第十部「鬼と悪魔の爪」第2話(完全版)
春が近付くと同時に、少しずつ日が長くなるのを感じる。
夕方の四時といえば真冬であればすでに薄暗い。
しかしこの時期になるとまだ旅館の窓から差し込む陽はそれほど傾いてはいない。
時々雪がパラつく程度の季節。
今夜の天気予報も短時間だけではあったが雪マーク。
実際に降るかどうかは分からない。
そんな中で、萌江が二人をわざわざこの地に呼び出した理由は単純だった。
〝そうすべきだと思ったから〟。
本来ならばここに来る前に話を聞いてきても良かったはず。しかし、萌江の見た未来になぜかその選択肢はない。
──……これには……必ず意味がある…………
萌江はそう思っていた。
温泉旅館では別室が用意された。
通常の客室とはいえ、それなりの広さがある部屋だった。
そして、満田と共にやってきた二人には年齢だけではない疲労が見えた。
源田重三郎──七八才。元大工。
渡辺優次──五三才。土木会社社長。
最初に切り出したのは咲恵だった。
「お二人は、この村にいた時には面識は無かったと聞いていますが…………」
現在ここは吸収合併されたことで〝市〟となっている。しかし古くからここにいる人たちは未だにこの地のことを〝村〟と呼ぶ慣例がある。田舎ではよくあること。地元の人たちとの会話でそれが分かっていた咲恵も、あえて分かりやすいように〝村〟と表現した。
そしてそれにゆっくりと応えたのは優次。満田に最初に今回の話を持ち込んだ人物だ。
「……はい……私は大学の入学と同時に引っ越して、それ以来、生活の拠点はここではありません。三つ上の兄がいましてね。実家はその兄が継いでいます」
「俺も同じだ」
そう言って続けるのは隣の重三郎。
元大工という割には痩せて見えるが、肩や首の筋肉が未だに残っているところから分かるのは、その痩せ方は数十年に渡る加齢だけではないということ。
「一つ上の兄貴がここの実家にいる。孫もいるよ。俺は中学を出てすぐに大工になった…………優次に会ったのはだいぶ経ってからだったが、街に出てからだな」
「同郷だったので仲良くなりましてね…………源田さんが引退してからもよく一緒に呑みに行ってました」
そう言って話を繋げたのは優次だった。
それに咲恵が返す。
「……夢に〝鬼〟が出始めたのは三ヶ月ほど前と聞きましたが…………」
すると、優次が表情を曇らせて応えた。
「そうですね…………そのくらいです」
途端に暗い印象になるが、返す咲恵は毅然としたまま。
「源田さんもですか?」
すると重三郎はすぐに返した。
「そうだな…………そのくらいだと思う。二ヶ月くらいした頃に優次が来て、その時に聞いたが…………まさか同じ夢を見てるとはな……確かに昔話というか〝鬼神の呪い〟のことは子供の頃から知ってはいたよ。でも祠があるって言ったって、鬼が実際にはいないなんて子供だって分かることだ」
「まあ、そうでしょうね」
そう咲恵が応えた時、それに繋げたのは萌江だった。
「最近……インターネットのせいだと思うんですけど、変にオカルトブームみたいになってましてね…………よくある心霊スポットみたいな場所も人気みたいですけど、ここのような伝説系も一定の人気はあるみたいです。鬼神山の祠の話がネットで言われるようになったのは三ヶ月くらい前…………」
「はい…………」
優次がそう挟まり、続ける。
「最初は、単純に懐かしいと思いました……故郷の話ですから…………でもそれだけで、どうして二人が〝鬼に殺される夢〟を見るのか…………そもそもネットで調べたのは夢を見るようになってからです」
「確かに、ただの潜在意識的な物である可能性は事実としてあります。ですが…………」
そう返した萌江は、少し間を開けてから続けた。
「……お二人が、ここに来た理由にも、意味があると思っています…………私自身、伝承が真実だとは思っていません。妖怪としての鬼がいたとも思っていません。しかし、伝承から続く〝祟り〟は…………事実でした」
