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ノーチラスノート  作者: 蓬莱 葵
6/10

第6部

 

 12-旅立ち


 翌日の朝。

 コートニーは、二階にあるベッドで目を覚ました。うっすらと開けた瞼の間から、夏の朝日が瞳を射た。二、三度瞬きをして目を開ける。半ば開いたレースのカーテンの間から、白い光が斜めに差し込んでいた。

 彼女は身を起こした。夢の続きを見ているような顔をして、しばらくぼーっとしていたが、突然、大事なことを思い出したかのように目をぱっちりと開いた。

 彼女は急いでベッドから起き出して、横の机においてあった服に着替えた。白いブラウスに茜色のスカート。この家に来たときと同じ服だった。それから、内階段を走り降りていって、広間のテーブルの上においてあったクレイの肩掛け鞄をさっと手に取って、かける。彼女にはやや大きすぎるくらいの鞄だった。コートニーはその中を開けて、昨夜入れておいたものをもう一度確認した。

 携帯食料に水筒。小さなナイフ。懐中電灯。簡単な救急用具。それから・・・・

 コートニーは、自分の過去の唯一の形見になってしまったフルートの箱を、そっと撫でた。

 それから、彼女は窓際に歩いていって、そこにおかれている水槽を覗き込んだ。サボテンの傍にいた黒いサソリが彼女の方を向いた。

「行ってくるね」

 小さく手を振ると、コートニーはきびすを返して、広間を出た。そして玄関のドアを開け、真っ白な朝の光の中へと駆けていった。

 草原は朝日を浴びて、生き生きと輝いている。背後に見える水平線との対比が美しかった。その中を、少女は一人、肩までの髪を風になびかせながら走った。

 草原の真ん中、昨日不思議な少年に会った所まできて、コートニーは立ち止まった。はあはあと息が乱れている。急いできたけれど、まだあの少年は来ていないみたいだった。コートニーは息をついて、近くにぽつんと生えている木の下に歩いていって鞄を下ろした。そして、彼方にある、青い海を見つめた。

 少し風が出てきて、海は波頭を散らしながらきらきらと輝いていた。

 少女はしばしの間、その光景を見つめていた。

「やっぱり来たね」

 不意に、すぐ後ろで声がした。驚いて振り向くと、昨日の少年が、まるで魔法のようにそこに立っていた。

「来ると思ってたよ。君はいい子だ」

 そう言って、少年は微笑んだ。年はコートニーより2、3歳しか違わないくらいなのに、妙に大人びて見えた。コートニーは黙っていた。何故自分はこうまでしてクレイを探そうとしているのか、彼女にはわからなかった。ただ、心の中で何かが、もうこれ以上何かを失うのはいやだと悲しく叫んでいる。少女の気持ちを知ってか知らずか、不思議な少年は、コートニーの頭から爪先まで、じろりと一瞥した。

「でも、その格好で行くつもりかい?」

「・・・・だって、他にいい服がなかったから」

 コートニーは恥ずかしそうに答えた。少年は微笑んで、自分が纏っていた黒いマントを脱いで、ふわりと少女の肩にかけた。

「これでよし。こいつには耐火繊維を織り込んであるんだ・・・・それから・・・」

 少年は、少女の鞄を見た。

「いろいろ持ってきたみたいだね。でもそれだけじゃちょっと不安だから、ぼくからもいくつか渡しておこう」

 そして、少年が差しだしたものを見て、コートニーは、一瞬、目を疑った。それは、無骨な形をした拳銃だった。

「こ、こんなもの!」

「いいから。今6発入ってる。予備の弾薬も渡しておこう。これはね、『マテバ6式ウニカ』といって、リコイルを抑えながら大口径の弾も撃てるように造られた特殊な銃だ。君でも扱えるように短銃身のモデルを選んで、グリップと外装にも手を加えた。ついでに弾頭自身にも細工がしてある。大抵の奴なら、これで大丈夫だろう」

 掌にずしりとした重みを感じながら、コートニーはぽかんと口を開いた。

「猛獣でもいるの?」

 答えずに、少年は謎めいた笑みを浮かべた。そしてさらに、ポケットから、ピンポン玉くらいの大きさの球体を取り出した。

「さあ。これも持っていきたまえ」

 それは、すべすべしてて白く、不思議な輝きを放つ球だった。コートニーは受け取ってしげしげと眺めた。

「そいつの使い方は後で説明しよう。・・・最後に、一番大事な、これだ」

 少年が差しだしたものを見て、今度こそ少女は、驚愕に目を見開いた。

 それは、まさにパイナップルくらいもある、手榴弾だったのだ。

「何これ、戦争にでも行くの!?」

「いや」

 少年は、新しい悪戯を発明した子供のような顔で言った。

「君は、あの人を捜しに行く。それだけさ。でも、行く手には想像を絶するような出来事が待ち受けているかもしれない。備えあれば憂いなしってやつさ」

「・・・・あなたは、行かないの?」

「この旅は、君一人で行くから意味があるんだ。他のものがいたらこの島は扉を開かないかもしれないからね」

 そして、少年はコートニーの肩に手をおいた。いつしか口元の笑いは消えていて、鋭い眼光が、少女の瞳を射た。

「いい?これからぼくが言う事をよくお聞き。聞いた後は忘れてもいい。忘れても必要なときがくれば全て思い出すように、君の記憶に細工しておくから。今、しっかり聞いておくんだ・・・・」

 そして、少年は少女の耳に口を寄せて、話し始めた。長い話を。

 草原を風が渡り、二人の足元で夏草のかけらが舞った。少年の声を聞きながら、少女の瞳は驚きと興奮にどんどん見開かれていった。

 森の奥で、鳥が哭いたとき、少年は少女から離れた。

「・・・・そ、そんなことって・・・・・」

 震える声で、コートニーは言った。

 行ってみればわかるさ、と言って少年は微笑んだ。

「ぼくが出発を見送ってあげる。不思議の世界を覗いておいで」

 少年は、コートニーを見送るように一歩、後ろに下がった。恐る恐るといった表情で、彼女は草原の彼方を見た。鬱蒼とした森が見える。還らずの森。とりあえずの彼女の目的地はあの森の中にある縦穴、クレイが消えてしまったあの「人喰い穴」だった。

 しばらく森を見つめていたが、やがて、意を決したように少女は歩き始めた。黒いマントが風にはためいた。重くなった鞄が見えかくれする。

 20歩程歩いたとき、彼女は振り返った。

「ねえ」

 そして、昨日から疑問に思っていたことを尋ねた。

「どうして、クレイを助けようとするの?あなたと何か関係があるの?」

 少年は笑って、

「ぼくの友達があまりに悲しむものだから」

 と言った。


 窓から朝日が差し込んでいた。ペンクロフトは少し呻いて目を覚ました。顔の片側が痛い。机に突っ伏したまま眠ってしまったようだ。

 彼は気分悪そうに、机の上から起きあがった。

「どうした。また、机の上で寝たのか?」

 不意に、彼の背後で声がした。気怠そうに振り向くと、クレイが自分のカップにコーヒーを煎れているところだった。

「・・・・・・ああ、おまえか?早いな」

「何言ってるんだ。今日は大事な実験じゃないか」

「そうだっけ?」

「垂直離着陸のテストだろ?昨日言ってたじゃないか」

「そうかな・・・・すまん。頭がまだぼーっとしてるんだ。・・・・その、とても嫌な夢を見たからな・・・・」

「夢?へえ、どんな?」

「変な穴を調査に行って、おまえがいきなり消えちまうんだ・・・・恐ろしかったよ。おまえの声がだんだん小さくなっていって・・・・それから・・・・・」

「それから?」

 微笑んでいるクレイの顔を見て、不安げに話していたペンクロフトは、気を取り直したように明るい顔になった。

「まあいいさ。おまえはこうしてここにいるんだからな。・・・・よかった。本当に、夢で良かったよ。ああ、そうか。夢だったんだ。何だか、肩の荷がおりた気分だよ。すがすがしい朝だな。今日は。早速実験を始めようか?」

「残念ながらそれは無理だな」

 ペンクロフトは訝しそうな顔をした。

「どうして?」

「だって、おれはもう死んでるんだから」

 そして、彼の目の前で、クレイの姿は幻のように消えた。彼が持っていたカップは床に落ちて、コーヒーを撒き散らしながら粉々に砕け散った。

「クレイ、待ってくれ、クレイ!」

 ペンクロフトは叫んだ。叫んだ自分の声で、目を覚ました。

 少し曇った窓ガラスが見えた。

 机に突っ伏したまま、彼は眠っていたらしい。顔の片側が痛かった。頬に手を当てると、湿った感触があった。夢を見ながら、泣いていたらしかった。

 呻きながら、彼は頭を上げた。

 知らぬ間に眠っていたらしい。夕べのことをぼんやり思い出した。そうだ、シィナ・ライトが来たんだった・・・・

 シィナは何も言わなかったが、いつのまにか眠り込んでしまったところをみると、気づかぬうちに彼女が何かやったらしかった。

「・・・・・・勝手に人の脳をいじりやがって・・・・・」

 ペンクロフトは机の上に身を起こした。肩から毛布が滑り落ちた。シィナがかけてくれたらしい。彼は振り向いた。管制室の中を見回す。しかし、そこには誰もいなかった。かわりに、テーブルの上にささやかな朝食がつくられていた。サンドイッチの横に白い紙片が見える。彼はテーブルの所に歩いていって、それを手に取った。

 ———よろしければ食べて下さい。午後、またうかがいます。疲れはとれましたか?悪夢を見てないようにと祈っています

 彼は、その文字をじっと見つめた。それから、おもむろにサンドイッチを口に運んだ。

 朝食をすませてから、ペンクロフトは、昨夜から続けていた作業の進捗状況を確認した。机の上のコンピュータのディスプレイには、彼の試行錯誤の跡が見える。航海日誌にかかっていたプロテクトを破ろうと悪戦苦闘した跡だった。あの船の船長はかなり神経質な人だったらしい。航海日誌は暗号化された上、三種類もパスワードの障壁がつくられていた。昨夜は何とかそのうちの二つまでクリアしたところで眠ってしまったらしかった。

 ペンクロフトは机に向かった。シィナがやってくるまでに、この仕事を片づけてしまいたかった。二分ほどカタカタとキーボードを叩いていたが、何かを思い出したように彼は手を止めて、顔を上げた。窓の外を見る。

 エメラルドグリーンの海が広がっていた。澄みきった水が、朝日に輝いている。

 どんなに落胆し、悲しみと絶望の淵に沈んでいても、美しいものは美しいんだな、とペンクロフトはぼんやり考えた。彼は目を閉じた。すると、瞼の裏にクレイの乗ったフェルドランスが海の上を彼の方へ飛んでくる幻影が見えた。

 今、目を開けたら、本当に見えるかもしれない。

 そんなバカげた思いこみを、彼は否定することができなかった。

 すーっと息を吸い込んでから、彼はゆっくり目を開いた。

 海と空の他には、何もなかった。

 彼の口に苦い笑みが浮かんだ。溜息をついて、彼は気を取り直すかのように机の上においてあるラジオのスイッチを入れた。

 クラシックが聞こえてきた。モーツァルトの四十番だった。憂いを含んだ旋律が、寂しい部屋に響いた。

 曲が終わると、チャイムが鳴って、エリスの声で放送が始まった。

「ノーチラス島のみなさん、おはようございます。保安局観測室からのお知らせです。現在ノーチラス島はカモミール海上にあって、時速2.2キロメートルのスピードで北北西に移動しています。本日の天候は晴れ。波の高さは1メートルでしょう。現在の所、目だった障害物、異常物体は観測されておりません」

 ———異常物体、か

 ペンクロフトは呟いた。もし今、こないだの怪生物なんかが襲ってきたらどうなるだろう?みんな死ぬだろうか

 ラジオの声が、エリスから他の人に変わった。

「———朝のニュースです。六日前、『K-13縦孔』で起きた事故の捜索は、昨日の午後四時をもって打ち切られました。探査機、パイロット共に、存在を裏付ける証拠は得られておりません。捜索担当者は、機体が縦穴の深部に墜落し、パイロットは死亡したとの見方を———」

 ペンクロフトはスイッチを切った。


 コートニーは、森の入り口で立ち止まった。

 目の前には、見上げるような大木がぎっしり立ち並んでいて、朝だというのに、森の中は薄暗かった。奥に続く粗末な道の上にはシダや雑草がはびこり、所々、わずかに青く、日の光が差し込んでいる。

 森の奥で、奇怪な鳴き声が響いていた。

 臆病な性格が頭をもたげてきて、コートニーは入るのを躊躇した。お化け屋敷の前に立っているような気がした。

 ———恐れる必要はないよ。ぼくが言うとおりにすればいい。

 その時、頭の中に、少年の声が響いた。さっき聞いた言葉だった。どういう魔法なのか、その声はレコーダーを再生するように、鮮やかに彼女の脳裏に甦った。

 その声のせいで、コートニーの恐怖心は少しやわらいだ。深呼吸をして、鞄のベルトを握りしめると、黒衣の少女は一歩、森の中へ足を踏み入れた。

 ———森に入ったら、その果てにある「K-13縦孔」まで行くんだ。縦孔への道筋は知ってるね?

