第七部「猫の目」第2話(完全版)
すでに国元は焦土と化しているだろう。
国を追われておよそ一月。
五人の落武者たちは、どことも知れない山の中を歩き続けていた。
途中で立ち寄った村では命を脅かされた。
しばらく何も食べていない。
川で魚を捕らえる体力も残っていなかった。
川の水と雑草だけで命を繋いでいくのみ。
ある夜が明けた頃、一人が大木の側で目を覚ますと、目の前には一匹の黒猫の姿。
捕まえて食べてやろうかと思った。
しかし気持ちだけでは体は動かず、簡単には捕まらない。
他の四人を叩き起こして五人で追いかけるが、体力の落ちた五人には一匹の猫を捕まえることすら難しい。
猫は少し進むと止まり、また少し進むと止まり、その度に五人を確認するかのように振り返って進み続けた。
やがて五人の前に小さな村が現れる。
猫の姿はすでに無い。
その村の人々は優しかった。
村人は空いていた蔵に招き入れ、落武者に食事と酒を提供して匿った。
そして、その夜。
落武者が寝入ったところで、その蔵には鍵が掛けられる。
その夜の内に村人の一人が城下町まで走った。
奉行所に駆け込む。
翌朝には捕まった落武者たちは城まで連行され、そのまま打首となる。
切腹すら許されなかった。
そして村人たちは大量の賞金を得る。
しかし二日後の夜、村人の一人が黒猫に咬み殺された。
その翌日には二人目が噛み殺される。
一晩に一人ずつ、合わせて五人が殺され、村人はやっと黒猫を捕まえてそのまま殺した。
猫の祟りを恐れた村人は、村の一角に猫の墓を作り、その横に祠を建てて祀った。
その祠は〝猫神様〟と呼ばれた。
村の長が祠を守っていくことになったが、それから百年あまり。
いつの間にか祠での祭事もおざなりになっていた。
村の長の末裔はある時から黒猫と落武者に殺される夢を連日見るようになる。
そして祟りを恐れ、一族を連れて村を去った。
それ以来、村人が祠を守り続けていた。
☆
「けっこういいホテルでしょ?」
バイキング形式の朝食を三人で囲んでいると、なぜか自慢げな西沙がそう言って笑顔を浮かべる。
クロワッサンをちぎりながら向かいの萌江が返した。
「まさか西沙と同じホテルだなんて……どうせテレビ局に用意してもらったホテルなんでしょ?」
駅前のビジネスホテルということだったが、ロビーだけを見ても豪華な作りだった。場所的にリゾートホテルではないと言うだけで、規模もクオリティもそれに匹敵する。まだ作られて新しい。そもそもが市の再開発の一部としてその先陣を切るように建設されたホテルでもあった。
朝食のバイキングスペースにしても、中庭から大きなガラスを通して入り込む陽の光が程よく暖かい。そこが駅前であることを忘れさせた。
「まあね。ご飯も美味しいし部屋は綺麗だしお洒落なラウンジだってあるし…………何かあった時に同じホテルのほうが動きやすいでしょ」
「そうだけど…………」
そう言ってコーヒーを一口含んだ咲恵が続ける。
「あまり私と萌江が表に出るわけにはいかないのよ」
「それなら心配ないよ。最近私、人気無いし。派手なパフォーマンスする霊能者のほうがテレビ的には受けがいいんじゃない?」
「なるほどね。見た目が派手なだけじゃダメか…………」
そう言って咲恵はフォークでスクランブルエッグを一口。
すると、隣の萌江が程よく焦げ目のついた厚切りのベーコンを一切れ頬張ってから口を開く。
「郊外の開発工事って今は止まってるんでしょ? 今日はとりあえずそこに連れてって。その村…………まずはそこを見てからじゃないとね」
「分かった。そうするとレンタカーだね。手配しとく。他に用意するものは?」
「そうだね…………キャットフードかな」
「は?」
☆
