第八部「記憶の虚構」第2話(完全版)
西沙の街までは新幹線で一時間と少し。
車で高速を使っても同じくらい。今回は西沙に案内をしてもらう関係もあって新幹線を選んでいた。
事前に杏奈から西沙に話を通し、その西沙から母親の咲に確認を取ってもらうと、意外にも次の日曜日の午後なら空いているという。迷うことなく萌江は予約を取った。
萌江はいつもより早起きをしてバス停へと向かった。もちろんそこまでの距離は決して近いとは言えない。砂利道を歩いておよそ三〇分。久しぶりに見えるセンターラインのある舗装された片道一車線に辿り着くが、やはりいつも通り車通りはほとんどない。よくこんな山の中までバスが通っているものだと感じる時があるほど。
大きく錆び付いたバス停を見ていると、本当にバスが通るのだろうかと、萌江ですらそんな不思議な感覚を覚えることがある。
もちろん咲恵に迎えに来てもらっても良かったが、萌江としては咲恵の睡眠時間を削りたくなかった。
やがて昼前に駅で咲恵と合流すると、すぐに二人で新幹線に乗り込んだ。
「…………大丈夫?」
窓側に座った咲恵が隣の萌江に声をかける。
思った以上に萌江の返答は早い。
「大丈夫だよ。リビングのドアにも猫用のドアをDIYしたからね。空気の出入りを減らすために隙間に布を貼り付けてさ…………」
「どこでそんなこと調べるの?」
「ネットの動画。便利な時代になったよねえ。最近は工具にも詳しくなってきたよ」
「乗っておいてなんだけど、そうじゃなくて…………お母さんのこと…………」
萌江も分かっていたかのように視線を軽く落とすと、ホットタイプの背の低いペットボトルの蓋を開けた。少しだけぬるくなった甘いコーヒーを軽く口に含んでから応える。
「……どうしてだろうね……知ったからどうなるわけじゃないんだけどさ…………」
「正直……今回のことは私も驚いた……偶然で片付けるにはあまりにも出来過ぎ…………」
──……偶然じゃない可能性は…………?
そう思った咲恵の耳に、先ほどより少しだけトーンの上がった萌江の声。
「なんだかよく分からないんだけどさ……まだ〝あの人〟が……どこかで生きてるような気がするよ…………」
そう言う萌江の隣の咲恵からは、その目が僅かに潤んで見えた。
咲恵は萌江の膝の上の手に、自分の手を重ねる。まるで飛び付くかのように、萌江はその手を握った。
──……離さないで…………
新幹線が駅に到着した頃、細かな雪が駅の外にチラついていた。
ホームの空気もピリピリと肌を刺す。
すぐに駅の前に出ると、さすがに日曜日の午後、タクシー乗り場にも人は決して少なくなかった。曇り空のせいなのか、間違いなく近くまでやってきている冬を感じる季節だからなのか、不思議とこういう季節にはあまり派手な色合いのファッションの人は少なく感じる。それが空気の色合いを左右し、季節の色までも染めていく。
そしてこの季節になると、咲恵はまるで口癖のように同じようなことを呟いていた。
「この歳になると肌の乾燥が嫌よねえ」
そして萌江がいつものように返すのがお決まり。
萌江は周囲に大きく視線を回しながら応えていた。まだ西沙の姿は見えない。
「また言ってる……そういえば保湿クリームが残り少なかったな」
「年々化粧品代が上がってる気がするのよね」
「物価じゃなくて私たちの年齢がね」
「いえ、そこには異論があるわ……そもそも原油価格の高騰が────」
「お、若くてピチピチしたのがお出迎えだ」
萌江が笑みを浮かべて見ている先には、一台の黄色い軽自動車。
久しぶりに見る車だ。
その車は並んでいるタクシーの、車線一つを挟んで向こうの駐車スペースに停まった。どうやら駅に迎えにくる人たちが短時間だけ停車出来るスペースらしい。
その車から降りてきたのは西沙。
相変わらずの黒のゴスロリにも関わらず、それに合わせた派手な白いコートが周囲の雰囲気に反して印象が明るい。当然目立つ、というより少し浮くほど。
そんな西沙が運転席のドアを開けたまま、近付く萌江と咲恵に向けて声を上げた。
「なに? どうせまたおばちゃん臭い話でもしてたんでしょ」
決して笑顔というわけではない。むしろ引き締まって見えた。
