第十部「鬼と悪魔の爪」第3話(完全版)
山の麓の鳥居から大谷城家まではおよそ一キロ。
細くはあるが、舗装された道路が続いていた。
おそらくは旧鬼神村の土地のほとんどを所有していたと思われる大谷城家。地主としての権力は昔ならかなりのものだったのだろう。
しかし現代に於いてその立場は時代に飲まれたものでしかない。地元の人々は、その家の人間を見たこともないという者がほとんどだ。
戦後、高度経済成長期の昭和四〇年代に村の吸収合併と同時に土地の多くは行政に買い上げられ、細分化されて再配分するという形を取ったが、その理由の多くは公共事業のため。しかし結果的に進んだのはインフラとしての道路の施設だけ。
元々地場産業である林業を束ねていた大谷城家は、そのまま街に土木事業を起こして成功する。現在の経営者は大谷城家の二六代目。一族として株式の七五%を所有していた。
二七代目に当たるのは恵那の父親だが、大谷城家に婿養子として入る以前から自らが起こした会社の経営者でもあった。その事業の継続をどうしていくのかが、現在の大谷城家の一番の問題でもある。
大谷城家を訪ねた萌江と咲恵を出迎えたのは恵那だった。その表情からは、まだ不安材料が緩和されているようには見えない。
「滅多に外部の人と会うことはないのですが、少しならと承諾してもらいました」
萌江と咲恵が会うことを希望したのは二人。
恵那の母である智子と、その母、恵那にとっては祖母のフネ。二人がどのように伝承を受け継いできたのかが知りたかった。
外の塀が真新しいことから想像はしていたが、お屋敷といってもここ何年かで新しく改装された所がほとんどらしい。和風建築ではあったが、古い歴史を感じさせる建物ではない。
「大黒柱は総てそのまま残したそうですが、床下から天井まで、ほとんど新築のようなものですよ」
恵那は二人を屋敷の奥に案内しながら説明する。
途中、数人の使用人とすれ違うが、いずれも感じのいい人たちだ。年配の使用人が多いような印象だったが、屋敷自体と同じく嫌なものは感じない。
通された広い座敷はまだ畳も新しく見える。廊下から感じていたが、床暖房も設置されているのだろう。僅かに下から熱を感じる。熱過ぎない程度が丁度いい。
障子を開け放った大きなガラス窓からは広い中庭も見えた。午前中に粉雪を舞わせていた雲ももう無く、今はその中庭に陽が差し込んでいた。
萌江と咲恵の向かいに、座敷に戻ってきた恵那が腰を降ろす。
「もうすぐ来るかと思います」
服装は一般的なワンピースだったが、恵那にはまるで和服を着たかのような日本女性の所作が感じられた。幼い頃から叩き込まれてきたであろうことは明らかだ。
しかし、その恵那の表情からは明らかな緊張が見て取れた。元々の相談の内容からということもあるのかもしれないが、それだけとも思えない。確実に昨日以上に気持ちが張り詰めて見えた。
かと言って世間話を振るにもあからさま過ぎる、と、咲恵が口を開いた。
「恵那さんの婚約者の方というのは、お見合いですか?」
「はい…………お恥ずかしながら、私は外を知らずに育ってきたようなものですので……婿養子として大谷城家に入ることが最低条件でお見合いを受けて頂いた方で、とても素敵な方でした……遠い親戚筋に当たる方でもあるそうでして…………」
そう返した恵那の表情が、一時的にだが僅かに和らいだ。
それを確認するように咲恵が繋いでいく。
「女性だけで繋ぐというのも大変ですね」
「そうですね…………ですが、父や祖父もこの家にとって大事に扱われてきたと聞いております…………」
「恵那さんご自身は、伝承自体はどう聞いていたのですか?」
「そうですね……あくまで世間で言われているものと同じかと思います。ただ、婿養子を迎えて婚姻をすると、必ず継承する事柄があるとは聞いていました。残念ながらその中身はまだ分かりませんが…………」
「ご結婚の前に私たちのところにお話を持ってきて頂いて、こちらとしては感謝しています」
「そう…………なのですか?」
恵那は顔を上げた。
笑顔の咲恵が返していく。
「さっき、祠まで行って分かったことがあります。ご結婚後だったら…………おそらく恵那さんは外部に相談はしなかったでしょう」
