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ノーチラスノート  作者: 蓬莱 葵
5/10

第5部

 

 10-夏の思い出


 夕方になって雨はあがった。

 海に面した洞窟の中の格納庫で、ペンクロフトは回収してきたフェルドランスの修理を進めていた。機体は思ったより損傷が激しい。怪生物との戦闘で、全ての翼が外れ、左肩の装甲板も大半がもぎ取られていた。

「派手にぶっこわしやがって」

 ペンクロフトは悪態をつきながら、破壊された部品を外して、予備のものと交換していった。四枚の翼を苦労して機体の背部に取り付けた後、数歩下がって、手にもっていたリモコンのスイッチを押す。昆虫のように背部に畳まれていた翼は、一瞬のうちに扇を開くように展開し、水平位置に持ち上がった。そして、主翼についているエルロンとスポイラーが設定通りに作動する。

「ふむ。まあこれでいいか」

 つぶやいてペンクロフトは次にフェルドランスの左腕に、電磁投射砲「LRC」を取り付け始めた。本体を腕に取り付け、送電ケーブルと高電圧カートリッジを接続する。いつのまにか鼻歌を歌っていた。彼は機械をいじくるのが好きだった。物心ついたころから、創造の女神はいつも彼と共にいたのだろう。彼の掌からは様々なものが生まれてきた。役に立たないものも多かったけれど。そんな彼だったから、当然のように工学系に進み、気がついたら博士号まで持っていた。全く新しいタイプの航空機の開発が彼の夢だったから、惑星開発庁が特殊探査機開発の公募をしてきたときは、一も二もなく飛びついたのだった。まさか得体の知れない怪物とやり合う羽目になるとは思わなかったけれど・・・

「運命のいたずらか・・・相棒はあんなやつだし・・・」

 ペンクロフトはクレイと初めて会ったときのことを思い出した。あれは四ヶ月前。ノーチラス島への臨時便の甲板だった。「カリビアントンネル」を抜けて、この星最大にして唯一の街、クレスポの港をでてから二日目の朝、彼が潮風にあたろうと外に出ると、甲板の上で、同年代の男が手すりにもたれて茫漠とした海を見ているのに気づいた。写真で見た顔だった。ペンクロフトは歩いていって話しかけた。

「君がうわさの天才パイロットだね」

「・・・・誰がそんなことを?」

「みんな知ってるさ。採用試験の結果はずば抜けていたそうじゃないか。期待してるよ」

「・・・いや、テストの時は運がよかっただけだよ・・・」

 クレイは蒼海に目を向けたまま、興味なさそうに答えた。

 人付き合いの悪そうな奴だ。というのが第一印象だった。

 その後、ノーチラス島に近づいたとき、クレイが飛び込んでくるトビウオをつかまえて異様に喜んでいるのを見たときに、その印象は「変な生物マニア」に変わった。「こんな奴とおれは一緒に仕事をするのか」と考えると頭が痛くなった。

 しかし———

 ペンクロフトはフェルドランスの操縦席を覗き込んだ。複雑な操縦系。開発した本人が見ても、普通の人にはとても動かせそうにない。しかも、機体は飛行テストがやっと済んだばかりだったというのに。

 奴はいきなりの実戦で、こいつを手足のように動かしていた。なんだかんだ言って、実は大した奴なのかもしれない。

「うん。よくやった。立派だよ、フェンネル君」

 ペンクロフトは誰もいないコクピットに向かってつぶやいた。

 その時、洞窟の入り口から光が差し込んできた。雨は完全にあがったようだ。ペンクロフトは眩しそうに外を見た。滑走路の上の水たまりが輝いていた。そして、水平線の彼方に大きな虹が見えた。


「その事故が起こった後はどうなったんですか?・・・・その、たくさんの方が亡くなったんですよね」

 地底空間でクレイが尋ねた。既に泣き止んで、静かに海を見つめていたシィナはクレイに背を向けて歩き出した。彼がついていくと、彼女は語り始めた。

「あの研究は極秘に進められていました。研究費を出していた組織が公表を嫌ったのです。どうも軍事関係の機関だったようですね。そんなわけで、あの出来事は結局一般の人の耳には入りませんでした。遺族の人には実験中の爆発事故と発表され、多額の補償費が支払われました。以後その類の研究は禁止。研究所は閉鎖。マンディブラスは捜索されましたが、結局見つからず、幼体だったせいもあって自然環境では生存できずに死んでしまったのだろうと考えられました。当時子供だった私も色々聞かれましたが、私はずっと沈黙していました」

 彼女はいつしか海を離れ、森の方へと足を向けた。

「でも私の中では悲しみと苦しみは消えませんでした。それに加えて、私は途方にくれました。たったひとり、こんな島に残されて。・・・・最初はここから逃げ出して、地球に行こうかと考えましたが、やめました。生まれてから一度もこの島を出たことのない私が、地球の見知らぬ街で生きていけるとは思えません。幸い、私を助けてくれる人がいたから、私は父の博物館と、惑星開発機構からでる僅かな助成金で今まで生きてきたんです」

「そうですか・・・・・」

 シィナの後ろ姿を身ながら、クレイは呟いた。今更ながらに彼女が経てきた悲しみを思い浮かべて彼は胸が痛くなった。

「辛かったでしょうね・・・・・」

「ええ、でも———」

 シィナはクレイを振り返った。彼女の瞳の輝きを見て、クレイの胸が一瞬、高鳴った。

「あなたに聞いてもらったら、とっても楽になりました。ありがとう」

 その時、二人の頭上に金色の光が射した。洞窟の天井に創られた光ファイバーの「窓」から、空の様子が見えた。黒い雨雲に切れ目が見えて、そこから真っ青な空と太陽のかけらが振ってきた。クレイとシィナは眩しそうにそれを見上げていた。

「雨、あがったようですね」目を細めてクレイが言った。シィナは微笑んだ。

「そうですね」


 階下で音がした。ベッドに腰掛けていた少女の瞳がぴくりと動いた。家の外階段を上がってくる音が聞こえ、そして軽いノックの音がした。彼女は返事をしなかった。しばらくして、ドアの外にあるポストに何かを置いたらしいことりという音が聞こえ、しばしの沈黙の後、外階段を降りていく音がした。

 10分ほど、少女は動かず、無表情に部屋の隅にある本棚を見つめていた。この部屋はずっと空室だったので、本棚は空っぽだった。

 本棚の隣にはドアがあり、それを開けると小さな踊り場と、階段がある。それはこの家の内階段だった。この家は一階と二階が独立した集合住宅なので、二階の住人は外階段で出入りする。しかし、内階段を使えば、普通の家と同じように一階と二階を行き来できた。ただし、内階段の上下にはそれぞれドアがあり、それぞれの階の住人が鍵をかけられるようになっていた。

 今、コートニーの部屋の内階段のドアは施錠されており、鍵は彼女に預けられていた。

 階下からは相変わらず何も聞こえない。

 おもむろに少女は立ち上がり、外階段に続くドアを開けた。入口の脇にあるポストに何かが置かれている。それを見たとき、無表情だった彼女の顔に驚いたような色が浮かんだ。「あ」と少女は小さくつぶやき、それを手に取った。煤にまみれ、黒く汚れた、それは彼女のフルートの箱だった。

 少女はフルートの箱の傍に封筒が置かれていることに気づいた。その中にはこの家の借用に関する書類と、キャンベル博士の近況が書かれた小さなメモがあった。まだ絶対安静だが、最も危険な状況は脱したらしい。それから、ドアの傍に大きめの紙袋が置いてあった。少女ががさがさとそれを開くと、中にはパック詰めされた生活用品一式が入っていた。探検時の装備として市販されているものだった。それと、新品のTシャツが一枚入っていた。いずれもクレイが街で買ってきたのだろう。少女はTシャツを広げてみた。よくわからない食虫植物の精緻なイラストがプリントされている。古い図鑑に描かれているような絵には、「エルンスト・ヘッケル」という署名があった。