駅前からは車で一時間以上の道のり。
山へ向かい、そこに辿り着くまでの道路だけは立派だが、周囲に何かがあるわけではない。典型的な切り開かれた山。その山沿いに不釣り合いな広い道路が続く。中断された工事現場が広がる場所が、話の通りに転々と転がっている印象だった。ガードレールも未だ所々だけ。誰から見ても中途半端な印象しかないだろう。
そのためか、緑の葉の香りよりも、鼻につくのは土の匂い。
天気の良さが唯一の救い。それでもすでに冬の雲。それだけでも涼しげだ。
しだいに標高が高くなってきたからか、車内の暖房もしだいに数字を上げざるを得ない。気が付くと周囲に僅かに残る木々の動きに風を感じるようになってきた。
レンタカーを運転していた西沙が口を開く。
「もう少ししたら舗装してない道に曲がるよ」
やがて西沙が右のウインカーを点けた。
すぐに砂利道の振動が車全体に伝わる。
先に口を開いたのは咲恵だった。
「萌江」
「ん?」
「朝食…………コールスロー美味しかったわね……」
「ポテトサラダも美味しかったよ……」
「明日は和食?」
「そうだね……そんなに長居するわけじゃないから色々なバリエーションを楽しまないと……」
すると運転席から西沙の声が浮かぶ。
「緊張感が無いんですけど」
さらに山道を三〇分。
途中の道路脇の資材や重機を横目に辿り着いたエリアは、まだまだ起伏が激しい。
いくつか古い建物が解体途中で残されているのが視界に残る。
三人が車を降りると、最初に動き始めたのは萌江だった。無言で突き進む萌江に、咲恵と西沙も無言で着いていく。
しばらく歩いたところで、萌江は足を止めた。
周囲は掘り起こされたままの剥き出しの土がほとんど。雑草すら所々。
しばらく雨が降っていないのだろう。
乾いた土。おそらくその下には湿度を持った土があるのだろうが、それでもしだいにそれは空気に溶け出し、乾燥した上層が厚みを増していく。あちこちに見えるひび割れがそれを物語っていた。
何の目印も無いようなところで萌江はしゃがみ込む。首だけで振り返ると西沙に声をかけた。
「買ってきてくれたキャットフードお願い」
西沙は小さなレジ袋をカサカサと言わせながら近付いた。その中から取り出した小さなパックを萌江に手渡す。
「小さいのだけど、こんなので大丈夫だよね」
「バッチリだよ。レジ袋も頂戴」
萌江は受け取ったレジ袋を裏返しにして右手に被せると、それで土を掘り始めた。そして小さく掘った穴にパックの中身を開ける。軽く土をかけると、レジ袋に空のパックを入れてコートのポケットに押し込んだ。
立ち上がって呟く。
「ここだね…………祠…………」
すぐ横で西沙が目を閉じていた。
萌江は咲恵に振り返って左手を伸ばす。
「咲恵、来て」
近付いた咲恵は萌江の手を握った。
同時に全身に何かが流れ込む。
──……………………重いな…………
「……古いね…………」
思わず咲恵は呟いていた。
そしてしばらく目を閉じ、眉間に皺を寄せる。
「大丈夫?」
そう声をかける萌江に咲恵は小さく頷くが、同時に繋いでいた手に力を込めていた。
やがて口を開く。
「西沙ちゃん…………あなたの言ってることは正しかった…………やっぱり〝御伽噺〟だ…………」
心配そうに顔を向ける西沙に、咲恵も視線を振って続ける。
「……ここに残ってる〝念〟は…………残ってる伝承よりも深い…………」
そこに萌江が繋げる。
「うん…………だから早く終わらせなきゃ…………西沙、行くよ」
萌江は咲恵と手を繋いだまま車に向かった。その後ろを小柄な西沙が小走りで追いかける。
すると三人はほぼ同時に気が付いた。
レンタカーの後ろに、随分とレトロな車が停まっている。
──こんな山の中でチャールストン?
