第十一部「粉雪」第1話(完全版)
もはや
なんのために存在するのかも分からなかった
どうして産まれたのかも知らない
ただ
その命は
まるで粉雪のように儚かった
☆
もう春と言ってもいい頃。
朝の陽射しを浴びる度に、日々の重なりと共に季節の移り変わりを感じる。
この古い家に住み始めてからすでに二年近く。
萌江にとっては二度目の冬が終わろうとしていた。
天気のいい日中であれば、リビングとして使っている居間から、庭に続く縁側の大きなガラスも開けることが出来た。暖かさを伴った空気が春の匂いも運ぶ頃。
不思議とその季節を迎える準備は何かと忙しい。萌江も数日前に家庭菜園の畑を耕したばかり。今年育てる野菜を選ぶのが最近の楽しみだ。
山の中とは言え、周囲にも積もった雪は見えなくなった。
日中なら外に洗濯物を干せる日もある。
その日も暖かい日だった。
朝から陽射しも強く感じる。
縁側のガラスを開けた途端に三匹の黒い猫が飛び出した。その姿に、萌江にも思わず笑みが浮かぶ。それでもまだ起きたばかり。意識の奥はまだ重い。スウェット姿で体を上に伸ばしてみた。それに呼応するように意識が目覚めていく。
──……コーヒー入れよっかな…………
大きく深呼吸し、コーヒーメーカーに水と粉を入れてスイッチを入れると、猫用の餌皿を棚から取り出した。猫用の缶詰を開けるとすぐに三匹がリビングに戻り、早速足元に絡みつくその三匹をいつもの場所に誘導すると、ゆっくりと腰を降ろして定位置に猫皿を置いた。
猫が朝ご飯に集中している間に、萌江はいつものピザトーストの準備を始める。それがいつもの流れ。その日も黙々とした作業のような手付きになっていた。
もう何日も同じ物しか食べていない。すでに今までのように調理を楽しむという気持ちの安定は薄れていた。
萌江自身も分かっている。気持ちは決して天気のように晴れてはいない。
室内のプランターで収穫したトマトで作ったトマトソースに去年の内に庭の畑で収穫した玉ねぎを乗せ、ピクルスとモッツァレラチーズにブラックペッパーを散らす。
──……今度……ホームベーカリーでも買ってみよっかな…………
トースターのメモリを回す。
コーヒーを注いだマグカップの隣にピザトーストを乗せた木製トレイを置いてソファーに身を沈めると、すぐに隣に寄り添ってきたのは母猫のクロ。子猫の二匹はご飯を食べるとすぐに庭に飛び出していた。母猫とは言っても何歳くらいだろうか。決して老いているようには見えない。
コーヒーを一口喉に流し込み、なんとはなしにクロに声をかけてみた。
「…………お前は……自由だね……」
意味を分かってか知らずか、丸く綺麗な目でクロは萌江を見上げていた。
「……一緒に生活してくれて…………感謝してるよ」
するとクロは小さく短く鳴き声を返す。
ピザトーストを手で半分に割りながら、萌江が笑顔を浮かべた。
ここしばらく、不安な朝を迎えることが多かった。何か具体的な理由があるわけではない。嫌な夢を見るわけでもなかった。
それなのに、朝が不安を連れてくる。
少しずつ、少しずつ、それが積み重なっていく。
季節の変化のせいだろうか。そこにこれからのことを意識しながらも、なぜか過ぎて行ったものに寂しさを感じる毎日が続いていた。
ピザトーストを一口飲み込むと、マグカップを手にしたまま立ち上がる。そのまま縁側まで歩いた萌江は、じゃれ続ける二匹の子猫を見ながら腰を下ろした。
隣に腰を降ろしたクロの頭を軽く撫でながら、萌江はコーヒーを少しだけ喉に流し込む。その熱が食道を通り過ぎ、それがこの季節の空気を感じさせた。
そして視界に映るコーヒーの湯気と萌江の顔の間に、小さな雪が流れ落ちていく。
一つ視界に入り込むと、瞬く間に周囲に粉雪が降り注ぎ始めた。