 彼女はTシャツを畳んで、少し思案した後、ゆっくりと外階段を降りた。一階の入口まで来ると、彼女は躊躇したようにそこに立ち尽くした。しばらくそうしていたが、彼女はノックをすることなく回れ右をして、自分の部屋に戻るべく外階段に足をかけた。そのとき彼女は、玄関を右に回り込んだところにガラス窓があることに気づいた。少女は足音を忍ばせて恐る恐るそこに近づき、窓枠の端から、中の者に気づかれないようにそっと中を覗いた。そこは居間で、古風な机と椅子があり、昆虫標本の箱が並ぶ棚があり、本が整然と並んだ大きな本棚があった。窓際には水槽があって、中にはサボテンが植えられ、一匹の黒いサソリがサボテンの周囲をウロウロしている。その部屋に置かれている木の寝椅子の上でクレイが眠っていた。手足や衣服が煤で黒く汚れている。焼け跡で少女の持ち物を探し回ったのだろう。

 少女は、無言で踵を返した。


 その夜、湖に広く張り出したベランダの上に立って、クレイは星を見ていた。満天の星が、手が届きそうなくらいに近くに見える。真上に銀河系の帯が輝いていた。その周りに、夏の星座がいくつか見えた。個々の星座は地球で見えるものとはかなり違うので、それぞれ個性的な名前が付けられている。

 ふくろう、鍵、じょうろ、チョウチンアンコウ・・・

 様々な星座の輪郭を目でたどりながら、クレイはぼんやりと夜空を見上げていた。

 星を見るのは好きだった。夜空を見ていると子供の頃の気持ちが、世の中にある本当の悲しみに気づかなかったあの頃の気持ちが帰ってくる。

 ふと、古きよき時代(ベル・エポック)という言葉が浮かんだ。ぼくの人生にそんな時代はあっただろうか?

 あったような気もした。でも、思い出せなかった。

 ぼくは、過去という名のテーブルの上に、何か大切なものを置き忘れてきたのかもしれない。

 幸せはいつも記憶のあとからついてくる————。

 その時、背後で真鍮製のノブが回るガチャッという音がした。居間のドアが開いたようだ。クレイが振り返ると、部屋の中にコートニーが立っていた。内階段を降りてきたらしい。彼女は無表情な顔で、じっと彼を見つめている。

「・・・・やあ」

 クレイはベランダから居間に向けて言った。コートニーは探るような目つきで彼を見ていた。その表情にはまだ悲しみの影が色濃く残っていた。

「傷はもう大丈夫?」

「・・・・・フルート、探してきてくれたのね」

 クレイの言葉には構わず、コートニーがつぶやいた。

「・・・・ああ、ごめんね。それ以外のものは燃えてて持って来れなかった」

「・・・・いい」

 コートニーはさらに何かを言おうとして口を開きかけ、うつむき、そしてしばらく逡巡した後で、「ありがとう」と小声で言った。そして彼女はクレイに背を向け、小鳥のように部屋から出ていった。

 内階段を上がる音がして、二階のドアがバタンと閉まる音、ガチャッと鍵をかける音がした。

 クレイは、もしかしたらと思って、しばらく待っていた。もしかしたら二階からコートニーの奏でるフルートの旋律が聞こえてくるのではないかと思って————。

 しかし、何も聞こえなかった。


 十日後———

 小型輸送機が、「還らずの森」の上空を飛んでいた。低空飛行のため、ローターからの風が林冠の木の葉を激しくかき回し、あたかも夏の草原か、海原の上を飛んでいるように見えた。

 その中から、驚いた鳥達が飛び立つ。鳥は警戒音を発しながら、高速で飛び去る輸送機を見送った。

 やがて、小型輸送機の飛び行く先、還らずの森の奥地に、小さな空き地が見えた。そこだけ木が生えていない。明らかに、人の手によって作られたものだ。そして、空き地と森の境界付近には、いくつか、簡易小屋の白い屋根が見えた。ぱらぱらと、人が立っているのも見える。輸送機はその空き地の上まで来ると旋回をして着陸態勢に入った。機体の真下、空き地の真ん中には、真っ黒い穴がぽっかりと口を開けていた。

 地下へ伸びる垂直の縦穴だった。正式名称は「K-13縦孔」。だが、ノーチラス島の研究者の間では、「遺跡」の方が通りがいい。その不自然な形態の故だ。キャンベル教授が中心になって調査を進めていた場所である。

 輸送機は、風で地上の屑を巻き上げながら、縦穴のそばにつくられたヘリポートに着陸した。

 エンジンがまだ止まらぬうちに輸送機のドアが開いて、実験衣を着たペンクロフトが出てきた。ローターからの風に頭を押さえながら、彼は調査中の人々の所へ走っていって、穴のそばにいた現場主任に話しかけた。

「どうも。特殊調査機担当のヒューベルです」

「ようこそ。お待ちしていました。調査主任のタイラーです」

 格闘家のような体格の割には、理性的で、几帳面な印象のする男だった。エリック・タイラー。地質学と考古学、二つの学位を持つ変わり種だ。キャンベル教授の共同研究者。教授が入院している今、彼が調査の全責任者である。

「キャンベル教授のこと、とても残念です」

「ご丁寧にどうも。調査をどんどん進めて、教授が戻ってきたら驚かせてやりますよ」

「同感です。そのために、我々の探査機が役に立てれば幸いです」

 ペンクロフトは、これから彼とクレイが調査に参加することになる、傍らの暗い穴を覗いた。完全な円形に穿たれたその穴からは、「底なし」という噂にたがわぬ不気味な雰囲気が漂っていた。

「噂の調査機は今どこに?」

 タイラーが興味深そうに尋ねた。あの怪生物を撃退した機体を一刻も早く見たいようだった。

「現在、こちらに向かっています。あと10分もすればやって来るでしょう。私は一足先に今回の調査用の付属品を運んできたんです」

「・・・フェルドランス、でしたっけ?」

「そう。相棒がつけた名です。・・・何でも、中米に生息している毒蛇の名前だそうですよ」


 ———その三日前。

 クレイはフェルドランスのコクピット内にいた。彼の前には青空が広がり、遥か下に白波の立つ海面が見える。数日前にノーチラス島は北赤道海流からナスタチウム海流に乗り換え、カモミール海に入っていた。インフェリアでも有数の透明度を誇る海域だ。眼下に見える海は空恐ろしいほどの蒼さで、まばゆく煌めいている。

 まるで吸い込まれそうだな、と呟き、彼はスロットルを操作した。

 機首は水平よりもやや下がっている。彼は右足と左足の下のペダルを微妙に踏み変えて、フェルドランスを高度800メートルでホバリングさせていた。機体のテストも大詰めまで来ていた。今のところ設計上の異常は見られない。このぶんならすぐにでも探査機として使えるだろう。

「こちらフェルドランス」

 クレイは管制室のペンクロフトに言った。

「一分間で水平誤差0.1%、垂直誤差0.07%。理論値通りの結果を得た」

「了解。エンジンの具合は?」

「内圧正常。冷却装置も正常に作動中」

「了解。次は垂直上昇をやってみよう」

 クレイは左手の操縦桿を操作して、機体をゆっくりと上に向けた。機体と一緒に彼の体も傾いて、視界一杯に、真っ青な空が広がった。高出力のエンジンに背中を押されるような感覚が心地いい。彼はエンジンの出力を上げていった。フェルドランス背部の光芒が強くなり、左右に大きく開いていた翼の後退角が小さくなる。コクピットの中から空を見上げながら、彼は空に魅せられた少年のように瞳を開いた。

 ———行け、空の果てまで

 クレイはスロットルを一杯に開いた。青い光芒が閃いた瞬間、弦を離れた矢のように、フェルドランスは上昇していった。


 ———その翌日

「え、何だって?」

 実験の後、格納庫で、クレイは驚いたように聞き返した。

 管制室から駆け下りてきて、興奮のあまり荒い息をしているペンクロフトは、勝ち誇ったように言った。

「依頼だよ。依頼。おれ達の機体を使わせてくれっていう依頼が来たんだ」

「どこから?」

「おまえも知ってるだろう?還らずの森の縦穴だよ。キャンベルさんがやってた所さ」

 それからペンクロフトは安堵の溜息を漏らした。最近はどうやら運が向いてきたようだ。あの怪生物もあれ以来姿を見せないし、今日の実験にも問題はなさそうだ。一週間遅れで実験を再開して以来、機体はすこぶる調子がいい。彼はこれからのことは全てうまく行くような予感がしていた。

「そうだよ。こうでなければ」

 そして彼はすぐさま、洞窟調査用の機体調整にとりかかった。

 一方、クレイは複雑な気持ちでフェルドランスを見つめていた。縦穴、通称「遺跡」の調査。キャンベル先生の調査をぼくが引き継ぐことになるのか。彼の脳裏に、焼け落ちたキャンベル博士の家と、そして煤で汚れたコートニーの姿が甦った。

