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ノーチラスノート  作者: 蓬莱 葵
8/10

第8部

 

 17-18年目の墓標


「わざわざ来てもらって、申し訳ない」

 局長室に入るなり、アッカー局長は来客用のソファに座っていたカハール博士に言った。

「事後処理に手間取っててね」

 カハール博士は持っていたファイルをテーブルに置いて、局長の方を向いた。

「それで、見つかりましたか。探査機は?」

「君が真っ先にあの探査機のことを尋ねるとは。てっきりチューリップの残留物について聞かれると思っていた」

「それもありますが、あの探査機はどうなりました?パイロットは?」

 アッカー局長は首を横に振った。

「そうですか」

 カハール博士は沈痛な声で答えた。アッカー局長はこの学者のこんな声音を初めて聞いた。

 この氷のような人物でも悲しむことはあるんだな

 しかし今は悲しむよりも行動しなければならないときだ。時間がない。局長はそこでクレイの話は打ち切って、危急の用件に移った。

「博士には、チューリップの脅威に関して聞きたいことがある」

「チューリップの上層部分に関する研究結果はここにある」

 カハール博士は冷たい声で答え、ファイルを指さす。

「ただ、下層部分のヒトデ状生物については情報不足だ」

「それに関しては」と局長が続けた。

「チューリップの下層部があれから姿を現さないところをみると、やはり破壊されたと見るべきだろうな。あの探査機に」

「あのパイロットにね」カハール博士の表情はマスクの奥にあって見えなかったが、この科学者がひどい落胆と憤りを感じているらしいことは明らかだった。

 アッカー局長はもう一度首を振った。

「今はとにかく、チューリップ上層部の解析結果について教えていただきたい」

「ああ。あの探査機はいいサンプルをとってくれましたよ。おかげで遺伝子解析はスムーズに進みました」

 カハール博士はファイルを開いた。

「局長に以前聞いた件に関してですが、今回のチューリップも持ってましたよ。あの塩基配列、パンドラボックスでしたっけ?前に襲ってきた昆虫型が持っていた配列です。あれと同じものがありました」

「そうか。それじゃ・・・・」

「そうですな。あいつらがマンディブラスとかいう一匹の生物から外部免疫として作られたという話はどうやら本当らしい」

「そうか、あんまり突拍子もない話なんで、いまひとつ信じられなかったが・・・・・」

 アッカー局長はソファに背中をあずけて唸った。

 だとすると近いうちに再び襲ってくる可能性があるわけだな、外部抗体生物か、もしくは本体そのものが———

 局長は戦慄を覚えた。今回は奇跡的に助かったが、またあんな攻撃をされたら・・・・

「我々から聴力を奪ったあの攻撃については何か解ったかね?」

「・・・だいたいのところは」

 カハール博士は一息ついて話し出した。

「我々は大気振動を内耳の有毛細胞でキャッチして、音として認識、処理している。この過程には二種類の有毛細胞が関与していることが解っています。一つは内側有毛細胞。これが中枢への求心繊維を含んでいて実際に音の情報を脳へ伝える。しかしもう一つ、外側有毛細胞というものがあって、これは内側有毛細胞よりもずっと数が多く、この細胞が、入ってきた音の周波数によって内耳の特定の場所で振動し、いわば音を増幅するわけですな。これによって内側有毛細胞が興奮しやすくなる。・・・・・おわかりですか?」

 アッカー局長は曖昧な返事をした。カハール博士はかまわず続けた。

「今回、あのチューリップは特殊な周波数の音を発することにより、これらの有毛細胞、特に外側有毛細胞を麻痺させたと思われる。これが巧く働かないと、内耳の振動が内側有毛細胞のレセプターの閾値を越えられないので、音が聞こえなくなる。幸い効果は一過性でしたがね」

 カハール博士の話を聞きながら、アッカー局長は難しい顔をして、じっと何かを考えていた。しばらくしてから言った。

「・・・・・これから、他にどんな攻撃があると考えられる?」

 カハール博士は、しばらく考えてから首を振った。

「局長にもらったマンディブラスのデータをもう一度じっくり調べなければ。しかし、あのチューリップについては、以前もらったデータには書かれていなかった。奴が新たにつくり出したいわば新型です。今度からもそんな奴が襲ってくるとしたら、その攻撃を予測する手段は我々には、ない」

「だから」とカハール博士は続けた。

「彼を見つけ出すのです。なんとしても。ここ数回の襲撃を退けられたのは、彼とあの探査機の貢献によるところが大きい。この島が持つあらゆる探査装置を使って探すのです。そして見つけ出す。なんとしても」


 海の上でカモメが舞っていた。

 コートニーは崖の上に立って、じっと海を見ていた。もうかれこれ一時間近くもそうしていた。

 彼女の横にはペンクロフトの家の残骸。まるで、短かった彼女の幸福のように粉々になっていた。

 幸いにもかすり傷しか負わなかったペンクロフトは、保安局に行ってくると言ってさっき出かけていったところだった。

 壊れた家の隣にはケヤキが立ち、その幹にはハンマーヘッド、「モゲラ」がとまっている。まるで木に擬態するように、ぴたりと幹に体をつけて微動だにしない。

 寂しい風が、ケヤキの葉と、コートニーの髪を吹きすぎた。

 彼女はフェルドランスが海に突入してからずっと、機体が浮上してくるのを、クレイが帰ってくるのを待ち続けていた。

 しかし海は茫洋として、小さな波頭を時折散らすだけ。いつまで待っても、機体は現れなかった。

 機体は既に島の遥か後ろに取り残されて、暗い海の底に沈んでしまったのかもしれなかった。

「・・・・・ひどいよ・・・・戻ってきたばっかりだったのに・・・・・どうして・・・・」

 彼女は囁くような声でつぶやいた。悲しみとやるせなさ、そして肌寒い喪失感が彼女の心を締め付けた。 

 ぐすっ、と彼女は鼻をすすりあげた。

 その時だった。すぐ後ろに人の気配がした。

「泣いてるのかい、君・・・・」

 その声に、コートニーは振り向いた。いつかの少年が立っていた。

「やあ、久しぶりだね」

 無表情に少年は言った。

「・・・・・あ、あなた・・・・・」

「悲しそうだね、君。・・・・・あの人を待ってるんだろ?」

 前に会ったときの快活な雰囲気は消えて、彼はむしろ寂しそうに見えた。

 そうよ、とコートニーは答えた。

「彼なら心配いらない。生きてるよ。これから君を連れていってあげる。ついといで」

 アーベルはコートニーに背を向けて歩き出した。


 クレイは目を覚ました。体が横になっているのに気づいた。背中が柔らかくて暖かい。ベッドか何かに寝かされているらしかった。

 どうしたんだ、ぼくは———

 彼は目を閉じたまま、意識を失う前の事を思い出そうとした。

 確か、あのチューリップの土台にアームアンカーを撃ち込んで・・・・・

 爆発が起きたことは覚えている。それから機体は爆発後の水圧で吹き飛ばされた。生き残ってたソナーに巨大な影が映って、それが島の底だとわかった。いつのまにかノーチラス島の真下まで来ていたんだ。機体は水流に流されて、岩の天井に引き寄せられていった。それから・・・・・

「フェンネルさん・・・・」

 彼の横で、聞き覚えのある声がした。聞き覚えのある、静かな声・・・・・

 彼は目を開いて、横を向いた。

「・・・・・シィナさん・・・・・」

 ベッドの横の椅子に腰掛けたシィナは安心したように微笑んで、冷やした布を彼の額の傷口にのせた。

 彼は周りを見た。木組みに白壁の古風な部屋が見えた。木枠のついたガラス窓から午後の光が入っている。ハーブの香りがした。博物館の隣にあるシィナの家の香りだった。

 どうしてこんなところに?

「シィナさん、ぼくはどうして」

「覚えてないんですか」

 シィナが尋ねた。何故か悲しそうな顔で。クレイは頷いた。

「あなたはあの機械と一緒に、地下空間に開いてる穴のところに浮上してきたんです」

「なんだって?!」

 クレイは驚愕した。すると機体は島の底にぶつからずに偶然にも博物館の地下空間に通じるトンネルに入ったのか?なんという偶然だろう。クレイはあまりの幸運に、かえって鳥肌が立つのを覚えた。

「・・・・・じゃあ、シィナさんがぼくをここまで?」

 彼女は頷いた。それから、探るような表情をして尋ねた。

「本当に何も覚えてないんですか?」

「ええ、水中で気を失ってからは何も・・・・」

「そうですか・・・・・」

 この人は何故こんな顔をする? シィナの悲しげな表情にクレイは戸惑った。ぼくは本当に何も覚えていない。でも、何かまずいことがあったのだろうか?

「フェンネルさん・・・・・」

「はい?」

「・・・・・私のために、ごめんなさい」

「は?何のことですか・・・・・」

 シィナは緊張したようにスカートの上で手を握った。

「・・・・・考えてみたら当たり前ですよね。私があんなことを話したから、あなたは私を助けようとして、無理をして。そうですよね。呪いですよね・・・・・」

 シィナはきりっと唇を噛んだ。

「呪い?何を言っているんですか?」

 シィナは返事をせず、俯いていた。

「何の話をしているのかわかりませんが」クレイは続けた。

「ぼくがマンディブラスとやり合っているのは、あなたのためだけではないですよ。確かに最初のきっかけはそうだったかもしれません。でも今は、この島にいる大切な人達の為でもある。安っぽいヒロイズムです」

「でもあんな・・・・・恐ろしい思いを」

 シィナはぽつりと言った。クレイはふっ、と疲れたように笑った。

「やってみたら、何とかなるものですよ」

 クレイはそう言ってから、なおもシィナが俯いているのを見て訝しそうな顔をした。

「もしかして、ぼくがさっき何か言いましたか?」

 シィナは黙っている。

「何か言ったんですね、どんなこと言ったんですか?」

 慌てたように、クレイは尋ねた。シィナは俯いたまま声を絞り出すように言った。

「私が、私が、魔女だと・・・・・」

 クレイはしばらくシィナを見つめていた。彼の位置からは前に垂れている彼女の前髪しか見えない。その髪が少し震えていた。

 クレイは呆れたような顔で答えた。

「そんな馬鹿な。おおかた、悪い夢でも見ていたんでしょう。あなたが魔女だなんて・・・・あなたは親切な学芸員で、でも神秘的なところもあって、ぼくのことを気遣ってくれる大切な人ですよ」

 クレイは毛布から手を出して、膝においている彼女の手の上にのせた。

「あの子守唄。あなたですね」

 シィナは、恐る恐る、クレイの手を握った。クレイの手の上に、涙の滴が落ちた。

 小声で囁くように、シィナは何かを言った。それは少し唐突にも思える言葉で、しかもほとんど聞き取れなかったが、クレイには彼女が何を言ったのかわかった。

 あなたは、ひとりじゃない。

 それは、空恐ろしいほどぴったりと、彼の心に突き刺さった。それは彼女も同じだったようだ。自分で言っておきながら、シィナははっとしたような顔をしていた。

 ゆっくり、少し躊躇しながら、シィナはクレイに顔を近づけた。彼の顔の上で、愁いを帯びた瞳がゆらめいた。彼女の髪がクレイの顔にかかった。彼女は目を閉じた。睫毛が震えているのを彼は見た。そして、少し怯えた子供のように、二人の唇が触れた。