久しぶりに見る西沙の黄色い軽自動車に、二人は西沙と初めて会った時のことを思い出していた。それが不思議にも今回のことに繋がる。二人にとってはやはり偶然と呼ぶには都合が良すぎたが、それは西沙にとっても同じ印象なのかもしれない。
「だっておばさんだもん」
笑顔でそう返す萌江に、隣の咲恵は溜息を吐いて呟いた。
「やめて……この季節が来る度に現実を叩き付けられてる気がするわ…………」
そんな会話をしながらも、三人は西沙の車に乗り込んだ。
向かうのは西沙の実家────御陵院神社。
決して街で一番の大きさを誇る神社ではない。全国的に有名なパワースポットというわけでもない。〝祓い事専門〟〝憑きもの専門〟の神社だった。更には全国の神社や霊能力者から助言を求められる等、その界隈では信頼が厚い。
西沙はそんな神社を護り続ける家の三女として産まれた。三姉妹の末っ子。二人の姉は母を継いで巫女となっていたが、西沙だけは家を出て霊能力者として独立していた。
そしてそれにはそれなりの理由があった。
「一通りの話は杏奈から聞いたけど…………」
西沙が車を運転しながら続ける。
「最初は信じられなかったよ…………でもお母さんに聞いたら、確かに覚えてた」
それに応えたのは萌江。
「……まあ、私も確かに驚いたよ…………偶然にも程があるよね」
萌江が無理をして平静を保とうとしているのが、聞いていた西沙にも分かった。
西沙も同じく動揺を隠しながら返していく。
「ただの偶然なのかな…………」
西沙のその言葉は、なぜか重い。
萌江と咲恵には少なくともそう感じられた。自分たちでも感じていたことにも関わらず、なぜか西沙のその言葉は車内の空気を変える。
しかし、返す萌江の声は変化を見せなかった。
「そう言いたくなる気も分かるけどさ…………なんでもそうだけど、無理矢理に都合よく結びつけたらダメだよ。私たちの界隈って狭いからね……その狭い業界内だから私たちは知り合ったようなものでしょ」
「そりゃ、まあ…………」
「それよりどうなのよ。〝あそこ〟の工事」
それは萌江たちと西沙の出会いの一件だった。しかもこの街の事件。その仕事の依頼がなければ、三人は出会っていない。
すると西沙の声のトーンが少しだけ上がる。
「ああ……順調みたいだよ。本格的に電線の地中化工事が進んでるってさ。その工事が終わったら本格的に土地の再整地工事に入るみたい。春には電線の工事も終わるらしいから…………思ったより早かったかな」
「行政にしちゃ早いね」
「会議でも〝今後の街の発展のため〟って連呼してやったからね。公共事業の継続のためにもこれ以上は時間をかけたくないんじゃない? 色々な忖度もあるだろうしさ」
「功労者だねえ。その内街から表彰されるかもよ」
「嫌味なこと言わないでよ。萌江と咲恵の功績でしょ……私は何もしてない。今回だけじゃないけど、姉妹にもあまりよく思われてないし…………」
「そうなの? 二人いるんだっけ?」
「元からあまり仲良くはなかったけどね……だから家を出たようなものだし…………でもお母さんは評価してくれた」
御陵院家の関係性が垣間見えるような西沙の口ぶり。
「……そっか…………」
それを感じてか、返す萌江の声はどこか優しい。
駅前の混んだ道路を経由して、少しずつ郊外に向かって三〇分以上。
やがて車は神社の駐車場に到着する。
車五台分のスペースがあるだけの小ぶりな駐車場だった。
不思議と西沙は運転席を降りてからもすぐには足を進めない。それでも、やがて何かを噛み締めるように進み始めた。
鳥居を潜って参道に至ると、先入観がそう感じさせるのか、もしくはそれが〝神聖〟という言葉の意味なのか、空気の冷たさが僅かに和らいだようにも感じる。
街一番ではないというだけで、決して小さな神社ではない。広い真っ直ぐな石畳の参道が大きな本殿へと向かっていた。周囲に人影は見当たらなかったが、足元を広く埋め尽くす玉砂利は美しく慣らされ、雑草の類は見当たらない。
完璧に近い均衡が保たれていた。
ゆっくりと三人の視界の中で大きくなっていく本殿の正面は大きく開け放たれ、その奥の細かな装飾が曇り空が作り出す薄い影の中に見え隠れする。おそらくは祭壇だろうか、少なくとも小さくは見えない。建物の大きさだけではなく神社の大きさそのものが表現されていた。