「・・・そうだ。あの子になんて言おう・・・」


 ———その夜。

 クレイは標本箱や大きな本棚が置いてある広間のテーブルで食事をしながら、向かい側に座っているコートニーを見つめていた。彼女はうつむき加減に、黙々とスプーンを動かしている。相変わらず多くは喋らないが、最近は少し落ちついてきたようにも見える。朝食と夕食の時には内階段を使って下りてきてくれるようになった。しかし今はまだ、父親が関わっていた調査の話をするのはまずいような気がした。キャンベル教授はまだ集中治療室に入っていて、面会もできない。

「どうしてわたしを見てるの?」

 クレイの視線に気づいたらしいコートニーが尋ねた。彼は慌てて目をそらした。コートニーは上目遣いに彼をみた。

「・・・・何か言いたいことがあるの?クレイ」

「いや、実は・・・」

 どうせこれから数日間はどうしても家を留守にしなければならないのだ。嘘は苦手だし、すぐにばれる。クレイは意を決して、話し始めた。

「あさってから調査に行くんだよ。・・・君のお父さんが研究してた所へね。二、三日留守にすることになる。・・・申し訳ないけど」

 コートニーは口をつぐんだ。心なしかスプーンの動きがぎこちなくなったように見えた。クレイは心の中で舌打ちした。やはりキャンベル先生のことは言うべきではなかったか?

「・・・いいよ。留守番してるね」

 コートニーは小声で言った。父親のことは何も言わなかった。クレイは彼女の気持ちを察して胸の奥が痛くなったが、何も答えることができず、黙って苦いコーヒーを口に含んだ。

 食事の後、クレイは広間の机に設えた端末で、管制室から持ち帰ってきた記録データを使って、磁気センサーの調整のための計算を始めた。来るべき調査で使う新型センサーなのだが、試作品なのでいろいろと厄介だった。クレイは溜息をつき、端末内にある演算プログラムを使って煩雑な計算を始めた。窓際におかれた椅子にはコートニーが腰掛け、本棚から持ってきた小説を読みながら、時々ちらちらとクレイの方に視線を走らせていた。

 翌朝、クレイはソファで目を覚ました。しまった、彼は舌打ちした。仮眠を取るつもりが熟睡してしまった。昨日の計算は半分も終わっていないはずだ。彼は呻きながら、テーブルまで歩いていった。計算の続きを・・・・。

「あれ」

 彼は机の上の端末を見た。計算は全て終わり、ディスプレイには。きれいな三次元モデルができあがっていた。

 まさか———

「コートニー!」

 彼は二階に向かって呼びかけた。返事はない。彼は外へ出た。草原の彼方に彼女が見えた。彼女はよくそこにいる。家の前の草原を気に入っているらしい。

 彼はコートニーの小さな姿を見つめた。あの計算をするとはたいしたものだ。キャンベル先生が教えたのだろうか?クレイは彼女の隠れた才能に気づいた。それと同時に、自分が招き入れた責任の重大さにも気づいた

 自分は、彼女の未来を守らなければならない。

 少し前にペンクロフトに言われた言葉が脳裏に甦った。

 ———よく考えろよ、自分にできることと、できないことをな・・・・・・


 ———出発前夜

 その夜、空は澄みきって満天に星が輝いていた。クレイは湖の上に張り出した一階のベランダの床に腰を下ろして、空を見上げていた。

 銀河系の帯が頭上を横切りカプローナ山の方へと続いている。暗闇にぼんやり浮かぶ山影の上で、星はまるで砂粒のように輝いていた。

 クレイがその光景に見とれていたその時、背後で物音がした。彼は振り返った。コートニーが立っていた。彼女は両手に湯気の立つコーヒーカップを持っていた。

「はい」

 コートニーはカップのひとつをクレイに差し出した。

「え?くれるの、ぼくに?」

 クレイは驚いて尋ねた。彼女は答えずにベランダを歩いてきて、クレイの横に腰を下ろした。彼は唖然として眺めていたが、コートニーは気にする様子もなく、彼の隣でコーヒーを飲み始めた。やけに打ち解けているように見えた。クレイはコートニーの態度に困惑した。

 どうしたんだろう?今まであんなにぼくを警戒していたのに・・・ 

 彼はコートニーの煎れたコーヒーを飲んだ。

「・・・・おいしい・・・」

 クレイはそっとコートニーの顔を見た。斜め後ろから見える彼女の顔は、居間の明かりの影になっていてよくわからなかったけれど、かすかに笑っているように見えた。

「コートニー・・・」

 クレイは恐る恐る話しかけた。

「なに?」

 コートニーは素直に返事をして、クレイの方をむいた。昨日までの険がとれて、やけに穏やかな目をしていた。何かスイッチでも切り替わったような感じだった。

「い、いや、そのう・・・本読みはもういいの?」

「うん」

 そう言って、彼女はかすかに笑った。それから夜空を見上げて、

「星をみてたの?」と尋ねた。

 クレイの心に何か心地いいものがすっと忍び込んだ。

「・・・うん。この海域は特にきれいだからね」

 二人は並んで夏の夜空を見上げた。

 星空に、コーヒーカップの湯気がたち昇っていく。

「・・・・勧めてくれた小説、おもしろかった」

 空を仰ぎながら、コートニーが言った。

「そう、それはよかった」

「他にもないの?」

「・・・ああ、どうだろう、ちょっと思いつかないな」

「じゃあ、なにか面白いお話はない?」

 コートニーがつぶやいた。クレイは目を閉じて、たぶん世の中の平均値よりも多くのものが並んだ「思い出の棚」を見回した。棚は思い出の種類によっていくつかに区分けされている。クレイはしばらく考えていた。しかし、少女に話して聞かせるような話なんて見あたらなかった。

「うーん、どうしよう。どんな話がいい?」

「・・・・不思議なはなしがいい」

「どうして?」

「クレイは変な人だから」

 コートニーは湯気の立つカップに息を吹きかけながら言った。クレイは苦笑した。

「そんなにヘン?」

「うん。変だよ」

 そう言って彼女は少し困ったように笑った。

「そうかな」

 クレイは首を傾げて考え込む。コートニーはそんな彼を上目遣いに見つめつつ、コーヒーを口に含んだ。

「それじゃあ・・・・・生き物の話をしようか」

「うん」

「1957年にスコットランドで目撃された巨大ミミズの話はどう?」

「・・・・そんなのは・・・・・いやだ」

 コートニーは気のない返事をした。あまり興味ないらしい。

「ふむ」

 残念そうな顔でクレイは空を見上げた。夏の夜空が輝いている。

 その時、星くずの煌めきのせいだろうか。彼の脳裏に一つの思い出が甦った。夏の夜空にまつわる出来事。彼の記憶の棚の中、「不可思議物件」という引き出しにしまわれていた思い出だった。あれは不思議な事件だった。彼が15歳の夏に起こった出来事だ。

「そういえば、不思議な話がある・・・・」

 クレイは思い出の引き出しの中から、「古き懐かしき夏」というラベルが貼られていたビンを取り出した。

 ビンのふたを開けると、懐かしい香りが広がった。その香りを胸一杯に吸い込むと、遠い思い出が昨日の事のように彼の脳裏に甦った。

「そう、あの日も星がきれいだった・・・」彼は再生を始める。過ぎ去った遠い夏の日の記憶を・・・


 ———その時、クレイは砂浜の上で、ぼんやりと空を眺めていた。空には満天の星、輝く銀河系・・・

 彼は海岸に佇んでいた。着ているものは何カ所か破れ、額には大きな傷があった。そこから流れ出した血が固まって、彼の顔にこびりついていた。その姿はまるで遭難者のようだった。彼は砂の上で溜息をついた。

「・・・・ぼくは何故こんな所にいるんだろう?」


 ———この四日前、クレイは、図書館で本を読んでいるクリス・アルメールに緊張した面持ちで話しかけていた。

「あ、あの」

 クリスはびっくりしたように顔をあげた。眼鏡が少しずれた顔がかわいく見えて、クレイは少しどきっ、とした。これで脳のことを言わなければ正真正銘の美少女なのに、と彼は思った。

