第六部「鐘の鳴った日」第1話(完全版)
闇の中
そこから手を伸ばした
そこから手を伸ばせば
届く気がした
いつもそうしていた
例えそれが微かなものでも
届く気がしたから
☆
教会。
上から見ると、そこは十字架のような型の建物。
中心の採光塔の一番上には大きな鐘。
そこから差し込む光で照らされるキリスト像。
その聖堂の天井は高い。
聖堂の四隅には背の高い細い台。
その上には丸いライト。
ベンチ状の木製の長椅子が左右に分かれて四本ずつ。
聖堂の中心には初老の神父。
その側には、まだ幼い、男の子と、女の子。
☆
最近、よく見る夢。
週に二回から三回。
この夢を見るようになるまでは、あの子供たちが夢に出てくることはなかった。
そしてこの夢を見た時、萌江は必ず汗だくで目が覚める。
決して怖い夢ではない。起きた瞬間も気持ちが悪いわけではない。興味本位から一神教を勉強したことはある。だからこそ神や仏を信仰してはいない。そんなキリスト教徒でもない自分がなぜ教会の夢を見るのか萌江自身も不思議だった。
そしてなぜか〝あの二人の子供〟がいる。
それはこの世に存在しないはずの子供たち。かつて、子供を作ることの出来ない体であるはずの萌江の前に現れた。そもそもが〝生〟を受けていない。不思議な存在。萌江にとっては自分の想像の産物としか考えられない存在のはずだった。
そして、それでよかった。
それなのに、なぜその二人が夢に現れたのか。
意味を汲み取るのは難しい。
萌江は過去に予知夢を二度見たことがあった。しかしそれはどちらも自分に直接関わりのあるようなことではなかった。歴史に残るような世界的な大事件の夢だったが、見方を変えるとテレビ報道を見ている自分の目線を見ただけとも言えるだろう。しかしそれ以来、明確に記憶に残る夢には何か意味があるのではないかと考えるようになっていた。
そういう夢は滅多に見るものではない。しかも今回の夢は見る頻度も高い。
ただ〝あの二人〟の事には咲恵を巻き込みたくなかった。
そのために咲恵と距離を置いた過去まである。
なぜか、関わらせてはいけない気がしていた。
──……これだけは、相談出来ないな…………
季節はもう秋と言ってもいいだろう。
蒸し暑かった夏が終わり、朝晩はだいぶ過ごしやすくなった。
夜型の萌江にとってはありがたい季節でもある。ただ、その分起きる時間は早くなっていた。まだ日中は暑いからだ。朝の涼しさから一気に気温が高くなる。その暑さのためか自然と目が覚めるようになっていた。
「そりゃあ汗もかくよね」
一人でそんなことを呟きながらベッドから腰を浮かせ、自然と両腕を大きく上に伸ばした。
──……あの夢の時だけ…………
シーツとタオルケットを外して持ち上げる。さらに少し考えてから枕カバーも外した。
──せっかくの日曜日なのに…………
洗濯機のスイッチを押すと、すぐに縁側に通じるガラスを大きく開いた。
一気に陽射しと外の空気が入り込む。
この時の気持ちよさは街中で経験出来るものではないだろう。土と葉の匂いが一気に家中に流れ込む。この瞬間がこの季節の醍醐味だと萌江は思っている。
埃と共に気持ちまでが掻き回され、嫌なものが縁側に吐き出されていくようにも感じた。
そして、忘れたいはずの夢の内容が再び意識に浮き上がる。
それでも萌江は振り解こうとしていた。
分からない時点で考え続けるのは萌江の理想に反する。
同時に、それがいつも簡単なものではないことも知っている。
「シャワー浴びてご飯食べるか」
そんな独り言を言いながら、襖や窓を開けながらお風呂場へと向かった。