 その時、唐突にノックの音がした。びくっと震えて、一瞬のうちに二人は離れた。部屋のドアが開いた。アーベルと、それから、コートニーが立っていた。

「クレイ!」

 彼の姿を見るなり、少女は叫んだ。

「無事だったんだね。無事だったんだね」

 そして、いきなりベッドに走り寄ってきて、彼女はクレイに抱きついた。

「うわ、いたい、いたいよ、コートニーやめろ」

「ばか、心配かけて!こうしてやる、こうしてやる」

 コートニーはクレイの毛布をばんばん叩きだした。

 シィナは二人の姿を見つめていたが、うつむいて少し笑って、それから影のように立ち上がって部屋を出ていった。


 夕闇が迫る頃、シィナの家の玄関でクレイは礼を言った。シィナはどういたしまして、と答えた。二人は一瞬見つめあった。シィナが目をそらして、さよなら、と言った。彼はきびすを返して、コートニーを連れて歩き出した。その時ふと、彼は今まで気づかなかったある物を見つけた。

 家の横に立っている、それは古い墓標だった。あまりに小さくささやかに立っていたので、前に来たときは気づかなかったらしい。

 無意識に彼は墓碑銘を読んだ。その途端、その表情が凍り付いた。

 クレイ・ライト 2042-2050

 そう書かれていた。彼はその文字から目を離すことができなかった。彼の表情を仰ぎ見て、どうしたの、とコートニーが尋ねた。

「名前、クレイって書いてある」

 シィナが家から出てきて、彼の横に立った。

「私の兄です。私が生まれた年に死んだんです・・・・・」

 あなたの名前と同じですね、と囁く。

「だから私、あなたの名前を聞いたとき驚いたんですよ」

 いや、違う。名前が同じという、それだけではない。何処から来るのか解らない底知れぬ不安がクレイを包んでいた。

 —————2042年だって?ぼくが生まれた年と同じじゃないか

 そして、そのフルネーム、クレイ・ライト・・・・・・

 そんなバカな、そんなバカなことが———

 何かがおかしい、何かとても恐ろしい秘密が、この墓標の裏に隠されている・・・・

 ここに埋まっているのはぼくだ

 何の脈絡もなく、クレイはそう思った。いや、そう確信していた。 



 18-航海日誌


 数日後、ペンクロフトは街を歩いていた。白壁に黒木骨組の家の建ち並ぶ通りは所々で補修工事が進められている。チューリップによって受けた損害だった。あの時の戦闘で海辺にある彼の家も破壊され、今はとても人が住める状況ではない。建て直しが終わるまで、彼は街の中にある観測技術研究所の宿舎を借りて生活することにした。一応、生き残っていた機材はそこに運び込んで研究は始めていたけれど、街の人々が期待しているフェルドランスの修復は絶望的な状況だった。クレイの話では、機体は一応形は残っているが、大破に近い状況らしい。損傷状況を見に行こうかと思ったが、どういうわけかクレイは帰還の経緯について言葉を濁し、上陸地点も詳しく語ろうとしない。

 あいつはあの戦闘以来どこか変だ。話しかけてもはっきりした返事は帰ってこないし、浮世のことは上の空といった顔をしている。何かを必死になって調べているようにも見える・・・・・。

 あの戦闘で少しおかしくなってしまったのか?

 ペンクロフトは不安になった。病院に行くことを勧めてみようか、と考える。

 彼についての懸念はそれだけではない。例え精神に異常が無かったとしても、彼には何かある。ここしばらく、彼の周りには不可解なことが多すぎる。

 あのハンマーヘッドがその最たるものだ。チューリップ事件の時、コートニーを守るように突如出現した怪物。クレイに問いただすと、あれはシィナの知り合いが少女に手渡した卵から孵化したとのことだ。ではその知り合いとやらはどうやってそれを入手したのか?それについては彼も知らなかったが、博物館で極秘裏に行われていた研究と関係があるかも、と言っていた。もしそうなら、あのハンマーヘッドは島を襲ってきた奴らとは関係が無いのか。確かに人間の少女を護っていた。しかし、だからといってあの怪物を野放しにしておいていいのだろうか?でも、シィナが関わっているとしたら・・・・・

「ヒューベル博士」

 背後から誰かが彼を呼び止めた。思考を止めて、彼は振り返った。縦穴調査で共同調査をしたタイラー博士が立っていた。

「ああ、タイラーさん、ご無沙汰してます」

 石畳の道を、タイラー博士は近づいてきた。

「あなたの探査機、またもやたいした働きでしたね。命拾いしましたよ。あれもう戦闘機ってことでいいんじゃないですか?」

「いや、あくまで探査機で登録してるんで。これからも探査の依頼を下さい」

「そりゃもちろん。それから、あのパイロットは元気ですか。縦穴から帰ってきたと思ったら、耳が聞こえない状況であのチューリップを撃破して、ただ者じゃないってみんな言ってますよ」

「ああ、ちょっと変な奴ですけどね・・・・・」

 彼は最近様子がおかしい、という事は黙っておくことにした。

「ところでタイラーさん、あの穴にあった図形、あれについては何か解りましたか?」

 クレイとフェルドランスのことはあまり詮索されたくなかったので、ペンクロフトは話題を変えた。

「ああ、あれね」

 タイラー博士は口元に笑みを浮かべた。研究者が自慢のテーマについて尋ねられた時に浮かべる、あの笑みだった。

「研究は進んでいますよ。まだはっきりした答えは出ていませんが。もし暇なのならいくつかお話ししましょう。共同研究者として意見を伺いたい点もいくつかありますしね」

 タイラー博士は半ば強引に、ペンクロフトを近くにあった北欧風の喫茶店に引っ張っていった。

「まずですね」

 席に着くなり、タイラー博士は話し始めた。

「あの図形ですが、どうも何らかのパターンを持って並んでいるように見える。見えると言ったのはあくまで感覚的なものですが。あの記号配列を現在の数理理論に当てはめようとしても既知のものでは全く歯が立たないんですよ」

「あなたはあれが何を表していると考えているんですか?」

 北欧の民族衣装を着たウエイトレスが持ってきたコーヒーをすすりながら、ペンクロフトが尋ねた。

「確かなことはもちろん不明ですが、私の想像では、あれは何かの配線図か、取り扱い手順のように見える。あの図形の一つ一つが文字のように見えるんですよ。人類の思考から類推できるものとは全く異なる思考パターンで作られた論理形式のようなものを感じますね。想像だとか感じだとか、非科学的な言葉遣いしかできなくて申し訳ないが・・・・・」

「仕方ないでしょう」

 恐らく人類以外の知性体によって作られたものだろうから、とペンクロフトは思った。

 その時彼はクレイの話を思い出した。あの穴の中には地球のパッチワークがあった、と彼は言っていた。確か、恐竜を見たと———。

「あの図形がいつ頃書かれたかはわかりますか」

「そのことなんですけどね」

 タイラー博士は何かを迷っているかのように、木製テーブルの木目を見つめた。

「あなたには言っておいた方がいいだろうな。あの時あの場所にいたんだから、私の話をバカげたことだとは思わないだろう・・・・・あの図形がいつ書かれたのかは解らない。でも、あの機体での反響測定と、現在までに得られていた岩石サンプルから、あの穴の壁を作る岩がいつできたのかは解りました。放射性同位体測定でね」

「いつ、だったんですか?」

「60億、プラスマイナス一億年といったところですか」

 ごくり、とペンクロフトはコーヒーを呑み込んだ。

 とんでもないことを、タイラー博士は言ってのけたのだった。

「ろ、ろくじゅうおく、ですか?!」

「そう、しかも、あの文字は後から岩に『彫られた』のではない。最初から『岩ごとあのように作られていた』のです。あの文字は、地球やインフェリアが誕生する以前からすでにあったんですよ。このことはつまり————」

 タイラーの目がすっと細くなった。

「つまり、この島は地球ともインフェリアとも違う、未知の惑星の一部なのですよ」

「未知の、惑星・・・・」

 ペンクロフトは半ば唖然としてタイラー博士の顔を見つめていた。

「それに」

 博士は続けた。

「ヒューベル博士、あなたはどう考えていますか?この島が海に浮かんでいることについて。この岩の塊がどうして浮くことができるのか」

「さあ。見当もつきませんが」

「この間の調査の時、ほら、探査機が消える前に取ったデータがあったでしょう。あれを解析したんですが、どうも奇妙なんですよ。まるで機体の重量が変わってしまったかのような値がでている。もしかしたら・・・・・」

「もしかしたら?」

「この島の内部は重力制御がなされているのかもしれない。未知の技術でね。重力をコントロールする事によってこの島は浮き、そして推進しているのかもしれない。一昔前に流行ったUFOのように」


 だから言ったでしょう、我々はとんでもないものを発見したんだと・・・・・

 タイラー博士の言葉が、ペンクロフトの耳に木霊のように響いていた。博士と別れた後、彼は呆然として、技研への道を戻っていた。

 あれを作った連中がどうなったかは知らない。しかし、あそこにはまだ残っているんです。異星人の技術が・・・・

 異星人、今まで小説か映画でしか聞いたことのなかった言葉が、研究者の口から発せられたのだ。ペンクロフトは緊張を禁じ得なかった。あの縦穴、そして島じゅうで起こる異常現象。うすうす感じてはいたけれど、やはりこの島は普通ではなかったのだ。なにか得体の知れぬ存在が残していった遺跡だったのだ。

 彼が今歩いている石畳の道。この道の下をかつていくつかの影が横切ったかもしれない。不思議な音を発しながら。不可解な突起物を揺らしながら・・・・

 背筋に冷たい何かが走るのを彼は感じた。誰かに見られているような気がして、慌てたように周りを見た。そして空を。

 しかし、青空はひつじ雲の彼方に、澄み切って高く高く広がっていた。

「ヒューベルさん」

 背後から声がした。今日はやけにいろんな人から呼び止められるな、そう思いながら彼は振り向いた。

「どうしたんですか?空なんか見上げて」

 シィナは紙袋を抱えて、アルザス風の路地に立っていた。いつもと違う枯葉色の服を着た彼女は、ペンクロフトを見て微笑んでいた。彼は、異星人のことを忘れた。わけのわからん存在を気にするよりも、今はこの瞬間を大切にした方がいい。彼は楽観主義者だった。それに、人の気持ちなんてそんなものだ。

「ああ、シィナさん。・・・・買い物帰りかい?」

 シィナはまるで古典絵画から抜け出してきたヒロインのようだった。髪が日の光を浴びて輝いて見える。どうしてこんなに綺麗なものがこの世にあるんだろう、とペンクロフトは思った。コートニーのハンマーヘッドの件で彼女に問いただしたいことがあったはずだが、そんなことはどうでもよくなった。今の彼は彼女から笑いかけられたことに、ただただ幸福感を感じていた。

「ええ。今日の夕食を」

 シィナはペンクロフトの隣まで来た。一緒に歩いてくれるかな、と心配しながら彼が歩き出すと、シィナは並んで歩きだした。

「お家、壊れちゃったそうですね。フェンネルさんから聞きました。今は技研の宿舎で暮らしてるって」

「ああ、でも不自由はしてないよ。技研の機器は自由に使えるしね。そもそもフェルドランスの組み立てはほとんどあそこでやったわけだし、古巣に戻ったって感じだよ」

 言いながら、しかし彼はさっきのシィナの言葉が気になっていた。彼女はクレイとしばしば会っているのだろうか?

