第八部「記憶の虚構」第3話(完全版)(第八部最終話)
そのビスクドールが作られたのは第一次世界大戦中のオランダ。
戦後、ポーランドの資産家の元へ渡る。
第二次世界大戦中に、ユダヤ人だったその資産一家はナチスからの迫害を恐れてイギリスへと亡命する。
大戦中にその一家はアメリカへ移住。
ビスクドールはアメリカ国内を転々とする事になるが、やがてとある軍人の娘の元へ。
戦後に日本国内に作られた米軍駐屯地に配属になったその軍人は、家族を連れて日本へ。
軍人の娘と共に日本国内に持ち込まれたそのビスクドールは、娘の病死と同時に軍人家族の元を離れ、渡り歩いた先で古美術商〝國安堂〟の主人、國澤瑛一の元へ。
やがてその人形は、瑞浪財閥の当主の妻、サトの元へ辿り着く。
それまで人形に興味のなかったサトだが、まるで取り憑かれたように人形を溺愛した。
それからは様々な人形を買い集めるようになる。
それは家の家宝のように扱われていた。
なぜそれほどそのビスクドールに魅入られたのか、それはサト本人にも分からないまま。
☆
萌江と咲恵には、同時に人形の歴史が見えていた。
「………………その子の…………」
萌江の両肩に手を置き、背後から萌江に寄りかかる咲恵がそう呟く。
──……病死した女の子の…………
すると、その咲恵の様子に違和感を感じたのか、萌江がすぐに返した。
「咲恵────しっかりして。その子はもうこの世にはいない。咲恵も分かってるはずだよ。物に宿るのは幽霊なんかじゃない…………〝念〟だけ」
「……ごめん…………」
咲恵は返しながらも、視線を落とし、萌江の背中を見続ける。
そして続く萌江の声。
「その子の念が大量の人形を集めさせた────ってのは少し単純過ぎるよ。その子だけじゃない……今までこの人形に関わってきた色んな人たちの感情が複雑に絡み合ってる。だから大きくなった。でも大きいだけ。そんなに力があるわけじゃない……その念を利用してる〝バケモノ〟がいる…………」
重々しい感覚が萌江の中に入り込む。
──…………黒い…………何者…………?
その〝形〟すらも分からない。
ただ〝何か〟の存在を感じたまま萌江が繋ぐ。
「他の人形…………人形が好きだったから集めたんじゃない…………そんなに人形に興味なんかなかったはず…………守るため…………このビスクドールを〝守る〟ためにあんなに沢山の人形を集めた…………」
萌江にはその光景が見えていた。
部屋中、屋敷中を埋め尽くす人形たちの山。
屋敷から溢れんばかりの人形たちの群れ。
そして、その中心には、目の前に横たわるビスクドール。
──…………異形の………………
すぐ側の裕子は何が起きているのか分からずに動けないまま。
そして、突然萌江が動いた。
身を乗り出して木箱の中の人形を覗き込むと、その体の下に手を差し入れる。
「……? …………萌江?」
背後から咲恵の声が聞こえる中、萌江は何かを取り出す。
それは、小さく折り畳まれた紙だった。
いつからそこにあったものか、色褪せ、乾燥し、硬くなった紙。
萌江は人形の上でゆっくりとそれを開いた。
〝 october ht32 1989 / her to M 〟
〝 watch out for S 〟
横から覗き込んだ咲恵が言葉を絞り出していた。
「…………どういうこと…………?」
「……呼ばれたね…………どこでも手に負えないわけだ…………」
応える萌江の意識に、ゆっくりと〝何か〟が染み込んでいく。
意識の中心にまで入り込むその気持ちの悪い〝何か〟が、やがて萌江と咲恵の中で形になっていった。
──……面倒なことを…………
