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ノーチラスノート  作者: 蓬莱 葵
3/10

第3部

 

 6-神々の角笛


 保安局の観測室は緊張した空気に包まれていた。いつもは使わないセンサー類にも今は全て電源が入り、照明を落とした部屋の中は、様々な色のランプが、まるで、夜の星のように瞬いている。

 その星々の間を、人々が動き廻っていた。全ての観測室員に非常召集がかけられ、十人近い人数が、それぞれ担当している機器に向かい合っている。

 光学観測器、ソナー、対空レーダーなど、全ての観測装置が、姿を消している怪生物の索敵にあてられていた。

 しかし現在までのところ、怪生物の実在を再確認する証拠は得られていない。センサーの前に一瞬だけ姿を見せたあの怪物は、忽然とその姿を消してしまった。センサーの画像に映った不気味な姿に戦きつつも、人々はやや落ち着きを取り戻し、その重要性を認識しつつあった。あの映像が本物なら、それがいかに奇怪で恐怖を呼び起こすものだったとしても、人類がこの星で初めて遭遇する異生物ということになる。それはつまり、人類が初めて接触する地球外生命体なのだ。それは掛け値無しに衝撃的な事態だった。

 センサーブイから送られた航跡記録を調べたところ、怪生物は真っ直ぐにノーチラス島を目指していたことが判明した。そのままの進行方向だと、怪生物はちょうどアルケロン市付近に到来することになる。何の目的で接近して来たのかは不明だったが、怪生物は一撃でセンサーブイを破壊できるだけの能力を持っている。島にいる人間に被害が及ぶ可能性も考えられた。そのため、アルケロン市には史上初の特別非常警戒体制が敷かれた。臨時に設けられた対策本部では、観測室からのデータを基にして、この怪生物を再確認するための計画が練られた。即席ではあるが捕獲方法も創案され、機動できる探査・捕獲装置類は、怪生物の予想進路を囲むように海岸付近に設置されることになった。

「沿岸部の準備はどうなっている?」

 責任者のアッカー局長が緊迫した声で尋ねる。

「現在、動体検知装置設置完了、使えるセンサーブイも展開が完了しました。曳航ソナーを備えた探査船ならびに小型偵察機もあと三分以内に配備が完了します」

 探索システム担当のオペレーターの返答に、局長は頷いた。しかし、そもそもこの島は、各国の探検隊が調査中の絶海の孤島であり、外部からの異性物の侵入という事案など想定されていない。保安局にしても、その役割は調査時の安全管理と街の治安維持くらいのものだ。明らかに手に余る事態だった。

「主任!」通信装置の席についたエリスが、怪生物の航行データを再確認しているケインに向かって叫んだ。

「ペンクロフト・ヒューベル博士から入電、AMP-01の発進準備は完了、パイロットが到着次第出動できるそうです」

「了解。局長!、探査機の方はなんとかなりそうです」

「わかった。特別非常警戒体制のまま、こちらからの指示があるまで待機するように伝えてくれ」

「了解」

 その時、対空兵器の設置状況をモニターしていたオペレーターの声が、管制室のノイズの中を走り抜けた。 

「全ての探査装置の設置完了しました!」


 どうしたんだろう?街の方が慌ただしい。

 海に面した崖の道を歩きながら、クレイは背後の街を振り返った。

 街に面したトリオニクス湾の上空では小型偵察機が飛び回り、海岸付近にはなにか特殊車両のようなものが並べられている。

 一体何が起こっているんだ?

 つい数時間前とはうってかわった緊張した空気に戸惑い、彼の足どりは知らず知らずのうちに速くなった。漠然とした不安感を感じながら、彼はポプラ並木の石畳の道を駆け上がった。坂を登り詰めると、草原の向こうにペンクロフトの家が見えた。だが、なんとなく違和感がある。

「フェルドランスが・・・・」

 彼は気づいた。今日は実験の予定はないはずだった。それなのに、淡緑色の機体が桟橋の滑走路の上に運び出されている。しかも、背部や脚部には普段使わない付属物が取り付けられていた。さらに、拡張機器を装備できる左腕には何か長い砲身の様なものがついていた。

「航空爆雷!ペンクロフト、何をしようとしているんだ」

 異常な事態に戸惑い、クレイは駆け出した。


「ペンクロフト!」

「クレイ、帰ってきたか!」

 クレイが玄関のドアを開けた途端、管制室から声がした。とたんにドアが開いて、実験用の白衣を着て顔をこわばらせたペンクロフトがでてきた。

「非常事態だ、えらいことになった」

「何が起こったんだ?」

「正体不明の巨大生物が島に侵入した!」

 クレイは耳を疑った。

「え?何だって?」

 空想と現実の狭間にいるような表情でクレイが訊いた。

「巨大生物だ」ペンクロフトが煩わしそうに答えた。

 同僚の言葉をクレイが何度か反芻したとき、事態はまだ認識できないまでも、彼はさきほど見た光景を思い出した。そう、街がやけに慌ただしかった。それに、海岸では何か大がかりな作業が行われていた。

 しかし、よりによって・・・

「きょ、巨大生物だって?」

「ああ。推定全長20メートル。センサーブイがふたつ、それぞれ一撃で破壊されたそうだ」

「そんな。信じられん」

「事実なんだよ。さっき警報が発令された。海岸ではそいつを必死で探している」

「警報って?襲ってきてるのか?そんなことが・・・・・」

「むこうに攻撃の意志があるかどうかは不明だ。しかし危険であるのは間違いない。それに、こちらにしてみれば初めて会う地球外生命体だ。何はさておき再発見しなければ。逃すわけにはいかない」

 ペンクロフトは真剣な面持ちで頷いた。

「おれたちは今、人類史上初めての、異種生命体とのファーストコンタクトに立ち会おうとしているんだ」

 クレイの頭の中で、再び、現実感が薄らいでゆくような気がした。心なしか、見慣れているはずのドアの外の景色までが、厳然たる存在感を喪失したような気がした。彼は不安になった。意識を何とかこの事態に適応させようとした。しかし、彼の心は、未知の生命体がすぐ近くにいるという現実を容易には受け入れようとしなかった。普段慣れ親しんだ現実が壊れていく感覚に、彼は恐怖していた。

 もし、UFOが本当に出現したとしたら、人はこんな気持ちになるのではないか?

「何かの見間違いじゃないのか?その、魚の群か何かの・・・」

 間の抜けた質問だと自覚しながらもクレイは尋ねた。ペンクロフトは首を横に振った。

「未知の何かがすぐ近くにいる。それは間違いない」

「どうしていきなり、そんなやつが?」

「知るかよ。この星の未確認生物か、それとも外宇宙からの飛来者か———」

「なんでいきなりここに」

 クレイの問いにペンクロフトは少し考え、つぶやいた。

「ここにやってきた?・・・もしくは、この島の何処かに潜んでいたのかもな」 

「それで、何とかなりそうなのか?」

 ペンクロフトにいつもの楽観論を求めて、クレイは尋ねた。しかし、予想に反して彼は黙っていた。眉間に少し皺を寄せている。この男は言いにくいことがあるとき、こんな表情を浮かべることをクレイは知っていた。

 沈黙。不安感がクレイをじわっと包んでいった。

「そいつを発見できたとして、それからどうする・・・・。センサーブイを破壊するような怪物をどう扱うつもりなんだ?捕獲する?・・・・・どうやって・・・」

 クレイのつぶやきを黙って聞いていたペンクロフトが、低い声で答えた。

「そうだ。その通りだ。今その準備を進めているところだ」

「へえ」クレイは感心したように答えた。「対応が早いな。知らなかったよ。保安局にはそんな装備もあったのか」

「いや。そんなものはない」

 ペンクロフトはクレイを見つめていた。眼鏡の奥で、何かが冷たく光っていた。

「・・・え・・・」

 クレイは同僚の瞳を見返した。今まで見たこともない、凄絶と言ってもいい表情を、彼は浮かべていた。

「全長20メートルの巨大生物を索敵し捕捉し捕獲できるような装備は保安局にはない。それがあるのはここの格納庫の中だけだ。クレイ・フェンネル君。君が行くんだよ」

 クレイは一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「・・・・・何だって?」

 クレイは長いこと、ペンクロフトの顔を見ていた。やがて、足元に妙な不安感を感じた。気づかぬうちに大きな失敗をやらかしてしまったような、そんな気がした。その不安感は一つの記憶に姿を変えて、彼の脳裏に甦った。

 完全装備のフェルドランスが、カタパルトに・・・。

 それは、ある恐ろしい事実を意味していた。

 クレイの顔から、すーっと血の気が引いていった。もしかして・・・

「ペンクロフト、もしかして、おれが・・・・」

 恐る恐る、彼は尋ねた。

 ペンクロフトは頷いた。

「保安局からの要請だ。もし海岸でそいつを探知できなかった場合、君にはフェルドランスで出撃し、これを索敵、探知、捕獲してもらいたい」

 ペンクロフトがあえて使った「出撃」という単語に、クレイは戦慄した。

「そんな、冗談じゃない。おれは軍人でも兵士でもなんでもないんだ。民間人だぞ。ただの探査機の操縦士なんだぞ。そもそも、運用テストも終了していない機体でそんな正体不明の怪物の捕獲なんてできるものか!」

 ペンクロフトは少しうつむいて答えた。

「無理は承知だ。すまないと思ってる。おれがもう少し早く機体を完成させていればよかった。・・・・保安局の試算では、相手の運動能力と攻撃力は小型高速戦闘艇(FIAC)に匹敵する。現時点では、その能力に拮抗しうる機動力をもった探査機はフェルドランスしかない。そして、それを動かせるのは君だけだ。君には覚悟を決めてほしい。人類の先鋒になれ」

 いつも楽天的で、ふざけたことばかり言ってる男が、今は真剣な面持ちで語っていた。初めて見る彼の真摯な表情に、クレイはまるで冷水を浴びたように、体の芯が急速に冷えていくのを感じた。今まで不変のものと信じていた日常に亀裂が入り、今までとは異質の現実が、じわじわと彼の心に忍び込んできた。それと共に、一つの言葉が、心の中に響いた。

 もう逃げられない。

 出撃だって?索敵だって?やらなきゃならないのか、このぼくが、異種の生命体とのファーストコンタクト?

 人類で初めて異性物と接触する。それは普通に考えれば好奇心を最高に刺激する魅力的な出来事のはずだった。しかし今のクレイはそれとは全く逆の心境にあった。薄ら寒い恐怖を彼は感じていた。

 彼の臆病な心は、これが単なる「未確認動物探し」で終わるはずのないことを薄々感知していたのかもしれない。

 どうしてこんなことになっているのか。このあいだまで、普通の学生だったのに・・・・

 クレイは床に目を落として、壁にもたれかかった。

 ・・・半年前のあの日、あの日が人生の分かれ道だったのだ

 あの時の後輩の言葉が甦った。

 行けば必ず後悔する、警告はしました。あとは好きにして下さい

 クレイの心の中で、懐かしい声が悲しげに響いていた。ふと、自分はもう二度とあの声を聞くことはないだろうと思った。あれは捨ててしまった過去の声なのだ。あの声を捨てて、ここに来てしまった今、自分は果たさねばならない。ここでの自分の役割を。

 覚悟はしていたはずだ。こんな謎の島での探査を行う。それには常に死の危険が伴うということを、わかっていたはずだ。わかった上で、それでもここへ来たのではなかったか。今、予想していたことと状況はいささか異なるが、要するに自分が本来為すべき仕事をする時が来たのだ。

「こんな事を今言うのは何だが・・・」

 ペンクロフトはクレイの肩に手をおいて、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。

「自分の能力を信じるんだ。おまえならできるさ。おれは信じているよ。おまえと、おれが設計したあの機体を」

 そして、一枚の紙切れを手渡した。いくつかの単語が箇条書きされている。

「現在使用可能な装備はこれだけだ。ありったけのセンサーを搭載してある。エンジンも良好だ。発進準備は完了してる。一応、火器も使えるようにした。火器管制プログラムとデータリンクは保安局のものをもらった。使えるはずだ。ミスラックスに航空機銃をつけてフェルドランスに装着してある。いざというときには照準をサポートしてくれるよ」

 FIACに匹敵するとはいえたかが一匹の生物相手に大げさにも銃器を装備させているところを見ると、ペンクロフトも何か悪い予感を感じているのかもしれなかった。彼はクレイを見た。もしクレイが彼を見返したなら、責任という言葉の重みを知っている男の顔をそこに見ただろう。

「おれは、おれにできることは全てやったよ。あとは君の仕事だ。保安局から出撃要請があるまでコクピット内で待機しておいてくれ」

 それから、がんばれよ、と言ってペンクロフトは管制室の中へ入っていった。

 クレイはしばらく廊下に佇んでいた。顔に不安と焦燥の色を浮かべて、じっと床を見つめていたが、やがて目を閉じて、かすかな声でつぶやいた。

「運命、だったのさ」

 そして意を決したように身を翻すと、廊下脇のドアを開けて、フェルドランスのある格納庫へと降りていく。


 しかし、それから数時間、事態には何の進展もなかった。

 午後2時を過ぎる頃、保安局の管制室で計器を見つめていたケインの背後でドアが開いた。そして、妙にしわがれた声が室内に響いた。

「異生物の対策本部は、こちらですかな?」

 ケインは振り返った。白衣を着た人物が立っていた。奇怪なことにその顔は青白いマスクですっぽりと覆われている。目の部分だけが開いていて、妙に鋭い眼光がそこから覗いていた。突然出現した妖怪じみた人物の姿にケインは一瞬、声を詰まらせた。

「・・・・失礼ですが、あなたは?」

「局長に呼ばれました。カハールと申します。専門は生物学。特に進化生理形態学です。・・・・顔は薬品でやられましてね。このような姿で失礼します」

 マスク越しの嗄れ声は、状況を楽しんでいるかのような口調だった。

「私は今日ほど生物学をやってて良かったと思ったことはありません。未知の生命体を発見することは私の夢のひとつでした。しかし残念ですね。素晴らしい能力を持った生物がすぐそばにいるというのに、人類がまっさきにやることが攻撃準備とは」

 何を言ってるんだ、この学者は

 ケインは訝しそうにカハール博士を見た。その視線を意にも介さず、カハール博士が尋ねた。

「どうですか?見つかりそうですか」

「いいえ。今のところ手がかりはないですね」

「何処かに隠れたかな?海底とか?いや、この島は海に浮かんでいるのだ。真下に回り込んだのかもしれませんな」

「その可能性も検討しています」

 ケインはそう答えて、再び海岸の探査機類から送られてくるデータを注視した。

 そのとき唐突に、エリスの緊迫した声が響いた。

「主任、救難要請です!森林地帯に入っている探検隊からです!」

「何だって?」

「SOS信号です、間違いありません!」

「森林地帯だと!」

 ケインは海岸にびっしり展開している探査機器の配備状況を見た。

「何で?海じゃないのか・・・」

「あ」エリスが小さく叫んだ。

「どうした?」

「救難信号が途絶えました」そして数秒の後、エリスが付け加える。

「人の声が録音されています」

 そして録音されていたその音声をヘッドホンで聴いていくうちに、エリスは顔面蒼白になった。

「記録された文言は次の通りです・・・」報告する彼女の声は震えていた。

「怪物、怪物を見た」


「クレイ!森林地帯だ!」

 フェルドランスの薄暗いコクピットにペンクロフトの緊迫した声が響いた。操縦桿を握りしめていたクレイは小さく頷いた。ついに来た、もう何処にも逃げ場はないという気持ちが、かえって彼の心を落ちつかせていた。

「了解。出撃する」

 そして、フェルドランスは宿命の翼を開いた。


 管制室の中を緊張が走っていた。

 森の中心部からいきなり発せられ、そして唐突に途絶えた救難信号。そこで一体何があったのか?今日目撃された巨大生物と何らかの関係があるのか?

