第四部「罪の残響」第1話(完全版)
見つけなさい
私は
あなたを待っています
☆
蝉の声が風景に溶け込んでいる頃。
多くの虫の声は、不思議なほどにこの季節の湿度に絡みついた。
咲恵もすでに慣れているとはいえ、この季節だけは長い髪を暑苦しく感じることは多い。萌江のようなストレートでないからだろうか、咲恵の少しうねった髪質は服や首筋によく絡み付いた。髪の色が僅かに赤みがかっているのは染めているわけではない。とはいえその色は嫌いではなかった。
それでも少しだけ、黒くストレートな髪質の萌江を羨ましく思うことはある。
肩にかかるくらいの長さ。そこから時々覗く首筋が好きだった。
しかし萌江からすると、この時期に後ろで髪を束ねた時に見える咲恵のうなじにこそ色気を感じるという。
だからというわけではないが、今日の咲恵はポニーテール。もちろん暑いからだが、隙を見てその首筋に手を回したがる萌江に少し鼓動が速くなる。
──……付き合い始めのカップルじゃないんだから…………
そう思いながらも、咲恵ももちろん嫌ではなかった。
同時に、最近、自分の感覚が若い頃に近くなっていることに対しての自覚はある。
「いつ帰るの?」
珍しく平日のランチタイムを二人で楽しみ、特別目的があるでもなく街中をブラブラとしながら咲恵が切り出した。
すでに二週間ほどになる。
萌江は咲恵のマンションに泊まり込んでいた。咲恵が日曜日に萌江の家に泊まりに行くのはいつものことだったが、何も理由がなく萌江がその家を空けるのは、萌江が山の中に逃げるように引っ越して以来のこと。
「んー…………どうしよっかな……」
そう応えた萌江は、強い陽差しから逃げるように、自然と日陰を探しながら歩いていた。日光が遮られた瞬間に瞼がスッと楽になる。
萌江のすぐ斜め後ろを歩いていた咲恵の声が優しく届いた。
「私もだけど、萌江だってあの家好きでしょ。何かあったの?」
「そういうわけじゃないんだけど…………正直に言っていい? なんかちょっと…………寂しかったからさ…………」
──……お母さんのことか…………
咲恵はすぐにそう思ったが、それを口にすることは憚られた。
萌江の産みの母────金櫻京子。
今は亡きその過去に触れた。しかもそれはあまりにも重い。自らその命を絶った時の想いまでもが容赦無く萌江と咲恵の中に流れ込んできた。
あの事件以来、咲恵の中に、萌江の母親のイメージが残っているのは事実だ。もしかしたら萌江は咲恵の中に母親を見ているのだろうか。そう思うと、咲恵も冗談で返す気にもなれない。
咲恵の見てしまったそのイメージは、あまりにも壮絶だった。
萌江の母親である京子の人生は、産まれた家と霊感体質に振り回された一生だった。まるで誰かに操られたような人生。
そして、まるでそれは、萌江を産むためだけの人生。
京子が自分の意思で生きていたのは、もしかしたら最後の瞬間だけだったのかもしれない。咲恵はそんなふうにも感じる。
我が子を守るためだけに、死んだ。
萌江のために自分の命を投げ打った。
相手が何者かも分からない内に。
──……私に…………それだけの気持ちを持つことが出来るのかな…………
「好きなだけいて」
その咲恵の声に思わず萌江は振り返る。揺れた肩までの髪から、自分と同じトリートメントの香りがした。
「いいの?」
すぐに返した萌江の表情は決して満面の笑みというわけではない。喜んでいないわけではない。それなのに、なぜか複雑な表情を向けていた。
咲恵もそんな萌江の感情を汲み取ったのか、出来るだけ明るく返していく。
「ダメな理由を教えてよ…………あ、でも…………あっちは一日置きくらいでいいけど…………」
「毎晩あんなに喜んでるのに」
「喜んでるけど違います」
「じゃ、喜んでるみたいだからもう少しお世話になろっかな」
「お互いもう若くないんだから…………」
咲恵がそう返した時、目の前の萌江の足が止まった。
二人が歩いている歩道から、萌江は道路を挟んだ向かいの歩道を見つめていた。