 コートニーは、父親につれられて一度行ったことがあった。だいたいの道筋は覚えていた。歩いて行くには少し遠いけど、何とかなると思った。

 コートニーは下草を踏みながら歩き出した。歩きながら、さっきの少年の名前を聞いてなかったことを思い出した。不思議な少年だった。まだ若いのに、まるで老人のように達観した雰囲気に包まれていた。それにさっきの話。今こうして、必要に応じて甦ってくる。その内容も尋常じゃなかった。コートニーにはまるでお伽噺にしか思えないことをあの少年は語っていた。

 あの人はどうしてあんな事を知っているんだろう?

 昔、父親から聞いた、森の奥に棲む魔術師というのはあの人のことかもしれない、とコートニーは思った。

 鳥の声が聞こえていた。姿は見えない。コートニーは歩き続けた。彼女の前には一本の小道が続いていた。そこを30分くらい歩いたところで、比較的大きな道にぶつかった。車が通った跡がある。タイヤの轍がまだ新しい。彼女の記憶だと、縦穴はこの先にあるはずだった。

 コートニーはそこで少し疲れたように息を吐いて、鞄を降ろした。横にあった大木の幹にもたれて小休止する。上を見上げると、梢からきらきらと木漏れ日が差し込んでいた。鳥の声とセミの声が降ってきた。

 気持ちいい————

 家にいるよりはずっと気が楽だった。来て良かったと、彼女は思った。とんでもない思い違いだったと、後で気づいたけれど・・・・

 10分程休んで、コートニーは歩き出した。急いでいけば、昼過ぎくらいには着けると思って、足どりを少し早めた。


 呼び鈴の音がした。朝食の準備をしていたシィナは手を止めて、ドアの所へ歩いていった。

「どなたですか?」

 ドアを開けると、少年が立っていた。いつも纏っているマントがない。

「やあ」

 涼しげな声で、少年が言った。「入ってもいいかな?」

 シィナは少し身を引いて、少年が入る空間を作った。少年はシィナの横をすり抜けた。口元に浮かんだ微笑が、彼女の目に映った。

「何かいいことがあったんですか?」

 自分よりかなり年下に見える少年に対しても、シィナはいつもの敬語調で話しかけた。

「うん。まあね。面白いことが起きそうだ。———君は?機嫌は良くなったかい?」

 少年のシィナに対する口調はぞんざいで、まるで兄が妹に話しかけている様だった。シィナは何も答えず、料理をつくり始めた。少年は、古風なカフェ様式の部屋の真ん中においてある木のテーブルの所へ歩いていき、古びた木製の椅子に無造作に腰掛けた。シィナの後ろ姿が見える。

「その様子じゃまだ落ち込んでるようだな。この前はまいったよ。いきなり大泣きするんだから・・・・全く、子供じゃあるまいし」

 シィナは悲しそうな顔で振り向いた。

「ねえ。あなたの持ってる変な力で、あの人の居場所は分からないんですか?あなた、妙にこの島のことに詳しいし。あの縦穴のことについてもなにか知ってるんじゃ・・・・」

 少年は片手をあげてシィナを制した。

「待ってくれ。おれはそんな所行ったこともないよ。第一、消えちまった探査機なんぞに興味もない。それに乗ってた物好きにもね。君はそいつがまだ生きてると思ってるようだが、あれから何日経つんだ?生きてたらもう何処かで見つかってるよ。狭い島なんだし。帰ってこないってことは、死んでるってことさ」

「・・・・・ひどいことを言いますね・・・・・」

 シィナはうつむいた。細い肩が震えていた。そして、頬を一筋の涙が流れた。それを少年に見られまいとするかのように彼女は顔を背けた。

 少年は溜息をついた。テーブルの上に置いてあったオルゴールを弄びながらつぶやいた。

「どうして君はそんなに一人の人間にこだわるのかな。空を行く雲のように、流れる水のように、何事にもこだわらなければ心は平穏なのにね・・・・・」

「いけませんか?」

 シィナはいきなり厳しい顔を少年に向けて、涙の余韻が残る声で言った。

「人のことを気遣うのはいけないことですか?あなただって、親しい人が事故にあったら、悲しむんじゃないですか?・・・・もう少し思いやりを・・・・」

 少年は、軽蔑したように鼻で笑った。

「人間は、とんでもない日和見主義者だね。いつも同種同士で殺し合いばかりしてるくせに。・・・・おれだって歴史は勉強したよ。人類の歴史、あれはなんだ?殺し合いの連続じゃないか。同種間であれだけ無意味に殺しあう生物なんて人間だけだぜ。そんなできそこないの腐った生命体が、気遣いだとか思いやりだとか言ったって、ちぃっとも説得力がない。わかる?リアリティがないんだよ。リアリティが」

「でも・・・・」

「いいのさ。そのパイロットだって、こないだ来た奴等を殺した奴だろ。あの生物が敵だという証拠が何かあったか?向こうがまだ何もしてないのに、一方的にこっちが攻撃を仕掛けたんだろ?・・・・人間のやりかたが良くわかったよ。あのパイロットはバチが当たったのさ。自業自得だよ。ざまあみろだ」

 シィナは耐えかねたように耳を押さえて、強く頭を降った。それから、ばか!と大声で叫んだ。

「あなたなんか、死んでしまえばいいんだ!」

 そして、泣きながら、部屋を飛び出した。ドアが荒々しく閉じて、壁に掛けてあった花飾りが床に落ちて四散した。

 一人残された少年は、小声でやれやれとつぶやいた。それから、床に落ちた花飾りをじっと見つめた。

 何故か、とても悲しい目をしていた。


 昼を少しまわった頃、コートニーは「K-13縦孔」と書かれた立て札の所に着いた。木々に光を遮られた暗い道の前には、半ば蔦に覆われた鉄製のゲートがあり、「関係者以外立入禁止」の札が張り付けてある。ゲートは閉ざされていた。確か、前に父親と来たときもここは閉じられていて、父は鍵を使って開けていたはずだった。彼女はもちろんそんなものは持っていない。どうしようかと思案しながら、彼女はゲートに手をかけた。すると、金属がこすれる音がして、ゲートは内側へ向かって開いていった。

 鍵はかかっていなかったのだ。

 コートニーは狐につままれたような顔で、そこに立っていた。何故開いてるんだろう?締め忘れたのだろうか?

 彼女の脳裏に、さっきの少年の顔が浮かんだ。もしかしたら、彼が開けておいてくれたのかもしれない。魔術師だったら、それくらいのこと造作もないだろう。

 少年が影で優しく見守ってくれているような気がして、コートニーの心は元気づけられた。彼女はゲートをくぐった。縦穴の縁までは、もう少し歩かねばならない。森の奥まで来たせいか、地面はぬかるんでいた。道の上にある泥の水たまりにはまらないように注意しながら、彼女は歩いていった。

 5分程歩くと、唐突に森がとぎれて、明らかに人の手によってつくられたとわかる広場に出た。丈の低い草が生え始めたそこは、人気もなく閑散としている。あの事故以来、調査は一時中断されていた。

 コートニーの斜め前には、小さな倉庫らしきものがあった。調査機材を入れるためのものだろう。彼女は広場に出た。小屋の横を通り過ぎながら、誰かいないかと窺ってみたが、人のいる気配はない。小屋から視線を前に戻したとき、思わず彼女は小さな悲鳴を上げてたじろいだ。前に一度見ているはずなのに、彼女の体に鳥肌が立った。

 コートニーの前には、ぽっかりと縦穴が口を開けていた。地面にいきなり開いた真っ黒な穴だった。巨大な井戸の様にも見えた。その不自然さが怖かった。周りがやけに静かなのも不気味だった。ふと、少女は、自分がいつのまにか島の奥深くまで来ていることに気づいた。あの少年の声が聞こえていたから、何となく一人ではないような気がしていたけど、実際はたった一人で、こんな不気味なところに立っているのだ。彼女は後ろを振り返った。倉庫が見える。人気のない建物は妙に恐ろしいものだ。暗いガラス窓の向こうから、何かが自分のことをじっと見ているような気がした。彼女はあわててその気持ちを振り払った。ここで恐怖にとりつかれたら、先へ進めなくなってしまう。彼女は穴の方へ向き直った。それから、恐る恐る近づいていって、縁から一メートル位の所で立ち止まった。それから先へは怖くて進めなかった。しかしそこからでも、底知れぬ闇を見ることができた。クレイを呑み込んでしまった闇だった。

 ———そこが、別世界への入り口なんだ。

 少年の言葉が甦った。

 ———穴の縁まで行きなさい。勇気を出して。何も恐れることはないよ。

 コートニーは、一歩一歩、足元を確かめるように歩いた。

 たっぷり10分くらいかけて、コートニーは穴の縁まで歩いていった。

 穴の中からは微かに風が吹き上げていて、彼女の黒いマントと、茜色のスカートをなびかせた。

 ———そこについたら、いいかい。慎重に、手榴弾を取り出すんだ。それをパイナップルにたとえるなら、ちょうど葉っぱがついてるところに丸い取っ手のついたピンがある。

 コートニーは鞄を開いて、最も重かった荷物を取り出した。包んでいたハンカチを広げる。火薬の詰まった金属の塊は鈍く光っていた。少年が言うピンはすぐに見つかった。

 ———ピンを抜いて、ゆっくり三つ数えたら、それを穴の中に落としなさい。ぼくの計算では、手榴弾は深度60メートル、ちょうど探査機が消失した辺りで爆発するはずだ。・・・・それが、迷宮への入り口を開く鍵になる。爆発の後すぐに、「反応」が現れるだろう。

 コートニーは足元に口を開けている、真っ暗な穴を覗き込んだ。何も見えない。何も聞こえない。手榴弾を落とす前に、ためしにそばに落ちていた小石を拾って、彼女は穴に落とした。耳を澄ませる。

 ————静寂

 いつまで待っても、なんの音も聞こえてこなかった。

「・・・・・底なしだ・・・・」

 少女は小さくつぶやいた。ひくっ、と喉が鳴った。自分は今、とんでもないものを覗き込んでいるのだという事がわかった。

 怖い、と心の底から思った。それは、得体の知れぬ未知の存在がつくったものに対する、重くて濃い恐怖だった。

 コートニーは手榴弾を見つめた。これを落とすか落とさないかが、ひとつの大きな分かれ道だと感じた。落とせば、私は行かねばならない。恐怖と不安のあふれる世界へ。落とさなかったら?今ならまだ間に合う。全てを忘れて帰ることができる。クレイがいなくたって、しばらくはやっていけるだろう。お父さんは重傷だけど、きっと何とかなる。そうしたら、元通りだ。あのお人好しの操縦士との短い日々は、あの草原に置き捨ててしまえばいい。

 コートニーは目を閉じた。

 瞼の奥の暗闇を見つめた。そこに何が映るかで、落とすかどうかを決めようと思った。

 暗い世界に、何かが、ゆっくりと見えてきた。

 それはぎこちなく差し出されたコーヒーカップであり、ドアの前に置かれていた変な柄のTシャツであり、夜空を埋める満天の星であった。

 コートニーは瞼を開いた。青い瞳がきれいに輝いていた。

 ここにあの少年がいたら、嬉しそうに目を細めただろう。そしてつぶやいたかもしれない。人間も、たまにはいいことをする、と。

「クレイ、わたし、行くよ。怖いけど、あなたを捜しに行く」

 そして、黒衣の少女は手榴弾のピンを抜いた。

 手榴弾を穴の上に掲げ、ゆっくり数を数えた。

 ひとつ・・・・ふたつ・・・・

「———みっつ」

 少女の手から、ふっと手榴弾が離れた。秋の木の葉のようにくるくると回りながら、それは深淵の中へ消えていった。

 ———これは、人類の存在を、この島のアルバムに残すためのメッセージ

 何処かから、多分心の奥底から、少年の声が響いてきた。コートニーはマントを頭から被って地面に伏せた。

 ———人という生命の代表として、君は会いにゆくんだ。かつてこの世界に生きた者達に

 コートニーは両耳を塞ぎ、歯を食いしばった。


 そして、爆発がおきた。


 閃光、そして、人喰い穴の底から、まるで何者かの絶叫のようにすさまじい轟音が轟いた。耳を押さえていたにもかかわらず、轟音は衝撃波となって、コートニーの鼓膜をびりびりと震わせた。

