第四部「罪の残響」第2話(完全版)
その洋館は明治二五年から空き家のままだった。
そして佐江咲平吉がその洋館に移り住んだのは明治三二年。
平吉は大日本帝国陸軍の陸軍大佐だった。
当地への転属を機に、かつての日清戦争での功績を評価され、空き家となっていた洋館を与えられる。
家族は妻、帝国陸軍に入ったばかりの長男と陸軍学校へ通う次男。他は使用人が一〇人。
最初に体調不良を訴え始めたのは使用人だった。次々と暇を与えて国元へ返し、その都度新しい使用人を入れるが、なぜか入れ替わりは激しかった。
妻が寝込むようになり、次男も体調不良を訴え始めたのは明治三七年。
しかしその年には、平吉と長男は日露戦争へ赴くことになる。
二人は翌年無事に帰国するが、直後に妻と次男は病院で次々と命を落としていった。
使用人が次々と減っていく中、平吉が体調不良を訴えたのは年号が大正に変わった頃。
程なく長男も体調を崩し、大正三年、二人も病院で亡くなる。
再び民間の不動産業者が土地と建物を買い取るが、資産価値の割には決して高くはない金額でしかなかった。
☆
「ひ…………久しぶりね…………萌江」
西沙はそう言いながらも、その視線は僅かに萌江からズレている。
「まあ…………しょっちゅう電話で話してるしね」
呆れ顔で応える萌江に、なぜか西沙は近付かない。
すると咲恵が萌江の耳元で囁く。
「西沙ちゃんってあれ? 面と向かうと話せないタイプ?」
「そんな感じみたいだね」
そう返した萌江は大きく溜息を吐いて続けた。
「で? なんでこんな所にいるのよ……あそこからって新幹線でも結構かかるよ」
「し……心配だから来たんでしょ!」
「でも杏奈ちゃんに紹介した仕事じゃん。わざわざ来るなら────」
「だって…………私だけじゃ…………多分、手に負えない…………」
しだいに小さくなった西沙の声に、萌江は声のトーンを柔らかくしていた。
「そんな弱気なんて珍しいじゃない」
すると、西沙はやっと萌江の目に視線を合わせ、大股で歩み寄る。
萌江の目の前でその顔を見上げると、声を上げた。
「何も感じないの⁉︎ 嫌な予感がするんだってば! 紹介した時は萌江に会いに行く口実が出来るってだけ思ってたけど急に感じたんだってば!」
直後、すぐ横から咲恵の声。
「やっぱり口実が欲しかったか…………」
「あ」
反射的な西沙の反応を無視し、咲恵も言葉が溢れる。
「電話であんな会話してるくらいだからねえ」
「なんで咲恵が知ってるのよ!」
「だって萌江がスピーカーにしちゃうんだもん」
そう言って咲恵は萌江に笑顔を向けた。
今度はその萌江が声を上げる。
「スピーカー問題よりさあ、どうしてあなたは心霊スポットの廃墟にゴスロリファッションで来ちゃうのよ」
「仕方ないでしょ! 駅からそのまま杏奈の車でここに来たんだから!」
「仕方ないなあ……いつもスカートの多い咲恵ですら今日はパンツだよ。怪我しても知らないからね……とにかく……」
そう言った萌江が無理矢理に話題を戻す。
「あまり時間無いんだよね? 杏奈ちゃん」
すると、突然話を振られた杏奈が慌てて返した。
「そ、そうですね…………実は三時頃には警備の警官が戻るそうでして…………」
その言葉に、萌江の口元に小さく笑みが浮かぶ。
「やっぱりか……お金も掛かるわけだ…………でもこんな山の中で警備を続けるってことは、それなりの理由があるってことだよね」
遺体が発見されたとはいえ、すでに回収済み。それからすでに何日も経過し、現場検証も終了。バリケードテープが存在することが当然とは言え、二四時間の警備体制を崩さないとなると何か隠された理由があると考えるほうが自然だろう。
しかも周囲には他の建物が存在しない山の中。
萌江の声が呟くように続く。
「何かを感じてるのは咲恵と西沙ちゃんだけじゃないしね……」
「……スピーカーはやめて」
そう入り込む西沙の声に、萌江はゆっくりと首を回していた。
「分かった。その代わり…………今回の解決に全面協力して。私のこれでも────」