その視線の先を目で追いながら咲恵が声をかける。
「どうしたの?」
「うん…………あそこで会ったんだ…………あの女の子…………」
萌江は視線をそのままに応える。
「女の子? ああ…………」
「そ、私の想像上の女の子」
その話は以前から何度か咲恵も聞いていた。ただただ、不思議な感じのする話だと咲恵は思っていた。明らかに幽霊とも違う。
萌江が続けた。
「無表情で黙って立ったまま、私のことをじっと見てた…………一緒に暮らしてた頃だよね…………あの日は私の帰りが早くて…………でも夜の一一時は回ってた。そんな時間に、暗い歩道でひとりぼっち…………一〇才くらいの小さな花柄のワンピースの女の子…………少し歩いて振り返ったらもういなかった…………」
「いわゆる幽霊…………とは違うのよね」
「ある意味同じかもよ。私も今みたいな考えになる前は幽霊ってよく見てたけど、考えが変わったら急に見なくなった。つまり……幽霊なんてその程度のものってことでしょ。でも、あの子は違う…………と思いたい…………私の願望…………」
「本当に想像なのか…………0.1%なのか…………」
「どうなんだろうね。どう考えても私の想像。でもどこかに、そう思いたくない気持ちがあるんだろうね」
「例え想像でも、会いたいんだよね」
「うん…………産んであげられなかったんじゃなくて、生を受けさせてあげられなかった」
すると、咲恵が萌江の左手を握る。
そのまま萌江は繋いだ。
「……あの時…………声をかけてたら…………どうなってたんだろう…………金縛りの時に出てきてくれた時、ホントに嬉しかった…………触れたんだよ…………」
萌江は右の掌を見下ろしながらさらに続ける。
「……髪の毛に…………頭に触ってあげたの…………」
次の瞬間、萌江の体を、後ろから咲恵の両腕が包んでいた。
そして咲恵は萌江の感情を吸い取る。
咲恵の中に入り込むそれは、萌江そのもの。何の偽りもない。
萌江は子供を作れない体だった。一度は結婚し、子供を求めたが、自分が妊娠すら出来ない人間である事実を叩きつけられる。同性愛者であることを認めて生きてからも、それは負い目のように萌江を苦しめた。
そしてそれは、萌江の目の前に具現化する形で現れる。子供二人のイメージが明確になってしまったことで、それが頭から離れることはない。しかもそのイメージを作ったのは萌江自身。
ある意味、残酷だ。
萌江は、自分で自分に〝呪い〟をかけていた。
そして、それは萌江にも自覚があったこと。
この世に生を受けていない二人の子供。
想像以外に説明が出来なかった。
〝幽霊は想像で作り出せる〟
そう言い切る萌江の言葉には、それなりの根拠があった。
萌江を包み込んだ咲恵が小さく呟く。
「……ごめん…………暑いよね…………」
「昼間の住宅街で大胆だね…………私はいいけど」
「…………バカ」
☆
明治元年。あるいは慶応四年。
その洋館はその頃に建てられた。
少し小高い高台に、林を切り開いて作られた広い敷地。その敷地のためだけに道路も作られ、その街としてはちょっとした公共事業。
元々は明治新政府の相談役として来日していたイギリス政府の要人のために建てられた家だった。今で言う大使館員に当たるだろう。
当初予定されていた期間は二年間。
家族全員での来日。
妻の他は子供たちが三人。使用人が一〇人。
しかし当時の流行り病は日本人以外にも容赦無く襲いかかり、家族全員が病で亡くなった。政府は病の広がりを抑えるためにすぐに火葬し、遺骨をイギリスに送る。
外国事務総監の要職に就いていた井上実美は外交問題を恐れたが、僅かな遺恨を残しつつも流行り病でもあったことでなんとか事なきを得る。
土地と建物はイギリス政府の所持となっていたが、やがて明治八年、日本政府に売却された。
紀伊呉平太がその洋館に移りすんだのは明治一〇年。
呉平太が初代となる紀伊財閥の中心は造船事業。明治九年にその造船事業を拡大するために本社をこの地に移転したばかり。