シャワーの後、コーヒーメーカーのスイッチを入れてから外の物干し竿にシーツを広げた。
──……天気がいいからすぐに乾くね
今日の朝食はピザトーストとコーヒー。
オリジナルのピザソースに自家製のパプリカ。玉ねぎとソーセージはさすがに買った物。チーズはモッツァレラとゴーダにパルミジャーノ。最後に粗挽きのブラックペッパーを振りかけるのが好きだった。少し厚めのパンだと尚美味しい。
そんな美味しい朝食にプラスして、いつもの贅沢な朝を彩る物が新しく導入されていた。
新しくネットで購入したソファーだ。見た目の割には安かったので、届くまで少し不安だったことは事実。二人掛け用ということだったが、もう少し余裕があるようにも感じる大き目のタイプだった。そしてその印象は安っぽくはない。
そのソファーにゆったりと腰を降ろしながら、家の中を通り過ぎていく緩やかな柔らかい風を感じながらの美味しい朝食。風の通りやすさを考えてソファーは脚の高いタイプにしていた。ソファー下も風が渡りやすい。
そしていつも、周囲から聞こえる鳥たちの声が心地良かった。
「贅沢な朝だなあ」
──こりゃ独り言も増えるわ…………
「もうお昼の時間だけどね」
テレビの無いこの家にとっては、目の前の縁側から見える庭が大きなモニター代わり。
そして聞こえる聞き慣れた車の音。
途端に浮ついていた気持ちが落ち着く。
少しだけ鼓動が速くなってきたにも関わらず、この安心感はなんだろう。
やがて、足音と共に庭の映像の中に入り込む咲恵の姿。
萌江の姿を見付けた途端に、その咲恵の笑顔が映像を彩った。
「ソファー届いたんだ」
満面の笑みに合わない抑えた声。
「昨日届いた。早く隣においで」
その萌江の返答に、咲恵はまるで子供のように縁側からリビングへ。萌江の隣に腰をおろすと、手でソファーの感触を確かめる。
そのソファーは一週間前に二人でネットで選んだ物だった。萌江はもっと大きな物でもいいと考えていたが、小ぶりな物がいいと言ったのは咲恵。咲恵のマンションのソファーは明らかにもっと大きい。ゆったりと余裕があってそれはそれでいいのだが、咲恵的には強制的に萌江との距離が近くなるほうがいいと考えての選択だった。
カウチソファーではあったが、肘掛け等に木材が露出したスマートなタイプだ。足回りにも空間が多いので、風通しを意識したこの家にも丁度いいとの判断でもある。
「コーヒー飲む?」
そんないつもの萌江の声に、自然と咲恵は明るく応えていた。
「うん」
萌江は台所まで歩きながら続ける。
「ピザトーストも食べる? すぐ出来るよ」
「うん。萌江のピザソース好き」
いつもより少しだけ高い咲恵の声。
そんな声に、マグカップを取り出し、ソファーに戻りながら萌江が返していた。
「どうしたの? 珍しく昼間から甘えた声出して」
「え?」
カップにコーヒーを注ぎ、それを咲恵の前に置きながら、続く萌江の声は柔らかい。
「一週間ぶりなんだから……会ってすぐにそんな声出しちゃダメだよ…………」
途端に咲恵は赤くなった耳を髪の隙間から覗かせた。
その隙間に手を滑り込ませた萌江が続ける。
「…………何か…………あったの…………?」
素直に萌江がそう感じたのは事実。
萌江の指に咲恵の僅かにカールした柔らかい髪が絡みついた。
今まで、会ってすぐに体を重ねたことは何度もある。お互いにそういう気分の時はやはりあった。
いつもの萌江なら何も悩まなかったが、今朝の夢が頭に残っている。そのためか、もう少し時間が欲しいと思っていた。どうしても咲恵を関わらせたくなかった。
萌江の手に指を滑らせながら、ゆっくりと咲恵が口を開く。