 管制室は混乱していた。情報を収集し分析するために人々が慌ただしく動き回っている。そんな中、不気味な青白いマスクをかぶったカハール博士だけが、無言で佇んでいた。

「識別信号確認! 探査機です」

 レーダー担当のオペレーターの声が響いた。人々が一斉に内湾を映しているスクリーンを見たとき、青空の彼方、蒼い海の上に淡緑色の機影が見えた。

「こちらAMP-01、フェルドランス・・・・」

 エリスの前の通信機から緊張したクレイの声が聞こえてきた。

「報告を受けました。これから森林地帯に向かいます。位置情報をください」

 エリスはアッカー局長を伺う。機体が放つ青い光芒を眩しそうに見つめていた局長は我に返ったように瞬きをして、かすれた声で答えた。

「救難信号の発信地点を転送しろ。探査機による活動を要請する。全搭載機器の使用を許可する」

「こちら管制室、 AMP-01、聞こえますか? 全搭載機器の使用を許可します。・・・・何が起こっているのか、こちらでは把握できていません。人的被害が出ている可能性があります。早急に対応してください。それから、ご自身も気をつけて下さい」

「了解。忠告に感謝します。どこまでやれるかわかりませんが・・・」

 エリスは、無線機の向こうで、操縦士がギリッと歯を食いしばる音を聞いた。

「———行きます!」

 フェルドランスは急加速した。エリスの瞳の中に白い軌跡がのびる。

 機体はスクリーンを横切り、瞬間的に90度旋回して内陸の方へ、鬱蒼と木々の茂る森へと向かった。

 管制室の人々は無言でその機影を見つめている。


『目標座標認識』

 コクピットの正面ディスプレイに表示がでた。

 クレイの視界に緑の森が広がった。

 その奥深く、カプローナ山の麓近くに、救難信号の発信源がある。木々が繁茂し、熱帯のジャングルのようになっている地点だ。

 あそこか

 操縦桿を倒す。機体が傾いた。斜めになった視界に緑の絨毯がうつる。ただし今のクレイには緑色の地獄のように見えた。

 皮肉なものだ、と彼は思った。今朝、ここを探検する事を想像していたのに、その日のうちにそれをやる事になるとは。

 その時、視界の隅に今朝訪れた博物館が見えた。石造りの博物館とその横に建つ小さな家が見える。

 今朝出会ったあの少女の姿が思い浮かんだ。たしか、シィナという名前。彼女と話したのが今日のことだったとは信じがたい。もう何日も前のような気がする。その時、クレイは博物館の前に佇んでこちらを見ている少女が見えたような気がしたが、その光景は後方に流れ、木々に隠れて見えなくなった。

 ディスプレイ上を丸と三角の図形が移動していく。救難信号の発信地点へと機体を誘導していくのだ。丸はフェルドランス内蔵のナビゲーション装置、三角は胸部下に取り付けられた特殊支援機器「ミスラックス」の照準装置の情報だ。ふたつの図形が互いを補うように動き、彼を目的地へ招いていく。

 やがて、クレイの視界にそれが入った。

 密林の中に異様な箇所がある。

 そこだけ、木々が生えていない。いや、木々が水平になぎ倒されているのだ。まるで前世紀にイギリスで見つかったミステリーサークルのように。

 そして、そのサークルの中央には、何やら妙な黒いものがあった。

「なんだあれは?」

 クレイはつぶやいた。


 ミステリーサークルの中心にある物体に肌寒いような嫌悪感を感じつつ、クレイはフェルドランスの機体を降下させた。エンジンからの風圧で、森冠が嵐の水面のようにうねっている。

 彼の眼下に、なぎ倒された木々と、そして粉々に砕け散った人工物が見えた。この地点で探査活動を行っていた探検隊の備品のようだった。

 そしてクレイは見た。倒れた木々と壊された観測機器の間に、無数の人間が倒れている。

「ひ、人が!」

 コクピットの中でクレイは戦慄した。彼がかつて見たこともない悲惨な光景、彼がかつて体験したこともない明らかな非常事態だった。

「なんてことだ」

 クレイは呻き、すぐに着陸の態勢に入った。下にいる人々がまだ生きているなら、一刻も早く救助しなければならない。

「緊急要請!」

 着陸場所を探して低空飛行しながら、クレイは通信機に向かって叫んだ。

「探検隊が被害に遭っています。人が倒れている!すぐに救助隊を!」

 通信機の向こうで、先程の女性オペレーターが「了解」と応答してくれた。

「すぐに救護班を差し向けます。そちらの状況を教えてください」

「森の一部がなぎ倒されています。その中に被害者が。それから妙な黒い物体が見えます」

「画像データをリンクさせてください」

 オペレーターの言葉でクレイは思い出した。フェルドランスと保安局を繋ぐデータ回線をペンクロフトが構築していたはずだ。彼はディスプレイを操作して、フェルドランスの光学センサーを保安局に繋いだ。

 そして、フェルドランスの機首をミステリーサークルの中心に向けたとき、クレイは見た。

 サークルの中心部にある黒い物体が、蠢いている。


「何かがいます!」

 フェルドランスから送られてきた映像を見て、エリスが叫んだ。

 彼女の見ているモニターの周囲に室内の人々が群がる。

 調整が不十分なのか、いささかノイズ混じりの画面には、奇怪なサークルと、その中心にある不気味な物体が映っている。

「何だあれは?」ケインがつぶやいた。

「画像が乱れていてよく見えないな」

 カハール博士が嗄れた声で言った。

「もっと近づくようにと、探査機の操縦士に伝えてください」

 エリスが操縦士にその旨を伝える。

 探査機が物体に接近、モニター画面の中で、すり鉢状のサークルの中心部にある物体が次第にはっきりと見えてきた。

「こ、これは」

 ケインが呟いた。他の面々は一様に絶句している。

 あまりのことに、誰も言葉を発することができず、異様な沈黙が続いた。

「イースター島の・・・・」

 ようやく誰かが呟く。

 そう、ミステリーサークルの中央に鎮座していたのは、あまりにも不条理な、異様としかいいようのないものだった。黒い立像のような物体。一見するとまさに南米チリの沖合に浮かぶイースター島の神像モアイのようにも見える。

 密林に出現したミステリーサークルの真ん中に建つ黒いモアイ。その怪奇さに人々は戦慄しながら、さらに恐ろしい光景を目にした。

「う、動いている」

 恐怖に戦きながら、エリスが言った。彼女の言葉通り、その物体はびくんびくんと小さく跳ね動き、時折、ぐりん、ぐりんとくねっているのだ。

 モアイがその身をくねらせているような、それはぞっとする光景だった。

 観測室の面々が皆恐怖に言葉を失っている中、カハール博士だけが冷静な眼差しでその物体を見ていた。

「まるで鱗翅目昆虫の蛹のようだ」

 カハール博士がそうつぶやいたその時、いきなり巣穴の中心部から砂柱が吹き上がった。

 そして、モアイは一瞬でバリッと裂け、真っ黒な物体が空中に飛び出したのだった。


「うわ!」

 クレイは思わず叫んでいた。

 機体のモニターの視野いっぱいに、奇怪な物体が映った。不気味なモアイ像が一瞬にして裂け、それが飛び出してきたのだ。

 機械とも生物ともつかない奇怪な輪郭。外骨格のようなものが陽の光を反射して鈍く輝き、とげだらけの背中では羽根のようなものが高速で振動している。胴体の下側には、こぶのようなものがたくさん付着していた。

「何だ、これは!」

 クレイの視界で、巨大なものが空中にふわりと浮かんでいた。青い空を背景にして、悪夢の中に出てくるような黒い塊がある。巨大な、恐ろしく巨大な昆虫のようにも見えた。戦車の装甲板のような外皮が鈍く光る。フェルドランスに装備された測距装置が、すぐさまそれのサイズを表示した。全長16.5メートル、羽根を入れた全幅が15メートル。モニターには肉眼で見るよりもはっきりとそいつの形態が表示されていた。甲虫のそれに似ている。頭部からはまるでヘラクレスオオカブトのように前方に長く角が伸び、体は装甲のようなごつごつの外骨格に覆われていた。脚は見えなかった。本来脚があるべき所には、まるでフジツボのようなコブが四つ付着している。背中には昆虫が備えているような羽根が二枚あり、その後ろには飛行を補助するらしい一対の平均幹が見えた。今、怪生物は高速で羽根を震わせ、ジャングルの上空をゆっくり飛翔していた。

 クレイはコクピットの中で呆然としていた。フェルドランスが伝えてくれたデータを見ても、彼の持つ生物学の知識が、目の前にある物体の実在を拒絶する。

 あんな巨大な節足動物がその形態を維持できるはずがない。あんな構造の羽で飛べるわけがない。あんな生物が存在できるわけがない。

 しかし、不条理な現実に戦くクレイの眼前で、怪物は空中でくるりと向きを変え、すーっと滑るような動きで機体の前を横切ると、次の瞬間、ひゅん、と翼を震わせ、凄まじいスピードで飛行をはじめた。


「飛行物体が接近中!街がある方向です!」

 エリスが叫んだ。

 対空レーダーに赤い点が明滅していた。それは森林地帯から街の方へとまっすぐに接近してくる。

「飛んでるのか!」

 ケインが叫んだ。

「対気速度は時速300キロメートルに達しています!」

「何だって?航空機並みじゃないか!」

「常識では考えられない生理機能ですな」

 カハール博士が呟くように言い、それにケインの怒号が重なる。

「あの探査機はどうした!」

「生物を追尾しています」

「何とかさせろ!!」

「はい!でもどうしろと!」


 その時、飛行する巨大生物を追尾していたクレイは、怪物の胴体の一部がいびつに蠢くのを見た。次の瞬間、怪物の後部から黒い球体が三つ、フェルドランスに向けて放出された。

 運良く機体が傾き、フェルドランスは接触を免れたが、その球体が地表に追突した途端、凄まじい爆発が起きた。森林の木々が吹き飛び、炎と黒煙が上がる。

「え?」

 クレイは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。


「爆発です、爆発しました!」

 エリスが叫んだ

「何だと!」

 ケインが叫んだ途端、エリスが再び叫んだ。

「街に近づいてきます。あと数分以内にここに到達します!」

「迎撃だ!やつを落とせ!街に入れるな!」

 アッカー局長が叫んだ。

「探査機だ。あれで迎撃できる!攻撃を許可する」

 局長に促され、エリスは通信機の回線を開いた。

「こちら管制室、 AMP-01、聞こえますか?只今より 全搭載火器の使用を許可します。迎撃して下さい、街に入れないでください」

「げ、迎撃、ですか・・・」

 通信機から、焦ったような声が返ってきた。無理もない。そもそもあの操縦士の任務は未知の生物を発見し状況を報告することだったはずだ。軍人でもないのにいきなり空中飛行する巨大生物の迎撃を命じられて困惑しないわけがない。

「そうです、迎撃です」

 しかしエリスは操縦士にそう告げた。今はもう彼を頼るしかないのだ。

「爆発物を保持する物体を街に入れるわけにはいかないんです」

 一瞬の沈黙。そしてエリスは、無線機の向こうで、操縦士の震えるような息遣いを感じた。

「り、了解しました」

 操縦士は律儀にも理不尽極まる要請を受領した。エリスはその声を聞き、この人は相当なお人好しに違いないと思い、それからふと、この人はここで死んでしまうかもしれない、と思った。

 そうなったら、命令に従っただけとはいえ、自分は一人の人間を死地に送り出したことになる・・・。何故?どうして今こんなことになっているのか?今朝はふつうに目覚め、いつも通り職場にきていただけなのに・・・・

 そして、エリスの眼前で、人類と異種生命体との空中戦が開始される。


『目標捕捉』

 コクピットの正面ディスプレイに表示がでた。

 クレイの前方を飛行する黒い物体の上に三角と円形の図形が重なる。

 捉えたか!