それに合わせて紀伊家も本社近くの洋館に引っ越す。事業の関係で大日本帝国海軍との繋がりがあったため、明治政府から安く買い取ることが出来た。
妻と幼い息子が二人。
最初に体調の不調を訴えたのは次男。
やがて長男も同じ症状を訴え始め、一年と経たない内に病床に伏せる。
やがて妻、そして呉平太自身も体調を崩す。
息子二人、妻に次いで呉平太が亡くなったのは明治二五年。
明治政府の指示で、建物と土地は民間の不動産業者に引き渡された。
☆
夜になっても真夏日が収まる気配はない。
そんな夜もすでに数日目。夜になったからといって決して湿度が下がるわけではなかったが、陽の光が影に隠れただけでやはり過ごしやすさは違う。基本的に夜型の萌江と咲恵にとっては気持ちの沸き立つ時間。
その夜もいつものように萌江は咲恵と共に店に入り、開店前から呑み始めていた。
元々萌江は決してアルコールに強いほうではない。自覚もあるが、それでも自分が楽しく飲める飲み方を知っていた。他人から見るとお酒に強く見えるらしい。
場所はカウンターのいつもの定位置である一番奥。外の街明かりが見える大きなガラスの側。
他の客と盛り上がれば閉店までいる時もあるが、ほとんどは萌江が先に咲恵のマンションに帰り、ご飯を用意して待っている毎日。咲恵もそんな毎日を懐かしく感じつつ、同時に楽しくも感じていた。
それでも、そんな日が重なっていく度に、どこか寂しさが付き纏う。
──……いずれは、帰っちゃうんだろうな…………
そんな僅かな不安をどこかに疼かせながら、咲恵はいつしか萌江の決断を恐れるようになっていた。
──……いつまでいても…………いいんだよ…………
その日は萌江に続くようにして、珍しく開店と同時に来店があった。
平日の早い時間にたまに顔を出すその常連は下の階のゲイバーのマスター。もっとも、本人はママと呼ばれたいらしい。今夜は久しぶりの来店だった。故に、常連とはいえ萌江とは初めての顔合わせ。聞いていないだけと言えばそれまでだが、年齢は咲恵でも知らない。
「オカマとゲイを一緒にしてほしくないわ」
それがゲイバーのマスター、リョウの口癖だった。
「リョウちゃんはどっち?」
すでにだいぶ酔いの回った萌江がそう言葉を投げるが、咲恵からは楽しんでいるようにしか見えていない。
「私はゲイ。男しか愛せないわ」
「私はレズ。女しか愛せないわ」
「私たち仲良くなれそうね」
「そうね」
──この二人、結構似てるかも
そんなことを思いながらも、カウンターの中の咲恵は口を挟みたい気持ちを押し込んだ。
リョウはボトルのブランデーをロックグラスで繰り返し口に運びながら口を開く。氷を入れずにストレートで飲むのがいつものスタイルだ。
「所詮マイノリティーって言われたら反論できないけど」
「生物の子孫繁栄に反してるからね」
応える萌江はあくまで自分のペースを崩さない。
それにリョウが返していく。
「でも仕方ないじゃない。男にしか興奮できないんだから」
「仕方ないよね。女にしか興奮できないんだから」
「私たち親友になれそうね」
「そうね……リョウちゃんなら咲恵も嫉妬しないし」
そこに咲恵。
「私を挟むな」
そしてリョウが声を上げる。
「それより私の悩み聞いてよ」
「オカマでゲイのリョウちゃんの悩み?」
萌江がからかう。
「私はオカマじゃなくてオカマ寄りのゲイなの。ノンケのオカマだっているんだから一緒にしないで」
「やっぱりオカマじゃん」
「もう! 嫌な子ね! あなたとは絶対に仲良くなれないわ」
「で? 親友でゲイのリョウちゃんの悩みって何よ」
すると、少しだけ、リョウの目が曇る。
悩み自体は真剣なものなのだろうと、それは萌江でも瞬時に判断出来た。
そして飛びつくようなリョウの声。
「それがね。この間彼氏と一緒に暮らすために広いマンション借りたのよ。そしたらさ…………お札があったの」
その言葉の意味に、萌江の口元に笑みが浮かび、リョウの話が続く。