 クリスはクレイを見た。

「あ、フェンネル君。・・・どうしたの?」

 彼女の顔が眩しく見えて、クレイは言葉に詰まった。

「い、いや。あのさ、明日、行かない?海?」

「・・・・海?」

「そう、青い海。さかなもいるよ」

 クリスは少し考え込むような仕草をした。

「フェンネル君と?」

「・・・・そう」

 お願いだからイヤだなんて言わないでくれ、とクレイの心が叫んだ。

 クリスは眼鏡をくいっと持ち上げ、クレイを見つめた。

「脳はあるのかしら?」

「え?・・・・・いや。・・・・・魚の脳なら、あるいは」

「魚の脳なら前に見たわ。ペットショップに行って金魚を40匹買ったら、店員さんに『こんなにたくさんの金魚をどうするんですか』って訊かれたから『脳を出します』って言ったらすごく変な目で見られたわ」

「そうか、なんだか気の毒だな、店員さんが」

「どうしていきなり?海水浴はあんまり好きじゃないんでしょ」

「実は、こんなものを見つけたんだ」

 そう言って、クレイはポケットから古びた紙切れを取り出した。

「家の納屋を引っかきまわしてたら出てきたんだよ。地図なんだ。ある島が描かれてるんだよ。それで、ここを見てよ。島の真ん中あたりにX印がついてるだろ?間違いない。これは宝の地図だ。ここに何かすごいものが埋まってるんだよ。この島、調べてみたらこの町の海岸からわずか2キロの所にあるんだ。ボートを漕いでいっても30分くらいでつくよ。ねえ、行ってみない?」

 クリスは呆れたようにクレイを見た。

「バカバカしい。そんなの、うそに決まってるでしょ。宝の地図なんてそうぽんぽん転がってるわけないよ。だいたい島にX印がついてるだけでどうして宝だってわかるの?知り合いの家の印かもしれないじゃない。単なる落書きかもしれないし。たいした価値のない脳が埋まってるだけかも」

「いくら何でも脳は埋まってないと思うけど」

「とにかく行くだけ時間の無駄よ。家でカブト虫相手に自由研究でもしてたほうがよっぽどマシだわ」

 どうも虫の居所が悪かったらしい。クリスはさっさと読んでいた本に目を戻してしまった。難しそうな顔でページをめくる。本のタイトルは、「図説:無脊椎動物の解剖」だった。

「・・・もしかしてカブト虫の脳を出すつもりか」

「そうよ、いけないかしら?」

「いけないことは、ないけど」

 彼女の自由研究を採点する教師が哀れに思えて、クレイは嘆息した。

 クレイは、クリスの横におかれていた、もう一冊の本を見た。スペイン語の専門書で、「Textura del sistema nervioso del hombre y de los vertebrados」という何やら難解なタイトルだった。スペイン人らしき著者の名前もやたら長い。

「やけに大人びた本を読むんだね。君」

「私はもう子供じゃないから。フェンネル君と違ってね。・・・この本は私にとっての翼なの。いつか飛び立つためのね」

 クレイは小さく溜息をついてからつぶやいた。

「ぼくはそんなに急いで大人になる必要はないと思う」

 彼は図書館を出ていった。


 結局、クレイは一人で島へ出かけた。彼の乗ったボートは予想外に速い海流に流されて、みるみる島に近づいていった。三十分もたたないうちに、彼は島の砂を踏んでいた。

「ここ、無人島かな?」

 ボートを陸にあげた後、クレイはつぶやいた。

 クレイは砂浜の背後にある崖を上っていった。崖の上には森があった。森の中に分け入りながら、彼はここが無人島だといいと思った。なんて素晴らしいことだろう。自分で未知の島を探検するのだ。彼は奇妙な感動を味わいながら鬱蒼とした森の中を進んだ。そして、苦労してそこをぬけると、眼前に民家が立ち並んでいるのが見えた。何の変哲もない集落だった。

「なんだ、人が住んでたのか・・・」

 彼は少し落胆したが、気を取り直して、地図に書かれている印の所へ向かう事にした。この集落をぬけるとすぐのはずだ。彼は集落に入った。草の茂る道を歩いていくうち、彼は奇妙な事に気づいた。

 人がいないのだ。広場には子供の声も聞こえず、家の中からは家事の音もない。それぞれの家はそんなに傷んでいるようには見えないのに、集落には全く人の気配がなかった。そのくせ、家の中から何かがこっちをじっとうかがっているような、そんな気がするのだ。

「変だな」

 彼は訝しそうに、不気味な家々の間を通り抜けた。

 やがて、問題の場所に着いた。

 そこは、古い石井戸だった。中を覗き込んでみたが、底は見えなかった。漆黒の闇がどこまでも続いているような気がした。彼は小石をひとつ拾い上げて、井戸の中へ落とした。耳をそばだてる。しかし、いつまで待っても水音は聞こえなかった。

「そんな、バカな・・・」

 彼の背筋に冷たいものが走ったのは、井戸からの冷気のせいだったろうか。

 彼は漆黒の闇を覗き込んだ。なぜかそこから目が離せなかった。じっと見ていると、何かが見えてくるような気がした。彼は目を凝らした。すると、井戸の奥に、かすかな光が見えた。彼はもっとよく見ようとして、井戸の中へ身を乗り出した。

 ———その時、井戸の奥から悲鳴が響き、それは凄まじい絶叫に変わった。

 クレイの体を恐怖が駆け抜け、次の瞬間、バランスを崩して彼は暗闇の中へ落ちていった。


 クレイは砂浜の上で、ぼんやりと空を眺めていた。空には満天の星、輝く銀河系・・・

 彼の来ているものはぼろぼろで、顔は固まった血にまみれていた。その姿はまさに遭難者と呼ぶにふさわしかった。彼は砂の上で溜息をついた。

「・・・・ぼくは何故こんな所にいるんだろう?何故こんな格好を・・・・」

 その時彼は気づいた。いつの間にか、胸のポケットに白い花がさしてあった。

 それは小さな、可憐な花であった。


「・・・・・・ね、不思議な話だろ」

 クレイは空を見上げた。あの時と同じく、星がきれいに瞬いていた。コートニーがコーヒーに息を吹きかけながら答えた。

「クレイの友達、変だね」

「そうだね」

「その井戸、何だったの?」

 コートニーが尋ねた。

「・・・・わからない」

 クレイは上をむいたまま答えた。

「あとで調べると、あの島には人なんて住んでいない事がわかったんだ。集落はあったけどもうかなり昔に打ち捨てられたものだった。あの井戸も涸れ果てたただの石井戸だった。中に光が見えるはずもないし、もちろん人の声なんか聞こえるわけもない。ぼくが見たのは一体何だったんだろう? 」

 コートニーはクレイの顔を見上げた。彼の瞳で星が輝いていた。彼はかすかにつぶやいた。

「まあ、世の中には不思議なことがいろいろあるってことさ」

「ふしぎなこと・・・」

 コートニーはつぶやいた。その時、流れ星がひとつ、天を横切った。

「・・・・ああ、星がきれいだね」

 しばらくたってからクレイがつぶやいた。

「うん。そうだね」

 コートニーが答えた。

 二人は夜空を見上げていた。家の下にある湖面にも星が映って、二人はまるで船に乗って星の海を漂っているように見えた。


 ———そして出発の日。

「行ってきます」

 クレイはドアを出たところで、戸口に立つコートニーに言った。彼女は小さく手を振った。そして、クレイの前で、軽い音を立ててドアを閉じた。彼はしばらく閉じられたドアを見つめていた。コートニーは無表情だった。少し沈んでいるようにも見えた。

 やっぱり一人でおいていくのは良くないかな?シィナさんにでも来てもらった方が・・・

 後ろ髪を引かれるような思いで、彼は湖畔に続く短い橋に足をかけた。

 その時、唐突に二階の窓が開いた。クレイは振り返った。コートニーが顔を出した。いつの間に摘んでいたのか。彼女はバスケット一杯の花を、そこからぱあっとクレイに向けてまき散らした。夏の風の中を色とりどりの花びらが舞って、彼の上に降り注いだ。

「行ってらっしゃい。がんばってね」

 肩や頭に花をのせたまま、クレイは呆然とコートニーを見上げた。彼女は笑っていた。クレイの視界の中で、彼女の姿がだんだん霞んでいった。涙を見せたくなくて、彼は下を向いた。白い花が彼の髪を滑って地面に落ちた。



 11-還らずの森で


 縦穴のほとりは騒然としていた。

 研究者や技術者が各々の担当部署の周りで、口々に何かをわめいている。深く静かな森にあって、そこだけが祭りのような様相を呈していた。何処の国の祭りにでもみられる常識に違わず、ここでも中心部に大きな塔が作られていた。

