第4部
8-悲愴
朝がきた。壁に掛かる時計の日付が八月に変わっている。
机の上に突っ伏して眠っていたクレイは窓をたたく雨音で目を覚ました。頭をおこして外を見ると、どんよりと曇った空から、湖面やその横に広がる草原にさわさわと雨の滴が降り注いでいた。水面にいくつもの波紋が弾けている。
「雨か・・・・」
クレイはつぶやいて椅子から立ち上がった。時計を見ると午前6時、いつもなら眠りこけている時間だ。寝直そうかと思ったが、昨日の少女のことを思い出した。
そうだ、朝食をつくらなければ
彼は台所へ行き、卵焼きとトースト、野菜サラダ、それからコーヒーを手早く用意した。そして外階段へ出て、二階に上がる。
クレイはドアをノックした。しかし返事はなかった。
ふと、何かが気になって、彼はドアのノブに手をかけて、回してみた。
ガチャッ、と音を立てて真鍮のノブが回る。鍵はかかっていなかった。
クレイはドアを開けた。そこは居間だった。黒い木が敷かれたフローリングに、ソファやテーブルが置かれている。湖が見える左側と海や崖が見える正面側には大きな窓があった。
そしてそこには誰もいなかった。
クレイはしばし無言で、無人の部屋に立っていた。
やがてクレイはドアを閉め、振り返った。ずっと遠くに、雨にかすむ街が見えた。
クレイが雨の中を街の方に向かっていると、遠くに雨傘を差して歩いて行くコートニーの小さな後ろ姿が見えた。クレイは足早に近づき、ずんずん歩いて行くコートニーの背中に話しかけた。
「病院に行っても、面会はまだできないよ」
コートニーは何も言わなかった。眉をしかめ、クレイの方を見ることもなく真っ直ぐに歩いていく。
「昨日のことで、病院はまだ怪我人の対応に追われている。いま行っても迷惑になるだけだよ」
少女はクレイの言葉を無視して歩き続けた。
「気持ちは分かるけど、もう少し落ちついてからにしよう。それに———」クレイが更に何か言おうとしたとき、コートニーはいきなりクレイに向き直り、手に持っていた傘を地面に叩き付けた。
「放っといて!」少女は叫び、地面を見据えて、歯を食いしばった。
「放っといてよ!」
クレイはその剣幕に押されて、言葉を失った。
雨粒が傘を叩く音が聞こえる。クレイはとにかく何かを言おうとして口を開きかけた。
少女はキッとクレイを睨んで、そのまま草原の中に駆けだした。
「き、君!」
クレイは慌てて、雨の草原を駆けてゆく少女を追いかけた。彼の足が濡れた草を踏むたび、足元で飛沫が散る。コートニーは彼女の家があった方角に向かって真っ直ぐに駆けていた。草原のこのあたりは湿地になっていて、池塘と呼ばれる小さな湖が点在している。ちょうど彼女の目の前にも水面が見えていたが、そんなことはお構いなしに少女は走っていく。
「君、いけない!そっちは・・・・」
クレイは叫んだ。あの辺は湖岸から急に深くなっているのだ。しかも雨で湖と岸の境界がはっきりしなくなっている。
コートニーは湖の方へ走っていった。そして、クレイの目の前で、彼女の姿がすっと消え、派手な水しぶきがあがった。
「きみ!」
クレイは少女が消えた湖へ全速力で走った。泥に足を取られてよろめき、靴を片方なくしてしまったが、かまわずコートニーが見えなくなった辺りに駆けていった。
コートニーは湖に落ちてばたばた暴れていた。泳げないらしい。大量に水を飲んでいるようだった。喘ぎながら何とか水面に頭を出そうとしている。クレイは躊躇せずに湖に飛び込んだ。もがいているコートニーの後ろにまわって、右腕で彼女を抱えて、彼女の頭を持ち上げる。
「ぶわ!」
コートニーは泣きながら水混じりの息を吐いた。岸へあげられると、彼女は草の上に両手をついて座り込んで、はあはあと荒い呼吸をした。濡れた髪から水が滴っている。頬を伝う水には雨と涙が混ざっていた。彼女は泣きじゃくりながら、「どうして、どうして、こんな目に」と呻いた。
「・・・・・・ごめん」
「ひどいよ、わたしとお父さんが何をしたの?どうしてこんな目に遭うの!」
今まで無口だった彼女は、いきなり堰を切ったように涙声で叫んだ。
「あなたはだれ!どうしてこんな所に連れてきたの!うちに帰して!嫌い、大嫌い!余計なことしないで!放っといてよ!」
「・・・・・すまなかった」
クレイはつぶやいた。その時、コートニーの首筋に何かが付着しているのに気づいた。子供の掌ぐらいの赤黒い物体だった。
ヒルだ
「ちょっと、君、首に・・・・」
ヒルを取ろうとして、クレイはコートニーの首筋に手を近づけた。
「いやっ!さわらないで!」
コートニーはヒステリックに叫んで身体を引くと、首筋を守るように手をあてた。
途端に彼女はびくっ、と震えた。
「な、なっ?」
コートニーは手に触れた物体をまさぐった。彼女の手の中でそれはぐにゅっと変形する。あまりの気持ち悪さのせいか、少女は反射的に手を引っ込めた。しかし首筋に凄まじい違和感があるのか、少女はガクガクと震えだした。
「なに?な、なに・・・・」
「・・・・ナンベイオオヒルだよ。環形動物貧毛類。けっこう大きいね。それぐらいのサイズだと、ウサギの耳に一匹ずつ吸い付かせたらウサギは血が一滴もなくなってしまう、という噂がある。珍しいね。こんなところにいるなんて」
無脊椎動物学で学んだ知識をひっぱりだして、クレイは回答した。コートニーの顔から恐怖で血の気が引いていった。唇はわなわなと震えている。
「いやだ・・・・なんで・・・・こんな」
首にヒルをはりつけたまま、コートニーは硬直した。あまりのおぞましさに体がすくんでしまったらしい。
「大丈夫、すぐにとれるよ」
クレイはコートニーの横にかがみ込んで、彼が着ていた服のポケットから、小さなビンを取りだした。スプレー式になっているそれをしゅっ、と彼女の首についているヒルに吹きかける。すると、意外にもヒルはぽろっと外れた。あまりのあっけなさにコートニーは呆然と、地面の上でうごめくヒルを見つめていた。クレイはひょい、とヒルを拾い上げた。
「70%のエタノールだよ。消毒用だ。これをかけるとすぐに外れる。この島は何が起こるかわからないから、消毒液は常に持ち歩くようにしているんだ。君もこれからそうしたらいいよ」
呆然と聞いているコートニーの前で、クレイはヒルを湖に放してやった。ヒルは体を波打たせながら泳ぎ去る。コートニーは驚いたようにクレイを見た。
「・・・逃がすの?」
「うん。外見はあれだけど、もともと南米にいた種がこんなところに迷い込んで、それでもなお一生懸命生きていると考えるとね」
そう言っているクレイの目は何故か淋しそうな色をしていた。雨に濡れながら、コートニーは黙っていた。黙ったまま、硬い表情でクレイを見ていた。その時ふと何かが気になったようで、彼女はさっきまでヒルがはりついていたあたりに手をおいた。すると、妙な感触を覚えたらしく、彼女は少し眉を寄せた。
「あ、ヒルが吸血するとき・・・」
コートニーは首にあてた掌を見た。
真っ赤だった。
手は血塗れになっていた。気がつけば襟元までベッタリと血が付いていた。
「ヒルジンという血液凝固阻害物質を使って・・・」
クレイが解説を始めるやいなや、コートニーはいきなり胸を手で押さえ、俯いた。はっ、はっ、と喘ぎ始める。そのまま地面に膝をつき、うずくまった。そうしたまま、彼女は苦しそうに喘ぎ続けた。彼女の首筋から赤い血がポタポタと地面に落ち、雨の滴に混じっていく。
「ど、どうした!」
クレイは慌てふためいた。目の前で苦悶する少女。息が苦しそうだ。何が起きた、クレイは狼狽した。彼女の手が血まみれになっている。彼は気づいた。そうだ、昨日彼女は地面に残された父親の血痕を見たはずだ。それを思い出したのか。だとしたら、ストレス障害の症状か?こんな時、こんな時は?