そう思った萌江はすぐにそのエンジンの音がオリジナルの物ではないことに気が付いた。
そのエンジンが止まり、後部座席のドアが開くと、降りてきたのはこの季節に似つかわしくない紫のワンピースに薄手の白いロングコート。背の高い細身の女性。ツバの広い帽子のせいで見えるのは口元だけ。小さ目のハンドバッグだけを肩から下げ、レンタカーの横で立ち止まる三人の横を素通りしていく。
そして、遠ざかりかけたその存在に、萌江は振り返らずに声をかけた。
「────チグハグだね…………」
砂利道の上の女性の足音が止まる。
萌江が続けた。
「レトロなシトロエンのチャールストンなのにエンジンはフォードの六気筒。そもそもこの時期に乗るような車じゃないよ。寒くて仕方ない…………それなのに薄手のロングコートを重ねただけのワンピースに高いヒール…………歩きにくいよ。ここはまだアスファルトとは無縁な場所だ」
咲恵も何かを感じているのか顔色ひとつ変えていない。唯一不安気な表情を浮かべているのは西沙。萌江とワンピースの女性の背中に交互に視線を配る。
萌江がさらに続けた。
「霊能力者の観光だったら尚のこと…………服装は選んだほうがいいね」
萌江はそれだけ言うとレンタカーの後ろに咲恵と乗り込む。慌てて西沙が運転席に座ってエンジンをかけた。さっき聞こえていた後ろの車に比べるとそのエンジン音がやけに静かに聞こえる。
西沙は小さくUターンをして車を進めた。通りすがりに見ると、レトロな車の運転席には黒いスーツの男性。そこそこ高齢に見えた。
萌江は小さく溜息を吐き、運転席の西沙に声を向ける。
「さっきの人…………同業でしょ?」
「ああ……うん…………」
歯切れの悪いまま西沙が続ける。
「けっこう最初の頃から来てた人だけど、最近は私と一緒で人気ないよ。テレビでも見なくなったな…………私も会ったのは初めてだけど」
「私たちより年上。四〇代半ば。そこまでは見えたんだけど、あの人…………私が話してる途中で〝壁〟作ったよ…………気付かれたかもね……」
「気を付けないと…………」
そう呟いたのは隣の咲恵だった。
萌江が繋ぐ。
「そうだね……それなりな人物も来てるみたいだ…………」
☆
三人は一度ホテルに戻っていた。
一階のカフェ。高い天井だけでなく、テーブルとテーブルの余裕のある距離がさらに開放感を演出する。床とテーブルのダークブラウンの色調が落ち着いた雰囲気を押し上げていた。
大きなガラスが映し出す中庭には、すでに高くなった陽の光。
萌江と咲恵はいつも通りコーヒー。西沙だけはハーブティーを飲みながら話を進めていた。
「改めて、これが犠牲者のリスト」
そう言った西沙が二人の前に分厚い紙の束を重ねる。
軽くそこに目を通しながら、萌江が応えた。
「合併前の最後の住民っていうのが、今の現状を〝呪い〟だって言ってる人たちなんだっけ?」
「そう……五人……その前に集落から街に出た人たちは他にもいるみたいだけど…………そういう人たちって、あまり表立って関わりたくはないみたい。集落の出身だっていうのを隠してる人もいるみたいだし…………」
すると、萌江は大きく溜息を吐いて返していく。
「なるほどね。マスコミに出てるのも最後の五人だけってわけか……」
「メインはその内の三人だけど、けっこうテレビには出てるなあ…………マスコミもネタが欲しいんだろうね」
「どうしてなんだろう……どうしてカメラの前に出たいって思えるのかな…………敵を作る可能性だってあるのに…………」
そう言う低くなった萌江の言葉に応えたのは、やはり声のトーンを落とした咲恵だった。
「自分たちは間違ってないと信じてるんでしょうね。だから支持されるはずだと考える。訴えるだけじゃ、それを裏付けることにはならないのに…………まして〝呪い〟なんて目に見えないものなんて…………」
「〝呪い〟を裏付けて…………信じてもらおうとしたら…………どうするかな…………」