すると、優次が不安気な表情を浮かべる。
「そんな……鬼なんて────」
それを遮って繋げる萌江の言葉には、いつの間にか力が篭っていく。
「いえ、鬼ではありません…………〝祟り〟の部分です。鬼を退治した大谷城御寧の末裔に対する祟りです。確かにネットに書かれているように…………大谷城家の男は全員……一才を迎える前に死んでいます」
「本当のことなんですか……?」
さすがに優次もそう返して目を丸くした。
「今日、市役所に行って裏は取りました。遡れるのは明治まででしたが」
その萌江の言葉を聞いた優次も、隣の重三郎も言葉を失う。
萌江がさらに続ける。
「オカルト好きでもそこまで調べる人はいないでしょうし、普通に考えて事実とは思わない。何代にも渡ってですからね…………私たちとしては祠を見るよりも、まずそれが事実かどうかを調べたかったんです。そこが崩れてしまっては呪いも祟りもありませんからね。ただの伝承で終わります。祠には明日行ってきますよ。お二人にはお伝えしていたように、あと少しだけこの温泉旅館でゆっくりなさってください。いい温泉ですよ。何か進展があったらお伝えします」
「私たちは何をすれば…………」
慌てたように言葉を返す優次に、萌江は笑顔で返した。
「お二人には必ず協力して頂く時が来ます。それまでは、少し体を休めて下さい」
そこに挟まったのは、やりとりを見守っていた満田だった。
「任せて問題ありませんよ。いずれ分かりますから」
もちろん満田にも先のことは分からない。信頼から来る言葉だ。
二人は満田と三人で旅館に部屋をとった。
そして、部屋に戻った萌江と咲恵は、意外な人物からロビーに呼び出される。
温泉旅館と言っても和風のリゾートホテルのような所だ。ロビーも狭くはない。過剰過ぎない間接照明が和風の雰囲気を静かに盛り上げていた。
喫茶スペースも丸テーブルが六つ並び、しかもその間隔の広さがゆとりを演出する。
そのテーブルの一つで手を振るのは杏奈だった。
「どうしてここにいるのよ」
そう声を上げる萌江に杏奈は笑顔のまま。
「だって咲恵さんのお店に行ったらここだって聞いたんですもん」
咲恵は当然店に宿泊先の情報は伝えてあった。緊急用としてだが、最近口うるさくなってきた由紀用でもある。
萌江と咲恵が向かいの席に座るが、杏奈の隣には女性が一人。グレーのワンピースを着た落ち着いた印象の女性だった。年齢は杏奈と同じくらいだろうか。少し上の三〇前後に見える。品のいい印象のその女性は節目がちにテーブルに視線を落としている。
萌江はコーヒーを注文するとすぐに口を開いていた。
「緊急? ちょっと大きな仕事抱えてるんだけど」
「〝鬼神の呪い〟ですか?」
「さすがオカルトライター」
「場所聞いただけですぐに分かりましたよ。でもどんな繋がりですか?」
「ちょっとね」
「私もそのちょっとした繋がりなんですけど…………興味あります?」
「へえー」
萌江はそう言って口元に笑みを浮かべるが、その目は変わらない。隣でその萌江の視線を追いかけた咲恵は、自然と杏奈の隣の女性に顔を振っていた。
そして繋げたのは萌江。
「話しだいかなあ」
「伝承の話はもうご存知ですよね」
意気揚々と話す杏奈に、萌江の目付きが変わる。あくまで冷静なまま。
「色々と調べさせてもらったよ」
「じゃあ…………大谷城家については…………」
「まあ、色々とね」
「では、これから大谷城家を継ぐことになる女性をご紹介します」
杏奈は隣の女性に手を向けて続けた。
「……大谷城……恵那さんです」
そして、やっとその女性が顔を上げる。
その目からは〝負の感情〟が見て取れた。僅かに怯えた唇が開きかける。
その時、萌江と咲恵の前にコーヒーが届けられた。テーブルの上にコーヒーの香りが広がる。マグカップも旅館のコンセプトに合わせてか和風なデザイン。
その湯気の向こうの女性────恵那は、小さく視線を下げた。
そこに萌江が口を開く。
「杏奈ちゃん……相変わらずいい仕事するねえ。本職なんだっけ」