クレイはコートニーの横に跪いた。
「落ち着いて、大丈夫だから。今から家に戻る。薬がある。ぼくのことは後からいくらでも嫌ってくれていい。今の君には休養が必要だ」
クレイはコートニーを抱き起こすようにして立たせると、そのまま元来た道を引き返した。
クレイが古いストーブを倉庫から引っ張り出してくる間に、コートニーは家に備え付けの部屋着に着替えていた。大人用なので、シャツとズボンの裾を何重にも折り返している。
クレイはコートニーに毛布を手渡すと、ストーブの前に椅子を置いて彼女を腰掛けさせた。コートニーは毛布にくるまると、クレイから差し出されたコーヒーカップを無言で受け取った。湯気が立ち上るココアを険しい表用で見つめている。少女の呼吸はだんだん落ち着いてきた。やがて、彼女はゆっくり頭をあげ、ストーブの反対側で心配そうに彼女を見ていたクレイと目を合わせた。
「・・・気分はどう?」
コートニーは無言だった。彼女の首には絆創膏が貼られている。ヒルに咬まれた首筋の出血はすでに止まっていた。彼女は探るような表情で、クレイの顔を一瞥し、それから機嫌悪そうに眉をしかめた。
「朝食、食べる?」
彼女の横にあるテーブルには彼が作った朝食があったが、彼女はそれを見ようともしない。
「そう・・・」
しばし沈黙が流れた。
クレイはストーブの向こうに座るコートニーを心配そうに見た。
さっきから一言も喋らないが、大丈夫だろうか?やはり昨日からの精神ストレスのせいで、どこかがおかしくなってしまったのか?
クレイは頭を抱えた。もしかして、心的外傷後ストレス障害とかいうのになってしまったのでは?やはりここに連れてきたのは間違いだったのか・・・・
胸が締め付けられるような沈黙が流れた。
バラバラと屋根を打つ雨音だけが聞こえる。
やがて、コートニーの口から嗚咽が漏れた。
ぐすっ、ぐすっ、と途切れ途切れに息を漏らす。少女の瞳から涙が流れていた。そして、心の奥底から絞り出すような声で、彼女は「どうして」と言った。
「どうして」
コートニーはココアの入ったコーヒーカップを抱えたまま、巣から落ちたひな鳥のように震え、泣き続けた。
クレイは何も言うことができないまま、悲しそうな面持ちで、すすり泣く少女を見ていた。
ずいぶん時間が経ったような気がして、クレイが顔をあげると、コートニーはいつしか泣き止んで、ストーブの火を見つめていた。見つめると言うより、睨んでいると言った方がいいかもしれない。険しい表情ではあったが、とりあえず、死人のようだった顔に生気が少し戻っているように見えた。
「・・・・キャンベル先生は」クレイはストーブの向こうにいる彼女に話しかけた。
「先生は、君を置いて行ってしまうような人じゃないよ」
「・・・・・・もう・・・いい」
コートニーは、すっかり冷めてしまったココアのカップを握り締めたまま、少しだけ、逡巡するような表情を浮かべた。そして、「もういい・・・」と、囁くように言った。
再び沈黙。ばらばらと屋根を打つ雨音。クレイは言うべき言葉が見つけられなかった。こんな年頃の少女と交わす話題など何も思い浮かばない。これでは、この子は徒に不安感を募らせるだけではないのか。この子の事が不憫でとった行動は、じつは逆効果だったかもしれない。クレイの心を、後悔と自己嫌悪の風が通りすぎた。そう、ぼくはいつもそうだ。その場の感情に流されて、適切な判断ができなくなってしまう。第一、この島に来たことだって————。
その時、階下の入口にある呼び鈴が鳴った。
「・・・・誰か来た」
クレイは椅子から立ち上がって、ドアを開けて外階段へ出た。ドアを閉じる時、彼は振り返ったが、コートニーは椅子に腰掛けたままで、その姿は彫像のように見えた。
一階の玄関前にはペンクロフトが立っていた。彼は外階段を降りてくるクレイの姿を見ると、言いづらそうに、「キャンベルさんのことは聞いたよ」と言って目を伏せた。
「意識不明らしいな。とんでもないことになっちまった」
「ああ」
「今回の件で、これから緊急対策会議なるものを開くらしい。それで、あの化け物たちと接触した人に参考人として来てほしいそうだ。おれとおまえ、それから博物館のシィナさんが呼ばれてる」
「対策会議・・・」
「ついでに、カハールとかいう生物学者が、化け物の解析結果を報告するそうだ」
クレイは感嘆の息を洩らした。
「すごいな。もうやったのか」
「ああ。天才というもっぱらの評判だ」
「・・・・・天才?・・・カハール?・・・そいつ、実名か?」
「知らん。なぜそんなことを?」
「19世紀のスペインにそういう名前の天才科学者がいた。ノーベル賞も取ったはずだ。何かこう、合いすぎているというか・・・・・」
「知らんよ。自分で聞いてみたらどうだ?あと二時間後に始まる。これから行けるか?」
クレイは少し考えて、「ちょっとだけ待ってくれ」と言ってまた外階段を上がっていった。そして彼は二階の入口のドアを何度かノックしてから、「入るよ」と言ってドアを開き、緊張気味に中に入った。
その様子をペンクロフトは訝しげに見ていた。
クレイが部屋に入ってみると、コートニーは窓のそばに立って外を見ていた。風力発電用の風車がまわる丘と、なだらかに広がる草原が雨に煙り、眼下の湖面では大小さまざまの波紋が瞬いている。彼女はコーヒーカップを手にしていた。さっき渡したココアではなく、朝、クレイが用意したコーヒーの方だった。
これまで彼女は自分が出した食事に全く口をつけようとしなかった。飲んでくれるのだろうか、クレイは息を呑んで彼女を見る。
彼女は少し躊躇しながらそれを口に運んだ。
「君、あの・・・」
少女は無言でクレイの方を見た。クレイは危うい場所で綱渡りをしているような緊張感を覚えながら、言った。
「いや、その、どうかな?それ」
彼女はしばらく考えてから、「味なんか、わからない」とつぶやいた。
「・・・・・そうか」
「・・・・苦くて」
少女は呟くように言って、窓の外に視線を戻した。
「・・・・・苦くて?」クレイは恐る恐る尋ねる。
彼女は窓の外を見たまま、答えた。
「まずい」
「それは、悪いことをした」
クレイは困ったような顔で返した。しかし彼は、ぎこちないけれども少女と会話ができていることに少し安堵していた。
「あの・・・」
警戒するような少女の横顔に、彼は慎重に言葉を選んで、話しかけた。
「・・・・街に行くことになった。外はまだ危ないかもしれないから、この家から出ないように。キャンベル先生の容態は聞いてくるから」
彼女は小さく頷いた、ように見えた。クレイが部屋のドアを閉めるとき、彼女はまだ窓の外を見ていた。彼女は、かつての自分の家があった方角をじっと見つめていた。
ペンクロフトが立っているところからは、少し先の崖に建つ自分の家が見える。ハンマーヘッドに襲撃されて二階が完全に破壊された家に雨が降り注いでいた。幸い、昨日シィナに手伝ってもらって応急処置をしたせいで、下の階への漏水は防がれているようだ。彼が黙ってその様子をみていると、階段上のドアが開き、クレイが階段を降りてきて、「行こうか」と言って傘を手に取った。
二人が湖の中の家からアーチ型の木橋を渡っていくあいだ、クレイは振り返って、不安そうに二階の窓を見つめていた。
降りしきる雨の中、二人が石畳の道を歩き出すと、ペンクロフトが尋ねた。
「今、二階に誰かいるのか?」
クレイは少し躊躇してから答えた。
「・・・・キャンベル先生の娘さんだよ。いろいろあって今おれが面倒を見てるんだ」
ペンクロフトは呆気にとられたような顔で彼を見た。
「何だって?」
「いや、昨日・・・」
「娘さんのことはおれも気になってたよ。でも救急隊に保護されたんだと思ってた。まさかおまえのところに」
「ん、いや、救急隊は先生への対処で手一杯で・・・・」
「それにしても、他に何か手があるだろう?よりによって家に連れて帰るなんて」