「…………それは……………………」
その恵那の呟きにも聞こえる声を、障子に作られた影が遮る。
障子に形作られていたのは、複数の人影。その一人、使用人と思われる影が膝を落として障子を開けると、そこから入ってきたのは二人の和服姿の女性。
フネと智子だった。
フネは七五才と聞いていたが、とてもそうは見えないくらいに背筋の伸びた凛とした女性だった。白い髪の毛以外は、とても老婆と言える容姿ではない。
その娘の智子は五一才。現在の大谷城家を取り仕切っているであろう中心人物だったが、さすがに隙の無い所作が美しくもある。着なれた和服がそれを裏打ちしていた。
恵那はすぐに場所を空け、膝を曲げたまま、中腰で横に体を滑らせる。
咲恵はすぐに、その表情を目だけで追っていた。やはり、再び強張っている。
そして座敷に響いたのは智子の声。
「お待たせ致しました。二七代目当主…………智子と申します」
深々と頭を下げながら続ける。
「隣は二六代目当主…………フネです」
隣のフネが頭を下げるが、智子よりやや高い。
──……女当主か……分かりやすい…………
そう思った萌江の隣で、咲恵が頭を下げながら口を開いた。
「私は黒井咲恵と申します。隣は恵元萌江…………突然の要望にも関わらず────」
それを、遮ったのは智子の冷たい声。
「構いません」
──…………分かりやすい…………
萌江はそう思いながら、僅かに、口元に笑みを浮かべていた。
智子の言葉が続く。
「最初はお断りしようかと思ったのですが、娘の恵那からどうしてもと頭を下げられました。さすがにあそこまでされては、母として一度は話だけでもと思ったまでのこと」
その智子の目が咲恵を捉え、続けた。
「して、本日の御用向きは」
すでに冷たかった空気が、さらに張り詰める。
そして、萌江の目は、フネへ。
──……ホントに……分かりやすいよ…………
その空気の中、咲恵が毅然と口を開いた。
「私たちはとある方からの依頼で〝鬼神の呪い〟と言われる伝承を調査していました。もちろん世間一般のほとんどの人々は呪いや祟りなどという言葉を信じてはいません。この家の方々を除いては……ですが」
視線を落としたままのフネの顔が僅かに上がる。
対照的に咲恵の目を見たままの智子が口を開いた。
「確かに、そうですね……あの呪いは我が大谷城家にかけられたものです」
堂々とした口調。
しかし、ある確信を見ていた咲恵も凛としたまま返していく。
「つまり……鬼を退治したことによる鬼の呪いだという認識で間違いはございませんね。娘さんもだいぶ心配されているようですが…………」
「そうですね……私たちもその不安は確かにあります。すでにだいぶ御調べのようで、隠し事も無駄のようですね」
応えた智子の瞼が僅かに下がった。
咲恵がさらに入り込む。
「鬼を退治したのは〝大谷城御寧〟という巫女とのことですが…………本来巫女とは血筋で受け継がれるものです。大谷城家は過去に神社と繋がりがおありなのですか?」
「いえ……それに関しては私も疑問に感じたことはありますが、大谷城家自体は神社とは関わりのない血筋ですので、あくまで予想ですが〝御寧〟とは神社から嫁入りしてきたのではないかと考えておりました」
「なるほど……では呪いそのものに関してですが…………産まれた男児は一才を迎える前に…………というのは────失礼ながら戸籍も調べさせて頂きました。事実のようですね」
直後、その咲恵の言葉に返すのは、智子のすぐ斜め後ろから。
「確かに…………」
挟まったのは、智子の僅かに後ろでやりとりを聞いていたフネ。
その低い声が、ゆっくりと続く。
「……その呪いが終わると…………もっと恐ろしい呪いが降りかかると…………そう伝わっておりますよ…………」
「終わる?」
そう口を開いて挟まったのは萌江だった。
その萌江が続ける。
「終わると、ですか? 終わらせる、と…………じゃなくてですか?」
すると、智子が細い目を萌江へ。
萌江はフネを見続けたまま。
言葉を繋げた。
「……みんな都合のいい話だよ……あの祠の下に埋まってるのは────」
しかし、突然その萌江の体が前のめりに。
畳に両手をつく。
──…………まずい!