杏奈が即答した
「写真家です」
そこに咲恵。
「じゃオカルトライターの杏奈ちゃん、説明してくれる?」
咲恵はそう言うと、ゆっくりとコーヒーを口に入れる。
杏奈は咲恵の言葉を全く気にする様子もなく返していった。
「まあブームに乗って取材してたんですけどね…………真実を知りたくてダイレクトにコンタクトを取ったら逆に相談されまして……」
「ストレートだねえ。まあ、普通は簡単に他人の戸籍を見れるとは思わないよねえ」
そう挟まった萌江が続ける。
「実は今日、その戸籍をある情報筋から調べさせてもらったんだけど…………相談するってことは、やっぱり〝大谷城家に伝わる祟り〟のこと?」
恵那を見つめるその萌江の口元に笑みが浮かぶ。
すると、恵那の震える唇がやっと小さく動いた。
「…………はい…………あの話は……本当です…………」
か細い声だった。
不思議と、その声が空気を作り出していた。
ロビーを囲う大きなガラスから入るのはすでに月灯り。
なぜか空気ですら静かに感じる時間。
──……あの女の人か…………
萌江は市役所で見た資料を思い出していた。
「……私は今……二九ですが…………二つ下の弟は数ヶ月で亡くなったそうです…………母にも兄が二人いました。どちらも一年もせずに亡くなっています…………祖母の兄も同じだそうです。ですので、祖父も父も婿養子です」
──……この人は……何も嘘はついていない…………
データとしての裏を取っていなければ、素直に信じられるような話ではない。しかし今、萌江と咲恵が聞かされている話は、二人にとってはあまりにもリアルだ。
そのリアルな話が続く。
「私にも婚約者がいます……婿養子として家に入ってもらうことは、なんとか承諾してもらいましたが…………祟りと言いますか……呪いの話をした途端に向こうの家とも……こう……なんと言いますか色々とゴタゴタし始めまして…………」
結婚となると両家が絡むこと。言いにくいこともあるのだろう。かつては、そこまでの大きな家とは違うとは言っても萌江も結婚と離婚を経験した身。僅かでも理解は出来る。
口籠もり始めた恵那の言葉を、萌江が拾った。
「その呪いを…………何とかしてほしいと?」
すると、恵那の目付きが僅かに力を持った。
そして、その口が開く。
「…………はい…………私が子供を産んでも同じになるかもしれません…………そう思うと……正直怖いんです…………」
力を持ちながらも怯える目。
萌江も真剣な声で返した。
「今までにお祓いとかは────」
「いえ、一度も無いそうです……そういったことをすると、さらに呪いが強まると言われているそうでして…………」
──……根が深いな…………
「分かった────杏奈ちゃん、この話は私たちが受けるよ」
「さすが」
途端に明るくなった表情の杏奈の横で、恵那が顔を上げる。瞼が大きく上がった。
そして萌江が続ける。
「その代わり…………恵那さん…………大谷城家に入らせてもらえる? あなたのお母さんとおばあさんから直接話を聞きたい。杏奈ちゃん以上にストレートに行かせてもらうよ」
すると、少しだけ力の籠った恵那の声。
「分かりました……時間は作ります」
「実は明日の昼前に祠を見に行くんだけど…………その後はどう? 午後一時くらいとかで」
「何とかします」
「決まったら杏奈ちゃんに伝えて。確か大谷城家はあの山の麓のお屋敷でしょ?」
すると萌江は杏奈に顔を向けて続けた。
「で、杏奈ちゃんの今夜の宿は? どうせ決まってないんでしょ?」
すると、杏奈がニヤニヤとしながら小さく応えた。
「どこが……いいですかねえ。温泉旅館とかいいなあって…………」
「明日、祠まで付き合ってくれるならもう一部屋取るよ。どうせ行くつもりだったんでしょ?」
「喜んでお付き合いします」
そして、そのやりとりを聞いていた咲恵が呟く。
「いい客よねえ」
☆
標高は決して高くはない。
その小さな山は、それ自体が信仰の対象となっていた。
鬼の遺体を埋めた頂上に祠を建てた〝鬼神山〟。