「あ、あのさ・・・・・」

「何ですか?」

 彼は思いきって尋ねた。

「クレイとはよく会ってるの?」

 彼の横を歩きながらシィナは頷いた。

「博物館にはよく来られますよ。でも最近様子が変なんです。博物館の書庫を見せてくれとか言って、一日中そこにこもって何かを調べてるんです。私が話しかけても上の空といった感じで・・・・・ヒューベルさんは何かご存じないんですか?一緒に仕事してますよね」

「おれもおかしいなとは思ってるんだけど、最近はおれはこっちでフェルドランス二号機の製作にかかりきりだし、なかなか会う機会がないんだよ」

 シィナはそうですか、とつぶやいた。

 その横顔を見ながら、ペンクロフトは彼女との約束が延び延びになっていたことに気づいた。あの航海日誌を解読して教えてあげる約束だ。今までも暇を見つけてはやっていたので、あと少しでクリアできるところまで来ていた。がんばればあと一時間くらいで終わるだろう。

 ちょうどいい。今日はそんなに忙しくないし、彼女と親しくなるチャンスかもしれない・・・・

「あの航海日誌、今日中にも解読できそうなんだ。君さえよければ技研まで来てくれたら見せられるよ」

「ほんとですか」

 シィナは喜んでいるような、悲しんでいるような、よく解らない表情をした。

「伺います。見せて下さい。今日のいつ頃行けばいいですか?」

「じゃあ、そうだな、4時くらいでどう?」

「はい。ありがとう、ヒューベルさん」

 後になって、ペンクロフトは自分が先に日誌の内容を読んでおかなかった事を後悔した。もしそうしていたなら、彼は決して、あの日誌をシィナに見せたりはしなかっただろう。


 約束の時間になって、シィナは技研のペンクロフトが使っている研究室のドアを叩いていた。

「どうぞ」

 ペンクロフトは答えた。幸い部屋には彼一人。そして今まさに最後の障壁の解読が終わったところだった。

「こんにちは」と言いながら、シィナが入ってきた。

「解読、終わりました?」

 コンピュータ机に向かっていたペンクロフトはくるりと椅子を回して、彼女の方を向いた。

「いやあ、手強かったよ。パスワードを探すのにラテン語辞書の単語抽出までやってしまった」

 シィナは彼のそばまでやってきて、コンピュータの画面を覗き込んだ。まだ、何も映っていない。

「いいかい、いくよ」

 ペンクロフトがパスワードを入力した。その言葉は「KRAKEN」だった。

「————海魔」

 シィナがつぶやいた。その途端、画面に文字の列が映った。

 二人は一緒に画面を覗き込んで読み始めた。


 アーベルは地下空間の海辺に座礁したように置かれているフェルドランスを見上げていた。装甲板は歪み、斜めに傾いている機体は疲れ切ったように傾いで、岸辺に寄り掛かっている。

「こいつか・・・・」

 彼はつぶやいた。彼の手には工具が入った手提げ鞄が握られている。彼は機体に近づくと、片手で脚部の装甲板を撫でた。

「満身創痍だな」

 彼はシィナにフェルドランスの修理を頼まれたのだった。

 よければ見てくれませんか?あなた機械のことにはやけに詳しいですよね・・・

 シィナの懇願するような表情が脳裏に甦った。

 彼は機体を見上げ、そして苦笑した。

「彼女がぼくの正体を知っていたら、修理なんて絶対に頼まないだろうな」

 彼は装甲板を軽く叩いた。硬質な音がした。

「やってみるか。この機体には非常に興味があるしな」

 彼はひらりと跳躍した。黒い外套がなびいて、次の瞬間、彼は二メートル近い高さのところにある胸部装甲の上に立っていた。

 そこで彼はひざをついて、装甲板を外し始めた。

 しばらく金属の触れあう音だけが地下の空間に響いていた。

 数時間後、アーベルは背後に人の気配を感じた。仕事の手を止めて、彼は振り向いた。

 クレイが立っていた。

「やあ、あなたがこいつのパイロットだね。確か前に会いましたね」

「そうだね」

 クレイは答えた。彼はフェルドランスを見た。外部の装甲はあらかた外され、機関部や関節部分が修理しやすいようにむき出しになっている。普通ならば専用の工具がないとやれないところもきれいに処理されていた。

 機械をいじくる技術も、その姿からは想像もできないほど高度なものをこの少年は持っているらしい。

「すごいね。たいしたものだ」

 クレイの賛辞を聞くと、少年は彼に向かって微笑んだ。好意なのか悪意なのか解らない不思議な笑みだった。

「あなたもたいしたものだ。これを見たまえ。機体がオートパイロットになってる。あのとき、意識を失う直前に君がそうしたのだ。だからAIの帰還プログラムが作動し、周囲を走査して、ここに通じる道を見つけた」

「そうか。すごい偶然でこの通路に入ったんだと思ったが」

「そんなわけないだろう」

 少年は皮肉めいた笑いを浮かべて、続けた。

「まあ、動くようにはなると思うよ。必要な部品は後でリストをつくるから適当に調達してきてくれ」

 見かけとは裏腹のぞんざいな口調だった。クレイと対等の立場で話をしている。しかしそれに全く違和感がない雰囲気をこの少年は持っていた。

「・・・・・君には礼が言いたかったんだ」

 クレイはコクピットの上にいる少年を見上げた。

「フェルドランスの修理を引き受けてくれたことと、それから、あの世界からぼくを救出してくれたことに」

 アーベルはとぼけたようにドライバーをくるくると掌の上で回転させた。

「ああ、あの子はうまくやったようだね。礼ならあの子に言いなよ」

「コートニーにぼくの居場所を教えたのは君だ。あのハンマーヘッドを渡したのもね」

「嫌な言い方だね。ぼくを非難してるのか」

 少年は眉を寄せた。

「違う。そんなつもりはないんだ」

 クレイは困惑したような表情をした。

「ただ、不思議じゃないか。人喰い穴に消えたぼくの消息を知っていたり、この前襲ってきた生物の卵を持っているなんて。・・・・・・差し支えなければ教えてもらえないかな?どうしてそんなことができたのか」

 アーベルは少し軽蔑したように息を吐いた。

「そんなこといちいち気にしてるのか。想像すれば分かることだと思うけどね。まず、ぼくはあの縦穴にはよく探検に行くんだ。研究者がいないときにね。簡単な昇降機を使って調べているうちに、あの穴の60メートル地点では不可解な現象が起こることが分かった。それから色々試して、あの異世界への行き方を見つけたのさ。見つけたのは、まあ、偶然の要素も大きかったけどね。・・・・事故があったと聞いたとき、何が起きたかはすぐに分かった。放っておこうと思ったけど、シィナがあんまり悲しむもんでね。見てるのが嫌になって、君の同居人に行き方を教えたのさ。あの子はいい子だね。人間がみんなあんなだったらいいと思うよ・・・・それから、えーと、あの生物のことだっけ?あれは、シィナの父親が研究していたある生物が作り出す外部免疫系の産物だ。そのことはもう知ってるんだよね。ぼくもほら、そこにある———」

 アーベルは海のほとりに立つ白い研究棟を指さした。

「そこにある研究資料を調べているうちに、あの生物、マンディブラスの事を知った。実験データはいくつか興味深いものが残っていて、マンディブラスが作った外部免疫生物もサンプルが残っていた。その中に冷凍保存されていたあいつの卵もあったのさ。孵化後の習性についてもデータがあったから、ぼくはあいつの性質についていろいろ知ることができた。あいつが孵化前に匂いを記憶したものに対して強い仲間意識を持つことも分かった。そこで、彼女が一人で君を捜しに行くときのパートナーにはちょうどいいと思ったんだ」

 アーベルは話し終えると、クレイの反応を窺うかのように彼の目を見つめた。

「分かってもらえたかな。ぼくの話は」

 クレイは頷いた。確かにつじつまは合っている。つじつまは会っているけれど————

「君は、何者なんだ。とても普通の少年とは思えない」

 驚愕したような顔でクレイは言った。

 アーベルは笑った。

「なら普通の少年じゃないのさ。一種の天才だとでも思っておいてくれ。人類にはたまにこんな人が出現するんだろ。モーツァルトは一けたの年齢で作曲をしたっていうじゃないか」

 天才、その一言で片づけることができるほど、この少年は単純ではないような気がした。しかし、今の時点でこの少年に何らかの裏があるようには見えない。その逆にこうしていろいろ協力までしてくれている。言葉遣いや態度は横柄だが、信頼してもいいような気がした。

 クレイはふと、自分が最近気がかりになって調べている、あの墓標について、この少年が何か知っているのではないかと思った。

「・・・・・君、シィナさんの家のそばに小さい墓標があるのは知ってるよね。あれについて詳しいこと何か知っていたら教えてくれないか?」

 アーベルの瞳の奧で何かが光った。一瞬、鋭い眼光がクレイを射た。

「あなた、気づいたのか。あれに」

 知らない方がよかったのに、そんな言葉が瞳の奧に見えた。アーベルの目は何故か悲愴感すら漂わせていた。

「何か知ってるんだね。君」

 クレイは薄ら寒いような予感を感じた。

「教えてくれ。あれは、誰なんだ?」

 アーベルは目をそらせた。それから、小声で何かつぶやいた。

「え?すまない。聞こえなかった」

「フェンネルさん、とか言ったね。君は孤児だったんじゃないか?」

「—————え?」

 いきなり妙な事を聞かれて、クレイは困惑した。それから驚いたようにアーベルを見た。

「何故知っている?」

 アーベルは無表情にクレイを見ていた。

「やはりそうか。ぼくの推理が正しいとすると、君はどうしても孤児でなければ物事の説明がつかなかったんだ。・・・・どうして孤児になったか覚えてないのか」

 聞かれたくない過去のことを問いただされて、クレイの心に暗い怒りの感情が沸き上がった。少年の全てお見通しといった態度も腹立たしかった。

「何故ぼくの過去をそんなに知っているんだ!人の過去を暴いて楽しいのか」

「そうじゃない」

 アーベルは言った。彼にしては珍しく、なだめるような口調だった。

「そんなつもりじゃないんだ」

 不思議なことにクレイの心から怒りが消えていった。アーベルの瞳に不思議な憐憫の情を見たからだろうか? アーベルは話を続けた。

「ぼくは君の過去を暴いているわけではない。君の過去について詳しく知っているわけでもない。自分の仮説を確かめたかっただけさ。君は全てを忘れているらしい。『あれ』が起きた後、君の記憶に障害を与える何かか続けて起こったらしいな。ぼくはそれが気がかりなんだ。別に君のことを心配しているわけじゃないが、君の過去は君だけの問題ではないんだ。もうひとり、君の過去と深いつながりのある人がいるんだ。君とその人とこの島はいわば運命の糸で繋がっているんだよ。複雑で忌まわしく悲しい糸でね。その人が少し心配なだけさ」

