、高いヒール。


 萌江もえが振り返った。

 一瞬とも思えるその時間の中、みずからの短い髪先が視界を邪魔する。


 ──…………咲恵さきえ…………


 その姿が近付いた。

 何の感情も見せないような表情のまま、ロングスカートの外側に揺れる薄手の白いコートが、背後からの粉雪を従えた。


 次の瞬間、声を上げたのはさきだった。

西沙せいさ! どうして────⁉︎」

「黙ってお母さん!」

 咲恵さきえの背後から叫ぶ西沙せいさの声が続く。

「お願い! 後で説明するから!」

 そして咲恵さきえの前に出ようとする西沙せいさの体が止まる。

 動けなかった。


 ──……なに…………?


 咄嗟とっささきに視線を送るが、さきも体が硬直こうちょくしたまま動けずにいた。

 そのさき西沙せいさに視線だけを送る。


 ──…………落ち着いて…………


 萌江もえの横まできた咲恵さきえが、足を止める直前にその目を軽く向けた。

 まるで吸い込まれるようなその瞳に、萌江もえは声を出すことも出来ない。

 ただ、鳥肌が立った。

 そしてゆっくりと、流れるように、その咲恵さきえの目が絵留えるへ。

 足が止まると同時に、コートのすそが動きを追いかける。

 その絵留えるは、体を小刻みに震わせていた。

 そのまま、咲恵さきえと目を合わせたまま、立ち上がる。

 震えた声を絞り出した。

「……どうしてだ……〝お前〟まで……そこにいるのか…………」

 しかし咲恵さきえは何も応えない。

 黙ったまま、しかしその妖艶ようえんな瞳を少しずつ鋭く変えていく。

 直後、その背後から声を上げたのはさきだった。

 体が動かないままで、まるでその声はうなり声のよう。

「……何を見せられてる…………靖子やすこさんが京子きょうこさんと繋がってるって……どういう…………」

 しかしその声は、今の絵留えるの耳には届いていなかった。

 西沙せいさも見えない壁をやぶることに神経を集中していた。まるで透明な壁の中に閉じ込められたかのように息苦しい。


 ──…………くずせるはずだ…………


 ──…………? これって…………咲恵さきえが…………?


 やがて、聖堂の空気に伝わって広がる咲恵さきえの声。

「あなたが父親を操って殺した胎児は…………〝私〟ではない。あなたのただの思い込みだ。あなたは一人の人間に過ぎない。あなたが操られていると思い込んでいるだけだ」

 そして、絵留えるかすれた声が響く。

「────どうして〝お前〟が〝そこ〟にいるんだ‼︎」

 すると、咲恵さきえは左手をまっすぐ前に伸ばした。

 そこには、チェーンを指に絡めた小さな〝水晶〟。

 横の萌江もえは、その透明な水晶が吸い込む幾多いくたの光に魅入みいられた。

 その光が、はじけるように揺れる。


 ──………………〝水の玉〟………………


 そして響く咲恵さきえの声。

「私は……命をけても萌江もえを守る…………何が正しいかどうかではない…………あなたに命をけてまで守りたい相手はいるの? あなたの中には〝怒りと憎しみ〟しか感じられない。しかもそれはあなたのものじゃない。何人殺したって何もあなたのものにはならない…………」