萌江は顔を上げずに続けた。
「……裕子さん…………当主の祐也さんを……本邸で…………咲恵を入れて三人だけで話したい」
すると我に返った裕子が慌てて口を開いていた。
「は、はい…………すぐに…………」
本邸の広い畳の部屋が用意された。
最初に通された所よりも広い。それでもあまり明るくはなかった。僅かに傾き始めた陽のせいだけではないだろう。障子を閉じられ、まるで何かから部屋の中を隠そうとするかのよう。
おそらくは意識してのことではないだろう。使用人が無意識の内にやっていたとしか思えない。
障子を通された強い陽射しが作る影は、すでに長くなり始めていた。
そしてそこには萌江、咲恵と、向かいに背中を丸めて胡座を描く浴衣姿の四代目当主の祐也。
直前まで布団にくるまっていたのは浴衣の乱れと折り目の雰囲気で分かった。何日入浴をしていないのか、髪は乱れ、無精髭の長さもバラバラ。
全体的に薄くなった白髪は見窄らしく、六〇を過ぎた財閥の当主とは思えないほどに痩せこけていた。使用人に肩を借りながらフラフラとした足取りで部屋に入ってくるなり、息苦しいのか常に肩で息をする。その度に荒い息伝いが部屋に響いた。
その姿をマジマジと眺めていた萌江が正座をしたまま最初に口を開いた。
「お初にお目にかかります。私たちは裕子さんに頼まれて、この家の…………いえ、ビスクドールの問題を解決しに来た者です」
それが聞こえているのか聞こえていないのか、祐也は顔を上げようともしない。
萌江は人形の下で見付けた紙を、開いたまま祐也の目の前に差し出した。
祐也はその紙に視線を動かすと、瞼を大きく開いて見つめ続け、その体が僅かに震え始める。
そして萌江が続けた。
「……これを…………あの人形の下に隠したのは、あなたですね」
祐也は何も応えない。
ただ、その唇も大きく震えていた。
まるで何かを分かっているかのように、萌江の言葉は続く。
「あなたは、ある人物にこの紙を人形の下に隠すように頼まれた…………私は恵元萌江…………しかし…………本名は、金櫻……萌江と言います」
するとその言葉に反応したのか、ゆっくりと、祐也が顔を上げる。
その見開かれた目は、萌江に向けられた。
弱々しく、小さく震える目。
そして、震える唇から言葉が零れ落ちる。
「……………………京子…………」
その目は潤んでいた。
萌江は、その祐也の目に確信を持つ。
そして、毅然と言葉を繋いだ。
「……あなたと不倫関係にあった…………金櫻京子の、娘です」
すると、祐也は荒い息を大きく吐いてから言葉を紡ぎ始める。
「…………あいつは…………京子は…………人間じゃない……〝バケモノ〟だ…………俺を離してくれないんだ…………」
☆
昭和六二年。
祐也は通っていたスナックの新人である京子に惚れ込んでいた。
元々のお気に入りの女の子にまで嫉妬されるほど。
家庭はあったが未だ子供はいなかった。不妊治療の結果、祐也が無精子症であることが分かってから、夫婦の間もギクシャクとしたまま祐也は夜の街で飲み歩くようになる。
京子と体の関係になるのはそれほど時間は掛からなかった。そしてそんな関係が三ヶ月ほどした頃、京子の言動に祐也は疑問を持ち始める。
「どうして……そんなことを知ってるんだ?」
何気ない会話の中で、なぜか京子は、知るはずのない財閥の裏事情を話し始めた。
「だって…………見えるんですもの」
ベッドの上で安アパートの蛍光灯を眺めながら、あっけらかんと京子は言ってのけた。
それまでもやけに感が強い女だと感じる時はあった。まるで先に起きることを分かっているかのような行動も多く、それまではそれをミステリアスな魅力として祐也も捉えていたが、その夜ばかりは恐怖を感じた。
