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ノーチラスノート  作者: 蓬莱 葵
10/10

第10部

 

 21-いつか、想い出すなら


 彼は夢を見ていた。

 草原が広がっている。ノーチラス島だ。ぼくの家があるあの懐かしい草原だ。

 草原の中で、コートニーが踊っている。

 ぼくはそれを見つめている。海に面した格納庫ではペンクロフトが口笛を吹きながらフェルドランスの整備をしている。

 ぼくは振り返る。シィナの優しい眼差しがぼくを見つめている———

 いつか想い出すならこんな情景がいい。

 草原の中でコートニーが踊っている。小鳥のように軽やかに舞っている。

 水平線が輝き、緑の森が風に揺れる。風の跡を残して草原が揺れる

 いつか想い出すなら、こんな情景がいい・・・・・

 場面が変わった。海の上をフェルドランスが漂っていた。開け放しにしたハッチの縁に、クレイは手をもたせかけて、茫洋とした水平線を見つめていた。水面上に出た右腕の上にはシィナが腰掛け、海に手のひらを浸して小さく微笑んでいる。左腕にはペンクロフトが立っていて、手を額に当てて水平線を見渡していた。コートニーは翼の付け根の所に座って、雲の流れる青い空を見上げていた。

「何も見えないぞ」ペンクロフトが言った。

「本当にこの方角でいいんだろうな」

「おまえがつくったこの機体のコンパスが正しければね」

 クレイは苦笑しながら答えた。

「何も見えないね」コートニーがつぶやいた。

「大丈夫ですよ。何とかなりますよ」シィナが振り向いた。

「目的地は遠いんだな」

 クレイは溜息をついた。

 視線の彼方で魚が跳ねた。あれはバショウカジキだ。一目見ればそれくらい簡単にわかる———

 再び、景色が変わった。今度は彼一人だった。見知らぬ森の中を彼は歩いていた。ここはかつて彼が宝捜しに来た島だった。最後まで残っていた謎は今、コトコトと懐かしい音をたてて、記録映画を再生するかのように彼の脳裏を流れ出した。

 西暦2057年、7月———

 クレイは地図を調べた。×印がついたところはこの先だ。歩いていくと森が開け、小さな集落が見えた。石造りの家が並んでいる不気味な集落だった。まるで幽霊屋敷のように見える家々の間を縫ってクレイは進んだ。

 ×印がついたところは、井戸だった。

 クレイは漆黒の闇を覗き込んだ。なぜかそこから目が離せなかった。じっと見ていると、何かが見えてくるような気がした。彼は目を凝らした。すると、井戸の奥に、かすかな光が見えた。彼はもっとよく見ようとして、井戸の中へ身を乗り出した。

 ———その時、井戸の奥から絶叫が響いた!

 クレイの体を恐怖が駆け抜け、次の瞬間、バランスを崩して彼は暗闇の中へ落ちていった。

 漆黒の闇の中をクレイは落下した。耳の奥に奇怪な音が響き渡り、闇がちかちかと瞬いて見えた。

「ぐわ!」

 いきなり、クレイは頭から地面にたたきつけられた。

 激痛がした。クレイは呻きながら身を起こした。額からだらだらと血が流れ落ちていた。体中に蜘蛛の巣がこびり付き、服はあちこち破れて惨憺たる状態になっていた。

 クレイは呻きながら目を開いた。そして彼は気づいた。

 おかしい。

 井戸に落ちたはずなのに、明るい光が彼を包んでいた。クレイは上を見上げた。頭上には岩に埋もれた六角形の窓がいくつも空いていて、そこから曇り空が見えていた。

 なんだ、ここは———

 クレイは戦きながら頭を回した。その瞬間、信じられないものが目に入って彼の呼吸が止まった。

 クレイのそばに、白い服を着た少女がいた。目の覚めるような美しい少女だった。亜麻色の長い髪と、吸い込まれそうな鳶色の瞳がクレイの目に焼き付いた。しかし、その瞳は不安と恐怖のために見開かれて、口元は焦燥のために震えていた。