「何を言ってる・・・・」

 アーベルの意味不明の言葉にクレイは困惑していた。

「・・・・・さっきは怒鳴ってすまなかった。教えてほしい。君が知ってることを。知りたいんだ。ぼくの過去に一体何があったか」

 アーベルはしばらく何かを考えていた。何かを迷っている風だったが、やがて口を開いた。

「この島の果て、6時の方向の端に、ハルピュイアという名の大きな湖がある。知ってるかい?」

 クレイは頷いた。

「その湖の畔、森と接するところに、石でできた井戸のようなものがある。それが君の過去の謎を解く鍵だ。自分でそこに行ってみたまえ。そこに行けば、なくした過去についてなにがしかの情報が得られると思う。その後でぼくの話を聞いた方がいいと思うね」

 そして、アーベルは機体の修理作業に戻った。


 西暦2068年、7月25日————

 シィナとペンクロフトは航海日誌を読み進めていた。この日誌はあの船の公式記録ではなくて、どうも船長の個人的な日記のような感じだった。船の正確な位置についてはあまり詳しく書かれておらず、その代わりに乗組員の様子や調査の状況などが書かれていた。調査、すなわちこの船は外洋船舶の中では最も小型の調査船だった。乗組員は船長を含めて六名。記録を見ると主に水質や海流の調査をしていたらしい。クレスポの港を出たのが2月1日。ほぼ一年の予定でインフェリアの調査をする予定だったようだ。日誌はほぼ毎日続けて書かれており、出港以来、何ら変わったことはないようだった。少なくとも今までのところは。

 しかし、7月26日になって、突然その異変は起こった。

 7月26日

 朝8時頃、乗組員の声が聞こえた。いつになく興奮した声であった。私が船長室から出ていくと、乗組員の一人が何やら海を指さし、叫んでいた。彼の話によれば長い首が海の上に出ているのを見たのだと言う。もとよりそのような話は誰も信用せず、夜勤明けの疲労で幻覚でも見たのだということになった。しかし、それから二時間後、今度は別の者が、首が見えると叫んだ。私もこの目で見た。薄霧の漂う海面から長い首が、10メートルはあろうかという首が幽鬼のように伸び出ていた。これは私の見間違いではない。多くの者が同時にそれを見たのだ。初めはなにか巨大な海生動物ではないかと考えた。しかし、インフェリアにはもともと生物はいない。地球の生物が持ち込まれているが、地球にもあんなものは存在しない。人工進化計画で創られた生物にも、あんな巨大な物はいないはずである。私は困惑した。あれは本当に生き物なのだろうか。巨大な海藻の残骸という可能性もある。私はあれに接近するよう命じた。船は接近した。100メートル位にまで近づいたとき、それは海中に没した。やはり生物だったらしい。見間違いではなかったのだ。あれは一体何なのか。乗組員もあれこれ推論していたが、結論はでなかった。逃げられたことが悔やまれる。奴はもう二度と我々の前には現れまい。

 7月27日

 あの生物が再び現れた。驚くべき事に船の右舷一海里のところにまたあの首が見えたのだ。やはり霧の中から、長い首を突き出している。何をするでもなく漂っているようだが、こちらはずっと北西に進んでいることから考えると、あの生物は我々の船に興味を抱いて追尾していると考えられる。乗組員の一人が写真を撮ることを提案した。しかし、私は未確認生物を写したこれらの写真の多くは資料としては正当に扱ってもらえないことを知っていた。私は奴を捕獲することを提案した。現物が得られれば、謎は解けるに違いない。幸いにもこの船には銃器類もそろっている。私はゆっくり奴に近づき、大口径のライフルでしとめるよう命令した。午前10時12分のことだ。それから約一時間かけて、船はゆっくりそいつに接近した。次第にそいつの姿が見えてきた。長い首の上に巨大な頭部がのった生物だった。頭部ははっきりとは見えないが、爬虫類のような形だった。恐竜の図鑑に載っているクビナガ竜を私は想像した。しかしどう考えてもそのような生物がこんな所にいるわけはない。船は接近した。今回は巧くいった。我々は奴に50メートルの距離まで近づき、乗組員がライフルを撃った。弾丸は確かに命中した。しかし、そいつは身の毛もよだつ咆哮をあげ、そのまま海中に消えた。それきり浮かんでこない。まことに遺憾ではあるがまたしても逃げられたようだ。

 7月28日

 不可解としか言い様のない事態が生じた。これを書いている今も、私自身発狂しつつあるのではないか不安を覚える。霧は未だ晴れない。ますます深くなるようだ。異常である。このような霧は見たことがない。早朝、私は乗組員の絶叫で目を覚ました。あの生物が出現したのかと思ったが、後組員は幽霊を見たと言って叫んでいたのだ。海の上に立つ幽霊を見たと。数時間後、彼は極度の精神疲労のために死亡した。全員、言葉もなく死体のそばに立ち尽くした。霧が深い。この霧は我々を不安にする。正しい航路を進んでいるのかすら不安になる。午後1時02分。今度は別の乗組員が、うわごとのように何かを呟くのを私は聞いた。その言葉をここに記しておく。船長、あれが見えますか、海の上。歩いてくる。こっちへやってくる。大勢の人がこっちへやってくる。船長、あなたには見えないのですか、あれが、あれが、ほら、ほら、幽霊が、ここへやってくる。そう言った彼の顔。私は二度と忘れまい。あの恐怖の顔を。しかし私には何も見えなかった。そう、その時には。そして夜になった。午後9時13分。乗組員が叫び、船尾の方を指さした。そこに私は見た。人影があった。輪郭はぼやけ、夜の闇と区別するのが難しかったが、そこには誰かがいたのだ。海から現れた何かが、確かにそこに立っていたのだ。乗組員が叫び、恐怖のあまり彼は発狂した。彼は海に飛び込み、それきり浮かんでこなかった。夜の闇の中を霧が走ってゆく。一体何が起こっているのだろう。世界は中世の闇の中へ逆行してしまったのか。しかし、これらの出来事はあの生物に遭遇してから起こっていることは明らかだ。あれは何なのだろう。奴は今も、我々の下をゆっくり泳いでいるのか。夜の闇が恐ろしい。私は船長室で震えながら、これを書いている。薄暗い部屋の中にさっきから変な音が響いているのだ。何かが外から壁を叩いている。外に誰かいる。壁を叩いている。

 7月29日

 もうすぐ日付が変わる。しかし私はそれまで生きているだろうか。私以外の乗組員は全て死んだ。幽霊に殺されたのだ。最後の一人は狂った頭で、我々をこの恐怖に導いた怪物、あの長い首の海魔の姿を必死になって通路の壁に書き続けていた。やがて彼も海の底へ引きずり込まれていった。残るは私だけだ。ドアを叩く音が聞こえる。亡霊たちがやって来たのだ。私は拳銃を握っている。最後の武器が奴等に通用する事を祈るのみだ。


 航海日誌はそこで終わっていた。読み終えた後、シィナとペンクロフトは言葉もなく、薄暗くなった部屋でじっとコンピュータの画面を見つめていた。モニターの青い光が二人の顔を薄闇の中に浮き上がらせている。シィナの顔は青白く、唇は震えていた。ペンクロフトも掌に冷たい汗をかいていた。

「たちの悪い怪談だ・・・・・」

 ようやく彼はそう呟いた。声がかすれていた。

「くだらない戯言だよ」

 しかし彼は知っていた。7月30日。クレイが見つけたこの船の中には既に乗員の姿はなく、船長の部屋には弾倉が空になった拳銃が落ちていたことを。

 状況はこの手記とあっている。しかし、よりによって———

 幽霊に襲われただと・・・・・

 その時、彼の横でうめき声が聞こえた。彼はシィナを見た。彼女の顔を見て、この手記を見せるんじゃなかったと思った。彼女の顔は恐怖と怯えに彩られていた。彼女がこんな顔をするのを彼は始めてみた。ハンマーヘッドに襲われたときだって彼女はこんな顔はしなかった。

「シィナさん・・・・・怖がることはないよ。多分、何か訳があるんだろう。誰かの悪戯かもしれないし。ほら、廃船でも流してそのなかにこのでっち上げ記録を乗せてさ・・・・・」

「す、すみません。失礼します」

 シィナはペンクロフトの言葉も聞こえなかったように、慌てて立ち上がった。しかし、脚が震えているらしく、いきなり彼女はよろめいた。ペンクロフトは「危ない」と叫んで彼女を抱き止めた。彼の腕の中で、シィナはペンクロフトの服を握った。華奢な彼女にしては驚くほど強い力だった。

「来る、来るわ、みんな死ぬ、死んでしまう」

 瞳を開いて、彼女は唇を震わせながらつぶやいていた。

「シィナさん、しっかり」

 ペンクロフトは彼女を再び椅子に座らせた。彼女は少しの間、胸を抱いて震えていた。しかし、やがて深呼吸をして目を閉じた。しばらくして再び開いたとき、既に怯えの色はなく、その瞳は俯き加減にじっと何かを見据えていた。顔色は悪いけれどかなり落ちついたように見えた。ショックから自力で立ち直ったらしい。ガラス細工のように繊細な外見から想像されるよりも、彼女は強い精神を持っているのかもしれない。もしかしたら、これまでの一連の奇怪な出来事が彼女の心を変えたのかもしれない。

「ごめんなさい。お見苦しいところを・・・・・」

 彼女はつぶやいた。ペンクロフトは首を振った。

「気にしなくていいよ、そんなこと」

 シィナはさっきまでの動揺が嘘のように、毅然とした眼差しを彼に向けた。

「大変なことになります。みんなに知らせないと」

「きみはさっきの話を信じてるのか?」

「あなたは信じないんですか、今までにこの島で起きた現象を見ても」

 シィナに逆に問いつめられて、ペンクロフトは返答に窮した。

「・・・・・しかし、幽霊だなんて書いてるんだよ」

「気づきませんか、霧ですよ、霧」

「霧がどうかしたか?」

 シィナは焦ったようにつぶやいた。

「とにかく、このことを知らせなければ。街の人々に」

 立ち上がりかけた彼女を再びペンクロフトが止めた。

「ちょっと待て、話したって誰も信じないよ。こんな話」

「でも、何とかして分かってもらわなければ。お願い、協力して下さい。ヒューベルさん」

 シィナはペンクロフトの手を握って強引に立ち上がらせた。それから、行きましょう、と言って彼をドアの所まで引っ張っていった。その時、彼はシィナの手がほんの微かに震えているのに気づいた。彼女についていきながら、この人は恐怖を必死で押し殺しているのだ。とペンクロフトは思った。