萌江は左手を広げて上げる。そこには指にチェーンを巻いた水晶が下がっている。
その萌江が続けた。
「────分からないことがあるみたい。西沙ちゃんの力も必要になる…………私に抱かれたいなら協力して」
「いや、抱かれたいわけじゃない」
「断るのが早い」
「そっちは別に興味ない」
「まあいい…………杏奈ちゃん、一応聞くけど、黄色いテープの中って入っちゃダメなんだよね」
すると、杏奈がゆっくりと何かを確認するかのように応えた。
「ま、まあ……普通は……ダメだと……思いますけど…………」
「じゃあ私は普通じゃないから入るわ」
萌江はあっさりとバリケードテープを跨いだ。
「まあ、そうなるよねえ」
そう言った咲恵もテープを跨ぎ、進み始めた萌江に続いた。
「もう、凄い人たちだなあ……あ、西沙さん、テープ切らないようにお願いしますね」
そして杏奈も鞄から懐中電灯を取り出してテープを跨ぐ。
取り残された西沙もテープを跨ごうとするが、身長の低さが仇になった。
「んんーーー」
どこにもぶつけようのないもどかしさ。
何事も無かったかのようにテープの下をくぐった西沙は、すぐに三人を追いかけていた。
壁がほとんど取り除かれているとは言っても、その建物がかなり大きかったであろうことだけは分かる。一番上の屋根までが辛うじて残っている部分を見る限り、階数としては三階建て。決して上の階から崩すわけでもなく、まとめて崩している途中なのだろう。崩れた部分と残されている部分の落差が激しい。
そんな取り壊しのため、足元となる一階部分を埋め尽くす瓦礫も大小様々。歩きにくいというより、危険が伴うと表現するほうが正しい。
そんな中を、四人は足元を照らしながらゆっくり進んだ。洋館と言っても時代的に床の木材もかなり弱っている。足を乗せる度に大きく歪んだ。いつ崩れてもおかしくないと思えるほど。それだけに神経を削らざるを得ない。
「元々さあ」
歩きながら口火を切ったのは咲恵だった。
「今さらだけど、どうしてここを取り壊そうとしたの?」
応えるのは杏奈。
「ここら辺の山を削って大きな道路を通したいらしくて……つまりはバイパス開拓の公共事業ですね。行政がここの所有者を探すのも大変だったみたいですよ。あちこちの不動産屋を書類だけで渡り歩いてたみたいで、やっと見つけた時には不動産屋ですら存在を忘れるくらいに書類の中に埋もれてたそうです」
「こんな山の中だしねえ……昔ならいざ知らず、住みたがるのは変わり者だけだよねえ」
咲恵がそう呟くと萌江がすかさず返していた。
「変わり者で悪うございました」
「私は変わり者が好きなので」
「だよねえ」
そこに杏奈の説明が続く。
「道路工事と並行してここの解体が進んでいたようなんですけど、偶然床が崩れて地下室が見付かったそうでして」
「それがここ?」
そう言って足を止めたのは萌江だった。他の三人も釣られて足を止めた。
床の木材が大きく剥がされた跡も見えるが、それほど大きな地下室でもないようだ。深さは二メートルも無いように見える。しかも手彫りなのか、土が剥き出しのまま。
「地下室って言うより、地下空間って感じね」
そう続けた萌江の左手の水晶が熱い。
その萌江は懐中電灯で穴のあちこちを照らし始める。
すぐ横では杏奈がショルダーバッグから一眼レフカメラを取り出していた。
それを見た萌江が言葉を向ける。
「写真は出来るだけ詳細にお願い。もうここに来れるチャンスは無いしね」
「……分かりました。発見から今日まで雨が降らなかったんで助かりましたね」
応えた杏奈がシャッターを推し続ける。素人目に見ても扱い慣れた印象だった。手の動きも早い。
萌江は口を開き続けた。
「何か箱みたいな物を置いてたね、あそこ」
穴の奥に懐中電灯を向けて続ける。そこには四角い物を置いていたかのように跡がついていた。
「ということは…………この地下は遺体を隠すために掘られた空間じゃない。杏奈ちゃん、お願いしてた白骨遺体の情報は?」
