第八部「記憶の虚構」第1話(完全版)
平成二年。
一〇月二三日。
その日は、金櫻萌江の一歳の誕生日。
火曜日の夜。
決して繁華街に人通りは多くないが、その街の灯りは曜日になど関係なく道行く人々を照らし出していた。昼過ぎの軽い雨が未だアスファルトの上に小さな水溜りを残し、その表面に映る街明かりが、車のタイヤで周囲に光の粒を転がしていく。
いつの間にか、そこに辿り着いていた。
大きなビルの前。正面の大きなエントランスの入り口からは、まるで口が開かれているかのように照明が溢れ出す。
まだ深夜というほどでもない時間。人通りもそれなりにある。
そして京子は、やはり何かに突き動かされていた。
──……ここから飛び降りたら…………
進みかけた足を、京子は止めていた。
──……嫌だ…………
〝 その赤子は魔性の子だ……殺せ…………生かしておいてはいけない………… 〟
──…………イヤだ…………!
〝 お前と共に……その子を殺せ………… 〟
──……この子は……死なせない…………!
京子は、胸に抱いていた赤ん坊の萌江を、包んでいたタオルケットごと冷たい足元に置いた。その冷たさがタオルケットの温もりを散らしていく。
財布の入ったハンドバッグを萌江の横に添えると、二つの水晶のついたネックレスをその胸の上に置いた。
萌江は不思議なくらいにおとなしいまま、黙って京子の顔を見上げている。
その目は、まるで大人のもののように柔らかい。
そしてその瞳に、京子は背中を押された。
「……萌江…………私は…………あなたを守る…………」
──……絶対に…………!
薄いコートの内ポケットから、京子は木製の棒を取り出した。
それは、祖母のタミから生前に預かっていた〝短刀〟。
素早くその鞘から、刃を抜く。
コンクリートの歩道に落ちた木製の鞘が、乾いた音を立てた。
短刀を両手で逆手に掴んだ京子に、もはや迷いはない。
──……私が……断ち切る…………!
胸に突きつけた。
何度も、何度も。
周囲からは悲鳴が聞こえ、駆け寄ろうとする誰かの足音が聞こえた時、京子が叫ぶ。
「────近寄るなっ‼︎」
血の混じる喉の、濁った声が周囲の空気を震わせた。
次の瞬間、胸から抜いた刃を首筋へ。
鼓動に合わせ、暖かいものが胸から溢れていく。
──……あとは…………たのむよ…………萌江…………
そのまま、その刃は首筋へ。
その首を掻き切った時、京子は自分の命が噴き出るのを感じていた。
地面に倒れた京子から流れる血液が、まるで蛇が這うように冷たいコンクリートに広がっていく。
そのすぐ側で座り込み、その光景に目を奪われていたのは、たまたまその場に居合わせた若い女性────〝咲〟。
──……これは…………なに…………?
目の前で自ら命を絶った女性と対峙する〝黒い塊〟。
まるで煙のようなそれは、しだいに大きくなっていく。
蠢いていた。
──……この世のものじゃない…………
咲がそう思った時、霧のようにその〝黒いもの〟が消える。
直後、突然、咲の耳が周囲の音で溢れ出した。
「自殺だ!」
「救急車!」
その何人もの声に混ざる未だに上がる悲鳴。
やっと咲は倒れる京子の体の側に赤ん坊がいることに気が付いた。
倒れた京子の体は微動だにしていない。
足が震えたまま、それでも咲は立ち上がっていた。
目の前の赤ん坊はタオルケットに包まれたまま手足を動かすだけ。
──……助けなきゃ…………
ゆっくりと近付く。
そして、赤ん坊をタオルケットごと抱き抱えた。
その赤ん坊の顔は、まるで何も無かったかのように穏やか。
訳も分からないまま、なぜか咲の両目からは大粒の涙が流れ落ちていた。
☆
記憶の在り所を知りたかった
どんなに忘れようとしても
それは掴めないまま
それでも、決して捨てることの出来ない過去
血に流れる記憶
☆
日々の寒さにも感覚的には慣れてきた。
冬も本格的になり、雪が降ることも当たり前の日々。
とは言っても、決して豪雪地帯のように雪深い山というわけではない。
萌江の暮らす所は山の中と言っても標高もそれほど高くはない。街中から離れているというだけに過ぎなかった。そのため、一見すると木々に囲まれた場所であるにも関わらず上下水道まで整備されている地域だ。とは言え近所と言える距離に家はない。慣れた人間でなければ人との関わりを持ちたくない萌江にとっては都合のいい場所ではある。