 操縦桿を倒す。機体が傾いた。斜めになったディスプレイ上をフェルドランスの照準装置と、胸部下の特殊支援機器「ミスラックス」の照準装置の図形がなめらかに動き、黒い物体を追尾する。

 しかし照準は定まらない。モニターの中で怪生物はガクガクと揺れ動いている。

「ちくしょう」クレイは呟いた。

「もう少し———」

 クレイは必死で機体を制御していた。戦闘用の機動などやったことはない。

 スロットルを開く。機体が加速。測距儀の数値が減少していく。

 電子音、ミスラックスが先に標的を捉えた。

 『Lock ON』の表示、クレイはトリガーを引いた。

 ミスラックスに取り付けられたガトリング式航空機銃から唸るような銃声がして、フェルドランスと怪生物との間の空間を赤い火線が結んだ。空薬狭が宙に舞う。

 機銃弾は怪生物の右側をすり抜けていった。

 しまった、照準がズレてる、

 怪生物は瞬間的に回避、反転した。フェルドランスの方へ。そして急加速、一瞬のうちにディスプレイに奇怪な顔が大写しになった。クレイは慄然とした。ものすごい運動性だ。まるで重力を無視したような動き。フェルドランスにはとてもこんな機動はできない。彼は反射的に操縦桿を引いた。スロットル全開、フェルドランスは上昇、怪生物も追尾する。

 機体と怪物はあっという間に海上に出た。蒼い海の上を二つの点が上昇していく。

 天空に直線の軌跡が伸びた。

 上昇しながら、クレイは後方警戒モニターを見た。レーダー測定で距離は150メートル。彼は操縦桿についているスイッチのひとつを見た。それは機体の左腕に付けられた「航空爆雷発射装置」の起動スイッチだった。航空爆雷は射出10秒後に爆発するようセットされている。有効射程距離に入るとスイッチに緑色のランプが点るはずだ。しかし今は無灯のままだ。

 距離が近すぎるんだ、クレイは焦った。

「なんとか引き離さないと」

 クレイは進行方向を沖のほうへ変えた。警戒音が鳴り続けている。後部監視モニターに迫り来る巨大生物が見えた。速い。速すぎる。対気速度計は時速600キロメートルを示していた。

 なんて奴だ!

 クレイは心底から恐怖を感じた。

 背筋にしみこんだ恐怖がスロットルペダルを床まで踏み込ませた。生物との距離が離れる。速度はこっちの方が上だ。前方に雲。みるみる近づいてくる。

 その時、ある考えが閃いた。「雲だ、雲の中ならあれの速度が落ちるかも———」クレイは機首を雲に向け、そのままその中へ突入した。

 世界が一瞬真っ白に変わった。モニターに水滴が散る。次の瞬間、フェルドランスが雲を突き抜けた。

 クレイは思いきり操縦桿を倒した。

 翼が翻って機体は急旋回。180度反転、強烈なGがかかる。反射的に火器官制システムを操作、左腕の航空爆雷発射装置を雲に向かって構えた。

 発射スイッチは———緑。

 クレイはスイッチを押した。ぶっ叩いた、と言うべきか。

 圧搾空気の噴出と共に、航空爆雷が射出された。樽型の爆雷は一瞬空中に止まって見えたが、次の瞬間、推進剤に点火し、ミサイルのようにディスプレイの照準レティクルの中心へ向かって飛んだ。

 白い軌跡が雲に突き刺さる。

 一瞬の沈黙。クレイはトリガースイッチを押したまま歯を食いしばっていた。

 そして、

 雲が爆発した。


「おお!」

 保安局管制室にどよめきが走った。

「やったの?あのひと」

 エリスが小さく叫んだ。

 しかしカハール博士は小さく首を振った。

「あの生物の視覚系は時間分解能がけた外れに優れていると考えられます。機銃弾も爆雷もあの生物の視覚系では完璧に捕捉されているでしょう。あんな目くら撃ちではダメですな」

 その通りだった。


 警戒音が鳴った。

 クレイは蒼白になって操縦桿を倒した。全バーニア噴射。

 フェルドランスが傾き、機体を軋ませながら横に滑った。

 轟音が響く。

 羽音と共に、濃紺の外骨格が爆炎を貫いて飛びだした。

 上昇していく。爆雷のかけらが散った。

 クレイは呆然と見つめていた。航空爆雷を回避し、今、海を泳ぐ魚のように自由に天空に駆け上がっていく巨大な節足動物を。

「すごい」

 クレイは今の境遇を忘れ、その濃紺の外皮に、深紅の触角に、虹色に煌めく翼に見とれていた。

「なんという———」

 クレイの心に過去の思い出がよぎった。生物を愛していた頃の自分。

 鋭い痛みが心に突き刺さった。今、ぼくは何をしてる?

 その時、羽根を翻して巨大生物は反転した。クレイはその腹部がカリバチのそれのように曲がって、先端がフェルドランスの方を向くのを見た。

 轟音、巨大生物の腹部から黒い球体が射出された。

 クレイは機体をひねった。間一髪で球体がコクピット横を通り過ぎる。遥か後方の海面に接触した。

 爆発、海面が弾け、水柱が吹き上がった。

「さっきの火器か!」

 クレイは呻いた。

 再び球体射出、フェルドランスは斜めに上昇、脚の下を球体が通りすぎた。

 怪生物が追尾してきた。エンジン音と羽音の交響曲が蒼穹に響きわたる。フェルドランスと怪生物は、二羽の怪鳥のように空を舞った。さらに上昇、フェルドランスは再び雲に突入した。

 雲を突き抜けたとき、しかし、今度は怪生物は現れなかった。

 一瞬の静寂、白い雲の中に怪物は消えた。

 しまった、何処だ

 次の瞬間、予想外の方角から、続けざまに球体が飛んできた。

 ———やられた!

 クレイは操縦桿とスロットルを操作、機体が斜めに反転、五つの球体のうち、四つが機体の横をすり抜けた。

 残りひとつがフェルドランスに接触した。

 爆発、すさまじい衝撃が襲った。左肩に被弾、装甲板が全て吹っ飛んだ。

 機体ががくんと傾いた。次の瞬間、巨大生物が雲の中から現れた。

 無機質な顔がフェルドランスを見据えていた。続けざまに球体発射、黒い塊が飛んできた。クレイは必死で回避、フェルドランスは木の葉のように空中を舞った。機体の横を球体が過ぎる。全弾回避、奇跡に近かった。

 しかし、急旋回に翼の空気が剥離、フェルドランスは失速した。

「まずい!」クレイは必死で姿勢を立て直した。

 その時、警告ランプが点灯した。機体の頭上から、巨大生物が急速接近してきた。速い。

 ———しまった!

 轟音!まるで雨のように、球体が飛んできた。

 クレイは歯を食いしばった。頬をひきつらせ、狂人のような形相で、彼はトリガースイッチを押した。ミスラックスが応答、球体に向けて機銃を掃射していた。ひとつ、ふたつ、みっつ———、まるで手品のように、機体の手前で球体が爆発した。

 ミスラックスは全ての球体を撃ち落とした。照準は完璧に補正されていた。クレイはフェルドランスにはりついている小さな支援機器を畏怖と感謝のまなざしで見つめ、そして上を見た。彼の頭上、硝煙の向こうに、怪生物が見えた。

 彼はコクピットの中で声にならない叫びをあげた。そして、そのままスロットルを全開にした。急上昇、そして、フェルドランスは怪生物に激突した。

 右手を操作。マニピュレータが怪生物の角を掴んだ。

 怪生物が暴れる。胴体をめちゃくちゃに振り回し、フェルドランスを引きはがそうとしていた。可動する刺が機体を削る。コクピットに警報が鳴り響いた。装甲板が砕けてゆく。クレイは必死の形相で、カートリッジ入りのマーキング用色素を怪生物の頭部向けて撃ち放した。複眼の上で破裂、黄色の色素が怪生物の右の複眼を覆う。このまま両目を塞げば・・・・しかし、次の瞬間、機体は引き剥がされた。怪生物は一瞬、上昇して至近距離で球体を放出した。

  空中に球体が散った。クレイは操縦桿を操作、しかし、さっきの衝撃か、左翼のフラップがうまく作動しない。

「————うわ!」

 回避のタイミングが僅かに遅れて球体のひとつが右の翼を吹き飛ばした。

 コクピット内に警報が鳴り響いた。ディスプレイに『飛行不能』の表示。

 被弾したフェルドランスは煙の尾を引きながら、海へと落ちていった。

 巨大生物は急降下して追撃してくる。仰向けになったコクピットから迫り来る怪生物の頭部が見えた。片目しか見えないはずなのに正確に追ってくる。クレイの心に戦慄が走った。落ちながら機銃斉射、怪生物は瞬間的に斜めに移動して回避した。

 やられる!

 下は海面、上は敵だ。背筋を冷たいものが走り抜けた。これまでか!

 その時、コクピットに張り付けていた紙片が目に入った。同僚、いや友人が渡してくれたリスト。それに書かれていたのは使用が可能な装備の一覧だ。航空機銃、航空爆雷、そして・・・・

『SPP-T-2』

 クレイはシート横のレバーを引いた。フェルドランスの腰部背面に取り付けられていた樽状の物体が切り放され、バーニアを噴射して怪生物に向かって飛んでいった。怪生物は回避、そのまま樽は遙か天空に消えた。

 海面が迫った。

 ———対衝撃防御

 フェルドランスは全ての翼を切り離し、エンジン停止。さらに吸気口に防水カバーがかかる。機体はすさまじい水しぶきをあげて、海中に落下した。


「あっ!」

 観測室の中でモニターを見ていたエリスが小さく悲鳴を上げた。

 ノイズ混じりの望遠レンズに、フェルドランス着水による水柱が映っている。

「落ちたのか」ケインが呻くように言った。

「はい」とエリス。しかし彼女はすがるような眼差しでモニターを凝視していた。

 モニターには、海面に向けて降下してくる巨大生物が映っている。

 敵が消失したことを確認するかのように、怪物は海面まで降下してきた。海上付近を何度か旋回し、さらに降下、海面すれすれでUターンする。そして、そのまま飛び去ろうとした。

「だめだったか」

 ケインが絞り出すような声で言った。しかし、次の瞬間、モニター画面内で水飛沫が吹き上がった。

「あ!あれ!」

 エリスが声をあげる。フェルドランスの右腕が海面にでていた。

 そして、白煙と共にばしゅっ、と肘から先が打ち出された。フェルドランスの腕が巨大生物へと飛んでいく。腕には捕鯨用の銛のようなワイヤーがついていて、急速に巻き出されていった。

「腕が飛んでる!」

「アームアンカーシステムか」ケインが呟く。

「もともと碇として使う装備だ」

 アームアンカーは怪物の後方死角から接近し、巨大生物の鈎状突起のひとつをマニピュレータが掴んだ。

 とたんにがくん、と巨大生物の進行が止まる。

「巨大生物を捕捉しました!」エリスが状況を告げる。

 保安局の面々が固唾を呑んで見守る中、海面のフェルドランスはワイヤーをキリキリと巻き戻し始めた。怪生物は全力で逃れようとする。

 空中と海面で奇怪な凧上げ状態になった。

 その時、怪生物の頭上へと何かが落下してきた。それは、さっきフェルドランスから打ち出された樽状物体だった。推進剤が切れて自由落下してきたのだ。

 樽はくるくると回転しながら自由落下し、そして怪生物の上空20メートル程まで来ると、突然、中央から二つに割れた。

 そして、中から奇怪な物体が出現した。ブースターを噴射して空中に浮かんでいたのは———、

「自走式探査ユニット、SPP-T-2、『ハリエット』です」

 エリスの報告に、ケインが続ける。

「そうか、このSPPは障害物破壊用の手榴弾発射機を装備している」

 怪生物は何らかの感覚器で危険を察知したらしい。全力で離脱しようとする。羽音が狂気のように響きわたった。フェルドランスの機体が海面から持ち上げられそうになる。

 怪生物は狂ったように暴れた。フェルドランスが海面上まで引きずりあげられる。しかし、機体はまた水中に沈む。重量が増えたようだ。

「うまい、バラストタンクに注水した」ケインが呟いた。

 まるで釣りだった。立場があべこべだが。

 その時、怪生物が奇怪な音を発した。何かが破裂するような音だった。そして、怪生物の腹部に付着していたフジツボのようなコブが、空中に四散した。

 それらは回転しながら落下し、その途中で突然二枚の羽根をぱっと広げた。さらに頭部状のものが起きあがり、逆側からはトンボのような細長い腹部が伸びた。つぎに畳まれていた六本の刺だらけの脚が広げられる。最後に頭部から左右に、アンバランスなくらい長い眼柄が広がった。体長と同じくらい長い眼柄の先には赤くて丸い複眼がついている。地球にいるシュモクバエのようだ。そして、たちまちのうちに、奇怪な形態をした生物が4匹、甲高い羽音を起てて怪生物の周りに舞い上がった。

「な、何が起きた!」

「新たに小型生物が4体発生しました」

「何だって・・・・」

 アッカー局長の額から冷や汗が流れた。何と言うことだ。あの厄介な怪物に加えて、さらに敵の数が増えるなんて・・・・

「局長!」

 エリスが叫んだ。

「迎撃機が巨大生物を!」


 落下してくるハリエットは太陽を背にして逆光になった。その光学センサーが、眼下の怪生物を捕捉した。

 目標捕捉、安全装置解除

 手榴弾発射機が下を向いた。

 そして、ハリエットは怪生物の真上でその全手榴弾を放出した。

 小型生物が飛来した。しかし、遅かった。

 大気を切り裂く轟音が響きわたる。

 一瞬の出来事だった。

 数十個の手榴弾が怪生物の表皮上で爆発した。

 怪物は四散していた。


「ハリエット!」

 クレイは叫んだ。「こっちへ来い、早く!」

 手榴弾を撃ち尽くしたハリエットは標的でしかない。新たに発生した4匹の生物が殺到してきた。ハリエットが急速落下、脚部のフックでフェルドランスに着地した。生物群が迫る。

 脚部のスクリューが逆回転、間一髪、フェルドランスは水中に潜った。

 小型生物の翼が水面を叩いた。しかし水中までは追ってこなかった。しばらく海上を舞っていたが、やがて一斉に島の方へ向かった。 

 クレイは破片の浮かぶ水面を見上げていた。太陽が揺らめいて見え、いくつもの破片が影になってゆれている。

「・・・やったのか・・・ぼくが、あいつを」

 クレイは半ば呆然としてディスプレイを見た。「目標消滅」の文字が瞬いている。自分がやったことがまだ信じられなかった。

 緊張がゆるみ、クレイはしばらくの間、忘我の状態で水面を見上げていた。

「・・・・こちら管制室、AMP-01、応答してください」

 通信機からさっきのオペレーターの緊迫した声が聞こえた。

「こちらAMP-01、聞こえています・・・」

 クレイはつぶやくように答えた。

「大丈夫ですか?小型生物四匹がアルケロン市に向けて進行中、迎撃してください。お願いします!」

 クレイははっとした。まだ終わっていない。一瞬緩んだ思考を引き締める。

「了解しました。これからそちらに向かいます」

 クレイはフェルドランスを浮上させた。水面を切り裂いて機体が海上に躍り出る。

『水上移動モード』にシフト。フェルドランス両脚部に備え付けられたカーボン製小型スクリューが作動した。尾翼として機能していた尾部が舵となって、フェルドランスは機首をノーチラス島の方へ転じた。そして、波飛沫をあげながら、ハリエットを乗せた機体は海上を進み始めた。


 ペンクロフトは管制室の机に手をついて海を見ていた。

 彼はクレイのフェルドランスを探していた。しかし、海上には何も見えない。

 保安局からの連絡では、敵生物とフェルドランスはアルケロン市の沖合0.1キロメートルのところで戦闘を開始、巨大生物は沖合10キロ地点でフェルドランスにより撃墜されたそうだ。しかしフェルドランスも被弾、飛行不能になって現在海上を航行中。そしてまだ、「ハンマーヘッド」と呼称された小型生物が4匹残っており、現在ノーチラス島に接近しつつある。

 まずい状況だ

 ペンクロフトは水平線を見渡した。しかしまだ何も見えない。

 怪生物とフェルドランスの戦線の移動状態から考えて、敵はペンクロフトの家がある方向から侵攻してくるはずだった。

 ここが真っ先にやられるかもしれないな

 島には警戒体制が敷かれていた。小型生物も火器を使う可能性があるため、街の住民には絶対に家の外に出ないように通達された。研究活動が全て停止され、ひっそりとした街では、今まさに保安局による対空迎撃準備がなされているはずだった。しかし、街はずれにあるこの家にまでは手が回らない状況らしい。

 なにか武器になるものを用意しといたほうがいいかも・・・・

 ペンクロフトが管制室を出ていこうとしたとき、誰かが玄関のドアをノックした。軽い音だった。

「誰だ、こんな時に」

 彼は不審げに管制室を出て、玄関に行った。ドアは開けずに、

「どなたか知りませんが今は非常事態です。安全なところにいたほうがいいですよ」

 そう言い捨てて身を翻そうとしたとき、ドア越しに澄んだ声が響いた。

「あの、こちらにクレイ・フェンネルさん、いらっしゃいますか?」

 女性の声だった。ペンクロフトの動きが止まった。

「私はノーチラス島博物館のシィナ・ライトというものです」

 博物館?