杏奈はシャッターを切り続けながら。
「警察からの裏情報なんですけど…………身に付けてた衣服からの予測だと、日本人じゃないだろうと見てるみたいです。服の年代測定は明治維新前後。遺体は男性が一人、女性が一人、子供が三人…………ここで暮らしてたイギリス人家族と一致します。でも公式にはみんな病死なんです。しかも遺骨は火葬してイギリスに送られています」
「火葬? どうして…………ウソ」
そう、小さく、呟いたのは咲恵だった。
そして続く。
「……ああ…………分かったかも…………」
咲恵の声に、場の空気が張り詰めるのを誰もが感じていた。
そこに切り込めるのは萌江だけ。
「遺体がイギリス人家族だとしたら、その後に暮らした人たちは地下の存在すら知らなかった可能性が高いよね。だから埋められたままだった……でも元々何かに使われてた空間なのにその入り口は隠されてた…………イギリス人家族が使っていた秘密の空間…………何かを隠してたか…………」
「────西沙ちゃん⁉︎」
咲恵の叫び声が再び空間の主導権を握り、一気に張り詰める。
次の瞬間には咲恵が倒れかけた西沙の体を支えていた。西沙は力なく咲恵の腕に捕まりながらも、まだ意識はある。その西沙が呟いた。
「……大丈夫…………あまり知られたくないみたい…………入りかけたけど躊躇した…………」
そこに声を掛けるのは、半ば呆然とする杏奈。
「どうしたんですか…………西沙さん…………」
その声は僅かに恐怖で震える。杏奈にとっては始めて見る西沙の姿だった。
それに応えたのは咲恵。
「大丈夫…………この子は憑依体質だから…………」
そこに萌江の呟きが聞こえる。
「…………誰だ…………見えない…………何かを守ってる…………」
そして、その萌江が突然走り出した。
「咲恵! 西沙を頼むよ! 杏奈ちゃん来て!」
「は、はい!」
あたふたとしながらも杏奈が萌江を追いかける。
建物のエリアから外に出た二人は、井戸の前にいた。
周囲には何もない。その当時のことを考えると、夜は決して近付く人間はいなかっただろうとさえ思えた。
井戸には蓋がされたまま。そのすぐ横に倒れているのは組み上げ用の機械だったのだろう。全体が錆び付き、所々が崩れかけている。
「ねえ杏奈ちゃん、何か小さい袋とか持ってない?」
「袋ですか?」
「出来ればビニール袋か、何かの容器でもいい」
「待ってくださいね」
杏奈は雑草の中で膝をつくとショルダーバッグを開いて手を入れた。
「これで大丈夫ですか?」
杏奈はSDカードを何枚も入れた小さなジッパー付きのビニール袋を取り出して続けた。
「雨で濡れると困るんでいつもこうして持ち歩いてるんですよ」
杏奈は袋のチャックを開けると中身だけをバッグの中に戻して萌江に渡す。
「どうぞ」
「ごめんね。助かる」
萌江は汲み上げ用の機械に近付くと、膝をついて蛇口に手を近付けた。
そして、すぐにその体が止まる。
──……触れない…………
萌江は素早く近くの石を拾うと、蛇口にこびり着いた水垢を削り始めた。それをビニール袋に入れるとチャックを閉じ、そして小さく息を吐いた。
「ありがとう杏奈ちゃん……戻ろう…………西沙が気になる…………」
「はい…………」
二人が戻ると、完全に西沙は意識を失っていた。
咲恵に抱えられたまま。
その光景に、杏奈が不安気に寄り添う。
先に口を開いたのは、萌江に顔を向けた咲恵だった。
「ごめん……私が無理に降ろさせた…………〝この人〟はアクセスしたがってる…………」
そう言って続く咲恵の声が僅かに震える。
「一人……見えない人がいるの…………何かを守ってる…………見られたくないみたい…………」
それにすぐに萌江が応えていた。
「うん…………その人なら私も感じてた…………」
直後、口を開いたのは西沙。
しかもそれは聞いたことのない男の声。少なくともその場の三人にはそう思えた。
「〝…………許せなかった………井上様になんと…………報告すれば……………〟」