 塔、つまり鉄骨でできた三角錐型の櫓が、縦穴の真上に組まれていて、その頂点につけられた滑車から、穴の真ん中へと強靭なワイヤーが降りていた。昇降可能なその先には、様々な観測機器を取り付けたフェルドランスが宙づりになっている。各機器のセンサープローブのカバーは全て外され、情報収集の準備が整えられていた。コクピット上の装甲板は取り外されて、代わりに透明な強化ガラス製のキャノピーが取り付けられている。それを通して、コクピット内で様々な機器のチェックをしているクレイの姿が見えた。

「磁気シールドの出力をあと0.2%あげてくれ」

 縦穴のそばに設置された観測用モニターを覗きながら、ペンクロフトが通信機に向かって言った。彼の前にはフェルドランスからの情報を受け取る端末類がずらりと並んでいる。機体がとった全てのデータがそこに送られるように設定されていた。

「よし。カメラをこっちに向けてみてくれ」

 フェルドランスの機首についているメインカメラが回転して、ペンクロフトの方を向く。同時に彼の前にあるモニターにも、白衣姿の彼自身が映し出された。

「ロックオンできるか?」

 コクピット内のクレイが少し手を動かすのが見えた。途端に小さな頭部が回転して、ペンクロフトを捉えた。モニターに彼の顔が大写しになる。彼が移動すると、頭部はそれにつれて動いた。同時に、頭部に付いている様々なセンサーからの情報が、モニターに表示された。

「今の君の体温は309.54Kだな」

 からかうようなクレイの声が通信機から聞こえてきた。

「大したもんだな」

 横でみていたタイラーが感心したように言った。

「右側には手がついているようだが、あれも自由に動かせるのかね?」

「もちろん」とペンクロフト。

「クレイ、マニピュレータを動かしてみてくれ」

「了解」

 途端に、フェルドランスの右手が持ち上がり、五本指の掌が急速に開閉した。「ほら」と言ってペンクロフトが投げた鉛筆を、フェルドランスは三本の指を使って空中でキャッチした。

 おお、と周りから喚声があがった。ペンクロフトは得意満面だった。

「馴れればキャッチボールだってできますよ。あのマニピュレータの操作は右手で行います。パイロットの左手は主に機体の姿勢制御を行っています」

「空を飛んだり、地上を走ったりもできるんだろ?」

「ええ。その時は機体の駆動系を替えるんです。飛行モードの時、スロットルは背部の飛行用エンジンと連動していますが、地上モードの時、同じ操作をすると脚部ジェネレーターが応答して脚が動きます。モード変更はAIによる完全自動制御です」

「なるほど」

 タイラーは満足そうに頷いて、ぶら下げられている、お世辞にもスマートとは言い難い機体を眺めた。

「これで、なんとか見られればいいんだがな。この奥を」

 フェルドランスの真下には、底知れぬ深淵があった。ペンクロフトはタイラーにならって、そこを覗き込んだ。穴は地上に対してほぼ直角に落ち込んでいる。穴の壁は堅い花崗岩で、所々小さなシダやスミレが生えている意外は、異様なくらいのっぺりとした様相を呈していた。何かで切り取ったようにも見える。異種文明の遺跡という噂が立つのも無理からぬ話だ。しかも、かつてこの中に入ったカメラは全て、ノイズだらけの不鮮明な映像のみしか捉えることができなかったのだ。この中には、異常なくらい強力な磁場か放射線源が存在するらしい。調査が始まって随分経つのに、深ささえ満足に分かっていないのである。突飛な説を好む研究者の中には、ここが第二の「カリビアントンネル」だと言うものまでいた。

「そんなことは考えにくいですがね」

 タイラーは困ったような顔で無精髭をなでた。

「でも、観測できないことには何とも言えない。否定のしようもない」

「そうですね。でも、この探査機のとるデータで、答えは出るかもしれない。早ければ今日中にでも」

「だといいが・・・」

 縦穴の奥は漆黒の闇だった。長い人類の歴史の中で、常に人々の前に立ちはだかり、その懐から様々な怪物、妖精、時には神をも生み出してきたもの。人類から恐れと畏敬の念をもって語られ続けた「恐怖の源」がそこにあった。

 闇は「死の空間」だとある人は言った。

 人々はいつも、身近にある闇を恐れ、不安に耐えきれずにそこを照らそうとする。かつては焚き火の光で。今は科学の光で。人類の歴史は恐怖からの逃避の歴史でもあるのだ。しかし、その闇を自らの手で照らし出そうとするとき、人は身震いするほどの興奮と感動を覚えることも事実なのである。フロンティアに立つ者の畏れと、そして歓喜が、フェルドランスを囲む人々の胸中で渦巻いていた。

 ———数時間後。

 降下の時が来た。

 観測装置の立ち上げ、調整は全て完了した。最終調整を終えたフェルドランスは、多くの人々が見守る中、今まさに穴の中へ降ろされようとしている。

「こちら、フェルドランスです。安全装置解除しました。ゆっくり降ろしてみて下さい」

「了解」

 ペンクロフトの隣にいた技師の一人が手元のレバーをゆっくりと引いた。縦穴のそばに設置された巨大なウインチからワイヤーが送り出され、機体が下がっていく。その中で、クレイが様々な計器に目を走らせていた。

「しっかりやれよ。クレイ」

 観測装置の映像を見ながら、ペンクロフトがつぶやいた。それが聞こえたのかどうかは分からないが、クレイは穴に入る直前、ペンクロフトの方を向いて軽く片手を上げた。

 フェルドランスは暗い穴の中へと降りていった。まず両脚が、やけに濃い闇に呑み込まれ、胸部、頭部が消えていった。

 そして、機体がどっぷりと闇の海に浸かったとき、両肩と両脚についているライトが灯った。ペンクロフトはモニターを見た。穴の壁が映っている。しかし、光量が足らないのか、細部まではよく分からない。

「クレイ、少し暗いな」

「オプティックセンサーの感度を上げる」

 途端にペンクロフトの見ている映像が真っ白になった。いわゆる露出オーバーの状態だ。しかし機体が闇に吸い込まれていくにつれ、だんだん周りの景色が見えてきた。モニターに映っているのは、幾筋かの黒い亀裂が入った殺風景な花崗岩の壁だった。

「———深度10メートル」

 クレイの声が聞こえた。ペンクロフトは横を向いて、フェルドランスを吊るしているワイヤーの目盛りと一致していることを確認した。機体のセンサーは正常に作動しているようだ。今までの調査では、縦穴に入った途端にセンサー類が狂わされていたが、今回は最新式のシールドがうまく働いてくれているようだ。彼は期待と興奮の混じった眼差しで、モニターに映る光景を見つめていた。深度15メートル。まだ、何の変哲もない岩の壁が続いている。時折、ゴキブリらしき昆虫が岩の上を走り抜けた。

「モリチャバネゴキブリだ・・・」

「・・・そんなことはどうでもいい。縦穴の物理化学的性質に集中して観測しろ」

「了解」

 しかし、今のところ、フェルドランスのセンサーは、何等の異常も検出していない。岩の壁の様子を見る限りでは、自然に出来たものと全く差はないように見えた。

 一方、下向きにつけられた別のカメラは漆黒の闇を映し続けていた。下方へ向けたレーダーも超音波ソナーも反応は無し。まだ、穴の底はみえない。

「・・・・・ペンクロフト・・・」

 深度30メートルにまで来たとき、クレイから通信が入った。

「・・・この景色、闇の中へ吸い込まれていくようなこの感覚、おれはかつて経験したことがあるような気がする。おまえには話さなかったかな?昔、一人で宝探しをした時の話さ」