「お前がそれを言うか‼︎」

「すぐに〝その子〟を解放しなさい…………そうしなければ────」

「お前を許す気など────‼︎」


「────私の〝娘〟に手を出すな‼︎」


 小さな足音。


 それは、瞬時に絵留えるの背後へ。


 そして、絵留えるの体が揺れる。

 一瞬時が止まったかのようなその光景に、誰もが目を見開いていた。

 絵留えるの背後に、人影。

 絵留えるの上半身が、ゆっくりと後ろにのけぞっていく。


 ──…………黒いへび…………怖い…………



      ☆



 その日は暖かかった。

 小学二年の夏休み。

 絵留えるの一家は決してお盆や年末年始に実家に帰るという慣習かんしゅうはない。

 学校の友達のいう〝おじいちゃんの家〟〝おばあちゃんの家〟という感覚が絵留えるには分からない。だから、夏休みや冬休みに必ず行くような所があるわけでもない。

 寂しくないと言えば嘘だった。

 お盆が近くなると、遊ぶ友達もいなくなる。

 遠くにお墓参りに行ったことはある。しかし、なぜか牧田まきた家はお盆には行かない。夏休みが終わる頃に、父の休みに合わせて日曜日に行くだけ。

 どうして自分の家だけ他と違うのか、その頃の絵留えるに理由は分からなかったし、聞いても適当にはぐらかされる。理由は分からなくても〝誤魔化ごまかされている〟感覚だけは幼い絵留えるにも感じ取れた。

 テレビをつければお盆の話題ばかり。

 しかし父がお盆休みを取ることはなく、その日も絵留えるは母と二人だけ。

 その母が近くのスーパーの買い物から帰ってくると、絵留えるはお気に入りの帽子を手にして外に飛び出した。

 いつもの団地の中の小さな公園。

 午後の日差しが暑い。

 そこには、数日前まではいつもの友達がいた。

 行けばいつも誰かがいる場所だった。

 しかし、その日は静か。

 誰の声もしない。


 ──……これから誰かが来るかもしれない…………


 絵留えるがそう思って砂場にしゃがみ込む。

 ほんの数分でも、まだ幼い絵留えるには長く感じられた。

 まるで、世界が自分一人だけになってしまったかと思うような寂しさに包まれる。

 どうして自分には〝おじいちゃん〟も〝おばあちゃん〟もいないのか…………みんなのように遠くまで会いに行きたかった。

 そして足元の砂をいじる指が止まった時、絵留えるは視線を感じる。

 強い視線だった。

 顔を上げる。

 無意識の内に立ち上がっていた。

 その視線の先には、一匹の〝へび〟。

 真っ黒で大きなその〝へび〟は、微動だにしないまま、ただ、絵留えるを見つめていた。



      ☆



 さらに、絵留えるの左右から、その体を別の人影が覆う。

 小さくうめき声を上げた絵留えるは、天井を見上げたまま膝を落としていった。

 やがて三人の人影の手に見えるのは、間接照明の中で鈍い光を放つ刃物。

 そこから、影で黒く染まった液体がしたたる。

 膝を落とした絵留えるを囲うその人影は、三人の女性だった。


西沙せいさ‼︎」

 さきの声に、西沙せいさが動いた。

 小さな体で咲恵さきえかかえるようにその場から引き離す。

 瞬時に咲恵さきえが伸ばした手が、同じく反射的に手を伸ばした萌江もえの指先に僅かだけ。

 次の瞬間、萌江もえの体を覆ったのはさきだった。

「まだ駄目だめです!」


 床に倒れた絵留えるの、背後の人影が叫んでいた。

「早く逃げて!」

 震えたその声は、涙を含む。

「ここにはもう関わったらダメ!」

 萌江もえの視線の中でその光景は小さくなり、やがて扉が閉まりかけた時、最後の声が微かに聞こえた。

「────〝娘〟を返して‼︎」

 その姿は、絵留えるに馬乗りになって刃物を振り下ろした。


 外の門まで強引に連れて行かれた萌江もえは、何が起こっているのかも理解出来ないままに放心状態だった。そのまま地面に膝を着き、項垂うなだれるだけの萌江もえに、横で立ち尽くすさきが言葉を投げかけた。

