第9部
20-霧
翌日は雨だった。灰色をした空から、雨の滴がノーチラス島に降り注いでいる。長かった夏の終わりを告げる、冷たい雨だった。
道の至る所に水たまりができ、その上で波紋が弾けていた。街にも、森にも、島の果ての湖にも、さわさわと雨粒が降り注いでいる。
草原の中で、クレイは雨に濡れていた。前髪から滴が落ちている。草原は雨に煙り、全てが薄霧の中に霞んでいた。足元の草が濡れて、葉の先端から水滴がぽたぽた落ちている。彼は何も言わず、ただじっと雨の中に佇んでいた。
ノーチラス島。
秘密と怪奇に溢れる島。彼が子供の頃から憧れていた、人類に残された最後の秘境。
それは何物かがつくった複製装置だった。
クレイはこの島がもつもう一つの名を思い出した。
爬虫類島
そもそもはこの島が顎を開いた爬虫類のように見えるためにそう呼ばれてきた。街の入口にはそのモニュメントが作られている。クレイは少し前に見たそれを思い出した。怪物の襲撃で、彫像に刻まれたReptilicaからtiの二文字が失われていた。残されたのは、複製。
皮肉めいた符合にクレイは自嘲的な笑いを浮かべた。
その複製島のせいで自分は運命を狂わされ、本来ここで過ごすはずだった時間を永遠に失った。Reptilicaから消えたtiは「Time」という単語の欠片、「欠けた時間」すなわち「失われた時間」の暗喩だろうか。
失ったものは時間だけではない。今この時も、ようやく見出した大切なものまでも自分は失ってしまった。いや、この場合は失ったというより、間違ったものを追い求めたと言うべきか。
彼はそのときふと、ギリシア神話の中の悲劇、水に映った自分自身に恋してしまった若者ナルキッソスの物語を思い出した。
シィナとぼくは鏡に映った自分自身。それに恋をするとは、まさにナルシシズムの極みじゃないか。求めた先にあったものは、何も生み出さない、醜い自己愛そのものでしかなかった。そんなもの、打ち棄てるしかない。そうする以外に一体何ができるというのか?
「さようなら、もう一人のぼく・・・・・」
彼はそう呟いた。
翌日———
雨は上がって、空恐ろしいくらいに澄みきった空が広がっていた。天空を真っ白い雲が漂っている。島は生まれ変わったようだった。昨日の雨が夏の残滓を洗い流し、島はすっかり秋の装いに変わった。気の早い木々の幾つかはすでに赤や黄色に色づいている。
さざ波のたつトリオニクス湾を、アーベルは見つめていた。海岸にあるヤシの木に身をもたせかけ、彼は物憂げな表情でじっと海面を見つめている。
蒼い海の上を冷たい風が渡って、彼の前髪を揺らした。
「いよいよだな」
アーベルは呟いた。
「ぼくはこの日を待っていたのか。それとも、この日が来るのを恐れていたのか?」
彼の視界の中、海中から黒い影が浮き上がってきた。
「とうとう帰ってきたね。帰還した君を暖かく迎えるものは、この島には誰もいない。人間にとって君は忌むべき存在なんだ。君は何も悪いことはしていないのに人間のエゴで創られ、そして命を狙われる。さも君が悪であるかのように。君は哀しい存在なんだよ。だからぼくだけは君を歓迎しよう。・・・・・おかえり。11年ぶりだね。変わりはないかい。君の旅路に災いがふりかからぬよう、ぼくはいつも祈っていた・・・・・」
その物体は海面すれすれにまで浮上してきた。真っ黒い影が水の下でゆらめいていた。
そして、どこからか霧が漂ってきた。
———同刻。ノーチラス島砂丘地帯。
島の舳先側にある広大なマクロケリス砂丘でも、異変が起こりつつあった。波のうねりのように並ぶ砂の山の上を風が渡り、金色の砂のかけらが舞う。その中を調査隊が進んでいた。隊員の足跡だけが一列、アリの行列のように砂の上に残されている。
数日前、調査隊の記録装置が、未知の金属反応を検出したのだった。
「このあたりです」
隊員の一人が言った。隊長が手を上げて、止まれの合図をした。地図を広げた隊員の周りに他の隊員たちが集まって、x印がつけられた地点を確認する。
隊長は頷いた。
「各自、金属探知器を使って、この辺の地下を探索しろ」
「了解」
隊員たちはバックパックから探知機を取り出し、個々に砂丘の中を散開して調査を始めた。
隊員の一人が砂丘を降りていった。彼は足元の地面に探知機を向けていた。
まるでさざ波のように、砂が模様を創っている。彼は少し立ち止まって不安げに辺りを見回した。
その時、いきなり、探知機に赤いランプが点り、電子音が鳴り響いた。
「何だ・・・・」
彼は困惑した。反応が忽然と現れたからだ。こっちは動かなかったのに。
そして、反応はみるみる大きくなってきた。
———金属反応が、移動している
「隊長!」
彼は叫んだ。その途端、まるでモグラが地下を這い進む時のように、10メートル程先の地面が盛り上がり、砂コブが彼の方へ近づいてきた。そして、いきなりサメの背びれのようなものが砂の上に出た。
大きい。背びれだけで一メートルはある。それは不気味な金属光沢を放っていた。
がりがりと、砂中で音がした。下に巨大な物体が潜んでいる。背びれはその物体の一部なのだ。
「———ひ!」隊員は息を呑んだ。
背びれが振動し、上に乗っていた砂がこぼれ落ちた。
次の瞬間、背びれの根元で砂が水しぶきのように散って、その物体は砂の中を急速に接近してきた。
「うわあああ!」
隊員の叫びが砂丘に響きわたった。
クレイの脳裏では一昨日からの出来事がぐるぐると渦巻いていた。
狂ってしまった。何もかもこの島のせいで。
自分にまつわる全てが、狂って、そして自分は全てを失った。
心にぽっかりと穴が空いたような喪失感。クリスがいなくなってしまったときと同じだ。あまりに不条理で無惨な現実に、彼の心は逃げ場を求め、非難すべき相手を捜してさまよっていた。
こんな島があるから———
やるせない怒りが彼の心に広がった。彼を悲劇に導いた過去のことを彼は思いだした。不思議な穴に吸い込まれた過去のこと。18年前と11年前の記憶が甦った。
彼はふと思い当たった。18年前の謎は解けた。しかし、11年前の記憶は一体何なんだろう? それだけ宙ぶらりんに浮かんでいる。
11年前。15歳の時。島へ宝捜しに行った夏だ。あの時踏み込んだ廃村にあった石井戸も、この島で見たものと同じだった。その謎だけ説けずに残っている。あれは何なのだ? 彼は思った。もしかしたら、そこになにか救いがあるかもしれない。この忌まわしい現実から逃れる道が。今までのことが全て嘘だったと分かる事実が。藁にもすがる思いで彼は記憶を辿った。そして必死で考えているうちに、彼は記憶の正体に思い当たった。
彼は顔を上げた。
あれは、ぼくの脳が作り出した偽りの記憶なのか
彼の脳は8歳の時の複製の記憶を少しは覚えていたに違いない。それがあまりに異様で、精神的ストレスが大きすぎたから、彼の脳はその記憶を別の形に作り替えて精神を保護しようとしたのではないか。
あの夏の日の記憶に・・・・・・
クレイの目が見開かれた。
では、あの頃の思い出は嘘なのか?クリスとの思い出。あれも、偽の記憶なのか?
彼の顔が青ざめ、一瞬、呼吸まで止まった。
ぼくの大切なものが消えていく。とうとうたった一人の友達まで。
しかし———
そんな、そんなはずはない。彼女は存在したんだ。確かに!
クレイは必死で昔のことを思い出そうとした。クリスの顔が浮かんできた。
脳が好きな風変わりな少女。
一枚だけ残った写真。
湖畔に、彼女は佇んでいた。白い服を着て。夏の陽射しが彼女の周りできらめいていた。きらめく湖水を指さす少女。あのとき彼女はこう言っていたはずだ。
「いい、フェンネル君。今日はこの湖でカメを採るの。そして脳を出すのよ」
「それはいくら何でも可哀想だよ」クレイはうんざりした顔で答え、シャッターを切った・・・・・。
———あの写真
クレイは立ち上がった。
ここに持ってきてるはずだ。
彼は居間を出て、隣の寝室に駆け込んだ。物置代わりに使っている古い机の引き出しに、その写真はしまってあるはずだった。
クレイは引き出しを開けようとした。立て付けの悪い机はガタガタと大きな音を立てた。
「何してるの?」
その音を聞きつけて、コートニーが入ってきた。
クレイは心配そうにしているコートニーに見向きもせず、部屋の隅に置いてある机の引き出しをこじ開け、がさがさと書類を引っかき回した。そうしてとうとう、彼はその写真を見つけた。写真の裏に、2057という年号が書かれていた。これだ。彼は写真の表を見ようとして、躊躇した。
もし、これに彼女が写ってなかったら———
彼は頭を振ってその考えを追い払った。
思い切って、彼はそれを表向けた。変色した写真の中には、湖畔に立つ白い服を着た少女が確かに写っていた。
————いた。
彼の顔が疲れたように笑った。そうだ。どうかしてる。彼女が嘘なわけないじゃないか。彼は溜息をついた。では、あの石井戸にまつわる記憶はなんなのだ?あれは本当のことなのか。現実だったのだろうか。クレイは混乱した。何処までが嘘で、何処からが現実なのか全く分からなくなってしまった。これではまるで精神病ではないか。記憶すらままならないなんて。ぼくの頭はどうかしているのか。彼は頭の中がもやもやしたような、言い様のない苦痛を感じていた。
シィナとのことで疲れてるんだ。心が。
彼は崩れるように椅子に座り、机の上で頭を抱えた。
「クレイ、どうしたの」
コートニーが話しかけた。彼は答えなかった。彼女はクレイに歩み寄った。
「昨日から変だよ」
コートニーはクレイの背後に立った。俯いている彼の顔を覗き込み、彼女は言葉をなくした。クレイは蒼白な顔で震えていた。
「壊れそうなんだ・・・・・・」
誰に言うともなく、彼は呟いた。
コートニーは黙ったまま、しばらく彼の後ろに立っていた。
時計の音だけが淋しい部屋に響いていた。
「一人になりたい?」
ようやく彼女は口を開いた。クレイは首を横に振った。コートニーは哀しそうに微笑んで、椅子をクレイの傍まで引っ張ってくるとそれに座って彼の服をぎゅっと握った。まるで、悪戯っ子のように逃げ出しそうになる幸福の神の尻尾をつかんで、必死に繋ぎ止めようとしているかのように見えた。
「むかしむかしあるところに・・・・・・」コートニーがつぶやいた。
「・・・・・・・え?」
「お話をしてあげる。あなたがよくやる変な話じゃなくて、とっても楽しい話を・・・・・」
そして、囁くようにコートニーは話し出した。
むかしむかしあるところに・・・・・・
「変だわ、この霧」
観測室のモニターを見ながら、エリスが呟いた。トリオニクス湾に霧が発生していた。外洋は晴れ渡っているのに、湾の中だけ霞んだように霧が漂っている。
「こんな事初めてだわ・・・・・」
その時、観測室のドアが開いた。ケインが入ってきた。
「あ、主任」
「警戒体制に入ってくれ」
緊張した顔で彼は言った。
「砂丘地帯で調査隊が消息を絶った。また、奴等が襲ってきたのかもしれない」
「・・・・・は・・・い」
ただならぬ恐ろしい予感を感じて、エリスは身震いした。
彼女はモニターに目を戻した。霧はますます深くなる———
ペンクロフト・ヒューベルは海を見ていた。ヤシの木の間を薄霧が漂っていく。湾の中は白く霞んで、沖にある標識灯の明かりがちらちらと瞬いている。真昼なのにまるで夜のような海だった。
「霧だ・・・・」彼は呟いた。
沖の方から霧の塊が押し寄せてきた。白くて不定形な怪物が迫ってくるようにも見えた。海から陸へ、その怪物は這い上がろうとしていた。
沿岸道路の道路標識の下を、白い霧が滑るように這っていく。
ペンクロフトは足元を見た。彼の膝まで既に霧に埋まっていた。
その時、彼は気づいた。生き物の気配がない。この辺でいつも群れている鳥の影はなく、虫の声すら聞こえない。みんなどこかへ行ってしまったのだ。危険を察知して。いつの間にか、鈍感な人間だけがここに取り残されていたのだった。
彼は振り返り、街の方へ駆け戻っていった。
砂丘を風が渡っていた。
まるで爆発が起こったかのように辺りには様々なものが散乱していた。砂が赤く染まっている。肉片や服の切れ端が、そこかしこに落ちていた。全滅した調査隊の名残だった。