未だその名前は残っている。
山を少し登ると、すぐに山全体を囲む木の杭が現れた。高さはおよそ二メートル。幅は五〇センチほどになる大きな杭が二メートルから三メートルの間隔を空けて並んでいた。どのくらい古くに設置された物なのかまでは不明だったが、記録を遡れないほどに歴史のある物。それでも定期的に朱色に塗り直されてはいるようだ。
そして山の入り口には大きな鳥居が建ち、そこは人に管理されていない深い森に覆われた山の唯一の入り口となっている。
角度の緩やかな内は草木の生えていない道がそのまま続いていたが、角度の増す中腹くらいからは木で作られた階段となる。その総ての物理的な管理は古くから大谷城家が行っていた。山そのものが大谷城家の財産の一部。しかし決して管理が行き届いているとも言い難い。鳥居から階段に至るまで、至る所の老朽化は否めなかった。
それでも山に立ち入る者は大谷城家の人間くらいなものだ。簡単な清掃とお供物の交換に入る程度らしい。
そのくらいに〝鬼神の呪い〟の伝承は、ただの昔話となっていた。
もっとも二一世紀のこの時代に真剣に信じるほうが難しいだろう。
それでも、大谷城家の人間だけは真剣だったのかもしれない。そうでなければ、伝承自体が途絶えていただろう。
その日も小さな雪の粒が舞う。
決して積もるほどに感じられるほどではない。
僅かな肌寒さを感じながら、萌江と咲恵、その後ろに杏奈が続いて階段を登っていた。
角度を緩和するためか、道は真っ直ぐに頂上へと向かっているわけではない。何度も湾曲しながら続いていた。結果的に距離は長くなる。マップで確認したおおよその距離は三キロ。当然の登り坂であることを考慮に入れると決して楽な距離ではなかった。
「…………まだ寒いこの時期に…………体がこんなに熱くなるなんて…………スニーカーにして良かったけど…………」
大き目の吐息混じりに咲恵がそう言いながら足を止める。これを想定して昨日の市役所の帰りにスニーカーは買っておいた。いくら小さいとは言っても山登りには違いない。
そのすぐ後ろでやはり肩で息をしながら萌江が返していく。
「……飲み物持ってきて…………良かったね…………」
しかし同じく足を止めた萌江のペットボトルの水はすでに半分を切っている。
後ろの杏奈も足を止めて階段に座り込んだ。
それを見た萌江が、同じように座り込んで続けた。
「……さすがに若くないねえ…………」
「まあ…………少し休憩してからね…………」
返した咲恵も座り込む。
そして続けた。
「観光地じゃないからね…………こりゃ地元の人だって来ないはずだわ…………」
それに返したのは杏奈だった。
「……昔と違って…………信仰を続けてたのは大谷城家だけだったみたいですよ…………」
「それなのに…………」
そう呟くように言った萌江が山の上に顔を向けてゆっくり続ける。
「…………どうしてまた騒がれ出したのかな…………幽霊騒ぎでもないのに…………」
すると、そのすぐ上からの咲恵の声。
「……確かに…………あまりいい雰囲気の場所じゃないけど…………」
「何か見える…………?」
そう返した萌江に、咲恵もすぐに応える。
「……うん……ぼんやりとね……でもまだ…………」
「じゃ、やっぱり登るしかないね」
萌江は立ち上がるとペットボトルの水を喉に押し込んだ。
やがて、そこからさらに二〇分ほど階段を登った頃、その開けた頂上、やっと祠が現れる。三人の想像よりは広い空間。
周囲は砂利が敷き詰められているが、もちろんそれが真新しい物でないことはすぐに分かった。所々雑草が顔を出している程度から、定期的に整備されていることが伺える。
車では登っては来れない山。徒歩で三キロの山道を登らなければならない。
大谷城家はそれだけの苦労をしてまで長年に渡って祠を守り続けてきた。それだけの足枷とは一体何だろうかと、萌江はそれが気になっていた。その上で、この山の頂上に実際に足を運ぶ必要があると判断した。