「…………今日は…………冷えそうだね…………」
日曜日。
今週も、咲恵は来ない。
☆
いつもの足音とは違って聞こえていた
古めかしい二階建てのテナントビル。一階にはコンビニエンスストア。二階に外の階段から入れるのは西沙の事務所だけだ。元々が二階はワンフロアだけの小さなビル。
西沙と事務員の美由紀にとっては当然のようにコンビニは毎日の生活に重宝していた。もちろん店の店長も長く働いている従業員も歴代の学生アルバイトも知っている。
決して新しいビルではないせいか、外の階段の音は二階の奥にいても感じられるのが常だ。しかも、そもそもが飛び込みの来客は多くない。聞こえるのは大概がいつもの足音だけ。
しかし、この日は違った。
──……嫌な音だな…………
西沙は大きなソファーに寝転んだまま、そんなことを思った。足は肘掛け部分に乗せたまま。上を向いているはずの顔の上には下のコンビニで買ってきたばかりのファッション雑誌。
古めかしく錆びついた鉄製の階段から伝わるローファーの音。
その音から分かるのは、重い体重ではないということ。小柄なタイプ。膝を上げるペースから分かる身長の予測からもそれは分かる。しかし同時に弱々しくもない。
〝気の強さ〟が伺えた。
──…………面倒な…………
「ねえ、美由紀」
西沙は表情を見せないままに声を上げた。
何も応えないままにパソコンのキーボード上で指を止めただけの美由紀に対して、西沙が続ける。
「あと二〇秒くらいで面倒なの来るから────無視していいよ。目も合わせないで」
「はーい」
美由紀も受付のパソコンの前で普通に応えていた。モニターから目線を動かさずに平静を装うが、当然こんなことは度々あることではない。美由紀自身は西沙のような体質でもなく、もちろん西沙の感じている感覚がどんなものかを知る術も無い。
孤独だった高校時代の西沙に、唯一寄り添ってくれたのが美由紀だった。だからこそ、その感覚は分からなくとも気持ちは理解出来る。少なくとも美由紀はそう思っていた。
外から響く足音がしだいに大きくなり、やがて外の扉が開く音がする。
屋内の廊下沿いにあるドアではないせいか、このテナントのドアは二重の扉になっていた。外側の扉が異常に物々しいのが西沙は以前からあまり好きではない。中の扉は曇りガラスだったので色々と張り付けて楽しんではいたが全体的に古さを隠せるほどではないまま数年。
その曇りガラスの向こうに人影。
足音と共に大きくなる黒い影。
明らかに女性だった。予想通り身長は低い。
そしてガラスの扉が動く。
意外にも、扉が開いていくのに合わせて響くのは西沙の声。
「────随分と遠くから一人で? わざわざご苦労さんね…………仕事の依頼でもないのに…………」
西沙の声が広がるが、それでも体を起こそうとはしない。
美由紀も顔を上げなかったが、視界の先に黒い洋服の一部だけが入り込む。
その女性は美由紀のいる受付の前を通り過ぎた所で立ち止まった。
すると、再び西沙の声。
「…………ご用件は?」
すると、意外にもそれに返された女性の声は早い。
「──アンバランスね……この事務所の名前付けたのはあなたじゃないんでしょ? 硬すぎだよ…………名前と内装のゴシックセンスが噛み合ってないもの」
捲し立てる女性の声は若い。
そしてそこから動かないままに続けた。
「とは言っても、内装もこれだけ古いテナントビルじゃ無理はあるよね。頑張ってるほうなんじゃない? まあでも、心霊相談をメインにしてる会社の事務所としてはどうなんだろ…………そんなフリフリとした衣装で何年もやっていけるわけじゃないんだからさ。二〇代半ばにもなればゴスロリはさすがにねえ…………イメージ変えないと痛々しくなるんじゃない?」
それでも西沙は何も応えない。