そう思った咲恵は素早く片膝を立てて萌江の背中に手を添えた。
慌てて声を上げるのは智子。
「どうなさいました⁉︎ 救急車を────」
「いえ」
それをすぐに制した咲恵が続ける。
「──ご心配なく────私たちにはよくあることですよ。病院では治りませんので…………」
──……憑かれてるんじゃない…………誰…………⁉︎
すると、萌江の口から低い声が絞り出された。
「〝……鬼に振り回された……悪魔どもめ…………〟」
次の瞬間────。
萌江と咲恵の背後の襖が激しく開く。
振り返った咲恵の口元に笑みが浮かんでいた。
そこに立っているのは黒いゴスロリ衣装────西沙の姿。
「待ってた────」
その咲恵の声の直後、西沙は萌江に近付いて頭を鷲掴みにしていた。畳に押し付けようとするが、強い力で押し戻される。
西沙に続けて入ってきた杏奈が小さく呟く。
「もう……強引なんだから…………」
そして西沙の声。
「…………お前は……誰だ…………!」
しかし次の瞬間、萌江は西沙の手を払い除けて体を起こしたかと思うと、素早く左手に水晶のネックレスを巻きつける。
その左手に、西沙は右手を重ねて水晶を挟み込んでいた。
──……早い…………
そう咲恵が思う内に、萌江の伸ばした左手の袖から、液体が一滴だけ落ちた。
咲恵は考えるよりも早く萌江の左腕に飛びかかると、叫ぶ。
「杏奈ちゃん! 萌江を押さえて!」
杏奈は慌てながらも素早く萌江を背後から抱える。
袖を捲ると、萌江の白い腕には三本の等間隔の長い切り傷。
咲恵はその傷を自らの手で覆っていた。
「……私は…………あなたを守るためにここにいる…………」
傷を覆う咲恵の指の間から血が滲んでいた。
そして西沙の絞り出す声。
「お前は…………誰だ…………!」
「〝…………殺せ〟」
萌江の口が動く。
「〝……殺せ…………生かしておくな…………〟」
──……水晶が……熱い…………
そう感じた西沙は、無理矢理に萌江の指をこじ開け、水晶を掴み、振り上げ、声を荒げる。
「こんな水晶など!」
「────やめて‼︎」
叫んでいたのは咲恵だった。
次の瞬間、西沙の右手が萌江の顔を掴んでいた。
目を閉じたまま、ブツブツと何かを唱え続け、やがて、萌江の力が抜ける。
少し遅れて、全員の気持ちも緩む。
西沙は萌江から離れると、振り返って姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「────突然申し訳ありませんでした」
見ると智子と恵那は、大きく目を見開いたまま僅かに退け反らせた体を震わせているが、フネはさすがの貫禄で身じろぎもしていない。
そのフネが小さく口を開いた。
「……なかなか面白いものを見させて頂きました…………失礼ながら、普通の方々ではありませんね…………みなさんは…………私たちにかけられた呪いを解いて頂くためにここへ…………?」
「そのつもりです。そのためにここに来ました」
そう応えたのは顔を上げた西沙。
フネは真剣な表情のまま、何も返さない。しかしなぜか、それまでよりも柔らかい。
その時、咲恵は萌江の腕を掴んだ手をやっと離していた。
傷などどこにも無い。あるのは咲恵が握った跡だけ。
──……何を見せられた…………誰に…………
「……大変……失礼しました…………」
咲恵は智子に軽く頭を下げながら続ける。
「……明日…………改めさせて頂きます…………」
意識を失いかけたままの萌江を連れて、一度、旅館に戻る。
萌江は精神的には落ち着いていたが、旅館に着くなり意識を失い、依然その意識は完全には戻らないまま。その体に布団をかけながら、咲恵は無意識に涙が零れることに驚いていた。
怖かった。
少しずつ、萌江が何かに蝕まれているような気がしていた。
「ごめんね…………遅くなって…………」