──……ここには……必ず何かがある…………
それ自体は小さな祠だった。
古くには防水用の漆が塗られていたであろうことは見てとれたが、そのほとんどは剥がれたままだ。
萌江は祠の前で片膝を着くと、格子状になった観音開きの扉を開けた。
鍵は無い。
扉自体も重くはない。
中には水だと思われるラベルの無い小さなペットボトル、日本酒の一合瓶。
そしてその奥には木彫りの像。さらにその奥には色褪せたお札が二枚。
覗き込む萌江の後ろから声をかけたのは杏奈だった。
「お地蔵様、とかですか?」
「…………違う…………」
そう応える萌江の声は低い。
その声が続いた。
「……鬼だ…………」
そこにあるのは、明らかに手彫りと思われる鬼の像だった。
作りは荒い。素人作りにも見える。長い時間の空気の流れに削られたのか表情も分からない。
それでも頭の上の二本のツノは、それが鬼を模した物であることを表していた。
その像から目を離さず、萌江が口を開く。
「杏奈ちゃん……写真お願い。記事のためにも必要でしょ」
「お任せを」
杏奈は首にぶら下げた重そうな一眼レフを構えた。そこはさすがにプロ。手の動きは早い。
萌江はその横で立ち上がると、振り返って声を上げた。
「咲恵────どう?」
咲恵は二人の後ろで立ち尽くしていた。目を瞑って空を仰いだまま。
すでに咲恵には見えていた。
「…………嫌だな…………これ…………」
咲恵が小さく呟く。
そして続けた。
「……ホントに埋まってる…………でも鬼じゃない…………〝人〟だ…………」
反射的に返したのは振り返った杏奈。
「────人⁉︎」
すぐに萌江が返す。
「伝承ってそういうものだよ…………やっぱりって感じかな……裏を取りたいね…………」
そして萌江は、咲恵の正面に足を進め、その手を握る。
まるで実体を伴っているかのように、そのイメージが萌江の中に流れ込んだ。
一瞬だけ、萌江は立ちくらみのような感覚に体を震わせる。
それは目眩のようなものか、直後、咲恵が崩れ落ちるように萌江に体を預け、その体を支えながら、萌江が咲恵の耳元で口を開いた。
「昔の話だけじゃないね…………」
そして、帰ってくるのは、咲恵の小さな声。
「…………うん…………今も……………………」
その時、二人の耳に届いた小さな音が、敏感になった二人の神経を突いた。
足音。
反射的に萌江が視線を向けたのは、自分たちが登ってきた階段。
そこに立っていたのは若い男性だった。
線の細い印象を感じる。
それほど身長は高くなかった。
目元は柔らかい。
半ば呆然と三人のことを見ながら、その目は少し驚いているようにも見えた。
その男性の口がゆっくりと動く。
「……すいません…………誰もいないと思ってまして…………」
それに素早く返したのは、萌江と咲恵を隠すように男性の前に駆け出した杏奈だった。
「あ、やっぱり珍しいんですかね……取材で初めて来たので…………」
そう言いながら杏奈はカメラを見せながら笑顔を向けた。
その杏奈の声色に気持ちを許したのか、男性も軽く口元を緩めながら応える。
「……あの……そうでしたか……私も初めて来たので…………」
「地元の方ですか?」
杏奈は素早く返しながら、男性の意識を自分に集中させる。フリーのジャーナリストならではの勘と判断の速さなのだろうか、経験から、咲恵の状態に不信感を抱かれたくないと感じていた。
男性も杏奈の気さくさに気持ちを緩めながら返していく。
「産まれはここなんですけど……少し前に街から帰ってきたばかりでして」
「ってことは、ここのことは…………」
「もちろん知ってはいました。地元の人間ならみんな知ってますからね」
男性は足を進めると、萌江と咲恵の隣を通り過ぎ、やがて祠の前、軽く腰を曲げて覗き込みながら続けた。
「…………ただの昔話だと思っていたんですけどね…………」
「………違うんですか?」
すると男性の返答には少し間が空いた。
「……いや…………昔話でしょうね……有り得ない…………」
──…………?