「ああ!」

 彼女は悲鳴を上げたが、自分の声すら聞こえなかった。草切れと土くれが飛んで、マントの上に当たった。

 爆炎が上がった。

 炎の塊が天へ伸びた。熱い空気がコートニーを襲い、爆風は嵐のように彼女の上で荒れ狂った。熱い。鼻の奥に痛みが走った。岩の破片が落ちてくる。まるで雹のように。中には拳大のものもあった。彼女の目の前に、鋭利な破片が突き刺さった。「ひっ」と叫んで、彼女は身を縮めた。その時彼女は不思議な声を聞いた。切ないような、哀しいような、まるで、女の人がすすり泣くような声だった。

 ドアが、開いたんだ・・・・

 なんの脈絡もなく、コートニーはそう感じた。

 空中高く舞い上がっていた石塊が、バラバラと降ってきた。それが全て落ちてしまうと、辺りは再び静かになった。コートニーの体が動いて、マントの下から、おずおずと顔が出てきた。

 そして、黒い前髪の間から、彼女の瞳はそれを見たのだった。

「————あ」

 少女は見た。それは不思議な光景だった。穴の中心から、一本の白い光が天空に向けて伸びていた。白い。しかしそれほど眩しくない。こんな光は見たことがなかった。彼女の前で、それはみるみる左右に広がってゆく。一本の棒みたいだったそれは、瞬く間に穴を横切る壁になった。

 そして、その壁は穴の中で急速に回転を始めた。白い光はまるで空間をドリルのように押し広げていくように見えた。

「・・・・・すごい」

 コートニーの瞳に白い光が映っていた。やがて、それは穴一杯に広がり、彼女の前にある穴の縁は、光の壁と化した。

 光が、コートニーの顔を照らしていた。唖然とした彼女の顔が、まるで懐中電灯で照らされたように輝いている。光はすぐ近くにあるのに、何故か熱は全く感じなかった。彼女は恐る恐る立ち上がった。光に体を向けて、それを見つめた。白い光の壁は消える様子はない。まるで、レースのカーテンの前に立っているようだ。

 コートニーは恐る恐る、光に向けて手を伸ばした。光の手前数センチまできても全く熱を感じない。光の壁は手が近づくと、波打つようにゆらめいた。

 ———その壁をくぐり抜けろ

 少年の声。コートニーは呆気にとられたように光の壁を見つめていた。

 この先にあるんだ。彼がいる世界が———

 コートニーは光の中へ手を差し込んだ。壁には水面のような波紋が広がった。光の向こうは、妙に暖かく、そして湿った感じがした。

 彼女は目を閉じ、ゆっくりと一歩踏み出した。足が光の壁を通り抜け、そして、地面についた。底なしの穴が開いているはずの所に、しっかりと少女は足をついていた。

 足がつくのを確かめると、目を閉じたまま、コートニーは小さな声で何かつぶやいた。そして哀しそうな顔をして少し笑った。それから、無造作に光の壁をくぐり抜けた。



 13-異世界の少女


 壁の向こうの世界で、コートニーはゆっくりと目を開いた。

 異質な現実が、彼女を迎えた。青い瞳に、その景色は映っていた。

 ————これは

 コートニーは、片手で目をこすった。しかし、その景色は消えなかった。

 こんな、こんな事が・・・・

 何の脈絡もなく、彼女は自分があの少年に騙されているのではないかと思った。それほどにそこは奇妙な世界だった。

 しかし、彼が嘘などつくはずはない。だとするとこれは現実だ。ここはまさしく私達の世界とは全く異なる「別世界」なんだ。

 それにしても、そこは異様すぎた。

 コートニーの前方は、一面、巨大なキノコで埋め尽くされていた。

 そう。そこは、いきなり、キノコの森だったのだ。

 形はその辺に生えているものと大して変わらない。しかし、そのキノコ群は異様に赤く、毒々しい色をしていた。何よりも、その大きさが尋常ではなかった。だいたいどれも一メートルは優に越えており、中には三階建てのビル位のものまである。そんなものが、彼女の視界の続く限り、一面に繁茂していた。

 これではまるで童話の一場面だ。

 呆然とした顔で、黒衣の少女は佇んでいた。

 コートニーが立っているのは、キノコの林の中でも少し開けたところだった。前方にはキノコ群が少し粗になったところがあり、そこから先は少し下り坂になっているのがわかった。下の方ではキノコの頭がずらっと並んでいるのが見える。その先には、何かが光っていた。海か、湖があるらしかった。

 キノコの傘の間から、青い空が見える。それと太陽。これだけは向こうの世界と全く変わらない。それがコートニーにとってささやかな救いだった。

 コートニーは息を吸い込んだ。少しカビ臭いような気がしたが、きれいな空気だと思った。

 彼女は後ろを振り返った。光のカーテンはまだそこにあった。彼女は安堵した。ここを再びくぐれば帰れるんだ。

 ———壁の向こうについたら、

 深呼吸をすると、少年の言葉が聞こえてきた。

 ———奇妙な森があるはずだ。その奇妙さについては今は秘密にしておこう。行ったときの感動が薄れるといけないからね。念のために言っておくが、その森に生えてるものを絶対に食べないように。猛毒だからね。それから、変な生き物を見かけたら、近寄ったりせずに、一目散に逃げたまえ。拳銃で撃ってもいいが、仕損じるとやっかいなことになる。逃げるのが無難だろう。それから、君が造った「入り口」は、あと数日は安定なはずだ。でもここは広いから、なるべく急いだ方がいい。多分、先の方に湖が見えるはずだ。今はとにかくそこを目指せばいい。この世界の何処かに「彼」はいるはずだが、やはり水の近くが有望だろう。

「あの湖に行けばいいの?」

 コートニーは、誰に言うともなくつぶやいた。その声は異世界に虚しく響いた。

 コートニーは歩き出した。ちょうど彼女の前にはキノコが粗になったところがある。その「道」を、キノコの柄の間を縫うようにして、彼女は進んでいった。足元の感覚はどこかおかしかった。妙にねばつくのだ。

 気味の悪い森・・・・

 コートニーは足をあげて、靴の裏を見た。粘液のようなものが付着していた。

 何だろう、これ?

 彼女は周りを見回した。赤いキノコの群れ。どことなくメルヘンチックだけど、何故か恐ろしい。メルヘンの奧には残酷さが隠されているものだ。この世界も例外ではないのかもしれない。

 この森のどこかに、クレイがいるのだろうか?

 コートニーは辺りを見回した。しかし、キノコに遮られて視界は甚だ悪い。

「クレイ、いるの!」

 大声で叫んでから、彼女は耳を澄ませた。

 ————返事はない。

 かわりに、何処か遠くで、何かが動く気配がした。

 コートニーは驚いて、怯えたようにそちらに目を向けた。

 音がしていた。何か湿ったものがキノコの間をすり抜けてくるような、不気味な音だった。

 ———その森には、特殊な軟体動物が棲んでいる。

 コートニーから50メートル程離れたところにある大きなキノコが揺れた。根元の辺りを、何かが進んでいるらしかった。

 ———キノコを喰って生きる草食の奴もいるが、人に向かってくるのは大抵肉食性のものだ。気配を感じたら、さっき言ったように、必死で逃げた方がいい。

 めりめりと音を立てて、コートニーの前にあったキノコが倒れた。その向こうには、口では形容しがたい異様な物体がいた。

「————ひ!」

 コートニーの口から悲鳴が漏れた。

 彼女は見た。それはまるでカタツムリのように見えた。

 全長は5メートルを越す巨大なカタツムリだ。

 しかしそいつには、愛嬌のある目はついていなかった。三角形をした頭部は粘液で光り、口の辺りには無数の触手が動いていた。背中にはぐるぐると巻いた殻を持ち、ピンク色をした胴体が地面を這っている。その後ろには粘液の跡が残り、キノコの森が押し広げられていた。コートニーが歩いてきた「道」は、そいつらがつくった這い跡だったのだ。

 三角形をした頭の両側が波打っていた。多分そこに感覚器があり、左右差を検出して餌の位置を知るのだろう。

 ひょい、とそいつが鎌首をもたげた。コートニーの位置を捕捉したらしい。目のないそいつの頭部は、たとえようもなく不気味だった。

 空気が抜けるような音を出して、いきなりそいつは加速した。

「きゃあああ!」

 コートニーは絶叫を放った。そいつに背を向けて、一目散に駆け出した。粘液で足元がべとつき、うまく走れない。背後で、そいつが滑るように追ってくる音が聞こえた。予想以上に早い。

 コートニーは半狂乱になったように叫びながら、必死で坂を駆け下りた。

 怪物が後ろから追ってくる。

 それは、まさに悪夢そのものだった。しかし、悪夢なら目を覚ませばいい。これは現実なのだ。今、もし、あれに捕まったら・・・・・

 ———喰われる

 それは、人間が久しく忘れていた、最も根元的な、最もすさまじい恐怖だった。

 コートニーは悲鳴をあげ続けた。死に物狂いで走った。何度かつまずき、転びそうになったけれども、かろうじてバランスを取りつつ、彼女は走り続けた。

 やがて、背後の音が小さくなってきた。

 コートニーは走りながら後ろを振り返った。三角形の頭部が小さく見える。速さでは人間の方が上のようだ。肉食カタツムリはだんだん離れていった。

 ————助かった

 ほっとしたけれども、コートニーは走るのを止めなかった。遥か先に湖が見える。早くあそこまで行きたかった。この不気味な森の中にいるのはごめんだった。

 荒い息を吐きながら、コートニーは走り続けた。

 いつのまにか、かなり急な坂を駆け下りていた。キノコの群は生え際からすこし上で湾曲して天に向かって伸びている。その間を、コートニーは半ば滑り落ちるように下った。時々、三角頭の怪物が、キノコの間から見えるような気がした。錯覚だ、錯覚だ、と彼女は自分に言い聞かせた。一刻も早く、下の湖まで行きたかった。そこに行ったからといって何とかなるわけではないが、この毒々しいキノコの中にいるのはもうたくさんだった。

「道」が湾曲していた。コートニーはキノコの柄に手をかけて、スピードを落とさずにそこを曲がった。

「ああっ!」

 途端に足元から、地面が喪失した。

 コートニーの体は一瞬、宙を舞って、次の瞬間、地面に開いた直径1メートル位の穴に落ち込んだ。とっさに手を穴の縁にかけたが、そこはまるで蝋のようにつるりと滑って、彼女はなすすべもなく穴の中へと落ちていった。

 落下する感覚。恐怖が襲ってきたが、しかし、穴はそれほど深くはなかった。

 2メートル程落ちて、彼女は底についた。最初についた足は妙な感覚と共に滑って、彼女は尻餅をついた。

 水しぶきのようなものが上がった。穴の底には何か、液体のようなものがたまっていた。コートニーは後ろについていた手を見た。どろりとした、粘液のようなものがべっとりとついていた。掌を広げると、それは接着剤のように指の間で糸を引いた。

「な、なにこれ!?」

 薄暗い穴の中をよく見てみると、その粘液は穴の底に10センチ位の深さでたまっている。コートニーは立ち上がった。両脚はくるぶしの所まで沈んでいた。

 ———これは、

 コートニーは恐ろしいことに気づいた。

 これは、あの怪物の粘液だ。

 コートニーは、反射的に、壁に手をかけた。あの生物の痕跡の残る所から、早く脱出したかった。早く、早く!しかし、穴の壁は妙につるつる滑って、手がかりが全くなかった。しかも、無理に登ろうとしても、手足についた粘液が邪魔をして、体を支えることができない。

 コートニーは焦った。穴から出られないことが、彼女を不安にした。彼女は半狂乱になって、穴の壁にしがみついた。しかし、両手は無慈悲に滑って、彼女は再び、穴の底に転がった。粘液のしぶきが散った。彼女は悲鳴を上げた。慌てて起きあがる。マントは粘液でべっとりと湿っていた。彼女は上を見上げた。丸い入り口が見える。それほど遠くではないけれど、どうしても出られない。まるで蟻地獄に落ちたアリのように・・・・

 その時、ある考えが浮かんだ。恐ろしい考えだった。

 ・・・・・ここは、あの怪物がつくった罠なのでは・・・・・

 不自然に丸い入り口、登れない壁、そしてこの粘液。

 動きの速い生き物を捕らえるために、あの肉食カタツムリは森の中の通路上に罠をつくる・・・・

 ありそうな話だった。コートニーの顔から、血の気が引いていった。私は捕まったんだ。そのうちに、さっき追いかけてきた奴が、ここへやってくる・・・・

「いやああ!」

 コートニーは穴の壁をかきむしった。何とかして手がかりを造ろうとしたが、何か特殊な処理を施しているらしく、壁はまるで強化樹脂のように、キズひとつつかなかった。

「出して、出して、出して!」

 コートニーは絶叫した。

 その時、

 何かが滑るような音がした。コートニーは上を向いた。

 ずりっ、という音が、再び聞こえた。

 さっきの怪物が這う音だった。

 ————追いつかれた!