「……やっぱり……分かっちゃうんだ…………」
「咲恵のことを全部分かるのは私だけでしょ」
「そうだよね…………」
咲恵の過去から、感情まで、萌江は常に総てを見透かしている。そしてそれはお互い様。普通の人なら耐えられるものではない。しかし二人の場合は、だからこそ一緒にいられた。お互いに、お互いが唯一の理解者。その気持ちに〝嘘〟や〝秘密〟は無い。
お互いに、自分を理解した上で自分を受け入れてくれる、たった一人の大事な人。
指を強く絡めながら、咲恵が続けた。
「……ちょっとね……なんだか………………嫌な夢見ちゃって…………」
「……夢?」
〝夢〟という言葉に、反射的に返した萌江はやはり自分の見た夢のことを思い出す。
しかしその直後、咲恵の足元から電子音が鳴り響いた。
二人で顔を見合わせる。
それは足元の咲恵のハンドバッグからの着信音だった。
咲恵は眉間にシワを寄せてハンドバッグを持ち上げる。
「もう……誰よ。せっかくの日曜日なのに…………」
そう言う咲恵の耳元で萌江が囁いた。
「いいじゃん……時間はたっぷりあるよ…………」
その声に神経を揺さぶられた咲恵がスマートフォンの画面を見てから、それを萌江に向けた。
「……どうする?」
画面には〝杏奈〟の文字。
「よっぽどだね」
萌江はそれだけ言うと画面をタップする。
「ええ⁉︎」
咲恵は慌てて電話に向かう。
「──ちょっと……杏奈ちゃん⁉︎ なんで電話してきてるのよ……ダメだって…………え?」
すると咲恵はテーブルにスマートフォンを置いてスピーカーモードに。
『────ということなんですよ。今回は私のオカルトライターとしての将来がかかってるんです。なんとかお二人のお力を借りたいと…………』
すると、それに応えたのは萌江だった。
「いつからライターが本職になったのよ」
元々杏奈の本職はあくまでカメラマン。ライターとしての仕事は生活のためだけにやっていたのを萌江も咲恵も知っている。
『え⁉︎ 萌江さん⁉︎ ────話が早い。これから伺ってもいいですか⁉︎』
「どうしてそうなる」
☆
「〝呪われた教会〟? 杏奈ちゃんも好きだねえ。〝呪われた〟シリーズ? 今度は教会かあ」
そう言ってコーヒーを啜る萌江に、向かいでクッションに座る杏奈は愛用の大きなカメラバッグからタブレットを取り出して応えていく。
「これでもオカルトライターなんで、そういう情報はいくらでも集まってきますからね。大概はよくあるような心霊トンネルとかそんなのばかりですけど…………」
前回会った時とは違い、仕方なくライターをしている印象の口調ではなかった。それはそれで楽しんで続けているように萌江と咲恵は感じた。
──……まあ、人様の迷惑にならなければね……
そう思った萌江は、そのためか、半分からかうように返していく。
「ああ、トンネルに水が流れてるシミを見ただけで顔に見えるとかって騒いでるようなヤツでしょ? 所詮どんなにコンクリートで塗り固めたって土の中の水は染み出すよ。雑草だってアスファルト割るんだよ」
「……いえいえ……それより今は謎の声が聞こえるとかのほうが…………」
「トンネルの幅、高さ、長さ、勾配、さらには壁の材質……声や足音の反響がどうなるのかなんて目で見えないからねえ。壁がボコボコだとさらにそれはもっと複雑になるよ。トンネルの心霊スポットって声が定番なのはそれが理由。そこに天井から落ちる水の音…………水の音ってどういうわけか人の声に間違われやすいんだよねえ……子供騙しだよ。みんなすぐに幽霊に結びつけるんだから…………」
「はあ…………」
「まさかそんなつまらない話をしに私たちの貴重な時間を割こうと?」