意味が分からずに何も言い返せない祐也に対して、京子が続ける。
「あなたの家も、総て見えてる…………最初からね…………お母様が次々と人形を購入するからって困ってるんでしょ? 離れの別邸が一つ人形で埋まるくらい…………その管理だけの使用人もいるくらい」
「────調べたのか⁉︎」
「まさか……いちいち他人の家庭を調べるほど暇じゃないから…………でも、全部見えてるの」
「…………ばかな」
「〝人形屋敷〟って呼ばれてるんでしょ? …………私も見てみたいな……」
「やめてくれ!」
祐也はベッドから飛び降り、逃げるように服を着始めた。
気持ちが悪かった。
本来の〝自分の世界〟に関わっていいはずのない不倫相手の女。なぜかその女が、知るはずのない財閥と家の内状まで知っている。しかもそれは簡単に外に漏れるものではないはず。それも何の財力も持ち合わせていないように見える女が、なぜか知っている。
冷静にいようとしても、無意識に手が震えていた。
その祐也がYシャツのボタンすらかけられずにいると、そこに背後から伸びる京子の手。
「やめろ!」
祐也は反射的にその手を振り解くと、言葉を荒げて続けた。
「……何が目的だ! 恐喝か…………金ならいくらでも────」
「いらない」
京子はそう静かに応えると、裸のまま祐也に近付いた。
そしてゆっくりと祐也のYシャツのボタンをかけながら続ける。
「……お母様が…………一番大事にしてる人形…………あるでしょ? 大きな桐の箱の、その人形の下に…………これを入れて…………」
京子はいつの間に取り出したのか、小さく折られた紙をYシャツのポケットに入れて続けた。
「青いドレスに金髪の…………アンティークドールって言うの? フランス人形? お母様に聞いたら分かるから…………」
祐也がその紙を開くが、数字と英語だけが走り書きされただけの内容に意味が分からない。
笑みを浮かべた京子の言葉が続く。
「あなたには意味なんか分かるはずもない…………もしも約束を守ってくれないと…………私とあなたの関係を世間にバラすだけ…………瑞浪財閥が、あなたの代で終わるだけ…………」
☆
「あなたを夢で悩ませているのは人形なんかじゃない……金櫻京子、本人ですね…………?」
萌江のその強い言葉に、祐也は涙と共に言葉を零していた。
「……従うしか…………なかったんだ…………」
そして震える声で絞り出すように続けていく。
「人形を総て処分出来れば…………それで過去も消せると思ってたのに…………どうしてあの人形だけ…………夢に……京子が出てくるんだ…………毎晩のように俺の首を絞めて…………」
その言葉を聞きながら、萌江の隣、咲恵の呟きが聞こえる。
「……まだ…………呪いが続いてると…………」
萌江が返す。
「うん…………思い込ませるのが〝呪い〟。それが催眠状態を作り出す…………でも……なんのために…………」
「事実として……確かにあの人形だけが残った…………」
「…………何を見せたいの…………」
「直接聞くしかないか…………」
そう言った咲恵が腰を浮かして続ける。
「もう祐也さんは充分ね…………誰か呼んでくる」
そう言って咲恵は立ち上がると、部屋を出た。
開け放たれた障子戸から陽の光が差し込み、祐也の姿を大きく照らす。
萌江は祐也のすぐ目の前に移動すると、その目の前に水晶をぶら下げて口を開いた。
「これを見て…………もう呪いは終わり…………総て私が引き受ける」
言いながら、萌江の目には涙が滲んでいた。