砂が動いた。血に固まった砂を砕いて、金属色の背びれが出現した。それは砂をふるい落としながら地上にその全身を出現させた。表面を鈍く光らせて、砂の上に三本足の奇怪な物体が立ち上がった。前に一本、後ろに二本、機械のような脚があってそいつの体を持ち上げている。立ち上がった高さは5メートルはあった。その形からはとてもこれが生物だとは思えない。どう見てもこれは機械だった。金属で造られ、火器で武装された攻撃兵器だった。
三本脚の物体が体をゆすった。砂が全てこぼれ落ちて、そいつの胴体部が現れた。背中に背びれを持ち、卵をいびつに歪めたような金属製の胴体の先端に、不気味に光る目がついていた。しかし目は一つしかない。まるでテレビカメラのようだった。その眼がよりいっそうそいつから生物感を奪っていた。
もこもこと砂が動いた。砂中で発生を終えた物体が、ひとつ、またひとつと浮上してきた。
やがて、その物体の群が砂丘の上に出現した。全てが出そろうと、そいつらは一斉に羽根を開いた。背中の鞘の中に隠されていたらしい。その昆虫のような羽根だけが生物の名残を残していた。
物体の一つが、キィンという音を発した。それに呼応するように他の物体も音を発する。酸素を吸い込んで何かを反応させているような音だった。
次の瞬間、物体の下方に蒼い炎が吹き出した。体内の共生細菌が作った炭化水素を燃焼させ、生じた爆発エネルギーを吹き出したのだ。
まるでジェット戦闘機のように物体が上昇していった。
そしてつぎつぎに砂を散らせながら、まるでミサイルが撃ち出されるように物体の群が天空に飛び上がった。
電話が鳴った。窓から外の景色をぼんやり見つめていたシィナは振り返って、けたたましく鳴る電話を見つめていた。出る気配もなく彼女は佇んでいたが、あまりにしつこく鳴り続けるので、やがてあきらめたように受話器を取った。
「・・・・・はい」
「シィナさん?おれだ。ヒューベルだ」
「ヒューベルさん・・・・・すみません。どういったご用件でしょうか・・・・・」
彼女は空ろな声で応答した。
「緊急事態だ」
やけに慌てたようにペンクロフトが叫んだ。
「霧だ。霧が出たんだ。トリオニクス湾が、霧に覆われている」
「・・・・・・え?」
受話器を持ったまま、呆然として彼女は佇んでいた。
「どうした、しっかりしろ!」
受話器の向こうでペンクロフトが叫んだ。
「どうすればいい?君には何か考えがあるんだろ」
「・・・・・え、ええ・・・」
シィナは混乱したように周りを見た。
「さ、酸素マスクを、用意して・・・・・あの霧を、吸わないように・・・・・」
「酸素マスク?フィルターじゃだめなのか?」
「だめだと、おもいます・・・・・」
「そうか。わかった。手配する。君も気をつけろ。何が起こるか分からない。護身用に武器をもっといた方がいいぞ」
電話は切れた。シィナは受話器を握ったまま窓の外を見つめた。
「未確認飛行物体、急速接近中!」
観測室でエリスが叫んだ。騒然とした部屋の中、対空レーダーに無数の点が写っていた。砂丘地帯から街へ接近しつつあった。
「方位、0-6-4」
「数は!」
アッカー局長が叫んだ。
「密集していて正確には不明。すくなくとも50は越えています」
「あの探査機は使えないのか?」
「ヒューベル博士は現時点では不可能と言っています」
ケインが答えた。観測室が焦燥でざわめく。
「対空迎撃の準備は?」
「フォーメーションDで作戦展開中。特殊車両の配備は完了。現在、高出力レーザー砲を調整中です。あと10分以内には終了します」
攻撃担当のオペレーターが答えた。
「物体の到達予定時刻は?」
「あの速度だとあと5分以内にはアルケロン市上空に到達します」
絶望的な声でエリスが答えた。局長は舌打ちする。
「住民を避難させろ、早く!」
「きゃあっ!」
突然、エリスが叫んだ。
「どうした!」
ケインが彼女の方を向いた。彼女は海を映しているモニターを凝視していた。
「あ、あれ、あれ・・・・・」
ケインは見た。局長も。そこにいる保安局員は全員それを見て、そして恐怖に顔をこわばらせた。
霧に霞む海の上に、長い首が伸び上がっていた。まるで海魔のように———
「あれはなんだ!」
ケインが叫んだ。長い首の上で、爬虫類のような頭部がこちらを見据えている。そいつはいきなり巨大な口を開けて咆哮した。耳をつんざく声は大気を震わせ、島じゅうに鳴り響いた。そいつが発した音の振動で、海面や霧がさわざわと波打っていた。
「マンディブラス・・・・・・」
局長が呟いた。
———5分前。
沿岸道路の上に、白衣姿のカハール博士は佇んでいた。道路にも街にも既に人気はない。霧が漂っていて、臨時に灯された外灯の明かりも霞んでいる。まるで薄闇につつまれた古の都、ロンドンのようだ。
ああ、ついに———
博士は、今まで顔を覆っていたマスクをベリベリと剥ぎ取った。端正な顔が海風を受け、長い髪が風に舞った。博士はポケットから眼鏡を取り出し、慣れた手つきでかけた。彼女の澄んだ瞳は好奇の色を湛え、口元には笑みが浮かんでいた。海に異変が起きていた。霧に霞む波の下に黒い影が見えた。水面下に何かがいた。恐ろしく巨大な何かが。彼女の目が未知なるものに対する畏怖と好奇心に見開かれた。
水面が不安げに揺れた。まるで鯨が浮上してきたように、黒いものが水面上に浮き上がった。それからゆっくりと、海を裂いて巨大な塊が海の上に持ち上がってきた。物体の表面を水が流れ落ち、海面にいくつもの波紋をつくった。
それは、巨大な生物の頭部だった。頭だけで鯨ぐらいあった。ごつごつした皮膚の間を水が滴っていた。やがて目が見えた。やけに小さな目だった。しかし直径はかなりある。ほかの所が大きすぎて相対的に小さく見えてしまうのだ。
そして、霧の怪物はその頭部を水面上に現した。
カハール博士は逃げようともせず、感動したようにそいつを見つめていた。巨大な口が彼女の前にあった。一本の歯だけで彼女の背丈くらいあった。まるで肉食恐竜のような顎だった。
口の間から海水がぽたぽた落ちていた。
白衣の天才科学者と濃灰色の怪獣は、霧の這う沿岸道路をはさんで対峙していた。霧が這っていて、まるで狂人が描いた幻想のような光景だった。
怪物の口がゆっくりと動いた。牙が並んだ顎が上下に少し開き、空気が抜ける不気味な音がした。
頭の位置はそのまま、その後ろでするすると長い首が水面から伸び上がっていった。100メートル近い長さだった。
「すごい、すごいよ、フェンネル君」
カハール博士の口がそう動いた。
「脳がみたいね。どうなっているんだろうね」
怪物は一瞬、顎を後ろに引き、次の瞬間、勢いをつけてカハール博士に襲いかかった。巨大な顎が上下に開き、湾岸道路の上に水滴が散った。顎が引き戻されたとき、道路の上に博士の姿はなかった。
レンズが割れ、ひん曲がった彼女のメガネが、その場所に転がっていた。
怪物は頭を天に向けた。するすると首が伸びて、水面高く巨大な頭部が持ち上がった。
そして、怪物は天地をつんざくような声で咆哮した。
「———そして二人は・・・・・」
コートニーの物語がラストシーンにさしかかったとき、すさまじい咆哮が轟いた。
あまりの音に窓ガラスがビリビリと震える。机の上で俯いていたクレイは顔を上げた。いつしか彼に寄りかかっていたコートニーも身を起こした。そして、二人の間にささやかに漂っていた静穏な空気は風のように消える。
「なに、あの声?」
コートニーが怯えたように言い、クレイは海に面した窓を開いて、街の方を見つめた。
霧が、街を覆っていた。海から巨大なアメーバが陸に這いあがっているように見えた。その霧の中から何かの頭が突き出していた。遠くてはっきりとは見えないが、太古の地球にいたクビナガ竜のような顔が見えた。しかし大きさがけた違いだ。頭だけで大型トラックぐらいある。
彼の脳裏に、幽霊船の壁に描かれていた怪物の姿が甦った。
「奴だ」
クレイは呟いた。そして彼は見た。遠く、島の彼方から太陽を反射させて無数の点が近づいてきた。
外部抗体生物!
敵はとうとう総力で襲ってきた———
彼は身を翻し、戸惑ったような表情のコートニーの横を通り過ぎて、部屋をでた。
行かなければ
彼は半分無意識に操縦士用の服に着替えた。自分とシィナを襲った悲劇のことがまだ胸に深く残っていたが、ここで行かなければならないことは分かっていた。それだけが、自分の生きている証のような気がした。島に翻弄され、思い出すら頼りなくなった今の自分にとって、あの敵と戦うことだけが揺るぎない現実だ。奴と決着を付けることが、全ての忌まわしい過去を払拭できる方法だと感じていた。
どう見ても普通の思考ではない。彼の心は壊れかけていた。その傷ついた心が、戦闘という逃げ道を見つけた、それだけのことだ。
彼は家を出た。
石畳の道を博物館に向けて駆けだす。機体の修理は終わっているはずだった。
「クレイ!」
背後で声がした。彼は振り返った。彼の家からコートニーが駆け出してきた。彼女は転がるように彼の所へ駆けてきた。
「だめ、行っちゃだめ、クレイ!」
そして彼女は彼の手前で地面を蹴った。小さな体が宙を舞って、彼女は彼の首にしがみついた。
「死んじゃう。死んじゃうよ」
「コートニー・・・・・」
クレイは膝をついた。コートニーの脚も地面についた。彼女は彼に抱きついたまま、彼の耳元で叫んだ。
「ずっとここにいるって、言ったじゃない。何処にも行かないって言ったじゃない!」
「・・・・・コートニー、ぼくは君の未来を、作りに行くんだ」
「そんなのいらない。未来なんていらない。あなたがいればいいの。ここに。私にはそれでいいの」
クレイは気づいた。この少女はいつのまにか自分にとって掛けがえのない存在になっていた・・・・・・そしてそれはこの子も同じように・・・・・・。
「・・・・・ごめんね」
クレイはコートニーを引き離そうとした。しかし彼女はしっかりとしがみついたまま離れようとしなかった。
「・・・・・コートニー・・・・・」
「どうして行くの。そんなにまでして。私と一緒にいてくれないの?私のこと嫌いなの・・・・何でもする、何でも言うこと聞くから・・・・」
「ぼくは行かなければ———」
「いやだよ!ここにいてよ。お願いだから。どうすればいいの?どう言えばあなたはここにいてくれるの。好き。大好き!だからお願い、行かないで!私のこと好きならここにいてよ、クレイ!」
コートニーの叫び、感情が溢れだしたかのような叫びがクレイの心を貫いた。
「ぼくが行くのは、君が好きだからだよ、コートニー」
クレイはつぶやいた。そしてコートニーの頭を抱いた。
「君はぼくの話の大切な聞き手さ。変な話はまだまだいっぱいあるんだ。それを話し終わるまでぼくは死なない。帰ってくるよ、君の所へ」
コートニーは無言だった。何も言わずに彼にしがみついていた。クレイはコートニーの震える黒髪に触れた。しばらくして彼女はつぶやいた。
「あなたは嘘つきだ。あなたが好きなのはわたしなんかじゃない。私のこと、子供だと思ってるのね」
「・・・君の年頃の女の子は背伸びしたがるんだね、いいじゃないか、子供で」
「だめ、私が子供だから、あなたは行ってしまうんだ。子供の私を護ろうとして・・・・・私を護る必要なんてないの。そんな事されても私は嬉しくない」
「でもぼくは、健気でまっすぐで優しい君が好きだよ。ぼくは君を失いたくない。それに、ぼくは君を送り返すと誓った。それだけが、それだけが今のぼくにとっての、生きるよすがなんだ」
コートニーの頬を涙が流れた。
「だめだよ、どうしてそうなるの?真面目すぎるのはダメだよ?この間の夜みたいに、悪者にならなきゃだめ!」
クレイの肩にコートニーは顔を埋めた。しっかりとしがみついていた彼女は、しかしやがて、泣き続けたせいで力が抜けていった。
ゆっくり、クレイは彼女を引き離した。コートニーは地面に両手をついて泣きだした。
「クレイ、あなたは残酷だよ。身勝手だよ。わたしを置いていくの?わたしが助かって、あなたが死んだら何の意味があるの?私のこと好きなんでしょう?さっき、そう言ってくれたでしょう!」
「コートニー・・・・・」
クレイは何も言い返せなかった。
「もしも、もしもわたしのことが少しでも好きなのだったら」
「コートニー、ぼくは・・・・・」