その静かな萌江の言葉に、三人の間のテーブルの上、しばらく静寂が浮かんだ。
やがて、それを破ったのは西沙。
「……嘘だよ…………まさか…………」
言葉に合わせるかのように目付きが変わる。いつもの大きな目が僅かに細くなった。
そして、まるでそれを確認したかのように萌江が即答する。
「複雑に見えて単純なカラクリって意外と分かりにくいものだよ…………それに犯罪者って……よく喋る…………嘘で真実を上書きするためにね…………」
「いや…………だって────」
「五人に会ったことは?」
「……うん、一度話は聞いた…………」
歯切れが悪くなる西沙に対して、萌江は構わずに続けるだけ。
「じゃあ、もう一度会えるかな」
「それはテレビ局に頼めば出来ると思うけど…………」
「その前に、全員の名前と生年月日、住所をリストアップして。昔の集落の時の住所ね。夕方までにデジタルデータで。PDFよりテキストのほうがいいな。マスコミとか行政って何かするとすぐにPDFだから気を付けるように。データはSDカードでもUSBのフラッシュメモリでもどっちでもいいよ。新しいの買ってそれにコピーで」
捲し立てる萌江の言葉を受け、西沙は慌ててメモ帳を取り出そうと黒いハンドバックを開いていた。西沙は元々デジタル関係に詳しくはない。
しかしそんな西沙に、萌江はそれを制するかのように続けていた。
「大丈夫。杏奈ちゃんに聞けば分かるよ。メールはやめて。マスコミの人間のアドレスは情報流出が怖い。同時に五人にアポもお願い。出来れば明日。でも今回はテレビ局は同席させたくないから西沙から直接。出来る?」
返る言葉は、少し間が開いた。
「…………分かった」
そう応えた西沙の目には真剣さが浮かぶ。そのまま、目の前のカップの横に黒い表紙のメモ帳を静かに置いた。
萌江の言葉は、時に緊張感を生むことを、西沙も知っていた。
夕方、テレビ局から送られてきたリストをタブレットで確認しながら、萌江が頼ったのは杏奈だった。
タブレットの画面を見ながら萌江が通話を繋ぐ。
「データ受信出来た? この人たちのことを調べて欲しいの。急ぎで。そう、五人」
バスローブ姿でベッドに腰を降ろし、萌江は通話音声をスピーカーモードに。
途端に杏奈の声が弾ける。
『これって……もしかして今度は〝猫神様〟の事件に絡んでるんですか⁉︎』
「うん、西沙からの依頼なんだけど、さすがに押さえてるね杏奈ちゃん」
『いいなあ、私も前から取材に行きたかったんですよ。でもお金は無いし取材費も出せないって言われて──』
「この五人の過去を色々と調べてくれたら杏奈ちゃんの三ヶ月分の給料は保証するよ」
『マジすか⁉︎』
「いいよ。どうせ取材って言ったってあと二日か三日で解決だしね」
『えー、もうちょっと伸ばしてくださいよー』
「そんなわけにいくかい。で? いつまでに調べられそう?」
『そうですねえ、五人とも同じ村だし…………明日の夜には』
「さすがフリーは顔広いねえ。なんで彼氏出来ないかなあ」
『余計なお世話です。依頼料は週末に取りに行きますのでよろしく』
「はいよ。いつも悪いね」
『いえいえお安い御用で』
杏奈の笑顔が頭に浮かんだところで萌江が通話を切ると、バスルームの扉が開く音が聞こえた。
続くバスローブ姿の咲恵の声。
「杏奈ちゃん? どうだって?」
すると萌江は冷蔵庫から出した缶ビールを渡しながら応える。
「明日の夜までには揃えてくれるってさ。あの子は私たちが何を求めてるか分かってくれるから助かるよ」
缶ビールの栓を開けながら咲恵が返す。
「いい仲間が出来たね……今回は私たちも動きにくいし…………」
そう言って大きくビールを喉に流し込む。
萌江も一口ビールを飲んで応えた。
「そうだね。本来なら私たちみたいな裏の人間が関わる話じゃないよ。マスコミ関係が絡みすぎてる。でも同時に…………私たちじゃなきゃ無理だ」