周りからは対人関係に長けて見られることも多かった。確かに元々接客業の世界に身を置き、明るく活発な印象が強く見られることが多かったが、表面上だけの人付き合いというものが実は嫌いだった。接客という世界で身に付けてしまったのか、周囲の人間に形だけ合わせることにだけ長けたと萌江本人は思っている。
そして今は、その世界にまた戻りたいとは思っていない。
自分の店を持っている咲恵にそんな話をしたことはないが、咲恵も自分の気持ちには気が付いているのだろうと思っている。
それが咲恵の〝能力〟でもあった。
──……咲恵が気付いていないわけがない…………
その日も朝から雪が降り続いていた。
気温が低いせいか、雪の粒は小さい。
窓から見える縁側越しの庭には、薄らと雪が積もっていく。積もり始めるとそれからは早い。あっという間に周囲は真っ白になるだろう。
そんな積もり始め。すでにだいぶ寒いにもかかわらず、三匹の黒猫は元気だった。白くなり始めた庭ではしゃぐ二匹の子猫とそれを見守る母猫。
──……猫なのに……寒いの苦手じゃなくて良かった…………
正式に住み着くようになってから名前もつけていた。
母猫は綺麗な黒猫だから〝クロ〟。キリッとした大きな目でありながら、それでいて優しい。
子猫の一匹は胸元に前掛けのような白い模様があるので〝マエカケ〟。
もう一匹は四本の足先だけが靴下のように白いので〝クツシタ〟。
当然のように咲恵には笑われたが、萌江は気に入っていた。
猫が自由に出入り出来るように、玄関に猫用のドアもつけた。リフォームの時の大きな板が余っていたので、古い玄関の引き戸の片側を外して板を強引に埋め込んだ。下の方を小さく四角に切り取ると、両開き用の蝶番を使ってドアを付け、それによって出る時も入る時も押すだけで開く。怪我防止のためのヤスリがけも忘れてはいない。
それでもその隙間からの外気で当然玄関は寒くなる。咲恵には不評だったが、萌江的には〝どうせ玄関は寒い〟という考え方だった。そもそも〝玄関で寝るわけじゃないから〟ということらしい。現実問題として薪ストーブの熱が家全体を温めるからこその強みというものも確かにある。エアコンやファンヒーターとは根本的に違う。
当面の問題はリビングから玄関へ続くドアだけは萌江の手動となること。しかしドアの前に座って開けて欲しそうに猫が振り向く姿も可愛いと思えるので、萌江としてはそれはそれで良しとしていた。
何日か家を開ける可能性があるのでリビングにエアコンも設置した。同時にタイマーセット出来る給餌器も購入した。
しかし、そこでやはり問題を解決しなければならない現実にぶち当たる。
〝家を空ける時にリビングドアの出入りをどうするか〟が問題だった。
「ここにも猫用のドアをつけるか……しかも空気の漏れが無いようにするには…………」
萌江がリビングのドアの前でそんなことを呟いた時、外から車の音がする。問題の中心である目の前のドアを開けると、外で遊んでいた猫たちが部屋に飛び込んできた。
「驚いちゃったんだねえ。大丈夫だよ」
萌江が振り返ってソファーの下で小さくなる三匹の猫たちに声をかけると、玄関で声がする。
「萌江さーん、来ましたよー」
杏奈の声だった。
「開いてるよー、入ってー」
そんな萌江の家の中からの声を聞きつつも、杏奈は玄関に入るなり、片側が剥き出しの板張りになっている部分を見て声を上げていた。
「どうしたんですか⁉︎ ついに玄関壊れました⁉︎」
「違うよ。この子たちの玄関作りたかったから…………」
その萌江の声を聞きながら杏奈がリビングに入ると、萌江はソファーの上で二匹の子猫を膝に乗せていた。その横にはクロの姿。
「ああ……猫飼っちゃいましたか……」
思わず杏奈が声を漏らすと、萌江の返答は早い。
「飼ったっていうより住み着いちゃってね。あ、コーヒー出来てるから入れて」
「あ、はいはい」
杏奈は棚に並んだマグカップを取ると、慣れた手付きでコーヒーメーカーのポットからコーヒーを注ぎ、テーブルを挟んだソファーの向かいに腰を下ろした。
コーヒーを一口飲んで口を開く。
「親子ですか?」
「うん。横の真っ黒いのがお母さん。住み着いたとは言っても出入りは自由にしてあげたくてさ」
萌江はそう言いながら、クロの背中を優しく撫でていた。
クロが気持ち良さそうに目を細めるその姿に、やはり杏奈も気持ちは安らぐ。自然と笑みを浮かべながら小さく息を吐いて、ゆっくりと言葉を返していく。