「…………今回の検証は……少し落ち着いてからで…………」

「……咲恵さきえは…………」

「大丈夫です…………西沙せいさが連れて行きました…………もうここから離脱りだつしています」

 軽く息を切らしたさきの声に、萌江もえは、小さく言葉を返していた。

「…………咲恵さきえを……返して…………」

 しかし、さきは言葉を返せない。


 ──……今はまだ…………もう少しだけ…………


 さきが心の中でそんな言葉を絞り出した直後、急速に近付くエンジンの音。二人の前でRV車が急ブレーキを掛けて停まる。

「早く乗って!」

 その声は運転席の杏奈あんなの声。

 さきは呆然とする萌江もえを引きずるように後部座席に乗せ、やがて車を急発進させた杏奈あんなが声を上げた。

「やっぱり公安こうあんの奴らが張ってました。車も見られた────」

「それじゃあ…………」

 後部座席で心配そうに身を乗り出すさき杏奈あんなは笑顔で返していた。

「大丈夫ですよ。ナンバープレートは偽物にせもの貼り付けてありますから」

 しかし、直後のルームミラーに映る光景に再び声を張り上げる。

「────萌江もえさん⁉︎」

 萌江もえさきの首に手を掛け、シートにさきの体を押し付けていた。

咲恵さきえを返せ‼︎」

「…………まだ…………駄目だめです…………」

 さきは抵抗もせずに続ける。

「……黒井くろいさんは…………影響を受け過ぎました…………今のままでは本気で恵元えもとさんのために命を捨てる…………見過ごすことは出来ません…………」

「…………どうして…………咲恵さきえが〝あの石〟を…………」

「……それも含めて……私の所で数日預かります…………」

「────返せ‼︎」

「出来ません‼︎」

 そのさきの張り上げた声に、少しだけ萌江もえの体が引く。

 そのままさきが続けた。

「……恵元えもとさんと黒井くろいさんの考えは私も理解しています。しかし…………それだけでは答えが出せないことがあるのも分かっているはずです。今回だけは……私を信じてください…………知ってるんですよね…………我々の血が恵元えもとさんの中にも流れていること…………それは……京子きょうこさんから始まったことです……その意味が…………お分かりですか?」

 すると、途端に萌江もえは表情を変え、さきの隣でシートに体を沈めた。

 そして、小さく返す。

「……どうせ…………ただの偶然ぐうぜんじゃないんでしょ……」

 それにさきが応えないことを分かっていたかのように、むしろだからこそ、萌江もえは続けた。

「くだらない…………血筋なんてものに……どうしてみんなそんなものにこだわるんだ…………」

 突然、その言葉に合わせるかのように、萌江もえの意識を嫌な映像が埋め尽くしていく。


 見たことのない光景。

 それが次々と通り過ぎていった。

 まるでそれは、素手で感情をき回されるような、そんな気持ちの悪さ。

 理解など出来ない。

 理解など出来ないはず。


 そして、萌江もえの口が開いた。

「…………牧田靖子まきたやすこ………………私は99.9%…………信じない…………」

「では0.1%で結構です……私を信じて下さい」

 そして、さきは小さく息を吐いた。



      ☆



 粉雪が舞っていた。

 縁側の古い板に落ちた小さなその粒は、まるで吸い込まれるように消えていく。

 不思議と寒くは感じなかった。

 むしろ春特有の柔らかい日差しが暖かい。

 萌江もえは縁側下の踏石ふみいしに足を伸ばすと、その上にあるサンダルに靴下も履いていない足を滑らせる。

 少しだけ冷たかった。

 手にしていたコーヒーのマグカップを縁側に置き、立ち上がる。

 近くでじゃれ合っていた二匹の子猫が不思議そうに萌江もえを見上げていた。

 縁側に振り返ると、そこには母猫の姿。

「…………幸せだね……お母さん…………」

 なぜかそんな言葉が口からこぼれ落ちる。

 萌江もえは子猫たちに視線を戻すと、しゃがみこんで二匹の顔を覗き込むように口を開いた。

「……君たちも…………幸せそうで良かった…………」

 涙がこぼれた。

 何度も、何度も、ほおを流れ落ちていく。

 視界がにじむ。


 ──…………なんだろう…………


 ──……………やっと泣けた………………


 口元には、笑顔が浮かぶ。

 嬉しかった。


 そして、その音に気付く。

 無意識に立ち上がっていた。


 懐かしい色の車。

 運転席から降りてくる、懐かしい姿。


 その咲恵さきえの姿は、粉雪の中で光る。


 萌江もえは考えるよりも早く、足を前に進めていた。





       「かなざくらの古屋敷」

     〜 第十一部「粉雪」(完全版)終 〜


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