広げた雑誌を顔に乗せたまま微動だにしない。決して表情を窺い知ることは出来なかったが、西沙がいつになく〝冷静〟なままであることだけは美由紀にも分かった。
──……この子…………怒らせなきゃいいけど…………
美由紀がそんなことを思う中、女性の声が続く。
「私のことを調べてるつもり? 無理だよ…………私はあなたが勝てる相手じゃない」
「──みんなそう言うんだ…………」
唐突に返す西沙の声。
その声は、あくまで、ゆっくりと続く。
「私に勝てる人は、お母さんと…………後は二人だけ…………あなたは違う…………」
「そう?」
応えた女性の声が僅かに上ずり、続いた。
「言葉をはぐらかしながら、私よりも上に位置してるつもりでいる…………負けたくないのは私のほうが若いから? それとも同業だから?」
「…………やっぱり……面倒臭いなあ…………」
そう応えた西沙がやっと動き始める。
上半身を起こしながら、西沙は顔を隠していた雑誌を持ち上げた。そのまま片手で雑誌を閉じながら、女性に向ける視線は鋭い。
西沙はソファーから両足を降ろし、上半身をゆっくりと起こしながら、低い声を響かせた。
「さっさと名前くらい言ったらどうなの? 来たのはそっちでしょ」
言いながら足を組み、背中をソファーの背もたれに預ける。
すると、その目線の先に立つ女性は、小さく一歩だけ前に出ると、口を開いた。
「……牧田……絵留…………今一七…………」
先程までに比べると、幾分声のトーンが低い。
決して派手な印象ではない。派手なファッションを好む西沙とは対極にいるタイプだ。グレーのシンプルなスキニーのデニムに、フレアとは縁がなさそうなトップスは黒のパフスリーブの長袖。長袖とは言っても首回りに余裕があるタイプだ。薄手のインナーのタートルネックは濃い目のグレー。アクセサリー類は見えない。ピアスやイヤリングも見えなかった。中途半端なセミロングの髪の毛は黒。しかし綺麗に染め上げた黒ではない。ムラのある自然の黒。ウェストポーチの明るい白がアンバランスだ。
その中途半端にも見える姿に、今度は西沙が畳み掛ける。
「何が目的なのかと思えば…………どうせ私じゃないんでしょ……どうしてあの二人に会いたいの? 理由くらいなら聞いてあげる」
絵留はすぐには応えなかった。
僅かに視線を落とし、その表情は最初の強気なものとは掛け離れたものだ。
そして西沙は、敢えてその絵留の表情に視線を送り続ける。
──…………ウソばかり…………
「……理由は、言えない…………」
──……でしょうね…………
「なら……私も二人の居場所を教えるわけにはいかない」
西沙はそう応えると、毅然と続けた。
「分からないんでしょ? どれだけかは知らないけど、あなたが持ってる力でも…………あの二人はそれを自然とやってる……私たちのようなレベルじゃないの。ワザとしおらしい表情で私から情報を聞き出そうとしても無駄」
すると、まるで目の色が変わるかのように絵留は表情を変えた。
口角を上げながら細い視線を西沙に向ける。
──…………出てきた……
西沙がそう思った直後、口を開いたのは絵留だったが、横に大きく広げた唇がまるで裂けるように開いていく。
「…………あなたは…………? 私を呼んだのね? あなたも色々と面倒そう…………何者?」
「さてね…………自分で調べたら? あなたにそんな力があれば、だけど」
決して西沙は臆することのないままに返していた。
軽く身を乗り出すようにしながら、両肘を膝につけ────小さな足の震えを押さえたまま。
やがて、絵留は西沙に背を向けた。そのままガラスの扉を静かに開けると、そのまま外扉の向こう側へ消えた。
そして、直後、美由紀が気付く。
──…………あれ? …………足音は?