「いきなり何を言い出すんだ?」

 クレイの声が妙にかすれていたので、ペンクロフトは少し不安感を覚えた。

「いや、確かによく似てる。ここはあの廃村にあった古井戸と同じ感じがする・・・・おれは確かに一度、ここを通ったんだ。・・・・一体どういうことなんだろう・・・・」

 おかしい、とペンクロフトは思った。クレイの声は明らかにいつもと違う。まるで夢を見ながら話をしているみたいだ。

「クレイ、どうした?真面目にやれ。それとも、さっきの言葉は公式記録として扱うことを希望するか?」

 通信機から、呼吸を整えようとするかのような息づかいが聞こえた。

「・・・いや。止めておく。・・・・心配いらない。大丈夫だよ」

 フェルドランスは50メートル地点に到達した。おおよそ20階建てのビルの高さに相当する深さだ。かなり深い。穴の縁から覗き込んだとしたら遙か下にかろうじて機体の明かりが見えるかもしれない。それほどに深く潜っている。すでに今までの調査での最深記録をはるかに越えていた。つまり、今ここは人類にとって、真の未調査領域が広がっているのだ。ペンクロフトはモニターを凝視した。今までと同じ、黒い亀裂が走る岩肌が映っている。植物の姿は既に見えなくなっていたが、その他に特に変わったところはなさそうだ。彼はしばらく、亀裂に沿って視線を走らせた。そうしているうちに、ふと、不可解なことに気づいた。

 ————まさか

「降下停止」

 言いながら、ペンクロフトは、心臓の鼓動が高まるのを感じた。

「クレイ、メインカメラを広角レンズに替えてくれ」

「了解」

 カチリという音がして、レンズが切り替わり、より広範囲の領域がモニターに映し出された。それを見て、ペンクロフトは息を呑んだ。それから、「これは・・・」と一言呟いた。彼の背後で見ていたタイラーも、あんぐりと口を開けたまま、その光景に見入っていた。

 そこには複雑な幾何学模様が映っていたのだ。

 黒い亀裂は至る所でつながり、まるでクモの巣のようなパターンをつくりだしている。そのパターンの中には、明らかに、偶然にしては整然としすぎている模様がいくつも見えた。丸や三角形が繋がりあい、まるで抽象画のように見えるものもある。それはペンクロフトに、南米大陸に存在する、ある有名な遺跡を連想させた。

「・・・・まるでナスカの地上絵群のようですね」

 彼はつぶやいた。タイラーは黙ったまま頷いた。

「・・・・・驚いたな・・・」

 地下のフェルドランスから、肝をつぶしたような声が聞こえてきた。周りから駆けつけてきた人々も、画面を見るなり異口同音に感嘆の声音を漏らした。

「クレイ、周りの壁はどうだ?」

 フェルドランスの上半身が回転して、縦穴の内壁を順々に照らし出した。不可解な模様は、周囲の壁全体に描かれていた。まさに辺り一面、何者かの落書きだらけなのだ。その時、フェルドランスの全センサーに反応が現れた。突然狂ったように、ペンクロフトの前の観測装置の様々なところに明かりが灯った。目まぐるしく数値が表示されはじめ、データレコーダーの輝線が踊って、モニター上にヒマラヤ山脈のような線が描かれていった。温度、湿度、気圧を含めた、多くのセンサーが、通常とは明らかに違う値を表示していた。異常事態だった。通常空間上では現れ得ないような値を、溢れ出るデータが示していた。驚愕の目でペンクロフトはそれを見ていた。彼は不思議な感覚にとらわれた。自分が今まで信じてきた世界全体の体系に亀裂が入って、何か薄ら寒いものが忍び込んだ、そんな感じだった。人は常日頃、非日常の世界に憧れながらも、いざ常識が壊されようという時になると、悲しい程に現実にしがみついてしまう。人類史上初めて、異種知性体の確かな痕跡を発見しながら、彼の心を捉えていたのは歓喜ではなく、捉えどころのない恐怖だった。

「我々は、どえらいものを発見したようだ」

 今まで黙っていたタイラーが、興奮を押し殺した声で言った。彼の方が理性的な反応を示したようだった。

「ヒューベル君。これは君たちを再び英雄にし、私とその後継者達に、数世代分の仕事を提供するに足る結果だと思うね」

 その言葉で、ペンクロフトの心に、いつもの陽気さが戻ってきた。

 その時———

「変です」

 フェルドランスの昇降操作担当の技官が言った。彼は穴の中を覗き込んでいる。その姿勢のまま、ペンクロフトに尋ねた。

「現在の深度はまだ60メートルですか?」

 ペンクロフトは訝しそうに、モニターを見た。

「そうだよ。さっきから変化はない」

「探査機の明かりが見えません。60メートル位なら、まだはっきり見えるはずです。現にさっきまでは見えていました。突然、消えてしまったんです」

「・・・・・そんなバカな・・・」

 ペンクロフトは再び手元のモニターを見た。今までと同じ、幾何学模様が映し出されている。機体のカメラは正常に動いているのだ。探査機の状況を知らせてくる各種センサー類にも異常は見られない。

 タイラーが、訝しそうな顔をして穴の縁へ歩いていき、中を覗き込んだ。

「・・・・・・・本当だ。機体がなくなってるぞ」

 途端にその場の雰囲気が凍り付いた。

 タイラーはペンクロフトを見た。これはただ事ではない、とその顔が言っていた。

「クレイ!」

 ペンクロフトは叫んだ。

「上を映してくれ。早く!」

 どうかしたのか、とクレイの声がした。メインカメラは上を向いたはずだった。しかし、ペンクロフト側のモニターには、縦穴の口が丸い明かりとして映るはずの画面に、漆黒の闇しか映っていなかった。

「あれ、どうしたんだ。故障かな」

 フェルドランス側でも異常を感じたらしい。通信機からクレイの声が聞こえた。聞こえ方は今までと変わらない。しかし、ペンクロフトには、直感があった。なにかとてつもない出来事が、未知の方法で、彼とクレイを遠く引き離しつつある。

 遠くへ。どれくらい?

 これは異種文明の遺跡なのだ。そんなことは分からない。一キロメートルかもしれないし、数光年かもしれない。もしかしたら、彼のいるこの三次元空間内には存在しなくなるかもしれない。

 ペンクロフトの顔から血の気が失せていった。

「ペンクロフト、どうした?そっちで何かあったのか」

 再び声が聞こえた。ペンクロフトは今の事態を話すべきかどうか迷った。今、素直に本当のことを言うべきか。君はこっちの世界から消えつつあると。しかし、こうして通信はできているのだ。彼は気を取り直した。人の目には見えなくても、フェルドランスと我々はこうして「機械的」にはつながっているのだ。少なくとも今の所は・・・

 第一、本当のことを言ったら、奴はパニックになっちまうよ・・・

「何でもない。でも今から一旦引き上げる。小休止にしよう」

 ペンクロフトは、昇降担当の技師に頷いて見せた。怯えたような表情をしながらも、技師はウインチのUPボタンを押した。機械が作動し、軋み音をたてながら、ワイヤーが引き戻され始めた。

 そこにいる全ての人の目は、少しずつ戻ってくるワイヤーの目盛りに釘付けになっていた。ワイヤーには一メートルおきに、白く目盛りがふってある。

 ・・・・4メートル・・・・・5メートル・・・

 三角錐の頂上にある滑車が軋んでいる。静まり返った空間に、その音はやけに甲高く響いた。ワイヤーが戻ってくる。しかし、10メートル引き戻されてきても、まだフェルドランスは見えなかった。

 お願いだ。戻ってきてくれ

 ペンクロフトは、祈るべき相手も特定できないまま、祈った。 

 ・・・・・15メートル・・・・・16メートル・・・・

 森の木々が、ざわざわと不安げな音を立てて騒いでいた。何処かで鳥が啼いた。

 ・・・・・17メートル・・・・・

「ペンクロフト」

 クレイの声が聞こえた。ノイズ混じりの声だった。明らかに通話状況が悪化してきている。

「引き上げるんじゃなかったのか?さっきから動いてないようだが・・・」

 動いていない? 