 コートニーの背中を、恐怖が走り抜けた。一瞬のうちに足から力が抜けて、彼女はそこにへたりこんだ。

 音が、聞こえていた。ゆっくり近づいてくる。

 コートニーは、恐怖の眼差しを上に向けていた。そのまま彼女は硬直した。

 動いちゃだめだ、動いちゃだめだ・・・・

 動かなければ、気づかずに行ってしまうかもしれない。可能性は低かったが、それが唯一の望みだった。

 髪の毛から粘液を滴らせながら、コートニーは祈るような目で丸い空を見上げた。

 時間が過ぎた。少女は自らの心臓の音を聞いていた。実際には数分だったかもしれない。しかし、彼女には永遠ともとれる時が過ぎた。

 やがて、穴の入り口の所に何かが見えた。それは、ゆっくり、穴の中へ這い込んできた。細長い、紐のようなものだった。直径は10センチ位だろうか。表面には細い溝が走り、所々に短い突起のようなものが生えている。

 それは、注意深く穴の内側をなぞるようにして、下へと降りてきた。穴の壁に触れるたび、その先端は小さく震えた。

 ———中を探っている

 あれはあの怪物の触手だ。コートニーは気づいた。獲物がいるかどうか探しているんだ。

 触手はゆっくりと降りてきた。数分かけて、恐怖に声も出ないコートニーの目の高さまで降りてきた。彼女の目の前50センチくらいのところでそれは蠢いていた。イソギンチャクのような動きだった。

 コートニーは動かなかった。座り込んだまま、まるで銅像のように硬直して、じっとそれを見つめていた。

 触手の先には目はついていない。動かなければ気づかれないかもしれなかった。コートニーは体の全ての動きを、呼吸さえも止めた。

 やがて————

 来たときと同じように、ゆっくりと、それは引き返していった。

 壁をなぞりながら、引き戻されてゆく。穴の入り口まで来て、ぴくん、と震え、それから完全に消えた。

 沈黙が流れた。

 しばらく経ってから、コートニーはため込んでいた息をゆっくりと吐き出した。耳を澄ませる。何も聞こえない。

 ————行ってしまった?

 コートニーは上を見上げた。青い空。雲が流れていた。風の音。その他には何の気配もない。

 助かったの?私・・・・

 さらに数分、彼女は待った。やはり、何も聞こえない。

 肉食カタツムリは行ってしまったようだ。

 ゆっくりと、コートニーは立ち上がった。

 立ったとき、髪についていた粘液が垂れてきて、その一滴が、彼女の目に入った。

「痛っ!」

 次の瞬間、不気味な音が聞こえた。そして粘液で痛むコートニーの目に、三角形をした巨大な頭が見えた。あっという間に頭の下にある吸盤のようなものが開いて、彼女の首の下を掴んだ。悲鳴をあげようとした時、触手が首に巻き付いて息を止められた。一瞬のうちに、彼女は穴の外へ引きずり出されていた。

「——————う!」

 コートニーは悲鳴を上げようとした。しかし、声は出なかった。彼女は穴から引きずり出され、カタツムリの口にくわえられたまま宙にぶら下げられていた。

 首が締まる。声にならない絶叫をあげながら、彼女は暴れた。手足を振り回して逃れようとする。足が何度か怪物の体に触れたが、妙に軟らかい感触がして、あまり効いているようには見えなかった。カタツムリは締め上げてくる。コートニーは、意識が薄れていくのを感じた。だめだ、気を失ったらだめだ、彼女は首を締めている触手のひとつを掴んで、それに思いきりかみついた。

 カタツムリは奇怪なうめき声を上げた。そして、コートニーを空中高く投げあげた。

「ああっ!」

 彼女の体は木の葉のように宙を舞って、怪物から5メートル程離れた地面に叩きつけられた。背中から地面に落ちて、一瞬、息が止まる。痛みで体が動かなくなった。

 カタツムリは呻いているコートニーの方へ頭を向けて、しばらく様子をうかがっていた。コートニーは荒い息をしながら、カタツムリの様子を見た。

 頭の突起が揺れている。彼女の息づかいに反応しているようだ。

 私を観察している・・・・・弱らせてから、食べるつもりなんだ

 カタツムリが、地面を滑ってきた。コートニーは倒れた姿勢のまま後ずさった。何とか逃げようとしたけれど、体についた粘液が固まってきたのか、手足がうまく動かない。怪物は近づいてくる。そいつはしなやかな動きで近づいて、彼女の真上で口を開いた。そしておもむろに彼女の体をくわえて、再び宙に投げあげた。

 浮遊感、そして、再びコートニーは地面に激突した。

「———ぐ!」

 うつ伏せに落ちて、コートニーは呻いた。胸が圧迫され、意識が遠のいた。目の前が暗い。死へと続く闇だ。あの怪物に食べられる姿が目に浮かんだ。

「いやだ、いやだ、・・・・・いや・・・・だ」

 恐怖が、彼女の意識を現実に引き戻した。

 渾身の力を振り絞って、彼女は四つん這いの姿勢にまで起きあがった。弱々しく後ろを振り返る。

 カタツムリが、こちらを向いて、じっと観察していた。

 コートニーは息も絶え絶えだった。体中が痛い。もう動けそうになかった。

 目の焦点がぼけて、カタツムリの姿がぼやけていく。

 だめだ・・・もう・・・・

 ふっと力が抜けて、彼女はその場に崩おれた。

 その時、体の下に、何か堅いものがあるのに気づいた。

 肩からかけていた鞄だった。

 ———そういえばこの中に・・・・・

 コートニーはまだ希望が残っていることを知った。彼女は呻きながら、鞄を開けた。ちらりとカタツムリを見る。まだ動いていない。彼女は鞄の中に手を差し込み、少年から渡された鉄の塊を取り出した。

 ———これはね、「マテバ6式ウニカ」といって、大口径の弾も撃てるように造られた特殊な銃なんだ・・・・・

 少年の言葉が甦った。コートニーはカタツムリの方を向いた。動き出した。ゆっくりとこちらへやってくる。

「・・・・・うぅ・・・」

 呻いて、コートニーは体を仰向けにした。顔を上げて上体を起こす。ひざを立てた両脚の間から、近づいてくるカタツムリが見えた。コートニーは両手で拳銃を持って、カタツムリに銃口を向けた。しかし、力が入らず、銃口はがたがたと震え続けている。カタツムリは近づいてきた。

 お願い・・・・

 力の入らない指で、コートニーは拳銃の安全装置を外した。使い方は一応あの少年に教わっている。これで引き金を引けばいいはずだ。

 お願い、神様!

 彼女は引き金を引いた。

 重い銃声が轟いた。コートニーには、目の前が白熱したように見えた。

 銃口から青白い光が迸り、カタツムリの後ろにあったキノコに命中した。爆発! 蒸発したような音を立てて、菌体の大半が吹き飛ばされていた。

 一瞬、驚いたようにカタツムリの動きが止まる。辺りに菌糸が焼ける焦げ臭い臭いが漂ってきた。

 すさまじい威力だった。とても拳銃とは思えない。撃った後の苦痛に呻きながらも、コートニーの脳裏に少年の言葉が甦った。

 ———弾頭にも細工がしてあるんだ

 カタツムリの顔がコートニーの方を向いた。再び近づいてきた。コートニーは銃を構えた。手が震える。あの反動にはもう耐えられそうにない。多分、これが最後の一発だろう。

 失敗はできない。できるだけ引きつけて撃たないと・・・・・

 カタツムリは近づいてきた。三角頭を上下させながら滑ってくる。コートニーは狙いを定めた。銃の延長線上に、頭部が入った。

 ———撃つんだ!

 心の中で何かが叫んだ。コートニーは引き金を引き絞った。しかしそのとき、唐突に、全く唐突に、かつて聞いたクレイの言葉が彼女の脳裏をよぎった。

 殺しはしない。一生懸命に生きているのだから・・・・・

「————え?」

 ふと、少女はその怪物の中に、自分と同じ「生命」を感じた。そして、ほんの一瞬だけ、ほんの僅かに罪悪感を憶えた。

 その一瞬の躊躇が彼女には高くついた。その隙にカタツムリが口から黒い触手を射出した。イカの触腕に似たその触手の先端にはノコギリのような鋸歯がびっしり生えていた。

 触手はカメレオンの舌のように凄い速度で伸び出し、躱す間もなく、彼女の足にビタッと貼りついた。無数の歯や棘が皮膚にざくっと刺さり込む。

「痛いっ!」

 咄嗟に彼女は銃口をそれに向けた。だがそれは致命的なミスだった。

 彼女は何をさておいても本体を破壊すべきだった。でももう遅い。カタツムリが三角頭を大きく振ると、黒い触手から強烈な衝撃が放出され、彼女の体を走り抜けた。

「———くああっ!」

 コートニーは悲鳴をあげた。

 触手が電気ウナギのように放電していた。

 しかもそれは通常の電撃ではなかった。電圧パルスを音に変換する装置があればブゥーンという連続した音が記録されただろう。高電圧ボレー放電。強力かつ持続的な電撃である。

「いっ!いぎっ!!いッ!!!」

 デンキウナギは餌の小魚を捕らえるとき、単に感電させるだけでなく、筋肉を直接電気刺激することで獲物を「遠隔操作」するという。少女はその状態にあった。すなわち、全身の筋肉が彼女の制御を離れ、体が1ミリも動かせない。そしてカタツムリがまた頭部を振ると、彼女の体が勝手に動いた。バチッと弾かれたように仰け反る。触手による遠隔操作だ。そして次の電撃で、バネ仕掛けの人形のように体が後方に跳ね飛んだ。圧倒的な力に為す術なく少女の体が宙を舞う。だがこの感電による筋収縮で彼女の指が勝手に動き、拳銃の引き金をガキッと握りしめた。

 轟音、青い閃光が迸った。

 彗星のような弾丸がカタツムリの頭部に吸い込まれ、そして————

 爆発!赤い肉片が煙のように散って、怪物は四散した。

 カタツムリにとっては追い打ちで放った電撃が仇となった。少女のリモート操作を誤り、自滅したのだ。

 肉が焦げる匂いが漂う中、怪物に引導を渡した少女が壊れたマリオネットのように地面に転がる。少女は眼球だけを動かして周囲を見た。粉々になった殻が散乱し、ちぎれた尻尾の一部が地面の上でぴくぴくと蠢いていた。しかし、すぐにその動きも止んだ。

「・・・・・・あ・・・・」

 コートニーは呟き、次の瞬間、強縮していた全身の筋肉が一斉に弛緩して、彼女は気絶した。


 コートニーは呻きながら目を覚ました。肉が焦げるような臭いがまだ漂っていた。

 目を開く。目の前の地面に、カタツムリの破片が散らばっていた。

 数分ほど、気を失っていたらしい。

 彼女は息を吐いて、起きあがろうとした。

「・・・・うっ・・・・」

 途端に痛みが走り、動きが止まる。

 全身の筋肉が悲鳴を上げていた。体を動かそうとしても、その部分の筋肉がこむら返りを起こし、激痛で再び意識が飛びそうになる。コートニーは呻きながら、筋痙攣がおきないように少しずつ関節を動かして、何とか体を起こした。くらっと倒れかける。彼女は頭を下げて、必死で意識を保とうとした。ずっとこんな所にいるのは危険だ。死臭をかぎつけて、他の奴が来るかもしれない。

 しばらく深呼吸をしていると、少し楽になった。行かなければ。コートニーはゆっくり時間をかけて立ち上がった。全身が痛い。筋痙攣と、打ち身のせいだ。さらに、体中についた粘液が固まって、まるで糊のように動きを妨げた。あと、左足が言うことをきかない。見てみると、ふくらはぎの肉が裂けて固まった血がこびりついていた。コートニーは鞄から傷薬と包帯を取り出して応急手当をした。

 そして、少女は歩き出した。左足はほとんど動かない。彼女は足を引きずり、生えているキノコに半ば掴まるようにして、下り坂を降りていった。

 眼下に湖が見える。蒼い湖水は光を受けて宝石のように輝いていた。その美しさに惹かれるように、倒れそうになりながらも、コートニーは歩いた。あそこへ行こう。早くあそこへ。

 あそこに何があるのかはわからない。しかし、宗教を盲信する信者のように、彼女は湖を目指した。

 そして、

 気の遠くなるほど遅い歩みの果てに、コートニーはとうとう坂を下りきって、湖岸についた。目の前には砂浜が広がり、その先に輝く湖水が見えた。彼女は泣きそうになった。ふらふらとした足どりで砂浜を歩き、岸辺までたどり着いた。足元で透明な水が、光を反射して揺れていた。彼女はそこに跪き、意識を無くしたように、水面を見つめていた。

 ———その湖の水は飲んでも大丈夫だ。明るいうちなら、危険な生物も少ない。

 少年の声がした。あの人もかつてここに来たのか。やはり、あのカタツムリに襲われたのだろうか?