少女は涙で一杯の顔を上げた。
「そばにいてよ、クレイ」
彼女は声を震わせた。クレイの心をどうしようもないほどやるせない気持ちが締め付けた。
「・・・・・・・・・・ぼくは卑怯で、浅ましくて、君にとっては自分勝手で嫌な奴かもしれない」
クレイは思わず、コートニーの小さな体を抱きしめていた。彼女は息が詰まったような声を上げた。
「ごめんね、コートニー。ぼくを許してくれ」
崖の上の草原の上で、二人の姿は悲しみが凝縮したように見えた。しかし、非情にも、彼方から再び怪物の咆哮が聞こえた。クレイを呼ぶかのように。彼は彼女を離して立ち上がった。
「家に入ってるんだ。ぼくはきっと戻ってくるから。・・・・・・戻ってきたらお祝いをしよう。部屋を飾って、とっておきのワインとご馳走を用意して」
ばか、とコートニーはつぶやいた。
クレイは彼女を見下ろし、淋しいけれど優しい声でつぶやいた。
「さっきの話、とってもよかったよ・・・・・ありがとう」
そして彼は彼女を残し、博物館へ向けて駆けだした。
「敵編隊が接近中。方位0-6-5、距離200」
「霧のため光学センサー使用不能」
「最終防衛ラインを突破されました」
警報が鳴り響いた。観測室に赤い警告ランプがいくつも瞬いている。
「敵編隊、降下体勢に入りました」
その時、街の片隅から青白い光が伸びた。化学レーザー砲の光芒だった。それと同時に航空機銃弾が赤い尾を引いて幾筋も伸びた。
「攻撃開始!」
航空機銃弾が三本脚の怪物「トリポッド」の編隊に吸い込まれる。火線が激突し、火花と共に鋭い金属音が響いた。
機銃弾は全て跳ね返されていた。レーザー砲の光芒が閃く。トリポッドの一匹に命中、胴体を両断されてそいつが爆発した。残りのトリポッドは瞬間的に散開した。
「一機撃墜。しかし残りの物体は散開して弾幕を回避しています」
エリスが報告する。街の上空を奇怪な影が待っていた。霧がどんどん立ちこめてきてその姿が霞んでゆく。
その時非常回線の電話が鳴った。ケインが受話器を取った。
「・・・ヒューベル博士ですか!・・・・酸素マスク?それで何を・・・・・霧?」
「どうした!」
「霧が幻覚誘起作用をもつ可能性があるそうです。技研からこっちへ酸素ボンベを補給すると言っています」
「———トリポッドが何か放出しました!」エリスが叫んだ。
レーダーに小さな光点が無数に瞬いていた。
人々が一斉に外部モニターを見た。
突然、上から何かが振ってきた。掌ぐらいの大きさのプロペラ型をした物体がくるくる回転しながら落ちてくる。
地面に接触、それは爆発した。路面の石が砕け飛び、土くれが舞い上がった。
「トリポッドが火器を使用!」
エリスが叫んだ。観測室の人々は息を呑んだ。それと同時に、霧の上から不気味なプロペラが次々に振ってきた。まるで雪のように。
クレイが博物館にたどり着いたとき、彼の背後から爆発音が聞こえてきた。街がある方角だった。
「やられてる・・・・」
クレイは博物館の扉を開けた。その時———
「フェンネルさん」
聞きたくなかった声が、後ろから聞こえた。彼女の姿を見ることは、今の彼にとって苦痛でしかなかった。一瞬、振り返らずにそのまま行こうかと思ったが、できなかった。彼は振り返った。シィナが立っていた。
「シィナさん」
彼はもう一人の自分に向かってつぶやいた。
「フェンネルさん」
シィナが彼のほうへ歩いてきた。
「このあいだは一体どうしたんですか?私、心配で・・・・・」
「シィナ・・・さん」
博物館のエントランスで二人は向かい合った。クレイはもう一人の自分を見つめていた。
窓から射し込む明かりに彼女の輪郭が淡く輝いている。まるで夢の中のように。しかし、これは現実だ。今までに見たどんな夢よりも奇妙で悲しい現実だ。
クレイはシィナに語りかけた。
「・・・・・・ぼくは、今まで自分があまり好きではなかった。物事に振り回され、失敗ばかりの自分が・・・・・」
「何を言ってるんですか?」
訝しそうな顔をして、シィナは近づいてきた。クレイは彼女の端正な顔をじっと見ていた。
「でも、気がついたらそんな自分自身を好きになっていた。おかしいよね。シィナさん」
シィナはクレイのすぐそばまで近づき、不思議そうな顔でクレイの頬に流れる涙を拭いた。
「どうしたの」
クレイは彼女の顔に手を触れようとして、その手が止まった。シィナは震えている彼の手を握った。
「ぼくは君がぼくにだけ秘密を打ち明けてくれたことが嬉しかった。君を助けたいと思った。そして気がついたら君が好きになっていた・・・・・」
シィナの顔が赤くなって、彼女は目を見開いて彼を見た。
「私も好きです。あなたのこと。世界中の誰よりもずっと」
クレイは息が止まりそうな顔をして、シィナから身を引いた。
「できることなら、ぼくは君と・・・・・・・でもそれは、浅薄な自己愛でしかありませんでした。ぼくと君が結ばれることはありえません」
「それはどういうことですか?」
シィナの顔から喜びの色が消えて、彼女は困惑した顔で彼を見た。
「もしかして」
シィナは瞳を曇らせた。
「もしかして、私が人形だからですか?」
「あなた、そのことを知って———」
「薄々、感づいていました。父の研究とか、母と私が一緒に写った写真が一枚もないとか・・・・・・。そう、私は兄の遺体から作られた人造人間です。いわば現代の『フランケンシュタインの怪物』です。あなたはそのことを父の日記から知ったのではないですか?そして、私がそんなだから、あなたは———」
「違います」
クレイは頭をおおきく振った。
「そうじゃない。あなたには何の問題もない。あなたは素晴らしい人だ。だからこんなにも好きになった。でも、それは滑稽な、いや究極の一人芝居でしかなかった。シィナ・ライト。君はぼくだ」
その言葉は博物館の小さなホールに悲しげに反響した。
「——————え?」
異様な言葉を耳にして、シィナは首を傾げた。何かの冗談を言われたのかと思ったらしく、彼女はクレイの瞳を探るように覗き込んだ。
「なに、気が触れたようなことを言ってるんですか?」
「いっそのことおかしくなっていたら、よかったのに」
クレイは淡々とした口調で、彼が調べあげた真実を語った。シィナは黙ったまま聞いていた。クレイの話を聞きながら、彼女の鳶色の瞳は様々な感情に揺れ動いていた。そのうちに彼女の眼差しが鋭くなり、やがて、苛立ったような表情にかわった。
彼が話し終えたとき、彼女は毅然とした、怒ったような眼差しを彼に向けた。
「・・・・・それで?」
「・・・・・え?」
詰問するような彼女の言葉にクレイは困惑した。
「同一人物だから、私があなたのコピーだから、それでどういった問題が?」
シィナはまっすぐにクレイの瞳を見ている。
「あなたはコピーである私と一緒にいるのが嫌なのですか?」
クレイは絶句した。
「・・・・・な、なにを・・・・言って・・・・・」
「ああ、あなたは、自分のことがお嫌いなのでしたね」
シィナの目から、一筋の涙が流れる。鳶色の瞳が揺らめきながら、クレイを見つめていた。
「フェンネルさん、好きな色は?」
「え?」
「好きな色は?」
「・・・・・・青」クレイは困惑して答えた。
「そうですか、私は緑です。では好きな唄は?」
「・・・グリーンスリーブス」
「私は『灰色の瞳』です。では、好きな花は?」
「・・・コスモス」
「私は忘れな草です。では———」
「シィナさん!」
クレイは叫んで彼女の言葉を止めた。
「いい加減にして下さい。どうしたんですか?」
「わかりませんか!こんなに違いますよ、私たちは。たしかに最初は同じだったかもしれない。でも今の私は私です。あなたの嫌いなあなたではありません・・・・・あなたのことが好きな私なのです」
「そ、そんな、こと」
「フェンネルさん、混乱されてますね、少し整理してみませんか?」
シィナは、まるで聡明な探偵のようにクレイを見つめた。
「問題はふたつです。ひとつは、あなたが自分を嫌いだから、分身であるわたしを受け入れられないと考えていること。これについては、さっき言ったとおりです。私とあなたは違います。だから、わたしは、あなたに嫌われる謂われはありません」
シィナは毅然とした表情で言い放った。それから、謎解きをするように、白くて細い指をふたつ立てた。
「ふたつめは、僭越ながら、あなたが私を好きになってくれたこと。例えば、自分の前に自分と全く同じ人物が現れたら、どう思うでしょう?きっととても気味悪く感じるはずです。本当なら私たちもそうだったはず。でも、私たちはそうなってない。きっと、容姿も性別も年齢も違うからでしょう。だからこんなことになった。あなたと私はここで混乱しているのです。アーベルの言うとおり、こんなつぎはぎ細工の私たちが結ばれるわけはない。ここから先は悲劇しか待っていません」
シィナは瞳に涙を溜めて、クレイに歩み寄った。
「この点に関しては、神様は非情です!抗議すべきです!でも、それでも、私は・・・・・」
シィナはゆっくりとクレイに身を寄せる。華奢な彼女の体は震えていた。
「それでも私は———」
そして、それに続いた彼女の言葉は、彼の想像を遥かに超えたものだった。
「私は・・・・・嬉しいです!」
「え?」
シィナは顔を上げ、クレイをまっすぐに見た。
「わたしは世界中の誰よりもあなたに近いところにいる。これからはずっと、どんなことがあっても切れない糸で繋がっている。これは、嬉しいことではありませんか?」
クレイは知った。シィナは、シィナという女性は、クレイが手に負えずに投げ出した茨の塊を、拾い上げ、棘に刺されながらも、それを丁寧に解き開いて小さな蕾を見つけたのだ。そして、まるで魔法のように世界を反転させてみせた。クレイは、自分の気持ちが極めて矮小で偏屈で独りよがりのものだった事に気づいた。
ぼくは、自分自身の運命を恨み、絶望していた。
でも、そうではなかったのかもしれない。
ぼくは自分のことをずっと否定すべき存在だと思っていた。
でも、そうではなかったのかもしれない。
ぼくは彼女を自分の恋人にしたかった。
でも、それとは違う、でももっと深い何かがここにあるのかもしれない。
少なくとも、この人はここにいてくれる。そう、影のように、これからも傍に立っている———
博物館の窓の外では、風に木の葉が舞い散っていた。
薄暗いホール、その少し肌寒い空気の中で、つぎはぎ細工の運命に翻弄され続けたふたりは寄り添い、互いの息遣いを感じていた。
やがて、二人は静かに離れた。そしてクレイが口を開いた。
「まさか、そんな風に言われるとは。あなたは・・・・・」
クレイは言葉を止めた。シィナは何処か遠くを見るような目をしていた。しばらくしてから、淋しそうに、彼女は微笑んだ。
「・・・・・なんとなく、わかってきました。私がなぜあなたを選んだのか、あなたに託したのか。・・・・・そうだったんですね。こんな形で返ってくるなんて、なんて、罪深い・・・・・」
落ち葉が窓ガラスに当たり、ばらばらと音がした。
「何のことですか?あなたがぼくに過去の秘密を明かしたことですか?」
「それもありますが・・・・・」
その時、遠くから爆発音が聞こえた。
シィナははっとしたように瞳をもたげた。
「・・・・・行かなければ」
クレイが呟いた。
「だめです」
シィナは静かな声音で制止した。
クレイは首を振った。
「行かないと」
クレイを見つめながら、シィナは瞳を曇らせた。その意味を察して、クレイは言った。
「もしかして、ぼくが行くのは君との約束のせいだと思ってますか」
「違うんですか?」
シィナが小声で問い、クレイは首を振りながら答えた。
「違いますよ。今ぼくにできることをしたいだけです」
シィナは否定するように首を振った。
「嘘はよくないですよ」
クレイは全てを見透かされていることを知り、小さくため息をついた。
「・・・そうですね。やっぱり君との約束のせいなのかもしれません。ぼくは君の願いを叶えたいのです」
「まだ、厄介な呪いが残っているようですね」
そう言ったシィナの顔を見たとき、ふと数ヶ月前の情景が浮かんだ。初めて出会ったとき、この人はこんなにも毅然としていただろうか?もっと儚く、すぐに壊れてしまいそうな感じではなかったか?