そう言った西沙が萌江の枕の横に〝火の玉〟を置く。
その柔らかい声に、咲恵は背中を向けたまますぐに返した。
「何言ってるのよ……私が無理言ったんだから…………あんまりいいタイミングだったから狙ったのかと思ったわ」
杏奈が西沙からの電話を受けたのは山の鳥居まで降りてきた時だった。停めていたレンタカーで駅に向かった杏奈は、西沙に急かされて大谷城家までを急いだ。
「なんかまずい……嫌な予感がするから急いで!」
そして、そう叫んだ西沙の予感は大谷城家で的中する。
「一応伝承の話も調べてきたし、簡単には杏奈からも聞いたけど…………裏があるなんてレベルじゃないよ今回の話は…………」
「やっぱり来てもらって良かった…………」
咲恵は振り返って西沙に体を向けながらも、肩を落としたまま力が無い。
そして西沙が声を上げる。
「咲恵がそんな情けないこと言わないでよ。どうしたの? しっかりしてよ」
「……ごめん……最近、萌江が……夢に悪魔が出るって言ってて…………」
「見えたよ…………あれは悪魔じゃない。咲恵も気付いてるんでしょ? 悪魔の姿をした〝蛇〟だ」
「…………一体…………何者なの…………」
そう返す咲恵には、顔を上げる精神的な余力もなかった。胸のどこかが締め付けられるかのよう。
どう対処すべきなのか、何も見えてはこなかった。
その咲恵に返す西沙の声は低い。
「今回の件……最後まで関わらせて…………ギャラはいらない…………呪いを作り出してるのは〝あの家〟そのものだ…………終わらせないと……」
そこに挟まる声は杏奈だった。
「大谷城家が……ってことですか?」
それに応えるのは咲恵。
「発端の〝鬼の伝承〟部分から…………総てに於いて大谷城家が関わってる…………あそこが事の起こりで、呪いを広めた根源…………でももう一つだけ、杏奈ちゃんに裏を取って欲しいことがあるの…………」
咲恵は鞄から取り出したメモ帳に走り書きをすると、そのページを破り取って杏奈に手渡す。
「……お願い……」
それに目を通した杏奈が呟くように口を開いた。
そしてそれは、小さく震える。
「…………そういう……ことなんですか…………?」
「そこはまだ私の予想の範囲……でも多分間違ってない。だから裏が欲しい…………頼める?」
「明日のお昼までには…………」
「じゃあ明日の午後イチで大谷城家にアポもお願い」
「分かりました……動きます」
そう言って杏奈は腰を上げながらスマートフォンを手に取り、そこで動きを止めた。
「……ごめんなさい…………気付かなかったけど、萌江さんからメール来てました…………」
「メール? いつ?」
咲恵のその質問に、杏奈が続ける。
「たぶん西沙さんを迎えに行った頃だと思うんですけど……〝タブレットの写真を夢の二人に〟って…………夢の二人?」
すると咲恵は萌江のサッチェルバッグを手に取り、中からタブレットを引っ張り出す。
そして咲恵は素早くロックを解除した。そのタブレットは萌江と咲恵の二人の指紋でロックを解除することが出来る物。
ロックを解除した直後に画面に現れたのは祠の〝木彫りの鬼〟。
杏奈の声が続く。
「萌江さん……こうなることを予測してたんじゃ…………」
──……そうか…………
咲恵はスマートフォンを取り出して電話をかけた。
「みっちゃん、ごめん。こっちの部屋に来れる?」
☆
萌江が目を覚ましたのは夕方の六時を過ぎた頃。
横では咲恵と西沙が服を着たまま体を丸め、小さく寝息を立てている。
──…………心配……かけたんだろうな…………
萌江は枕の横のネックレスを首に回すと、服を脱ぎながら露天風呂へのガラスを開けた。
寒くはない。少しヒンヤリとする程度。
僅かに明るくなった空が見えるが、湯船の周りの柵に遮られて遠くの景色までは見えない。湯船に浸かると、考えていた以上に体の芯が冷えていたことを感じた。