そして低いうめき声。
杏奈はその光景に震えながら膝を落としている。初めてみる光景であれば無理もなかった。人間の声や表情、その雰囲気が明確に変化するというのは普通に生きていて目に出来ることではない。オカルト関係の取材をしている杏奈のような人間でも、意識的にそれを取材しにでも行かない限りは見ることはないもの。テレビで取り上げられているように簡単にそんな現場は存在しない。しかもその多くは演技で作られるもの。少なくともこの場で西沙が演技をする理由は見当たらない。
西沙との付き合いの中でも何度か驚くような経験はしていたが、その時は第三者としての西沙がいた。その場を掌握する立場の西沙が隣にいた。だからこそ驚きはすれど怖くはなかった。
やがて萌江が西沙の額に左手の水晶を当て、しばらくし、その萌江が口を開く。
「咲恵、西沙を起こせる? もう行こう……多分、分かった…………」
「…………うん」
咲恵が西沙の頭に手を乗せると、その体が小さく動き、その目が開く。
一瞬だけ驚いたような顔をするが、すぐにその表情は本来の西沙の顔に。何が起こったのか、西沙は理解していた。分からないのはその内容だけ。
そして萌江の顔を見上げて一言。
「…………分かった?」
そしてなぜか、西沙の左目から、涙が一筋。
「うん。行こう。やっぱり西沙のおかげで助かったよ」
そう言った萌江は、西沙に優しい顔を向けながら立ち上がった。
☆
西沙と杏奈は駅前のビジネスホテルへ。
萌江と咲恵も一度咲恵のマンションに戻る。
帰るなり萌江は冷蔵庫を開けた。中から缶ビールを取り出すと咲恵に声をかけた。
「呑む?」
「うん……私も付き合おうかな…………」
時間はすでに早朝の四時近く。夜形の生活スタイルとはいえ、いつもならアルコールを呑み始める時間ではない。
それでも咲恵も呑みたい気分だった。リビングのソファーに深々と腰を降ろし、大きく息を吐く。体が重いのとも違う。
感情が重い。
そう感じた。
缶ビールを両手に持った萌江が隣に、沈み込むようにソファーに座り込むと、妙な安心感が咲恵を包んだ。
お互いにビールの一口目を喉に押し込むと、やっと言葉が溢れ出す。
最初は咲恵だった。
「まずいね…………どうする?」
缶ビールを開けた瞬間のように、返す萌江の言葉にも迷いはない。
「……そうだね。でも説明しないと…………杏奈ちゃんも納得出来ないんじゃないかな」
「確かにね…………でも今回は手を引くでしょ?」
「引くしかないよ…………最終的に解決はない。もちろん不確定な部分はあるから憶測で埋めるしかない部分はあるけど…………もちろんさっき杏奈ちゃんに頼んだ分析結果が出てもそれは変わらない…………」
「私たちなりに結果を出したら終わり…………今回はそれでいいよね…………」
「うん…………杏奈ちゃんにもらった資料見ながら私がまとめておくよ」
そして萌江は咲恵に顔を向けて続ける。
「明日…………送ってもらっても大丈夫? 手間かけさせるけど…………」
「いいよ…………戻っちゃうんだね…………」
咲恵は萌江に軽く目だけを向け、そして小さく続ける。
常に予測出来ていたこと。いずれそうなることが分かっていたこと。
「…………もう一日……」
──……子供じゃないんだから…………
言葉と共にそう思った咲恵は、唐突に笑顔を作り、自分の言葉を否定する。
「ごめん…………冗談」
「……集中したいからさ……ごめんね……一週間後にあの家で…………」
萌江はビールを一気に呑み干した。
そして、咲恵の手に、自分の指を優しく絡めていく。
☆
「はー」
咲恵の大き目の溜息に合わせるように、次いでロックグラス片手のリョウが溜息を吐いて言葉を吐いた。
「辛気臭いわねえ。前のスタイルに戻っただけじゃないの」
カウンターの中で再び溜息を吐く咲恵の口が小さく応える。
「……そうだけど」
「顔に寂しいって書いてあるわよ」
「…………そうだけど」
「久しぶりに何日も一緒にいたから、前の状態に戻ったら寂しくて仕方ないんでしょ?」