 ペンクロフトはドアを開けた。そこには彼が今まで見たこともないほど綺麗な女性が立っていた。少女のような容貌のわりには妙に大人びた雰囲気が漂っている。亜麻色の髪と水色のスカート、それから吸い込まれそうな鳶色の瞳が彼の目に焼き付いた。

「は、はじめまして」

 ペンクロフトは動揺もあらわに言った。

 彼の動揺を知ってか知らずか、シィナはそよ風のような微笑みを浮かべた。

「はじめまして。フェンネルさんは?」

「クレイは、あいつは撃墜されて今は海の上です」

「は?」

 きょとんとしてシィナは答えた。

「え、あの、警報を聞いてないんですか?」

「何のことでしょう?あのあとは余裕がなかったので・・・・そういえば見慣れない飛行機が飛んでいたような」

「今は非常事態なんです。大変なことになってるんですよ」

 とにかく中へ、と言ってペンクロフトはシィナを家の中にいれた。まずいことになった。これから敵がくるかもしれないのに。

「とにかく安全なところへ」

「いったいどうしたんですか?」

「虫ですよ、虫」

「・・・・え?」

「『燃える昆虫軍団』です」

 それは古いパニック映画のタイトルだったが、シィナには伝わらなかったらしい。彼女は唖然としていた。そして、横に立つ白衣の男を不審そうに見た。

 このひと、大丈夫だろうか。そんな顔だった。

「・・・・あの、失礼ですが」

 ペンクロフトは聞いていなかった。とりあえずの避難場所を探していた。

 彼は思った。そうだ、物置部屋なら窓も小さいし・・・・

「とりあえず物置へどうぞ」

 シィナは身の危険を感じたように後ずさった。

「あの、ちょっと待って下さい。困ります。私はフェンネルさんに・・・・」

 その時、何処からか空気を切り裂くような羽音が聞こえた。

 ペンクロフトは驚いて聞き耳をたてた。

 何かが近づいてくる、海の方だ

 謎の音はだんだん大きくなってくる。

 その音を不審に思ったのか、シィナも「何ですか?あの音」と訊いた。

「ここにいて」

 ペンクロフトは管制室のドアへ近づいていき、思い切ってそれを開けた。

 そして、そこに異様なものを見た。

 海に面した窓の向こうから、黒くて奇怪な姿をした物体がひとつ、まっすぐこっちへ向かってくる。

 宇宙人が攻めてきた、とペンクロフトはこのとき本気でそう思った。

 それほどまでにそれは異様な姿をしていた。

 左右に長く伸びた黒い眼柄。その両側にある巨大な赤い複眼、だらんと下に伸びた刺だらけの脚、そして高速で振動する羽根。

 翼長は3メートルを越えているのではないか。

 何なんだ?あれは

 なんとなく予想していた姿とあまりにかけ離れた物体を実際に目撃して、ペンクロフトの脳はこの状況を現実とは認識できなかった。彼はまるで映画の一場面でも見ているような面持ちで立ち尽くしていた。

 ハンマーヘッドは急速に接近してきた。まっすぐに、管制室の窓へ。

 ペンクロフトの眼鏡にそいつの姿が映っていた。その姿はどんどん大きくなる。逃げようという感覚は麻痺していた。異質な現実に脳が戸惑い、次の行動を起こすことができなくなっていた。今の彼はちょうど蛇に睨まれたネズミのそれに近かったかもしれない。

 ハンマーヘッドの姿が彼の視界いっぱいにまで大きくなった。そいつは速度をゆるめずに、管制室の窓ガラスに激突した。

 ガラスの砕け散る音。そして鋭い破片がペンクロフトに向けて雹のように飛んできた。

「あぶない!」

 シィナの声が響いた。彼女はペンクロフトの後ろから飛びつくようにして彼を床に押し倒した。ガラスの破片はうずくまる二人の上を飛び越して壁に激突、四散した。落ちた小片が床に突き刺さる。

 我に返ったペンクロフトは反射的に頭を上げて窓の方を見た。窓ガラスは半分以上吹き飛ばされていたが、窓の木製フレームはまだ残っていた。ハンマーヘッドは部屋の中に入ろうとして、一度後退し、勢いをつけて再び体当たりをした。

 轟音、ガラスと木片が飛んできた。ペンクロフトの体の上からシィナの小さな悲鳴が聞こえた。彼はとっさに体をひねって、今度は自分がシィナの上に覆い被さるようにして彼女を護った。木切れが背中に当たる。飛んできたガラス片のひとつが彼の顔に当たって、頬から血が流れた。彼は窓の方を振り返った。フレームはまだ完全には破壊されていない。ハンマーヘッドはまだ外にいた。しかしもう一度さっきのような体当たりをくらえば、間違いなくフレームは破壊され、奴は中に入ってくるだろう。

 ハンマーヘッドが再度襲撃のために後退した。

「今だ!」

 ペンクロフトは起きあがる。シィナの手を取って立たせながら叫んだ。

「はやく二階へ!」

 管制室のドアを開けたとき、轟音が響いた。二人は振り向かずに駆け出した。ドアを閉めた途端、大量の破片がドアに突き刺さる音が聞こえた。

 管制室の中で甲高い羽音が響いた。

 奴が部屋の中で飛び回っている。

 ペンクロフトはシィナの手を引いて階段を駆け上がった。

 二階の部屋に入って、勢いよくドアを閉めた。それから海側の窓に駆け寄って、鎧戸を下ろし、内側の窓も閉めて鍵をかけた。

 それからシィナの方を振り返った。

 彼女はドアのそばに立っていた。両手でスカートをつかんで前かがみになっている。息が乱れていた。髪が前に垂れているので表情はよくわからないが、怯えているように見えた。

「・・・・何ですか、あれは」

 シィナはかすかな、震える声できいた。

 ペンクロフトは階下の物音に耳を澄ませながら、わからない、と答えた。

「いきなり何の前触れもなく侵攻してきたんだ」

「何処から?」

「それもわからない」

「フェンネルさんはあれと闘ったんですか?」

「いや、あれじゃない。彼はもっと巨大な奴を落としたんだ。保安局の連中も驚いてたよ。おれはもっと驚いたけどね。火器を使う武装ヘリみたいな巨大生物と互角に戦ったんだから」

「それで、無事だったんですか?」

「機体は飛行不能になったが、彼は無傷だ。今こっちに向かってる」

「あの人が・・・・」

 シィナはつぶやいた。

「奴め、管制室から出ていった」

 ペンクロフトが呟いた。下の部屋からはいつしか羽音が聞こえなくなっていた。かわりに、玄関側のほうで音がした。どうやらこの家の周囲を探っているらしい。

「しばらくここを動かないで」

 そう言うと、ペンクロフトはドアを開けた。

「何をするつもりなんですか?」

 しかしペンクロフトはそれには答えずに、「大丈夫だよ」と言って部屋を出ていった。足早に階段を下りる音が聞こえた。

 一人残されたシィナは、がらくたのような機械の散らばる部屋の中に佇んでいた。

 家の周囲で羽音が聞こえていた。羽音に混じって、大顎を噛み合わせているらしいカチカチという音が聞こえた。不気味な、悪夢のなかで響く音楽のようだった。それはぐるぐると部屋の周りを回っている。

 シィナは両耳をおさえてそこに座り込んだ。

 三分ぐらいたった後、階段から何かを引きずるような音が聞こえてきた。シィナは恐る恐るドアを開けた。巨大な金属の塊をひきずったペンクロフトが立っている。彼はそれを苦労して部屋の中にいれた。

「何ですか、それ」

「120ミリ長距離(Long Range)電磁(Railgun)投射砲(Cannon)をフェルドランス用に改装した、『LRC-1』だ。武器として使うつもりはなくて、障害物の除去やマーカーの打ち込みができるようにしようとしてた。すでに何カ所かに手を入れているが、砲身はまだ軍用規格のままだから、口径の合う弾体を装填すれば、使える」

「これを、撃つんですか?」

「弾体の速度は秒速10キロ。たとえ奴でも回避は不可能だ。ただ・・・・」

 ペンクロフトは少し悔しそうに顔を歪めた。

「ガス圧の調整が終わってないから、反動がかなりあるかもしれない。申し訳ないな。一人で扱うのは無理だと思う。だが、二人でならなんとか使えるだろう」

 ペンクロフトは部屋の真ん中で三つにたたんでいたパーツを展開した。かちん、と音がして各部が連結され、それは全長3メートルに達する長身砲になった。続いてLRCからでているコードを高電圧カートリッジにつなぐ。彼はさらに部屋の中をごそごそ探していたが、やがて小さな箱のようなものを取り出した。

「このレーザー照準をつければ・・・」

 その時、部屋の真上で羽音が響いた。同時に何かが屋根にぶつかる音が聞こえ、天井からぱらぱらと埃が落ちてきた。

 部屋の二人は息を呑んだ。あれが入ってこようとしている———。

「時間がない」とペンクロフトが呟いて、手早く照準器を取り付けた。

「これでよし、奴の姿が見えたら、おれが前で砲身を支えて照準を合わせる。君は後ろで引き金をひいてくれ」

 それから、ぽん、とサングラスを投げた。受け取ってシィナは不思議そうな顔をした。

「それをつけて。発射時に弾体がプラズマ化する。直視すると目をやられるぞ」

「・・・・あなたのは?」

「ない」

「そんな」

 不意に天井から轟音が響いた。爆発音だった。続けざまに二回、天井から大量の瓦礫が落ちてきた。

 あの音、

 ペンクロフトは瞬間的に悟った。

 虫め、火器を使ったのか!

 ペンクロフトはシィナに駆け寄って抱きかかえるようにして床にうずくまった。

 轟音、そして落ちる破片。ペンクロフトの腕のなかでシィナが悲鳴を上げた。部屋の中は埃が舞い上がり、何も見えなくなった。

 そして羽音が聞こえた。はっきりと。すぐ近くだった。

 ペンクロフトは起きあがった。海側の天井に大穴が開いており、そこから空と、そしてホバリングしているハンマーヘッドが見えた。

「今だ!」

 ペンクロフトはLRCに走りよって、砲身を持ち上げ、ファインダーの中央に怪物を捉えた。シィナも砲塔の後ろに駆け寄り、トリガーに手をかけた。

 ハンマーヘッドの顎が開き、そして襲いかかってきた。

「今だ、撃て!」

 閃光、LRCから蒼い火球が迸った。まわりの空気が一瞬で加熱され、部屋の中に熱い風が吹き渡る。

 火球は一直線にハンマーヘッドを貫いた。

 頭部から尾部までを串刺しにされた飛行生物は、回転しながら家の外まで吹き飛ばされ、屋根の上で爆発した。

 衝撃波で屋根が崩れた。LRCを撃った二人も反動でとばされ、部屋の隅にまで転がった。その上に屋根の破片ががらがらと落ちる。部屋の中を破片と埃の嵐が吹き荒れた。

 数分たって、ようやく埃が晴れてきた。

 部屋の片隅で何かが動き、瓦礫の山の中からぼろぼろになった白衣の袖が出てきた。それはがらがらと周りの障害物をどけるとよろめきながら立ち上がった。

「博物館の・・・ええと、シィナさん・・・・」

 力無い声で呼びかけた。

「シィナさん、何処だ?大丈夫か?」

 部屋のもう一方の端の瓦礫の山が動いた。中からかすかな呻き声が聞こえた。

 ペンクロフトはよろよろと近づいていって、両手で瓦礫をかき分けた。シィナがいた。白かったブラウスが煤で黒くなっている。サングラスをかけた彼女は上目使いにペンクロフトを見た。

「怪我は?」

 シィナは首を横に振った。ペンクロフトは煤で汚れた彼女の手を取って立ち上がらせた。シィナの体から埃が舞い落ちた。

 二人は屋根もなくなり、完全に破壊された部屋の中で、海と空を交互に見ながら無言で佇んでいた。

 しばらくして、シィナがぼそっと言った。

「部屋、壊れちゃいましたね」


 フェルドランスは波を切り裂いて進んでいた。浸水を防ぐため、頭部は胴体に収納されている。代わりに潜望鏡が持ち上がって外界の状況をモニターしていた。陸まではもう少しだ。捜索用潜望鏡を覗くクレイの目に灯台が見えた。街とクレイの家を結ぶ延長線上にあるケローニア岬に建てられているやつだった。

 岬のところから上陸しよう

 フェルドランスは加速して、波飛沫と共に岬の下の小さな砂浜に乗り上げた。

 機体を陸上モードへ。フェルドランスは畳んでいた膝関節を伸ばして砂浜の上に2本脚で立ち上がった。機体のあちこちから海水が滴り落ちる。海藻が各部にこびりつき、まるで海から現れた怪物のようだった。

 クレイは通信機に呼びかけた。

「こちらフェルドランス、管制室、応答願います」

「こちら管制室」

 エリスの声が返ってきた。後ろが相変わらず騒がしい。

「今、ケローニア岬に上陸しました。状況を教えて下さい」

「現在、小型生物『ハンマーヘッド』は三手に分かれて移動してます。一匹がメイオラニア丘陵の崖部から侵攻、さらに一匹がカプローナ森林地帯の辺縁部へ向かいました。残る二匹がアルケロン市へ向けて進行中。あと3分以内に到達すると予想されます」

 メイオラニアの崖だって?ぼくとペンクロフトの家がある方角じゃないか

 クレイは無線機のチャンネルをペンクロフトの管制室に合わせ、コールした。

 反応なし

 再び管制室へ。エリスに訊ねる。

「メイオラニアにはヒューベル博士がいるはずです。彼は無事なんですか?」

「———すみません。こちらもアルケロン市の防衛で手一杯なんです。ヒューベル博士の安否は不明です。・・・ごめんなさい」

「わかりました。フェルドランスは現在飛行不能。間に合いません。アルケロンへはミスラックスを向かわせます。ぼくはこれからヒューベル博士宅に向かいます。それでいいですか?」

「ちょっと待って下さい」後ろで何やら相談する声がした。

 どうかな。認めてくれるだろうか?