 どくん、と、その一言でペンクロフトの心臓が収縮した。バカな、と言いつつ彼は手元のモニターを見た。何ということだろう。深度60メートルから一ミリも変化していない。しかも、画面はノイズによって半ば霞んで見えた。

「ヒューベル博士!」

 タイラーが叫んだ。彼はフェルドランスを吊るしている滑車を指さしていた。ペンクロフトはそれを見た。滑車と、それを支えている三角錐型の塔が、大きく揺らいでいた。軋み音が大きくなってゆく。まるで、地の底から何かに引っ張られているようだ。

「負荷が急速に増大しています!」

 ウインチに付いている重量計を見ながら、技官の一人が叫んだ。

「まずい・・・・引きずり込まれるぞ・・・」

 彼は通信機に向かって、なり振りかまわぬ大声で叫んだ。

「クレイ、聞こえるか、クレイ!」

 通信機の向こうは、すでに嵐のようにノイズが荒れ狂っていた。その彼方から、細く細く、クレイの声が聞こえてきた。

「・・・・・・どうなってるんだ・・・・・・わけが分からな・・・・・・・何かが見える・・・・・早く引き上げ・・・・・・だめだ・・・・助けてく・・・・・」

 その後に聞こえた言葉に、ペンクロフトは戦慄した。

「クレイ!」

 そして、通信は途絶えた。がりっと記録用紙を削って観測機器のアナログ針が振り切れた。次の瞬間、すさまじい音を立てて塔が崩れた。鉄骨がひん曲がり、ウインチやワイヤーを道連れに、フェルドランスを支えていた全てのものが、怪物が吠えるような軋み音と共に、暗い穴の中へと落ち込んでいった。まるで、穴に喰われたかのように・・・・

 ペンクロフトはなすすべもなく、砂嵐のようになったモニターを見つめていた。彼の脳裏に、クレイが最後に口走った言葉が響いていた。

「・・・・光が見える、・・・・白い、白い光————」


「ではあなたは、この間の生物が、人工進化プロジェクトの産物だと言うんだね」

 保安局局長室に、アッカー局長の声が響いた。

「———そうです」

 局長の向かいの椅子に座ったシィナが答えた。

「詳しい資料を持ってきました。マンディブラスについて、父が解析したことは全て書かれています。・・・・役に立つかもしれません。再び、あれが襲ってきたときに・・・・」

 局長室の窓から、夕日が差し込んでいる。その光が、少しうつむきながらも、何かを決意したらしいシィナの顔を照らしていた。彼女は、傍らの鞄から、分厚いファイルを取り出して、アッカー局長に差し出した。

「・・・・人工進化の計画については、噂なら私も聞いたことがあった。・・・・まさか本当にやっていたとはな。しかもこの島で・・・・」

 受け取ったファイルを机の上でぱらぱらめくりながら、局長が言った。

「・・・・しかし、どうしてその怪物の逃亡を阻止できなかったのかな?君は何か知らないかね」 

 シィナはうつむいた。彼女の脳裏に、地下空間でクレイが言った言葉が浮かんだ。

 ———言いにくいことは黙ってればいいんだよ。過ぎたことを悔やんでも始まらないしね

 彼女は顔を上げた。

「・・・・・・・・わかりません」

 局長は、少しシィナの瞳を見つめてから、「そうか」とつぶやいた。

「シィナ・ライトさん、でしたね。こんな仕事をしながら年をとるとどうもいけない。人が嘘をついていると何故かわかってしまうんだよ。我ながら嫌な性格だと思うね。おまけにあなたはあまり嘘をつくのが得意じゃないようだし・・・・でもいいでしょう。奴が逃げた過程なんて今は重要じゃない。問題はどうやって奴の侵攻を阻止するかだ」

 局長は視線を窓の外に向けた。彼方に、夕日に輝く水平線が見えた。

 突然、電話が鳴った。局長は受話器を取った。

「私だ」

 受話器の向こうは、かなり混乱しているようだった。シィナの耳にも、かすかに向こうの声が聞こえてきた。「非常事態」と言う単語が聞き取れた。

「なに、どうした?落ちついて話せ・・・・・消失?遭難の間違いじゃないのか?・・・・それで、場所は・・・・K13?・・・・・分かった。許可する。30分以内にそちらに着くはずだ」

 局長は受話器を置いた。

「・・・何か、あったんですか?」

 シィナが尋ねた。局長は難しい顔をして彼女の方を向いた。

「事故のようだ。すまないが失礼する。救出用の特殊班の指揮をしないといけなくなったんでね。また何か分かったら、隠さず協力して下さい」

 局長は部屋を出た。シィナも彼の後ろに続く。廊下に出ると、妙に慌ただしくなっているのに彼女は気づいた。局長は足早に去っていった。彼女が不安そうな顔で佇んでいると、やがて遠くから、小型偵察機が離陸するローター音が聞こえてきた。

 何だろう?胸騒ぎが止まらない・・・・

 ちょうどその時、保安局員らしい男が、前を通りかかった。

「あの、すみません。何かあったんでしょうか?」

 保安局員はシィナの容姿を見て、部外者だと判断したらしく、「何でもありません」と言ってそのまま通り過ぎた。彼女はその後ろ姿をじっと見ていたが、意を決したように背後へ走り寄った。そして、おもむろにその保安局員の首筋を捕まえた。彼は驚いて振り返った。シィナの目が、彼を見つめていた。その鳶色の輝きが彼の網膜から脳の中へと一直線に駆け抜けた。

「お願い、答えて!」

 保安局員の頭の中に、直接シィナの声が響いた。

「なにがあったんですか?」

 保安局員としてのあらゆる抑制機構は消失していた。まるで魔法にかけられたように。

「じ、事故だ・・・」

 ほとんど無意識に、彼の唇が動いた。

「森林地帯の縦穴で、調査中の探査機が消滅したそうだ・・・・」

 消滅、と言う単語がシィナを慄然とさせた。それに・・・

「・・・・探査機?探査機って、まさか・・・・」

「この前、敵を撃破した新型のやつだ。・・・フェル・・・とか何とか・・・」

「———そんな」

 保安局員を放すと、シィナは支えをなくしたかのように壁にもたれかかった。保安局員は彼女が離れると、何事もなかったかのように歩いていった。シィナは放心したように、リノリウムの床を見つめた。

「・・・・・フェンネルさん・・・・」


 それから数日間、探査機の救出作業が続けられたが、穴の中に吸い込まれたものは、鉄屑ひとつ、発見することは出来なかった。異種文明の証拠と引き替えに、一人の人間が、謎に満ちた闇の中へと消えてしまったのだった。

 やがて、失意と共に捜査は打ち切られた。後には真っ黒な穴だけが残った。いつしかそれは遺跡ではなく、「人喰い穴」と呼ばれるようになっていた。


 クレイの家の前に来ると、ペンクロフトはノックをしようと片手を上げた。しかし、その手は途中で止まって、彼はしばらく何かを考えるようにそこに佇んでいた。やがて、意を決したように、拳を握って、二度、ドアをノックした。すぐに、家の中から、ぱたぱたと走ってくる、小さな足音が聞こえた。

「クレイ、お帰りなさい」

 ドアが開いて、小さな女の子が姿を現した。にこやかに笑っていた彼女は、しかし、佇んでいるペンクロフトのやつれた顔を見ると、「あ」と一言つぶやいたまま、動きを止めた。笑顔はみるみるうちに消えていって、彼女は、訝しそうな、不安そうな顔をしてペンクロフトを見上げた。

「あ、君、あのね・・・」

 ペンクロフトはつぶやくように言った。途端に、少女は厳しい顔つきになって、ドアの奥に引っ込んだ。彼の前で、音を立ててドアが閉じた。それきり、彼がいくらノックをしても、ドアは二度と開かなかった。

 しばらく立っていたが、やがて、溜息をついてペンクロフトは立ち去った。


 ドアの後ろ、がらんとした家の中では、コートニーが、背中をドアにつけて、じっとうつむいていた。彼女の頭の中で、クレイの言葉が木霊のように響いていた。

 二、三日したら戻ってくるから————

 しかし彼は戻ってこない。あれから五日も経つのに帰らない。

 コートニーは、ドアに当てていた掌を握りしめた。

「どうしたの。何があったの・・・・」

 彼女は俯いたままつぶやいた。

 外で、哀しげに鳥が哭いていた。その声に誘われるように、コートニーは再びドアを開いた。夕日に、草原は金色に輝いていた。彼女は軋み音をたてる橋を渡り、とぼとぼと草原の中へと歩いていった。夏の夕暮れの風にさざめく草原は、彼女の心を、底知れぬ不安と寂しさの中へと誘っていくようだった。背後でぎいぎいと軋んでいるドアの音が、孤独感を嫌が上にも増していく。

 私は取り残された?この場所にたった一人、置き去りに————

 草原の真ん中まで来たところで、彼女は立ち止まった。そしてそのままぼんやりと空を見上げた。

「何をしてるんだい」

 唐突に、背後から声が聞こえた。コートニーはびくっと体を震わせて振り返った。いつの間にやってきたのか、黒い衣装を着た少年が瓢然と立っていた。

「あ」

 コートニーの口から、怯えたような声が漏れた。いつの間にこんな近くに?足音も聞こえなかったのに。心が警笛を鳴らして、彼女は後ずさった。

 少年は、少女を見つめていた。金色の草原の中に、ふたりは彫像のように佇み、見つめあっていた。コートニーは瞳に警戒の色を浮かべていたが、黒衣の少年の瞳には、何等の感情も現れていない。