「まあ分かりますけど、でも……これからは遠出出来なくなりますねえ」
「エアコンも給餌器も猫砂も買ったから抜かりは無い。それに元々野良だし。強い子たちだよ」
「へえ…………」
「で? いつもながら遊びに来たわけじゃないでしょ? ここまで分かってるだけでも教えてよ」
昨日杏奈から電話をもらってから、何気に萌江はその報告を楽しみにしていた。お金を支払う正式な依頼とはいえ、萌江だけでは調べ切れない情報が欲しかった。
「あ……はい」
杏奈の表情が僅かに曇る。
そしていつものカメラバッグから紙の束を取り出すとテーブルに置いて話し始めた。
「まず水晶なんですけど、正直言うとネットで集められる情報以外にはありませんでした。そもそもよほど水晶に詳しい人じゃないと知りませんし、やまなしけん甲府市の金櫻神社の情報しかありません。確かにそこで火の玉も水の玉もセットで購入できますし、金運だったり病気とか災厄除けって感じですから、まあ……決して特殊な物ではありません」
「ま、やっぱりそうだよね」
萌江はコーヒーを口に運びながら小さく溜息を吐いた。萌江がネットで調べていたものと同じだったからだ。
──……金櫻か…………
元々水晶の調査に関しては萌江から杏奈に依頼したものだったが、その結果にはあまり期待してはいなかった。純国産ということ自体は珍しくあったが〝火の玉〟も〝水の玉〟も決して特殊な力を持った水晶として認知されている物ではない。
しかし萌江の持っている〝火の玉〟は、とてもそれだけで語れるものではない。その理由を知りたかった。こんなことを頼めるのは顔の広い杏奈くらいのものだろう。そのくらいに萌江の交友関係は狭かった。
「仕方ないよね…………私の持ってる火の玉が何か特殊な物であることは間違いないと思うんだけど、一般的に得られる情報じゃそこまでだよ」
「水晶よりも……もう一つの依頼のほうが私は驚きました」
「ああ…………だいぶ古い事件だけど…………何か分かった?」
それは萌江の母親────京子の自殺に関してのものだった。西沙から咲恵経由で受け取ったイメージは萌江も見ていたが、その総てが断片でしかない。情報が少な過ぎた。しかもその場には一歳になったばかりの萌江もいた。
「あくまで自殺という形に収まったので、警察の情報も大きな事件のようにファイルの上に並ぶようなものではありません。しかも今となっては三〇年くらい昔ですからね…………それでも辿り着いた警察資料と当時の新聞の情報から、警察から話を聞かれていた目撃者の中に意外な人物を見付けました」
「目撃者?」
「はい。誰に話を聞いても自殺以外に考えられなかったので目撃者の聴取は簡単なもので終わったようですが、その場にいた萌江さんを救出……っていうのか、警察とか救急車が来るまで抱いていてくれた人がいました…………御陵院……咲、という女性です」
「…………御陵院……」
そう呟きながら眉間に皺を寄せた萌江に、杏奈がゆっくりと返した。
「……西沙さんの…………お母さんです……」
「まさか…………」
「私もすぐには信じられなかったんですが……西沙さんの実家が神社なのは聞いてましたよね。たまたま咲さんはあの時、あの街の大学に通い始めたばかりで……まだ一年生だったようです。珍しい苗字なのでまさかと思って追いかけてみたら、その一〇年後に西沙さんが産まれています」
萌江の視線は、手にしていたマグカップの中の揺れるコーヒーへ。
すぐには言葉を返せずにいた。
ゆっくりと冷めかけたコーヒーを口に運びながら、視線を宙に浮かべたまま膝の上の子猫の背中を触っているだけ。
やがてマグカップをテーブルに置き、ゆっくりと口を開いた。
「……そんなことって…………あるんだね…………」
そんな言葉しか出てはこない。
その萌江に、杏奈も言葉を選んでいた。
「あるんですね……正直、分かった時には体が震えましたよ」
ただの偶然というにはあまりにも出来過ぎている。
誰もがそう思うだろう。萌江自身どう捉えていいのか、頭の中で思考がまとまらない。
そのまま、言葉が口から漏れていく。
「……そっか…………」
「会って……みますか?」
「今は……何をしてるの? 神社ってことはやっぱり…………」
聞き返しながら、萌江は同時に思う。
──……会って……何を聞く…………?