萌江も咲恵も〝祓い事専門〟の神社というのが初めてだったせいもあるのか、僅かながら身構えていた。
決して嫌なものを感じるわけでないのに、何かが足取りを重くしていく。
西沙は本殿正面ではなく、横の通用口へと二人を案内した。
やがて通されたのは本殿の奥と思われる一室。一室と言ってもかなり広い。神事用と思われる小ぶりな祭壇があった。外から見えた本殿奥の祭壇だけではないらしい。おそらくはそれぞれに用途が違うのだろう。
中心に萌江。その左手に咲恵。右手に西沙が並ぶ。いかにも神社らしく、厚めの立派な座布団。
実家とはいっても、西沙も萌江や咲恵と同じく正座を崩さないことに違和感を感じながらも、萌江は高い天井を見上げた。祭事等で火を使うこともあるのだろう。高い天井は煤で僅かに黒い。
とは言っても決して閉鎖的な空間ではない。扉も無い状態で奥の長い廊下と繋がっていた。やがてその廊下の奥から足袋を擦る音が聞こえたかと思うと、しだいにその音は空気を小さく震わせ、やがて三人の意識を席巻していく。
目の前に現れたのは三人の巫女だった。
先頭に立つ中心の巫女が距離を取って萌江の前に膝を落とすと、裾を両手で素早く整えながら板間に両指を着き、深く頭を下げた。
「大変御待たせ致しました…………当家、御陵院神社当主、咲にございます」
──…………この人か…………
萌江はそう思うと同時に、その意識の片隅に疑問が浮かんでいた。
──……どうして……私たちに会うためだけに三人で新しい巫女服…………
そう思った萌江は、隣の咲恵と共に頭を下げる。
その横で二人よりも深く頭を下げる西沙の姿に、やはり萌江は違和感を感じた。その三人が頭を上げると、咲が続ける。
「いつも娘の西沙が御世話になっております。後ろに居りますのは綾芽と涼沙…………西沙の姉に御座います。本日はどうしても同席したいと申しまして…………構いませんでしょうか?」
「構いません」
萌江はすぐにそう返しながら、軽く視線を落としたままの奥の二人に目を配っていた。
改めて見ると、三人はいずれも冷たい板間にそのまま正座をし、しかもその立ち振る舞いに隙は無い。
──……さすが西沙の家族だ…………
萌江はそんなことを思いながら口を開いた。
「私は恵元萌江……と申します。隣にいるのはパートナーの黒井咲恵です」
咲恵が小さく頭を下げる。
萌江が続けた。
「…………もうお気付きかと思いますが、私も黒井も……普通の人間ではありません。とは言っても、私は娘さんをお二人も御付きにするほどの猛獣ではありませんよ」
そう言って小さく笑みを浮かべた萌江は、目だけは鋭いままに繋ぐ。
「まあ、能力者同士、腹を割ってお話が出来たらと思って伺いました。お忙しいところ無理を言いまして…………」
すると、すぐに咲が返す。
「いえいえ、本日は日曜日だと言うのにどういうわけか手隙でございまして……しかも午前中に御祓い事が一件のみ…………だったのですが、何と言いますか…………必要がなくなりました」
落ち着きを感じさせる声。
それでいて、どこか〝壁〟を感じさせる。
僅かに顔を下げたまま、なぜか、決して萌江と目を合わせようとはしない。
「……と、いうと?」
萌江はそんな小さな返答にも言葉の一つ一つを慎重に選んでいた。
なぜか、不思議な緊張感が萌江の意識を埋め尽くす。
それを勘づいているのかどうか、咲は言葉を噛み締めるようにゆっくりと応えていく。
「ええ…………実はよくあることなのですが……〝憑きもの〟と御本人や周りが思っていても、実はただの思い込みということがよくありましてね…………」
──……へえ…………
「まあ強いて申しますと、御自分で御自分に呪いをかけているようなもの…………もちろん形だけで御祓いの真似事をすることは出来ますが…………どうにも好きになれません。いつも仏事の説法のようなことをして終わります。祈祷料も頂けませんので……いつも娘たちには笑われている始末ですよ」
そう言って咲は口元にだけ小さく笑みを浮かべた。
その口元を確認した萌江が口を開きかけた時、咲が繋げる。
「……西沙から、本日の御用向きは伺っております。随分と昔のこと故……ですが忘れてはおりません。私にとっても重要な記憶ですので…………」
──……重要…………?