「あのときは仕方なかったんだよ。二階は空いていたから何とかなるかと。・・・・キャンベル先生が戻ってくるまで、何とかしてみようと思ってる」
ペンクロフトは呆れたように溜息をついた。
「何てこった、下手すると誘拐だぞ、それ」
しかし、と彼は思い出す。この街にひとつしかない病院は昨日でた怪我人への対処で手一杯だ。無傷の少女を保護する余裕は無いだろう。それに、あることに彼は思い当たった。彼はさっきのクレイの表情を思い出した。やるせないような、何かに耐えているような表情だった。
クレイは昔のことをあまり話したがらなかったが、一ヶ月前のフェルドランス完成記念式典のとき、酔ったはずみにクレイは自身の過去について少し話をした。
『おれは、いわゆる孤児というやつだったんだ・・・・』
何でも、子供の頃、記憶を無くして彷徨していたところを保護されたらしい。自分のこと以外は何も、もとの両親の名前も、何処で生まれたかもわからないらしかった。
『気がついたら独りぼっちだった』
そう言ってクレイは深淵に沈んだように黙り込んだ。
そうだったのか。そんな映画みたいなこと本当にあるんだな、などと、ペンクロフトも少し酔っていたので、そんな思慮に欠ける返答をした。
そうか、そういうことか・・・・・
ペンクロフトには、クレイが行き場を無くした少女を保護した理由が少しわかったような気がした。
「しかしな」
ペンクロフトはクレイに向き直った。
「今日にでもそのことを役所に報告しろ。彼女の居場所もあの家の二階で登録しておけ。問い合わせ先にはおれの名前も書いておけ」
「わかった、そうする」
「それから」
ペンクロフトは厳しい顔でクレイを見た。
「よく考えろよ、自分にできることと、できないことをな」
クレイは黙って頷いた。
雨は二人が歩く石畳の下り坂を叩いていた。ポプラの並木からも水滴が滴り落ちている。
ペンクロフトは遠くに霞む街を見ながら歩いていたが、またひとつ疑問が浮かんだようで、少し言いにくそうにクレイに話しかけた。
「・・・・なあ、おまえ、あの博物館の魔法使いと何かあったのか?」
「・・・・何の事かな?」
「おれがあの壁画の怪物のことを聞いても、彼女は教えてくれなかった。おまえにしか話せないそうだ」
「え?」
クレイは唖然として答えた。確かに昨日シィナとはいろいろ話をした。彼女はかなりうちとけているようだったが、大事な秘密を打ち明けてもらえるほど親しくなったとは思えなかった。
「何故だ?何故おれなんかに・・・」
クレイはふと、別れ際にシィナが見せた、何かに怯えたような眼差しを思い出した。そして、あの博物館の奇怪な生物達・・・
もしかしたら、彼女には何かとんでもない秘密があるのではないか?そう彼は思った。
「それにしても」
ペンクロフトの言葉がクレイの思考を止めた。彼は記憶をたどるような表情で空を見上げていた。
「かわいいよな。シィナさん」
「・・・・そうかな」
クレイは、まともに肯定するのが何故か恥ずかしくなって、曖昧に答えた。
「そうかなって、あんな人、そう滅多にはいないぞ」
「そういうものか・・・」
ペンクロフトは溜息をついた。
「悪かった。おまえにこんな話を持ちかけたおれがバカだったよ」
ペンクロフトの顔はにやけていた。シィナの顔でも思い出しているんだろう、とクレイは思った。この男ならすぐにでも彼女を食事かなにかに誘いかねない。ペンクロフトのそんなところが、クレイには羨ましくもあり、また、浅ましいとも感じられた。
「おい、あれ」
突然、ペンクロフトが肘でクレイをつついた。彼が指さす方に目を向けたとき、クレイは坂の下に立つ小さな人影を見た。
シィナが雨の中に立っていた。
ノーチラス島に雨が降っていた。森の木々や、海岸のヤシの葉の先から水滴が止めどなく落ちていく。雨粒は石畳の道を濡らし、道の真ん中に掘られた溝を雨水が流れていた。切妻屋根の茶色い瓦の上でも水が弾け、街全体がうっすらと白いベールをまとったように見えた。街の中央にある公園の中では池の水面にたくさんの小さな波紋ができている。その横ではミスラックスの残骸が雨に濡れていた。赤いセンサーからぽたぽたと水が落ちて、まるで泣いているように見えた。
公園のそば、保安局の隣に、アルケロン市の庁舎があった。古風な石造り四階建ての建物の二階にある会議室では、これから緊急対策会議が開かれようとしていた。部屋の中にはコの字型に机が並べられ、この街で要職についている20人ほどの人々が、がたがたと席につき始める。臨時に召集された緊急対策委員会の面々だ。そして、参考人として呼ばれてきたクレイ達も部屋の隅の席に座った。白衣姿のカハール博士が部屋に入ってきて、部屋の正面にある大スクリーンの前に歩いていった。徹夜明けらしく、痩せた体には生気がなく、白衣もよれよれだが、顔面を覆うマスクから覗く目光だけがやけに鋭かった。その場にいる全員が着席すると、博士はフィルターマスクによって変調した声でおもむろに話し始めた。
「これから、現在までに得られた怪生物の解析結果を報告します」
会議室は水を打ったように静かになった。その中をカハール博士の嗄れ声だけが流れていく。
「最初、敵性怪生物は海中を移動しながら接近してきました。これがその時の形態です」
映写機器を操作するカチッという音がして、スクリーンに葉巻型の形態をした生物が映し出された。巨大な毛虫か、トンボの幼虫のようにも見えた。
「モニターの映像から推察する限り、この生物は体前方、おそらく口器から吸い込んだ水を、ジェットのように後部に噴出することにより移動するものと考えられます。この水中移動型はこの生物の幼虫形態と考えて問題ないでしょう。さらに蛹化し変態する事により、羽根を持った成虫になるのです。この幼虫はノーチラス島に到達した後に地中を掘り進み、森林地帯に出没したものと思われます。そこで蛹化を行うための環境としてあのミステリーサークルがつくられた。そしてモアイ型の蛹になり、変態した」
博士の説明と、スクリーンに映し出された黒いモアイの異様に会場がざわめいた。カハール博士はかまわず続けた。カチッと音がして、今度は成虫の姿が映った。
「これが成虫。形態は甲虫に似ていますが、羽根は二枚しかありません。羽根の後ろにはジャイロスコープとして機能すると思われる突起が見られます。このような巨大生物が、二枚の羽を羽ばたかせるだけで飛翔することは機能形態学的に不可能です。では何故飛んでいるのか?」
ここで博士は、聴衆が自分の話を聞いているのを確認するように周囲を見回し、そして続けた。
「それはおそらく、この生物の内部に空気より軽いガスが蓄えられているからです。ちょうど気球か飛行船のようにね。おそらく、鳥類の気嚢に似た構造を持ち、それが浮きの役割を果たすのでしょう。そうした上で羽を推進装置にする。ちょうど魚が浮き袋と鰭で水中を三次元的に移動するように、この生物は空中を移動するのです。実際昨日の襲撃では、空中を滑るような動きや、重力を無視したような行動が観測されています。
そしてこの生物の頭部には、恐らく武器として使う角と、複眼がふたつ。複眼は、その中に含まれる個眼の数が多いほど空間分解能が高まる訳ですが、これだけの大きさだと、個眼の数は億を越えていると思われます。人間の十倍以上の視力を持っているでしょう。複眼並びに頭部の大きさから予想される脳のサイズも相当なものです。実際、攻撃の回避方法などを見るに、この生物の神経系では極めて高等な統合処理がなされているようです。それから腹部には共生生物と思われる小型生物の蛹が付着しています。共生というより、この二種でひとつの社会形態を作っているのでしょう。アリとアブラムシの関係を更に発展させたようなものだと思われます。普段は小型生物が巨大生物に寄生しているような状態になっていますが、巨大生物が戦闘状態になったときには、それを援護する兵隊として働くわけです。そうした戦闘時に使用されるのがあの爆発物です。生物の残骸を分析した結果、成分はニトログリセリンと判明しました」