「・・・・・・君は変わったね。前より魅力的になった」
シィナはすこし淋しそうな表情をして、それからかすかに微笑んだ。
「わたしは変わりませんよ。変わったとしたらあなたですよ」
そして彼女は小さくため息をついた。
「まったく。でも、お人好しのピエロなのは変わりませんね」
「すみません」
「そんなところも、私は愛していますよ」
二人は見つめ合った。落ち葉の舞い散る博物館で。このまま時が止まってしまえばいいのに、とクレイは思った。できることならこのままここで、この小さな博物館の中で、骨格模型や植物標本の間で、シィナと一緒にいたい————
「わたしはかまいませんよ」
また、クレイの心を見透かしたように、シィナが言った。
「ここでふたり一緒に死んでも、わたしは一向にかまいませんよ」
「・・・・・・それは」
クレイは呟いた。
「それは、そうできるなら、嬉しいですね・・・・・でも」
でも、それはできない。ぼくにはできない。そんなことをするにはぼくは不器用すぎるんだ。
「そんな性格では、またうまく利用されてしまいますよ、私みたいな悪者に。あなたはもっとしたたかになるべきです」
そうかもしれない。でも———。
「わたしと、ここに、いませんか?」
シィナの囁きは、クレイの心にぐさりと突き刺さった。
ああ、そうできるなら、どんなに———。
でも、
遠くで爆音が聞こえる。
やはり、ここで立ち止まっては、いけない。
「・・・シィナさん、物語はこれで終わりじゃない。いろいろなことがあって、いろいろなことがわかって、まるでこれで終わりみたいだけど、・・・まだ始まったばかりなんだと思う。ぼくはこの物語をプロローグのところで終わらせたくはありません。続きを知りたいんです」
「続き?」
「そう」
「・・・・・・いい物語とは、限りませんよ」
「それでも、終わるよりマシです」
「・・・・・・そうですか」
シィナは悲しそうにつぶやき、ため息をついた。
「だめでしたか、引き止められるかなと、思ったのですが」
そしてシィナは彼から少し目を逸らせた。
「あまり言いたくはありませんが、アーベルから伝言があります」
シィナはやや感傷的な、諦めたような声で続けた。
「機体の修理が終わったそうです」
「感謝してると伝えておいて下さい」
「ええ」
シィナはいきなり手首をくるりと回した。いつの間にか、彼女の手には白い小さな花が握られていた。
彼女はクレイに歩み寄ってきて、その花をすっと差し出した。
「初めて魔法使いらしいところを見せてくれましたね」
クレイは様々な想いが結晶化したような可憐な白い花を見つめた。その花を彼の胸のポケットに差し入れながら、シィナは微笑んだ。
「あのとき私の願いを聞いてくれて、ありがとう。そして、本当にごめんなさい。今ここに、あなたにかけた全ての呪いを闇に還します」
そしてシィナは、彼の頬に口づけをした。
遠くで爆音が聞こえた。
「・・・・・帰ってきてください。わたしが罪を償えるように」
二人の眼差しが交錯した。クレイはシィナの深い深い瞳の色を見つめていた。
そのときまた爆音が聞こえ、小刻みな地響きがここまで伝わってきた。
「・・・・・迎撃に、行くよ・・・・・君に罪なんて、ない」
クレイは囁き、シィナに背を向けた。彼の背後で、シィナが小さく彼の名を呼んだ。彼は振り向かず、背を向けたまま右手を上げて軽く振った。そして地下空間への入り口をくぐった。
クレイは階段を下りていった。暗いトンネルに彼の孤独な足音だけが響いていた。彼の心の隅に、雨に濡れた落ち葉のように、シィナが立ち尽くしていた。
階段の先にあるドアを開け、クレイは明るく日の射す地底空間に入った。
フェルドランスは———
彼は海の方を見た。淡緑色の機体は、まるで彼を待っているかのようにそこに降着姿勢で鎮座していた。
クレイは機体へ向けて走っていった。
思えば、この機体が彼をこの島へと導いたのだ。
そして、フェルドランスはこの島に来てからの彼の全てだった。彼にとってこの島での生活はすべてこの機体を中心に回っていたのだ。
クレイはフェルドランスの下まで来た。彼は機体を見上げた。まるで生まれ変わったように見えた。ここにたどり着いたときの面影は既にない。両腕は肘から先が無いけれど、それ以外の所は見事なまでに補修され、関節部分も完全に再生されていた。あの短時間によくこれだけのことができたものだ。クレイはアーベルの能力に驚嘆した。
彼は辺りを見回した。しかし、不思議な少年の姿はなかった。
彼は再びフェルドランスを見上げた。奇妙な感慨が彼の心を充たしていた。
ぼくは生物学者になろうとして、パイロットへと道を踏み外してしまった。この機体も、探査機になろうとしていたのに、気がつけば戦闘機になっていた。ぼくたちは共に何処かいびつに歪んでいる。ぼくたちは、よく似てる・・・・
かつてない愛着を感じて、クレイは微笑した。
コクピットに登ろうとして、クレイは機体に張り付けられている紙片に気づいた。アーベルの置き手紙だった。
———出来るだけのことはしておいた。健闘を祈る
それだけしか書いていない。やけにあっさりとした、しかし彼らしい手紙だった。
愛想のない魔術師だ・・・・
苦笑して、クレイはコクピットに乗り込んだ。
メインスイッチON。コクピットに明かりが点り、彼を囲むいくつものモニターに次々と周りの景色が映し出されていく。まるで彼を歓迎しているかのように。懐かしいエンジン音が響く。その音は子供の頃に聞いた夜行列車の汽笛にも似て、泣きたいくらいに心地よかった。彼は知った。ぼくのいるべき場所はここだ。いろいろ悩み迷ってきたけれど、ぼくの帰り着く場所は計器だらけのこの狭い操縦席だったんだ。
クレイは操縦桿を握った。駆動系をチェック。航法装置、データリンク、対空兵器管制システム起動。何処にも問題なし。ディスプレイに文字が明滅する。
発進準備完了———
「行くか」
フェルドランスは鳥のように二脚で立ち上がり、地下空間に開いた海辺に歩いていった。潜水形態にシフト。そして、水しぶきをあげながら水中に潜った。
管制室のモニターの中で、白壁の家が爆発した。
まるで竹トンボのように爆弾が舞い落ちてきて、街の至る所で爆発が起きていた。
爆発で管制室が振動した。小さく悲鳴を上げて、エリスが椅子にしがみついた。
「被害は?」
床から立ち上がりながらアッカー局長が尋ねた。
「街の約30%は壊滅です。被害はなおも拡大中」街の配電図を見ていた保安局員が答えた。
「対空攻撃はどうなっている?」
「今までに2機撃墜。しかし我が方もレーザー砲を一基破壊されました」
状況は思わしくない。
「避難状況は?」
「住民のほとんどは内陸部の施設に避難が完了しています」
その時、ケインが口を挟んだ。
「霧の状況はどうだ?それと、海の化け物は」
エリスはモニターに目を走らせた。
「霧は既に街の70%を覆っています。なおも拡大中。ここもあと数分で霧に包まれるはずです。・・・・・海の生物に動きは見られません」
水中用ソナーには全長300メートル近い物体の影が映っていた。さっきから動きはない。物体からはノズルのようなものが伸びて、煙突のように海面に突き出していた。不気味な霧はそこから吹き出しているようだ。
「あれ?」
エリスは気づいた。ソナーに新たな反応が現れていた。
そんな、また新手が・・・・
彼女は愕然とした。もうだめだ、と思った。
「ソナーに新たな反応が・・・・・」
その声に、びくっとしたように観測室の全員が振り返り、彼女を見た。
「・・・・現れました」
アッカー局長が舌打ちした。ここを引き払うか、瞬間的に彼はそう判断した。ソナーの反応が大きくなってきた。未知の物体が接近してきたのだ。
「急速浮上中」
エリスが言った。その時、彼女の横にあったデータリンク装置が反応し、電子音と共に青いランプが点った。
「こ、これ・・・・」
エリスはつぶやき、報告した。
「識別信号です。機体登録番号AMP-01、これは・・・・」
まるで幽霊でも見たかのように、彼女の瞳が見開かれた。
「———あの人!」
水面が切り裂かれた。轟音がして海が弾け、まるでミサイルのように水の尾を曳きながらフェルドランスが海上に躍り出た。
スクリューで水滴を散らしながら宙を舞い、着水。水しぶきが散って、虹が煌めいた。同時にターボファン・エンジンに点火、青い光芒が瞬き、機体が猛禽のように水上を滑走する。たちまち離水速度に達し、機体は飛び石のように水面を跳躍した。四枚の羽根が開いて、離水、白い尾をひいて上昇していく。まるで神話の一場面のようだった。
翼が翻る。機体は急旋回して垂直上昇から水平飛行へ移った。
飛行モードになったフェルドランスのコクピットの中で、クレイは島の方を向いた。霧に覆われた街が見えた。
「派手にやられてるな」
クレイの目に、アルケロン市上空を舞うトリポッドの群が写った。胴体の後部からジェット機のように光芒を発し、まるでホタルの群が舞っているようだ。ただしスピードはけた違いだが。
フェルドランスの火器官制システムが作動し、ディスプレイの表示が攻撃モードに切り替わった。彼は唇を噛みしめた。
「目標、捕捉———」
・・・・・・森の奧にあるその古い城には、一人の若い魔法使いが住んでいました。彼は日々研究をして色々なものを作っていました。彼は天才だったのですごいものがいっぱいできました。でも、彼が作るものは天才らしくほとんど用途不明のがらくたばっかりでした。
「AMP-01、フェルドランス、聞こえますか?」
通信機からエリスの声が聞こえてきた。驚きを隠しきれない、慌てたような口調だった。
「フェンネルさん、ですよね」
「オペレーターの人ですね。感度は良好です。今回もよろしく」
クレイが答えた。
「状況を教えて下さい。手短に」
「・・・了解。現在、敵飛行生物『トリポッド』と交戦中です。街は既に35%壊滅、迎撃もままならない状況です。住民の避難は完了しています。市街地上空での戦闘は許可されています。迎撃をお願いします」
思ったより深刻な状況だった。
「了解しました。でも弾薬の補給が必要です。ペンクロフトは、ヒューベル博士は何処にいますか。彼と連絡が取りたいのですが」
「ヒューベル博士は技研にいるはずです」
「了解」
警告音が鳴った。外部集音器から、羽音ともエンジン音ともつかぬ音が響いた。モニターに一機のトリポッドが映っていた。斜めになった視界の中で、霧の街を背景に金属光沢を放つ生物が急速に接近してきた。青い火の玉が飛んできたように見えた。速い。緊張してクレイは機体を傾けた。フェルドランスとトリポッドがすれ違った。トリポッドの音響がドップラーシフト。一瞬で高音が低音に変わる。まるで戦闘機同士が交錯したかのような速度だった。
「何て奴!」
彼は機体を反転させた。トリポッドも回頭していた。再び向き合い、二機は突進した。大気を切り裂く音が聞こえた。クレイは照準を合わせる間もなくトリガーを引いた。
機銃弾が飛んだ。しかし金属音と共に火線が跳ね返った。火花が散る。トリポッドの装甲には効果がないようだ。二機がすれ違った。金属でできているのか?、クレイは戦慄した。本当に生物なのか。クレイは再び機体を急旋回させた。トリポッドが見えた。その時、金属濃縮、という単語が不意に浮かんできた。ある種の生物は体内に高濃度に特定の金属を取り込む。実際に鉄を取り込んで装甲にする貝類がいる。こいつらも発生過程で鉄を取り込み、体表の組織に沈着させたのかもしれない。警告音が響いた。トリポッドが急速接近、速度を緩めず、頭部とおぼしきところから無数の小球を撃ちだした。
「飛び道具!」
クレイは咄嗟に機体をひねった。間一髪、黒い金属弾は機体の横を通り過ぎて蒼穹に消えた。二機は再びすれ違った。
「今の装備じゃダメだ」
急加速、フェルドランスは回頭して煙幕を噴射した。青空に広がる黒煙に突っ込み、トリポッドは躊躇したように速度を落とす。その隙をついて、フェルドランスは技研に向けて飛んだ。
そんな彼でしたが、ひとつ悩みがありました。大きなもぐらです。お城の庭に大きなもぐらがいて穴を掘るので、彼はおちおち散歩もできませんでした。油断していると穴に落ちてしまうのです。しかし彼は天才だったので、ある日もぐらをやっつける強力破壊砲をつくりました。そしてその夜、運命のもぐら退治に挑んだのです。
ペンクロフトは呆然としたまま技研の簡易滑走路の上に立って、煙幕を張りながら接近してくるフェルドランスを見つめていた。チューリップとの戦闘で大破したはずの彼の機体は装甲を煌めかせ、背後に陽炎を揺らしながら鋭い動きで飛んできた。そして彼の目前で速度を落とし、翼を広げ、曲げていた脚部を伸ばして、鳥が地面に降り立つように着陸する。脚が地面に触れたとき、ショックアブソーバーが滑らかに作動し、良質なオイルの匂いがした。
コクピットが開いた。中からクレイが立ち上がった。
「火器を装着してくれ、速く!」
「クレイ、これは一体・・・・」
「訳は後で話す。急いでくれ、もたもたしてると奴等がやってくる」
「・・・・・分かった、三番格納庫に二号機用の火装がある。機体をそこに入れろ」
夜の庭で彼が待っていると、土がもこもこと動いてもぐらが「やっほー」という感じで出てきました。思ったより大きいです。彼の三倍くらいはありました。彼は怖くなりましたががまんして「くらえ」などと言いながら強力破壊砲を撃ちました。弾はもぐらに当たりました。でも全然効きません。もぐらは「ん〜何かな」といった顔をしています。もぐらは弾が当たった背中を触ろうとしましたが、手が短くて届きませんでした。
第三格納庫の中では慌ただしく作業が進められていた。
技研の人々が、機体の左腕に改良型の電磁投射砲「LRC改」を装着し始めた。
「機関砲を30ミリに交換してくれ。20ミリでは奴のクチクラを貫通できないんだ」
コクピット内で火器官制系のプログラムを操作しながらクレイが言った。ペンクロフトが技官の一人に指示を出し、それから機体を見上げて言った。
「完璧だ。誰がこいつの修理を・・・・」
「知り合いの魔法使いさ」クレイがコクピットから顔を覗かせた。ペンクロフトは訝しそうな顔をした。
「シィナさんか?」
「いや、彼女の師匠だよ」
ペンクロフトは不思議そうな顔で装甲板を撫でていた。しばらくそうしていてから、ふと大事なことを思い出したように尋ねた。
「霧の様子はどうだった?」
「・・・・さっき上空から見た感じだと、街の大部分は覆われてるようだが、あれがどうかしたのか?」
「有毒かもしれない。街に残っている人には酸素ボンベとマスクを渡しているんだ」
「有毒だって・・・・・」
嫌な予感がした。霧は街を覆っている。海の上を広がってきている。もう少ししたら彼の家の方にも―――
コートニーが!