 コクピットの中で焦燥感にかられながらクレイは思った。

 騒がしい通信機の向こうから、飛行不能だそうです、とか、ヒューベル博士と連絡が、などという声が聞こえてきた。

 カチリ、と音がしてエリスの声が帰ってきた。

「ミスラックス、ですか?フェルドランスと分離しても戦闘は可能ですか?」

「AIによる自律行動が可能です。武装はそちらからお借りした航空機銃を装着していて、充分すぎるほどに使えています。規格外ですが航空爆雷も持たせましょうか?」

「お待ち下さい」

 また、相談する声がした。保安局も大変だな、とクレイは思った。

 しばらくして、

「了解しました。航空爆雷もお願いします。ヒューベル博士の無事を確認したらすぐに街に来て下さい」

 そうエリスが応答した。クレイは安堵して、返答する。

「了解。すみません。非常時に勝手なこと言って・・・・あの、どうもありがとう、オペレーターのひと」

 オペレーターの女性は小声で、どういたしまして、と答え、それから、こう付け加えた。

「生きていてくださってありがとうございます」

 クレイはミスラックスに解離シグナルを送った。胸部コクピットの下にはりついていた無人支援機器が離れ、六本の機械脚で砂浜に着地した。昆虫型の豆戦車とでもいうべき形をしている。外づけされたガトリング式航空機銃と弾倉のせいで動きがいつもより少しぎこちない。

「頼むよ」

 クレイはミスラックスにアルケロン市の地形データを送った。それから攻撃命令、

 敵小型有機生命体を殲滅せよ。

 胸が悪くなりそうな嫌な言葉だ、とクレイは思った。ぼくは生物が好きだったはずなのに、何でこんな事をしているんだ。何でこんな事に?

 ミスラックスは黙ってそれを受け取った。すぐに青いランプが瞬き、発進準備完了、を告げた。

 クレイはその小さな機体を見つめていた。さっきの戦闘ではこいつに命を救われたのだ。なのにぼくはまた、こいつを戦場へ送り出そうとしている。

 やりきれない気がした。

 さっきの女性オペレーターの言葉は、今の自分と同じ気持ちから出たのだろう。彼女は、ぼくを死地に送り出した事にばつの悪さを感じていたのだ。でもぼくが生還したから、罪の意識から解放され、安堵したのだ。

 戦闘とはこういうものか。

 本来あるべき姿が、どうしようもなく強い作用のためにゆがんでいく、そんな気がした。

 ミスラックスが背部の翼を広げた。エンジンの出力が上がる音が響く。

 まるで、泣いているような音だ。

「行きたくなければ、行かなくてもいいんだぞ」クレイはつぶやいた。

「いや、でもだめだ、ごめん、行ってくれ———」

 ミスラックスはメインカメラをフェルドランスに向け、意味不明、というようにレンズを回転させた。

 そして、海岸の砂を淋しげに撒き散らして、ミスラックスは飛び立った。クレイはその姿を目で追っていた。ミスラックス、もともとは探査用の機体なのに。あの機体に感情があれば悲しむのではないか。まだ一度だって探査活動を行っていないのに、むりやり変な火器を付けられ、自分とは何の関係もない戦場へ送り出される。

 頼むから、クレイは思った。頼むから無事に戻ってきてくれ。そして一緒に探検をしよう。謎に満ちたこの島の奥地へぼくと一緒に行こう————。

 クレイは願った。しかし、何故か心の底ではわかっていた。

 ミスラックスは二度と帰って来ないだろうと。


「よし、これでいいはず」

 ペンクロフトは管制室に戻って、通信機のコネクターを接続し直した。

「クレイ、聞こえるか?」

「ペンクロフト!」

 通信機から、声がすぐに帰ってきた。

「無事なのか、敵がそっちに行ったと---」

「こっちは大丈夫だ、ひどい目にあったが・・・・」

「フェンネルさんなんですか」

 後ろからシィナが小声で尋ねた。

「クレイ。おまえにお客さんだ」

 ペンクロフトはヘッドセットをシィナに差し出した。彼女はおっかなびっくりでそれを受け取り、おずおずと口を開いた。

「・・・・あの」

 しばらく沈黙が流れた。かなりたってから訝しそうな返事があった。

「・・・・シィナさん、でしたっけ?」

「フェンネルさん・・・・」

 シィナの表情がぱっと明るくなった。

「フェンネルさん、よかった。無事だったんですね」

 彼女は天使のように晴れやかな顔をしていた。今朝知り合ったばかりなのに、まるで古くからの知己の無事を喜んでいるかのようだった。

 ペンクロフトは黙ってその姿を見ていた。

「———シィナさん。・・・・どうしてそんなところに?」

 当惑した声でクレイは尋ねた。

「あの写真のことで窺ったんです。お話ししたいことがあって」

「・・・・写真?」

 クレイは困惑しているようだった。あまりにも多くのことが一度に起こって記憶が混乱しているらしい。ややあって返答があった。

「・・・・ああ、あの写真ですか、思い出した」

「シィナさん、ちょっと」

 ペンクロフトが通信機を受け取り、表情を引き締めて、街はどうなった、と訊いた。

「今、ミスラックスが向かってる。そろそろ戦闘が始まるだろう。保安局の対空火器もあるし、大丈夫じゃないかな、多分」

「そうあってほしいな」

「ヒューベルさん、あれ!」

 突然、シィナの声が響いた。緊迫した声だった。ペンクロフトが振り返ると、シィナは窓の外を指さしていた。彼はシィナが指さす方向を見た。

 黒煙が上がっていた。街はずれの森の中からだった。ちょうどカプローナ森林地帯とメイオラニア丘陵の境界付近だ。

 何かが燃えている。

「ハンマーヘッドが何かを襲っているのか?あっちはちょうどキャンベル教授の家があるあたりじゃないか?」

 ペンクロフトが不安そうに呟いた。

「何だって?どうしたんだ」

「燃えてる。キャンベルさんの家の辺りなんだ」

 通信機が沈黙した。クレイも不安を抱いているようだ。

「・・・先生は今日は調査じゃないのか?」

「いや、調査は今日じゃない。それに外出禁止令がでてる。家にいるはずだ」

「そんな・・・」クレイの声は焦燥に震えていた。

「わかった。おれがいますぐ行く」


「ハンマーヘッドが2体、アルケロン市上空へ到達しました!」

 管制室の中でエリスが叫んだ。

 海岸での迎撃で少しは足止めできたものの、結局ノーチラス島の兵装では飛行生物の運動性に歯が立たなかったのだ。2匹のハンマーヘッドは海岸の防衛ラインを突破して、白壁の街に侵入した。石畳の道に奇怪な影を落としながら街の中心部に接近している。不気味な羽音が街中に響きわたっていた。

 ハンマーヘッドの一匹が飛びながら脚を広げた。とたんに脚についている針のような刺が爆発音と共に撃ち出された。釘を連打するような音と共に無数の針が切妻屋根に突き刺さる。次の瞬間、それは爆発した。屋根が吹き飛ばされ、瓦の破片が道に落ちて砕け散った。

「やはり、小型生物も火器を使えるのか」

 街を写しているモニターを見ながら、アッカー局長が忌々しげに呟いた。

「対空迎撃の用意は?」

「現在、狙撃担当の保安局員を配備しています」

 ケインが答えると同時に、街のどこかから爆発音が聞こえた。エリスは不安そうに彼を見上げた。

「多分効果はないでしょう」

 カハール博士が冷ややかに言った。

「奴等にとっては我々の1秒が10秒以上の長さに感じられるのです。しかもあの眼、両眼が遠く離れてる。天然の測距儀ですな。左右の目からの情報を基に立体的にものを見て、距離を正確につかむことができる。不意をつくか、よほどの近距離でないと撃墜は不可能です」

 局長がカハール博士に向き直った。悲痛な表情で。

「ではどうすればいいんだ。このままでは街は焼き尽くされてしまう。博士、なんとかならないんですか?もう敵を賞賛している余裕はありません。やらなければ、我々が滅ぼされるんです————博士!」

「そんなことを言われてもね」

 カハール博士はその無表情なマスク越しに、ケインを見た。

「あの迎撃機はもうダメなのですか?操縦士はまだ生きていますか?」

「クレイ・フェンネル操縦士は現在ハンマーヘッドを・・・」

「今、なんと?」

「は?」

「パイロットの名前です、なんと?」

「クレイ、クレイ・フェンネル観測技師ですが」

 それを聞いたカハール博士は無言で様々なセンサーが記録したハンマーヘッドのデータをじっと見つめた。その瞳はいつしか冷徹な光を湛えていた。何を思ったか、どうやら本気で未知の生物と対決する気になったらしかった。

 白衣の怪人科学者は小声で何事かをつぶやきながら、記録装置に付随しているコンピュータのキーを叩き始めた。 

 ハンマーヘッドが低空飛行、道の上のゴミ入れが吹っ飛んだ。路面に無数の針が突き刺さり、爆発。石の破片が飛び散る。一匹目のハンマーヘッドが攻撃を仕掛けると、もう一匹の奴も次々に針を飛ばし始めた。街の至る所で火の手が上がる。

「・・・・街が燃えてる」

 エリスが絶望的に呟いた。

 モニターに映し出されている白壁の家の屋根に、続けざまに針が突き刺さった。管制室の人々の眼前で、その家が爆発した。煙を突き抜けて、二匹のハンマーヘッドが出現。モニターにその頭部が一瞬、大写しになり、思わずエリスは顔を背けた。生物群は敵の城を攻略するかのように執拗に攻撃を続ける。そのうち、一匹のハンマーヘッドが公園にいたる道の上を高速飛行してきた。

 レーダー上の光点がだんだん近づいてくる。

「ハンマーヘッドが接近中。ここに来ます!」

 エリスが叫んだ。

「———そうか。わかった」

 冷ややかな声がした。管制室の一角から。生物の行動パターンを解析していたカハール博士だった。マスクをすっぽりかぶった異形の博士は、鋭い眼差しでコンピュータ上に表示されたデータを見つめている。

「奴等の行動を規定するのは・・・」

 ハンマーヘッドは接近してきた。真っ直ぐに、保安局へ。その無数の脚が開いて、まさに針を撃ち出そうとした時、突然、真っ赤な火線がハンマーヘッドの後方から飛んできた。一瞬早く察知したハンマーヘッドは身を翻して機関砲弾を回避した。

「迎撃機、接近中!」

 街を貫く大通りの彼方から飛行してくる黒い影を、管制室のモニターが映していた。猛禽のように飛来したミスラックスは続けざまに航空機銃を斉射。閃光が飛ぶ。ハンマーヘッドは空中で回避、反転してミスラックスに向けて針を撃ち出した。ミスラックスはバーニアを最大出力で噴射、上空に飛び上がった。針はミスラックスの下の路面に突き刺さって爆発した。炎をバックにして、ミスラックスは空中で機銃斉射、赤い射線が飛んだ。ハンマーヘッドは瞬間的に体をひねって回避、針を飛ばす。機銃音が轟いた。続けざまに爆発。飛んできた針をミスラックスは空中で全て撃ち落としていた。

「すごい・・・」

 エリスがつぶやいた。

 ミスラックスは着地、次の瞬間、航空機銃が咆哮した。ハンマーヘッドは横滑りして回避、針を撃ったが、その先には既にミスラックスの姿はない。右に移動した機体は機銃斉射、しかしハンマーヘッドは回転しながら機銃弾の間をすり抜けた。

 機械と生命とがその反応速度を最大限に発揮した死闘が展開していた。

「・・・・・でも、だめだ。攻撃は全てかわされている」

 ケインが絶望的に言った。

「いや。望みはある」

 カハール博士はコンピュータから出力したチャートをケインに手渡した。

「これと同じ波形パターンの電磁波を放出することができますか?」

「何ですか、これ」

「奴等の誘因シグナルです。奴等はお互い電波で交信しながら行動している。これは奴等が一カ所を集中攻撃するときに出した電波の波形です。すなわちこれは昆虫がもつ誘因フェロモンと同じ働きをすると考えられます。このシグナルを感知すれば奴等は近寄ってくるはずだ。そこを狙い撃ちすればいい」

「そんなことが・・・」

「いいから。できるんですか、できないんですか」

「・・・・ファンクションジェネレーターを使えば任意の波形をつくり出すことは可能です。発信するのは、あの機体ならできると思います、探査機ですから」

「では大至急お願いします」

 ケインは、司令官であるアッカー局長を見た。彼は訝しそうな顔をしながらも、頷いて見せた。ケインはカハール博士が提示した波形データをエリスの端末に転送した。

 カハール博士の自信に満ちた言葉に圧倒されて、エリスは半信半疑ながら、そのパターンの合成を始めた。

 その時、爆発音がして、保安局の建物が振動した。建物の前にあったカメラは、その瞳にハンマーヘッドとミスラックスの死闘を捉え、そして砕け散った。

 ざざっとしたノイズに変わったモニターの前で、アッカー局長が舌打ちする。

 エリスはキーボードを叩いていた。口元がかすかに震えている。恐怖が彼女の心を覆っていたが、唇を噛みしめて彼女は「誘因シグナル」を合成した。そして戦闘中のミスラックスへメッセージを送る。