 そんなに自分で何もかも背負い込まず、おれを頼ってくれればいいのに。

 でも多分、おれには心を開いていないんだろう

 彼はそう思った。一つ溜息をついて、彼はシィナについて行った。技研の飾り気のない廊下を、少しいびつな二人組は外へと駆けていった。


 その頃、クレイは家の一階にある収納庫で捜し物をしていた。目的の物がなかなか見つからず、棚の奥をガタガタとかきまわしていると、二階にあるコートニーの部屋の電話が鳴った。

 これまでコートニー宛に電話がかかってきたことは一度もなかったので、彼が訝しそうにしていると、すぐに二階から内階段をバタバタと走り下りてくる足音がした。

「クレイ!!」

 ばん、とドアが開き、嬉し泣きをしているコートニーが居間に駆け込んできた。

「おとうさんが!」

 そして彼女は涙で一杯の顔で、言った

「面会!できるように、なった!」


 それから間もなく、クレイとコートニーは、キャンベル教授のいる病院に行くため街へと向かっていた。コートニーは仕立てのいい民族衣装風の青いワンピースを着ている。下ろし立ての服を着ているのは父親に余計な心配を掛けさせないようにという配慮だろう。クレイも彼女に倣って手持ちの服の中でなるべくいいものを着ていた。コートニーは先程まで心此処にあらずと言った感じだったが、海沿いの崖の上にある道までくると歩調を緩めた。

 二人の右手に海が見えた。

「海の色、かわったね」コートニーが沖の方を見ながら言った。

「ああ、島がかなり高緯度に来たからね」

「なんだか暗い色だね」

「ああ、そろそろ夏も終わりだな」

 そうして歩いて行く道すがら、クレイはコートニーに例の墓標に関する話をせがまれた。彼が近頃落ち着きがないことを、彼女も気にしていたらしい。

 クレイは促されるまま、今まで誰にも話したことがなかった物語を始めた。

「————その日は雪が降っていたんだ。

 ぼくがまだ七つか八つの時だったと思う。昔のことだから記憶ははっきりしない。ぼくはある小さな街のはずれの道路の上に倒れていた。冷たい石の路面が頬に当たっていた。それがぼくの一番古い記憶だ。ぼくは起きあがった。道路はぼくが倒れていたところだけ雪が積もってなくて、ぼくの輪郭が黒く残っていた。周りは白い世界。空から止めどなく雪が落ちてきた。古びた街灯の光で白い粒がきらきら光っていた。白い白い、空から止めどなく落ちてくる白い輝き。降っているものが雪だと言うことは分かったけど、見るのは初めてだった。いや、初めてのはずだった。ぼくは気づいた。かつて雪を見たかどうかがわからない。そしてぼくは周りを見た。古めかしい街並みが見えた。飾り看板に、見たことのない文字が書かれていた。そして、建ち並んでいる建物も、見たことがないものばかりだった。何故こんな所に倒れているのか、ぼくにはさっぱり分からなかった。過去の記憶が何かで切り落としたようにすっぱりと欠落していたんだ。自分の名前は?ぼくは慌てた。もしかして自分の名前さえ分からないのでは?恐ろしくなってぼくは自分自身に呼びかけた。おまえは誰だ?幸い、その答えは返ってきた。ぼくの名前は、クレイ、クレイ・ライトだと」

「・・・・フェンネルじゃないの?」

「それは養子にもらわれていった先の名前さ。ぼくの本名、ぼくが覚えている名前はクレイ・ライトだったんだ。・・・・・そう。シィナさんの家のそばにあったあの墓標の名前と同じなんだよ。あの雪の日、過去の記憶はなかったけど、名前や生年月日のような自分自身に深くかかわる記憶は残っていた。あの墓標に書かれていた年も、ぼくの生まれた年と一致している」

「どういうこと?」コートニーは首を傾げた。

「さあ、わからない。あの墓標の記述を信じるなら、クレイ・ライトなる人物がこの島で生まれた年、同じクレイ・ライトという名の別の人物、つまりこのぼく、が何処かで生まれ、そしてクレイ・ライト氏がこの島で死亡した年に、このぼくがスイスの片田舎で過去の記憶をなくして倒れていたことになる。一体どういうことなのか?これは偶然か、それとも二つの事柄に何らかの関係があるのか? それが知りたくて博物館の資料を調べさせてもらってたんだけどね。今のところ収穫なしだ」

 コートニーは表情を曇らせてクレイを見上げた。

「どうしてあなたの話はそんなのばっかりなの?もっと普通の話はないの・・・・」

 そして彼女は少し躊躇しながら続けた。

「なにか怖い力があなたの過去に作用しているみたい・・・・」

 そして不安そうに彼を見る。

「もしかしたら今も・・・・」

「何をバカなことを」

 クレイははぐらかすように言った。

「ごめん、ようやくお父さんが回復したのに、へんな話をしてしまった。気にしなくていいよ。君は今までの薄闇のような世界から、明るい光の下に帰るんだ。今はぼくのことなんか気にせず、喜んだらいい。その方がぼくも嬉しい」

 風が二人の間を過ぎていった。淋しさをはらんだ冷たい風。いつの間にかノーチラス島は亜寒帯海域にさしかかっていた。夏は終わろうとしていた。

「クレイ、どこかに行っちゃうの?」

「え?」

 クレイはコートニーを見た。風に髪をなびかせて、彼女の顔は心配そうに彼を見上げていた。

「怖いよ。私。あなたがいなくなるような気がして」

「何ばかな事言ってんだよ、コートニー。ぼくはずっとここにいるさ。他に行く所なんてないじゃないか」

 クレイは微笑みかけた。強い風が吹いてきて、コートニーの顔を黒髪が覆った。


 その日の夜、クレイはノーチラス島の港の近くを歩いていた。

 夕方頃にコートニーと一緒にキャンベル教授のお見舞いに行き、コートニーはその後も夜まで教授に付き添うことになった。クレイの方は街でいくつか必要物資の買い出しをこなし、今はコートニーとの待ち合わせ場所へと歩いている。コートニーとは20時に街の入口のところで待ち合わせることになっていた。

 クレイは港の方に歩き、街の入口にやってきた。そこにはノーチラス島を立体的に再現した大きなモニュメントがある。

 その立体彫刻にはノーチラス島の地名がいくつか彫り込まれており、天辺にはこの島の別称である “REPTILICA”すなわち「爬虫類島」の文字が彫られていた。その文字はハンマーヘッドかチューリップの攻撃により一部に穴が空いていた。ちょうどTとIの文字が読めなくなっている。

 クレイがそれをぼんやり見ていると、小さな足音が聞こえてきた。石畳の道をコートニーが歩いてくる。少し寒くなってきたせいか、彼女は少年からもらったマントを羽織っていた。夜の冷たい風に、黒髪とマントがなびいている。

 クレイはさっき、病室で彼を迎えてくれたキャンベル教授を思い出した。教授はまだ絶対安静の状態だったが、とても感謝してくれた。

 クレイは安堵した。退院できるのはまだまだずっと先だったが、コートニーは帰るべき場所を取り戻したのだ。

 ぜったいに送り届ける、とクレイは、歩いてくる少女の小さな姿を見ながら、思った。いずれ近いうちに敵は襲ってくるだろう。しかしこの少女の幸福を阻むことは絶対に許さない。自分は必ず敵を退け、彼女を元いた世界に送り出す。

 そしたら、いよいよお別れだな

 コートニーがクレイに気づいて微笑み、手を振った。


「何をするつもり?」

 クレイが大きなシャベルを持っているのを見て、コートニーが尋ねた。

 すでに夜のとばりが訪れ、周囲は暗くなっている。冷たい風も吹いていた。クレイはシャベルをコートニーに向けると、自信たっぷりに言った。

「決まっているだろう。穴を掘るのさ」

「何でそんなことを?」

 コートニーは戸惑っているようだった。

「たまにはちょっと悪いことをしようかと思って」

「悪いこと?落とし穴でも掘って、他人を落とすの?」

 クレイは吹き出した。

「そいつはいいね、いや悪いね。考えていたこととは違うけど、せっかくだから、それを今から実行しようか?」

「今から!」

「そう今から。コートニー、そのマントは暗闇に紛れるにはちょうどいいね」

 夜の闇の中で二人は目を合わせた。そしてクレイは不敵に笑い、コートニーは困ったような顔で苦笑いした。

 二人は歩き出した。クレイは腕時計を見た。20時12分。街の目抜き通りに並ぶ店舗の明かりはすでに消えている。

 ちょうどいい、とクレイは思ってにやりと笑った。

 二人は夜の街を歩いた。夜の散歩は気持ちいい。一時、悩みを忘れることができる。星ぼしも、石畳の道も、常夜灯の明かりも、吹きすぎていく夜風すらとても面白い。

 クレイの後をついてくるコートニーも、夜の雰囲気を気に入っているようだ。やがて、二人は道が分岐しているところに来た。海岸が近く、夜の中をヤシの葉のざわめきが聞こえる。真っ直ぐ行くと海辺に出る。振り返れば街の中心部が見え、時計塔が夜の闇にそびえていた。常夜灯の明かりに、時計塔はぼーっと浮き上がって見える。この辺は足元の感触が他と違っていた。このあいだのチューリップ襲撃でこの辺の道路は壊されて、補修のために敷石が剥がされ、土が露出していたのだ。

「コートニー、ここがいい。とりあえずここに掘ろう」

 クレイはかついでいたシャベルを下ろした。

「掘ってる間に人が来ないかな?」

 コートニーは心配そうだ。

「分速30センチの速度で掘っていけば大丈夫さ」

「その数値はどうやって出したの?」

 クレイはシャベルの取っ手に手を乗せて、大学教授のような難しい表情をした。

「コートニー、いいことを教えてあげよう。世の中には、物事を深く考えなければならないときと、そうでないときがある。今回は後者なんだ。わかったね」

「・・・・・そうなの?」

「そうさ。ではこの話はこれくらいにして、ぼくは穴を掘るから、コートニー少尉はこちらに接近してくる物体を警戒していてくれたまえ」

「はい。先生」

 コートニーはくるりと回れ右して街の方を見つめた。すぐに彼女の背後でざくざくという音が聞こえてきた。クレイが穴を掘り始めたのだ。

 コートニーは周りを見た。近くにある黒い茂みや、まばらに生えるヤシの木が星明かりに映えている。フクロウの声が遠く聞こえた。

 わたし、こんな時間にこんな所で何をしているんだろう?