萌江はそう言うと、いつの間にか僅かに身を乗り出していた。しかし決してその目は鋭くはない。
それでも慌てたように返す杏奈。
「違いますよ。今回のお話は────」
「どうせ山の中の廃墟に行っておきながら周りの林でパキパキ音が聞こえるとか…………当たり前だと思うんだけど……ここも山の中だけど、常に音なんか聞こえるし」
「いえ、今回はそういう廃墟の話ではなくて、教会の廃墟なんですけどね」
「やっぱり廃墟じゃん」
「まあ…………ちなみに場所はここです」
杏奈はタブレットをテーブルに置いて地図を広げてみせた。
「街中とまでは言いませんけど車なら繁華街からすぐですよ。それでも今は知らない人のほうが多いと思います。忘れられてるって感じですかね」
「ふーん」
──……よりによって教会か…………
やはり最近の夢のことが気になった。
無意識の内に興味の無いような素っ気ない態度をとっている自分がいる。しかしそれは杏奈に、というより咲恵に感づかれたくない気持ちのほうが先に立つ。
そんな興味の無さそうな萌江の表情に、さらに杏奈は僅かな何かに縋るように食い付いた。
「前回の話ほどの大きな依頼ではありませんけど、これはこれで────」
杏奈のその言葉に、咲恵が横から挟まる。しかし、幾分声は小さい。
「その前回の件ってどうなったの? あれから…………」
その咲恵は杏奈の前にコーヒーの入ったマグカップを置いてソファーの萌江の隣へ。
「あ……すいません…………あの時のお屋敷跡ですか?」
そう応えた杏奈はすぐにマグカップを手に取っていた。
その視線は湯気を通り越してコーヒーの表面へ。
「うん……身の周りに何か……変わったことはない?」
そう続けた咲恵の言葉は杏奈の身を案じての言葉。
もしかしたら、というより間違いなく歴史の黒い部分に触れた。それを〝負〟と表現してもいいのかどうかは見方によるだろう。少なくとも、杏奈だけでなく全員が距離を置くことで身の安全を確保した。とは言え、それが完全なものかどうかは不明なまま、誰もがどこか不安を抱えたままの生活を続けていた。
「そうですね……私もさすがに怖くなって手を引いたのであの後は分かりません……お墓はまだ探してますけど…………」
それに返したのは萌江だった。
「一族全員がいなくなったからね…………難しいと思うから片手間くらいでいいんじゃない? まだ監視くらいはあるだろうし」
一度は国家レベルの秘密に触れてしまったのは事実。こちらが手を引いた素振りを見せたくらいで簡単に終わるなら、そもそもあんな問題にはなっていない。
だからこそ萌江も咲恵も杏奈との接触は絶ってきた。
「脅かさないでくださいよ」
「脅しじゃないよ。本来ならここに杏奈ちゃんがいることもどうかと思うけど…………」
「だって近くまで来てたんですもん」
すると再び咲恵が挟まる。
「────ってことは緊急の話なの?」
「緊急……でもないんですけど、今までにないパターンというか…………」
「さっきの〝呪われた教会〟?」
言いながら咲恵は食いつくが、応える杏奈の表情は僅かに曇った。
「はい。廃墟とは言っても、そこにいた神父さんが確か一〇年くらい前に入院してからなのでそんなに古いわけではないんですが、形式上は近くの教会で管理しています。そこの教会の神父さんが言うには、取り壊すにしても建て直すにしてもお金がかかるから手を出せないでいるということみたいです」
「なるほどね。その内に勝手に心霊スポットって言われ出した感じかあ……」
咲恵が隣の萌江に顔を振るが、その表情は堅い。
──……どうしたの?