「そうですね。神社を継いで巫女をしてるそうです。西沙さんにも確認を取りました。現在の御陵院神社の代表です」
「今日は……水曜日?」
「はい」
「……次の日曜日にアポが取れるか確認お願い…………咲恵と行く」
「分かりました」
不思議と杏奈のその応えには迷いがない。
萌江が逃げるとは、思っていなかった。
☆
瑞浪財閥の三代目当主の妻としてサトが嫁いだのは戦後すぐの頃だった。
まだアメリカの占領政策が目に見えて日常の一部となっていた頃。
日に日に欧米の文化が日本に溶け込んでいた頃。
多くの価値観が変化せざるを得なかった頃。
多くの日本人が多くのプライドを捨てながら生きることに必死だった頃。
サトが嫁いだばかりの瑞浪財閥も軍需産業が事業の中心となっていたために、戦後の身の振り方に奔走していた。かつての日本軍を支えていた財閥の一つだけに、一度は財閥自体の解体も覚悟はしていたが、結果的にはGHQに擦り寄る形で財閥の存続を維持する。もちろんその裏には、財閥がアメリカの欲しがっていた情報を持っていたからという理由もある。そして他の多くの財閥や大企業と同じく、多角的な事業に切り替えていかざるを得なかった。
それはまだ瑞浪財閥の中核的事業がまだ定まらない頃ではあったが、本家での戦後のゴタゴタも落ち着き、通常の生活が戻りつつあった頃。日々インフラが戻りつつあることを感じながら生活する中で、しだいに屋敷に出入りしていた業者も戻ってくる。
その日訪れた古美術商〝國安堂〟の主人、國澤瑛一もその一人だった。父の安吉が明治に始めた歴史のある古美術商であり、二代目の瑛一は戦前から事業を引き継いでいた。
瑞浪財閥に出入りしたのも戦前に他の古物商からの紹介だったが、すでに四〇歳になる現在の当主、瑞浪小平太にも気に入られていた。
「お久しぶりにございます……旦那様…………」
瑛一は小平太の足音が聞こえただけで、襖が開く前に深々と頭を下げていた。
「いやいや瑛一、頭を上げてくれ……お前も無事で何よりだった」
三代目とはいえ戦中戦後の苦労がそうさせるのか、小平太は腰の低い男だった。むしろそうでなければ財閥を維持することは難しかっただろう。
一通り懐かしい話に花を咲かせつつも、小平太は久しぶりに瑛一が持ち込んだ大きな箱のような物が気になっていた。
長さは一メートルは無いように見える。幅は30センチ程度。高さも同じく30センチくらいだろうか。紫の風呂敷に包まれていた。
「……その箱は……また何か面白い物を持ってきてくれたのか?」
我慢出来ずに小平太が首を伸ばす。
小平太は先代が健在な頃から古美術にうるさい男でもあった。掛け軸やら茶碗、壺等、収集家の気があることは間違いない。その関係で瑞浪家の本家に出入りする古美術商も國安堂だけではなかった。
「はい、昨年に旦那様が祝言を挙げられたとお聞き致しまして…………」
「そうなのだ……まだあちこち焼け野原の頃だったから質素な祝言しか挙げられなんだが…………あれから一年近くになるのか…………」
「……混乱の御時世とは言え駆けつけることも出来ず、お恥ずかしい限り……遅ればせながら、そのお祝いになればと…………」
瑛一はゆっくりと、風呂敷を一辺ずつ捲り、そこに姿を表したのは真新しい桐の箱。
中心に回された紫の組紐を解くと、瑛一は大切そうにゆっくりと蓋を開いた。
その蓋の奥に納められていたのは、一体のアンティークドール。
「作られたのは第一次大戦中だと聞いております」
口を開いた瑛一に構わず、小平太は我慢出来ずに腰を浮かせ、膝を伸ばすよりも早くその桐の箱に近付き、覗き込んでいた。
そのまま瑛一がゆっくりと語り始めた。
「この国に入ってきたのは最近のことです。皮肉なことではありますが、アメリカ兵家族と共に持ち込まれたそうでして…………」