咲恵はベッドに座る萌江の横に腰を降ろしながら返していく。
「あんなもの見ちゃったしね…………もしかしたら本当に〝呪い〟かもって思ったよ」
「咲恵らしくないこと言わないでよ…………いつも通り、黒は黒、白は白」
「ほんの少しグレー……って感じ?」
「落とし所はそんな感じだろうね。でも、犯人は炙り出さなきゃ。それが私たちの仕事」
萌江は缶ビールを飲み干した。
隣の咲恵の髪に指を絡めながら続ける。
「ご飯食べに行こうよ。駅前に良さげな居酒屋があったし」
「たまにはいいね。せっかく遠くまで来たし」
そして二人は、駅前の居酒屋で意外な人物と出会うことになった。
☆
その時間、家に誰もいないことは分かっていた。
元々は地主の大きな家だったが、現在はひと昔前の栄華までは誇っていない。街が大きく改変されていく過程で半ば強制的に土地は切り売りされ、資産そのものはすでに大きく縮小していた。
それでもかつての家主が起こした事業のおかげで近所でも有名な豪邸であることには変わらない。しかし何人もの使用人を抱えていた時代とは違う。豪邸とはいっても実質的には一部しか使用していないのが実情だった。
お互いに六〇を目前に控えた家主夫婦と、もうすぐ四〇を迎えるその息子は五年ほど前に離婚したばかり。別れた妻との間に一二才の息子がいる。
家の敷地自体はかなりの広さ。
その敷地の奥、今では家の人間もあまり近付かないような場所に、二つの蔵があった。特別古い物ではない。どちらも蔵としては小ぶりな大きさだ。
その日の夕方は雨が激しく降っていた。
秋の大雨。
学校からの帰り道に、その家の一二才の息子────久宝隆史が屋敷の裏路地を経由して帰路に着くのはいつものこと。人通りも車通りも少ないために学校としては推奨していなかったが、何より家から学校までの距離が短い。
そして誰もが視線を落とす大雨。
拉致をするための条件は揃っていた。
目隠しと猿ぐつわをされ、両手と両足を縛られた状態で、自宅の蔵の中に押し込まれる。
本人にはそこがどこなのかも分からないまま。
恐怖で泣き叫ぼうとしているのだろうか、その嗚咽は猿ぐつわを震わせた。
蔵の床にうつ伏せにされ、髪を掴まれる。
目隠しが外され、目を見開いた直後、右目に何かが突き刺さる。
猿ぐつわ越しの大きな叫び声と同時に、体が小刻みに震える。
続けて左目に激痛が突き刺さると、その波が再び訪れた。
恐怖で痛みまでもが遠ざかっていく。
意識を包むのは絶望感だけ。
そして、遠ざかる激痛の中、耳に小さく誰かの声が届いた。
「早くしろ! お前の仕事だぞ!」
髪を掴んでいた手が離れ、顔が床に落ちた直後、再び髪を捕まれて頭を持ち上げられた。
その手は、大きく震えていた。
それが、死の間際に感じた最後の感情。
「やれ!」
喉を何かが滑る。
呼吸が詰まる。
心臓の音が大きく響いた。
☆
地方都市と言ってもそれなりの駅だった。新幹線も通過する規模の駅で、隣接する駅ビルもそれなりの大きさだ。
しかし駅前の開発はまだ半ばといった印象だろうか。駅前だからと言って特別街の中心になっているわけでもなく。街一番の繁華街までは少し距離がある。それには駅前と繁華街を分断するように流れる川と、そこに掛かる橋の影響も歴史的にはあるのだろう。いずれはそこまでの道なりも開発対象となっているのだろうが、そういう中途半端な所ほど古い店が集まっていた。そんな昔ながらの景観としての風情は観光客の受けも悪くはない。
街がその風情を大事にしてそれそのものを売りに出来るか、もしくは新規の大手チェーン店だけで堅実な管理のしやすさをとるか、この街の未来を占う判断になるだろう。
チェーン店やフランチャイズの飲食店にも確かに良さはある。
しかし、個人経営の店だから出せる〝技〟というものも事実としてあることを萌江も咲恵も知っていた。そのためか、二人が外で食べ歩く時にはいつの間にかそういう店を選んでしまっていた。