「良かった…………目を合わせないように言っておいて正解だったみたい……」
その西沙の声に、美由紀はやっと顔を上げた。
そして、ソファーの背もたれに体を沈めた西沙が、大きく息を吐いて続ける。
「……〝蛇の目〟は…………人の心を惑わすからね…………」
☆
「あまり手荒なことはね…………そんなことしなくたってさ…………」
萌江はそう言うと、静かにコーヒーカップを受け皿に置き、そこから視線を上げる。
そこには向かいの席に座る咲恵。その視線は二人の間にある丸テーブルの上。
天気のいい午後。
決して萌江も咲恵を尋問するように追い詰めたかったわけではない。しかしそれを意識しながら、なんとか軌道修正をしようと模索を繰り返していた。
二人の間のコーヒーカップに降り注ぐ陽射しが恨めしくさえ感じる。月曜の午後のオープンカフェ。それだけ春の訪れを感じる頃でもあるし、同時に冬の終わりと束縛からの解放を意識する時期でもある。
視界に入るのは周囲の客たちの笑顔だけ。
多くの人々にとっては自然と笑顔の増える季節。
しかし萌江はあまりこの時期が好きではない。
冬の閉鎖的な寂しさが好きだった。不思議と何かに守られているかのような、そんな表現の難しい安心感。多くの人々にとってはその閉塞感が好ましいものではないのだろう。だからこそこの時期の空気の広がりに喜びを感じる。
萌江が感じているものは違った。冷え切った空気の中で、色々な物が少しずつ浄化されていく空気感。それを感じられる季節がその役目を終えようとする季節。
もっと綺麗にしてほしかった。
もっと冷たい空気で、ありとあらゆる物を清めてほしいとさえ思った。
──……どうせ…………何も綺麗になどならない…………
この季節の変わり目に、萌江はいつもそう感じる。
そしてやはり、目の前の〝穢れ〟はそのまま。
「理由くらいは聞かせてよ。そのくらいは、いいでしょ?」
出来るだけ柔らかく、萌江は言葉を投げかけていた。その言葉が小さなテーブルの向こうに座る咲恵に辿り着いた時、どこかでその柔らかさが大きく捻じ曲げられてしまうことももちろん分かってはいる。萌江自身の感情など、すでにどうでも良かった。大事なことは咲恵にどう伝わるか。
そして、それすらも、今は揺らいでいた。
ずっと変わらぬ感情のまま続けていけたら良かった。今まで幾つかの波を乗り越えてはきたが、その数に限りがあるわけではない。お互いに常に気持ちを張り続けてきた。そしてそれが〝関係〟と言うものであることも知っている。
──……一人のほうが楽…………
何度もそう思った。
だからこそ一度離れた。
しかし、自ら咲恵の元に戻ったのはなぜだろう。ただ寂しかっただけだろうか。今さらそれを悔いているとしたら、時間の概念から解放されることのない人間にとってはこれほど無駄なことはない。何が正解だったのか、今どうすることが正しいのか、それを過去と現在という括りだけで、取り返しのつかない現実として受け取るしか出来ない人間という生き物の限界。
何を後悔しているのだろう。
咲恵を自分の過去に巻き込んでしまったことだろうか。
──……違う…………咲恵が想定外の行動をとったことだ…………
萌江の思い通りになど動くはずがない。
萌江の都合のいいようになど動くはずがない。
〝関係〟の中で、それは誰に対しても同じ。自分以外は誰もが他人でしかない。考えなくても分かっていること。
だとしても、先が見えるはずの萌江でもどうしても見えないものがあった。
──……どうして咲恵は〝火の玉〟を奪おうとしたのか…………
かつては決してあり得ないと思っていたことだ。
誰のための行動だったのか。萌江のためか、咲恵自身のためだったのか、それが分からなければそもそもの理由も見えない。
そして咲恵がやっと、その重い唇を開いた。
「…………あなたは…………あの水晶に囚われ過ぎてる…………」
僅かに震えた咲恵のその唇に、なぜか萌江は艶を感じて視線をズラす。