「ペンクロフト、頼みがあるんだ」
血相を変えて、クレイが言った。
「酸素ボンベを、ぼくの家に持っていってくれ。コートニーがいるんだ」
「わかってる。まかせろ」ペンクロフトはすぐさま頷いた。
「言われなくてもそうするつもりだった。これが終わったらすぐ運んでやる。おまえは安心して敵を落とせばいい。おまえが空中戦してる間は、おれが彼女を保護しておく」
「感謝するよ」
「そのかわり、それ以上彼女の面倒を見るのはごめんだからな。それはおまえが責任を持て。おまえは帰ってきて、彼女を保護する義務があるんだ。忘れるな」
「死ぬことは許されないってことか」
「当たり前だ、あほ」
「ペンクロフト」クレイはおかしそうに笑った。
「何だ?」
「おまえ、思ったよりいい奴だな」
「今頃気づいたのか、ばかが」ペンクロフトは憮然とした。
「いいこと教えてやろうか?」
「何だ、シィナの口説き方か?」
「この間、シィナさんと一緒に穴に落ちただろ、あれを掘ったのはおれなんだ」
「———おまえ!」
「換装終了!」その時、技師の一人が叫んだ。クレイは微笑み、「じゃあな」と言ってコクピットハッチを閉めた。
「出撃する。ゲートを開けてくれ」
周りにいた人々が散って、クレイの前方で格納庫の扉が左右に開いた。白い光が彼を待っていた。彼の魂を導くかのように。彼は眩しそうに目を細めた。
「待たせたね、今行くよ」
機体の傍らに立つペンクロフトに最後の一瞥を送って、彼はスロットルを開いた。光に吸い込まれるようにフェルドランスは発進した。
もぐらに攻撃は効きません。若い魔法使いは焦りました。もぐらはじっとこちらを見ています。襲ってくるかもしれません。そしたら勝ち目はありません。あんな手ではたかれたらつぶれてしまいます。それはもう見事なくらいぺっちゃんこ。そんなのはいやだ、と魔法使いは考えました。なんとかしなければ。つぶされる。でももぐらはきょとんとした顔で首を傾げ、そのままもぐっていきました。
街の上空へとフェルドランスは上昇していった。
彼の眼下に街が見える。霧が押し寄せていた。地面は白い霞に包まれ、高い家の屋根しか見えない、白い霧の海の中にアルザス風の尖り屋根が島のようにぽつぽつ浮かんでいた。
クレイの心の中でコートニーの話は続いていた。少し舌足らずな口調で。
次の日、城の呼び鈴が鳴りました。魔法使いの若者が城門を開くと、若い女の人が立っていました。「どなたですか」彼が尋ねると、女の人は答えました。「あ、あの、広告を見て来たんですが」彼女はお手伝いさん募集と書いた広告を持っていました。「こうこく?、こんなの出したかな」と彼は変に思いましたが、自分はよく変なものを作るので、こんなのも作ったかもしれないと思って納得しました。女の人はメアリーと名乗りました。彼はふと、メアリーの顔を見て不審そうな顔をしました。彼女は何故か丸くて黒い眼鏡をかけているのです。「目がお悪いんですか?」「ええ、よく見えないんです」「そんなので仕事が出来るんですか」「大丈夫。聴覚や触覚が優れてるから平気です。みんな私のことを三叉神経系のメアリーって呼ぶんですよ」
コートニーのやつ、ぼくがいつも変な話をするとか言って、自分の話の方がもっと変じゃないか
コクピットに電子音が響いた。
レーダーにいくつも光点が映っている。トリポッドだ。街は無事か?観測室は?
「観測室、応答願います」
彼は通信機に向けて言った。エリスの声はすぐに返ってきた。
「こちら観測室、トリポッドはあと42機。街の上空を飛行中。火器の使用を許可します。迎撃して下さい」
よかった、観測室の皆はまだ生きてたか・・・・。
「了解。トリポッド群は任せて下さい」
「お願いします。出来る限り引きつけておいて下さい。こちらは海の巨大生物への攻撃に移ります」
「了解」
警告音、トリポッドが接近してきた。遠距離から、クレイは「LRC改」を構えた。彼の瞳の中で、照準レティクルの十字が瞬いた。
———目標捕捉!クレイはトリガーを引いた。轟音、青い火球が飛び、彼方にいたトリポッドに吸い込まれていった。そして、爆発。
それが戦闘開始の合図だった。一斉にトリポッド群がフェルドランスに襲いかかってきた。霧の漂う街の上空で、空中戦が始まった。
遠く、轟音が響いてきた。空中で何かが炸裂したような音だった。それから立て続けに機銃音、街の方で戦闘が始まったようだった。
博物館の庭に佇み、シィナは黙ってその音を聞いていた。
もう一人の自分が戦っている音を。
「始まったね」
唐突に横から声がした。森の中からアーベルが姿を現した。
「アーベル!?、あなた一体何処に・・・・」
「様子を見てきたのさ。戦闘が始まったね。これが最後だ。この戦いで決まるよ。君たちが勝つか、それとも我々が勝つか」
彼の言葉、シィナは聞き間違いだと思った。
「・・・・・・今なんて言ったの」
「君たちか、我々かだ。今まで気づかなかったのかい?ぼくが敵だって事に」
シィナはアーベルの瞳を見つめていた。まるで意識を亡くしたかの様に呆然として。
「私をからかわないで下さい」シィナはつぶやいた。
「いい加減にしないと怒りますよ」
「11年前のことを思い出したまえ」彼の口調は冷ややかだった。
「君の父はある生物を作った。それは体内で新たに生物をつくれるという特性を持っていた。そして、その生物は生まれてすぐに何をしたと思う?・・・そいつは真っ先に自分自身のコピーを造ったのさ。まさかの事態に備えてのバックアップとして。じつに賢明なやりかただよ。そいつはさらに一ひねりして、コピーの形態を人間に擬態させた。それがぼくだ。つまりマンディブラスそのものなんだよ。ぼくは」
そこで、彼は軽く笑った。種明かしをした手品師のように。
「驚いた?」
少年は、彼女と長年一緒に暮らしてきた少年は、赤や黄色の落ち葉が舞い散る中、外套をなびかせながらシィナを見つめた。驚きと絶望に言葉もない彼女を。
「マンディブラスと人間との間には、君も知るとおり、悲劇が訪れた。奴はぼくをこの島に残して去っていったけど、いずれ戻ってくるだろうとぼくは思っていた。だからこの島で暮らしながら、ぼくは情報を収集していたのさ。あいつが帰ってきたときのために」
「・・・・・・どうして」
ようやく、彼女はそれだけ言った。
「そしてその間にいろいろ研究させてもらった。この島のことや、人間という生命体について」アーベルはシィナの言葉には構わず、話し続けた。
「いろいろ発見はあった。楽しかったよ、シィナ」
「・・・・・どうして私を騙したの」
「騙してなんかない。君が、聞かなかっただけさ」
「・・・・信じてた、いい人だって、感謝してたのに・・・・何故なの?」
シィナからはあらゆるものが去っていく。父が、クレイが、そしてアーベルまで・・・・・
「・・・・・どうして」
風が吹いて彼女の髪をなびかせた。彼女の悲しみを具現するかのように長い髪が踊っていた。
「そういう宿命だったんだよ。君には悪いと思っているんだ。本当だよ」
「・・・・どうして・・・・」
死人のような目でシィナはアーベルを見ていた。出てくる言葉もうわごとの様だった。
まるで涙のように木の葉が舞い落ちていた。ひとつ、赤い木の葉がシィナの髪に、まるで髪飾りのようにひっかかった。
その時、街の時計塔から鐘の音が響いた。シィナの心を写すような悲嘆にくれた音色だった。それと同時に街の方から爆発音が聞こえた。フェルドランスのエンジン音らしきものも響いていた。
それを聞いたとき、シィナの目がさらに見開かれた。恐怖の色が浮かんでいた。
「あ、あの機体、あなた、もしかして」
アーベルは無表情だった。しばらくして答えた。
「ぼくがあの機体に何か操作をしたんじゃないかと疑ってるんだね。・・・・ぼくはそんなことはしない。修理には全力を尽くしたつもりだ。恐らく以前の性能より一割か二割増しになっているはずだよ」
「・・・・・なぜ」シィナは困惑した様な表情を浮かべた。
アーベルは微笑んだ。
「さあ、どうしてだろうね。君たちがもう少し進化すればわかるかもね。ぼくの行動の理由が。ぼくの気持ちが」
爆発音が聞こえた。続けざまにふたつ。それからバラバラと金属片が降るような響きが続いた。
そしてまたひとつ、何かが砕け散る音。
「こっちが押されてるようだ」
アーベルが驚いたようにつぶやいた。シィナは彼が驚くところを始めてみた。
「すごいね。あの人。まさに天才だよ」
シィナはアーベルを見つめた。その眼差しはまるで鳥のようで、どこか遠くにあるものを見ていた。
「あの人は天才かもしれないけど、あなたが考えてるようなものじゃない・・・・・」
彼女の声はまるで独り言を言っているかのようだった。
「あの人がどうしてあんなに巧くマンディブラスと戦えるかわかりますか。・・・・それはあの人が子供の頃からずっといろんな生き物を見てきたから。あの人は生き物を深く愛しているから。だから生き物の動きが予測できるんです。少年が虫取り網で虫を採るように、あの人には敵の動きが見えるんですよ」
「・・・・・そうかも、しれないね」
「だからあの人は、・・・・・哀しかったんです。一言もそんなことは口に出さないけど、あの人は辛かったんです。この島の人を護るために、あの生き物達を殺すことが。あなたの仲間を殺すことが。・・・・・わたしには分かるんです。だって、わたしはあの人なのだから・・・・・」
アーベルは黙って彼女の声に耳を傾けていた。諦めとも憐れみともとれる表情が浮かんでいた。
そのときまた、遠くで爆発音が響いた。
「・・・・・哀しいのは君たちだけじゃないさ」
そう言って彼は身を翻した。街の方へ。
「ぼくもそろそろ行かなければ」
「何処へ、・・・・・街へ行くのね、クレイを殺しに———」
シィナが叫んだ。
「行かせない、絶対に行かせないわ」
アーベルは振り返った。何故だろうか、淋しそうな色が瞳に浮かんでいた。シィナはゆっくり、スカートのポケットから護身用の小さな拳銃を取り出した。そしてそれを構えた。
「動いたら、撃ちます」
「・・・・こうなるのは運命だったのかな。ぼくにはもうどうすることもできない。いいよ、撃ちたまえ。それで君の気が済むなら」
アーベルは身を翻した。シィナに背を向けて彼は歩き出した。街へ続く道を。
「やめて、やめて、お願い!」
シィナは銃口を彼に向けたまま叫んだ。
「どうして行くの、どうしてそんなひどいことが出来るの?どうして———」
シィナの銃口が震えた。アーベルは歩いていく。もはや彼女の存在すら忘れてしまったように。
「帰ってきて、昔のあなたに戻って、アーベル!」
彼の囁きが風に乗って聞こえてきた。
さよなら
シィナの瞳が震えた。もう何もできなかった。彼女は銃口をおろし、その場に両膝を突いた。
紅葉した落ち葉が彼女の上に降り注いでいた。
そうして、二人の生活が始まりました。「ラインハルトさんは魔術師なのね」言い忘れてましたが、彼の名前はラインハルトでした。「うん、ここで実験を続けてるんだ」ラインハルトは彼女を助手にして実験を進めました。彼女は目が見えませんでしたが、とてもよく働いてくれました。彼はとても感謝しました。でもひとつ不思議なことがありました。後ろ姿を彼に見せないのです。いつも彼の方を向いていて、彼から離れていくときは後ずさっていくのです。ある日とうとう耐えきれなくなって彼は尋ねました。「どうしてそんな変な動きをするんだい?」しかし、「私目が見えないからどう動いてもいいんです」などという意味不明の答えが返ってきました。彼の心に好奇心が芽生えました。「もしかしたら体温調節用の背びれでもついているのか、ディメトロドンみたいに・・・・」彼はある夜、天井にはりついてメアリーが下を通るのを待っていました。人間の注意は上にはあまり向かないことを知っていたから、こうすれば見つからないと思ったのです。しかし、メアリーは彼の手前で止まって、「重力制御の実験ですか」と尋ねました。「うん、そうなんだ。でも失敗だな」そう言って彼は落ちました。
モニターの中を、トリポッドが突っ込んできた。クレイは機体を横倒しにした。翼が天を向き、機体は瞬間的に下降、トリポッドが上を通り過ぎた。
機銃斉射、頭上のトリポッドに撤甲弾が突き刺さり、金属生物はよろめいて落ちていった。
フェルドランスも下降、霧の中に入った。視界が白く変わる。モニターの視界は1.5メートルしかない。レーダーと音源探知機が頼りだ。フェルドランスは着地した。石畳が砕ける音がした。周りを霧が囲み、周りの建物も茫洋と霞んでいる。まるで夢の中のようだ。
頭上で風切り音が聞こえた。トリポッドだ。クレイは「LRC改」のカートリッジを交換すると、地上モードにして機体を発進させた。敷石を砕きながら大通りを駆ける。レーダーに光点が点滅、上空、霧の中に黒い影が見えた。
「そこ!」
操縦桿のスイッチを押す。アームアンカーが飛んだ。まるでカメレオンの舌のように伸びて、フェルドランスの右手が上空でトリポッドの脚をつかんだ。ワイヤーが送り出される。それが伸びきったところでがくん、とトリポッドが止まり、次の瞬間、敵は地面に激突していた。
さらに金属音、機体の前にある石塀の向こうだった。音源の位置を突き止めるITD機構が反応し、敵の位置を映し出す。左腕の「LRC改」が咆哮した。青い弾体が塀を貫通し、トリポッドのど真ん中を貫いていた。
爆発、炎が霧に煙った。
「21機目、すごいわ・・・・」
エリスがつぶやいた。淡緑色の無骨な機体が、まるで鬼神のように見えた。トリポッドがゴミ屑のように落ちていく。レーダー上の光点が次々に消えていく。あの人、まさに天才だ。神様が私達を救うために連れてきてくれたんだ。
その時、彼女の視界の隅に、奇怪なものが見えた。
「あれ?」
観測室の片隅に、人が立っていた。
両手をだらんと下げて、頭を少し傾け、じっと彼女を見つめていた。
そして、エリスはそれの目を見てしまった。
「・・・・・・ひ!」
まるで金縛りにあったように、彼女は動けなくなった。恐怖に体が硬直していた。
そいつの目には白目も黒目もなく、全体が血のように赤かった。
そいつの口から、ひゅーという不気味な音が漏れた。
そして、ゆっくり、ゆっくり、そいつは彼女に近づいてきた。真昼のはずなのに、次第に部屋が薄暗くなってゆく。闇に溶け込むようにしながらそいつは近づいてきた。
「え、り、す———」
空気が抜けるような音と共にそいつはつぶやいた。体の輪郭は闇に呑まれても、二つの赤い目だけが闇の中に光っていた。
どうして、私の名前を・・・・
「えりす----えぇりぃいいすううぅううぅ」
エリスは悲鳴を上げようとして、しかし唇は震えるだけだった。思うように口を動かすこともできない。恐怖が彼女の精神を蝕んでいた。
いきなり、そいつの姿が消えた。
「・・・・・あ」
視界が元に戻った。明るい観測室。レーダーには相変わらず光点が映っている。残り18機、フェルドランスはまた何機か落としたようだ。
幽霊は消えていた。あれは一体何だったのか?