しかし、そんな咲恵の不安に気付かないまま、杏奈が言葉を続けた。
「そんな感じです。教会の裏に墓地もあるので、そのせいもあるんでしょうね。あまり有名ではないので今回飛びついたんですけど、やっぱり噂は噂でしかなくて諦めてたんですよ…………」
☆
「私たちも困っておりましてね…………」
そう言って杏奈を案内する神父は四〇才ということだったが、それでもまだ若い世代なのだという。
神父が、駐車場から教会の建物までの道を歩きながら続けた。
「最近は心霊スポットとか言われて深夜になると不法侵入が絶えません…………あなたも夜に行かれると危険ですので近付かれないほうがよろしいですよ」
神父の口調と物腰は柔らかい。
キリスト教でも仏教でも、神職の世界に深く関わる人物というのは人格者が多い。仕事でそういう人たちから話を聞くことも多かった杏奈は、この世界の人たちと接するのは嫌いではなかった。
目的の教会は神父のいる教会からは車で一五分。そして駐車場から建物まで少しだけ歩く。
やがて、その廃墟の教会が目の前に現れた。
建物自体は朽ちているというより荒らされている印象のほうが強いだろう。ガラスは割られ、外壁の落書きも目立つ。
神父は入り口まで進みながら話を続けた。
「残念なことに中も外も心無い方々に荒らされてしまいましてね…………色々と噂されていることは知っていますが、ここでおかしなことがあったという話は聞いたことがありません。裏に墓地があるので、そのせいで噂が出来るのでしょうか…………悲しいことです…………墓地の管理も私たちのほうでさせて頂いておりますが…………」
「墓地があるんじゃ取り壊しというわけにも…………」
「そうですね。信者の方々にも失礼ですし…………しかし建て直すにもお金を工面しなくてはなりません。何度も協会のほうには掛け合っているのですが…………」
「……お金ですか…………」
二人の歩く石畳も乾いた土が大きく被り、しかもそれは素人目にもここ数日の物とは思えない。
しかし建物の周囲には、不思議と雑草はそれほど見当たらなかった。
それに気が付いた杏奈が言葉を繋げる。
「雑草とかはあまり…………」
「私たちのほうで出来ることはしておりました」
見ると、壁の落書きにも所々消した跡が見受けられた。
──……どうして、こんなことに…………
よく言われる心霊スポットの廃墟やトンネルにもなぜか落書きが多いというのは定番だ。それを見るたびに杏奈は心を痛めていた。
──……子供の自己表現……大人のすることじゃない…………
数段の階段を登り、神父がドアノブに手をかけると、それだけでその大きな扉はグラついた。
すでに鍵は壊されている。
「外の門には鍵があるのですが…………」
そう言って神父が扉を開けた時だった。
決して広くはない聖堂の奥。
キリスト像の前。
膝をついた女性がこちらを振り返っていた。
女性は組み合わせていた両手を解くと、立ち上がって足早に、二人の立ち尽くすドアまで足を進める。
目を伏せたまま、神父の横をすり抜けるように外へ。
「……すいません」
女性は小さく一言だけ。
神父と杏奈の耳に届いたのはそれだけ。
状況を理解出来ない杏奈に対し、女性の背中に声をかけたのは神父だった。
「もし…………信者の方でしょうか…………」
女性は背中を向けたまま、浮きかけた足を止めた。
神父が続ける。
「それでしたら一度……ぜひ私たちの教会へ…………」
「……いえ…………すいませんでした…………」
女性は再び足を前へ。
杏奈は少し驚きながらも女性を目で追うと、外の門のすぐ横の鉄柵に隙間があった。女性はその隙間から外の駐車場に出ると、足早に去っていく。
五〇代くらいだろうか、あまり小綺麗な印象でもなく、地味な雰囲気。他人の目から逃れるためか、目立たないためか、人との接触を好むタイプには見えない。
俯き加減で僅かに見えた表情も重い。
間違いなく杏奈は〝影〟を感じていた。
その杏奈が先に口を開く。
「…………祈って……ましたね」
「そうですね…………どんな理由があるのかは分かりませんが、あの方は神に手を合わせていらした…………私たちは、あの女性が救われることを祈りましょう」