おそらくは日本が戦争に負けなければ、その人形がここに存在することはなかっただろう。アメリカの占領政策がなければ、その人形がここまで辿り着くことはなかった。負けるために戦争をする国など存在するはずもなく、事実として小平太も敗戦の影響で辛い道を歩んできた。
しかしこの時の小平太に、その現実の不均衡の連なりなど意識する余裕はない。ただただ目の前の人形の美しさに気持ちを掴まれるだけ。
そのまま瑛一の言葉が繋がれた。
「今はもうこのタイプはほとんど作られておりません。正確にはビスクドールなどと呼ばれる物ですが、古くに日本に入ってきている物もそう多くはないでしょう。しかもこの状態の良さは私も見たことがございません。劣化を防ぐために桐の箱も作らせました」
その桐の箱の中、そこにはシルクの台座に乗せられた大きなビスクドール。洋服の色褪せた青。輝くような金色の髪と、それを際立たせる白い肌。その総ての印象が、古美術収集を趣味とする小平太の気持ちを揺さぶった。
小平太は興奮を抑えながら口を開く。
「……妻に見てもらってもいいだろうか…………実は妻には贈り物の一つも出来ないままでな…………」
「それはようございますな。ぜひ…………」
戦前と戦中の動乱の中で婚期を逃していた小平太が四〇を迎えようとした頃に終戦。すでに隠居していた二代目からの勧めもあり、これからの財閥のことを考慮して嫁を迎え入れることにした。
嫁となったサトはまだ一八歳。二〇以上も歳が離れていたせいか、決して娘のようとは言わなくとも、やはり小平太にとっては可愛くて仕方のない嫁であることに変わりない。それでも時世の流れの中で贅沢をさせてやれないもどかしさを抱えていた。
サトは座敷に呼ばれてその人形を見た途端、すぐに魅入られた。
アンティーク人形やフランス人形と呼ばれる物の存在はもちろん知っていた。しかし実際に目にするのは初めてだった。
古さを感じさせるのは色褪せたドレスだけ。綺麗な顔にまっすぐな長い金色の髪。何より、サトはその〝目〟に惹きつけられた。とても人形の目とは思えないような透明感と深み。
小平太はサトが大いに喜んでくれたことが何より嬉しかった。
それからサトは人形を集めるようになっていく。それでサトが喜ぶならと、小平太自らも人形を買い与えるようになり、本家の敷地内にある離れを人形の保管用に使うようになった。
いつしかそこは〝人形屋敷〟と呼ばれるようになる。
そして時が流れ、サトは八五歳でこの世を去るまで人形を集め続けた。
数十年前にすでに亡くなっていた三代目の小平太の後を継いでいたのは長男の祐也。サトが亡くなった時点では六三歳。家禄を継いだのはその長男だったが、長女に当たる三つ上の姉、裕子は財閥内の事業の一つである着物ブランドの代表取締役として活躍していた。
母であるサトの葬儀が終わると、二人は人形を処分するかどうかに頭を悩ませる。
すでに数えきれない量が屋敷を占拠している状態で、さすがに粗末には扱えないだろうと、二人は博物館等に引き取りをお願いする。しかし歴史的価値のある物は引き取ってもらうことが出来たが、状態の悪い物も含め、半分は残った。
次いで二人が頼ったのはお寺や神社だった。
頭では〝物〟でしかないと思いつつも、二人ともやはり人の形をした物を粗末に扱うことを幼い頃から嫌った。亡くなったサトの考えでもあったのだろう。
いわゆるお祓いのようなものではなく、あくまで弔ってもらうという考えで処分をお願いしたかった。
しかし、それでも総てを終わらせることは出来なかった。
どこのお寺と神社でも断られた人形が一体。
それは、サトが最初に魅入られた、あのビスクドール。
「この人形だけは手に負えない」
どこでもそう言われ続け、人形屋敷に一体だけ、そのビスクドールが残る。
〝手に負えない〟という言葉の意味が分からないままに、その内に、という程度で二人は人形屋敷にそのビスクドールを保管し続けた。