「………………そうだけど」
「なんで一緒に暮らさないのよ」
「……色々あったのよ…………」
まだ早い時間だというのに、珍しく咲恵もウィスキーを舐めていた。
そしてその言葉は嘘ではない。子供のようだと感じながらも、やはり寂しいという感情を隠すことも出来ずにいた。もちろんそれは同業者だけが目の前にいる状態だからでもあった。お互いに仕事の愚痴を溢すことの出来る数少ない間柄。
咲恵は意味もなく手を揺らし、それに合わせるようにしてグラスの氷が小さく音を立て続けていた。
「元々週に一回はその……山の中? にママが通ってたんでしょ? よっぽどだわそれ」
そう言葉を投げかけるリョウに、咲恵は素早く投げ返していく。
「何がよ」
「クールなつもりでいるのかもしれないけど追いかけてるじゃない」
「私が? 私はちょっと寂しいなってだけで追いかけてるわけじゃ…………」
「あの子と一ヶ月会えないとしたら…………耐えられる?」
「一ヶ月…………?」
「ずっと、とかって質問は極論だと思うからしたくないけど、どうよ」
「……一ヶ月は…………」
「そうでしょ? そんなに会わなかったら体が疼いて仕方ないでしょ」
「そうね…………」
「ムラムラするでしょ?」
「……そうね…………」
「我慢出来なくて深夜でも車走らせて会いに行きそうよね」
「…………たぶん…………」
「それを素直に伝えたらいいのに」
そんなリョウの言葉に、なぜか気持ちのどこかが疼いた。
普通の関係ではない。そんなことは最初から分かっていたこと。不思議な経験を積み重ね、気が付くと離れがたくなっていた。
少なくとも咲恵はそう思ってきた。
しかし今はそれすらも言い訳に感じる。
何かから逃げようとしたのか、曖昧な返答が口から零れ落ちていた。
「……あー……うん…………」
「…………それが出来たら苦労しないか」
そして再びリョウの深い溜息。
咲恵も溜息で返しながら繋いでいた。
「……ごめん…………色々と普通じゃないのよ私たちって……」
「え⁉︎ なにか……特殊な性癖とか…………」
「いや……ちがうちがう」
「男同士も色々あるけど女同士も色々あるのね…………分かるわ……大変よね」
「いや…………ええー…………」
直後だった。
店のドアと激しい鈴の音。
廊下の明るい照明で逆光となり、荒い呼吸でそこに立っていたのは杏奈だった。
空気の変化を瞬時に感じ取った咲恵が反射的に口を開く。
「どうしたの?」
その声に、大きく息を飲み込んだ杏奈の口が開いた。
「……西沙さんが…………」
さらにその直後、杏奈の背後から現れたのは由紀。
「きゃー杏奈ちゃん! また来てくれたんだー嬉しい…………ってあれ?」
いつの間にかカウンターから出てきた咲恵が杏奈の手をとって一言だけ。
「由紀ちゃん、ごめん…………お店お願い」
「え?」
咲恵と杏奈がけたたましく階段を駆け降りる音が聞こえ、店のドアがゆっくりと閉まった。
由紀とリョウは呆然と顔を見合わせ、最初に口を開いたのはリョウ。
「……そういうことなのね…………」
「どういうこと⁉︎」
「咲恵は萌江に会えない寂しさをあの子で埋めてるのよ」
「……ええー…………会いに行けばいいだけでは…………」
杏奈の車に乗り込んだ咲恵は、駅前に向かう道中で説明を聞いていた。
「昨日みたいな感じだと思うんですけど変になっちゃったみたいで…………」
明らかにその声は怯えを含む。昨夜、西沙の初めて見る姿に驚いたが、まだ杏奈の中では未知の世界。もちろん対処の仕方など分かるはずがない。
「ってことは、まだ意識はあるのね」
その咲恵の緊迫感の籠った声色がさらに杏奈の不安を押し上げていく。
「萌江さんに何度も電話したらしいんですけど出ないから私に電話してきて咲恵さんじゃなきゃ対処出来ないって言って」
「遠回りしすぎでしょ」
やがて到着すると、ホテルのドアを開けた西沙の顔色には生気がない。昨夜と違い、まだ本人の意識はあるようだ。それでも小さな冷や汗の粒が額にいくつも浮かんでいた。