 コートニーはぼんやり考えながら、立ち上がって、一歩、水の中へ足を踏み入れた。波紋が広がる。それほど冷たくはなかったけれど、打撲傷で火照ったからだには心地よかった。彼女は服のまま湖の中へ入っていって、衣服と体についた粘液を洗い落とした。

 肩まで水に浸かって体を洗っているうちに、コートニーの心にようやく辺りを観察してみようと言う考えが芽生えた。彼女は辺りを見回した。後ろ側、彼女が歩いてきた方は、一面巨大キノコの森が広がっていた。湖に面して見渡す限り広がっている。湖のこちら側には、今の所キノコの森以外のものは見えない。彼女は前方に目を移した。対岸が見えるかと思ったが、ここからだとよく分からない。少し霞がかかっているようだ。天気が良くなれば何か見えるかもしれない。

 これからどうしよう?

 コートニーは少年の声を聞こうとした。しかし、何も聞こえてこない。多分、これは自分が決めなければならないことなのだろう。クレイの居場所は、あの少年にも分からないのだから・・・・

 コートニーは困惑した。今の所、クレイのいた痕跡は何もない。砂浜には足跡は見えない。キノコの森に居るとは考えにくかった。ただし、もし何らかの痕跡があったとしても、今の彼女には、あの森に再び入ることはできなかっただろうけれど。

「クレイ!何処にいるの!」

 コートニーは叫んだ。その悲痛な声は彼女を囲む異世界に広がっていった。森の方で少し木霊が響いたけれど、それ以外に彼女の声に応えるものは何もなかった。

 コートニーは陸に上がった。濡れた服を乾かしながら、とりあえず砂浜伝いに歩いていこうと思った。

 開けたところにいた方がいい。クレイの方からこっちを見つけてくれるかもしれないし—————

 それから、少し休んで、コートニーは痛む左足を庇いながら歩き出した。かくして彼女の小さな探検行が始まった。

 コートニーは歩き続けた。キノコの森を警戒していたが、あの怪物が現れる気配はなかった。森の外には出てこないのかもしれない、と彼女は思った。

 彼女の左手には赤黒い森がずっと続いていた。胞子が飛んでいるのか、霞のようなものが森全体にかかっている。右手は湖。何かがいるらしく、時折水音が聞こえた。一度、魚らしきものが水面上に飛び上がったが、それは彼女が今まで見たこともないようなグロテスクな形をしていた。

 二時間ほど歩いた頃だろうか。ふと、彼女は湖の畔に何かがあるのに気づいた。皿のようなものがいっぱい浮かんでいる。それはどうも植物のように見えた。近寄ってみると、それは巨大な蓮のようなものだった。

「すごい、・・・・・大きい」

 直径30センチ位の葉なら彼女も見たことがある。しかし、ここにあるものは優に2メートルを越えていた。そして異様に分厚い。10センチはあるだろう。葉っぱ一枚がまるで筏のようだった。彼女はクレイの部屋の本棚で読んだ図鑑を思い出した。確か南米にはこれと似たようなのがあったはずだ。直径はせいぜい1メートル位だけど。葉の縁が上に持ちあがった形もこれと似ている。名前は確か、オオオニバスとか。

 私達の世界にあるのとよく似たものもあるんだ。ここ。

 それだけで、何となく彼女はほっとした。

 コートニーはその蓮をよく観察してみた。きれいな緑色。盆のような形。それが3m位の間隔をおいて一面に並んでいる。葉の群はかなり沖の方まで広がっていた。所々に、大きな白い花が咲いていた。青い水面に映えて美しい。

 コートニーは砂浜に腰を下ろして、足を休めた。

 確か、オオオニバスは子供が乗っても沈まないんだ・・・・・

 そんなことをぼんやり考えた。霞のかかる水平線を見つめる。その時、太陽が既にかなり傾いているのに気づいた。

 日が、暮れる・・・・・

 ふと、彼女はその光景に何となく違和感を感じた。ここに来たときは気づかなかったけど、太陽の様子が何かおかしい。ずっと遠くにあるはずの太陽がまるですぐそこにあるみたいな、まるでプラネタリウムで見る夕陽みたいな、そんな気がした。そんな考えに取り憑かれると、この空自体が何か作り物のように感じられる。

 そのことが少女を不安にした。

 ———眠るところは注意深く探した方がいい。なるべく洞穴か、木の上で眠るようにすべきだね

 唐突に、少年の声が聞こえた。ぼんやりと湖を見ていた少女は我に返った。途端に恐怖が彼女を襲った。そうだ、寝てる間にあのカタツムリなんかに襲われたら・・・・・。歯舌の放電を受けたときの鈍器で殴られたような衝撃を思い出して、彼女の全身に鳥肌が立った。慌てて彼女は辺りを見回した。

 どうしよう?何処か安全な所は・・・・

 しかし、砂浜の向こうはあのキノコの森。洞窟や木なんて何処にもなさそうだ。

 どうしよう?

 困惑と恐怖の入り交じった表情で、コートニーは湖の方を見た。巨大蓮の集団が見えた。そのとき、ひとつのアイデアが浮かんだ。我ながらいい考えだと彼女は思った。

 そうだ、この蓮の上で寝よう———

 オオオニバスは子供が乗っても沈まない。ここの蓮はそれよりもずっと大きいし頑丈そうだ。多分、私が乗っても沈まないだろう。適当な葉に乗って、沖の方へそれを動かしていけば安全なのではないか?あのカタツムリだって、そんなに沖までは来られないだろう。

 よし、そうしよう

 コートニーは湖に入って、手近にあった葉を引き寄せた。水に浸っている方には刺がいっぱい生えていたが、表にはほとんどない。寝転がっても大丈夫そうだ。それから彼女は頭を水に沈めて、葉の裏を見た。中央から太い蔓状の茎が出ていて、水の底へと消えている。多分、沖の方にある植物体とつながっているのだろう。これは錨と同じだ。これがあれば、変なところへ流されることもないだろう。最後に、一番重要なことを試した。葉を岸の方へ引っ張ってゆき、手頃な深さの所で、彼女はその上に膝をのせた。蓮の葉は、少し下に沈んで、そして止まった。葉の縁は充分なくらい水面上に出ている。いけそうだ。彼女は思い切って、一気に乗ってみた。反動でぐらりと葉が揺れた。しかし、水は一滴も入ってこない。

 いける。・・・・・よかった

 コートニーは安堵の溜息を漏らした。彼女は空を見上げた。日が落ちようとしていた。湖の彼方が、金色に光っていた。

 そういえば————

 ふと、過去の記憶が甦った。

 あの人と遭ったのもこんな時だった。コートニーの脳裏に、焼け跡に佇むクレイの姿が甦った。しかし、その記憶はもう一つのあまりに辛い記憶と結びついていた。コートニーは記憶をたどるのを止めた。涙が出そうになったからだ。彼女は夕日を見つめていた。クレイは今何処にいるのだろう?この世界のどこかにいて、この夕日を見つめているのだろうか?

 コートニーは溜息をついた。それから、ゆっくり手で水を掻いて、蓮の葉を沖の方へ運んでいった。


 —————夜。

 コートニーはマントを布団代わりにして蓮の葉の上に横になったまま、薄く目を開いていた。

 眠くはあったが、まだ眠りたくなかった。彼女はぼんやりと考え事をしていた。

 今日のあのカタツムリ————

 一瞬、私はあれを殺したくないと思った・・・・・

 どうしてだろう?

 クレイのせいかな?

 あの人は変な人だ。私にはわからない。あの人のこと・・・

 じゃあ、何故、あんな目に遭ってまで、ここに留まっているのだろう?

 答えは、わからない。何故自分がここにいるのかわからない

 コートニーは寝返りを打って、仰向けになった。夜空には満天の星が輝いていた。はっきりとは分からないが、インフェリア上空の星座とは違うような気がする。それに、さっきの夕陽と同じく、何か作り物のような気がした。

 あの星空の向こうにあるのは宇宙の闇ではなく、もっと恐ろしい何かかもしれない。

 コートニーの瞳で、満天の星がゆらめく。

 そして、異界の夜は更けていった。


 その夜、蓮の上で眠りに落ちていたコートニーは何かを聞いた気がした。

 遠く、ずっと遠くで、重くて低い音がした気がした。誰かが絶叫しているような、長く続く音だった。

 重い眠気によどんだまま、彼女は音がする方へ目を向けた。視界の遙か彼方、星空の下で、小さな光点がチカチカと瞬いているような気がした。音はその物体から発せられているようにも感じられる。

 —————あれ?

 しかし、その音はすうっ、と小さくなり、光も消えてしまった。

 あれ?・・・・・今の、もしかして?

 しかし幻覚めいた音と光は、疲れ切った彼女の意識をそれ以上覚醒させることはなかった。

 コートニーは眠りに落ちた。


 翌朝。

 コートニーは頬に当たる冷たい風の感触で目を覚ました。彼女の耳に、蓮の葉の縁に当たる水の音が聞こえていた。

 旅は、続いている。彼女は目を開いた。

「・・・ん・・・・・」

 横向きで眠っていた少女は、葉っぱの上にゆっくりと起きあがった。

 しばらく、寝ぼけたようにぼーっとしていたが、突然彼女は昨夜のことを思い出した。夜の闇の中で聞いた音を。

「———あ!」

 慌てたように、彼女は辺りを見回した。何も見えない。クレイの飛行機はもちろんだが、

「———あ!」

 慌てて再び、彼女は辺りを見回す。何も見えない。

 そう、何も————。

 コートニーの周りは、見渡す限り、青い水面が広がっていた。

「・・・・・・え?」

 確か、岸に生えてる蓮の上にいたはずでは・・・・・

 葉っぱは沖の方へ動かしたけれど、岸辺からは100メートルも離れていなかったはずだ。それなのに、今は辺り一面、水面以外何も見えない。いつの間にか、葉っぱははるか沖合を漂っている。

 天気は快晴だった。周りの景色はよく見える。

 水平線が見えた。どこもかしこもそうだった。岸辺なんかどこにも見えなかった。

 コートニーは下を見た。藍色の水。底知れぬ深さを感じさせて、足元には深淵が横たわっていた。

 コートニーの顔が蒼白になった。これではクレイを探すどころではない。自分自身が遭難してしまった・・・・

 でも、どうして———

 葉っぱは水中の茎で植物体と繋がっていたはずなのに・・・・

 コートニーは葉の縁から身を乗り出して、落ちないように苦労しながら、葉の裏を覗き込んだ。いつの間にか、茎は消えていた。そのかわり、葉の裏からは無数の白い根が生えだしていた。

 コートニーは頭を上げた。髪から水を滴らせながら、彼女は困惑したような表情をしていた。

 彼女は記憶をたどった。記憶力には少し自信があった。クレイの持っていた本の中に、確かこんな植物がいたはずだ。確か、セイロンベンケイソウ。この植物は落ちた葉っぱからも根を伸ばし成長する。おそらく、彼女が乗ってるこの蓮のような植物も、ある程度成長した葉をムカゴのように切り放すことで、その分布を拡大させるのだろう。