不思議な現象が起こり始めたのは、それからしばらく経った頃だった。最初に異変を訴え始めたのは祐也。毎晩のようにあのビスクドールが夢に出てきてうなされるという。
次におかしなことを言い始めたのは屋敷の使用人たちだった。人形屋敷の清掃をしていると、人形が保管されてある部屋から物音が聞こえるという者がいるかと思うと、別の者は声が聞こえたという。数人の話し声を聞いたという者まで現れ、決まって中を覗いても誰もいないとのことだった。
使用人たちは一様に怯え、屋敷全体がちょっとしたパニックに陥っていた。そんな状態が二ヶ月も続いた頃には、さすがに祐也も連日の悪夢のせいでノイローゼ気味になっていた。
おかしなことを口にするようになったかと思うと、日々食欲も減り、しだいに体力も失われて寝込むことが多くなっていく。
「……言われただけなんだ…………俺は言われた通りにしただけなんだ…………」
そんな言葉を呟くように零すこともあった。
裕子が会計士の満田達夫に話を振ったのはそんな頃。
元々裕子が代表取締役を務める瑞浪財閥の着物ブランドは、会計士事務所を経営する満田とはかなり初期からの仕事上のパートナーでもある。満田にとっては大口の顧客だけに定期的に直接訪れることも珍しくはない。
いつもの何気ない会話の中で、珍しく溜息を吐いた裕子の変化にすぐに満田は気が付いた。
「珍しいですね。大きなプロジェクトが終わったばかりでさすがにお疲れですか?」
そういう満田に、応接室の大きなソファーに体を沈め、再び軽く息を吐いた裕子が返していく。
「もうこの歳ですから…………六〇を過ぎたらそろそろ引退してもいい頃かしらね」
「ご冗談を……同年代の私から言わせて頂ければ、私よりは間違いなくお若く見えますよ」
それを軽く鼻で笑った裕子は立ち上がると、床から天井までの大きな窓ガラスまで歩き、遥か下の交差点を眺めながら、ゆっくりと口を開いた。
「満田さんはやっぱりお仕事柄…………お顔もお広いんでしょうね…………」
その声のトーンは、明らかにさっきまでとは違った。
満田もその変化に何かを感じ取ったのか、さり気なく声を変えて応える。
「そうですね…………色々なお客様から、仕事とは別の様々な相談をされますが…………何か、経理以外でお困りのことでも?」
☆
「なるほどね。確かに一筋縄じゃ行かなさそう…………」
珍しく開店前からロックグラスでウィスキーを喉に流し込んでいた咲恵が呟く。
カウンターには満田だけ。
久しぶりの大きな仕事の依頼だった。その満田はボトルのブランデーをいつもの水割りで飲みながら話を続ける。
「さすがに財閥の四代目がノイローゼというくらいだから、よほど深刻なんだろう…………病院も何ヵ所か回ったようだが、効かない精神安定剤が増えるだけらしくてね」
「つまり…………その人形がトラブルの元凶に違いないから何とかしてほしいと?」
「そういうことだな。さすがにトップがそれでは財閥の今後に関わる。跡取りがいるとは言ってもまだ若くて実績も少ない。周りに舐められてお決まりの展開を踏めば財閥そのものが傾くきっかけにもなりかねん。そういう危惧があるんだそうだ」
満田のその言葉に、カウンターの中の咲恵は乗り気のしない表情を見せた。
その顔を見た満田が続ける。
「珍しいな咲恵ちゃん」
満田は二人だけの時は咲恵をそう呼んでいた。昔のスナック時代の頃からそうだった。しかし昼間や他に人がいる時は出来るだけ咲恵の苗字の〝黒井さん〟呼びと使い分けていた。そのほうが何かと都合がいい。
「人形ってあまり好きじゃなくて……」
そう返答を濁した咲恵に、満田はなおも食い込む。
「恵元さんにも聞いてみてくれないかな」
「……そうねえ」
咲恵が乗り気がしないのには理由があった。咲恵だけでなく萌江もそうなのだが、お互いに若い頃から〝人の形をした物〟があまり好きではない。咲恵の場合は意識したのは二〇歳を過ぎてからだと記憶しているが、そもそも子供の頃から人形を欲しいと思ったことがない。無意識の内に避けていた。