「何て書いてるか読めないし不動産屋に聞いても事故物件じゃないって言うし家賃だって普通だったんだけど……なんでお札なんかあるのよ……ラップ音もするのよ」
しだいに震える声になったリョウに対し、相変わらず萌江は変わらぬ表情のまま。
カウンターの中で表情を緩める咲恵には構わず萌江は言葉を返していた。
「そんな所いくらでもあるよ。どうせ古いマンションなんでしょ? 他の部屋にもあるかもね」
「まあ……確かに古いわね」
「仮に事故物件だったとして物々しくお札なんか貼る? ここは事故物件ですってポスター貼ってるようなもんだよ。形式でお祓いだけしとけばいいじゃん」
「それもそうね…………」
「飲食店の店先の盛り塩と同じ意味合いのお札もあるんだよ。大家さんの中には事故物件じゃなくても空室にお札貼ってる人もいるみたいだね。変な人が入居してこないようにって。内見で勘違いされる可能性があるから、分からないような位置にね。剥がし忘れたんじゃない? どこにあったの?」
「トイレのタンクの裏……自然に剥がれて落ちてきた…………」
「ほら、それじゃ幽霊だって気付かない」
萌江はグラスに氷を追加する。それは軽やかな音を響かせ、やがて流し込まれるコニャックの熱に溶けていく。
そんな光景を眺めながら、萌江が続けた。
「それにさ……例えばここのテナントビルだって百年前は何があった所なんだろう。千年前なんてさらに分からない。元々都市部って昔から人が集まってた所がほとんどでしょ。地形も変化はするんだろうけど、川の位置とかで暮らしやすい地形だったんじゃないかな。じゃあ、このビルのある場所で、長い間にどれだけの人が死んだんだろう。人間だけじゃないでしょ。動物だって命がある。宗教なんてものが無かった遥か昔から、色々な場所で色々な生き物が死んできたはず。だったら世界中が事故物件になるじゃん」
そう言ってグラスを空にした萌江にリョウが返す。
「でもやっぱり最近死んだ人のほうが幽霊になりやすいんじゃないの? 知らないけど」
するとコニャックを追加したグラスを揺らし、氷をゆっくりと回しながら萌江が応えた。
「なんで死んでまで寿命があるのよ。あの世がこの世と同じだったら、なんでこんなふざけた世界が必要なの?」
「それも…………そうね……」
「つまりさ、幽霊とか心霊現象って、宗教が生み出したものなんだよ。変だと思わない? もしもリョウちゃんが引っ越す前にそこで自殺とかあったとして、その人が仏教徒って補償ある? 日本人にだってキリスト教徒はいっぱいいるんだよ。ホントは十字架のほうが良かったりしてね。結局思い込みでしょ。お札が無ければ不安に思うことも無かった。ラップ音だってただの家鳴り…………鉄筋コンクリートの建物でも壁や床まで鉄? 違うでしょ。幽霊がキリスト教徒かもしれないから十字架も用意しないとねって話になる。お経もやめなよ。一神教なんて外から入ってきたものだし、あの世を見たこともない人間が作ったものなんだから。霊能力者も無駄。日本の霊能力者はみんな仏教と神道のミックス。その時点でおかしいよ」
すると、ロックグラスのブランデーを飲み干したリョウが静かに返した。
「やっぱりあなたとは仲良くなれそうね」
「オカマ寄りのゲイはちょっと…………」
「差別よ差別! ヘイトスピーチだわ! ヘイトヘイト!」
「友情の始まりね」
そして萌江は自分のロックグラスにボトルのコニャックを注ぐ。
──……後で萌江も下に連れてってやるか…………
咲恵がそんなことを思った時、ドアの鈴が鳴った。
そこに立っていたのは、不安気な表情を浮かべた、大き目のキャスケットを被った若い女性だった。
初めてみる顔。会員制の店では珍しい。
「いらっしゃいませ。えっと…………」
咲恵が口を開いた直後、その女性は素早く応えていた。
「すいません。会員制のお店なのは聞いてたんですけど…………」
咲恵はすかさず。
「一人? いいわよ。気にしないで」
──……私と萌江を訪ねてきたの?