疲れているんだ。彼女はそう思った。疲れているから、幻覚を見たんだ。
彼女は額の汗を拭った。
「え、り、す・・・・」
彼女のすぐ後ろで、空気が抜ける音がした。後頭部にちりちりするような感覚があった。子供の頃、田舎の裏庭で感じたものに似ていた。
「えりす」
うしろ、うしろにいる———
再び、世界が恐怖に充たされた。
彼女の顔は蒼白になり、口元が震えだした。涙がじわりと溢れてきた。
何かが肩に手をおいた。途端に明かりが消え、彼女は再び闇に呑まれた。
「ひいっ!」
エリスは悲鳴を上げた。
「どうした!」
エリスの肩に手をおいたケインが訊いた。
「君、様子が変だぞ」
しかし彼女はケインの顔を恐怖の眼差しで見つめていた。今にも発狂しそうなほどに表情が歪んでいる。彼女の目を見て、ケインは思い当たった。それは一種の薬物中毒に似ていた。
その時彼は気づいた。霧だ。いつの間にか、観測室内にもうっすらと霧が入り込んでいた。
———幻覚だ!
「総員、酸素マスクを装着しろ!」
彼は叫んだ。そして、部屋の隅を見た。技研から運ばれてきていた箱があった。彼はそれを開いて、簡易マスクを取り出した。
彼はそれをエリスのところへ持っていき、彼女の口に押し当てた。
「いや、いや、やめて!」
彼女はもがいた。両手を降って彼を引き離そうとした。爪が彼の頬を引っかいて、皮膚が裂けた。
しかしケインは離さなかった。顔からは血が流れていたけれど、彼はエリスを抱きしめるようにして、彼女を押さえていた。
やがて、エリスの呼吸が落ちついてきた。瞳に浮かんでいた狂気も消えてゆく。霧に含まれる物質は、その供給が絶たれると速やかに効果を失うらしい。
「あ・・・・・」
数分で、彼女は正常に戻った。
「主任・・・・・」
「大丈夫か、円周率を言ってみろ」
「・・・・・3.1415926535897」
「もういい、よかった」
安堵の息をもらしてケインは彼女から離れた。エリスは彼の頬を伝う血の筋を見た。
「あ、主任、・・・・・・血」
「ああ、君、爪を切った方がいいぞ」
ケインは苦笑いしながら言った。エリスはばつが悪そうな顔で彼を見つめていた。しかし、やがて困ったような表情をして微笑した。
「すみません」
「いいさ、でも借りは返してもらうからな。生き延びたら、朝の天気予報で一曲唄うというのはどうだ」
「きっぱりとお断りします」
エリスは苦笑しながら立ち上がり、再び緊張気味に観測室内を見回して席に戻った。そして、ふうっ、と息を吐く。
戦闘はまだ続いている。
ペンクロフトの頭上で爆発音がした。霧の上で鈍い光が瞬き、もわもわと霧がゆらめいた。次の瞬間、トリポッドの脚が霧を貫いて降ってきた。
「うわ!」
脚は滑走路上に落ち、金属音と共に破片が散った。それと同時にフェルドランスの装甲板の一部も降ってきた。
機銃音、そして弾丸が何かに跳ね返る音がした。再び爆発、今度はかなり街の近くだった。
やってる・・・・
霧の向こうではフェルドランスとトリポッドの死闘が行われているのだった。
霧の上で続けざまに何かが光った。まるで雨雲の中に光る雷の様だった。
「クレイ、死ぬなよ」
酸素マスクの奧でつぶやき、彼はクレイの家に向けて技研の電気自動車を発進させた。
技研のゲートを出るとき、ペンクロフトの視界に、黒い服を着た少年の姿がちらりと見えた。
誰だ、こんな時に———
いつもの彼ならそこで車を止めていただろう。しかし彼が視線を前に戻したとき、既に彼はその少年のことを忘れ去っていた。コートニーに酸素ボンベを届ける必要があって急いでいたからかもしれない。いやそれよりも少年の周囲に漂う不可思議な雰囲気が彼のその存在を忘れさせたのかもしれない。少年の姿はあまりにその場面に似合いすぎていたのだ。霧と硝煙の漂うアルザスの街に。
前を走りすぎる車を見送りながら、アーベルはつぶやいた。
「出来ることなら、あなたともいろいろ話がしたかったよ。ペンクロフト・ヒューベル博士。・・・・最も強大な壁として我々の前に立ちはだかったのは、他でもない、あなただ」
車は走り去った。
アーベルは視線を上に向けた。悲しさと淋しさを含んだ、しかし奇妙に美しく澄んだ瞳だった。
「まったく、あなたがあんな機体さえつくらなければ」
彼は外套の下から拳銃を取り出し、斜め上に向けて構えた。
霧の向こうから、甲高いエンジン音が聞こえてきた。姿は見えない。しかし、アーベルの瞳にはフェルドランスの姿が映っているようだった。彼の銃口は一点をさしたまま動かなかった。
アーベルの瞳に空が映っていた。その深い色の底でどのような感情が揺らめいているのか分からない。ほんの少し、苦悩するように彼の眉が動いた。しかし、その銃口は全く動かなかった。
エンジン音が近づいてきた。
その音と、銃口の指す点が重なった瞬間、アーベルの指が動き、すさまじい銃声が迸った。
青白い光が飛んだ。彼特製の弾頭だった。
弾頭周囲の大気が電離してプラズマ化し、霧を蒸発させながら弾丸が飛んだ。
狙いは正確だった。霧の彼方にいたフェルドランスに青白い軌跡が伸びて、弾丸はフェルドランスの頭部に命中した。
頭部が爆発、様々なセンサー類を装備したフェルドランスの中枢が四散した。
「うわ!」
いきなり、衝撃がしてコクピットの計器のほとんどが沈黙した。レーダーも赤外線センサーもソナーも使用不能、警告音が狂気のように鳴った。
「やられた!」
でも、一体どうして———
クレイは生き残った光学モニターを見つめていた。下は霧の海。レーダーにも何も映っていなかったのに・・・・・
まるで幽霊にでも襲われたようだ。一体、下には何がいるんだ!
その時、背後に衝撃が走った。
「ぐわ!」
トリポッドの体当たりだった。衝撃に機体がよろめき、クレイは頭をシートにぶつけた。目の奧で青い光が瞬き、クレイの意識が一瞬、遠のいた。
その作戦は失敗しましたが、ラインハルトはあきらめませんでした。彼は何とかしてメアリーの背中をみてやろうと思ったのです。彼はいろいろ試みましたが、そのたびにメアリーの方が先に気づいて彼は失敗してしまいました。彼は悔しく思いましたが、その時ふと、もう長い間庭の大もぐらを見ていないことに気づきました。「最近見ないんだよ」彼は嬉しそうにメアリーに話しかけました。「何をですか」「もぐらさ。庭にでかくていやらしいのがいて困ってたんだ」それを聞くと、メアリーはとっても悲しそうな顔をして泣き出しました。「どうしてそんなひどいことを言うの」ラインハルトはびっくりしました。「どうして泣くんだい」「だってだって、いやらしいなんて言うんだもの」「いやらしいのは君じゃないよ、もぐらだよ」それを聞くと、メアリーはますます大声で泣き出しました。「泣かないでよ、どうしたんだよ、ねえ」ラインハルトは彼女の肩を抱いてなぐさめました。その時、彼は見たのです。メアリーの背中を。そこには大きなスイッチのようなものがありました。「何これ」何気なく、彼はそれを押しました。「きゃあああ」メアリーは叫んで、彼女は見る見る、大きなもぐらに変わってゆきました。
「あっ!」
コートニーはベランダに出て街を見つめていた。四枚羽根のフェルドランスはシルエットでそれとわかる。今、機体はトリポッドの体当たりを受け、大きくよろめいていた。
「クレイ!」
彼女は叫んだ。手すりから体を乗り出した。フェルドランスは何とか体勢を立て直して舞い上がった。落ちはしなかったものの、さっきまでの鋭い動きは消えたように見えた。
「死んじゃ嫌だ、クレイ」
コートニーは身を翻し、ベランダから広間に駆け込んだ。中にはモゲラがうずくまっていた。街の様子は感知しているらしく、触角がせわしげにぴくぴく動いていた。
「モゲラ、お願い」
彼女はハンマーヘッドに抱きついた。
「クレイを助けて、あなたしかいないの。お願い、クレイを!」
ハンマーヘッドは頭を傾け、軋るような音を立てた。
「あなたも知ってるでしょう、クレイの飛行機。あれを護るの。お願い、クレイが死んじゃう。お願い、助けて!」
ハンマーヘッドは一つしかない目でじっと彼女を見つめていた。彼女の言っていることを理解しているのか、わからなかった。ただ、脚の一本を伸ばして、モゲラはコートニーの体に触れた。
少女はその脚を両手で握りしめた。彼女の両目から涙が溢れて、モゲラの黒い外骨格の上に落ちた。
お願い、お願い、お願い・・・・・
まるで祈りを唱えるように彼女はつぶやいていた。
遠くで爆発音が聞こえた。コートニーの体がぴくりと震えて彼女はいっそうモゲラの脚を握りしめた。
しばらく、ふたつの形は広間にうずくまったまま動かなかった。
やがてモゲラの羽根が左右に開き、巨大な無脊椎動物は羽根を震わせ始めた。離陸前に体温を上げるための行動だった。
「モゲラ・・・・・」
コートニーは涙で濡れた顔を上げた。
「行ってくれるのね」
彼女は抱きついた。そして、ごめんね、とささやいた。
モゲラは脚の一つでそっと彼女を引き離し、羽根を震わせながら部屋の中を横切って、開いていたドアから一階のベランダに出た。
手すりを乗り越えたとき、羽根の振動がいっそう速くなり、モゲラは街の方に目を向けた。
羽根が高振動で動き、薄い膜のようになって見えなくなった。モゲラは飛び立った。水面すれすれを水を散らしながら飛び、途中で大きく方向を変えて、モゲラは舞い上がった。そして、街の方へ飛んでいった。
コートニーはベランダから身を乗り出し、祈るようにその姿を見送った。
「き、君はもぐらだったんだね」ラインハルトは死ぬほど驚きました。彼の前には全長三メートルをこえる巨大生物が存在していました。そしてばたばた暴れていました。しかし、背中を壁にぶつけてスイッチが再びオンになると、ぷしゅーといってもぐらはきれいなメアリーに戻りました。「見ましたね」彼女は悲しそうに言いました。「私の正体を見たんですね」「あ、ああ」戸惑ったようにラインハルトが言いました。「見ちゃったよ」彼は思いました。ああ、これでこの人とはお別れだ。人間に姿を見られたから、彼女は帰らなくちゃいけないんだ。ああ、ぼくは何てバカな事をしたんだろう。あんな事さえしなければ、彼女とずっと幸せに暮らせたかもしれないのに。ラインハルトは悲嘆にくれて、「君とはもうお別れなんだね」とつぶやきました。「なんで?」メアリーが答えました。「だって、ぼくに姿を見られただろう?」「うん」「だったら、もう此処にはいられないんじゃ・・・・」「なんで?誰がそんなこと決めたの」メアリーはきょとんとしています。「いいじゃない。べつに」「へ?」ラインハルトはびっくりしました。「帰らなくてもいいの?」「いいよ」「だって、昔ばなしでは・・・・」「昔はむかし、今はいま、なの」「そうなの?」「そうなの」そしてメアリーは何事もなかったかのように仕事に戻ってゆきました。ラインハルトも、まあいいか、もぐらと人間だってとりあえずなんとかなるさ、とつぶやきました。そして二人は————
二人はどうなったんだろう?