「ニトログリセリンだって!」
保安局のアッカー局長が驚愕の声を漏らした。
「そう。おそらく特殊な細胞群があり、その内部では塩基合成系が改変され、ニトロ基が作られているのでしょう。グリセリンは解糖系の副産物として容易に合成可能だ。そうして形成されたニトログリセリンは、巨大生物の場合は未受精卵に、小型生物では脚の刺にいれて打ち出されたのです。打ち出しのメカニズムは、体内でキノンと過酸化水素を反応させて爆発を起こしたようですね。地球産の昆虫にも、同じ化学反応を行う種がいます」
そこまで話したあと、カハール博士は一息ついて、顔面を覆うマスクの奥で一同を一瞥した。そして、次の写真をだした。それはA、C、G、Tというアルファベットが一見ランダムな組み合わせで並んだようにみえるデータだった。
「しかし、本当に驚くのはこれからです。我々は生物の残骸からその細胞と無傷の核を採取する事に成功しました。ご存じのように核の中にはその生物の遺伝情報であるDNAが入っています。我々はこの生物から核酸を取り出し、そのゲノム配列の一部を決定しました。これがその結果です。ごらんのように、この生物も地球生物と同様に、アデニン、グアニン、シトシン、チミンという4種類の塩基をもつヌクレオチドでDNAを作っています。つまり、この怪物も、我々が知る地球生物とおなじタイプの生物だと判明したのです」
会場がざわざわとざわめいた。その時、部屋の端に座っていたクレイがすっと手をあげた。
「ひとつ質問があります」
「どうぞ」
「DNAの組成に共通性があるという話ですが、それがアミノ酸に変換される際の遺伝コードはどうでしたか?」
一介の技師から妙に専門的な質問がなされたためか、カハール博士は少し驚いたような顔をした。
「いい質問だ。そう。それが問題です。遺伝コードは進化の過程であくまで偶然に決まったものとされている。だから、それが地球生物とあっているかどうかで、この怪生物が我々と起源を同じくする生物であるかどうかがわかるわけです。その点に関しては現在解析中ですが、予備的な結果なら得ています。ここに示したこの配列をマウスのゲノム配列と比較すると、この部分が、ある転写調節因子のエンハンサー領域と一致しました。さらに、その下流にアミノ酸のコーディング領域と覚しき場所があったので、マウスの遺伝コードと比較することができました。若干ダイアレクトがありますが、まあ同じと言っていいでしょう。つまり、我々は当初、この生物を地球外生命体だと思い、ファーストコンタクトの可能性を吟味していたわけですが、この生物は他の天体からやってきたエイリアンなどではなかった。ありふれた、我々の同類だったというわけです」
そのとき、クレイの隣で驚愕したように息を呑む声が聞こえた。シィナだった。彼女は何かに憑かれたように、スクリーン上の塩基配列を見つめていた。その口から、かすかな囁きが漏れるのを、彼は聞いた。
「パンドラの箱が・・・」
彼女は確かにそう言った。
「———ひとつ、非常に重要な質問をしたいんだが」
スクリーンの近くに座っていた初老の男が尋ねた。アルケロン市の最高責任者ジョエル・グローバー市長だった。昨日からの出来事のためか顔には疲労の影が濃く染み着いている。
「では何故こんな生物が突然現れたんだ?」
それは誰もが聞きたがっていたことだった。
「・・・それは不明です。いくつもの突然変異がたてつづけに起こったのか・・・確かにこの星の環境はまだ完全に理解されたわけではない。どこかで進化を加速するような現象が起きている可能性は否定できない。・・・・・・ここに迷い込んだ地球の生物が何らかの作用で異常進化したのかもしれません・・・・・ただ、自分で言っておいてなんだが、その可能性は考えにくい。現実の進化でこんな指向性をもつ変容が起こるはずはないのだ・・・・」
市長は難しい顔をして腕を組んでいた。しばらくしてつぶやくように言った。
「何者かが人工的に創った可能性はどうだ」
———何者かによって創られた
市長のこの言葉が会議場内を騒然とさせた。あちこちで話し声が聞こえた。 カハール博士は天井を仰いで考え込んだ。
「私もそれを考えました。しかし・・・・・・考えにくいですね。現在の人類の技術で、あんな生物を創ることは不可能です」
その時クレイの心には電撃のようにひとつの単語が浮かんだ。そう、あの古びた博物館でシィナから聞かされた単語が。
人工進化プロジェクト・・・
博物館にあったあの奇怪な生物達。彼女はあれを第2期の研究成果と言っていた。あそこに展示されていた生物のもつ能力は、この怪生物のそれには遠く及ばないだろうが、でももしかして、何か関係があるのではないか?
クレイは隣に座っていたシィナを見た。彼女はうつむいていた。真っ青な顔をして、膝の上に置いた手がかすかに震えているように見えた。
「シィナさん・・・・」
彼女は何も答えなかった。クレイの声も聞こえてないように見えた。
やっぱり、彼女は何かを知っている・・・
この少女は一体何者なのだろう? シィナの背後に、不気味な黒い影が見え隠れしているような気がした。
それから、怪生物に関するカハール博士の説明が少し続いた。飛行の様式、電波による交信など、多くは行動に関するもので、実際に戦闘を行ったクレイにいくつか同意を求める質問がなされた。クレイはそれに答えながら、こんな短時間に怪生物の解析を成し遂げたカハール博士の才能に驚嘆していた。そして、クレイにとってはいささか意外だったことに、カハール博士はそのやや不気味なマスク越しに、クレイの方を凝視しているのだった。その様子に戸惑いながらも、クレイはこの有能な科学者といつかゆっくり話ができたらいい、と思った。
「フェンネル観測技師、とか言ったな」
カハール博士が唐突にクレイに話しかけた。名前を呼ばれ、クレイは少し当惑した。
「はい、そうですが」
「データをまとめる際にいくつか聞きたいことがある。いずれまた、お目にかかるだろう。———以上で報告を終わります。後日、より詳細なデータとあわせて、生命科学研究センターで特別セミナーを行う予定です」
カハール博士が机の上の資料をたたみ、皆に挨拶をすることもなく退室した。部屋のドアが閉まると、今回の会議の議長が立ち上がった。
「それでは、あの生物と接触したときの状況を詳しく話して下さい」
クレイが空中戦の様子を語った。その後で、ペンクロフトがハンマーヘッドとの戦闘の状況を話した。シィナも立ち上がったが、彼女はほとんど何も喋らなかった。虚ろな瞳をしていて、何か尋ねられた時だけ、はい、と無機的に答えた。
クレイたちの報告が終わったとき、議長が再び立ち上がった。
「それではこれから、対策会議に移りたいと思います。参考人の方々は退出願います。今日はお忙しいところありがとうございました」
クレイ達は部屋を出た。
雨音が響く廊下を歩きながら、クレイは隣のペンクロフトに尋ねた。
「対策って一体どうするんだろうな?」
「・・・今後も奴等が侵攻してくる可能性がどれくらいあるかによるが、多分、この星の前進基地たるクレスボ市に協力を要請するだろう。保安局の警戒体制も強化されるだろうし・・・」
「でも、そもそもクレスポと連絡は取れるのか?今ノーチラス島は『カリビアントンネル』の出口から最も遠い位置にいるんじゃないのか?」
クレイの不安げな問いに、ペンクロフトは「ふん」と鼻を鳴らした。
「そうか。孤立無援ってわけだ。ならもしかしたら、おれのほうにも特別研究費がまわってくるかもしれない。・・・・だといいけどな」
「おれはごめんだよ。もう、あんな体験は・・・・そうだよね。シィナさん」
クレイは振り返った。しかしそこには誰もいなかった。がらんとした廊下が続いているだけだった。
「あれ、おかしいな。さっきまでついてきてたのに・・・・」
ペンクロフトも訝しそうな顔をしていた。二人は狐につままれたようにしばらくそこに佇んでいた。