萌江がそう思った時、咲が小さく顔を上げた。
そしてその細い目を萌江の目に合わせ、言葉を繋ぐ。
「正直…………私も驚きました」
「……そうですよね…………私もです」
あくまで萌江は柔らかい口調。
しかし、咲はしだいに声色を変え始める。
「……あの時の……ことを御聞きになりたいと…………」
「ええ…………私を……救急車が来るまで抱いててくれたと聞きました」
「はい…………確かに私です…………」
咲のその声は、しだいに震え始めたように、萌江の耳には届いた。
そして続く声でそれは確定的となる。
「……私はその場に居りました…………」
「ありがとうございます……おそらくその時の私は不安で仕方なかったでしょうから…………」
「…………違います」
「違う?」
「……はい」
「違うと、いうのは……?」
「…………守ろうと、思いました…………守らなければいけないと…………」
「………………守る……?」
すると、咲はその目を鋭くした。
「御母様は自殺ではありません」
──……………………
「……御母様は……目の前の〝異形のもの〟から…………貴女様を守るために命を捧げました」
「…………〝異形のもの〟…………⁉︎」
呟きながら、萌江が視線を落とした。
そして、空気が変わる。
──……憑かれる────!
そんな言葉が咲恵の頭に浮かぶ。
直後、腰を浮かせると同時に左膝を立てた咲恵が萌江の左肩を掴んだ時、咲の後ろから綾芽と涼沙が立ち上がる。
そして咲の横まで身を乗り出すと、右膝を立ててそこに立ち塞がったのは西沙。
右手を大きく広げて掌を二人に見せながら、その西沙が絞り出す声は低い。
「…………私に……勝てるの…………?」
全員が瞬きすら出来ない空気に包まれた。
それを破ったのは咲の低い声。
「……双方とも…………矛を収めなさい…………」
綾芽と涼沙がゆっくりと咲の後ろに足袋を滑らせ始めると、咲の声が続く。
「座りなさい────これ以上御客人の前で醜態を曝す気か」
二人が両膝をつくと、西沙も右手を降ろした。しかしまだ片膝は立てたまま。
そこに、再び視線を落としていた咲。
「西沙、失礼した…………それでもあなたも気が付いているはず…………その水晶が〝何者〟か…………」
西沙が首を左に振ると、萌江は完全に項垂れ、俯いたまま、いつの間にか左手を真っ直ぐ前に突き出していた。手首を立てて見せる掌には、いつの間にか指にチェーンを巻いた水晶。
上目遣いに、その水晶に目を奪われたような咲が言葉を繋げた。
「その水晶は……どこで…………」
俯いたままの萌江の表情は見えない。
そして聞こえてくるのは、萌江の小さく鼻で笑う声。
「……〝同じ血〟を分け合った者同士で…………牙を向け合うか…………」
低く、僅かなその萌江の声が空気を埋め尽くす。
──……萌江の声……なの…………?