咲恵はすぐにそう感じた。
するとリョウが急に立ち上がる。
「もうこんな時間じゃないの! 私もお店開けるわ! ママ、また来るわね」
そしてカウンターにいつものセット料金のお金を置くと、ゆっくり萌江に振り返る。
「店で待ってるわ…………じゃあね!」
そして、リョウはドアに足をぶつけながらけたたましく店を後にした。
途端に店内が静かになると、呟いたのは萌江。
「嵐のようなオカマだった…………」
直後、今度は咲恵が立ち尽くす女性に顔を向けた。
「座って。最初だから萌江の隣でいいかな」
そう言った咲恵は素早くリョウのボトルセットを片付け始めた。無言でダスターを渡された萌江も黙ってカウンターを拭き始める。慣れたものだった。
その萌江に咲恵が言葉を放り投げる。
「この子は〝違う〟から口説いちゃダメよ」
不思議そうな顔をする女性に顔を向ける萌江の目が、ゆっくりと変わっていった。
──……ん? そういうこと?
「まあ、座ってよ」
そう言う萌江に、戸惑いながらも女性は返すだけ。
「はい……失礼します…………」
女性がカウンターの椅子に腰を上げると、萌江が続けた。
「若くて可愛い女の子は大好きなんだけど、怖いお姉さんに怒られちゃうから我慢しようかな」
「はあ…………」
明らかに困惑した表情の女性は、ゆっくりとキャスケットを脱ぎ、カウンターの上に静かに置いた。そこから現れたショートカットの明るい髪は、おそらくは癖が強そうな質感であることが見て取れた。こまめにケアをしている印象でもない。
──……だから大き目のキャスケットか……
咲恵もそう感じていた。
──大雑把な性格なのかな?
そして口を開く。
「もしかしたら、誰かの紹介?」
すると女性は慌てたように大き目のショルダーバッグから名刺を二枚出し、それぞれ渡して口を開く。
「私はフリーでカメラマンをしてる水月杏奈と言います。まあ、食べていけないのでライターもやってはいるんですけど……今書いてる記事のことでご相談がありまして…………実は…………」
そしてその杏奈は視線を落として繋げる。
「……御陵院……西沙さんにお二人のことを聞きまして…………」
「あら」
思わずそう明るい声で反応した咲恵に対して、萌江が小さく呟く。
「…………あいつか……」
春先の〝呪われた土地〟の解決以来、事あるごとに西沙は萌江に電話をしてきていた。しかもその多くは萌江に言わせればただの世間話。しかも電話に出ないと何度も掛かってくるので出ないわけにもいかない。ごく稀に仕事上の相談もあることはあった。
「萌江の愛人の紹介ね。大歓迎よ」
そう言う咲恵は分かりやすいほどに笑いを堪えていた。
「……あのメンヘラ霊能者め…………」
そう萌江が呟くと、杏奈が切り出す。
「私も何度か西沙さんに取材したことがありまして……よく助けてもらってます」
そして、軽く溜息を吐いた萌江が返していく。
「ってことは、杏奈ちゃんはオカルト系のライターをしてるの?」
「まあ……昔から興味があったのもあるんですけどね…………でも今回のネタは少し変なんですよ。少し前にニュースにもなってたのでご存知かもしれませんが〝悪魔の館〟って呼ばれてる所です」
「ああー」
萌江と咲恵が同時に声を上げた。それでも二人とも興味のありそうな反応ではない。
それに笑い出す萌江を無視して、少し恥ずかしがりながら咲恵が返していく。
「あれって、アレなんじゃなかった? 確か取り壊したって…………」
「今は解体工事が中断されています」
すると萌江が思い出して声を上げた。
「ああ、白骨遺体が出たってニュースで騒いでたやつだ」
「それです…………でもそれ以来報道はストップしました。続報は今のところありません」
「ホントに続報がないんじゃなくて?」
すると、返る杏奈の声は僅かに低い。
「それならいいんですが……」
「違うの?」
グラスを口に運びながら質問を返す萌江に対して、杏奈の返しは早い。
記者独特のものだろうか。