 彼女はふとそう思った。

 30分後———

 コートニーは街の方からこちらに歩いてくるいくつかの人影を目撃した。

「クレイ、来た!」

 興奮したように、しかし小声で彼女は叫んだ。

「なに!まさか本当に人が来るとは!」

 クレイは地面に穿たれた直径1.5メートル程の穴から這い出してきて、「まあいいか」と言いながら、鞄に入れていた黒いシートを素早くその上に被せた。

「シートのはしっこに土を盛り上げるんだ。風で飛ばないように」

 二人はせっせと土をのせた。

 二人の背後から人が近づいてきた。微かに話し声も聞こえる。

 シートの縁に土を乗せ終わると、クレイは手元にあった土の塊をシートの上に振りかけた。それから、その上に向けてコインを弾いた。これが餌。完成だ。

「よし、コートニー隠れろ」

 二人は近くにあった茂みの影に身を潜めた。

 話し声が近づいてきた。どうも数人いるようだ。男女がそれぞれ何人かいるらしい。だんだん声がはっきり聞こえてきた。

「・・・・・まあ確かに。あんな話、信じろという方が無茶というもんだが」

 これは男性の声。そばにいる若い女性は「でも」とつぶやいた。

 すると後ろを歩いているらしい男性が申し訳なさそうに答えた。

「我々としても、何の証拠もない状況で、動くわけにはいかないのです」

「今までのこともあるし、信じてもらえると思ったんですが・・・・」

 残念そうに女性が答える。

「ですから、局長や主任だって、あの記録の全部を否定した訳ではありませんから」

 今度は別の女性が答えた。

「そうですが、肝心の所は・・・・・」

 ———あ

 茂みの影で、クレイは唖然としていた。彼は横にいるコートニーを見た。彼女もびっくりしたように目を一杯に開いて彼を見ている。

 あの声。よりによって、やってくるのはペンクロフトとシィナさんではないか。

 それから、残りの声も聞いたことがある。保安局の観測室の主任とオペレーターだ。

 うわ、やばい。やばいよ

 茂みの影でクレイは焦った。口をぱくぱくしながら、彼は歩いてくる四人を見ていた。よく知ってる人々が、真剣な顔をして極めて真面目な話をしながらやってくる。せめて冗談でも言い合っていればまだいいのだろうが、やけに切迫した話をしているようだ。状況からして、ペンクロフトとシィナが保安局に何かを訴え、しかしそれはうまくいかず、こんな遅い時間まで議論した結果、担当者たちと共に帰宅している途中らしい。

 ペンクロフトならまだしも、よりによって保安局の面々とシィナさんとは!

 コートニーがクレイの服を引っ張った。

 ど・う・し・よ・う

 耳が聞こえなかった時のように、口を大きく開けて彼女は発音するまねをした。クレイは歩いてくる四人を見た。もうだめだ。奴等は近づきすぎた。もう遅い。今更どうしようもない。彼らが運良く穴の横を通り過ぎてくれることを祈るのみだ。

 四人の会話が、はっきりと聞き取れる。もう10メートルも離れていない。

「———君はやっぱりあの霧が怪しいと思っているのか?」

「ええ、確証はないですが」

「君がずっと秘密にしていたのは、あのクビナガ生物のことだったんだな」

「ええ、ごめんなさい。もっと早くに話していれば・・・・」

「とにかく、その時の記録、ハリエットの取ったデータの再検討が必要です。話はそれからです」

「そうですよ。証拠さえ揃えば悪いようにはしませんから」

 四人は穴のそばまでやってきた。ペンクロフトとシィナが並んで歩き、その後ろからケインとエリスが歩いてくる。このまま、通り過ぎろ(通り過ぎて)と茂みの二人は思った。

「お、カネが落ちてるぞ」

 ペンクロフトが幸せそうに言った。

「シィナさん、ついてるよ、おれ」

「よかったですね」

 二人は穴のそばに近づいてきた。

「いやあ、こんな事が明日もあるといいな」

「幸せそうですね、ヒューベルさんきゃああ!!」

「わあ!!」

 二人は同時に穴にはまった。ずぼっという音がして二人の姿は見えなくなった。クレイが掘った穴は深かったのだ。

「は、博士!大丈夫か!うわ!!!」

「主任、一体何が!きゃあああ!!!」

 しかも、穴は一つではなかったのだ。

「クレイ、いつの間に!」

 コートニーが思わず叫ぶ。

「いいんだ。気にするな、それより」

 クレイはコートニーの手を握った。

「今のうちだ、逃げるぞ」

「はい、先生」

 二人の悪人は全速力で逃げた。



 19-ふたり


 翌日、朝日が海面を銀色に輝かせる頃、クレイは外階段を上がって、二階のコートニーの部屋のドアをノックした。

「コートニー、用意はいいか。そろそろ出発だ」

「うん、すぐ行く」

 部屋の中から明るい声が聞こえた。しばらくしてドアが開いた。よそ行きの服装で着飾った彼女が立っていた。手には街で買った麦わら帽子を持っている。

「どうかな?」

「よく似合ってるよ」

「そう、よかった。昨日面白かったね」

 コートニーはおかしくてたまらないといった表情をした。

 昨夜、ペンクロフトたちを穴に落とした後、二人は夜の街を徘徊しながら多くの穴を掘り、時計塔に忍び込んで、塔のてっぺんにまで登り、屋根の上に座って、ひとしきり街や夜空を眺めた。

「きれいだね」

 コートニーのつぶやきを、クレイは少し淋しそうに聞いていた。

 背後を振り返ると黒々とした森。視線を走らせていくと島の海岸線が見える。黒い鉛のような海面よりも黒く、ノーチラス島が横たわっている。不思議な島だ。その懐には深い謎を秘め、今その謎はクレイの身をも黒く包んでいた。

 明日、あの少年に教えられたところへ行ってみよう、と彼は思った。

 彼の脳裏に、アーベルの言葉が甦った。

 ———この島の果て、6時の方向の端に、ハルピュイアという名の大きな湖がある。その湖の畔、森と接するところに、石でできた井戸のようなものがあるはずだ。それが君の過去の謎を解く鍵だ。そこに行けば、なくした過去についてなにがしかの情報が得られると思うよ

 ぼくの過去か、クレイの思いは複雑だった。どうもぼくの過去はこの島に深い関わりがあるらしい。ぼくが昔からこの島に興味を持っていたのは、もしかしたらそのせいかもしれない。

「どうしたの、ぼんやりして」

 コートニーの言葉に、彼は我に返った。朝日を浴びて彼女が立っている。

「準備できたよ。お昼の材料も持ったし」

「ああ、ごめん。行こうか」

 クレイは階段を下りた。

「どうやっていくの」

「あれさ」 

 ドアを出たところで、クレイは草原の向こうの湖岸を指さした。いつの間にか、白い軽量飛行艇が浮かんでいた。

「さっき街で借りてきた。この島に来てすぐの頃に、超軽量飛行機の操縦を教えてくれって人がいてね。その時の縁で貸してもらった。ハルピュイア湖まで釣りに行くって言ったら親切にも釣竿までつけてくれたよ。あ、それからペンクロフトを見かけたが、憮然としてたな」

 クレイは悪戯っぽく笑った。

 コートニーは申し訳なさそうな顔をした。

「ヒューベルはかせに悪いことしちゃった」

 二人は飛行艇に向かって歩き出した。その時、家の中で何かががさがさと動いた。

「モゲラだ。行きたがってる」

 コートニーがつぶやいた。モゲラはまだこの家にいる。地下空間に入れていいという許可はシィナから貰っていたが、チューリップの襲撃のせいでその後のことは有耶無耶になっていた。

「連れてったらだめかな?」

 コートニーは一緒に行きたそうだった。クレイは少し考え込んだ。

「うーん。低空飛行していけば対空レーダーには引っかからないし、大丈夫かな。あっちでは人に見られる心配はないはずだし・・・・・まあいいか」

「やったあ」

 そして数分後、クレイとコートニーを乗せた飛行艇は飛び立った。吹きさらしのコクピットで薄手の外套を羽織ったコートニーが歓声をあげた。機体の横を、モゲラが飛んでいた。ときどきコートニーに身を寄せるように接近してくる。羽根に朝日が反射して虹色に輝いていた。その羽のきらめきも、飛びすぎていく景色も美しい。島の上を低空飛行しているので、草木があっというまに後ろに飛んでいく。フェルドランスのコクピットで感じるのとは異なるスピード感にクレイの心が躍っていた。彼の口元に笑みが浮かんだ。

「なに笑ってるの?」

 エンジン音にかき消されそうになりながら、コートニーが聞いた。

「いや、ここに来る前には予想もしなかったよ。巨大昆虫と一緒に空を飛ぶなんてさ」

 やがて、眼前に巨大な湖が見えてきた。ハルピュイア湖。ノーチラス島最大の湖だ。その形が怪鳥が翼を広げた姿に似ていることからこの名前が付いた。ノーチラス島を船にたとえるなら艫の部分。まさに島の果てだ。

 左右にゆらゆら揺れながら森を越え、湖の上まで来ると、クレイは高度を下げた。機体は白い水しぶきをあげて着水し、水上を滑っていく。岸に最も近づいたところで、クレイは機体から飛び降りて、飛行艇から出ているロープを薄紅色の花をつけた木に結びつけた。その木にモゲラがセミのようにとまる。木が揺れて花びらが散る中を、麦わら帽子を被ったコートニーがぴょんと跳んで岸に降りた。彼女は周りを見た。湖の岸に沿って目を走らせる。彼女の前には色とりどりの花が咲く草原が広がり、その先にこんもりと、深そうな森が見えた。

「なかなか、いいところだね」とコートニーが言った。


 クレイは湖畔で焚き火の準備をしながら、周囲を注意深く観察していた。

 彼はなんとなく、草原の奥にある薄暗い森に見覚えがあるような気がした。

 多分、あの森の奥に何かがある。自身の秘密に関わる何かが。

 彼はふと、湖の畔でモゲラと戯れているコートニーを見た。モゲラを色とりどりの花輪で飾りながら少女が笑っている。もし、ここで何もしなかったなら、彼は漠然と思った。たぶん自分は今と同じところにいられる。だがもし、これからあの森に入ってしまったら、自分はきっと今のままではいられない。たぶん、秘密を暴く代償に何かを失ってしまうだろう。

 でも、自分はすでに多くのものを失くしてきたではないか。幼い頃の記憶も、親しかった友人も、研究者への道も。それに、コートニーだってもうすぐいなくなる。階段をパタパタと降りてくる小さな足音はもう聞こえなくなるのだ。

 今、自分に必要なのは、真実だ。それを掴むことで自分は前に進むことができる。

 クレイの脳裏に博物館の少女の面影が浮かんだ。愁いを帯びた瞳が彼を見つめている。

 湖畔でコートニーが彼の名を呼んだ。クレイは焚き火のための小枝をぽきっと折って、それを小さく振って見せた。


 昼食を食べた後、クレイは草原と森の境界へ向けて歩き出した。

「クレイ、何処行くの?」

「ちょっと森まで。きみは好きなように遊んでればいいよ。すぐにここに戻ってくるから」

 鞄を肩に掛けて、クレイは足早に歩き去っていった。

「どうしたんだろ」

 コートニーはつぶやいた。

 クレイは森に向かって歩いた。歩いていくうちにほろほろと記憶が浮き上がってくるような気がした。そうだ、確かにここには見覚えがある。ぼくは確かにここを知っている。いつのことだったか、それはぼくが知っている一番古い記憶よりも昔に違いない。ぼくはこの島に住んでいたんだ。そして、多分8歳くらいの時、確かにぼくはここを歩いていた。あの森へむかって・・・・・・

 クレイは草原を横切り、森の畔にやってきた。左手には湖が輝き、眼前には古い木が立ち並ぶ森が立ちはだかっている。確かに知っている景色だ。彼は森に入った。木々の間を抜け、下草をかき分けて彼は進んだ。その時彼の脳裏に別の記憶が甦った。

 ここは、あの島の森にそっくりだ————

 そう。この森は彼が15歳の時、一人で宝探しにやってきたあの奇怪な島と同じ雰囲気を漂わせていた。

 この森を抜けたら、あれが———

 彼は足を速めた。半ば走るようにして、彼は森を進んだ。見れば見るほど、ここはあの島にそっくりだった。もしあの島なら、この先に集落があるはずだった。あの不気味な集落が。息を切らしながら彼は進んだ。古い記憶、8歳のときの記憶と、15歳のときの記憶が彼の頭の中で混ざりあった。どちらもほんとでどちらも嘘だ、彼は混乱した。

 彼は森を抜けた。15歳の記憶では、そこには集落があるはずだった。しかし、彼の前にそんなものはなかった。

 あれはやはり幻だったのか?