温もりがゆっくりと体の中に染み込む。
昼間のことは、覚えているようで記憶はあやふやなまま。
──……また、呼ばれたね…………
背後でガラスの開く音がする。
溜息と共に聞こえるのは咲恵の声。
「……おかえり…………」
そして萌江の背後から、首筋に咲恵の両腕が回る。
萌江は振り返りながら返した。
「…………ただいま」
そのまま、その口を咲恵が塞ぐ。
二人の唇が離れてすぐ、先に口を開いたのは萌江だった。
「……明日は……邪魔させないから…………」
「…………誰なの? ……私にも西沙ちゃんにも分からない…………」
咲恵の中の恐怖心はまだ消えていない。むしろ増幅していた。西沙が合流したことでの安心感は確かにあった。しかし気持ちは落ち着かない。
見えない怖さがいつの間にか浸透していた。
そして、萌江がゆっくりと応える。
「…………〝お母さん〟…………ここにいるよ…………」
直後、目を見開いた咲恵の顔を、西沙の右手が覆う。
いつの間にか背後まで近付いていた西沙に、咲恵は微塵も気が付かなかった。そして驚く間もないままに意識を失う。
その体を支えた西沙が大きく溜息を吐いた。
「まったく……手間のかかるカップルね」
そしてその西沙に笑顔を向けた萌江の声。
「よっ、久しぶり」
「何が久しぶりよ。さっさと服着て。咲恵を起こすよ」
浴衣に着替えた萌江が座敷に戻ると、横になった咲恵の横には座り込んだ西沙。その西沙が顔を上げて口を開く。
「萌江も気付いてたんでしょ? わざと?」
「まさか」
萌江は応えながら水晶のネックレスを外す。
それを左手にぶら下げ、咲恵の顔に近付けて続けた。
「確証が無かったけど…………やっぱりそうだったみたい…………」
「…………そっか……」
西沙が呟くように返した直後、咲恵の目が開く。
そして、萌江の顔に笑顔が浮かぶ。
西沙の溜息に続いて咲恵が体を起こした。
口を開いたのは萌江。
「……おかえり……」
「…………ただいま」
応える咲恵にも笑顔が浮かぶ。
すると、再び西沙が大きく溜息を吐いた。
「…………ホントに困ったカップルだよ」
部屋に夕食の御膳が四つ運ばれた直後に杏奈が戻った。
「二七代目当主の智子さんの旦那さんは、今で言うIT企業ってやつですね」
日本酒をお猪口で飲みながらの杏奈が続ける。
「昔はコンピュータソフト会社って呼んでたみたいですけど。インターネットが普及する前です。今でも会社はそれなりの大きさみたいですよ。従業員も現在は五〇名を越えてます…………もう一つの件は明日まで待ってください。警察の知り合いに頼んで来ました」
それにすぐに応えたのは咲恵だった。
「分かった。ありがとう…………明日もお願いね」
「それもいいけど…………」
そう言って咲恵の言葉を遮った西沙が続ける。
「それより…………あなたたちでしょ…………」
そう言いながら西沙は、向かいに座る萌江と咲恵の顔に交互に視線を送った。
「西沙には、どう見えてるの?」
そう返したのは萌江だった。
そしてその声は、西沙の予想を超える真剣なもの。
一瞬気持ちを押されるが、それを見透かされまいとするかのように西沙はすぐに応えた。
「二人の中に……それぞれ萌江のお母さんがいる…………だから咲恵は何があっても萌江を守ろうとする……きっと命を懸けても守るんでしょうね…………咲恵も自覚はあるでしょ?」
視線を振られた咲恵が、軽く目線を落とした。その視線の先の一人用の鍋が柔らかい湯気を上げる。すでに固形燃料の火は消えていた。
そして、ゆっくりと応えた。
「……安っぽい言葉って嫌いだから…………運命なんて言いたくはないけど…………」
そこに、隣で柔らかく煮込まれた豚肉を箸で切った萌江が挟まる。
「…………咲恵がいなかったら今の私はないよ…………って、まあ……今さらか…………」