自分のその感情を見透かされまいとするかのように、萌江の返した声は少しだけ上擦った。
「咲恵の手に負えるモノじゃないよ……私もその正体を理解出来てるわけじゃないけど……ただの水晶じゃないことは知ってるでしょ?」
仕事で宿泊していた温泉旅館での夜、咲恵が萌江の首から水晶を外したことは、その時すでに萌江は気が付いていた。そして次の日には萌江は気付かれないように水晶を取り返していた。しかし咲恵の真意までは計りかねたまま。
咲恵の中に、自分と同じように〝京子〟がいることはすでに分かっている。だからこそ咲恵は全力で萌江を守ろうとする。いざとなれば命すらも懸けるだろう。だからこそ萌江も咲恵を守ろうとしてきた。少なくとも萌江はそのつもりだったが、しかしそれはお互いの信頼がなければ成立しない。
そして今、萌江に咲恵を守り切る自信は、無い。間違いなく薄れていた。
咲恵から返ってきた言葉が、その溝をさらに深くする。
「……萌江は…………あの水晶が味方だと思う?」
「私はそう信じて────」
「中に何が〝いる〟のかも知らないのに…………?」
そう言って遮った咲恵の言葉は、萌江には抽象的過ぎた。
考えるよりも先に反射的に萌江が返していく。
「…………いる……?」
──……ダメだ……感情が先走ってる…………
その感情と思考の隙間に入り込むのは咲恵の少し強い声。
「何を理由に信じるか…………私の中の〝誰か〟の言葉でも信じられないの?」
咲恵はまるでその言葉に続けるように、目だけを上げた。
──……なるほど…………
その目を見ながら、萌江がゆっくりと応える。
「……そうね…………何を信じようか…………」
萌江はテーブルの上に身を乗り出した。
そして続ける。
「何を信じるかは…………私が自分で決める…………そして今信じたいのは〝あなた〟じゃない…………」
萌江は目を細めて続けた。
「〝咲恵〟を返せ…………潰すぞ」
直後、咲恵の目が大きく見開かれる。
そして、テーブルの上のスマートフォンが鳴った。
溜息を吐きながら、萌江がそれを手に取りながら呟いた。
「おかえり」
その視線の先には半ば呆然とした咲恵の表情。
萌江はモニターに表示された名前を見ながら眉間に皺を寄せ、その上で指を滑らせた。
「──何よ、取り込み中だからつまらない要件ならアンタも潰すよ」
『待って待って何よいきなり────』
スピーカーから僅かに漏れる慌てた声は西沙のものだ。萌江の口調から何かを感じ取ったのか、声を落ち着かせながら続ける。
『あまり良くない情報なんだけど、二人を心配して電話したの…………変な小娘が萌江と咲恵を探してここに来たんだけど…………まさかもう行ってる⁉︎』
それを聞いた萌江の口元に笑みが浮かんだ。
「そういうことか…………おかげで繋がったよ。とはいっても、小娘ねえ…………こっちではそんなふうには感じないけど────」
『名前は牧田絵留。一七って言ってたけど、どうだか…………』
「若い子にヤキモチなんか焼かないでよ。西沙もまだまだ若いでしょ」
『……萌江に言われると複雑なのはなぜかしら…………』
「私に潰されたくなかったらその子を調べなさい。ギャラは私が払うから杏奈ちゃんに調べてもらって。あの子も仕事欲しそうにしてたから。じゃね」
萌江は通話を一方的に切ると、再びスマートフォンをテーブルに置いた。
状況が飲み込めないままに呆然とする咲恵に向かって、再び口を開く。
「大丈夫?」
しかし咲恵は小さく口を動かすだけ。
萌江が続けた。
「分かってるよ……咲恵には常に意識はあった。決して中身を〝誰か〟に乗っ取られていたわけじゃない。でも、その〝影響〟は受けてたよね。だから私のさっきの言葉に〝そいつ〟は姿を隠した。少し楽になったでしょ?」
「…………うん……ごめん……」
咲恵はいつもの目に戻ると、それだけ応えてその目を伏せた。
萌江の言葉が続く。