咲恵は素早く中に入ると、バスローブ姿の西沙を抱えるようにベッドに移動した。
そのまま西沙はベッドに腰掛けたまま、項垂れたまま肩で息をする。
そして咲恵は立ち尽くす杏奈に声をかけた。
「ごめん……冷蔵庫にペットボトルのお水とかないかな」
「はい!」
素早く杏奈はペットボトルを咲恵に渡し、咲恵は蓋を回した。
いつも強気な態度の西沙がまるで子供のように咲恵に体を預けている。
西沙に水を飲ませている咲恵を見ながら、オカルトライターとしての経験があるはずの杏奈でも言葉が出ない。
──……すごい…………
「ゆっくり飲んで……大丈夫? 少し落ち着いたね」
咲恵はそう声をかけながら、決して急ごうとはしない。
しかし西沙が何かを伝えたがっているのは、杏奈にも分かった。
「…………また……入ってこようとして…………」
その西沙の声はか細い。
咲恵は優しく西沙の背中に手を置いたまま返していく。
「……ゆっくりでいいよ…………この間の人かな…………」
「たぶん…………入ろうとするんだけどやめて…………また入ろうとしてやめて…………何度も繰り返すから……気持ち悪くて…………」
「…………んー……そっか…………」
直後、ベッド脇に置かれていた西沙のスマートフォンの着信音が鳴り響く。
画面には〝萌江〟の名前。
西沙が画面に指を触れるよりも早く、咲恵の指が触れていた。
「あ、ごめん、私」
そう言った咲恵は素早くスピーカーモードに。
『は? 咲恵⁉︎ なんで⁉︎』
「杏奈ちゃんが教えてくれたの。西沙ちゃんが大変だからって────」
「なんで電話に出ないのよ!」
叫んでいたのは西沙だった。
『シャワー浴びてたんでしょ。三〇分の間に四一回もかけないでよね』
そこに挟まったのは咲恵だった。
「まあまあ、西沙ちゃんもそれだけ苦しかったってことだよ」
『そもそもこの間とは違う人じゃん』
その萌江の声に、咲恵と西沙は顔を見合わせた。
『二人がかりで気が付かないってどういうことよ⁉︎ この間の人と関係のありそうな人だけど…………同じように知って欲しい気持ちと秘密にしたい気持ちがせめぎ合ってる…………でも完全に別人。さらに相関図は複雑になるねえ…………とりあえず、今回の仕事は相手が大き過ぎるから、二人とももう少し気持ちを引き締めて。そのくらいなら二人で押さえ込めるはずだよ。じゃ、私はこれからお酒を飲んで資料の整理に入るので、あとよろしく』
あっさりと電話が切れた。
その光景に杏奈は思っていた。
──……撮影しとけばよかった…………
☆
伊澄十郎は地元ではかなり大きな地主として有名だった。
その十郎が洋館の建物と土地を買い求めたのは大正十二年のこと。
長男夫婦に子供が産まれたことを機に、十郎はその洋館を長男家族に進呈する。
街中からは少々距離があったが、それほどの立派な洋館は日本国内でも早々ある物ではない。伊澄家を継ぐ者としては恥ずかしくない御屋敷だった。
しかし、異変は住み始めてすぐに起きた。
長男の重信の様子がおかしいという使用人からの報を受けて十郎が屋敷に向かうと、屋敷の中で一番広いリビングのソファーに腰掛けた重信が、頭を項垂れたまま動かない。
「重信、どうしたというのだ。お前がおかしいと電話をもらったが────」
十郎がそう言ってソファーの重信に近付く。
そしてその十郎の耳に届く小さな声。
それが重信の声であることに気が付くのには、少しだけ時間がかかった。
重信は床を見つめたまま、何かをブツブツと呟いている。
十郎はその姿に足を止め、狼狽えた。
「────なんだ…………どうしたんだ重信…………」
気持ちの奥底に湧き上がるのは不安だけ。
そこに背後からの声。
「御義父様…………」
重信の妻、スミだった。少し前から体調を壊して病床に伏せっていた。十郎が振り返ると、そのスミが使用人の肩を借りて立ち、続ける。
「……すいません…………私がこんな体なばかりに重信さんが…………」