「用事でも思い出して先に帰ったのかな?」
クレイはつぶやいて歩き出した。彼はシィナが、あの壁画の写真や怪生物について、自分には何か話してくれるのではないかとかすかに期待していたので、少しばかり落胆した。やはりぼくの思い上がりだったのかな、と思いながら、市庁舎の出入り口の所まで来た。雨はまだ降っている。出口の所に置いていた傘をさしたとき、彼は傘の主軸に何か白いものが付いているのに気づいた。
それは紙切れだった。たたんで巻き付けてあるそれを広げてみると、端正な文字が一行だけ書かれていた。
———時計塔の下にきてください
クレイははっとして周りを見回した。しかし市庁舎のホールにシィナの姿はない。
「何、どうかしたか?」
訝しそうにペンクロフトが尋ねた。どうやら彼の方には何も入っていなかったらしい。手紙をペンクロフトにも見せようかと思ったが、そうすると時計塔に行っても、シィナはいないような気がした。
「い、いや。何でもない。・・・・すまない。ちょっと用事を思い出したんだ。先に帰っててもらえるかな?」
「用事だって・・・」
ペンクロフトはしばらくクレイの顔を見つめていた。しばらくそうしていてから、何かを察したような顔をしてきびすを返した。
「・・・じゃあ、先に帰るぞ」
そう言って彼は歩き出した。
「すまない」
クレイはつぶやいて傘をさした。そして雨の中を時計塔の方へ歩き始めた。
石畳の上を、二つの傘が別々の方向へ離れていった。
ペンクロフトは中世ヨーロッパをおもわせる古めかしい通りを家に向かって歩きながら、通りの両側に立つ建物を見上げた。彼の右斜め前の建物の屋根は吹き飛び、今は青い簡易防水シートが被せられている。その下では数人が集まって、屋根を指さしながら何事かを話していた。恐らく、昨日の怪生物についてのことだろう。
いきなりだったからな
ペンクロフトはぼんやりと考えた。あの機体とクレイがいなかったらどうなっていただろうか。少し恐ろしくなった。敵を撃破した機体を作った事による得意な気持ちより、もしかしたら死んでいたかもしれないという不安感の方が大きかった。いつものおれらしくない、と彼は思った。がらにもなく落ち込んでいるからか?彼はさっきのクレイの挙動不審な態度を思い出した。そして、一瞬顔をしかめ、「嘘が下手な奴だ」とつぶやいた。
クレイは石造りの巨大な時計塔の下にやってきた。この島の開拓当初から立っている塔は、一種荘厳な雰囲気をもって彼を迎えた。壁や屋根には様々な彫刻がある。これを造った人の趣味なのか、中にはかなり奇怪なものもあった。クレイは壁に彫られた古びた碑文の前で足を止めた。確か、前世紀の物理学者の言葉だ。
『未知の世界を探求する人々は、地図をもたない旅人である』
大粒の滴が傘の上に落ちた。見上げると、古めかしい造りの時計塔の屋根が雨を弾いているのが見えた。屋根の端の奇怪なガーゴイルの彫刻から雨水が滴り落ち、天使の頭にあたって、銀色の飛沫が飛び散っていた。
「フェンネルさん」
背後から彼を呼ぶ声が聞こえた。クレイは振り返った。菩提樹の木の下に、ほっそりした人影が立っていた。傘をさして、少しうつむいたシィナだった。
「シィナさん・・・」
雨の中に立つ彼女はその悲痛な表情と相まって、とても儚げに見えた。昨日とは別人のようだった。クレイは彼女が今にも雨の中へ消えてしまうのではないかと思った。
シィナは、細いピアノ線を震わせるような声で言った。
「ごめんなさい。呼び出したりして・・・・どうしても言っておきたいことがあったんです」
「・・・あの写真のことですか?」
「それもあります。でも、もっと他に見せたいものがあるんです。よろしければ、今から、博物館まで来てもらえますか?」
そう言ってシィナはクレイを見つめた。すがるような眼差しだった。かつて一度、こんな瞳をみたことがある。クレイは森の中の人影に怯えていたクリスの顔を思い出した。悲しみが胸に忍び込んできて、彼は目をそらした。
「・・・・君は何かを知っているんだね。あの生物について」
シィナは頷いた。
「知っています。今日の話ではっきりしました。ああ、聞かなければよかった。聞かなければこんな思いしなくてすんだのに・・・あのことを思い出さなくてすんだのに。フェンネルさん、私はどうすればいいんだろう」
シィナは泣きそうな声をしていた。何か取り返しのつかない過ちを犯した者のような表情だった。クレイは少し戸惑いながらも、シィナのそばに歩いていった。
「何のことかわからないけど、ぼくでよければ相談にのるよ。・・・これから、博物館に行けばいいんだね」
シィナは小さく頷いてから、「申し訳ありません」と言った。
「どうして謝るんですか?」
「・・・・わたしは、あなたを、後戻りのできない怖ろしい世界へ引きずり込もうとしているのかもしれないから・・・・」
シィナの不気味な言葉に、クレイは戸惑った。何か言おうとしたとき、突然、二人の上で鐘が鳴った。荘厳な鐘の音が街に響きわたった。クレイは時計塔を見上げた。午後二時。文字盤にぽっかり穴が開いて、中から鳥とも爬虫類ともつかない怪物が現れた。それから、機械仕掛けのそいつの口が開いて、神経を逆撫でするような甲高い音が響きわたった。
「———行きましょう」
小さな声が聞こえて、クレイは文字盤から目を離した。そしてシィナが、雨で薄暗くなった通りを歩いていくのを見つめていた。
町外れに、小さなヨットハーバーがあった。白いペンキを塗った桟橋沿いにいくつかヨットが舫われており、岸辺に生えるヤシの木と一緒に、静かに雨水を浴びている。
桟橋の上に人影があった。中年の男だった。ここに置いてあるヨットのオーナーの一人らしい。浮き桟橋から、白い小さな舟の上にかがみ込んで、昨日の事件でついた表面のキズの具合をチェックしていた。
彼は、この島の開拓技術者の一人だった。給料の良さに釣られて、こんな奇怪な島に来てしまったことを、彼は猛烈に後悔していた。
「怪物が襲ってくるなんて聞いてないぞ。畜生」吐き捨てるように漏らす。「こんな物騒な所にいられるか、まったく」
彼は次の定期便でノーチラス島と永久におさらばするつもりだったが、ノーチラス島が再びクレスポ市に近づくのはあと半年以上先だった。今は陸地との連絡さえままならぬ文字どおり絶海の孤島なのだ。彼は溜息をついた。
桟橋の上で雨粒が弾けている。雨足は少し強くなったようだった。
雨が水面に落ちる音が響いていた。
その時、ヨット同士がぶつかる、どん、という音が聞こえた。
すぐ近くだった。
男は、頭を上げた。周りを見回す。レインコートのフードから見える世界は強い雨に霞んでいた。目を凝らしてみる。しかし、誰もいる気配はない。
気のせいか、と呟いて彼は仕事に戻ろうとした。船の上にかがみ込む。その瞬間、彼の動きが止まった。彼は呆然と船の下を見つめていた。
船の下に何かがいた。
巨大な黒い影が見えていた。雨粒が水面を叩き、全体の輪郭は分からないが、とてつもなく大きな「何か」が、じっと横たわっていた。
男は自分が乗っている浮き桟橋の下を見た。真っ黒い影は浮桟橋の下にまで続いていた。さらに、50メートル程沖にある標識ブイの所まで続いているように見えた。
———大きい
男の顔が恐怖に染まり、やがて、歯が震えるがちがちという音が聞こえた。
おれの体の下に何かがいる
男は恐怖のあまり、身動きもできずにその場で硬直していた。
怖ろしい沈黙が続いた。
気の遠くなるような時間の後、その物体の後ろの部分が動いた。一瞬、黒い尾のようなものが水面上に出たように見えた。波が立って、標識ブイについていた鐘が鳴った。
やがて、その物体は、水の中にとけ込むように姿を消した。
「あの、シィナさん」
森の中の小道で、クレイは前を歩くシィナに声をかけた。彼女は振り返った。雨傘の向こうから、少し首を傾げてクレイを見つめた。
「何ですか?」
クレイはずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
「例の写真のこと、ペンクロフトには話さなかったそうですね。今日だってぼく一人を呼び出してる。何故ですか?どうしてぼくなんかに打ち明けようとするんですか?」
シィナは足を止めた。クレイに向き直って、足元の水たまりを小さく靴先で蹴った。それから、申し訳なさそうに言った。
「フェンネルさん。あなたは生物学に詳しいですよね。これからする話については、専門知識を持った人じゃないといけなかったんです」
「ぼくはそれほど詳しくはありませんよ」
「そうですか?いろいろご存じじゃないですか」
「でも、ぼくは学位も持ってないんですよ。そういうことならもっと他にふさわしい人がいるんじゃないですか?たとえばさっきのカハール博士みたいな」
「知識だけじゃだめです。———わかりませんか?私の言いたいこと・・・」
雨のせいなのか。シィナの周りを不思議な雰囲気が包んでいた。クレイには雨の中に立つ妖精のように見えた。
「昨日、博物館に来てくれましたよね。あの時、恐竜のことを話してるフェンネルさんを見て、この人なら信頼できると思ったんです。それに・・・」
シィナはクレイに微笑みかけた。儚げな微笑だった。その微笑は長くクレイの心に焼き付いて消えなかった。
「あなたはいつもさみしそう。何か後悔することがあるんでしょう。自分に迷ってるんじゃないですか?だとしたら私と同じ。私たち、とてもよく似てる・・・・」
はにかんだように目を伏せた後、シィナはさっとクレイに背を向けて、博物館の方へ早足で歩いていった。
シィナの言葉に戸惑いながら、クレイは後を追った。やがて、石造りの古い洋館が見えてきた。雨の中に立つ博物館は異様だけれども、どこか郷愁のようなものを漂わせていた。少年の頃、雨が降るとよくクリスと二人で博物館へ行った、その記憶があったからかもしれない。
博物館の入り口でシィナは待っていた。さっきの不思議な雰囲気は既に消えている。彼女は傘を畳み、ポケットから古風な鍵を取り出して博物館のドアを開けた。
「こちらです」
クレイは中へ入った。正面にドア。この向こうは第一展示室のはずだ。しかし、シィナはそこには入らなかった。彼女は床の上に身をかがめると、床に敷かれている石のひとつを持ち上げた。
その下には赤いスイッチがあった。シィナはそれを押した。
「うわ!」
石がこすれあう音と共に、クレイの目の前で床が動き、瞬く間に一平方メートルほどの穴が開いた。
そこには地下へ延びる階段があった。
「驚きました?大時代的な仕掛けですよね」
シィナはクレイを見上げて、なんとなく恥ずかしそうに微笑んだ。
「何ですか、これは?」
「入り口です。秘密の空間への・・・」
「・・・・何でこんなものが・・・」
「すぐにわかりますよ。でも、これから見るものについては秘密にしておいて下さいね」
そして、スカートの足下に気を遣いながら、シィナは降りていった。歩き慣れているらしく、暗い中でも足どりはしっかりしていた。好奇心がこみ上げてきて、クレイも後に続いた。
階段はすぐに終わって、二人の正面に頑丈な鉄製の扉が現れた。古風な博物館にあって、これだけはやけに近代的な構造をしている。
「まるで核シェルターの入り口のようですね」
「このドアと次のドアが特に重要なんです。ここから空気が漏れるととんでもないことになるんですよ」
シィナはドアの前に立って、ポケットから出したカードをドアに空いているスリットに差し込んだ。内部で電子音。すぐにスリットの上に青ランプがついて、ロックが外れる金属音がした。
「どうぞ」
シィナはドアを開けた。開けると同時に明かりが灯った。そこはやけに小さい部屋だった。何もない部屋だ。どうもどこかへ行くための前室のようだった。その証拠に、この小部屋の向こうにも頑丈なドアが控えている。クレイは部屋の中に入った。シィナがついてきて、クレイの背後でドアを閉めた。重い金属音が狭い部屋に反響した。
「このドアが完全に閉まらないと、次のドアは開かない仕組みになっています。いわば二重の隔壁といったところですか」
「やけに厳重ですね」
「この先で行われていた研究は機密事項だったので。ここが造られた当時は」
「機密?・・・・今は違うんですか?」
「ええ。その研究関係者は全滅しましたから。生き残っているのは私だけです」
「何だって?!」
クレイはシィナを振り返った。彼女の美しい顔がそこにあった。しかし、その瞳は何か空恐ろしい世界を映していた。多分、彼女は、人が見てはいけない何かを見てしまったのだ。彼女の人並みはずれた美しさが、その奥に潜む底知れぬ闇を強調しているようだった。まだ二十歳にもなっていないであろう彼女が、数百年の時を生きてきた魔女のように見えた。
「そう、私は怖ろしいものを見たんです。この奥で・・・」
クレイの考えを見すかしたように、シィナは言った。
「そして、取り返しのつかない過ちを犯した」
そう言うと、シィナの瞳からふっと生気が消えた。今まで精神を支えてきた緊張の糸が、自らの言葉によって、不意に消えてしまったように見えた。
クレイは驚いた。シィナがそこに膝をついてしまったからだ。まるで壊れた人形のように。
「シィナさん!」
「私は願ってたんです。あれは失敗作だったんだって。もうどこかで死んでるんだって・・・もう二度と私の前には現れないんだって。でも・・・・もうだめ、あれは還ってきた・・・・」
「シィナさん、どうしたんですか!?」
突然のシィナの変化に、クレイは戸惑った。どうしていいかわからず、彼は床の上のシィナを見おろしていた。
彼女は泣いていた。小さな部屋に、嗚咽の声が響いた。
いったいどんな事件がこの人を襲ったのだろう・・・。
実際はほんの数分だったかもしれない。でも、クレイにとっては長い時が過ぎた。
やがて、石の床に両膝をついたシィナは呆けたようにクレイを見上げた。忘我の域にあるその虚ろな瞳から、何故か彼は目を離せなかった。シィナはしばらくそうしていてから、ゆっくり頭をたれた。
「・・・・・ごめんなさい。取り乱しちゃいましたね・・・」
「いえ・・・・大丈夫?」
「・・・・・・はい・・・」
シィナは立ち上がった。長い髪が顔に覆い被さって、表情は見えない。彼女はそのままふらふらと奥のドアへ歩いていき、ロックを外した。その手が震えているのをクレイは見た。
「行きましょう。こちらです」
シィナはドアを開けた。その途端、クレイは耳の奥に異常を感じた。妙につんとした感じ。急に高いところへ登った時に感じる、あの感覚だった。明らかにこの向こうは地上と気圧が違うのだ。彼はドアの奥を覗き込んだ。そこには、さらに地下へ向かって伸びる階段が見えた。長い階段だった。トンネルの天井には数メートルおきにライトが取り付けられているが、その光点ははるか下まで続き、その果ては暗闇に吸い込まれて見えない。
どこまで深いんだろう?この穴は
クレイは訝しがりながらシィナについていった。壁に触れると、ざらりとした感触が伝わってきた。岩の壁だ。
「ここからは、自然にできたトンネルに階段をつけてあるんです」
クレイはライトの下で、トンネルの壁を注意深く見つめた。
「・・・鍾乳石ではありませんね。こんなものが自然にできたのか」
「ここに限らず、この島の地下は正体不明のトンネルだらけだという話ですよ。そのうちのひとつを私たちは改造して使っていたんです」
クレイ達は延々と続く階段を下りていった。所々、ぴたぴたと水が落ちる音が聞こえる。この階段が造られてからずいぶん経っているらしく、ライトの周りには緑色のコケが繁茂し、暗がりではカマドウマの長い触角が揺れていた。
クレイは前を歩く少女の後ろ姿を見つめていた。その小さな背中から、多くの謎が染みだして来るような気がした。
この先にはいったい何があるのだろう?こんな地下の世界で、誰が、何を行っていたのか?そしてそこで、いったい何が起こったのだろう?