萌江も家に人形の類を置いているのは見ない。
〝物には念が宿ることがある〟とお互いに理解していた。特に人の形をした物はタチが悪い。それが幽霊のようなものとは違うことは萌江も咲恵も分かっている。言葉で表現することが難しいものではあるが、事実としての経験が確信を持たせた。
つい数週間前にも不思議な経験をしたばかり。
それは萌江と咲恵がリサイクルショップに行った時のこと。お互いにそういう店に行くことは少ない。まして一緒に行ったことは初めてだった。
いつも通り日曜日に咲恵が萌江の家に泊まり、次の日の月曜日。
その日、萌江が咲恵に着いて街まで行ったことに大した理由は無かった。ただ何となくというだけ。もっとも猫と生活するようになってから、なかなか咲恵の店に飲みに行けていなかったというのもあるだろう。
そのリサイクルショップは決して大きな店ではなかった。取り立てて何かを探していたわけではない。ただ、何となく、ただそれだけだった。
そして咲恵が一歩店に足を踏み入れた時、突然右手に痛みを感じた。手首より少し上。
「……右腕が痛い…………」
決して我慢の出来ないような激痛ではない。少しチクッとした程度。いちいち口に出す必要があるとも思えなかったが、なぜか咲恵はそれを口に出していた。
すると、何かを察した萌江が咲恵の左の袖を掴む。そのまま萌江に促されるように二人はとある棚の前に。
雑多に様々な物が並ぶ中、細長い箱があった。無機質な厚紙で作られた程度の物で、色褪せ、酷く歪んでいる。決して大きくはない。長さはせいぜい三〇センチ程度だろうか。
萌江は何の迷いもなくその箱の蓋を持ち上げた。
中には八頭身ほどの細長い、明らかに古い日本人形。
着物から出た右手が取れていた。というよりも割れたように壊れていた。
萌江が呟く。
「…………呼ばれたね……」
咲恵はその隣で小さく息を吐いた。
萌江が続ける。
「この人形は悪くない……でもどうしてあげることも出来ないから…………せめて痛みだけでも消してあげる…………」
萌江は左手に巻き付けたネックレスの水晶を、その人形の右手の上にかざした。
やがてネックレスを首に戻すと、咲恵の右手を掴んで口を開いた。
「さ、ご飯食べにいこ」
偶然にも二人は、少し前にそんな経験をしていた。改めて人の形をした物に宿る〝魂のようなもの〟を意識した経験だった。
もちろんそれは今回の満田の依頼とは関係がない。咲恵もそんなことは分かっている。しかも人形絡みの事案というのはそうそうあることではない。それだけに依頼者の心労もかなりのものだろうとは思えた。
にも関わらず咲恵はどうしても踏み留まる。咲恵にとっては、ただの苦手意識のようなものなのだろうと思うしかない。
「ちょっとだけ…………保留させてもらっても、いい?」
咲恵は遠慮がちにそう言うと、満田の顔色を伺った。
何か、嫌な予感のようなものもあったが、それが人形絡みだからなのか別の理由なのかまでは、まだ分からないまま。
満田はすぐに返した。
「もちろんだ。恵元さんとも相談して欲しい。ちなみに解決してくれたなら五〇〇は出すと言ってる」
「……うん…………分かった……」
直後、咲恵のスマートフォンがけたたましく鳴った。
画面には萌江の名前。
「さすがにいいタイミングね」
咲恵は満田に画面を見せて口元に笑みを浮かべた。
「はいはい、ちょうど連絡しようかと思ってたとこ」
『ねえ、今度の日曜日さあ、新婚旅行に行こうよ』
「何回目よ」
咲恵は眉間に皺を寄せたまま、それでも笑顔は消えなかった。
何かが頭の奥に引っかかったまま。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第八部「記憶の虚構」第2話(完全版)へつづく 〜