『これより敵誘因シグナルを転送する。これを用い、敵を迎撃せよ』

 街中を飛び回りながら戦闘を続けるミスラックスからOKサインが返ってきた。エリスは、ある意味でとても残酷な仕打ちをした。

 クレイに引導を渡す指令を伝えてしまったという彼女の焦燥は彼の生還により帳消しになったけれど、彼女はここで小さな探査機に最後通牒を突きつけてしまったのだった。

 ミスラックスは反転して街の中央の公園へ向かった。石畳の路面に影を落としながら加速、菩提樹の並木をくぐって公園に突入し、時計塔の下、噴水の畔で着陸した。そして航空機銃を天に向かって構えた。

 しかし、航空機銃には既に残弾はなかった。ミスラックスのAIは一瞬考え、残された最後の手段を選択した。

 折りしも、時計塔から、時を告げる鐘が鳴った。

 それと同時に、ノーチラス島の空に、ミスラックスから誘導シグナルが放たれた。その電波をキャッチしたハンマーヘッドはぴくっと触角を振るわせ、一斉に公園の方へ向かった。街を攻撃していた2匹に森の方から現れた1匹が加わって、3つの羽音の不協和音が響きわたる。何かに誘われるように、3匹のハンマーヘッドは公園上空に集結し、吸い寄せられるように地上のミスラックスにしがみついた。

 そして、虫の塊の中心で、航空爆雷が作動した。

 爆発がおきた。天を揺るがすような大音響が響いた。島の全てのものがその音を聞いた。クレイも、ペンクロフトとシィナも、カハール博士も、管制室の人々も、街の人も、そして博物館のホールに佇んでいた黒衣の少年も。彼は一言、はじまったな、とつぶやいた。その音はノーチラス島全土に響きわたり、赤い光と共に天空に広がった。そう、それはまるで氷河をも震撼させた神々の角笛のように・・・・


 キャンベル博士の家に向かいながら、クレイはその音を聞き、最後に見たミスラックスの姿を思い出した。天空に消える小さな姿。

 一緒に探検をしよう。この島の奥地へぼくと一緒に————


 爆発の煙が流れ去った後、ハンマーヘッドの残骸が散らばる公園に、ミスラックスが鎮座していた。機能を停止した赤いセンサーが静かに空を写している。機関砲が天を仰いだままのミスラックスの亡骸の上で、噴水の滴がきらめいていた。

 爆風で何処かから飛ばされてきた白い花が、まるで献花のように、ミスラックスの傍らに落ちた。



 7-君は鳥をみてる


 クレイはキャンベル教授の家の前に呆然と佇んでいた。ハンマーヘッドに襲われた家は炎に包まれていた。木組みの家が弾けるような音をたてて燃えている。二階はほとんど焼け落ちていた。一階の窓からは火と煙が吹き出している。

「キャンベル先生!」

 大声で呼んでみた。しかし返事はない。

 クレイはフェルドランスで家の様子を探ろうとした。しかし機体は動かない。燃料切れを知らせるランプが点灯していた。彼は舌打ちして、フェルドランスを降りて家に駆け寄った。

 燃えさかる家の周りを回る。火の手が激しく、家を見る目がヒリヒリとした。家の裏手に来たとき、彼はキャンベル教授が地面に横たわっているのを見た。

「キャンベル先生!」

 駆け寄ったクレイは、思わず呻いた。教授は深手を負っていた。炎によるものではない。おそらく怪物の攻撃を受けた上で、二階から地面に落下したのだ。

 クレイは教授の首筋に指を当てた。脈は、ある。しかし出血が酷い。それに高所から落下したせいで骨折もしているようだ。クレイがフェルドランスに備え付けの救急キットを取りに戻ろうと立ち上がったとき、教授が擦れた声で呟いた。

「・・・クレイ君か」。

「先生!」クレイは蒼白になった教授に顔を寄せた。

「ぼくです、助けに来ました。もう大丈夫です」

「・・・コートニーが・・・」

 教授はゼイゼイと喘いだ、クレイは眉を寄せた。気胸の症状だ。肺に穴が開いているのだ。

「娘がまだ、中に・・・」

 教授はそれだけ言うと沈黙した。失血のため顔がさっきより青ざめている。言葉を発することができたのは奇跡だった。

 瀕死の教授が伝えた言葉を受け、クレイは手近な窓の所へ駆け寄り、口に手を当てて中を覗き込んだ。そこは居間だった。中は火の海だ。熱くて長時間は中を覗いていられない。しかし人はいないようだ。足早に次の窓へ移った。その部屋は比較的火勢が弱い。

「あ!」

 クレイは見た。人がいた。部屋の真ん中に倒れている。間違いない。それは、子供だった。小さな女の子だった。

 ———死んでる、のか?

 ガラス窓にはりつくようにして、クレイは中を凝視した。女の子の顔にはまだ生気がある。どうやら気絶しているようだった。

 今なら助かる!

 クレイは地面に倒れているキャンベル教授を一瞥した。すぐに処置をしなければならない。しかし、それをしていると炎の中の少女が助かる見込みはなかった。クレイは一瞬考え、さっきの教授の言葉を反芻した。教授は死の淵にあってなお、娘を助けるように彼に頼んだのだ。教授はまだ息がある。今は少女を助けるべきだ。

 クレイは窓を開けようとした。しかし出窓に手をかけた途端、昔見た映画を思い出した。密閉されて酸欠状態になっている所では窓を開けてはいけない。開ければ酸素が流入し部屋が火の海になってしまう。

「・・・入り口から」

 クレイはフェルドランスへ駆け戻って、操縦席に装備されている対火用備品を取り出した。簡易の防火服、防煙マスク、そして小型の消火器を大急ぎで装備しながら家の前に来て、炎をあげる玄関のドアを見た。空気がちりちりと熱い。地獄への入り口のようだ。彼は一瞬、ドアの前で躊躇した。

 もしかしたら、死ぬかもしれない

 死に方にもいろいろあるが、焼け死ぬのだけはごめんだった。しかし・・・

 今、ぼくが行かなければ、あの子は、死ぬ

 クレイは胸に手を当てて、心の隅に残っていたありったけの勇気をかき集めた。

「ぼくを守ってくれ」

 彼は誰に言うともなくつぶやき、大きく深呼吸をして、防火服のフードを頭から被ると、炎に包まれた家の中へ駆け込んだ。

 玄関に入ると熱風が吹き付けてきた。マスクがなければ、ほとんど息もできないだろう。瞬く間に眼から涙がでてきた。熱い。まるで炎の洞窟だ。地獄の入り口はもしかしたらこんな感じではないか。クレイは小型消火器を噴射した。これほどの火災ではこんな物は役に立たない。せいぜい、一瞬だけ炎が弱まるくらいだ。しかし今はそれで充分だった。消化器の白煙で火勢が衰えた隙に、クレイは炎の廊下を駆け抜けた。廊下の天井にも炎が走っていた。火の粉が降ってくる。彼は喘ぎながら廊下を走り、炎のカーテンを突き抜けて、女の子がいる部屋に突入した。入った途端、女の子の上に火のついた梁が落ちてくるのが見えた。

「あぶない!」

 クレイは疾走して、落ちてきた梁を蹴飛ばした。女の子の上で花火のように火の粉が散った。彼は跪いて少女の肩に手をかけて起きあがらせた。頭ががくっと後ろに倒れたが、呼吸は止まっていない。彼は少女を抱えると後ろを振り返った。来た道は既に火の海だ。もう戻れない。脱出口は窓しかなかった。彼は防火服をマントのように身に纏わせて、その下で少女をしっかりと抱えた。

「・・・爬虫類島(Reptilica)の神様。我等をお守り下さい・・・・」

 勝手に想像したこの島の守護神に咄嗟に祈りを捧げ、彼はドアのところまで後退し、勢いをつけて窓に向かって走った。窓の手前で跳躍。火の粉とガラスの破片をまき散らしながら彼は外に飛び出した。

 着地に失敗して無様に転がるクレイの後ろで家が崩れ始めた。二階から、がらがらと炎の中に埋まっていく。

「キャンベル先生!」

 クレイは気絶した少女をそこに横たえると、フェルドランスへ駆け戻り、緊急医療キットを取り出した。未知の領域を探査するための機体だけあって、非常時の装備は充実している。探査に事故はつきものだ。クレイも、その時のための医療研修は受けていた。彼はキャンベル教授のところへ走っていった。


 クレイが応急処置を始めて数分もしないうちに、回転翼機の音が近づいてきた。おそらくペンクロフトが救急隊を要請してくれたのだ。回転翼機が着陸するとすぐにクレイの周囲に救急隊の人々が駆けつけた。クレイはキャンベル教授の処置を彼らに任せ、救急キットを持って、教授がコートニーと呼んでいた少女のところに行った。

「うぅ・・・・」

 少女はうずくまったまま呻いていた。先程の着地のショックで意識を取り戻したらしい。クレイは少女の傷の手当てをするために彼女の傍らに座った。

 まだほんの12、3歳くらいだろうか。短く切った黒い髪がばらけて顔にかかっていた。煙の中を走ったのか、白い半袖のブラウスも茜色のスカートもうっすらと煤で汚れている。ブラウスから覗いている手にはいくつか擦り傷があった。

 少女は呻きながらゆっくりと半身を起こした。目のところに手を持っていって、まぶたの上から軽く目を押さえた。

「・・・いたい・・・目が・・・」

 小さな声で少女がつぶやいた。彼女は目をつぶったまま、周囲を伺うような仕草をした。すぐに、彼女の傍らに人がいることに気づいたらしい。

「おとうさん・・・・」

 少女は少し安心したような声で呟いた。クレイは死人のように青ざめた教授の顔を思い出し、何も答えられなかった。きりきりとした焦燥感が彼の心の中をかき回していく。彼は今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。

「おとうさん、虫が・・・」

 そして少女は目を開いた。二、三度ぱちぱちとまばたきをしてから頭を上に向けた。上を向いた少女の目と下を向いたクレイの目があった。

「・・・・・・」

 少女はしばらく不思議そうにクレイを見ていた。ガラス玉のような瞳だった。何が起こったのかわからないといった表情だ。クレイは何か言わなければと思った。しかし、相応しい言葉は何一つ出てこなかった。

 その時、回転翼機が飛び立つローター音が聞こえた。キャンベル教授を緊急搬送する機体が上昇していく。

 少女ははっとしたようにクレイから目をそらして家の方を見た。途端に瞳が赤く染まった。そこは火の海だった。彼女は目を見開いて、しばらくその光景を見つめていた。そして彼女は視線を家の傍の地面に向けた。そこはさっきまで彼女の父親が倒れていたところで、地面には人の形をした血の跡が残っていた。彼女は無言のまますっと上を向いた、彼女の青い瞳が飛び去っていく回転翼機を捉えた。

「おとうさん!」

 途端に少女は叫んで立ち上がった。そのまま回転翼機を追って駆け出す。クレイは咄嗟に少女を止めた。

「だめだ!行っちゃだめだ。街はまだ危ない!」

「おとうさん、おとうさん、いやあ!」

 少女は絶叫した。絶望にあふれた、耳を塞ぎたくなるような声で。

「おとうさんが!」

 少女は叫んだ。何度も叫んだ。そのたび、クレイの心にもナイフで刺されるような痛みが走った。その痛みをこらえながら、彼は少女を必死で引き留めていた。しかし、ついに少女はクレイの手を振りほどいて駆け出した。

「いけない!」

 クレイは叫んで全速力で少女を追いかけた。街に至る道に出たところで追いつき、腕を摑んで止める。少女はなおも手足をばたばたさせて暴れた。

「お願いだ、お願いだから暴れないで、ぼくの言うことを聞いてくれ!」

 クレイは半泣きのような声で叫んだ。

 ———お願いだから!

 その言葉が引き金になって、彼の脳裏に電撃のようにひとつの記憶が甦った。思い出したくなかった悲しみの記憶。クレイがまだ子供だった頃の記憶が。

 あれは15歳の夏。

 学校の授業が終わって、生徒たちはがやがやと教室を出て行くところだった。彼はその頃から人付き合いが得意ではなく、いささか変わり者だったせいかクラスに友達がいなかったので、一人で帰り仕度をしていた。鞄に本を詰めて教室を出ていこうとしたとき、

「フェンネル君」

 同じクラスのクリス・アルメールという女の子が彼を呼び止めた。クレイは訝しそうに彼女を振り返った。

「ぼくに用?」

 クリスは小走りに駆け寄ってきた。

「ねえ、フェンネル君てさ、帰る方向私とおんなじだよね?」

「・・・・そうだけど」

 クリスは胸の前で手をあわせて、お願いをするような仕草をした。

「よかったらさ、わたしと一緒に帰ってくれない?途中まででいいから」

 クレイは当惑した。

「帰る?君と一緒に?」

「そう。だめかなあ?」

「なぜ?」

「帰り道に変な人がいるのよ。一人だと怖くって」

 そういう訳か、とクレイは思った。

「・・・いいよ」

「ほんと!よかった。ありがとう!」

 そう言うとクリスはクレイの手をひっぱるようにして教室をでた。クレイはまんざらでもない気持ちで彼女についていった。

 クレイが当時住んでいたところはかなり田舎だったので、帰り道はほとんど人気のない森や湖のほとりの小道だった。ずいぶん前に廃線になった線路沿いの道を歩き、湖水の土手を通って森に入り、古びた道路標識があるところまで来ると、突然クリスは目を伏せて、足早にその森を通り抜けた。視界が開けたところで、クリスはふーっと息を吐き出して、言った。

「ね。気味悪いでしょう。あいつ、いつもあそこにいるのよ。そんでわたしが歩いてくのをじーっと見てんの。変質者かしらね。ほんと気持ち悪い」

 クレイは唖然としてクリスの話を聞いていた。

「でも、今日はフェンネル君がいたからそんなに怖くなかったわ。ありがとう。良かったらこれからもしばらく一緒に帰ってくれない?あいつがいなくなるまで」

「・・・いいよ」

 クリスを見送ったあと、クレイは今日の事について考えながら歩いていった。

 ぼくはからかわれているんだろうか?しかしそんな風にはみえなかったし・・・

 いろいろ考えたが、家につく少し前にひとつの結論に達した。

 そうだ。あの子はいつもこわいこわいと思っているからあんな事を言い出すんだ。そうにちがいない。

 なぜって?