良くも悪くも、二人は〝こだわり〟のないものは認められない性分なのだろう。
本人たちも自覚はしていた。
もっとも、お互いにそれを変える気はない。
ただ、地元の常連ばかりが幅を利かせているような店はあまり好きではなかった。〝ビジネス〟と〝ホームパーティー〟は切り離して考えたいのが二人の主義でもある。
そうすると、初めての街では気に入った店に出会うのは大体二軒目か三軒目。
そして、その夜は二軒目でその人物に出会う事になる。
カウンターが一〇席ほど。テーブル席は四人掛けが四つ。
古さはあるが、酔っ払った中年のサラリーマンだけが居座っているような店ではなかった。カウンターを含め、テーブル席にもOL風の若い女性客がいるほど。静か過ぎず、それでいて決してうるさくはない。初めてでも居心地は悪くない印象がある。
萌江と咲恵は敢えてカウンターに座った。
居酒屋でのジョッキのビールはやはり家とは違う。雰囲気がそう感じさせるのか、おしゃれなレストランでのピルスナーグラスで飲むのとも違う。
そして二人の数席隣で上がった声に、当然二人は耳を側立てることになる。
「あんなもんただの町おこしみたいなもんじゃねえか。今の時代に〝呪い〟なんて」
「あれは本当だ……〝猫神様〟の呪いなんだぞ。この間もまた殺されたじゃねえか」
見た目だけで言えば二人とも六〇はすでに過ぎていそうな初老の男性だった。薄くなった髪もほとんどが白い。
「そりゃそうかもしれねえけど、殺された奴は猫神様と何の関係もねえって話なんだろ?」
「……いや……関係は、ある…………」
──……へえ…………
話を聞きながらそう萌江が思った時、カウンターの中の従業員の女性が口を挟んだ。
「洋三さん……今夜は飲み過ぎだよ」
常連客なのだろう。その女性の声は親しさを感じさせるものだった。萌江や咲恵と年齢的には同じくらいだろうか。しかしその姿に、二人はすぐ、影のようなものを感じていた。
「今夜はこのくらいで終わり。また膝痛くなるよ洋三さん」
その女性の言葉に、男性は僅かに声を荒げる。
「まだ〝呪い〟は終わってないんだぞ────」
その時、咲恵が萌江に耳打ちをした。
「……あの人……あの村の匂いがする…………」
「…………間違いないよ」
萌江も小さく応える。
そして初老の二人がブツブツと言いながら席を立ち、会計を終え、萌江と咲恵の後ろを通ろうとした時だった。
咲恵が椅子を降りる。
男の一人がよろける。
咲恵がぶつかりそうになりながら、その男の体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「いやいや、すまねえすまねえ」
二人の男性は苦笑いでそう応えながら、そのまま外へ。
咲恵はトイレへ向かう。
その後、戻った咲恵に萌江が間も置かずに声をかけていた。
「咲恵が色仕掛けとは珍しいねえ」
「あれって色仕掛けになるの?」
そこに、カウンターの中から声を掛けてきたのは先程の女性。
「さっきはすいません。すぐに熱くなっちゃう人で…………」
「いえいえ、全然」
萌江がそう返した直後、隣に座っていた中年男性が挟まる。
「恵美ちゃんも大変だねえ。洋三さんとは同郷なんだろ? 無げにも出来ねえもんなあ」
「ええ……まあ…………」
女性の明らかに困った表情を見た途端に、萌江が食いついた。
「ああ、そうなんだ。それじゃあ仕方ないですよねえ……同郷なんだ…………」
そこに隣の男。
「あの村だよ。猫神様の」
──こういう便利なヤツって助かるわー
「ああ、あの…………」
萌江の言葉に女性の表情が明らかに変わったことで、萌江は反射的に話題をはぐらかして軌道をズラしていた。
──……面倒なことになりそう…………
そう思った萌江の膝の上の左手には、咲恵の手が重なっていた。
☆
パートの仕事が終わるのは午後三時半。