教会の噂に関しては総てがその域を出ないものばかり。ほとんどの心霊スポットと同じだった。教会の心霊スポット自体が珍しいことと、まだあまり有名でないことを理由に興味を抱いたが、杏奈的にはあまり面白いネタになるとも思えなかった。
教会の立場に立てば真実を書いたほうがいいのだろうとも考えたが、それでネットの読者が満足するとも思えない。
記事そのものをボツにすることも考えたが、締め切りまでに次のネタを探すのも難しい。
そして杏奈はあの女性に目をつけた。
──……もしかしたら、定期的に通ってないかな…………
正直、興味もある。
その予測は的中した。
門の近くで張り込むと、女性は毎日午前一〇時頃に教会を訪れていた。
──……だからあの壊れた柵の所を知ってたんだ…………
いつも女性は一〇分ほどで帰る。
わざとなのか、この間の神父があの壊れた柵を直しに来る様子もない。
一週間ほどの張り込みの末、杏奈は女性の後を追いかけて教会の中へ。
ドアノブにかける手が、少しだけ震えた。前回の光景が頭に浮かぶ。同時に、女性が逃げようとすることは想像が出来た。前回の態度から、突然話したがると考えるほうが不自然だろう。
杏奈が思い切って扉を開けた。
そこには想像していた光景。
背中を向けていた女性が頭だけを回し、鋭い目を杏奈に向けた。
女性は徐に立ち上がると、やはりあの時と同じように逃げるように歩き始める。
「すいません……お話を聞けませんか?」
すれ違いざまの杏奈のその声に一度は立ち止まるが、女性は顔を上げようともしない。
「…………すいません」
「別に責めてるわけじゃないんです。あなたがここに来る理由を知りたいだけで…………ホントです。あなたがここで祈る理由を聞かせてもらえませんか?」
しばらく黙っていた女性が小さく呟く。
「……わたしは…………」
微かに顔が杏奈のほうへ向いたようにも見えたが、それだけ。
女性はそれだけで立ち去った。
──……何かを……聞いてほしいの…………?
翌日、杏奈は教会を立ち去ろうとする女性の後をつけていた。
──……良かった……今日も来てくれた…………
女性の自宅は古いアパートの二階。
一週間ほど探ってみるが、午前中に教会に向かう以外は近くのスーパーに買い物に行くだけ。他の人の出入りもなければ働きに出ているようにも見えない。
──……在宅の仕事かもしれないしなあ…………
そして、明らかに中年女性の独り住まい。
その女性から、どうにかして教会に通う理由を聞き出したかった。
必ずそこには〝ドラマ〟があるはず。
しかし直接問い正しても断られるだけなのは予想が出来た。
──……あの二人なら…………
☆
「それでここまで来たの?」
咲恵のその言葉に、杏奈は小さく応える。
「…………はい……」
萌江がマグカップを手にしたまま、少し前から杏奈の顔を見ようとすらしないのが気になった。
──……何か、感じてるのかな…………
そう思った杏奈は対照的に萌江の顔を見続けていた。
萌江が何を言ってくれるかが気になって仕方がない。
やがて、萌江は小さく息を吐く。
そして口を開いた。
「……記者ねえ…………」
「……あ……はい…………」
「そんなくだらないジャーナリズムしかないなら、さっさと辞めたほうがいいよ」
そう言った萌江の鋭くも冷たい目が、杏奈に刺さる。
「…………え?」
杏奈はそう無意識に言葉を発しただけ。
混乱した。
萌江の言葉は全く想定外の響きを持つ。
「心霊トンネルでも取材してればよかったのに…………他人の人生に土足で入り込みすぎ。あなたにそんなことをする権利なんかどこにもない。誰にもない。人にはそれぞれ人生がある。人に知られたくない生き様ってのもあるんだよ。他人に評価されたいなんて思ってない。自分が信じるように生きたいだけ。私だって咲恵だって同じ。他人に見せられない過去を持ってる…………それは私たちだけのもの。他人に話を聞いてほしいなんて思ってない」
そう語る萌江の目は、明らかに先程までとは違っていた。
口調だけではなく、総てが強く見えていた。