警告音の鳴り響くコクピットでクレイは考えていた。
幸せになったんだろうか?彼らはそれから、どうなった————
そのときふと、クレイの脳裏に、雨の中で泣いていたコートニーと、博物館の地下で慟哭していたシィナの姿が思い浮かんだ。
ああ、あのとき君たちは泣いていた。ぼくの前で泣いていた。でも君たちはぼくのことを頼ってくれた。他にもっと相応しい人はたくさんいたのに、ぼくを選んでくれた。それに応えたくて、ぼくは精一杯がんばった。だけど、きっとそれはとても誉められたやりかたじゃなかった。でも、それでもぼくは君たちの幸せを願わずにはいられない。どうか幸せになってくれ。どうか、どうか、しあわせに———
たとえこの世界が、どうしようもなく酷いものであったとしても———
突然、眼前にトリポッドが現れた。クレイは呻いてアームアンカーを射出した。射出された右腕がトリポッドに激突し、胴体を大きくへこませて金属生物は落ちていった。
あと5機———
クレイは必死だった。ほとんど目視だけで戦っていた。頭部は失われ、機体はあちこちが破壊され、飛んでいるのがやっとの状態になっていた。トリポッドは最後の5機になっても執拗に攻撃を続けていた。海は、マンディブラスはまだ動かない。保安局が攻撃をしているようだが、胴体のほとんどは水中に没しているため、大した効果は上がっていないようだ。攻撃兵器をトリポッドが破壊した後に上陸するつもりだろう。今は海から精神を狂わす霧を放出している。しかし今の所、霧による被害者はいないようだ。霧の正体にいち早く気づいたのは信じられないほどの幸運だった。もし知らなかったら、街はあっと言う間に壊滅していただろう。ペンクロフトとクレイがこの事件の一番最初に見つけた航海日誌は、まさに最後の場面で劇的な役割を演じたのだ。しかし、それでも今回は不利だった。明らかに向こうの方が有利だった。フェルドランスはもういくらも保ちそうになかった。保安局の火器も少し前から沈黙している。少しの差で、今回は敵側が勝利を収めそうな気配だった。
「フェルドランス、応答せよ!」
通信機からエリスの緊迫した声が響いた。
「海中の巨大生物が動き始めました。海岸に接近中、上陸するものと思われます。迎撃できますか?こちらの対空火器は既に使用不能です」
「了解、トリポッドもろともぼくが迎撃します。定期的にマンディブラスの位置を教えて下さい。それとも、そこを撤退しますか?」
「あなたを置いて逃げたりするもんですか」
クレイは疲れた顔で笑った。「感謝します」
そして、フェルドランスは残っているトリポッド群の中へ突入した。
ペンクロフトは瓦礫の散らばる道を急いでいた。彼の心は焦燥感に包まれていた。速度を出したいけれど目の前は霧の世界。数メートル先も見えない。ヘッドライトの先は不安げに霞んでいる。霧はどんどん広がっているはずだ。もしかしたらもうクレイの家まで来ているかもしれない。
「まずいな」
彼は酸素マスクの奧でつぶやいた。
いきなり目に前に瓦礫の山が現れた。
「畜生!」彼は呻いて急ハンドルをきった。タイヤを軋ませて、車はかろうじて回避した。
「世話焼かせやがるぜ」悪態をついて、彼はアクセルを踏んだ。車は加速して、石畳の上を疾走した。街を抜け、海岸に出た。崖に沿って走る。この辺の地形は熟知していた。ペンクロフトはスピードを上げた。次第に霧が薄くなってゆく。だんだん景色が見えてきた。坂が見える。これを登るとかつての自分の家が見えるはずだ。道端の草を散らせながら、彼は石畳の坂を上った。登り切ると、崩壊した彼の家の向こうに、クレイの家が見えた。湖の上に浮かぶ船のようだった。まだ霧は届いていない。
「しめた!」
霧が晴れた世界を、彼は疾走した。クレイの家が近くなる。その時、甲高い音がして、頭上にトリポッドが現れた。
「なに!」
ペンクロフトは咄嗟にハンドルをきった。さっきまで彼のいたところに、金属球が立て続けにめり込んだ。土くれが散る。走る車を敵と認識したのか、トリポッドは追ってきた。まるでジェット機のような音がする。戦闘機に追われるような気分だった。彼は舌打ちして、草原に入り、その中をジグザグに進み始めた。彼の背後で、鉄球が地面をえぐる鈍い音がした。こんなの割に合わない、緊張に頬をひきつらせて彼は車を駆った。クレイの家が近づいてくる。あそこに行けば何か武器があるかも———
その時、トリポッドがプロペラ型の爆弾を撒いた。至近距離でばらまかれた爆弾はペンクロフトの周りで立て続けに爆発し、爆風で車ははねとばされた。ペンクロフトは投げ出され、地面にたたきつけられて、意識を失った。
トリポッドは車が停止したのを見届けると、街の方へ飛び去った。
そして、草原に倒れたペンクロフトの上を、ゆっくりと霧が這い進んでいった。
怪物は、とうとうその巨大な脚を持ち上げ、上陸を開始した。既に街からの攻撃はなく、マンディブラスの巨体を遮るものは何もなかった。 前足が沿岸道路の上に降りた。地響きと共に雨のように水が滴り落ちた。濡れた脚が残した足跡は、道路の幅よりも大きかった。
後ろ足が海底を歩いて、マンディブラスはゆっくりと、その巨体を水中から出現させた。
海岸に生えるヤシの木が、雑草のように見えた。建物はまるでミニチュアのようだった。霧の漂う海岸を長い首がしなやかにうねった。後ろ足が砂浜を踏みしめた。爪が地面に食い込み、マンディブラスの体を陸上でしっかりと支えた。長い尾、濃灰色の巨大な胴体、尾と同じくらい長い首、そしてその先端にある巨大な頭部。上から見ると、サイのような胴体に、長い首と尾を継ぎ足したように見えた。いやそれより、中生代の地球に生息していた竜脚類によくにていた。鋭い歯が並んだ頭部を除けばだが。
長い長い首が空中に伸び上がった。首の先端、地上200メートルの高空に、恐竜のような頭部が天を仰いでいた。
そして、マンディブラスは金属が擦れるような声で咆哮した。
その声は島じゅうに響きわたり、クレイの魂に突き刺さった。彼は街を映していたモニターを見た。そして、言葉を失った。
霧の中から、巨大な生物が天に伸び上がっていた。霧に霞む街がまるで模型のようだ。壊された沿岸道路なんて安っぽいB級映画みたいだ。
———上陸した!
クレイは機体を反転させて、急降下した。モニターの中に、頭部が大きくなってきた。距離200メートル。クレイは「LRC改」のトリガーに指をかけた。
空中に伸び上がっていた頭部が揺らめき、ひゅっという擦過音がした。
ディスプレイの照準の中にその頭部が入った。竜のような頭が。
こいつ、こいつは。
唐突に、クレイの脳裏にぱあっと子供時代の思い出がよみがえった。
好奇心に溢れる目で広げた図鑑。両手いっぱいのページに広がったイラスト。
大きな口を開き、少年の心を躍らせてくれた生き物。理由もなく、ただただ好きだった生き物。それが目の前にいる。
ほら、こんなすごいものがいるんだよ、世界はこんなにもすごいんだ、
そのことを教えてくれたものが今そこにいる。
今まで冷静だったクレイの頭が混乱した。今までの戦闘では押さえつけていた感情が反乱を起こし、彼の瞳が不安定に揺らめいた。
生き物を殺すのは嫌だ———
それは、生き物好きだった彼の心の声だった。ハンマーヘッドの時も、チューリップの時も、無理矢理押さえつけていたもう一人の彼の声だった。そして今、彼の前には巨大な爬虫類の頭部があった。何と言うことだろう、最後の敵はよりによって、彼がこの世で最も愛する姿をした生命だった。
トリガーにかけた彼の指が震えた。
爬虫類だ、爬虫類だ、爬虫類だ
殺したくない、殺したくない、殺したくない
爬虫類は彼が最も好きな生き物だった。当然人間よりもずっと。いや、自分自身よりもずっと好きだったのだ。
まるで恋人に銃を向けているような気がしていた。目標捕捉、とAIが報告した。彼の心ですさまじい葛藤が起こった。これほど残酷なことがあるだろうか。こいつを殺さなければ、街の人が殺されてしまう。もしかしたらこの世界全体に災禍をもたらすかもしれない。でも、こいつはぼくの好きな爬虫類なんだ。世界中の何よりも好きな生き物なんだ。殺すなんてできない。そもそも何故こいつは此処にいるんだ、こいつを創ったのは人間じゃないか、人間のエゴじゃないか。制御不能になったら正義面して殺すのか、そんな無責任でいいのか、そんなことをする生命を守る価値があるのか———
正しいのはどっちだ?真摯に生きているのはどっちだ、人間か、マンディブラスか・・・・・
答えは明白だ。では何故、ぼくはそんな人間を護らなければならないんだ。無限の可能性を秘めたこの生物を殺してまで。何故、何故、なぜ———
警告音がした。トリポッドが頭上から襲ってきた。最後の一機だった。何かが切れたようにクレイは絶叫して、機体を上に向けて急上昇、敵を向かえ撃った。空中ですさまじい格闘戦が始まった。火線が舞い、装甲のかけらを散らしながら、最後の空中兵器同士が激突した。二羽の猛禽が戦っているようだった。青空を背景に神話のような戦闘が続き、最後に二機が交錯した途端、トリポッドは四散し、フェルドランスは「LRC改」と右脚を失っていた。
荒い息をして、まるで幽鬼のような形相で、クレイは再び下を向いた。マンディブラスがこちらを見上げていた。彼の脳裏にかつて彼自身が言った言葉が甦った。
必要ならぼくはマンディブラスを殺しましょう。この命にかえても———
シィナ・・・・・
クレイはそれからの行動のシナリオを組み立てた。あの爬虫類を殺し、この街を護り、自らの約束を果たす方法。一つしかないその方法。クレイは目を閉じた。
「ごめんね、帰れなくて」
再び目を開いたとき、彼の目に迷いはなく、彼は機体を傾けた。街の方へ。マンディブラスの方へ。
クレイはポケットに入れていた小さな装置を取り出し、そこに一つついていたスイッチに指をかけた。
それは、小型超音波発生装置のスイッチだった。
あの時、胸騒ぎと妙な予感がして、クレイは街のあちこちに超音波発生器を仕掛けていたのだ。そう、あの夜、コートニーと一緒に落とし穴を掘りに行ったときに。
彼はスイッチを押した。
街中から、そしてコートニーと一緒に掘った穴の中から、人間の可聴域を遥かに越えた音波が響いた。既に街の中に踏み込んでいたマンディブラスは一瞬、驚愕したように下を見た。聴覚驚愕反射、すなわち、
「シナプスを五つしか介さない単純反射だけど、大多数の動物の脳が備えている基本システムなのよ」
脳が好きだった友人の懐かしい声が甦った。クレイの持つ生物学の知識が役に立った瞬間だった。皮肉にも、最愛の生物を殺すときに役に立ったのだ。
隙ができた。クレイはマンディブラスの頭部に向けて、フェルドランスを急降下させた。
機体の周りで風が鳴った。
迫りくる高音を感知して、マンディブラスは頭を上げた。しかし、遅かった。フェルドランスはマンディブラスに激突した。
頭蓋骨が砕ける音、そして———
絶叫が響いた。誰もが耳を覆いたくなるような悲しい声だった。
フェルドランスのコクピットハッチが砕け、クレイは空中に投げ出されていた。シィナにもらった白い花が蒼穹に散った。空中を舞いながら、彼の意識はついたり消えたりした。彼の描いたシナリオはこれで終わりだった。後はこのまま落ちるだけ。
街は救われただろう。彼の好きなシィナも、コートニーも、ペンクロフトも死なずにすんだだろう。
口元に淡い微笑みを浮かべて、彼は落ちていった。彼の人生のシナリオの終局はもうすぐだった。
彼の脳裏に昔の思い出が浮かんだ。懐かしい子供時代の回想。楽しかったことや、悲しかったこと。いくつもの出来事が、彼の心の中を駆け抜けた。そのとき、彼の脳裏に一つの記憶が甦った。それは失われていた記憶の最後の断片だった。あの懐かしい夏。一人で宝捜しに行った、あの時の記憶が甦ったのだった。彼は全てを思いだした。複雑な記憶のパズルは完成した。
そうか、そうだったのか。だからぼくは、ここに
———さようなら、幽霊さん
あの時、別れ際に聞いた声が懐かしく響いた。
意識がとぎれ、再び点った。落下していく感覚があった。皮肉なものだ、クレイは思った。全てを思い出したと思ったのに、すぐに全てを失わなければならないとは・・・・・
その時、彼は何かの羽音を聞いた。遠くから近づいてくる。
ぼくを迎えに来たのか。あの世から
薄れゆく意識の中で、彼は見た。黒い大きな生き物が飛んできた。片目しかない、それはコートニーのハンマーヘッドだった。
クレイの目が大きく見開かれた。
彼の描いたシナリオは終わったけれど、コートニーはその小さな手で、彼を救うシナリオを書き足したのだった。
ハンマーヘッドの姿と、コートニーの幻影が交錯して見えた。
コートニー!