 森の中に、彼女が言った「人」なんてどこにもいなかったのだから・・・・

 そして、次の日も、また次の日も帰宅時になるとクリスはやってきた。

「フェンネル君、帰ろうか・・・」

 ふたりはとりとめもない話をしながら歩いた。しかし森の中のあの場所に来ると、クリスはきまって無口になり、怯えたように目を伏せて通り過ぎるのだった。

「あいつ、何なのかしら?」

 あるときクリスが言った。

「きっと変質者だわ。そう、脳よ!!私の脳を狙っているのよ!」

「・・・・・・・・・・は?」

「脳なのよ。脳脊髄液をジュースのように吸うつもりだわ!!」

 クレイは目の前の少女の言葉に唖然とした。

「の、脳?」

「そうよ、それ以外に考えられないでしょう!」

「いや、むしろそれ以外の可能性がいくらでも考えられると思うが・・・・・」

「いいえ。脳を狙っているに決まっているわ。なんて卑劣な!」

 クリスの剣幕に、クレイは戸惑いながらも頷かざるを得なかった。

 それからしばらく経つうちに、クレイにはクリスの風変わりな性格がだんだんわかってきた。

 ある日の帰り道、クレイは横を歩くクリスに話しかけた。

「つまり、君は、脳が好きなんだ」

「そうよ」

 さも当然のように、クリスは答えた。

「あなたは脳が嫌いなの?」

 クレイは言葉に詰まった。

「いや、好きとか嫌いとか、考えたこともないよ」

「ふうん」

「でも、なぜ?なぜ脳なんだ?」

「De gustibus non disputandum.好きであることに理由は必要ないわ」

「すごい、ラテン語できるんだね、でもちょっと待ってくれ・・・・・それでいいのか?よりにもよってなぜ脳?」

 しかし、そうして話しているうちにも、森の中のいつもの場所に来ると、彼女は決まって目を伏せ、足早に歩き過ぎるのだった。

 しかしクレイにはそこに人影なんて見えなかったし、彼女が言う「呼び声」が聞こえることもなかった。彼はよっぽど、君は幻覚を見てるんだと言おうかと思ったが、あと少しのところでその言葉は出てこなかった。理由はふたつ。ひとつは心理学的にみて、盲信している人に真実を伝えることは良くないという話をきいたことがあったから。もうひとつは、もし彼女が真実を知ってしまったら、もう二度とあの声を聞くことはないだろうと思ったから。

 いっしょに、帰ろう・・・・

 それは友達のいない孤独な少年にとって悲しいほどに幸せな言葉だった。クリスは確かに風変わりな少女だったが、クレイは彼女の声を聞くと何故だか胸の中に甘酸っぱいものが広がるのを感じた。クレイはいつしか帰宅の時を心待ちにするようになった。

 ある日の帰り道、湖のほとりを歩きながらクリスが尋ねた。

「フェンネル君てさ、爬虫類が好きなんだって?」

 一瞬、ずきっと心が痛んだ。そのことでよく変人扱いされていたからだ。自分に友達がいないのはそのせいではないかと思うこともある。実際、ヘビやトカゲの話をしてうんざりされたことは何度もあった。クリスもそうなのか、と彼は思った。やがて嫌気がさしていなくなってしまうのか、という思いが彼の胸を駆け抜けた。

「———そうだよ」

「ふーん。かわってるね・・・」

 君に言われたくない、という心の叫びを、クレイは理性でなんとか押さえつけた。するとクリスは彼を見つめ、少しだけ微笑んだ。

「爬虫類の脳も確かに素敵だけどね」

「・・・・・そうなの・・・・・か?」

「ええ。ワニ終脳の長くのびた嗅索とか、かっこいいわ」

「脳のことは、よくわからないな」

「友達をつくろうとしないの、そのせいなの?」

 クレイの足が止まった。友達を作ろうとしない、他人からはそんな風に見えていたのか。そんなつもりはなかったのに。結局のところ、爬虫類云々は関係ないのだろう。自分には何かが欠けているから、人は離れていくのだ。

 彼はうつむいたまま夏草の揺れる湖の畔に立ち尽くしていた。

「どうしたの?」

 クリスが数歩先で立ち止まって尋ねた。

「脳の調子が悪いの?」

「何でだよ!違うよ!」

「じゃあ、どうしたの?」

「・・・知ってたんだ、君。ぼくに友達いないこと・・・・」

「うん。フェンネル君いつも一人だからね」

 靴先で地面をこすりながら、なんとなく申し訳なさそうにクリスが答えた。

 クレイはか細い声で言った。

「よく、わからない・・・友達をつくるとか、他人と上手くやっていくとか」

「そんなの、気にしなくていいよ!」

 クリスの声が夏の森に響いた。

「気にしなくていいんだよ。フェンネル君なら、その気になれば友達なんていくらでもできるよ。それに、きっと脳のことも好きになるよ!」

「いや、それはないと思う」

 クレイがそう答えると、クリスは黙った。しばらくしていきなりにっこり笑った。

「それじゃあさ、わたしがなってあげるよ」

「・・・・え?」

 クリスは駆け寄ってきてクレイの手をつかんだ。

「よろしくね。フェンネル君!」

 そして彼女は微笑んだ。

「今度一緒にミミズを解剖して脳を出そうね!!」

 いささか滑稽ではあったが、この出来事がクレイの心のなかでいつまでも輝き続ける思い出となった。

 二人は子供にしかできない不思議な友情の糸で結ばれた。

 そして、少年の夏の日は少し切ない空気を漂わせながら過ぎていった。

 しかし、クレイの気持ちとは裏腹に、クリスの幻覚はだんだんひどくなっていった。彼女が「あいつ」を見るのはつねにあの場所、あの古びた道路標識のところだった。もしかしたら彼女は本当に異次元への入り口を見ていたのかもしれない。ついに彼女は「あいつがわたしを手招きしている」と言い始めた。

 夏も終わりに近づいたある日、森をぬけたところで、クリスは突然クレイの腕にすがりついた。彼女の身体は異様なまでに震えていた。

「フェンネル君、わたし怖い。あいつはわたしを連れていくわ。あの森の中に。そして私の大脳新皮質の層構造をバウムクーヘンに見立てて食べる気だわ」

「いや、バウムクーヘン云々は絶対にないから安心しろ」

 クレイはクリスのあまりの恐がり方に困惑しながらも、彼女の肩に手をおいて励ますように言った。

「大丈夫。ぼくがいるよ。・・・それに、前にも言ったけどあそこに人なんていないんだよ。君が怖がってるから木とかが人のように見えるだけさ」

 しかしクリスは力無く首を振った。

「・・・・あいつはいるのよ。フェンネル君おねがい。わたしを放さないでね。わたしがあいつに連れていかれそうになったら助けに来てね・・・」

 その日の別れ際、家に続く道をよろよろと歩きながら、クリスは何度も何度も、分かれ道に立つクレイを振り返った。

 その夜、夏の終わりを告げる嵐が吹き荒れた。

 次の日、学校にいくとクリスはいなかった。

 クレイの背筋を冷たいものが走った。

 ———まさか!

 そのまま授業を放り出して、クレイは駆け出した。あの森へ向かって。

 よく二人で歩いた湖水の土手を駆け抜け、森へ入って、例の道路標識のところから彼は森の中へ駆け込んだ。

「クリス!」

 昨夜の雨で濡れた森の中を、クレイはたった一人の友達の名を呼びながら走り回った。いつしか涙声になっていた。

「クリス、どこにいるんだよ。何でいなくなるんだよ!」

 しかし、誰も答えるものはいなかった。蒼白になりながら、クレイはその日一日中、森の中を走り回った。何度も転び、木々の枝で傷だらけになりながら、暗い森の中を、友達の姿を探して駆け続けた。

 そしてとうとう、彼は森の奥深くで倒れている少女を発見した。

「クリス!!」

 クレイは駆け寄り、雨に塗れ、木の葉が無数に張り付いた友人を抱き起こした。

「しっかりしろ!!どうして、どうしてこんなところにいるんだよ!!」

 クリスはかすかに息をしていて、そしてうっすらを目を開いた。蒼白になったクリスの唇がかすかに動いた。

「フェンネル君、来てくれたんだ、わたし、信じてたよ、きっと来て・・・・・」

 そして、クリスはふっ、と小さく息を吐いて、瞳を閉じた。

「クリス!!」

 クレイは叫んだ。

「しっかりしろ、すぐに、すぐになんとかするから!」

 しかし、クレイが何度呼びかけても、彼女は目を開かなかった。

「クリス!返事をしてよクリス!」

 クレイはいつしか涙声になって、叫んだ。

「応えてくれ、こんな、こんなことで、ぼくの前からいなくならないでくれ、お願いだ!お願いだから!」

 ———お願いだから

 ———ぼくをおいて、いかないでくれ

 クレイはわめき続ける少女の前にたちはだかった。そして、なおも街の方に行こうとする少女を制止する。

「行かないでくれ!」

 もうたくさんだ。今度は、今度こそは助けてみせる。少女の絶叫が、炎がおこした乱風のなかを夏草のかけらとともに辺りに響きわたった。

 泣き声はしばらく続いていた。

 やがて少女の声も枯れ、断続的にかすれ声が聞こえるだけになった。少女は街が見える道に佇んでいた。青い瞳はうつろになり、もう何も映してはいないようにみえた。

 風が夏草を揺らした。

 どこからか鐘の音が聞こえてきた。

 クレイは少女の隣に立って街の方を見た。街の至る所で煙が上がっていたが、少し前の爆発で襲撃は収まったようだ。ここの煙を見たのか、消火隊の人々がやってくるのが遠くに見えた。

 少女は意識のない人形のように、夏草が揺れる道に立っていた。


 ペンクロフトの家では、彼とシィナが部屋の片づけを始めていた。ペンクロフトが瓦礫を片づけ、シィナがそのあとを掃除している。彼女が箒を振ると、ふわりと埃が舞い上がった。

「ざっとでいいからね」

 防塵用のマスクをつけたペンクロフトは大きな木の柱を抱えていた。それから辺りを見回して、おおきく溜息をついた。

「二階はもう住居としては使えそうにないから、小型機のポートにでもしようかな」

「いい考えですね。ご専門は飛行機なんですか?」

「まあね。多目的航空機とでもいうかな。潜水、地上走行も可能な探査機の開発をしてるんだよ」

「じゃあ、飛行機にはよく乗るんですか?」

「いや、操縦はもっぱらクレイがやってる」

「そうですか」

 シィナは興味深そうに頷いた。この人物は明らかにクレイに関心を抱いているようだ。

 先程からシィナの人形のように整った容姿に見とれていたペンクロフトにとっては、看過できない状況であった。

「あの人はどういう人なんですか?」

 シィナは尋ねた。ペンクロフトにとっては少し酷な質問とも知らずに。

「どうって、・・・・・テストパイロットだよ。ここに来る前は大学で生物学を専攻してたらしい。いまでも未練たらしくその頃の話をする」

「どうして生物学をやめてしまったんでしょうか?」

「さあね。憧れてる世界が自分の得意分野とは限らないしな」

 ペンクロフトはこれ以上、クレイがらみの話を続けたくはなかった。

「さっきの話だけど」彼は話題を変えた。

「君、例の写真のことで何か言おうとして来たんだろ?何か心当たりがあるの?」

「ああ、そのことですか」

 シィナは触れられたくない事を聴かれたかのように答えた。途端に表情が翳った。少しの間、言いにくそうに黙っていたが、やがて小声で言った。

「あの、たいへん申し訳ないのですが、その話はちょっと・・・・今は」

「どうして?」

 シィナの表情の変化に困惑しながら、ペンクロフトは尋ねた。

 シィナはうつむいて、ごめんなさい、と言った。なんとなく怯えたような口調だった。

 ペンクロフトの心に焦燥感が沸き上がってきた。

 じゃあ、クレイになら話せるのか、という言葉が喉まで出かかって、かろうじて止める。

 シィナはペンクロフトとは目をあわせずにいた。ペンクロフトの心に、暗い感情が少しだけ芽生えた。

「クレイと何か秘密の約束でもあるの?」

 シィナはペンクロフトに向き直った。懇願するように彼を見た。

「そんなものはありません。気を悪くしないで下さい。フェンネルさんなら、私の話を聞いても、私の敵にはならないでいてくれると思ったんです」

「敵?敵って何?穏やかじゃないな。おれが君の敵になるというのか」

 言ってしまってからペンクロフトは後悔した。シィナがとても悲しそうな顔をしたからだ。彼女は何故か泣きそうな声をしていた。

「ヒューベルさん。ごめんなさい。あなたが悪い人でないことはわかってます。私が悪いんです。全て私が。でも、お願いです。今は何も訊かないで下さい。あの写真に写ってた壁画、あれは私の懸念とは何の関係もないのかもしれません。でも、もしそうでなかったら・・・・。私は怖いんです。もしかしたら・・・・・・」

 その時、何かに急に思い当たったように、シィナの表情が変わった。

「もしかしたら・・・・」

 何を思ったのか、シィナの表情がみるみる恐怖に彩られた。

「今日の生物だって・・・・・」

 彼女は震える声でつぶやいた。しかし、彼女はしばらく俯いていた後、そんなはずはない、とつぶやいた。

「そんなこと、できるはずがないわ」

 苦痛をこらえるように言ったあと、シィナはペンクロフトに背を向けて少しうつむいた。

 ペンクロフトは困惑した。突然、沈黙してしまった少女は、何か深くて暗い異界の闇に沈んでしまったように思えた。

 何があったというんだ、どうして急に。この人にはいったいどんな秘密があるというのか?