その気迫のようなものに、対峙する杏奈の目は怯えた。
それでも萌江は続ける。
「何かを聞いてほしい? 笑わせないで。何様のつもりで言ってるの? 勝手な思い込みで正義感を作り上げて…………そんな押し付けなんかいらない……胡散臭い霊能力者と何が違うのよ」
「萌江────」
遮るのは少しキツめの咲恵の声。
その咲恵の制止する声も届かないのか、萌江は尚も続けた。
「あんたがその人の過去を知ってどうするのよ…………ストーリーテラー気取り? そっとしておいてほしい人だっているの…………自己満足のために他人の人生を引っ掻き回さないでよ…………」
「…………萌江……」
咲恵がそう何かを言いかけた時、杏奈の声がやっと耳に届く。
「…………ごめんなさい……」
俯いていた。
「……帰ります…………」
杏奈はそれだけ言うと、立ち上がり、縁側を降りていく。
小走りな足音が切なく響き、やがてそれは車のエンジン音へと変わる。
ゆっくりとその音が遠ざかっていった。
そして、先に口を開いたのは萌江だった。
「…………ごめん……」
その声は明らかに苛立ったもの。何か張り詰めたような感情が隣の咲恵まで伝わった。
その咲恵は軽く溜息を吐くと、萌江の体を抱きしめる。
「どうしたの? 嫌な夢でも見た?」
その柔らかい声を聞きながら、萌江は咲恵に体を預けていた。
「……ごめん」
まだ、萌江はそれしか言えない。
すると、咲恵は不思議な感覚を覚えた。
何かが、ゆっくりと萌江から流れ込んでくる。
そして咄嗟に口が開く。
「────萌江? どういうこと? この記憶って……さっきの女性の────」
「分からない…………断片でしかないけど…………感情的になっちゃった…………」
「だって……さっき話を聞いただけで名前すら…………」
咲恵は、僅かに恐怖に似たものを感じた。
萌江に何かが起きている。そうとしか考えられなかった。
元々、場所や物から〝念〟のようなものを感じ取ることは出来た。しかし今回は名前すら知らない。咲恵も杏奈から記憶を引き継いでなどいない。
しかし、どこかから萌江はその情報を得ていた。
断片的なものに過ぎなかったが、そのイメージは暗かった。分かるのは余程の重い過去であるということだけ。一気に咲恵の感情を覆い尽くす。
萌江はまるで子供のように咲恵に抱かれたまま、ゆっくりと震える声を絞り出していた。
「……関われってことかな…………関わるなってことなのかな…………」
か細い声。
咲恵は何も応えられずにいた。
どう判断すればいいのか、咲恵でも答えを出せないまま、その驚きと怖さに言葉も無い。
続くのは萌江の声。
「…………誰か……仲介者がいる…………もしかしたら、今までもそうだったのかも…………」
☆
教会。
上から見ると、そこは十字架のような型の建物。
中心の採光塔の一番上には大きな鐘。
そこから差し込む光で照らされるキリスト像。
その聖堂の天井は高い。
聖堂の四隅には背の高い細い台。
その上には丸いライト。
ベンチ状の木製の長椅子が左右に分かれて四本ずつ。
聖堂の中心には初老の神父。
その側には、まだ幼い、男の子と、女の子。
聖堂の中が、無数の光の粒で覆われていく。
眩しい。
☆
火曜日。
萌江は再びあの夢を見た。
全身が汗で濡れ、シーツもタオルケットもしっとりと体に張り付く。
──…………だれ………………
カーテンで遮られた陽の光が僅かに部屋に入り込んでいた。
ベッド脇のスマートフォンを手に取る。
時間は九時を過ぎたばかり。
そして、すぐに電話をかけた。
「建物って十字型?」
スピーカーから返ってくるのは杏奈の声。
『……えっと……はい…………そうです』
「中央に高い塔があって…………一番上に鐘がある?」
『……はい』
「聖堂の四隅の上に丸いライト…………」
『……はい……そうです……間違いありません』
「咲恵には秘密でお願い。明日の八時に迎えに来て」
そして萌江はすぐに通話を切った。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第六部「鐘の鳴った日」第2話(完全版)へつづく 〜