そう思っていたのは咲恵だった。
直後、再びその声が全員の耳に届くが、それはいつもの萌江の声に、誰にも感じられた。
「……あの時…………私の体の上には水晶が二つ乗っていたはず…………」
その萌江の言葉に、咲は眉を細め、唇を僅かに震わした。
「────いえ……私はその時は…………何も…………」
「どうしてどう巡ったのか……二〇年以上経ってから私の目の前に現れたのは〝火の玉〟だけ……対になる〝水の玉〟を探しています。ご存じありませんか?」
「……残念ながら…………あの時に水晶の存在には気が付きませんでした」
「すでに…………消えていたのかもしれない…………」
「私には、水晶の在り所より……その水晶に〝宿る者〟のほうが気になります」
「……よほど……恐れていらっしゃいますね……」
萌江の声に、咲は言葉を詰まらせる。
仮にも〝祓い事専門〟〝憑きもの専門〟の歴史の長い神社を継ぐ巫女。それだけの人物を恐れさせるものが何かと萌江は考えた。
──……それだけの〝誰か〟が……ここにいる…………
咲は、まるで言葉が途切れるのを嫌うかのように口を開いていた。
「娘たちの非礼は御詫びします…………」
「無理もありませんよ…………私にも少し見えました…………そして多分……この水晶を扱えるのは私か…………娘の西沙さんだけです」
萌江はそう言うとゆっくりと顔を上げ、やっと咲に鋭い目を向け、水晶を持った掌を下げて続ける。
「あの時……母と対峙していた〝異形のもの〟とは……………………〝何者〟ですか?」
すると、ゆっくりと咲が応えた。
「…………黒く…………大きな…………〝蛇〟でした…………」
萌江は目を細めて応えるように呟く。
「……蛇…………」
「ただの偶然とは思えません…………どうやら私も、関わってしまったようですね……」
そう言う咲の口元には、なぜか微かに笑みが浮かぶ。
その咲の表情に何かを感じたのか、萌江は敢えて声のトーンを上げた。
「……すいません……今後も……なにかとお願いすることになるかもしれませんね」
そう言うと軽く頭を下げる。
すると、咲は深々と頭を下げて返した。
「……とんでもございません…………私共でよろしければ…………」
☆
萌江と咲恵は西沙から街に一泊するように進められるが、二人は帰ることを決断する。
まだそれほど遅い時間でもなかった。
あの神社で過ごした時間は、せいぜい三〇分程度。それでも萌江にとってはよほどの疲労があったのだろう。新幹線では咲恵の肩に頭を預けて到着するまで目を覚ますことはなかった。
「ごめんね……私だけ寝ちゃってた? 咲恵も少しは寝れた?」
車の助手席で、萌江はそう言って咲恵の横顔に顔を向けた。
柔らかい笑顔を浮かべた咲恵が運転しながら応える。
「んー……色々考えてた」
「…………そうだよね……」
そう言って前に視線を戻した萌江が続けた。
「分かったこともあったけど…………やっぱりよく分かんないね」
その声に、ふと咲恵は萌江の首元の水晶に目がいった。その中に何が宿っているのか、咲恵でも見えたことはない。
──……誰にも、はっきりと姿は見せていない…………
萌江から咲恵に入ってきたイメージもぼんやりとしたものでしかなかった。しかし三人の巫女が揃って恐れるのも理解出来た。
──…………大きすぎる〝誰か〟がいる…………
ゆっくり寝た割に元気の無い萌江だったが、家に着いて猫と戯れるとやっと笑顔が浮かぶ。
いつの間にか外はだいぶ暗い。
エアコンを切って薪ストーブに火をつけると、猫も眠そうに萌江と咲恵に絡まってきた。猫は三匹とも萌江だけではなく咲恵にもすっかり懐いていた。
「少し寝たらまた夜中に遊ぶんだもんねえ君たちは」
猫にそんな言葉をかける萌江の肩に、ソファーで隣に座る咲恵の頭が乗った。
「少しだけ…………」
「うん…………いいよ」
いつも以上に、そう応える萌江の声は優しかった。