 二人の間に沈黙が流れる。気まずい空気の中で、ペンクロフトはシィナの後ろ姿に語りかけた。

「どういうことになっても、おれは君を非難したりはしないよ。そんなに辛そうな顔をしないでくれ。なあ、あの壁画って、そんなに重要なものなのか?」

 ペンクロフトに背をむけたまま、シィナはつぶやくように言った。

「自分は何も言わないのに、ヒューベルさんからは聞き出そうとする私は卑怯者ですね。軽蔑してもらってかまいません。でも、私はどうしても聞かなければなりません。・・・・ヒューベルさん、あの怪物の絵はどこにあったんですか?」

 少しの沈黙の後、ペンクロフトは軽く溜息をついて答えた。

「難破船の壁に描かれていたんだ」

 難破船、という言葉を聞いた途端、シィナの顔に恐怖の色が浮かんだ。ペンクロフトは続けた。

「不思議な船でね。乗組員は一人もいなかったんだよ。その船は探査機で調べている間に沈んでしまったけど、なんとか航海日誌は回収した。それを読めば何かわかると思う。あの絵について、君が知りたがっていることが。もしかしたら君が秘密にしていることも。ただ、読むためには暗号化を解除する必要があるが。でもまあ、一週間もあれば大丈夫だろう。・・・・知りたい?航海日誌の内容」

 シィナは振り向いた。すがるようにペンクロフトを見つめた。

「ええ、知りたいです!教えてくれるんですか」

「いいけど。ただし、条件がある」

 ペンクロフトは探るようにシィナの瞳を見つめた。

「教えてくれ。君は一体何者なんだ?巷では魔法使いだとか何とか言われてるらしいけど、何でこんな所で博物館なんかやってるんだ?」

 彼女は怯えたように目をそらした。

「・・・・博物館を始めたのは父です。人工進化プロジェクトの経過を専門以外の人々にも伝える必要性を感じたんでしょうね。私はそれを受け継いでいるだけ。街の人が言ってるような魔法使いでも何でもありません」

「君の秘密は、その博物館に関することなのか?」

 シィナはしばらく沈黙していた。細い身体がかすかに震えていた。心の中で激しい葛藤が起きているようだったが、やがて、意を決したようにつぶやいた。

「ヒューベルさん。私は実は魔法使いなんです。これから魔法をひとつ、あなたに見せましょう。それと引き替えに、日誌の内容を私に教えて下さい」

 シィナはペンクロフトをじっと見つめた。

 ペンクロフトはシィナの瞳の奥に何か暗い闇のようなものを見た気がして、少し空恐ろしくなった。しかし、楽観的な彼の性格が、心の警笛を止めてしまった。かわりに、好奇心が頭をもたげてきた。

 ———いいさ。そのうち見えてくるだろう。真実が

「いいよ。取引に応じよう。じゃあ今から見せてくれよ。その、魔法とやらを」

 シィナは笑った。何故か泣きそうな笑顔だった。そして彼女はすっと近寄ってきて、手のひらでいきなりペンクロフトの目を覆った。

 次の瞬間、ペンクロフトは後頭部にちくりとした痛みを感じた。

 音が聞こえた。それは言語ではなかった。砂時計からこぼれ落ちる砂のような、抑揚はないけれど心地いい、頭に直接響いてくる音だった。

 途端に、ペンクロフトの身体から力が抜けて、セミの声のようなものが頭の中に響いた。

 シィナの手が離れた。いきなり目の前に美しい羽毛が見えた。鳥だ。七色の羽毛がきらめく美しい鳥が、彼の目の前から青い空へと舞い上がっていった。長い尾が可憐に揺れている。鳥は途中でくるりと一回転して、きらきら光る羽毛が舞い落ちてきた。羽毛がペンクロフトの頬にあたると、彼はその柔らかい感触をはっきりと感じることができた。鳥は上昇していき、彼はその美しさに我を忘れて見とれていた。

 すっと視界が遮られた。シィナが掌でペンクロフトの目を塞いだのだ。彼女は涼しげな声でペンクロフトの耳に囁いた。

「いかがでしたか?」

 シィナの手が離れたとき、もうそこには何もいなかった。ペンクロフトはしばらくさっきのめくるめく瞬間の余韻から抜け出せないでいた。呆然と佇んでいると、シィナがヒューベルさん、と言いながら彼の頬をぺしっとはたいた。その感触で彼はやっと現実に戻った。

「・・・シィナさん、今のは一体・・・・」

 シィナは微笑んだ。

「あなたが見たがってたものです。魔術という呼び名が許されるなら、そう呼んで下さい」

「・・・現実・・・ではない。幻覚・・・にしてはあまりに・・・・一体どうやって?」

「魔法は理屈が分からないから魔法なんです。原理が分かれば、科学になってしまう」

「そんなもんかね・・・・」

 釈然としない表情のペンクロフトを促すように、シィナは言った。

「私は見せましたからね。約束ですよ。航海日誌が解読できたら教えて下さい」

「・・・しょうがないな。何か騙されたような気がするけど・・・・まあいいか。解読でき次第教えてあげるよ」

「ありがとう。感謝します」

 シィナは少し微笑んで、そしてほんの少しだけ険しい表情をした。

「申し訳ありません」

 彼女は小声で呟いた。

「え、何?」

 シィナの声がうまく聞き取れなくて、ペンクロフトは聞き返した。シィナは何かを振り切るように少し頭を振り、そして、ふっ、と悪戯っぽく笑った。

「あなたはいい方ですね、と、言ったんですよヒューベルさん」

「ば、ばか。からかうな」 

 ペンクロフトは顔を赤くして足早に階段を下りていった。途中で足を踏み外して、二、三段落ちる音が聞こえた。シィナはあとについていった。階段を下り始める前にふと外を見ると、まさに太陽が水平線の彼方へ沈みゆこうとするところだった。彼女は黙ったままその夕日を見つめていた。


 夕日の中に、クレイと少女は佇んでいた。キャンベル教授の家の消火作業はほぼ完了しようとしていた。くすぶる瓦礫の間を消防隊の人々が忙しく動きまわる姿を見ながら、二人は何も言わずに立ち尽くしていた。

 やがて、意を決したようにクレイは少女のそばにかがみ込んで、彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。

「コートニー・キャンベルさん、だね。ぼくがこれから言うことをよく聞いてほしい。キャンベル先生は、君のおとうさんは、大怪我をした。さっき君が見たとおり、救急隊が病院に連れていった」

 少女は意識をなくしたかのような虚ろな瞳でクレイを見返していた。彼の言葉も耳に入っていないように見えた。ただ、一筋の涙が充血したその目から流れ落ちた。その涙をクレイは悲しそうに見ていた。

「でも、きっと大丈夫だ。よくなるよ。大丈夫だ。街が安全になったら会いに行こう。面会はまだできないかもしれないけど」クレイは続けた。

「先生がよくなるまでは、ぼくが力になるよ。約束する。だから・・・・」

 夕暮れ時の、奇跡のように優しい光が辺りを包んでいた。草原には魔法のような幻想的な雰囲気が漂い、夕日が少女の顔を赤く染めていた。

「だから、泣かなくてもいい。今日はとりあえずぼくと一緒にいこう。寝泊まりできる場所を用意するから」

 クレイは少女の瞳を見つめた。青い瞳は何等の感情も表していなかった。彼女はかすかに頷いたように見えたが、錯覚だったかもしれない。

 クレイは立ち上がった。そして少女に自分の名前を言って、手を差し出した。少女はそれを握ろうとはしなかったけれど、彼が歩き出すと機械のような足取りでついてきた。夕日の中、道の上に大きな影と小さな影がならんで揺れた。家路をゆくあいだ、クレイが話しかけても少女は何も答えなかった。

 やがて、家に近い崖の上まで来たとき、二人の頭の上を鳥の群が飛んでいった。斜めの編隊を組んで、草原の上を森の方へ飛び去っていく。

 少女は立ち止まって、飛びゆく鳥を見た。瞳に翼のはためきが映った。彼女の瞳に哀しみの色を残して、鳥は飛び去っていった。鳥たちが森のむこうに消えたあとも、彼女はずっと空を見上げていた。


「非常警戒体制を解除します」

 管制室でエリスが言った。それまで瞬いていた計器のいくつかが沈黙し、今回の被害状況の算出処理が始まる。

「今回は、何とか助かったな。幸いにして森林の調査隊にも死者はなかった」

 アッカー局長がつぶやいた。

「そう、今回はね。しかし、これで終わりとは思わない方がいい」

 カハール博士が怪生物のデータを見ながら、マスク越しの嗄れ声で言った。

「今度また奴等が来たときのために、対策を練っておくべきでしょうな」

「君は来ると思っているのか?また」

「奴等は真っ直ぐにこの島を目指してやってきた。この島に奴等を呼び寄せる何らかの理由があると考えるのが妥当でしょう」

「なにか心当たりがあるのか?」

 カハール博士は暫く考えてから、

「見当もつきませんな」と言った。

「しかし」と博士は続ける。

「ご存知ですかな、局長?この島の名前にもなってる、『ノーチラス』というものが如何なるものか」

「さあ、わからないな」

「Nautilusはオウムガイという生命体につけられた学名です。こいつはタコやイカに近縁な頭足類なんだが、殻を持ってましてね。それに乗るような感じで水中をゆらゆらと漂うのです」

「海を、漂う・・・・」

「どうですか。似てると思いませんか、この島に」

「アナロジーとしてはね。でも現実のこの島はイカじゃない」

「そのとおり。でもこの島はどう考えても普通じゃないですからな。ほら、昔話によくあるでしょう。船乗りが海の真ん中で陸地を見つけて喜んで上陸したら、それは巨大な鯨の背中だった。鯨は海に潜って、上にいた人々はみんな溺れてしまう・・・・・この島も、いつか街の人もろとも海に沈むんじゃないか、私はそう思うことがあるんですよ、時々ね」

 局長は小さく首を振って溜息をついた。

「そうならないことを祈るよ」


 ペンクロフトの家のドアが開いて、宵闇が迫る家の外にシィナが出てきた。

「それじゃ、ヒューベルさん。さよなら。おやすみなさい」

 ペンクロフトはドアのところまで出てきた。

「ちょっと待って。送るよ」

「いえ、いいんです。慣れた道ですから」

 シィナは小鳥のように、玄関から石畳の道まで駆けていった。

「そう?じゃあ気をつけて。・・・・大変な一日だったね」

 シィナは少し不安そうな顔でふりかえった。

「そうですね。フェンネルさん、戻ってきませんでしたね。何かあったんでしょうか?」

「キャンベルさん、大丈夫だったのかな」

 ペンクロフトはクレイの家の方を見た。湖の中に島のように建つ家の窓には小さく明かりが点っていた。湖に映ってゆらめいている。

「あれ、明かりがついてる。あいつめ、戻ってたのか。何でここに立ち寄らなかったんだろう。・・・・でも、戻ってるってことは、とりあえずは無事だって事だな」

 シィナは、釈然としないような表情で、クレイの家の無機質な明かりを見つめていた。何か大変な事が起きたのではないかという疑惑がその瞳に浮かんでいた。

「・・・本当に大丈夫でしょうか・・・」

 そのとき、ペンクロフトが訝しそうな表情になった。

「あれ、おかしいな。二階にも灯りがついている。別棟になってるはずなのに」

「別棟?」

「ああ、あそこは複数のグループが滞在できるように作られているからね。一階と二階は独立しているのさ。二階は誰も使ってないんだが」

 ペンクロフトの言葉に、シィナは少し不安そうな顔をした。

「ちょっと、今から行ってみませんか?」

 シィナがそう言った途端に、二階の灯りが消えた。それからすぐに、一階の灯りも消え、家の輪郭は、すっかり暗くなった夜の闇にかき消えた。

「奴も疲れ切ってたんだろ。早く帰って休みたかったんだよ。心配するほどのことはないさ」

 ペンクロフトは持ち前の楽観主義で判断して言った。

「そうだと、いいのですが・・・・」

 シィナは何となく後ろ髪を引かれるような様子で、しばらくそこに佇み、クレイの家の方を見ていたが、やがて「さよなら」と言って立ち去った。


 明かりの消えた家の一階で、クレイは書斎の机に座り、肘をついて手の上に顎を乗せて、窓から暗い湖を見つめていた。重く沈んだ鉛のような水面。彼方に黒く森の輪郭が見える。彼の頭に、昨日からこの島を舞台に起こった出来事が走馬燈のように浮かんできた。

 飛行実験、幽霊船、壁画の怪物、怪生物の襲撃、そして———

 コートニーという小さな少女。幸い、二階には一通りのものが揃っている。それほど不自由ではないはずだ。さっき飲み物と夕飯を持っていったが、口をつけてくれただろうか。二階の外階段に出てドアを閉じたとき、少女は彼に背を向けたまま部屋の灯りの下に立ち尽くしていた。

 一体何が始まったんだ。この島で・・・・

 暗い部屋の中で、クレイはこれからの事を考えようとした。しかし、考えがうまくまとまらず、思考は徒に空回りするばかりだった。

「・・・・わからない、ぼくにはわからないよ」

 彼は窓ガラスの向こうの真っ黒な世界を見た。時折、ケローニア岬の灯台の明かりがちかちかと瞬いた。まるで蛍のようだった。

 ホタルの光、きれいね。脳はどうなってるのかしら

 記憶の奥から風変わりな少女の声が聞こえた。

 そういえば、昔はよく川に採りに行ったな。脳を出すとか言って

 あの頃は幸せだった。クリス・・・・

 クリス・アルメール・・・・・

 脳好きの少女の声。常識はずれの言動、そのひとつひとつが、今になってとても心にしみてくる。

 あの事件の後、クリスは病院に急送されたが、それ以来、彼女の姿を見ることはなかった。噂で聞いた話によれば、彼女は小さい頃から感受性が人一倍強く、ささいなことでノイローゼ気味になっていたという。病院の死亡診断書には、彼女自身が作り出した強迫観念による精神衰弱が奇行の原因ではないかと書かれていたらしい。夜の森を一人で逃げ回ったことによる精神的な疲労が直接の死因ではないかと————。


 あれから、クレイは毎日、人気のなくなった教室や二人でよく遊んだ湖の畔で、彼女が来るのを、彼女の声が聞こえるのを待ち続けた。

 いっしょにかえろう

 しかし、彼の周りからその懐かしい言葉は消え去ってしまった。

 いつまで待っても、彼女は帰ってこなかった。

 やがて、彼女の家族がその町を離れ、クレイのたった一人の友達の家は空き家となった。やがて彼もその町を去り、彼女の面影もしだいに薄れていった。しかしあの時、彼は知った。世の中にはいかに大粒の涙を流そうと、声を限りに叫ぼうと、地面にはいつくばって祈ろうとも決して報われない、どうしようもないことが、たしかに存在することを。

 灯台の明かりが瞬いた。

 クレイはひとつ、溜息をついた。

 ノーチラス島は宵闇の中を進んでいく。


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