──……この人たちの人生を翻弄してまで……何を……何のために………………
駆けつけた使用人によって祐也は自室へ。
咲恵と二人だけになったところで最初に口を開いたのは萌江だった。
「あのメモの意味、分かるでしょ?」
「……萌江の……誕生日ね…………しかも〝her to M〟じゃなくて〝Mother〟」
「〝to〟だけ逆さまにして欲しいから〝23th〟が〝ht32〟」
「シャレたお母さんね」
「〝母より〟ってことか……さすが我が母だ…………って言いたいところだけど……」
萌江は声のトーンを落として続ける。
「〝watch out〟……って〝気を付けろ〟ってことだよね」
「…………そうね……」
小さく応える咲恵の声も低い。
するとその空気を感じたからか、返す萌江の声は少しだけトーンを上げた。
「……〝S〟か…………どうせ今考えても分からないんだろうね。あの母親のことだし」
「そういうところ…………萌江らしくて好き」
咲恵も自然と萌江の声色に合わせていく。
そして二人は裕子と満田が待つ別室へ移動した。
落ち着かない様子の裕子の肩に手を置いて笑顔を浮かべたのは咲恵だった。
「……大丈夫ですよ。今日で終わります」
──……この人は純粋に家族のことを心配してる…………
──…………体調まで崩して…………
咲恵は萌江の隣に腰を降ろすと、その耳元で囁いた。
「もう…………救ってあげて…………」
その言葉を受けて、萌江が口を開いた、
「今回の〝呪いめいた事象〟の顛末の説明をさせていただきます。お寺でも神社でも引き取りを断られる〝呪われた人形〟の存在と祐也さんの悪夢の話のせいで、単純にみんな〝思い込んだ〟んです。思い込むところから〝呪い〟は始まります」
「……思い……込んだ…………?」
言葉を溢しながら半ば呆然とする裕子に、萌江が繋いでいく。
「丑の刻参りって聞いたことはあると思いますけど、理屈はあれと同じですよ。丑の刻参りって基本的には神社で行われるものです。というより元々は神社でなければ意味がないものだったんです。まず、昔の人たちにとって今より神社という場所は近い場所だった。小さな村社会の中でのコミュニティの中心です。つまり、そんな所に人の名前が書かれた藁人形が五寸釘で木に打ち付けられていればすぐに見付かるんです。でも大事なのはそこ。名前の書かれた人が誰かに呪われていると村中に広げること。それが丑の刻参りの目的…………呪われている、と相手や周囲に思い込ませる……思い込むことで関係のないことまで呪いのせいかと考えたり、まさかと言いながらもやっぱり気持ちいいものではありません。そんな気持ちのままで精神的に追い詰められていく……思い込ませることが〝呪い〟そのもの……〝呪い〟は人が作るものなんです」
そこまで聞いた裕子は、まるで力が抜けたように肩を落としていた。
萌江が続ける。
「最初にどこでも引き取り手が無い人形が〝呪われている〟として認知され、次に祐也さんの夢に人形が出てくるという話が広がる。さぞ使用人の皆さんには恐怖だったことでしょう。だからちょっとした壁や床の軋みですら人形のせいだと思い込む。それを人の声だと思い込むほどにね……事実さっき伺わせてもらった時にも結構な家鳴りが聞こえました。それなのにさっきは誰も気にしなかった。先入観があるかどうか……それだけなんです。どんなに立派な木造建築でも家鳴りはあります。むしろ家鳴りがあるということは木造建築がその使命を全うしている証拠でもあるんです」
裕子の肩が小さく震え始めた。
萌江はなおも繋ぐ。