そしてその萌江の中に、咲恵の意識が無意識の内に入り込む。
──……ふーん……ビスクドールねえ…………
翌日の朝食はワンプレート。メインは卵とチーズのホットサンド。レタスとプチトマトのサラダ。炒めた生ウインナーとザワークラウト。いつものコーヒー。
最近の萌江は朝に猫と一緒に朝食をとる時間が一番好きだった。しかも月曜日は咲恵もいる。
──贅沢だなあ…………
そう思いながら萌江がコーヒーを口に運んだ時、咲恵が口を開いた。
「いつ気付いたの? 話すか話さないか悩んでたのに……」
ニヤニヤとした萌江が応えていく。
「悩んでるからだよ。私に秘密がバレないとでも思った?」
「秘密にするわけじゃなかったんだけど……断ったほうがいいかなあって思ってたからさ」
咲恵はそう言いながら、ザワークラウトをフォークでクルクルと弄りつつ続ける。
「…………人形って……萌江も苦手でしょ?」
そう言いながら、咲恵は少し前のリサイクルショップの人形のことを再び思い出していた。
萌江も同じ気持ちなのか、少し歯切れ悪く応える。
「うーん、まあ、ね…………みっちゃんからでしょ?」
「うん……でも無理しないで。乗り気しないのに…………」
そう返しながらも、咲恵の中には昨日のこともあった。あんなに萌江が疲労するくらいのことがあったばかり。少し休ませるべきだと思っていた。
しかし、萌江からの返答は意外なもの。
「……会ってみてもいいかな…………その人形…………」
「ちょっと────」
「というより…………その子が会いたがってるよ…………」
──……まさか…………呼ばれてるの…………?
☆
平日。
その日は朝から大粒の雪。
萌江が遅目の朝に目を覚ました時には、すでに外はうっすらと白い。
エアコンでリビングが暖まった頃、ソファーの上で丸くなる三匹の猫に声をかけた萌江は、いつものサッチェルバッグを持って外に出た。
僅かに雪の積もり始めた道。
まだ凍ってはいなかった。しかも思ったより気温は低くない。肌に刺さるような冷たさは感じなかった。
それでも緩やかな坂を下りながら舗装された幹線道路まで歩くこと三〇分。やっと錆びついたバス停が視界に入ってきた頃には、さすがに頬から耳までが冷たい。ニットタイプのキャスケットを深めに被り、イヤフォンを差し込んだ耳を半分程度隠してはいたが、やはり外を歩いてくると空気の冷たさを強く感じる。
──……今夜は泊まりになるかな…………
まだ道路が凍結しているわけではないからか、それほどバスも遅れなかった。
萌江は駅前に着くと、近くのコンビニで暖かい缶コーヒーを三本買って咲恵と合流する。ほどなく到着した満田の黒いアウディに乗り込むと、三人でコーヒーを飲みながら満田の説明が始まった。
「依頼主はあくまで着物ブランドの代表取締役の瑞浪裕子。婿養子は同じ会社の副社長になってる。とは言っても財閥自体の四代目は裕子の弟の祐也。その祐也には妻はいるが血を分けた子供はいない。戸籍上の息子二人はいずれも養子…………という複雑な状況なんだが、他に質問はあるかな?」
運転をしながらそう説明する満田に、後部座席の萌江が返していく。
「ノイローゼになってるっていうのは、その四代目で間違いないのね?」
「そうだ。毎日のように夢に人形が出てきてうなされるそうだよ。今もこれから向かう本家に暮らしてるから会うことは出来るだろうけどね」
「多分、会うことにはなると思うけど……もう若くはないんでしょ?」
「私と同じようにね」
応えながら満田が苦笑いを浮かべた。変な気の使い方をしないところが萌江らしいと言えばらしい。だからこそ深い部分に入り込めるのだろうと、満田自身もその光景を直に見てきたからこそ思う。
そして萌江は、窓の外の雪景色に視線を移しながら、同じように苦笑いを浮かべて口を開いた。
「さて、事の中心にいるのは〝誰〟かな…………?」