「スミ……一体何があったのだ……?」
十郎はそう言うとスミに近付く。
すると、スミが叫んだ。
「私に近付いてはなりません!」
十郎は再び足を止めて困惑の表情を浮かべるだけ。状況を理解することは難しかった。
その十郎にさらに届くスミの声。
「私に近付くことを許しているのは、この…………」
スミは自分の体を支える使用人に軽く顔を向けて続けた。
「…………イヨリだけです…………イヨリも近頃、体調を崩しております…………御義父様……この家は呪われているんです…………」
「何をバカなことを────!」
そう十郎が声を上げた直後、背後で重信の声がする。
「……………………許せなかった…………許せなかっただけなのに…………」
重信は肩を震わせ、その声までを震わせた。
「…………井上様に…………なんと報告すれば……………………この国は…………これからなのに……………………」
十郎はそれから何年もの間、何十人もの医者に二人を診させたが、原因が分からないままに病状は悪化の一途を辿る。それは時代が昭和に変わっても同じだった。
そして、二人の間の息子、十郎にとっては初めてとなる孫も寝込むようになる。
やがて昭和一三年。
重信は最初に一九歳になる息子を刺し殺した。
深夜、使用人もすでに三人しか残っていなかったその屋敷では、重信が深夜に徘徊しても気が付く者もいない。
すでに精神までも病んでいた息子は叫び声すら上げなかった。
妻のスミも同じ。
スミはもはや自我を持っていたとも思えないような廃人の姿。胸から流れる血と共に、抵抗もなく床に命を流すだけ。
物音に気付いて起きてきた使用人を惨殺した重信は、自らの喉に包丁を刺して絶命する。
息子家族がいなくなり、屋敷が無人となっても、しばらく所有は十郎のままだった。
そして十郎は、それから何年も調べ続けていた。
それは息子家族を苦しめた病のことだけではなく、屋敷の歴史そのもの。十郎はスミの残した〝呪い〟という言葉の意味を調べていた。何を持って〝呪い〟と表現したのか。一体誰の〝呪い〟なのか。その答えを聞き出す前に、その最前線にいた息子家族は誰もいなくなった。
やがて伊澄家の蔵の中から古い手紙を見付ける。手紙と言っても郵送された物ではない。誰に宛てて書かれた物なのかも分からなかった。分かるのは手紙を書いた人物の名前だけ。
〝大隈武揚〟。伊澄家の親戚筋に当たるが、大隈家は一家離散したと聞いていた。しかもその理由は分からないまま。伊澄家としても、いつの頃からなのか関わりは持たないようになっていた。
その手紙を見付けた使用人は、数世代に渡って伊澄家に仕えていた者だったが、同時に大隈家の血筋の者でもある。元々大隅家を哀れに思った先々代が血筋の者を使用人として召し抱えたということだった。
その手紙の内容の大半は、大隅武揚が秘書官として仕えていた明治新政府の外国事務総監、井上実美に対する懺悔が大半だった。それと同時に、懺悔するに至る真実に十郎は驚いた。
そこには一家が取り潰しとなる理由が記されており、その真実に、十郎は血の気が引く思いがした。いつの間にか体が怒りで震えていく。
「……呪いの家か…………」
十郎は告発しようと新聞社に駆け込むが、戦争の気運が高まる不穏な時代。
やがて告発は政府によって揉み消され、国家権力による監視が始まる。
もちろん告発内容を口外することは許されない。
一族に箝口令が言い渡された。
それを理由に土地と建物は強引に徴収され始めた。
やがて洋館の土地と建物も政府に徴収される。
戦時中、戦争を理由に伊澄家の土地は次々と政府に徴収され続け、財産のほとんどを失うこととなった。
そして戦後となり、洋館と土地は競売にかけられて地元の不動産業者へ。
時代の大きなうねりの中で、その洋館は忘れられていった。
そして、そこで暮らそうとする者は、誰もいなかった。
「かなざくらの古屋敷」
〜 第四部「罪の残響」第3話(完全版)
(第四部最終話)へつづく 〜