それは恐らく、一昨日見つけた、「壁画の怪物」とも、あの怪生物とも関係があることなのだ・・・
「・・・ほら、あそこが終点です」
シィナの指さす先に、木製のドアが見えた。永遠に続くかと思われた階段も、とうとう終わりらしい。ずいぶん深く潜っているはずだ。100メートル近く潜っているかもしれない。海水面よりもかなり下であろう。まさに、島の懐まで来たわけだ。
シィナは最後のドアを開いた。
9-彼女が見たもの
クレイには、一瞬、何が起こったのかわからなかった。そこは彼の想像を絶する場所だった。ドアの向こうの世界を見ながら、彼は呆然としていた。
明るい。
クレイの前には、花が咲き乱れる草原が広がっていた。人工の照明とは明らかに異なる軟らかい自然光の下で、様々な植物が色とりどりの花をつけている。遥か先には、鬱蒼と繁る緑の森が見えた。森の果ては見えない。
クレイは唖然として上を見上げた。数十メートルはあろうかと思われる岩の天井に、巨大な六角形の窓のようなものがあり、驚いたことに、そこには曇り空が広がっていた。灰色の雨雲の輪郭が見える。空、そして草原。彼が見ているのは、明らかに地上の景色だ。
「・・・・・・ここは、地下のはずでは・・・」
「そうですよ。地下130メートル地点です」
クレイの驚く様を見つめていたシィナが答えた。
「ここは島の地下にできた空間です。そして、この地下空間の天井には、至る所に光ファイバーケーブルが設置されているんです。それで、地上の光を取り込んでいます。だから、動植物も地上と同じように成育できるんです」
シィナの言葉に応えるように、森の方から甲高い鳴き声が聞こえた。クレイが今まで聞いたことのない声だった。
クレイは辺りを見回した。森のそばに、湖らしい輝きが見えた。
「あれは、あの向こうの湖みたいなのは何ですか?」
「あれは海です。この空間は下向きのトンネルで海とつながているんですよ」
「・・・・・海と」
「そう。ちょうど、丸底フラスコを逆さにしたようなものです。フラスコの丸い部分がこの空間。首の部分が下に伸びていて、島の底に口が開いているんです。そして、水はフラスコの首と丸いところの境界あたりまで来ているわけです。だから、地上とここをつなぐ連絡通路には厳重な隔壁が必要なんです。ここは実際の海面よりもかなり下にあるから、ここの空気が地上とつながると、あっという間に水没しちゃうんです」
「逆さにして水に沈めたフラスコの底に穴を開けるようなものか・・・空気が抜けて水が入ってくる・・・・・」
シィナは笑って、「そうですね」と言った。
クレイの前には湖、すなわち海にむかって小道が続いていた。道の両側には花が咲き誇り、まるで初夏の高原の遊歩道のようだ。彼は辺りを見回しながら歩き始めた。
「この空間、どれぐらいの広さなんですか?」
「そうですね。詳しくは知りませんが1〜2平方キロメートルはあるでしょう。アルケロン市とほぼ同じ広さです」
「・・・すごい」
その時、クレイの足元から何かが跳ねた。反射的に彼はそれを目で追った。それは近くにあった花に止まった。3センチ位の生物だった。
「何だ、これ」
長年、生物を扱ってきたもののみが持つすばやい動きで身をかがめると、クレイはそいつを捕まえた。掌にのせて、目の高さまで持ってきてしげしげと見つめた。
それは、小さくて、奇怪な生物だった。四本の足を持っているが、脊椎動物ではない。かといって昆虫でもなかった。頭には鳥のような嘴を持ち、鉤爪のついた足で踏ん張って、威嚇のつもりか、背中についた昆虫のような羽根を震わせている。しかし、クレイがつつくと、かなわぬと思ったか、あっという間に貝のような殻の中に引っ込んでしまった。
クレイはシィナを振り返った。彼の表情を見て、シィナは微笑んだ。
「フェンネルさん、すごく変な顔してますよ。神様でも見たみたい」
「・・・シィナさん・・・これ・・・・」
「その生き物の名は、『Avitops』。人工進化プロジェクトにより創られた生命体です」
「———人工進化って、上の博物館に展示してた標本・・・でも、生きてますよ、こいつ・・・」
「上の建物が博物館だとしたら、ここは動植物園ですね。創った生物達はここで生きているんです」
「・・・・・何て事だ」
クレイは感動していた。あの博物館で見た不思議な生物、驚くべき多様性を持つ生物達が生き残っているのだ。ここで。
「で、でも・・・」
クレイは、あのときのシィナの話を思い出した。腑に落ちないことがある。
「あのとき、あなたは実験は中止されたと言ったじゃないですか。確か、・・・事故で。中止された後も飼い続けてたんですか?」
「飼ってるんじゃありません。ここの生物は、あの事故が起こった後、逃げ出して、勝手にここに住み着いたんです。もともとこの空間は生物の環境適応能力を調べるための場所でしたからね。いろんな環境があって住み易かったんでしょうね」
「それじゃあ、事故があったっていうのは・・・」
「そう。ここです。———あの建物ですよ」
シィナが指さす先、海のほとりに、白い建物があった。草原の中にぽつんと一つだけ存在するその建造物は、それだけで一種のもの悲しさを漂わせていた。
「あれが因縁の場所。人々が神の怒りに触れた所です・・・」
シィナの言葉には悲壮感が漂っていた。クレイはその建物に近づいていった。
近づくにつれ、建物の細部が見えてきた。白い壁、エネルギー供給用の太いケーブル、廃棄物処理設備。・・・それは、研究施設だった。それも生命科学の。クレイにもなじみの深い独特の雰囲気を、それは放っていた。生物学の研究をしていた頃の記憶が、彼の脳裏に甦った。
———そういえば、あの後輩は元気だろうか
何となく、建物の中から、懐かしい人々が姿を現すような、そんな気がした。しかし、そこにかつての世界はなかった。その建物に人の気配はなく、静寂がそこを支配していた。クレイの死んだ過去と同じように。
「2051年から2057年までの間、ここで人工進化の研究が行われました」
クレイの背後で、シィナは唐突に語り始めた。
「研究は順調に進み、予想を遥かに凌駕する多様性を持った生物達が生まれました。人間も神と同等の力を持っている、そう錯覚してしまうだけの結果だったのです」
さざ波ひとつ立たない紺碧の海の上に、白い建物が映っていた。二階の窓ガラスが割れている。思慮なきが故に生じた過去のキズを象徴するかのようだった。
「そして、ある時、人々は思いました。進化の果てには何があるのだろうか?この実験で最終的に生み出される生命とは如何なるものなのか? 何故そんな考えに思い至ったのでしょう?・・・純粋な科学的興味もあったのかもしれない。でも、本質は人間の無責任な好奇心と、浅薄な虚栄心の故でしょう。ともあれ、自然状態では数億年かかる進化の過程も、電脳空間の中ではほんの数日で完了させることが可能です。私の父が中心となった研究グループは、考え得る限りで最も過酷な条件をスーパーコンピュータで設定し、その中で生存可能な生物の遺伝子を淘汰していきました。そして、自然時間で120億年に及ぶ進化の果てに、その生命体は生まれました。・・・・・マンディブラス・パンドラリスが」
「・・・パンドラの顎、ですか」
シィナは頷いた。
「それは、非常に優秀な、奇跡と言ってもいい生き物でした。おおざっぱなボディプランは、白亜紀に生息していた大型爬虫類に似ていました。陸生生物としては、恐竜に代表される爬虫類の形態は理想的なんでしょうね。でも、その他の特徴は、今までの生物の常識を破るような驚くべきものでした。熱帯から極地、海洋から砂漠まで、あらゆる状況で行動可能、視覚系は紫外線から赤外線領域に及び、聴覚は低周波から超音波まで検出可能。性別を自在に選択でき、緊急時には自家受精で繁殖が可能、さらに、外敵に対しては、恐るべき防御手段を持っていました」
「どんな?」
「私たちヒトは、外敵に対しては何等の化学的防衛手段を持たず、敵が体内に侵入した後に、免疫系により排除を行います。B細胞が抗体を作って異物を認識、排除するわけですね」
「ええ」
その現象ならよく知っている。分子免疫学の基礎だ。異物を排除する際、前駆細胞の中で体細胞組み替えが起こって、様々な抗原を認識するB細胞が作られ、T細胞の命令を受けて、異物を認識する特定のB細胞が増殖するのだ。