「出版社の部局長から記事を取り下げて欲しいと言われました。しかも今後もこのネタは扱わないことになったと…………」
「へー…………」
それだけ発した萌江の声色が明らかに変化する。とは言え、それは咲恵だけが気が付く程度。
気が付くはずもない杏奈が繋ぐ。
「あそこは〝日本で一番古い事故物件〟として有名な心霊スポットだったんですよ。最初は取り壊されるの寂しいなあって思ってましたけど、そんな所から白骨遺体です。しかも大人二人と子供が三人…………もっと話題になっていいと思うんですよねえ…………」
「ところで」
不意に咲恵が挟まって続けた。
「何か飲む?」
「はい! ビールがいいです!」
「ウチだとバドワイザーかハイネケンかギネスになるけど…………」
「ギネスでお願いします」
「へー、結構好きね」
咲恵はロングネック瓶の栓を抜いて杏奈の前へ。その瓶の隣にはピルスナーグラス。
すると萌江が声を上げる。
「ママ〜私もバド呑みたい」
「はいはい」
咲恵が萌江の前にやはりロングネックの瓶を差し出した。ロングネック瓶のビールにグラスを必要としないのが萌江のいつものスタイル。
その間に杏奈はギネスをグラスへ注ぐ。その泡が落ち着くのを待って、萌江は軽くそのグラスにロングネックの瓶を当てた。
杏奈は多少照れているかのようにはにかんだ笑顔を浮かべると、ビールを喉の奥に押し込み、大きく息を吐いてから話を続ける。
「警察から情報得るのだってタダじゃないし色々取材にもお金が掛かってるんですよ。それなのに記事に出来なきゃお金にならないじゃないですか」
あまりお酒に強いわけではないらしい。
愚痴をこぼし始めた杏奈に、萌江がそれを制するように返していく。
「そもそも、なんで〝悪魔の館〟なの?」
「まあ、昔はああいった古い洋館…………って言うんですか? 珍しかったんでしょうね。山の中の廃墟だといかにもって感じだし。悪魔っぽいじゃないですか。海外のホラー映画みたいだし」
「まあ、純日本家屋だったら悪魔じゃないか……名前なんてそんなもんだよね…………あそこってどんな噂があったの? 事故とか事件とか?」
「ネットで言われてる噂は総てウソでした。よくある心霊スポットのよくある噂ですよ。でも…………人は結構死んでます」
「へえ…………」
杏奈は使い古されたカーキ色のショルダーバッグを開いた。萌江も女性にしては大きなバッグだと思ってはいたが、どうやらカメラバッグも兼ねているらしい。何やらゴツいカメラが顔を出している。しかもデザインも色も女性受けする物とも思えない。
杏奈はそのカメラの脇から紙を取り出すと語り始める。サイズはA4くらいだろうか。あまり綺麗な紙ではない。何度も折り曲げられた跡が見えた。
「建物自体は明治元年に作られてます。最初に暮らしたのはイギリス人家族ですね」
「イギリス人? 外交官みたいな人?」
「大使館員みたいな感じだったようです。でも一年ちょっとで一家全員が病死してます。その後の家族も病死。三番目の家族も病死。四番目は家の主人が家族を殺害してから自殺しています…………どうでしょうか……」
サラリととんでもない洋館の過去を語る杏奈に、萌江は即答していた。
「ウソの噂なんか必要ないくらいに死んでるじゃない」
「はい、私も調べてみて驚きました。郷土史研究をしてる大学まで行きましたけど、問題は今回地下から見付かった白骨遺体です。過去に死んだ人たちは死因が記録に残ってます。生前にしても死後にしても、一度は病院を経由していると思われます。家の地下に埋めるわけがありません。ということはそれ以外の死体が地下に眠っていたわけです。廃墟ですから最近の物かとも思ったんですが、かなり古いらしいんですよ。警察からの裏情報ですけどね…………」
「なるほど、それで西沙ちゃんの所に助けを求めた────ってことかな?」
「はい、それでお二人を勧められました」
「……あの子も少し分かってきたのかな…………ミステリーとしては面白いけど、オカルトとしてはどうなの?」