そんな萌江の呟きにも聞こえる言葉に、咲恵が不安そうな視線を向けていた。
市街地からだいぶ郊外の山の麓。
到着した瑞浪家は本家というだけあって確かに豪邸だった。世間から隠れるように建てられていることが勿体無いほどの見事な和風建築。
現在でも国内の経済に影響を与える財閥だけあって、そこに至るまでの舗装道路ですら整備が行き届いていた。もっとも周囲には他の民家も見当たらず、かつ不思議なほどに車とも人とも擦れ違うことがない。
「この道路の行き着く先には財閥の建物だけらしい。だから関係者以外がこの道路を使うことは無いんだそうだ」
満田が運転しながら説明した。
そして満田が指定されていたのは、本家の裏口。
「一応、あまりオープンにはしたくないようでね……」
そう言って満田はエンジンを切った。
裏口と言っても決して小さいわけではない。それなりの大きさの扉があり、そこから車ごと入ることが出来た。
「随分と小さな裏口だこと…………」
そんなことを呟きながら咲恵が車を降りた。つい愚痴をこぼしたくもなる。本来は断ろうかと思っていた仕事だ。萌江が話に乗らなければ自分のところで止めていた。しかし咲恵自身も不思議に思う。
──……嫌なら最初に私が断ればよかっただけなのに…………
裏口の門を閉じた黒スーツの使用人が三人を屋敷の入り口に促した直後、そこに現れたのは薄紫色の着物を着た初老の女性だった。
広い玄関の上がり框に立つその女性に、すぐに声をかけたのは満田だった。
「疲れたお顔ですね社長……お待たせしました」
確かにその女性の顔は疲れて見えた。六〇を過ぎているとはいえ、顔の皺を別にしても目の下のクマが目立つ。
「すいません満田さん…………お恥ずかしながら、最近は会社にも顔を出せていない状況でして…………」
見ると、女性の背後には和服姿の若い女性の使用人が一人、体を支えるように控えている。
それでも、その女性の立ち振る舞いはプライドを感じさせるものだった。決して見窄らしい印象はない。
女性は萌江と咲恵に視線を送りながら、ゆっくりと口を開く。
「満田さんにこんな素敵な女性のお知り合いがいるなんて…………身長もお高いのでウチの会社でモデルでもお願いしたいくらい…………」
「社長、まずは…………」
そう言って話を遮ったのは満田だった。
女性は息苦しそうに軽く息を吐くと、続ける。
「…………失礼致しました……私は当家四代目の姉…………瑞浪裕子と申します」
☆
本家の広い和室で一通り話を聞く過程で、数人の使用人が一人ずつ呼ばれた。
「物音と言いますか、パタパタと歩き回る音と言いますか……その部屋は板間なんですが、何度もそんな音を聞いています」
「最初は一人の声でした…………笑い声のような感じで……聞き間違いかと思ったんですが、少し前は何人もの話し声が聞こえて…………」
そして誰もが口を揃えて言う。
〝部屋の中には誰もいなかった〟と。
そんな証言が広まり始めたのは、唯一残ったビスクドールがどこのお寺や神社でも断られ、やがて四代目の瑞浪祐也が悪夢にうなされるようになってからだった。
「どこでも引き取りを断られたということですけど」
隣の咲恵とは違って座布団に胡座をかいて座っていた萌江は、そう言って続けた。
「断られる理由は聞かれていますか?」
すると目の前に距離を置いて座る裕子が応える。どんなにやつれた表情でも、背筋を伸ばして正座する姿は凛としたまま。
「どこも〝手に負えないから〟……というばかりで、それ以上は語っては下さいませんでした…………」
「なるほど…………」
萌江はそれだけ応えると、隣の咲恵に顔を向けた。
すると咲恵もすぐに気が付いて萌江に顔を振り、小さく口を開く。
「……何かは分からないまま、恐れた…………?」
「そんな感じだね…………それじゃ────」
萌江はそれだけ言うと立ち上がった。
釣られるように裕子が顔を上げる。