 そういうことか、彼女は少し納得した。しかし、植物の習性がわかっても、事態は全く好転しない。彼女はある意味での真理を見いだした。

 生物学は、役に立たないな

 コートニーは失望したように溜息をついた。

 どうしよう・・・・

 しかしこれではどうしようもない。どこかの岸辺に漂着するのを待つしかない。

 ここは湖なんだし、そうやたらに広いはずはない。そのうち、陸地が見えるだろう。

 コートニーは楽観的に考えようとした。しかし、ここは何と言っても、「異世界」なのだ。湖だから狭いなんて常識は通用しないかもしれない。

 コートニーは怖くなった。あのカタツムリに襲われたときとはまた別の恐怖だった。今度の場合は、銃を持っていても何の役にも立たない。

 どうして、次から次にひどい目に遭うのだろう。こんな事なら来なければよかった

 コートニーは膝を抱えて葉っぱのうえに座ったまま、呆然と湖面を見つめていた。時折、そよ風が吹いてきて、水面にさざ波がたった。

 怖かった。自分の身がどうなるかわからない不安が、胸を締め付けていた。

 コートニーは自分が家からフルートを持ってきていたことを思い出した。そうだ。あれを吹けば、この不安感が少しは紛れるかもしれない。それに、もしかしたらどこかにいるクレイの耳にも届くかもしれない。

 コートニーは鞄を開け、フルートの箱を取り出した。中身を取り出して、三つの部分を連結させる。きらきら光る銀のフルート。それは彼女の手元に残った、たったひとつの過去の形見だった。

 ひざを崩して葉っぱの上に座り、コートニーは吹き始めた。ビゼーのアルルの女、第二幕のメヌエット。美しく澄んだ旋律が、湖の上を渡っていった。

 少女を乗せた葉っぱが漂っていく。真っ青な水の上を・・・・それは不思議な眺めだった。コートニーの頭上を白い雲が流れていった。風が、心地よく吹いてくる。気持ちいい。空が青い。雲は白い。何もない。自分はひとり、水のうえ。すごく不安で、すごく怖い、こんな状況なのに、いやこんな状況だったからなのか、彼女はいきなり全てが可笑しくて仕方が無くなった。コートニーはフルートを下に置いた。それから周りを見回す。誰もいない。周囲には水と空しかない。少女はくすっと笑った。自分はどこかおかしいのだろうか?不安が閾値を超えてしまった?狂いかけている?それでもいい。コートニーはおもむろに立ち上がった。そして————

 いきなり、笑い始めた。葉っぱの上でくるくる回転しながらけたたましく笑い続ける。

 葉っぱの上で、奇妙な舞が始まった。漆黒のマントをショールのように振り回し、茜色のスカートをなびかせ、背中を反らせて回転したりしながら、少女は狂ったように笑い踊った。

 少女の笑い声が青空に響いていった。

 ただ、ここに心療内科か精神科の医師がいたらすぐに彼女に入院を勧めるだろう。明らかに感情を制御するリミッターが切れている。

 可笑しい。よくわからないが可笑しくて可笑しくて仕方がない。こんな気持ちは初めてだ。ああ、まるで空を飛んでいるような、この気持ち。この気持ちが私の心に永遠に刻みつけられればいいのに———

 少女は空に向かって何かを叫んだ。それから、いきなり、ものすごい勢いで回転した。目が回る。マントが水平近くまで持ち上がった。背を反らせて、息が果てるまで回り続けた少女はその青い瞳に異界の光を反射させて、最後に両手を天空に向けて一杯にのばし、「あ」と言った後、いきなり弦の切れた楽器のように葉っぱの上に倒れた。


 しばらくして、コートニーは目を開いた。光が眩しくて、掌で目を覆った。頭ががんがんする。眩暈のせいだ。さっきはなんであんなバカなことをしたのだろう?

 呻きながら、コートニーは上半身を起こした。頭に手を当てる。こめかみが痛い。うつむいてゆっくりと頭を降った。

「・・・・・・うぅ」

 目を上げて周りを見る。岸は見えない。そしてその代わりに・・・・・

 コートニーは見た。そして我が目を疑った。何かの見間違いかと思って、一度目を閉じて両目の間をぐりぐりと押し、再び目を開けた。

 それはやっぱりそこにあった。

 コートニーの意識が混乱した。眩暈の名残もあって、なかなか状況が理解できなかった。

 そんな、ここは湖だ。淡水なんだ。だからこれは嘘だ嘘なんだ。そうでなければ、そうでなければひどすぎる。神様はあまりに残酷すぎる。だから、これは、うそ、だ。

「嘘だよ。嘘なんだよね」

 そう呟いて、彼女は、目の前を通り過ぎる、高さ二メートル近い背ビレを見送った。

「うそなんだよねっ!」

 コートニーは背ビレに向かって叫んだ。まるで、そうすればそれが消えてしまうと信じているかのように。

 しかし、非情にもそれは消えなかった。

 恐る恐る、見たくなかったけれど、コートニーは水面下を見た。

 灰色をした、もの凄いものがそこにいた。

 二階建てバスくらいもある巨大なサメだった。微風にゆらめく水面のせいで、輪郭ははっきりとは見えないが、それがよけいに恐ろしかった。

「————あぁ」

 コートニーはもう一度気絶したくなった。

 サメだ。私の下にサメがいる————

 巨大な背びれがゆっくりと、コートニーの乗る蓮の葉の前を通り過ぎた。水面下にサメの体が見えた。光と水が織りなす網目模様が、灰色の背中でゆらめいている。背びれの根元が水を切り裂いて進んでいた。それがつくる波紋だけで、ゆらゆらと不安げに船は揺れた。

 こんな葉っぱ、襲われたらひとたまりもないよ・・・・・

 心臓をきゅっと掴まれるような気がした。どうしよう。コートニーの心に、あの少年の顔が浮かんだ。

「・・・・助けて・・・・」

 しかし、声は聞こえない。それはそうだ。いくらあの少年だって、葉っぱに乗ったコートニーが湖で巨大ザメに遭遇するなんて、想像もつかなかっただろう。

 どうすればいいの・・・・・

 ふと、コートニーの心に、クレイの面影が浮かんだ。あの人なら、こんな時どうするだろう?

 まず、ああ、このサメは淡水域に棲む珍しい種類で、名前は何々で、と嬉しそうに語るだろう。それから———

 それから・・・・・・

 その後の彼の行動は想像できなかった。やはりあの人は謎だ、と彼女は思った。

 その時、ゆっくりと背ビレが沈んでいった。サメが潜っていく。このままいなくなれ、と心の中でコートニーは叫んだ。

 水面上から背ビレが消えた。そして、不気味な静寂が漂ってきた。

 コートニーはじっとして、頭だけをゆっくり動かして周りを見回した。何もない。サメは行ってしまったのか?それもわからない。

 彼女は膝で歩いて、葉の縁へ行った。それから、水の中を覗き込んだ。

「・・・・・・いる・・・・」

 コートニーは、心が恐怖に蝕まれていくのを感じた。恐怖は絶望という相棒を伴ってやってきた。

 船の下、かなり深い所で、巨大な影が、ゆっくりと回った。サメ独特の動きで巨体をくねらせる。水の揺らめきのせいではっきり見えないのがよけい不気味だった。

 巨大な頭部が浮上してきた。灰色をした、自動車くらいある頭の形が大きくなってきた。その両側にはやけに小さく、そしてまるで剥製の様に無機質な目がついている。そして、わずかに見える腹側には、半開きにした巨大な口があった。

 頭が、浮かんできた。葉っぱの縁すれすれを通り、鼻先が水面上に出た。それからサメは体を倒し、水平になった。水を切り裂きながら、巨大な背ビレがコートニーの真ん前にぬっと浮かび上がった。

 明らかに、漂う葉っぱに興味を示している。コートニーは息を呑んで、鞄から拳銃を取り出した。グリップを握りしめる。武器はこれしかない。しかし、通用するだろうか?もし、一撃で死ななかったら、サメは暴れるだろう。そしたら、こんな葉っぱ、あっという間に壊されてしまう。水に落ちたら、私は泳げない。溺れ死ぬか、そうでなければ血の臭いをかぎつけて、たくさんサメがやってきて、そして————

 コートニーの体が恐怖に硬直した。だめだ、銃を撃っちゃいけない。このままじっとしてるんだ。サメが興味をなくして行ってしまうまで。

 サメがつくった波で、葉っぱが揺れた。サメは真下にいた。巨大な頭が、彼女の下を通り過ぎてゆく。一瞬、ざらざらしたサメの肌が、葉の裏をこすった。コートニーは小さく悲鳴をあげた。彼女とサメを隔てるものは、厚さ10センチ足らずの植物組織しかなかった。サメはあまりに大きくて、彼女の視界に入りきらないほどだった。底知れぬ深淵を漂う灰色の恐怖。それは、一度葉っぱから離れた後、ゆっくりと旋回して、頭を彼女の方へ向けた。水面すれすれを接近してくる。ちらっと顎が見えた。手のひらくらいもある歯が、ずらりと並んでいた。

「いや、助けて、助けて、たすけて・・・・」

 震えながら、呪文のようにコートニーはつぶやいていた。鞄を引き寄せて抱きしめた。その時、彼女は鞄が妙に暖かいのに気づいた。何だ?恐怖を紛らわすかのように彼女は鞄に手を差し込み、ある物体を取り出した。手の中で熱を放っている物体。あの少年がくれた白い球体を。

 突然、葉っぱがぐらりと傾いた。コートニーは悲鳴を上げた。サメが、鼻先で葉っぱを押し上げたのだ。彼女はバランスを崩し、仰向けに倒れた。その衝撃で、白い球体は彼女の手を放れ、水の中に落ちた。

 サメが離れた。反動でまた葉っぱが揺れた。まるで地震だ。コートニーは吐き気を覚えた。足元が定まらない状態。下から襲ってくる怪物。コートニーは気が狂いそうだった。彼女は必死で葉の縁にしがみついていた。

 サメが襲ってきた。コートニーの眼前に、巨大な頭部が浮き上がった。そして、いきなり顎を開いた。真っ赤な口。コートニーの目には、中でオーケストラが演奏できそうなくらい巨大に映った。

「———あああ!」

 彼女は絶叫した。サメの目が反転し、不気味な白目になるのを、彼女は見た。それはサメに襲われたものが最後に見る景色だった。

 コートニーの絶叫が響きわたった。

 その時————

 水面下で重い音がした。その瞬間、サメの巨体がぐらりとよろめいた。何かに押し上げられるように灰色の体が浮かんできた。次の瞬間、轟音をたててサメの体は半ば以上も水面に躍り出た。水面が盛り上がり、すさまじいエネルギーが巨大ザメを吹き飛ばした。

 水面が爆発した。

「ああっ!」

 コートニーをのせた葉っぱは、サメと共に空中に持ち上げられ、巨大な水柱の中で文字どおり木の葉の様に翻弄された。コートニーは反射的に鞄を抱きしめ、体を丸めて必死に衝撃に耐えていた。何が起こったのか全くわからない。爆圧で、水しぶきが雹のように彼女の体に当たった。乗っていた蓮の葉は、あっという間に粉々になって、水柱の中に散った。

 体が空中に投げ出された。下を見ると、遥か下に水面が見えた。急速な墜落感。悲鳴を上げなから、コートニーは落下し、水面にたたきつけられた。その衝撃で、彼女は意識を失った。


 コートニーは目を覚ました。耳元でさざ波の音が聞こえていた。一瞬、蓮の葉の上にいるのかと思った。しかし、そうではない。その証拠に体は半分以上水に浸かっていた。

「・・・・う・・・・」

 顔の下に、何か軟らかいものが触れていた。ゆっくり動いている。ミミズが蠕動するような動きだった。

 軟らかい感触は体の下にもあった。彼女はその軟らかいものの上にしがみつくような形で、どこかへ運ばれているらしかった。

 少しだけ彼女は目を開いた。そして、今の自分の状況を調べようとした。

 目を下に向けた。緑色をした、肉のようなものがあった。表面には小さく黄色のすじが走り、小さな突起がまばらに生えている。それの表面は波打つように動いていた。何か、生き物のようだ。

 コートニーの意識が、次第にはっきりしてきた。一メートルくらいの大きさの生き物の背中に乗っているらしい事がわかった。彼女は頭を動かして、彼女の下にいる生き物の姿を見た。