「結果次第でしょうか。地下に埋まった死体の謎もそうですし、その死体の呪いみたいなもので屋敷に住んだ人たちが死んだのか……それとも別の理由か…………その答えさえ分かれば自分のブログで発表しようかと思ってます」
「なるほどね。でも、一度警察が入ってるってことは、今その現場は入れないんでしょ?」
「そうですね…………バリケードテープの前までですけど…………」
すると、ビールを一口呑み、少しだけ考えた萌江が返した。
しかもその声はそれまでとは違う。今度は杏奈でも変化に気が付くほど。
「私たちが…………どういう人間か分かってる?」
その僅かに低くなった声と、そして細くなった目に、杏奈は少しだけ体を硬くしていた。
明らかに自分と萌江の間の空気が変わったことに気が付き、同時に萌江の目から視線を外せないまま口を開く。
「……はい……西沙さんから聞いてました。とても興味はあります」
「私は99.9%幽霊も呪いも信じていない能力者…………こんな人間はオカルト好きには嫌われるだろうねえ」
それは西沙からも聞いていたこと。そして杏奈はそんな部分にも興味を抱いたのは事実。正直、今までそんな人物に会ったことがない。
「私も心霊現象に関しては前から懐疑的な部分がありました。幽霊を信じてないっていうわけじゃないですけど、色々な霊能力者さんの話を聞いてると、なんか辻褄合わないことが多くて…………でも西沙さんは何か違うというか…………」
その杏奈の言葉に、萌江は小さく首を傾げて返す。
「うん、分かるよ。最初会った時は典型的な霊能力者かと思ったけど、何か違うのは分かる」
「……はい。考え方とか……他の霊能者とは違うって言うか……」
杏奈のその言葉に、萌江が大きく笑みを浮かべた。
「そりゃあれだ。凄い霊能力者に感化されたんだな」
そんな萌江に咲恵の冷めた声。
「誰よ」
「まあ、それはアレとして…………咲恵はどう思う?」
萌江はそう言ってカウンターの中の咲恵に顔を向けた。
「そうねえ…………まあ、正直今の時点ではっきり見えるものは無いし…………何より萌江のことが大好きな西沙ちゃんからの紹介じゃ断れないよねえ」
笑顔で応える咲恵を横目で見ながら、萌江が杏奈に顔を戻す。
「まあ、西沙は別として調べてみてもいいけど結果は保証しないよ。ミステリーになるかオカルトになるか…………」
「構いません…………お二人の検証結果が知りたいです。お金も…………」
そう言うと杏奈はショルダーバッグから厚めの封筒を取り出して続ける。
「西沙さんから頂いた口止め料です。お二人のことを口外しないようにと…………今回はこれで…………」
萌江はすぐに掌で遮り、口を開く。
「あなたの望む結果が出せたらね」
少し驚いた表情の杏奈に、萌江は続ける。
「行くのは、いつにする?」
「もう少し調べたい部分があるんで…………次の日曜日の深夜はどうですか? 深夜二三時で」
「日曜日なら定休日だし……いいよ。じゃ、今夜はもっと飲むか」
すると、いい感じに酔いの回り始めた杏奈が声を上げた。
「もう一本お願いします!」
それに便乗する萌江。
「ママ〜私のボトルってあと何本残ってるの〜?」
応えるのは冷静なトーンになった咲恵。
「二本しか残ってないわよ」
「早っ! 一〇本もあったのに!」
☆
現場は市街地や住宅街からはかなりの距離があった。道路は舗装された物が続いていたが、それでも都市部からはだいぶある。
道中も山の中の道。周りを林に囲まれ、曲がりくねった先にその洋館の跡地はあった。かなり広い敷地の周りには深い林があり、明らかに山の一部を切り開いて作られたことが見て取れる。
道路から敷地にはすんなり入ることが出来た。そして開かれた空間の先には中途半端に取り壊された洋館が姿を現す。解体業者が入ったためか周囲の雑草は多くない。そしてその周囲を警察のバリケードテープが黄色く車のヘッドライトを反射していた。
そのテープのすぐ前で車を停めた咲恵は、エンジンを切って軽く溜息を吐いた。