「単純に誰かが入ってるとか…………そういうことじゃないんだよね。言葉で上手く表現出来ないけど、どうやら私たちの人生に影響を及ぼしてるのは…………〝お母さん〟だけじゃなさそう……その内の一人……しかも面倒なのがちょっかいかけてきたし…………」
「……さっきの電話…………」
「うん、電話の直前に咲恵に絡んできてた…………タチ悪いよねえ……それに…………」
萌江は言葉の途中で咲恵の背後の地面に視線を移して続ける。
「……あんな姿でしか会いに来られない……小者…………」
咲恵が振り返ると、そこには別の丸テーブルと白い椅子。
その椅子の足。
確かに萌江の言う通り、小者────小さな姿。
身長は一〇センチくらいだろうか。
椅子の足に隠れるようにしながら、二人を伺う姿があった。
「なに⁉︎ 女の子?」
思わず声を上げたのは咲恵。
すると、萌江がすぐに返した。
「大丈夫────周りを見て」
その声に、咲恵が周囲に視線を配ると、つい先程まで周囲で談笑していたはずの別の客たちの姿が無い。
その声も、空気の流れる音もすでに消えている。
完全な無音の中、世界には二人だけ。
代わりに周囲に動き回る、小さな小人たち。
今の咲恵にとって、唯一空気を震わせるものは萌江の声だけ。
その声が続いた。
「私たちに幻を見せてるだけ…………マニアックな手を使って、自分の小さな姿を私たちに見せてる…………小さな幻の集団で誤魔化そうとしたって…………」
「どういうこと⁉︎」
反射的に返しながらも、咲恵はその声に不安定な感情を乗せずにはいられない。
冷静さを欠いたそんな咲恵の言葉を、萌江は声色を変えずに遮っていく。
「落ち着いて咲恵。リリパック幻視で小人の幻を見せられてるだけ…………普通は精神疾患か麻薬患者に見られる症状だよ。でも私たちのコーヒーに麻薬を入れられた可能性はさすがにゼロ…………相手は物理的にここにいるわけじゃない。西沙に接触して西沙の意識から私たちに接触してきた。とすれば、リモートで私たちの脳内に直接リリパック幻視に相当する幻を見せることが出来る能力者…………その程度」
すると、視線の先でこちらを伺っていた少女の姿が少しずつ遠ざかり始めた。
それを見ていた咲恵が呟く。
「……? 着いてこいってこと?」
萌江はそれを鼻で笑うと、応えた。
「この現象に驚いてさえいれば着いていくかもしれないけど…………見えている映像なんて結局は脳内で作られてる創作物に過ぎない…………だから物理的に存在しない物まで見えるんでしょ。そもそも物理現象なんて人間が認知して初めて存在するモノ。相手もそれを分かって仕掛けてるよ。でもそんなモノを捻じ曲げられたくらいじゃね…………〝力〟があっても所詮は小さい…………付き合ってあげる義理はないよ」
──……子供だ……放っておいていい…………
直後、そう思った萌江の視界に、何かが動く。
──…………?
──……小人じゃない…………
いつの間にか萌江は立ち上がっていた。
そして無意識に身構える。左足を一歩だけ後ろに、踵を少しだけ浮かせた。
その萌江の姿に驚いた咲恵は、腰を僅かに浮かせて萌江の視線を追う。それは激しく左右に動いた。
先程までの冷静さはすでにない。
まるで別人の目。
その萌江が、小さく呟いた。
「…………お母さん…………」
「────え⁉︎」
思わず声を漏らした咲恵が声を荒げていた。
「まさか……萌江⁉︎ どういうこと⁉︎」
そう続いた咲恵の声に、萌江の瞳孔が鋭く変化していく。
その先には、小人ではない人影。
その姿は萌江が記憶で見ていた〝京子〟そのもの。
それは〝まるで幻のように〟現れては消える。
「────小娘が──」
萌江のその低い声が咲恵の耳に届いた時、ほぼ同時に周囲に音と人々が溢れる。
目の前の小人たちはもういない。
萌江も咲恵も、いつの間にか椅子に座ったまま。
急にコーヒーの香りが鼻に届いた。
呆然と咲恵が視線を上げると、そこにはコーヒーカップを持ち上げた萌江。
──…………夢……?