「——————わあ!」

 いきなり彼女は悲鳴をあげた。彼女が乗っていたもの、彼女を乗せて水の上を進んでいたそれは————

「ひいっ!」

 彼女は反射的に、それから手を離した。それを突き飛ばすようにして、無理矢理、体を離した。次の瞬間、彼女の体は水に沈んだ。泳げないことに加えて、まだ鞄を抱えていたから、頭を水面に出すことができない。彼女は口から泡を吹き出しながら沈んでいった。その時、沈みゆく彼女の視界にその生き物が入ってきた。彼女を追ってくる。それは、巨大なイモムシだった。

 コートニーは水中で悲鳴をあげた。声が出る代わりに水が入ってきて、彼女は喘いだ。イモムシが近づき、その背中に彼女を乗せようとした。手足をばたばたさせて少女は暴れた。しかし器用にコートニーの下に入り込んだイモムシは一度大きく体を収縮させると、まるでイルカのような優美な動きで水中を駆けた。そしてあっという間に水面に浮かび上がった。

 コートニーの顔が水面上に出た。彼女は水混じりの息を吐いた。呼吸ができる!彼女は無我夢中で空気を吸い込んだ。そして、しばらく貪るように呼吸をした。イモムシは動かない。まるで彼女が呼吸しやすいように気を使っているみたいだ。

 やがて、呼吸が落ちついてくると、怯えたような顔をしながらも、コートニーはイモムシを見た。

 助けてくれたの?私を・・・・

 緑色の体。表面にはやわらかい小さな刺が無数に生えている。彼女の斜め前に、体に比べて比較的小さな頭があった。目らしきものは見えなかった。脚もない。蝿の幼虫を巨大にしたような感じだった。

 波が虫の体に当たって、ぴちゃぴちゃ音をたてている。イモムシが頭を曲げて、コートニーの方を向いた。顔の前についている短い角のようなものが揺れた。それからハチのような顎が開いて、チィ、とそれが哭いた。

 コートニーはこの虫の感触を感じていた。虫のくせに妙に暖かい。

「この感じ・・・・もしかして」

 それは、さっきの球体から発せられていたのと同じ温もりだった。

「まさか・・・・・」

 その時、少年の声が聞こえた。

 ———この球体は、水に漬けると孵化する、いわば卵のようなものだ。何が出てくるかはお楽しみ。でてきたものは、君を護ってくれるだろう。でも、できれば使わない方がいいかもね。君にとっては精神衛生上よくないだろうから

 確かによくない、とコートニーは思った。しかし、少しほっとした。少なくともこの虫は敵ではなさそうだ。見かけによらずおとなしそうだし・・・・

 しかし、と少女は思った。

 このイモムシが、さっきあの巨大ザメをやっつけたのだろうか?

 この小さな体では、とても不可能に見えた。

「・・・・あなたが、さっきのサメをやっつけたの?」

 イモムシは応えない。かわりに前を向いて再び進み始めた。コートニーは少し躊躇したが、思い切って虫の体につかまった。すると、いきなりイモムシはスピードを上げた。

「ひゃっ!」

 コートニーは叫んで、イモムシにしがみついた。スピードがあがる。どんどんあがる。彼女は驚愕した。こんな体で、どうしたらこんなに速く進めるんだろう。

 いつしか、横では水しぶきが散っていた。速い。まるで、モーターボートのようだ。コートニーの横で水が散り、体が水を切る鋭い音が聞こえた。

「うわぁ!」

 叫びながら、コートニーは後ろを見た。虫はどうやら後方へ水を勢いよく噴射することで進んでいるらしい。彼女の後方は白く泡立っていた。

 前方に波———

 イモムシは波に乗り、そして、勢いをつけて宙に飛び上がった。

「わあ!」

 耳の横で風が鳴った。上昇感!放たれた矢のようにイモムシが飛んだ。太陽に水しぶきが輝き、コートニーの瞳に金色の輝きが散った。

 くるくると空中でイモムシが回転した。空を駆ける事を楽しんでいるかのような動きだった。

 そして、心地いい浮遊感の後、イモムシは飛沫をあげて着水し、再び波をけたてて進み始めた。

 コートニーは虫の背中にしがみついていた。人を乗せたイモムシが高速で湖を渡ってゆく。それは奇妙な眺めだった。

 コートニーは、このイモムシが特定の方向を向いて、一直線に進んでいるのに気づいた。

 もしかしたら、陸がある方向がわかるのかもしれない。

 コートニーの顔にわずかに喜色が浮かんだ。この不思議な虫は、私を陸まで運ぶつもりかもしれない。そうであってほしかった。

 しかし、この世界の現実はそれほど甘くないことを、彼女はすぐに知った。

「お願い、私を陸まで・・・・」

 コートニーはつぶやいた。その時、唐突に虫の動きが止まった。コートニーを乗せたまま、水から体を半分くらいだして、頭にある短い触角を震わせた。何かを探っているような動きだった。

「ど、どうしたの?」

 イモムシは左右に大きく頭を降った。それから、警戒するように、チィ、と哭いた。

 それと同時に、それは襲ってきた。

「いたっ!」

 コートニーは右脚に激痛を感じた。反射的に足元を見る。

 小さな、魚のようなものが脚に食いついていた。

「きゃっ!」

 彼女は脚を振った。しかし剥がれない。かわりに魚の歯が食い込んで激痛が走った。彼女は手を伸ばしてむしり取ろうとした。その時、左脚にも痛みが走った。見ると、同じ魚が左脚にも食いついていた。体側にずらっと棘が生えた奇怪な魚だった。

「こ、これは!」

 コートニーはクレイの部屋で見た古生物図鑑を思い出した。これは、棘魚(アカントーデス)だ。でも、どうして?太古の地球にいた魚がここに?

 そして彼女は見た。水の底から、無数の黒い点が浮上してきた。まるで暗雲のように。それは棘魚の大群だった。

 コートニーは絶叫した。

 一瞬のうちに、少女とイモムシは黒い群に覆われていた。あまりの数に、イモムシは少し水面上に押し上げられた。棘魚が襲ってきた。そいつらはところかまわず噛みつき、肉片を奪っていく。

 緑色の液体が周りに広がった。イモムシの体液らしかった。イモムシは大きく頭部を振ると、口から薄黄色の液体を吐き出した。それはイモムシの体液と混じりながら拡散する。すると、棘魚の動きが変わった。肉片を食い取っていた秩序だった動きがなくなり、無秩序に暴れ出す。どうやらその液体は何らかの忌避効果があるようだ。しかし、鋭い棘を持つ魚たちが暴れるせいでイモムシの体壁が切り裂かれる。イモムシは苦しむような声を上げると、いきなりコートニーを放して、水中深く潜っていった。

「———え!」

 いきなり浮力が喪失して、コートニーの体は水中に投げ出された。虫は潜っていった。彼女を見捨てて逃げていくように見えた。そして、今まで盾になっていた虫が消えたために、コートニーは棘魚の群の中に一人、生け贄のように投げ出された。

 狂乱した魚が一斉にコートニーに群がる。

「ぐ・・・あ!」

 激痛が走った。マントと衣服があるところはまだ大丈夫だけど、剥き出しの手足は滅茶苦茶に暴れ回る棘の攻撃に晒される。まるで生きたノコギリの群に襲われているようだ。コートニーは水中でもがいた。魚は暴れ続ける。少女の周りで赤い血が煙のように散った。

 その時、水中から何かがものすごい勢いで上昇してきた。のたうっている少女の瞳にもそれが見えた。あの虫だった。水中深くから勢いをつけて、まるでロケットのようにイモムシは上がってきた。そして———

 すさまじい水しぶきをあげて、虫は湖から飛びだした。白い飛沫の尾を曳きながら上昇していく。

 そして、いきなり空中で虫が弾けた。

 爆発音が響いた。体を包んでいた組織が弾け飛び、かわりに甲高い羽音が響きわたった。爆炎の向こうに、成虫になった虫が羽ばたいていた。

 魚の群に押し上げられるようにして、水面上でもがいていたコートニーの目にもそれは見えた。

 刺だらけの脚に、高速で震える羽根、そして、左右にやたら長く伸びた眼柄。

 コートニーは絶叫した。あまりの恐怖に、魚に襲われていることも忘れた。

 それは、彼女を襲い、彼女の父に瀕死の重傷を負わせた、あの「ハンマーヘッド」だったのだ。

 ギィ、と凶悪な声で虫が哭いた。虫の頭が下を向いた。コートニーの方を。

 ハンマーヘッドは畳んでいた脚を広げた。そこには無数の刺があった。

 爆発音がした。

 一瞬のうちに、水面めがけて数十本の針が打ち出されていた。

 針の雨は魚の群の真ん中に突き刺さった。

 ハンマーヘッドは同時に急降下、そしてあっという間に水面上のコートニーを脚で抱えて飛び上がった。

 次の瞬間、水面が爆発した。すさまじい水柱が上がり、魚の破片が飛び散った。

 爆風と共に、コートニーの絶叫が響いた。彼女は半狂乱になって、虫の脚の中で暴れていた。

 これは夢だ。悪夢だ。早く醒めて、早く、早く!

 コートニーの耳に、あの忌まわしい羽音が大音量で響いていた。それだけで発狂しそうだった。精神衛生上よくない、と言った少年の言葉の意味が分かった。

 あの少年、ああ、あの少年は一体何なのか!何故こんなものを!

 優しく親切だった少年のイメージが、彼女の心の中で音を立てて壊れた。

 ひどい、ひどすぎる、残酷だ、残酷だ、ああ、誰か、誰か助けて!

「いやあああ!」

 コートニーは暴れた。虫の脚の間から無理矢理に出ようとしてもがいた。しかし、まるで鋼のように脚はびくともしなかった。

「放して、放して、放して!」

 彼女は叫んだ。声が枯れるまで叫んだ。

「助けて、クレイ、助けて、お願い!」

 しかし、彼女の叫びに応えるものは誰もいなかった。コートニーはもがいた。しかし、ハンマーヘッドは放さない。少し困惑したように脚を広げたけれど、コートニーが出られるほどの隙間は開かなかった。

 コートニーは絶叫した。その時、何かか頭の中で弾け飛んだ。

 彼女は、もがくのを止めた。そのかわり、肩から掛けていた鞄に手を差し込み、ゆっくりと「マテバ6式ウニカ」を取り出した。何かにとりつかれたような目をしていた。両手で銃を握り、ゆっくりと、銃口を上にあるハンマーヘッドの頭に向けた。口には狂人のような薄笑いが浮かんでいた。

 そして、少女は引き金を引いた。

 轟音が響いた。

 頭部で爆発、破片が散った。

 ハンマーヘッドが絶叫した。銃弾は左目を吹き飛ばしていた。

 ハンマーヘッドはよろめいた。苦悶のように、甲高い羽音が響いた。次の瞬間、眼柄からどくどくと緑色の血が吹き出した。それは真下にあったコートニーの顔にもろにふりかかった。

 顔を鮮血に染めて、少女は見上げていた。片目をなくした虫の顔を。風が、血を後ろへ吹き飛ばしていた。致命傷のはずだ。しかし、ハンマーヘッドは落ちなかった。

 殺される!

 コートニーは戦慄した。しかし、ハンマーヘッドは何もしなかった。さっきと同じように大事そうに彼女を抱えて飛んでいた。目から血を滴らせながら。その血が、彼女の顔にかかった。口元に流れてきたのが、少し唇の間に入った。

 涙のような味がした。

 どうして・・・・・・

 血の味で、コートニーは我に返った。

 ———どうして殺さないの?