短時間の仕事だが、夕方に主婦業をするにはちょうどいい。
週に多くても四日。すでに吉田春子はその職場で一〇年近く働いていた。
長男と長女はすでに社会人として家を出て長い。現在は不満の多くなった夫とゆっくり過ごす毎日だ。
春子は大体仕事終わりに近くのスーパーで買い物をしてから家に帰るのが定番の流れとなっていた。職場も家からは遠くない。その中間にあるスーパーに寄っても家に辿り着くのは四時半過ぎ。大きな買い物等は夫が休みの日曜日に二人で車で買いに行くので、春子が一人で買い物をする量は高が知れていた。
その日もスーパーで軽く買い物を済ませ、まっすぐ自宅に向かう。
しかしリビングに入ったところで、いきなり背後から猿ぐつわを噛まされ、頭が追いつかない内に両目を潰された。
心の中で叫び声を上げ、床に押し付けられ、髪の毛を掴まれた。
やがて、恐怖しかない中で喉に違和感を感じた春子は、そこまでしか意識を保つことは出来なかった。
☆
中学を卒業すると、仁暮家ではすぐに家業を継承する。
それが古くからの仕来り。
いつからなのか、なぜそうしてきたのかは、現在の当主である志筑の両親でも知らぬこと。
家業とは聞かされるが、実際のところの事業内容を知っているのは事業を経営する仁暮財閥の経営会社だけ。婿養子でもある志筑の父親が聞いていたのは、現在の形に落ち着く要因となった歴史が日露戦争まで遡るということだけ。元々財産は豊富に持ち合わせていたということだったが、それ故なのか戦争の気運の中で当時の政界にまで大きな影響力を持つ軍部との経済的な繋がりを持つに至ったのだという。そして政界への繋がりは未だ深く、一般国民との隔たりの大きな生活を送ってきた。
子孫の学業は、少なくとも現在に於いては義務教育だけ。
それでも家庭教師が雇われ、生きていく上での最低限の教育は保持されていた。
もちろん志筑にも慣例に従って家庭教師が充てがわれたが、最初は五〇代に乗ったばかりの女性。教育現場で長く教育に携わってきたベテランだった。
結果的に志筑は、一年も経たずにその女性教師を拒絶する。
志筑はその女性から〝負〟の感情しか感じなかった。
どんなに女性が笑顔を浮かべても、なぜか別の誰かの声や感情を感じる日々。女性の肩越しに見える〝誰か〟の顔に怯え続け、その存在の意味も理解出来ない。
「今日は新しい家庭教師の方が御見えになります」
その母の言葉に、朝食の時間から志筑は落ち着かなかった。
「今度はだいぶ御若い方ですが……前回のような失礼の無きようにお願いしますよ」
柔らかいようでいて、それでいて母のその言葉が志筑の感情に突き刺さる。確かに何度も女性教師を苛立たせ、怒らせてきた。志筑にとってはどうしようもなかったこと。女性の言葉に〝誰か〟の言葉が重なり、満足に言葉を聞き取ることすら出来なかった。
それでも母にそのことは伝わらない。ただの我儘だと叱責されてきただけ。
思えば父からも、そして母からも、何かしらの〝裏の感情〟のようなものを感じてきたのは事実。その時々の表情や口調とは違う〝負〟の部分を感じてきた。あの女性教師ほどではないだけ。
だからこそ、母の言葉が重い。
しかしその日、その時間は午前中の内に訪れた。
大きな洋室の客間。高い天井のその部屋に呼ばれた時、志筑は初めての感覚を覚えることになる。
志筑のおよそ一回り年上の二七歳。
「協会に登録したのは最近でして……」
志筑が重いドアを開けると、そんな、初めて聞く男性の声。母と向かい合って座るその男性は、ノブに手をかけたまま立ち尽くす志筑に顔を向け、柔らかい笑顔を見せた。
その若い男性には、何もなかった。
何も感じない。
その〝背後〟には〝誰〟もいなかった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第七部「猫の目」第3話(完全版)へつづく 〜