 風が少年のマントをはためかせる。不思議な雰囲気を持つ少年だった。そのまま風に乗って飛び去ってしまっても、何ら違和感がなさそうだった。

「・・・・あなたは、だれ?」

 コートニーが、小さいけれども鋭い声で訊いた。

 少年は答えなかった。かわりに、口元に微かな笑みが浮かんだ。

「だれなの?」

 再びコートニーが尋ねた。

「・・・・・君は」

 コートニーの問いには答えず、少年は少し哀愁を含んだ声で言った。

「君はあの家の人の帰りを待っているのかい?」

 その質問は、電撃のようにコートニーの背中を走り抜けた。今までの恐怖も忘れて、彼女は少年に二、三歩近づいた。

「知ってるの!? クレイのこと!」

 少年は悪戯っぽく笑った。

「街の人はみんな知ってるよ。大事件だったからね。知らないのは君ぐらいなんじゃないの?」

「何があったの?ねえ、何が」

 コートニーは少年に走り寄った。それに驚いて、草の間から小鳥が飛び立った。少年は少し目を細めた。

「人間にしてはきれいな感情をもってるね。君」

 そして、少年は奇妙なことを言った。

「彼を連れ戻したい?」

「え?」

 言葉の意味が分からず、少女は戸惑いの色を瞳に浮かべた。少年は口元に微笑を浮かべて言った。

「彼は今遠いところにいるんだよ。人類のだれも知らない異界へ行ってるんだ。そこはとてもとても遠いところだから、このままだと彼は二度と帰ってこれないだろうね」

「どこ?そこは何処なの?」

「迷宮だよ」

「・・・迷宮?」

 少年の抽象的な表現に、少女は戸惑った。

「そう。近くて遠い、この世界の秘密が眠る所さ」

 そして少年は、少女の瞳の奥を探るように覗き込んだ。

「ぼくがもし、行き方を教えてあげたら、君は行くかい?・・・たとえ危険が待っていたとしても」

 それは、突拍子もない話だった。コートニーは驚いて少年の瞳を見つめた。この不思議な少年は、哀れな少女をからかって遊んでいるとしか思えない。しかし、彼の瞳は神秘的な光を湛えて、彼女を見つめ返した。それを見ていると、奇妙なくらい少年の言葉がすんなりと心の中に入ってきた。何故かは分からないけど、それが嘘でないことが少女には分かった。そして、行く手に待っているのは並大抵の危険ではないことも、何故か分かった。クレイの帰りをこのまま待ち続けることはもうイヤだったが、自分が探しに行くことを考えると、不安感が背中に漂ってきて、コートニーはうつむいた。足元の草の間から、クレイの姿が見えるような気がした。

 ———私が行けば、あなたは帰ってくるの?

 まぼろしは少し悲しそうに微笑んで消えた。

 コートニーは、うつむいたまま動かなかった。

「もし、行く気があるなら」

 少年の声が響いた。

「旅支度をして、明日の朝、ここにいたまえ」

 最後の言葉は、風に流されていったような気がした。コートニーが顔を上げると、少年の姿は既に何処にも見えなかった。

 ざわざわと風に騒ぐ草原の中に、少女は一人立ち尽くしていた。


 ペンクロフトの背後で、ぎぃ、と音を立ててドアが開いた。明かりの消えた管制室の机の上に両肘をついていた彼は、疲れたような仕草で振り返った。ドアのそばに、日没後の薄明よりも暗く、ひとつの人影があった。

「やあ。君か」

「ヒューベルさん。・・・明かりもつけないで・・・・」

 シィナは、ドアのそばにあるスイッチを手探りで探して、明かりをつけた。無精髭の伸びた、やつれたペンフロフトの顔がそこにあった。

「・・・・・大丈夫ですか?」

「————ああ」

 彼は、音を立てて椅子を引くと、ゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置いてあったもう一つの椅子を引きずってきた。

「座りなよ」

 それから、部屋の隅に行って、カップにコーヒーを入れて戻ってきた。

「どうも」

 シィナは、長いこと保温しっぱなしで、ひどく苦くなったコーヒーを口に含んだ。

「・・・・・・フェンネルさんのこと・・・・」

 ペンクロフトは重苦しい声で答えた。

「ああ。今度ばかりはおれもこたえたよ。探査機とパイロットがいきなり消えちまうなんて・・・・」

「捜索は打ち切られたんですね」

 彼は頷いた。「どうしようもなかったんだ。この島の装備じゃ、あの穴の中には入れない」

 ペンクロフトは俯いて、歯を食いしばり、「くそっ」とつぶやいた。

「こんなことになるなんて・・・・」

 シィナは、黙って聞いていた。ふと、彼女は自分が持っているコーヒーカップを見た。恐竜のイラストが描かれている。明らかに、クレイのものだった。彼女はそのカップを悲しそうに見つめた。

「でも、まだ、その・・・死んだと決まったわけじゃないんでしょう?どこかで生きてる可能性もあるじゃないですか。希望は捨てないで下さい。ヒューベルさん」

「・・・・ねえ、シィナさん」

 うつむいたまま、ペンクロフトが言った。

「君の魔法で、何とかならないのかい?」

 シィナは悲しげに首を振った。

「・・・・そうか」

 始めから期待していなかったらしく、ペンクロフトは無感情に答えた。

「うまく行かないもんだな。人生ってのは・・・・」

 それから、ぎぃ、と椅子を軋ませて、シィナに背を向けた。

「・・・・ヒューベルさん」

 シィナはペンクロフトの背中に話しかけた。

「少し眠ったらどうですか?疲れがとれたら、なにかいい考えが浮かぶかもしれないし・・・・」

「眠れるわけないだろ。目を閉じると出て来るんだよ。あの時の場面が。あいつの最後の声が耳について離れないんだ」

 シィナは立ち上がって、ペンクロフトの所へ歩いていった。

「眠らせてあげましょうか?」

 ペンクロフトはシィナを見て、疲れたように笑った。

「例の魔法かな?」

 シィナは頷いた。ペンクロフトは首を振って、窓の方を向き、「眠れない方がいいんだ」とつぶやいた。

「何となく、罪滅ぼしをしてるような気がするしな」

 沈黙が続いた。壁に掛けているアナログ時計の秒針の音が響いていた。

 ペンクロフトは、ふと、何かを思い出したようにシィナを見た。

「シィナさん」

「・・・・何ですか?」

「君はどうして、クレイのことをそんなに気にかけるんだい?今日ここに来たのも、彼のことが知りたいからだろ?」

「・・・・・そんなこと・・・・」

「隠しても分かるんだよ。君は彼のことしか信用していない。クレイのどこが特別なんだ?彼の何が、君をそんなふうにさせるのかな?」

 ペンクロフトはシィナをじっと見つめていた。探るような、しかし悲しそうな瞳で。

 シィナは黙っていた。

「・・・・今気づいたけど、君とクレイとは、どこかしら似ているね。雰囲気というか、表情というか・・・・・」

「・・・・・・わかりません。・・・・・でも、」

 シィナは小声で言った。

「クレイという名は、死んだ私の兄と同じなんです。私が生まれる前に死んだんですが・・・・・もしかしたら・・・・・私はあの人に、見知らぬ兄への慕情を重ねていたのかもしれない・・・・・」

 ペンクロフトの口に、笑みが浮かんだ。それは空虚な微笑みだった。

「嘘だね」

「・・・・・え?」

「この前、怪物が襲ってきた時さ、おれは見たよ。クレイが無事だと知ったときの君の表情を。・・・・・魔術師も恋をするんだって思ったね」

「————そんな!」

 シィナの顔が一瞬で赤くなった。ペンクロフトは疲れたように笑って、どういう訳か、いきなり話題を変えた。

「魔法で思い出したけど、そういえばあの『航海日誌』を解読して教えてあげる約束をしてたね?」

「・・・・え?」

 シィナは困惑したような表情をした。

「君は知りたがっていたじゃないか。あれの内容を」

「・・・・え、ええ、そうですが、今はまだ・・・・」

「いや。今からやってみようか。何かをしてないとおれは気が狂ってしまうかもしれない」

 机の方に向き直って、ペンクロフトは何かに憑かれたように、コンピュータのキーを叩き始めた。

 シィナは無言で、その後ろ姿を見つめていた。


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