 しかし、彼は見た。15歳の時見たのとまったく同じ石井戸がそこに存在していた。彼の頭は極限まで混乱していた。これは一体どういうことだ。ぼくは15歳の時にノーチラス島に来たはずはない。でもここは知っている。あの時来たのはここだ。そして、ぼくの失われていた記憶の中にも、確かにこの景色は存在する。一体どういう事なんだ————

 螺旋状にからまるふたつの記憶に困惑したまま、クレイは井戸に近づいていった。森の中に開けた小さな空き地の真ん中にその石井戸があった。円柱形の石が地面に立てられているだけの粗末なものだった。でもこのお粗末な物体が、彼の過去の、そしてもしかしたらこの島の謎を解く鍵かもしれなかった。彼は井戸のそばに立った。そして恐る恐るその中を覗き込んだ。その時、鋭い鳥の声がした。びくっとして彼は井戸から離れた。そして息を吐いた。神経が高ぶっている。落ちつくんだ、と彼は自分に言い聞かせた。再び近寄って、彼は覗き込んだ。

 漆黒の闇が見えた。それは、前に見た闇、還らずの森の縦穴と同じ質の闇だった。あそこで感じた変な雰囲気はここのと同じものだったんだな、と彼は思った。あそこもここも、同じ雰囲気を持っている。この異質な雰囲気、人工物のように見えるのにそうでないもの、人以外の知的生命によってつくられた物体の持つ雰囲気をこいつは漂わせているんだ。

 吸い込まれそうに深い闇を彼は見つめた。それから、足元にあった小石を拾って、子供の頃そうしたように、井戸の中へ落とした。彼は耳を澄ませた。昔と同じく、いつまで待っても何の音も聞こえなかった。

「やっぱりな」

 彼は中を覗き込んだ。それから、鞄からロープを取り出し、近くにあった木の幹に一方を結びつけた。彼はロープを穴の中へ投げ入れ、それにつかまると、慎重に井戸の中へ入っていった。

 漆黒の闇が彼を包んだ。下へ下へと降りていきながら、彼ははっきりと過去の出来事を思い出した。周りの特殊な環境が、彼の脳に昔の記憶を甦らせるように働いたらしい。今、15歳のときの記憶は薄れ、8歳の時の記憶が彼の脳を充たしていた。彼の前に過去の記憶の断片がきらきらと瞬いていた。

 あの時、ぼくはこの穴を覗き込み、こんな風に下へと降りていった————

 彼の周りは闇と、そして不思議な感覚が包んでいた。下に行くにつれその感覚は強くなり、そしてついに、彼は投げ込んだ石の音が聞こえなかった理由を理解した。

 体がやけに軽い。足元が頼りない。そう、まるで水中にいるかのように。

 重力が小さくなってきたのだ。

 8歳のときも、26歳の今も、クレイは愕然とした。更に下に降りたとき、重さの感覚が消失した。彼の体はふわふわと闇の中を漂っていた。ロープから片手を外しても、体は全く落下しない。まるで宇宙空間にいるかのようだ。ここは明らかに重力制御がなされている。何かのテクノロジーによって。

 人類にこんなことができるわけはない。これは明らかに異種の高度知性体の技術だ。そしてぼくは今、その真っ直中にいるんだ。

 クレイの体に鳥肌が立った。その時、彼は思いだした。昔、ここに入ったとき、彼はここで何かを見、何かを聞いたのだ。

 8歳のとき、クレイはここで恐る恐る周りを見ていた。そのとき、少年の前に、不思議な光がぼうっと浮かび上がった。青白い光、暗闇の中でそれはまるで鬼火のように見えた。それと同時に、何かが絶叫するような音が聞こえた。恐怖が駆け抜けた。少年はここに来たことを後悔した。

 次の瞬間、少年の周りで、そして彼自身の中で、何かが起こった。彼は一瞬、体が引き裂かれるような感覚を感じた。彼は悲鳴をあげた。しかし、体は何ともなっていない。痛みもない。さっき体を駆け抜けた感覚は何だったのかと、彼は訝しがった。彼はふと横を見た。鬼火はまだそこにあって、暗闇を青白く照らしていた。その中に、彼の真横に、彼は人がいるのに気づいた。青白い顔をした、それは彼自身だった。まるで鏡のようにもうひとり、クレイの横にクレイがいた。

 恐怖に彼の目が見開かれ、しかし次の瞬間、彼の前から暗闇が消えて、雪の降る街が映った。彼は路面にたたきつけられて、そして意識を失った。

「現在のクレイ」は全てを知った。過去にここで起こったことの全てを。暗闇の中を漂いながら、彼は呆然としていた。

 そうだったのか————

 ここで、ぼくの、複製が、創られ、たんだ。

 クレイは恐ろしくなった。絶叫しようとした。しかし、恐怖は閾値を越えて、彼はもはや叫ぶこともできなかった。一刻も早くここを出るんだ。この忌まわしい場所を。もう一度あれが起こったら・・・・・しかし、今回は何も起きなかった。異種文明の遺跡はその機能を停止しているように見えた。

 クレイは大急ぎでロープをたぐった。上を見ると外界につながる丸い穴が見えた。あそこが出口、つまり通常空間への帰り道だ。異世界で迷子になるのはもうごめんだった。彼は必死で登っていった。一瞬、戻れないかと不安が駆け抜けたが、丸い穴はだんだん大きくなってきた。重力も元に戻ってきた。重さを感じ始めると、さっきまでの体験が、まるで夢の中の出来事のように感じられた。夢であってくれたらどんなによかっただろう。しかし、彼の身にふりかかったことは、全て現実だった。異星文明は彼の人生を大きく変えてしまったのだった。

 彼は穴から這い出した。石の壁に寄り掛かって、彼は大きく息を吐いた。心臓が大音量で鳴っていた。気が狂いそうだった。頭を押さえて、彼はそこにうずくまった。あれは一体どういうことだ。人間の複製が造れるというのか。この島は何なんだ、何をしようとしたんだ、人間を複製して。ぼくが二人。ああ、ぼくがふたり————。あの時、地球に飛ばされたぼくは記憶をなくして、ここのことは忘れ去った。でも、もう一人の自分はどうなったのだろう。今のぼくのように這いあがってきて、ここで頭を抱えていたのか?この恐怖に耐えることができたのだろうか?彼はあれからどうなったのだろう。もしかして今でも、今でも何処かで生きているのか?

 いや———

 彼は思いだした。シィナの家にあった墓標を。

 クレイ・ライト 2042-2050

 あれはもう一人のぼくの墓標なのだ。あれを見たときの直感どうり、あの中にはぼく自身が埋まっていたのだ。人体複製による恐怖のあまりに精神に異常をきたし、そして死んでしまったぼくが・・・・・

 何て事だ、クレイはあまりに凄絶な自分の過去に愕然とした。ここで自分のコピーが創られ、一人は何故か地球へ飛ばされ、もう一人はこの島で死んだ。

 クレイ・ライト 2042-2050

 ぼくは、ぼくはこの島によって運命を狂わされてしまった。この呪われた島に・・・・・

 心臓が鳴っていた。鼓動に押し出されるように過去の記憶が次々と甦ってきた。ノーチラス島にいた頃の日々が。幼い頃駆け抜けた草原。好奇心と恐怖を道連れに探検した森。夕暮れに鳴り響く鐘の音。白衣姿の父。そして、生まれ育った家。

 蔦の絡まるあの博物館————

 全て、消え去ってしまった。あの日。父の忠告も聞かず一人で不気味な石井戸に潜り込んだあの日に。ぼくは本当は、本当は・・・・・

 私の兄です———

 墓標を見てつぶやいたシィナの言葉が甦った。

 パズルが解けていく。忌まわしい悲劇へ続いていくパズルが。

 だとしたら、ぼくとシィナさんは・・・・・兄妹?

 クレイは愕然とした。まるで波紋が広がるように、彼の思考に美しい少女が浮かび上がった。いつしか深い恋慕の情を寄せるようになっていた少女が。

 シィナさんがぼくの妹・・・・・

 失われた記憶を辿り辿って導かれていく真実。いや、しかしそれは絶対にありえない、クレイは死に別れた母の面影を思い出した。妹などいるはずはないのだ。そもそもぼくと彼女とは容姿が全然違う。

 彼女はぼくの妹では絶対にない。それでは———

 それでは、彼女は一体何者なのか?

 クレイは恐ろしくなった。何か禍々しいことが、彼の過去に起こっている。

 ————真実を知らなければならない

 彼はその場から駆けだした。


 夕刻、森に鳥の声が響く中を、クレイは博物館へ向けて走っていた。この道も知っている。あの博物館も。その隣にあるあの家も。あれはぼくの家だったのだ。昔もこの道を、鳥に迎えられながら家路を急いでいた。

 やがて博物館が見えた。彼が愛した小さな博物館。そして、その隣にひっそりと木造の建物があった。今までとは違う彩りを、その建物は浮かべていた。迷子になっていた少年を迎えるように、夕闇の中で暖かい光が瞬いている。懐かしのわが家。子供の頃のぼくが知っている人はもう誰もいなくなってしまったけど、やはりここはぼくの家なんだ。ぼくの帰るべき故郷だったんだ。クレイの目に涙がにじんだ。ぼくは帰ってきた。

「・・・・・ただいま・・・・」

 シィナの家に向けて、彼はつぶやいた。

 彼はゆっくり、家に近づいていった。遥か昔に一人で遊んだ庭を横切り、彼は明かりのついた窓の前に立った。中から音がする。ことことと、何か料理をしている音。シィナが夕食を作っている音だった。窓の向こうで、華奢な人影が動いていた。