「ではこの〝呪い〟の発端は何か。さっき言ったように、この〝呪い〟も〝作った人物〟が存在するはず…………神社が「手に負えない」と言ったところから? もしくは祐也さんが悪夢を見始めたところから? 違います…………形のある物は……命とは違う〝魂〟を生むんです……人の形をしていれば特に生みやすい。そして、それを利用した人物がいます……ただその人物に関しては、私たちに預けて頂けませんか? その代わり、人形は私たちが引き取ります。今夜から祐也さんが悪夢にうなされることはありませんよ」
その萌江の言葉に、裕子は泣き崩れた。
その背中に手を添えた咲恵が声をかける。
「よくここまで耐えましたね…………」
萌江はスマートフォンを取り出すと、素早く電話をかけた。
「あ……この間はどうも。早速ちょっと依頼したいことがあるんですけどね」
相手は西沙の母────咲。
「私たちの無視出来ない〝訳あり〟の人形が一体…………」
萌江が軽く説明すると、返答はシンプルだった。
『今夜中に持ってきてください。急いだほうがいい……こちらも急いで準備します』
咲も何かを感じているかのような反応。
萌江はその反応に、口角を上げて応える。
「助かります。では今夜」
そして電話を切ると満田に顔を向けた。
「みっちゃん、西沙のいる街までって、これから駅に送ってもらって新幹線に乗るのと、高速使ってみっちゃんにかっ飛ばしてもらうのと、どっちが早いかな」
すると、満田も何かを理解したように返した。
「チケットを買う時間とちょうどいい時間の新幹線があるか分からない点を考えて…………しかもここからならインターが近い」
「頼める?」
「私のアウディを甘く見てもらっては困るよ」
そう言って満田が口元に笑みを浮かべる。
☆
満田がインターの料金所を抜けた辺りで、咲恵は由紀に電話を掛けて店に遅刻する旨を伝えた。
「良かったの?」
萌江のその言葉に、咲恵はすぐに返す。
「……最後まで関わらせて。このままじゃ帰れない…………」
「…………うん」
──……私も咲恵の人生を翻弄してる…………
──……私だって……母親の〝呪い〟に囚われているのかもしれない…………
移動の間に萌江は咲に再度電話で詳細を伝えた。
御陵院神社に到着したのは午後七時頃。
この時期のこの時間はすでに深く暗い。
咲はすでに神社の本殿で準備を整えていた。綾芽と涼沙も後ろに控える。その空間の灯りは燭台の松明だけ。その灯りが暗い本殿の祭壇前を揺らしていた。
松明の火の粉が時折大きく祭壇を輝かせるその光景は、萌江と咲恵から見ても神聖そのもの。
咲はその祭壇の前に置かれた〝桐の箱〟の蓋を開けようとはしなかった。
それでも、そのまま眉間に皺を寄せただけで口を開く。
「電話でも多少は感じていましたが……大変な物を持ってきましたね…………」
それに萌江は笑顔で応えていた。
「でも、あの家族はもう大丈夫です。後はこの人形の〝念〟を解放してあげるだけですよ。そういうことは、こちらが専門でしょうから」
「それはそうですが…………京子さんは……どうしてこんな…………」
萌江の母親のことでもあるからか、咲も言葉を選ぶ。
すると、さすがに萌江も笑顔を消して返した。
「なんでしょうね……それだけが私にも咲恵にも分からなくて…………ただ…………」
そこに、けたたましい足音。
息を切らして本殿に入ってきたのは、いつものゴスロリファッションの西沙だった。
連絡をしていたのは萌江。その萌江が軽く右手を上げて声を上げる。
「お疲れ」
「お疲れじゃないでしょ。一体どうしたっていうのよ。なんだってまたここに────」
するとそこに、咲の斜め後ろに控えていた綾芽の声が響いた。