「しかし、マンディブラスは、もっと積極的な手段を持っていました。我々が持っているものを仮に『内部免疫』と呼ぶなら、マンディブラスのそれは『外部免疫』とでも言うべきものです。生殖系列の細胞に遺伝子組み替えをおこして、そのまま単為発生させる、つまり、自分の中で全く新しい生物を創って、武器として外に放出するのです」
「そんなことができるんですか!」
クレイは耳を疑った。生物が自らの体内で別の生物を創り出すというのか。
「自然は、時間さえあればどんな奇跡だって可能にするんです」
ここにペンクロフトがいれば、キャンベル教授の言葉を思い出しただろう。まさに、自然は偶然という偉大な力で、とんでもない偉業を成し遂げたのだ。
この生物はまさに、神々からの贈り物の詰まった「パンドラの箱」そのものだった。
「それで、どうなったんですか?その、マンディブラスは・・・」
「私がそれを始めてみたのは2057年、8歳の時でした。その時、マンディブラスはまだ幼体で、数十センチメートルの大きさしかありませんでした。長い首の上にやけに大きい頭があって、利口そうな目がついていました。とても人なつっこく、研究者の人たちにかわいがられていました。私とも仲良しで、よくこの岸辺で遊んだんです。でも、マンディブラスがだんだん大きくなってくるにつれ、研究者達にはそれがどんなに優れた生き物であるかが分かってきました。同時に、人々は恐怖を感じたんです。それの外見が爬虫類に似ているからだという人もいましたが、私はそうは思いません。昔から人間には自分より能力の高いものを恐れ、時には嫉妬するという悪癖があります。今回もその身勝手な癖が出たんじゃないでしょうか?人類は、ついに自らが創り出した『自分以上のもの』に対する不安と恐怖から、とうとうそれを殺そうとしたんです」
シィナは両腕で自らの胸を抱いた。蒼白になった顔が、水面に映っていた。
「あの日は、朝から雨が降っていました。大事な実験があるから、下には絶対に降りてきてはダメだと、父は言いました。でも私は、こんな日に外に出るのが嫌で、こっそりここへ降りてきました。マンディブラスと遊んでた方が楽しいと思ったんです。茂みに隠れながら、この岸辺まで来ると、マンディブラスがいました。普通なら監視役の人がついているのに、その日はひとりだけでここにいたんです。『どうしたの?』私は尋ねました。マンディブラスはくるりと私の方を向きました。やけに口が汚れているなと思いました。『何を食べたの?お行儀の悪い子ね』わたしはハンカチを出して、マンディブラスの口をぬぐいました。べっとりとした感触がありました。今にして思えば、私は父の血をぬぐったんですね。マンディブラスはじっと私を見ていました。いつもなら小鳥のような声を出すのに、その日は何も言わず無機質な眼で私を見ていました。突然、その口から身の毛もよだつような威嚇音がしました。私の背後に向けて。私は振り向きました。父が立っていました。蒼白な顔をして、こちらに、マンディブラスに拳銃を向けていました。『お父さん、何をするの、やめて!』私は叫びました。そして、マンディブラスをかばうように父の前に立ちはだかりました。ああ、何てことをしたんだろう、私がいなければ、父はきっとあの時、マンディブラスを殺していたでしょう。そうすれば、後になってこんな怖ろしいことは起きなかったのに。でも、私はマンディブラスをかばってしまった。『シィナ、どけ!』父は叫びました。その激しい声に、私の体が硬直しました。私の背後で水音がしました。マンディブラスはこの岸辺から、海へと逃げていったんです。『シィナ、何てことを・・・』私の前で父は呟き、ゆっくりと倒れました。・・・・鮮血に染まった背中が見えました」
シィナは沈黙した。目から涙がこぼれ落ちた。そのまま跪き、悲劇の岸辺で泣き始めた。静まり返った地底空間に、彼女の慟哭は、波紋のように広がっていった。
この人はこんなにも凄絶な過去を背負って生きてきたのか。クレイは、シィナの気持ちを思った。彼女の悲しみの深さを感じた。しかし彼は何も言えなかった。コートニーの時と同じだ。こんな時、言うべき言葉が見つからない自分が歯がゆかった。
澄みきった海の上に、涙の滴が落ちた。何粒も。今まで耐えてきた悲しみが全て解放されたかのようだった。声が涸れて、息も絶え絶えになりながら、彼女は泣き続けた。
クレイはシィナの横に座って、何もできないまま、ただ慟哭を聞いていた。
涙も全て涸れ果てた頃、シィナは伏せていた顔を上げた。
「・・・・ごめんなさい」
「・・・・・気にしないで。いやな事を思い出させましたね」
「いいえ、あなたに聞いてほしかったんです。私一人の胸の中にしまっておくのには疲れました。・・・・もうお分かりでしょう。あなたが持ってきた写真、あれに描かれていた怪物は、間違いなくマンディブラスです。そして、あの昆虫型生物、今日遺伝子の配列を見ましたよね。あの中に、見慣れた配列があったんです。マンディブラスが放出する外部抗体生物がもつ特徴配列、『パンドラの箱』と呼ばれる配列が」
「あの怪生物はマンディブラスが創ったものだと言うんだね」
「間違いありません。還ってきたんです。生まれたこの島へ」
「でもどうして、危険な目にあった此処に戻って来る?繁殖のためですか?」
シィナは首を横に振った。
「その可能性は低いでしょう。確かに多くの動物は生まれた場所で産卵します。でも、マンディブラスのような賢い生き物が、敵である人類が多くいる此処をわざわざ産卵場所に選ぶでしょうか?」
「ではどうして?」
「おそらく、人類の存在が自身の生存にとって脅威だと知っているから、それを殲滅するために戻ってきたのでしょう。それに必要なだけの成長を遂げて。つまり、復讐のために」
「復讐・・・」
「そう。あの飛行生物は、おそらく威力偵察の斥候でしょう。・・・・怖ろしい。成体となったマンディブラスが来るのです。数体の外部抗体生物だけでもあんなに手強いのに、あんなのと本体が一緒に攻めてきたら対処の仕様がありません。本体そのものの能力は完全に未知数です。あれがここで創られてすでに11年が経過しています。その間にどれだけの能力を身につけたのか、想像もできません・・・」
クレイは、立ち上がって、廃墟と化した研究所と、異様なくらいに澄みきった海を交互にみつめた。
———還ってくる。此処へ。人類を越えた生命体が。
昨日の空中戦の記憶が甦った。そう。昨日はいつ死んでもおかしくない状況だった。今度奴等と戦ったら、果たして生きて帰れるだろうか?
今になって、心の奥底から恐怖がこみ上げてきた。
「・・・・聞きました。キャンベル教授、意識不明の重体だそうですね。ヒューベルさんは怪我をするし、フェンネルさんもあんな怖ろしい目にあって・・・ごめんなさい、みんな私のせいなんです」
クレイの足元で、シィナが囁くように言った。苦痛を押し殺したような声だった。その時、彼女の震える肩を見ながら、クレイは思った。
11年だって?そんなにも長い間、この人は苦しみに耐えてきた。それに比べれば、このぼくの感じる恐怖なんて、刹那的で些細なものかもしれない。
「———自分を責めないで下さい。・・・・多分、あなたは充分に苦しみました。もういいですよ」
ふと、クレイは心の奥から、今まで知らなかった感情が沸き上がってくるのを感じた。他人の痛みを理解する気持ち。恐怖を越えて、その感情は彼の心を充たしていった。それは、できそこないの人間が創り出した感情の中で唯一、崇高なものだったかもしれない。
「もういいから、泣くのはやめて下さい。あなたの行いは正しくなかったかもしれない。あるいは正しかったのかもしれない。でも、過去はすでに失われてしまったものです。いつまでも、過ぎ去った事に涙しながら生きていくのは止めましょう。もう悲しまないで下さい。考えましょう。これからのこと。ぼくはあなたの味方です。あなたもぼくを信じて下さい。何があろうと、これからのことはぼくが、きっとぼくが何とかしてみせます。必要ならぼくはマンディブラスを殺しましょう。この命にかえても」
クレイは、こんなにも流暢に言葉が出てくるのが不思議だった。シィナは半ば唖然として、彼を見上げていた。
「・・・・フェンネルさん・・・・」
やがて、シィナの目から涙が流れ落ちた。今までとは異質な涙だと、クレイには分かった。