 彼は玄関に歩いていった。そして、子供の頃は高くて手が届かなかった呼び鈴の紐を引いた。

「はい」

 シィナの声がした。中から足音が聞こえて、少しだけ躊躇したようにドアが開いた。女性の家を訪問するには非常識な時間だということに彼は気づいた。

「どなた、ですか?」

 ドアから少し顔を覗かせて、シィナが尋ねた。

「遅くにすみません。ぼくです」

「———フェンネルさん、どうしたんですか?」

 クレイと知って安心したように、シィナはドアを開いた。しかしまだ少し訝しそうだった。クレイはシィナの顔を見つめた。彼の代わりにこの家の主になった少女の顔を。

 彼に見つめられて、シィナは少し頬を赤らめた。

 クレイの心臓が高鳴った。シィナ、この人は一体何者なのだろう。何故ここにいるのだろう。ぼくの代わりに。

 真実を知らなければ。早く———

「お父さんの書斎を見せてくれませんか? どうしても知りたいことがあるんです」

「父の書斎?」

 驚いて彼女は尋ねた。

「そう。階段上がってすぐ左の部屋ですよ」

「どうして知ってるんですか?!」

 シィナは驚愕した。

「ちょっとした魔法です。シィナさん、これは非常に重要なことなんです。無礼は承知しています。お願いします」

 無意識のうちに、クレイは彼女の手を握っていた。それが少しだけ握り返されるのを彼は感じた。シィナは無言で彼を家に入れた。

「ありがとう。すぐに終わりますから———」

 クレイは何の迷いもなく、階段の方へ走っていった。まるで我が家のように。階下に残されたシィナは、何処から来るのか分からない不安感を抱いて佇んでいた。

 クレイは階段を駆け上がり、書斎へ入った。ここで多くの時間を過ごしたものだった。本好きだった彼にとって、ここは一種のオアシスだったのだ。この部屋のことなら彼は隅から隅まで知っていた。専門書の場所も。文庫本の棚も。図鑑の書架も。そして、父の日記の秘密の隠し場所も。

 彼は壁際にあった本棚からホメロスの「イリアス」を引き抜き、その奧にあったスイッチを入れた。すると、天井の板がずれて穴が開き、滑車が回る音と共に、ロープで括られた本がするすると降りてきた。

 クレイは苦笑した。本一冊隠すのにこんな事までしなくていいのに・・・・

 彼はその古びた本から埃をはたき落とすと、手直にあった机にそれをおいて読み始めた。

 どこかからバイオリンの音が聞こえた。「G線上のアリア」だった。すすり泣くような弦の旋律が悲しげに夜の闇に響いていた。

 しばらくして、シィナが書斎に紅茶を持っていったとき、クレイは父の机で何かを一心に読んでいた。

「お茶どうぞ」

 シィナは邪魔にならないように囁いて、そっとクレイに近づいた。背後から覗き込むと、彼は一冊の本を広げていた。彼女が見たこともない古い本だった。

「何ですか、その本。そんな本があること、今まで気づきませんでした」

 クレイがシィナの方を向いた。シィナはびくっとして少し後ずさった。その時のクレイの表情。顔は青ざめ、悲愴感と恐怖、絶望と怒りが彼の瞳を彩っていた。

 彼は泣いていた。涙が彼の頬を伝って、机の上に落ちた。

「滑稽だ」

 心の底から苦渋をしぼり出すように、彼は呻いた。

「シィナさん、ぼくたちはとんでもなく滑稽な芝居を続けていたんだよ」


 アーベルは博物館の一室でバイオリンを弾いていた。

 足音を聞いて、彼は演奏をやめた。古いドアが軋んで開き、その向こうに幽鬼のようにクレイが立っていた。

 珍しく真剣な表情でアーベルは彼を迎えた。

 クレイは無言で部屋に入ってきて、どさり、と父の日記を机の上に投げ出した。

「・・・・それに書かれていたよ。全てが」

「湖にも行ったのか?」

 クレイは頷いた。

「あそこでぼくに何が起きたかも知っている」

 アーベルは頷き、机の上の日記を手に取った。

「こんなものがあったとは知らなかった」

「ここはぼくの家だからな。大抵のことは知っている。・・・・・・君は知っていたんだな。ぼくとシィナさんの事・・・・・・」

 アーベルはクレイを見た。彼の悲愴な表情を見て、アーベルは微かに頷いた。

「君を一目見たときに、ぼくにはわかっていた」

「・・・・・シィナさんとぼくは・・・・・」

「そう。この日記に書かれている通りだよ。君の父親は君を亡くした悲しみに耐えられなかったんだ。それで————」

「ぼくの死体から細胞と遺伝子を採取し、新しい人を発生させたんだな」

 クレイの目に涙が浮かんできた。アーベルは悲しげに頷いた。

「君の父親は分子発生学の第一人者だった。彼は従来のクローン技術に代わる全く新しい方法を編み出していた。幹細胞によるクローンでは、代理出産する母胎が必要だ。だが、君の父親は、生命の入れ物とでも言うべき「素体」をつくりだした。そして彼は、自らが「ヒトガタ」と呼んでいたその人形に、君の細胞とゲノムを移植したのだ。しかしそれは倫理的に許されない、禁断の実験だ。だが、君の父はそれを行った。女性として再生させた理由は単に、実用に耐えるヒトガタが女性のものしかなかったからだ。ともかく、彼は君の全ての情報をヒトガタに入れて、発生を開始させた。18年前の事だ。それが———」

「シィナさん・・・・・・」

「そう。君とシィナは同一人物なんだよ。同じゲノムから創られた分身だ。ヒトガタが女性であったために、性決定遺伝子のスイッチが女性の側に傾き、女性をつくる遺伝子群が選択されているが、君と100%同じ存在だ。容姿はヒトガタの外部形態が継承されるので、見た目はかなり違うがね。シィナが人形の様に整った容姿をしているのは、そもそも彼女が人形だったからだ」

 クレイは机に手をついた。そうしないと倒れてしまいそうな気がしたからだ。彼は眩暈を感じた。分かってはいたけれど、アーベルの口から彼の結論と同じ考えを聞かされると、残酷な現実感がじわじわと浸透してきた。

 ぼくたちは滑稽な一人芝居を演じていただけなのか

 いつかのシィナの言葉が甦った。

 ———わたしたち、とてもよく似てる

 似てるはずだ。同一人物なんだから

 クレイの口元が狂気のように歪んだ。クリスを失って以来、ようやく巡り会った愛しいものは、なんのことはない、自分自身だった。

「忌まわしく、悲しい現実だ。君はこの島に帰ってこない方がよかったのかもしれない」

 アーベルはつぶやくように言った。

「君たちのような関係を何と言うべきかな?いい表現が見つからない。敢えて言うなら、そう。ドッペルゲンガー、かな。ドッペルゲンガーを見たものは死ぬ、といわれている。実際、君は何度も死にかけただろう?」

 アーベルは小さくため息をついた。。

「そもそもの悲劇の始まりはこの島さ。この島がもう一人の君をつくったんだ」

 俯いていたクレイは疲れきった顔を上げた。

「この島は一体なんなんだ?」

 アーベルは彼に背を向けて窓際まで歩いていき、闇に包まれた島の森を見つめた。

「君も手がかりはいくつか知っているはずだ。何故、この星は地球とそっくりだったのか。公転周期も。自転速度も。大気の組成も。海の色も」

 クレイの喉元がごくりと動いた。

「地球を、複製した———」

 アーベルは振り向いた。

「地球だけじゃない。太陽系外の星系をも含んだ、小宇宙といってもいいくらいの大規模なものだ。もし地球だけなら、オリジナルとコピーの地球がふたつ並んでいるはずだろう?そうでなくとも、この星から宇宙を必死で眺めれば何処かに地球が見つかるはずだ。しかしそうではない。ここから見える夜空は、地球から見えるものとは全く異なっている。すなわち、遥か昔に袂を分かち、独自に時を経たたもう一つの世界なんだ。この島はいわば『世界複製装置』なのさ」

 クレイは呆然としていた。そうするより他に仕方がなかった。いきなりけた外れのスケールの話になって、彼の脳は混乱していた。

 気が抜けたようになっているクレイにはかまわず、アーベルは続けた。

「———いいかい。ぼくの考えだとおそらく10億年くらい前に、この島は地球に降り立ったんだ。それから、そこで世界の複製が起こり、二つの世界が生まれた。その原理は分からない。平行世界という考えがあるが、この島は量子的確率論によって示される平行世界の発生を制御し、分岐的に派生した平行世界同士を安定化させる事ができるのかもしれない。複製された世界にはノーチラス島は存在しない。この島自身は複製されないんだ。それはともかく、はるか昔に二つの地球、ノーチラス島が存在する地球と存在しない地球が生まれたわけだ。それから、二つの世界は別々の運命を辿ることになった。・・・・・5億年前、君たちの地球では何が起きたかな?」

「・・・・・・カンブリア爆発のことか?」

「そう。地球ではそれが起こり、多種多様な生物が生まれた。しかし、もう一つの地球、ノーチラス島がある方の地球ではそれが起こらず、生命は発生したがごく原始的なものに留まり、やがて滅んでしまった。同じものから出発したけれど、二つの世界は全く違った様相を呈することになったわけだ。・・・・何故だろうね?」

「・・・・・さあ?」

「おそらく偶然に左右される些細な違いだ。もう一つの世界では全球凍結の解除が遅れたのかもしれないし、生命活動を妨げる有毒ガスの放出が活発だったのかもしれない。つまり、これは壮大な実験なのだよ。その目的は、起源を同じくする世界の行く末を見極めることだ。おそらく複製された世界は二つだけではなかっただろう。地球圏のような将来性がある場所を見つけ、それの複製を何個も作る。そしてそれらがどのように発展していくかを追跡するんだ。ある世界では現在の地球とは全く違う生態系が進化し、全く違う生命が誕生しただろう。つまりこの島は、世界が有り得た様々な可能性を見いだす装置なんだ。そして、この島は記録装置にもなっていて、特殊な連絡通路を使って複製世界で起きたイベントを切り取ってきて保存していた、それが———」

「あの縦穴か!」

「そうだ」アーベルは頷いた。

「君は見たはずだ。君が迷い込んだあの異界で、地球に生きた様々な生命の姿を。君が知る地球以外にも何度か複製が起きた証拠に、あそこには地球にはいなかった生物がいた。巨大な軟体動物とかね。ともかく、この島は何者かが創った複製装置であり、記録装置でもあるんだ。・・・・・・・信じられないといった顔をしているね。しかしきみ自身が何よりの証人であり証拠なのだよ、クレイ・ライト君」

 アーベルはクレイを見つめた。鋭い眼差しで。

「子供の頃、君が入ったあの穴が、複製装置の中枢だろう。君はそこに迷い込んだから、眠っていた機構が一部作動したんだ。多分、世界全体の複製までは起こらなかっただろう。しかし、確かに君自身は複製された。しかしノーチラス島自身は複製されない。つまり、この島に二人の人物が存在してしまった。そして、この島は同じ人間をここに共存させることを拒否した。従って複製された片割れ、つまり君を地球に飛ばしたのさ。後は君も知っているとおりだ。こちら側の君は死に、ある偶然から君の分身が生まれた。女性に姿を変えて。そして、更に偶然が重なり、地球に飛ばされたはずの君がここへ帰ってきた。ここから少し滑稽な悲劇が始まる。君たちは出会い、そしてお互いに恋してしまったのさ。同一人物だとも知らずに・・・・・」

 それからのことをクレイはよく覚えていない。彼は放心したようにアーベルの部屋を出て、博物館の外に出た。外にはシィナがいて何か言いながら彼に近づいてきたけれど、彼はその手を振り払うようにしてよろめくように去っていった。夜の闇の中へ————

 悲しげに鳥が哭いていたことだけ、彼は覚えていた。


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