「西沙! ここは本殿です! 走って入るとは何事ですか!」
しかし西沙も声を張り上げて返す。
「よく言える…………その本殿から私を追い出したのは誰⁉︎」
「────西沙」
そう発した咲の静かな低い声が場の空気を制する。
そしてすぐに続いた。
「…………今は一刻を争います。恵元様があなたを呼び出した理由を伺うことのほうが先のはず。綾芽も控えなさい」
すると、すかさずそこに萌江が挟まった。
「西沙じゃなきゃダメなんだよね」
「私じゃなきゃダメって…………」
そしてそう返した西沙は、直後、そのまま体の力を失っていた。
まるで分かっていたかのようにその体を支えたのは咲恵だった。
「早いなあ、敏感な体ですこと…………萌江────」
咲恵がそう言いながら西沙の体を床に寝かせると、そこに萌江が近付く。
「こうなるだろうと思ったよ…………」
萌江はそういうと首の後ろに手を回してネックレスを外す。そのまま左手の指に巻きつけると、水晶を西沙の額に当てた。
すると、ゆっくりと西沙が口を開く。
「〝…………どうしたの……?〟」
その声は、西沙のものではなかった。
「……西沙…………?」
思わず声を上げたのは咲だった。
「初めてですか?」
そう言った咲恵が咲に顔を向けて続ける。
「……娘さんは憑依体質なんです」
驚いた表情の咲が小さく返した。
「……西沙が……そうでしたか…………」
そこに、再び西沙の口から声が漏れていく。
「〝……待っていますよ…………萌江…………あなたに託しました…………〟」
すると、軽く息を吐いた萌江が水晶を西沙の額から離した。
直後、西沙の目が開く。
自分で上半身を起こすと、不思議そうに周囲を見渡した。
そこに萌江がかけるのは柔らかい声。
「ありがとう西沙…………」
「え?」
応えた西沙には状況が理解出来ていない。
「……いつも、中途半端なんだね…………」
そう呟いた萌江の背後から聞こえたのは、咲の声。
「……あなたは…………何者ですか…………」
萌江は立てた膝に手をついた。
そして口を開く。
「私は99.9%幽霊を信じていなければ呪いや祟りも信じない能力者。皆さんとは対極にいる人間です。でも…………」
そして体を起こしながら膝を伸ばし、立ち上がりながら続けた。
「この世の中に説明の出来ない不思議なことがあるのは、理解してるつもりです」
「とても、それだけとは…………」
「ただの変わり者ですよ。まあ私たちより、今回は人形をお願いします」
すると、咲は深々と頭を下げて応えた。
「確かに御預かり致しました。御任せください」
その咲の口元に、小さく、笑みが浮かぶ。
しかし、その表情は、萌江と咲恵からは見えていなかった。
☆
帰り道、再び大粒の雪が降り始めた。
萌江は咲恵について店に入る。カウンターのいつもの席に座ると最近新しく入れたばかりのボトルのブランデーを多めにロックグラスに注ぐ。
まだ他に客はいなかった。もっとも外は大雪。しかも今夜が忙しくなるとも思えない降り方。
「〝命とは違う魂〟か…………上手い言葉かもね」
咲恵も萌江のブランデーをロックグラスに注ぎながら、さりげなく呟いていた。
すると意外にも萌江の返答は早い。
「でしょ? あんな魂なんて……ただの想像の産物でしかないのに…………〝あの人〟が利用したのは魂や念なんてものじゃない。ただの人間の〝思い込み〟…………神社の手に追えなかったのは人形じゃない……〝あの人〟だ…………」
萌江はそう言うと、まださほど氷で薄まっていないブランデーを飲み干した。
──……分かってて……御陵院神社に…………?