萌江が無言で助手席を降りると咲恵も続いて外に出る。元々初めて来る場所、かつ市街地から距離もあることで、どのくらいの時間がかかるか予想が難しかった。
そして最初に口を開いたのは咲恵。
「少し早かったね。コーヒーでも飲んで待ってる?」
「うん」
萌江は小さく返すだけ。
それでもその視線は闇に浮かぶ取り壊された洋館に注がれていた。外壁は半分以上も壊されているだろうか。
咲恵は車の後部座席に置いていたコンビニの買い物袋から缶コーヒーを二つ取り出すと、萌江の横に移動して渡した。
二人でコーヒーを飲みながらバリケードテープの向こう側に目を凝らすが、月明かりすら薄いせいで、遺体が見付かったという地下室の場所までは分からない。
咲恵としては、正直その時点では何も感じなかった。言葉に出来ないような嫌な感覚があるわけでもなく、この土地の過去が見えてくるわけでもない。萌江の反応を見ている限り、萌江自身も何かを感じている様子はない。
それを確認するかのように、咲恵が言葉を繋げた。
「死体が見付かったのって最近だったよね。深夜とは言っても警察って来ないのかな」
「大丈夫じゃないかな」
そう即答した萌江が続ける。
「あの子は警察に結構なパイプ持ってるね。もちろん細いパイプだとは思うけど…………警察の記者クラブなんてフリーの駆け出しが入れるような所じゃないし、お金渡してでも裏から情報を掴んでる。中々大したもんだよ。警察って官僚組織はまだまだ男社会…………紛れ込むならビールも飲めるようじゃないとね。洋酒の並んだ棚への目の配り方でお酒好きかどうかは分かるけど、それほど詳しくはなさそうだ」
「なるほどね。伊達にフリーで記者なんかやってないわけか。でも警察のいる時間までチェック出来るのかなあ」
「あの子……結構やり手かもよ…………」
「ってことは、敢えてこの時間を選んだのにも理由があるってこと?」
「多分ね。まさか心霊スポットだからって理由で深夜に呼んだとも思えない」
そう言いながら周囲に懐中電灯を向け始めた萌江が何かに気付く。
敷地の周囲は背の高いブロック塀で囲まれていたが、それとは別の小さな突起物が気になる。
「…………井戸?」
小さな萌江の声に、咲恵も目を凝らしながら応えた。
「っぽいね。何か関係ありそう? 私はまだ見えない…………」
「どうだろう…………地図を見た感じじゃ、ここより高い周囲には工場なんかも無かった。毒物になるものが地下水に染み込む条件も無さそうだけど」
「そっか……でもかなり人が死んでるって割には、そんなに感じるものもないなあ。あまり〝念〟を感じない…………でもなんか変だね」
そう言うのと同時に、ゆっくりと薄らと、咲恵の中に何かが流れ込む。
それは間違いなく、土地に刻まれた記憶。
しかし、まだ小さい。
「……最後の家族の殺人現場……確かに酷いけど…………他はみんな病死…………ん?」
途端に表情を曇らせた咲恵の顔を、萌江が覗き込んだ。
「────どうしたの?」
そんな萌江の言葉にも関わらず、少しずつ自分の中で形になっていく過去の光景に、咲恵は目を曇らせ、小さく低い声を漏らしていた。
「…………この仕事……よくないな…………」
その時、二人の背後から車の音とヘッドライトの光。四輪駆動の軽自動車が咲恵の車の後ろに停まる。
エンジンを切って降りてきた杏奈が早速声を上げた。
「すいません! 待たせちゃいました⁉︎」
素早く切り替えた咲恵が声を上げて応える。
「大丈夫。早く着いちゃっただけ」
萌江が杏奈に振り返った時、助手席からもう一人。
そこに見えるのは、相変わらずの派手なゴスロリ衣装。
「とうとう追いかけてきちゃった」
その咲恵の言葉を聞いて、萌江は大きく溜息を吐いて呟く。
「…………来ちゃったよ……」
そしてそれに続くのは、相変わらず強気な、西沙の声だった。
「ひ…………久しぶりね」
「かなざくらの古屋敷」
〜 第四部「罪の残響」第2話(完全版)へつづく 〜