「みんなそうだよね…………でも、萌江で良かった…………」
その咲恵の言葉に、萌江は笑顔になって返すだけ。
「…………私も」
「でも…………」
そう言って挟まった西沙が続けた。
「萌江の中には…………もう一人、いるよね…………」
その言葉に一瞬全員の動きが止まる。
やがて萌江がお猪口の日本酒を飲み干した。
そして口を開く。
「……みんなの目の前のお刺身…………〆《しめ》た魚だよね。水揚げした直後には〆《しめ》てるから他の物よりも高値で取引される。刺身はただ魚を捌いただけの物じゃない。職人の腕で、職人の包丁で引かれた刺身…………盛り付けもお洒落……古臭さを感じさせない。この旅館には本物の職人がいる…………私の中にも本物の職人がいる……私でも勝てない…………それが誰なのかを知りたい…………」
☆
翌日、昼過ぎ。
この日も薄い曇り空。
大谷城家に全員が集まっていた。
広い座敷。
その座敷を囲む障子戸の総ては閉じられたまま。その障子が薄い陽の光をさらに遮り、まだ室内の誰も影は濃くない。
萌江を中心に、その左右に咲恵と西沙。後ろに杏奈。
その目の前の左には手前から恵那、母の智子、祖母のフネ。
向かい合う形でフネの前に重三郎。智子の前に優次。そして恵那の目の前には昨日祠で会ったばかりの千田雄一がいた。
杏奈が繋いでいたが、そもそも雄一は自分が呼ばれた理由を知らない。前日、山の上で偶然出会っただけ。
萌江たち以外は今日のこの現場の理由を知らない。
そして、最初に咲恵が口を開く。
「改めてお集まり頂きまして……ありがとうございます」
そこに最初に返すのはフネ。
「……祠のことでしょうか……今さらになって……皆さんは何をなさるおつもりか…………」
そう言いながらも、フネは目線を上げない。不思議と昨日ほどの落ち着きを感じられない。
咲恵はその表情に注視しながら、ゆっくりと応えた。
「……この村…………違いますね…………この家の〝呪い〟を終わらせるために来ました…………」
「何のために…………」
「…………呼ばれたからです…………私たちはここに呼ばれました…………それには必ず意味があります。そして……これは私たちでなければ解決は出来ないでしょう」
「…………ほう……」
「すでにこの場の何人かはご存知かと思いますが………私たちはまともな人間ではありません…………特殊な能力があります…………私は〝過去〟を見ることが出来る…………」
そして咲恵は、フネを見る。
初めて顔を上げたフネと目が合った。
その目が、僅かに震えて見えた。
「…………皆さん……」
そう言って正座のまま目の前の畳に右手を着いた咲恵が続ける。
「畳に片手をお願いします」
咲恵が六人に目線を向けると、全員は戸惑いながらも畳に手を着き始めた。
直後、畳を通じて咲恵に六人の記憶が流れ込む。
大量の水が流れ込むように、ゆっくりと、時に走るかのように、押し寄せた。
溢れそうになるところで、咲恵は左手を隣の萌江に差し出す。
萌江は素早くその手を掴んだ。
萌江の中で六人の感情が混じり合う。
やがて、咲恵が畳から手を離した。
途端に咲恵と、そして手を繋いでいた萌江の空間だけが静かになったかのような感覚に包まれ、一瞬だけ、二人の時が止まる。
そして、隣の西沙は気を張り続けていた。
──……たぶん…………大丈夫…………
少しの間を空け、口を開いたのは萌江。
「……そもそも…………〝鬼〟なんかいなかった…………」
バラバラに畳から手を離し、体を上げた六人が、一斉に萌江に視線を送った。
萌江の言葉が続く。
「……いたとすれば…………〝悪魔〟だ…………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十部「鬼と悪魔の爪」第4話(完全版)へつづく 〜