しかし杏奈はさらに踏み込む。
「地元の人に色々と伝承なんかのお話を伺ってたんですが……何か地元の人じゃないと知らないことでもあれば…………」
「私……ですか…………?」
男性が顔を上げてそう応えると、杏奈は畳みかけた。
「ここに帰ってきたのは────」
「三ヶ月くらい前ですかね…………大学病院で医者をしてたんですが、こっちに開業予定でして…………」
「お医者さんなんですか⁉︎」
「はい…………父も医者でしたので、科は違いますが…………父は産婦人科で、私は内科です」
男性の口が回り始める。
「ご結婚は?」
「はい……それもあって帰ってきました」
振り返った男性の目付きは、最初とは印象が違った。
杏奈でも瞬時に気が付いたほど。
その時、その耳に届いたのは萌江の声
「杏奈ちゃん」
手招きをする萌江に杏奈が近付くと、その耳元で萌江が囁く。
「……先に大谷城家に行ってる…………そこの人…………〝核〟になるかもしれない…………連絡取れるようにしておいて…………」
──……何かある…………
萌江の言葉は杏奈にそう思わせるには充分だった。
「お任せを」
そう言って杏奈はカメラからSDカードを取り出すと、萌江に手渡した。
☆
男の家は代々医者として繋がれてきた家だった。
千田雄一────二七才。
産婦人科の開業医として地元で長く信頼を集めてきた父を慕い、同じく医師の道を目指した。
父とは違う内科での開業医として共に地元を支えていくのが夢だったが、父は二年前、まだ若くしてこの世を去った。
それでも雄一は母の安江を一人残すのは忍びないと、婚約者を連れて地元に帰ってきた。春には開業できる予定で、その前には正式に籍も入れる予定となっていた。
雄一は千田家の一人息子だった。
すでに実家での母と三人の生活が始まっていたが、雄一は一つのことに悩まされていた。
地元に帰ってきた頃から、嫌な夢を見るようになっていた。
毎日というわけではないが、うなされることもある。
ほとんど影のような印象しかないが、それは間違いなく〝鬼〟。
その鬼に殺される夢。
鬼といえば、確かに地元には古くから伝わる伝承がある。そのくらいは知っていた。しかし鬼にまつわる昔話を真剣に信じたこともなく、そもそもが詳しく考えたこともなかった。
その日、初めて祠を見るまで、そこに何があるのかさえ知らなかった。
しかし、その祠の中にあった物は、間違いなく夢に出てきた〝鬼〟そのもの。
もしかしたら、以前に写真で見たことがあるのかもしれないと雄一は考えた。大して意識していないままに脳内に刷り込まれ、それが環境が変わったストレスで形として再現されているに違いないと考えていた。
人間の心理とは、時に複雑で、同時に単純なものだ。
雄一も仕事柄そういったことには何度も触れてきた。
生活が落ち着けば、やがて夢を見ることもなくなるのだろうと、初めはあまり深く考えなかった。
それなのに、なぜか夢は終わらない。
ただの潜在意識にしては長過ぎる。
そして変化を求めた。自分の意識に変化を与えるために祠を訪ねてみるのも一つの考えだと思った。そして、事実として夢の中の鬼がそこにいた。
今週、婚約者は実家に里帰りをしていた。同じ医療従事者でもある。開業後にゆっくり帰れることも少なくなるだろうからとの判断だった。
雄一はそのタイミングで祠を訪ねてみることを決めていた。
そして、タイミングを見計らっていたのは、偶然にも雄一の母も同じ。
「もう式場の準備も問題ないわね…………何か忘れてることはないの?」
夕食時のそんな母の言葉に、雄一は笑顔で返していた。
「大丈夫だよ母さん。後は当日を迎えるだけだ。病院ももう完成するしね。母さんには色々とバックアップしてもらって……ありがたいと思ってるよ」
「一人息子ですもの…………」
そう応えた母の安江は、途端に目を細め、柔らかくも寂し気な表情を浮かべた。
箸を揃え、箸置きに横たわらせると、ゆっくりと視線を落として言葉を繋げる。
「今日はね…………お前に言っておかなければいけないことがあるの…………」
その声のトーンからか、雄一も何かを感じ取り、手にしていた小鉢を置いた。
「どうしたの? 母さん…………」
その声に、安江はゆっくりと顔を上げて口を開く。
「あなたは…………養子です。血の繋がりはないの…………生後半年くらいだったあなたは、タオルに包まれたまま紙袋に入れられて、手紙と共にお父さんの病院の前に置かれていた子供なの…………」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第十部「鬼と悪魔の爪」第3話(完全版)へつづく 〜