そう思った咲恵が言葉を投げる。
「あんまり飲み過ぎないでよ」
そう言いながらも、萌江の感情的に飲みたい気分なのも理解は出来た。
──……親子って……嫌な言葉だな…………
そう思った咲恵に、萌江が歯切れ悪く返していく。
「うん……今夜、泊めてね」
「気にする仲じゃないでしょ。猫飼ってからウチに泊まってないんだから久しぶりにいいじゃない」
その咲恵の言葉を聞きながら、萌江は目の前のグラスに多目にブランデーを注いだ。
そこに混ざるのは、すでに店のNo.2となっている由紀。
「え? 萌江さんって猫飼ったんですか?」
「うん、と言っても野良猫ね。住み着いちゃって」
そう応えながら萌江はまだ氷の冷たさも広がらないブランデーを喉に流し込む。
「だから最近ここにも顔出さなくなっちゃったんですか? ママが寂しがって大変なんですよ」
そして当然のように咲恵が挟まる。
「由紀ちゃん、やめて」
「土曜日の仕事終わりなんかニコニコしちゃって……次の日に会えると思うとやっぱり嬉しいんでしょうねえ」
「やめなさい」
そこに応えるのは萌江。
「咲恵は寂しがり屋だからねえ」
そう言って萌江は笑みを浮かべた。
その直後、激しい鈴の音と共に店のドアが開く。
咲恵と由紀が顔を向けると、そこに立っていたのは杏奈だった。
その顔は険しい。走って来たのか、肩で息をしていた。
最初に声をかけたのは咲恵。
「どうしたの? そんな険しい顔して」
すると、萌江が小さく顔を振り、杏奈に視線を向けていた。
やがて杏奈はカウンターの奥のそんな萌江の姿を見付けて驚いた表情に変わる。
「え? どうして萌江さん…………」
「何よ。私がいちゃ悪いの?」
「いや……だって、最近来てなかったから今日もいないかと…………」
「私だって色々あるの。どうした? また何か困り事?」
「いえ……今日はとりあえず咲恵さんに相談しようかと思って来たんですけど…………」
「咲恵に? まあ……座んなよ」
萌江はそう言って隣の椅子に杏奈を促した。
杏奈のハイカットブーツの音が甲高く店内に響き、やがて杏奈がカウンターの椅子に腰を上げると、自然と咲恵がコースターをその目の前に出して口を開く。
「ビール?」
「あ……はい…………お願いします…………」
咲恵が冷蔵庫に近付き、やがて杏奈の目の前で栓を開けるまでの一連の流れがやけに長く感じられた。
萌江は一言も口を開かない。
杏奈も目の前のコースターに視線を落としたまま。しかしその視界の中にロングネックのハイネケンの瓶が入り込むと、それを一口喉に押し込んでから言葉を吐き出した。
「こうなったらもう言っちゃいますけど……西沙さんの実家って、もう行って来たんですよね?」
少しだけ、その杏奈の言葉に時間が止まる。
やがて、動かしたのは萌江。
「うん、この間の日曜日と…………実は今日も行ってきた。今はその帰り」
「そうですか…………」
杏奈はそう返すと、大きく息を吐いてから続けた。
「……京子さんの…………お母さん…………」
その言葉に、萌江は自分のロックグラスに伸ばしていた手を止めた。
杏奈の声が続く。
「萌江さんにとっては…………お婆さんに当たる人ですが…………」
すると萌江は無意識の内に、顔を窓に向けていた。
やっとその手がグラスを掴む。
そして聞こえる杏奈の声。
「…………産まれが…………西沙さんの実家でした…………あの神社です…………」
少し時間を置いて、咲恵がゆっくりと萌江に視線を送っていた。
杏奈の言葉を、なぜかまだ咲恵は完全に理解出来ないまま。咲恵の感情が何かを否定しようとする。
そこには鏡のようになったガラスに映る萌江の姿。
口元に、笑みが浮かんでいた。
その向こうに大粒の雪が降り注ぐ。
咲恵の中で何かが疼いた。
──……〝同じ血〟…………気付いてたのね…………
☆
御陵院神社。
本殿。
本祭壇の裏。
壁で囲まれた一室に、まるで本祭壇と背中合わせかのように作られた〝準祭壇〟があった。
この神社の人間でなければ知らない場所。
知らない祭壇。
その祭壇前の大きな燭台。
いくつもの松明が赤く燃えるその中に、咲はあのビスクドールを無造作に放り投げた。
乾き切った青いドレスが瞬時に熱を取り込み、瞬く間に全体が炎に包まれていく。
その光景に、咲は軽く鼻で笑うように笑みを浮かべていた。
後ろに綾芽と涼沙が控える中、咲の低い声が静かに空気を揺らす。
「最初からここに持ち込まれることを分かった上で…………親子共々…………人ではないとでも言うつもりか…………」
炭になりかけた松明の一つが、火の粉を巻き上げながら大きく崩れた。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第八部「記憶の虚構」(完全版)終 〜