しかし目の前の萌江の目だけは鋭いまま。
懐疑心なのか、周囲に視線を配り続けていた。
「……萌江…………大丈夫……?」
咲恵のその声にも、萌江は警戒を解こうとはしていない。
僅かに怯えているようにも見えるその表情に、咲恵が続けた。
「…………何が起きたの……?」
咲恵は自分のその声が微かに震えていることに気が付きながらも、萌江の言葉を待つ。
そしてそれは、思ったよりも早かった。
「……直接、聞くしかなさそうだね…………」
冷静な自分を装いながら、それでも萌江の中にあるものは確実に〝畏れ〟そのもの。
その意識は未だ現実と幻の狭間。
そこに挟まる小さな咲恵の声が、辛うじて萌江の感情を引き留めた。
「…………聞くって────」
しかし、そう漏らした咲恵も言葉を詰まらせる。
そして直後、膝の上の手の中に違和感を感じた。
──……なに…………?
手の中に〝何か〟。
──…………なにを持ってるの……?
それは、冷たかった。
小さく、丸い。
指に、細いチェーンが絡む。
☆
一〇年前。
牧田絵留────七歳。
目の前に母親の姿があった。
牧田靖子────三二歳。
妊娠八ヶ月。
出生前診断で胎児のダウン症の可能性が分かったのは妊娠四ヶ月頃。
当時三五歳だった父親の太一は、その時点で産むことを諦めたかった。
しかし靖子は産むことを望んだ。
やがて意見の食い違いは家庭の雰囲気を侵していく。
二人に喧嘩が絶えない日々が続いた。
その日、太一がなぜそんな行動を取ったのか、それは後になっても太一自身分からないままだったという。
穏やかな気候の一日。僅かに陽が傾き始め、リビングの大きな窓からも強目の日光が入り込み始める。
そんな時間。
広いリビングのカーテンはいずれも開いたまま。リビングの向かい合った大きなソファーの裏で立ち尽くす靖子の影に、太一が重なるように寄り添っていた。
すでに大きくなった靖子のお腹に当てられた太一の右手。
その手に握られた包丁が、ゆっくりと靖子のお腹から抜き出されていく。
靖子は声も出せないまま。
力が抜けかけた直後、再びその包丁が突き刺さる。
まるでそれが自然なことのように、抵抗もなく入り込む。
もはや自分の身に起きていることなのかどうかも理解出来てはいない。
視界が揺れた。
重力が崩れていく。
体全体に冷たさを感じた。
床に倒れた靖子の体に、太一は馬乗りになっていた。
包丁を両手で逆手に持ち、何度も振り下ろす。
しだいに床に真っ赤な血溜まりが広がっていく。
その暖かさが、床に着いた太一の膝から伝わった。
もはや靖子に考える力は無かった。
腹部に入り込む太一の手の感覚に、絶望感と共に憎しみすらも薄れていく。
血だらけの体で、太一は暖かい胎児を取り出していた。
すでに腕と脚が取れかけた胎児を床の血溜まりに置くと、太一はその首に包丁を押し当てた。
思ったよりも簡単に、その首は離れていく。
血の匂いが太一の鼻に届いた時、やっと背後の気配に気が付いた。
振り返った先には、絵留が立っている。
微かに口角の上がったその絵留の表情が、太一の意識を掌握していた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十一部「粉雪」第2話(完全版)へつづく 〜