彼の脳裏に、彼がずっと待ち続けていた言葉、クリスがいつも言ってくれた言葉、彼女を失ってから彼がずっと待っていたあの懐かしい言葉が響いた。
いっしょにかえろう
クレイの目から涙が溢れだした。心を洗うかのように止めどなくあふれでた。
霧が湖の中に建つ家を包んでいた。
コートニーは広間にうずくまっていた。外は既に見えない。クレイがどうなったのかも分からない。窓の外は白一色の世界に変わっていた。いつの間にか霧が流れてきて家を包んでいったのだ。こんな事は初めてだった。こんなに不気味な霧は見たことがなかった。やけに密度が濃くて、地面を這うように進んでくる。そして、まるで巨大なアメーバが餌を呑み込むようにこの家を覆い尽くしたのだ。
霧は部屋に入ってきた。少し気分が悪くなって、彼女は居間の大きなソファに膝を抱えてうずくまっていたのだった。
彼女は息を吐いた。体がだるい。目の前がぼんやりしている。霧が入ってきたのか。それとも———
どうしたの
不意に、声がした。部屋の中からだった。
「・・・・だれ?」
コートニーは驚いて首を左右に振った。でも、誰もいない。
空耳かな、と彼女は思った。
うふふ
再び声がした。子供のような声だった。
ここだよ
「誰、どこ?」
ここだよ、ここ
コートニーは訝しそうに声のする方、天井の方を見上げた。
ふふふ
電灯が、笑っていた。
「あ」
天井から吊られた、何の変哲もないはずの傘型の電灯の電球部分に、ぱっくりと大きな口が開いていた。目も鼻もない、口だけだった。
うふふ
するすると蔓のようにコードが伸びて、電灯はコートニーに近づいてきた。まるで口を持った光る花が伸びてくるみたいだった。
かわいいね、コートニーちゃん
電灯が近づいてきた。呆然として、コートニーはそれを見つめていた。
うふふ
電灯はコートニーの所へ降りてきて、彼女の周りをくるりと回った。コードが彼女の体を一周した。
遊ぼうよ、ねえ
途端に電灯のスピードが上がり、コードが彼女の首に巻き付いていた。
「きゃあっ!」
コートニーは叫んだ。事態を理解できないまま、彼女は首を絞めているコードを引き剥がそうとした。だが、なかなか剥がれない。
電灯が笑っていた。シュールな喜劇のようだった。
「助けて」
彼女は呻いた。首が締まる。息ができない。彼女は床の上でばたばた暴れた。
そんなことしてもダメだよ
電灯が嘲るように言って、ふわりと空中に浮き上がった。途端にぎゅっと首が締まった。
「あ、あ、あ」
意識が遠のいてゆく。彼女は呻いた。
君はしぬのさ、もうすぐね
コートニーは夢中で手足を動かした。爪先がテーブルの脚に触れて、テーブルがひっくり返った。上にあったものが散乱し、彼女の目の前にごろりと鉄の塊が転がった。
アーベルにもらったマテバ6式ウニカだった。
ほとんど無意識に手が伸び、彼女はそれをつかんでいた。首が締まる。視界が霞み、意識が薄れていく。しかし震えながらもコートニーは両手で銃を握って、笑い声を上げる電灯に向けた。
そんなことしたら電気がきえちゃうよ
コートニーは撃った。
ぎい、と絶叫が起きて、彼女の首からコードが消えた。笑っていた電灯も消えた。彼女は上を見た。天井に大穴が開き、その横にはいつもと同じ、普通の電灯があった。
「・・・・え?」
コートニーは訳が分からず、不安げに息を吐いた。霧が部屋を漂っていた。
うふふ
ふふふ
周りから、不気味な笑い声が聞こえてきた。弾かれたように彼女は周りを見回した。机や椅子や、壁の額縁までが口を開けて笑っていた。床の上に本が転がっている。航空力学の本はいつの間にか、「易しい人の殺し方」というタイトルに変わっていた。
ねえ、あけて、あけてよ
ベランダに通じる大きな窓の向こうに、不気味な黒い影が見えた。水を滴らせた湖の怪人が窓ガラスを叩いていた。
「————ひ!」
何かが彼女の中で壊れた。理性の壁は砕け散った。
コートニーは絶叫した。叫びながら、マテバ6式ウニカを撃ちまくった。
立て続けに銃声が響き、部屋の中で青い爆発が起こって、そこらじゅうのものが吹き飛んだ。
銃声は続いた。しばらくして、カチカチという音に変わった。弾丸が尽きたのだ。
コートニーは荒い息をしていた。銃が熱い。反動の連続に手がしびれていた。
彼女は部屋の中を見回した。まるで廃虚のように、あらゆるものが破壊されていた。壁に開いた穴から霧が忍び込んでくる。彼女の足元に白い煙のように這い込んできた。
うふふ
何処からともなく、声が聞こえた。玄関のドアを何かがどんどんと叩いていた。
「いや、いや、いや!」
彼女は叫びながら広間を飛び出した。どん、玄関のドアがなった。彼女は階段を駆け上がった。
ドアを開け、コートニーは自分の部屋に入った。勢いよくドアを閉めて鍵をかけた。そのまま彼女は後ずさって、反対側の壁に背中をつけた。
「お願い、来ないで、来ないで、こないで・・・・」
ぎしっ、という音がした。何かが階段を登ってくる音だった。恐怖に彼女の息が止まった。
殺されるよ
何処からともなく声が聞こえた。
殺されるよ
コートニーの唇はぶるぶる震え、瞳は一杯にまで見開かれていた。
ころされるよ
階段の音が近づいてきた。足音が階段を登り切って、ドアの前に立った。
ころされるよ
ドアのノブが回った。しかし、鍵の擦れる金属音がして、ノブは途中で止まった。
あけろぉぉ、あけろぉぉ
ドアの向こうから声がした。死んでも開けるもんか、コートニーは壁に背中をつけて震えていた。
がちがちとノブが回った。
助けて、助けて、助けて・・・・
小声でつぶやきながら、彼女は周りを見た。彼女の横の机の上で何かが光っていた。封筒を切るときに使うナイフだった。
あけろぉ、あけろぉ、あけろぉぉ
幽霊がドアの向こうで言った。
コートニーはナイフをつかんだ。
突然、どん、とドアが鳴った。蝶番が弾け飛んだ。再び激突音、ノブが砕け、ドアが破壊された。ゆっくりとドアが倒れてきた。ドアの向こうに何かが立っていた。
みつけた
黒い姿をした幽霊だった。目だけが赤く光っていた。
みつけた
するすると、そいつは近づいて来た。手とおぼしきところに何かをつかんでいた。よく見るとそれは生首だった。コートニーは壁に背中をぴたりとつけて、恐怖の眼差しでそいつを見つめていた。
「来ないで、来ないで」
コートニーはつぶやいた。その瞳は恐怖のあまり既に正気を失いつつあった。
みつけたぁ
いきなり、幽霊が襲いかかってきた。彼女に覆い被さるように迫ってきた。
「いやあっ!」
コートニーは叫んだ。襟を掴まれ、彼女の口に何かが押し当てられた。そのまま頭が壁に押しつけられる。口の中に何かが入ってきた。彼女はもがいた。しかし幽霊は彼女を離さなかった。口に何かを押し当てたまま、彼女の頭を押さえつけていた。
「う、う、う!」
コートニーは呻いた。恐怖に頭が半狂乱になった。彼女は手に持っていたナイフの柄を握りしめた。
コートニー、しっかりしろ
口の中に入ってきたものの効果だろうか、幽霊の声が聞き慣れたものに変わった。
彼女の瞳が見開かれた。この声は!
しかし、遅かった。彼女の体は既に動いていた。ナイフを握りしめた手が思いきり前に出て、彼女は幽霊の胸を突き刺していた。
重く、確かな手応えがあった。ナイフの柄をどくりという振動が伝わってきた。それと同時に、なま暖かいものが流れてきた。どろりとした液体がナイフの柄を伝わり、コートニーの手の上を流れた。
口の中に新鮮な空気が流れ込んできた。彼女の口を覆っていたのは酸素マスクだった。そして、彼女が突き刺した幽霊は———
「コートニー・・・・」
胸を刺された幽霊がつぶやいた。血が流れ出ていた。胸に彼女のナイフが突き刺さったままだった。
「・・・・あ、あ、あ」
放心したように呻く彼女の目の前で、クレイは微かに口を歪めた。何故か、笑ったように見えた。
クレイはナイフを握った彼女の手をつかんだ。そして、ゆっくりと身を引いた。不気味な手応えと共に、ナイフが引き抜かれた。血の滴が床に落ちた。何滴も何滴も落ちた。
「あ、あ、あ・・・・」
コートニーの目は見開かれていた。彼女にマスクを押し当てていた力が抜けて、マスクが床に滑り落ちた。しかし、マンディブラスが死んで霧は既に消えつつあった。異変は何も起こらず、周りの景色がはっきり見えてきた。彼女の前で、クレイはゆっくりと床の上に崩れた。
コートニーは呆然として彼を見下ろしていた。人がひとり床に横たわっていた。よく知っている人が。
うそだよ
彼女の中で何かが囁いた。ナイフが床に落ちて金属音をたてた。
うそだよ、こんなの
コートニーは口元を歪めて、笑った。
「うそだよ、こんなの、ほんとのはずが、ないよ」
彼女は右手を見た。鮮血で真っ赤に染まっていた。
「うそだよこんなの」
コートニーはつぶやいた。
「クレイのはず、ないよ」
コートニーは下を向いた。此処に倒れているのは幻に違いない。すぐに消えるよ。霧みたいに。だって、クレイのはずはないもの。クレイがこんな所にいるはずはないもの。私がクレイを刺すはずが———
コートニーの瞳がゆらめいた。いくら目を凝らしても、うつ伏せに倒れているクレイの姿は消えなかった。替わりに、体の下から血が流れてきて床の上を筋になって流れた。
「・・・・あ、あ、あ」
コートニーの口から声が漏れた。彼女は床の上に両膝をついた。クレイの血が膝を濡らしていく。彼女の目から涙が溢れだした。嗚咽が何度も何度もこみ上げてきて、息をする度に涙の滴が血溜まりの上に落ちた。
「あああ、ああああ!」
絶望の悲鳴は一気に彼女の口から溢れ出た。
コートニーは狂ったように絶叫した。