 彼女の脳裏に、電撃のようにさっきからの出来事が甦った。この虫はずっと私を護っていてくれたじゃないか、サメに襲われたときも、魚に襲われたときも・・・・

 彼女は自分の過ちに気づいた。

 この虫は、悪くないんだ———

 なのに、私は・・・・・ 

 ハンマーヘッドの頭部から止めどなく血が滴っていた。さっきより飛行速度が落ちてきたような気がした。

 私は何てことを・・・・・

 いきなり、コートニーの目から、涙があふれだした。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね」

 彼女は泣きだした。とめどなく涙が流れた。

「許して、お願い」

 ハンマーヘッドの残った方の目が、彼女を見ていた。無機質な複眼だったが、ルビーのように澄んだ、きれいな目をしていた。

 コートニーは鞄からハンカチを出して、傷ついた眼にむけて手を伸ばした。そして背伸びしながら、傷口をハンカチで押さえつけた。

 みるみる血がにじんできた。「ああ」と少女は呻いた。血が止まらない。

 ハンカチが緑色に染まっていく。

「血が、とまらないよ・・・・・」

 その時、ハンマーヘッドの脚が動いた。頭部にぶら下がるような姿勢だったコートニーを下から支えて、器用に頭の上まで持ち上げた。そして、羽根と頭の間にある、前胸部が少し細くなったところへ運んだ。

「・・・・え?」

 そこはちょうど馬の鞍のようになっていて、人一人ぐらいならうまく跨がれるような構造をしていた。ハンマーヘッドは器用に脚を動かして、そこにコートニーを乗せた。

「————あ」

 彼女の前に、果てしない青空が広がっていた。空を飛んでいることを、初めて彼女は実感した。

 足元で、ハンマーヘッドの脚が動いた。一本の脚を動かして、それについている刺をキズのそばまで持ってきた。

「な、何をするの?」

 爆発音がした。一本だけ針が飛んで傷ついた眼柄につき刺さった。次の瞬間、ぼん、と小さく爆発が起きた。傷口が一瞬のうちに焼かれ、血が止まった。

 ギッ、と虫が哭いた。もう大丈夫、と言っているような気がした。

 泣いていたコートニーの顔をそっと虫の脚が撫でた。彼女はその脚をそっとつかんで頬を寄せた。そして、「ごめんね」とつぶやいた。虫の脚が胴体の下に戻され畳まれて、そして一気に、虫は加速した。

「わあ!」

 風が流れた。コートニーはしっかりとハンマーヘッドにつかまった。体が斜めに傾く。輝く水面の上を、彼女は飛んでいた。風に髪がなびく。心地いい浮遊感。彼女は空を駆けていた。そう、それはまさに夢のようだった。

 コートニーの心が感動に震えた。空、私は今飛んでいるんだ。空を!

 彼女は周りを見回した。真っ青な湖の水平線が輝いていた。彼女は正面を向いた。湖の上を滑るように飛んでいる。さざ波に光が反射して輝いていた。いきなり水平線が傾き、ハンマーヘッドは上昇した。

「わああ!」

 コートニーは歓喜の声を上げた。空が、視界一杯に広がった。

 何て自由なの、私、鳥みたい・・・・

 彼女の瞳に青空が映えて、水晶のように輝いた。

 再び水平になった。高い。ハンマーヘッドは周りがよく見えるように高度を上げたらしい。

 ハンマーヘッドが一度、旋回した。そしていきなりある方向を向き、キイ、と哭いて急加速した。

「わ!」

 コートニーはしがみついた。ハンマーヘッドは真っ直ぐに、ある方向へと飛んでいた。

「ど、どうしたの?」

 コートニーは前を向いた。風圧がすごくて目を開けているのが辛い。それでも、彼女は見た。ハンマーヘッドが加速した理由がわかった。

 遥か先に、緑の線が見えた。陸地だった。

 助かった、と彼女は思った。陸地が見えただけで救われたような気がした。陸、陸地とはこんなに素晴らしいものなのか。あそこまで行けば、とりあえずなんとかなるだろう。目に涙がにじんだ。コートニーはハンマーヘッドの頭部に顔を寄せ、「ありがとう」と言った。

 陸地は急速に近づいてきた。そこは緑に覆われたところだった。彼女がここに来て初めてみる緑の森だった。彼女の心が喜びに震えた。あの毒々しい赤いキノコではない、きれいな森林が広がっていた。

 だんだん細かいところまで見えてきた。岸辺からすぐのところに森があり、その奧には草原らしきものが広がっている。草原はどうやら湿地らしく、所々に小さい池があった。緑の中の青色が美しい。そして————

「———あ!」

 コートニーは叫んだ。彼女は見た。草原のはずれ、森に近いところに淡緑色の物体が置かれている。飛行機に手足がついたような特異な形態。そして背部には四枚の翼が畳まれていた。

「クレイ!」

 空中で、彼女は叫んだ。目から涙の滴が散った。彼女は草原を指さした。

「あそこに降りて、あそこに降りて、お願い!」

 彼女の言葉を理解したかのように、ハンマーヘッドは高度を下げた。

 みるみる草原が近づいてきた。フェルドランスの姿もはっきり見えてきた。

 旅が、おわる———

 コートニーは涙に霞む目で、緑色の大地を見つめた。

 羽音が止まった。きれいに滑空して、ハンマーヘッドは草原の上に降り立った。

「待っててね!」

 コートニーは言いながら、頭を下げた虫の上から飛び降りて、草原の上をフェルドランス目指して駆けていった。脚の傷が傷んだけれど、かまわず彼女は走った。足元で草いきれの香りがした。クレイの家のそばにある、あの懐かしい草原を彼女は思い出した。

 クレイ、帰ろう、一緒に、あそこへ・・・・・

「クレイ!」

 草原の上に鎮座しているフェルドランスのそばまで来て、コートニーは叫んだ。しかし返事はない。早足で機体を回る。コクピットらしき所に人はいない。クレイはどこかへ出かけているようだ。

「クレイ! どこ!」

 コートニーは周りを見回した。すると、草原の中に、草が踏み倒されているところがあった。それは道のように続いて、内陸部の森の方へ向かっていた。

 クレイが通った跡だ。

 コートニーはその道の上を駆け出した。草が倒されてから、まだそんなに時間は経っていないようだ。彼女は息を切らせながら駆けていった。

 道は草原を貫き、森の中へと続いていた。彼女は躊躇せずに森の中へ入った。

 そこは彼女が知っている森とは違って、一面蔦やシダが繁茂していた。熱帯のジャングルのようだが、湿度はそれほど高くないようだった。道は木性シダの間を縫うように続いている。森の中は薄暗かった。いつのまにか走るのを止めて、彼女は警戒するように歩いていた。マテバ6式ウニカが鞄に入っていることを確認する。この世界の森は危険だと、彼女の心は警告を発し始めた。

「クレイ、どこ?」

 いつしか小声になって、彼女は道を追った。

 10分くらい歩いた時だろうか、彼女の眼前がいきなり開けた。森が終わったらしかった。そこは草原になっていて、そして奇妙な生物がたくさんうろついていた。すらりとした首を持ち、まるで走鳥のように二本脚で直立した生き物達だった。後ろに長く伸びた尾でバランスを取りながら身軽な足どりで草原をうろついている。動き方は鳥のようだ。羽毛らしきものもある。しかしそれは羽毛というよりサボテンの棘のようにみえた。

 コートニーは草原を見回した。そして、とうとう、彼女は視界の隅にその人を捉えた。

 草原の中で身をかがめて、クレイは熱心にそこにいる生物を見つめていた。ここからでは後ろ姿しか見えないが、感激している彼の気持ちは手に取るようにわかった。彼は後ろにいるコートニーには全く気づいていないようだ。

 コートニーは全身から力が抜けるのを感じた。彼女はそのままそこにくずおれそうになった。

 クレイ、見つけたよ、私、あなたを・・・・・

 ふらふらとした足どりで、彼女は近づいていった。クレイは気づかない。彼は目の前の生き物に心を奪われているようだ。

「すごい・・・・ストルシオミムスだ・・・」

 彼の呟きが聞こえた。あの生物の名前らしい。こんな所で、何呑気な事言ってるの、コートニーは少し腹立たしくなった。

 私がどんな思いでここまで来たと思ってるの?それなのに・・・・

「うわあ、動いてる、動いてるよ」

 まるで子供のように、クレイはつぶやいていた。

 コートニーはクレイに話しかけようとした。話しかけようとして、しかし、言葉は出てこなかった。

 ———私、何を言えばいいんだろう?

「探したわよ、クレイ」などと話しかけるほど親しくないし、「あ、助けに来ました」じゃ何だか割に合わない感じだし・・・・・

 気がつくと、彼女はクレイのすぐ後ろまで来ていた。手を伸ばせば届く位の所で、彼女は立ち止まった。まだクレイは気づかない。

「あ、パキリノサウルスもでてきた」

 クレイが何か言った。とても嬉しそうだった。

 この人は、自分のおかれた状況を理解しているんだろうか?

 コートニーの脳裏に、この世界で体験した様々な出来事が甦ってきた。

 私はこんなにぼろぼろになってここまでやって来たのに・・・・・

 あなたは何故そんなに楽しそうなの?帰りたくないの、みんなのところに。私の苦労は無駄だったの?あなたは向こうよりもこっちの世界の方がいいの?私、心配したんだよ。がんばったんだよ。それなのに・・・・・

「ばか」

 後ろ姿に向かって、コートニーは言った。

「————え?」

 驚いたような声を出して、クレイは振り返った。

 懐かしい瞳だった。不思議に澄んだ瞳。異世界の空の下で、クレイの目と、コートニーの目が合った。

 草原の中で、しばらく、沈黙が流れた。

「・・・・・・・コ、コートニーなのか?」

 不思議なものでも見るような眼差しで、クレイは彼女を見つめていた。状況がわからず混乱しているようだった。

「ばか」

 コートニーは言った。その途端、涙があふれてきた。あっという間に両目一杯になって、涙はこぼれ落ちた。血がこびりついた頬を二筋の涙が流れた。

 クレイはコートニーの姿を見た。着ている服はぼろぼろだ。まとっているマントも、あちこち引っかき傷や噛み傷だらけだった。そして、彼女の手足にも、数え切れないくらい傷がついている。

「・・・・・コートニー、どうして・・・・・」

「ばか」

 涙の滴が落ちた。そしてそのまま、コートニーはそこに跪いた。涙が止まらなかった。クレイが近寄ってきて、心配そうに彼女の肩に手をおいた。

「ばか」

 コートニーはうつむいて泣き続けた。

「ご、ごめん」

 クレイは訳もなく謝った。まだ混乱しているようだった。

「ばか」

 いきなり、少女はクレイに抱きついた。



 14-パッチワーク・ラヴァーズ


 窓から朝日が差し込んでいた。ペンクロフトは少し呻いて目を覚ました。顔の片側が痛い。机に突っ伏したまま眠ってしまったようだ。

 彼は少し呻いて、顔を上げた。窓ガラスの向こうに海が見える。すると、いきなり、クレイの乗ったフェルドランスが海の上を彼の方へ飛んでくる幻影が見えた。

「くそ、また幻覚か」

 彼は気分悪そうにつぶやいて、再び眠りに落ちた。

 しばらく経って、彼は背後に物音を聞いて、再び目を覚ました。そして、気分悪そうに机の上から起きあがった。

「どうした。また、机の上で寝たのか?」

 不意に、彼の背後で声がした。気怠そうに振り向くと、クレイが自分のカップにコーヒーを煎れているところだった。

「・・・・・・ああ、おまえか?早いな」

 ペンクロフトはつぶやいた。また、あの夢だ。悪夢に変わらないうちに目を覚まさなければ・・・・

「・・・・すまん。頭がまだぼーっとしてるんだ。・・・・その、とても嫌な夢を見てるみたいだからな・・・・」

「夢?へえ、どんな?」

「変な穴を調査に行って、おまえがいきなり消えちまうんだ・・・・それから・・・・・」

「それから?」

 微笑んでいるクレイの顔を見て、ペンクロフトは訝しげな表情をした。夢のはずなのに、今度はやけにリアルだ。おれは狂ってしまったんだろうか?

「・・・・それから、おまえが帰って来るんだけど、すぐに消えちまうんだよ。幻のように」

「ふうん、でも、今度ばかりは幻じゃないようだよ」

 そして、クレイはコーヒーを口に運んだ。

 ペンクロフトはしばらく呆けたように彼を見ていた。そして、いきなり———

「クレイ!」と叫んだ。

「やあ、久しぶり」

 クレイは微笑んだ。

「目が覚めたようだね」

「おまえ、一体、どうして・・・・・」

 クレイは謎めいた笑みを浮かべた。

「後でゆっくり話そう。この島にはどうやらとんでもない秘密が隠されてるようだからね。」

「一体、どうやってあそこから帰ってきたんだ?!」

「救助隊が来たんだよ。たった一人の小さな救助隊が」

 その時、玄関のドアをノックする音がした。

「ヒューベルさん、おはようございます」

 小さな音をたててドアが開いて、朝の光の中からシィナが入ってきた。手には薬箱のようなものを持っている。

「体の調子は————」

 彼女は、コーヒーカップを手に微笑んでいるクレイの姿を見た。

「あ」

 鳶色の瞳が、信じられないものを見たかのように見開かれた。手に持っていた薬箱が床に落ちた。そして———

 シィナは床の上に倒れた。

 魔術師も失神するんだな、とペンクロフトは思った。

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