そして小さく頷いて立ち上がった。
「……分かりました…………ご案内致します」
〝人形屋敷〟と呼ばれる離れは本家の建物と隣接して建てられていた。離れとは言っても立派な平家だった。簡素な柵で囲われてはいるが、その部分だけでも狭くはない。離れというより別邸と言って差し支えない和風建築。庭もしっかりと整えられ、現在でも管理されているのが見た目だけでも分かった。
事実、人が住んでいないにも関わらず定期的に使用人が清掃に入るほどだ。古くからそれがこの家での仕事の一つだったのだろう。
「以前はこの家中が人形で溢れていました。使用人一〇人ほどで週に一度は清掃をしていたのですが、だいぶ大変だったようですよ」
裕子が家の奥へ三人を案内しながら説明を続けた。
数人の使用人が裕子に続くようにしながら雨戸を開け、廊下に陽が差し込んでいく。
萌江と咲恵はいつの間にか雪が止んで太陽が顔を出していたことを改めて感じた。そんなことにも遅れて気が付くほどに集中していた。しかもそれは決して意識的ではない。屋敷で話を聞いていた頃から、頭に人形のイメージが浮かんで消えない。どうしてもそこに意識を集中せざるを得なかった。
その部屋は外に面する廊下から更に奥の奥に入った部屋。
障子ではなく板の引き戸。
使用人がその重そうな引き戸を横に滑らせると、木材同士の擦れる音が周囲に広がった。その音だけでも重そうだ。頻繁に開けられている扉ではないのだろう。
そしてその〝木箱〟は、すぐ正面にあった。
決して広い部屋ではない。部屋の壁の一つに古い箪笥のような物があるだけで、中心に古い木製のテーブル。
その上にその桐の箱がある。
しかし不思議なほどにその箱は古さを感じさせなかった。いくら素材が桐とはいえ、ここまで真新しいままなのは異常に感じるほどだ。
全員でその木箱を囲むように近付きながら、最初に口を開いたのは咲恵だった。
「この箱は最初からの物ですか? 何度か新しくされたことは……?」
裕子はすぐに応える。
「いえ……最初の頃は分かりませんが、少なくとも私の記憶では、ありません」
裕子は桐の箱に手を添え、ゆっくりと蓋を開けた。
そして、古いビスクドールが姿を現す。
それは本邸にいた時から萌江と咲恵の中に浮かんでいたイメージそのもの。
しかしその歴史を感じさせるのは着ている青いドレスだけ。その色に鮮やかさはすでに無い。白かったであろうレース部分も僅かに茶色く変色していた。
しかし顔だけは白いまま。
陶磁器の上に塗料を塗っているとしても、長い間色褪せないということがあるとは信じがたかった。塗料表面のヒビ割れすらも見られない。
金色の髪も、まるで櫛で溶いたばかりのように滑らかだ。
輝いて見えるほど。
艶のある唇。
深みのある瞳。
誰もが目を奪われていた。
しかし、萌江は両肩を掴まれて我に返る。
咲恵だった。
その咲恵の声が萌江の背後から小さく響く。
「…………気を付けて……この子は…………」
すると萌江は右手を上げ、左肩に乗る咲恵の手に乗せた。咲恵がその手を握る。
直後、萌江と咲恵の視界が一瞬だけ歪んだように感じられた。
そして同時に、それは二人にとって決して初めての感覚というわけではない。その意味は分からなくとも、今まで何度も経験してきた。
その多くはなぜか〝首の後ろ〟から。
〝首の後ろ〟から何かが体に入り込むような、ゾワゾワとした、そしてそれはいつも気持ちが悪いものでしかない。時には首だけでなく背中全体にそれを感じることもあった。
そして今は、体全体をその感覚が包み込む。
まるで目眩のような気持ちの悪さに、二人は同時に足に力を入れた。
──……入ってくる…………
咲恵がそう感じた直後、萌江は反射的に左手で首筋に下がる水晶を包んでいた。
──…………会いにきたよ…………
「かなざくらの古屋敷」
〜 第八部「記憶の虚構」第3話(完全版)
(第八部最終話)へつづく 〜