「———君だったんだな」

 情景が変わった。波間を漂うフェルドランスの上で、クレイは横にいるシィナに微笑みかけた。

「え、何がですか?」

「君は覚えていないのかい?君が父親を亡くした日に出会った少年のこと」

「ああ、あの人ですか———」

 シィナは水平線を見つめた。

「わたし、ずっと幽霊を見たんだと思ってました。いきなり空中から現れたし、血まみれで・・・・・・あれはあなただったんですか」

 クレイは気づいた。おそらくこの島には地球へ通じる道がいくつもあるのだろう。まるで虫食い穴のように無数のカリビアントンネルが地球とノーチラス島とを結んでいるのだろう。あの日、ぼくは偶然そんな所にいったのだ。そういえばあの辺り一帯は昔から奇妙な噂が囁かれるところだった。昔の友人も森の中で異形の人影を見たと言ってたし。そんなところに穴はあいているのかもしれない。あの時ぼくは15歳。ノーチラス島で暮らしていたシィナは7歳か8歳だったはずだ。そう、ぼくが宝探しに行ったあの日が、彼女にとっては運命の日、マンディブラスに父親を殺された日だったんだ。

「でも、どうしてあなたはやって来たの?」

 シィナが尋ねた。

「さあ、君がぼくを呼んだのかな」

 クレイはつぶやいた。恐らく、実験装置であるこの島は、自らが行った複製実験の結果を照らし合わせようとしたのだ。過去に複製し、片方は地球に飛ばし、片方は此処に残した。それらがその後どのように変わったのかを、比較して確かめようとしたのだ。ぼくとシィナが虫食い穴の近くにいたちょうどあのとき、この島の魔法が働き、二人は遭遇した———


 クレイは少女を見つめていた。どうしても、その姿から目が離せなかった。少女の目からは涙が流れていた。亜麻色の髪は乱れ、白い服には血痕が点々と付着していた。その姿はあまりにも奇怪に、そして恐ろしく思えた。しかし、ジズソーパズルの最後のピースがぴったりとはまった瞬間のように、彼の心はその鳶色の瞳に捕らわれていた。

「きみは、だれだ・・・・・」

 少女は答えなかった。恐れと不安の入り交じった眼差しでクレイを見つめていた。

 しばらく、静かな時が過ぎた。何も聞こえず、誰も来なかった。

「さっきの悲鳴は、君なのか」

 少女は無表情な眼差しでクレイを見つめていた。

「何があったんだ?」

 クレイは尋ねた。少女は何も言わなかった。

 クレイは黙って少女を見つめていた。何か重大な、そして恐ろしい出来事があったらしいことだけはわかった。

 その時、クレイの視界の隅に、血まみれになった人間がうつ伏せに倒れている姿が映った。

 その時の彼は気づかなかったが、それは、彼自身の父親であった。

 クレイはその恐ろしい光景に言葉を失った。絶句したまま、死体の傍らに悲しげに佇む少女を見つめていた。

 長い沈黙の後、少女の口から呟きが漏れた。

「ころして」

 その言葉はクレイの心にざくっ、と突き刺さった。

「こ、ころす?ひ、ひとを?」

「あいつを、殺して」

 その時、クレイは彼女の傍らにある池のような所に何かがいるのに気づいた。それはまさに悪魔的な何かで、水中からじっとクレイを見ていた。そして、すーっと水の奧底に消えていった。あいつ、とはあれだ、とクレイは直感的に思った。

「殺して」

 少女がまた言った。ああ、これはいけない、クレイは思った。

 この子の願いを拒絶することができない。まるで自分自身の魂に呼びかけられているようだ。これは、これは、呪いだ。強力な呪いだ。この子は、この美しい少女は、魔女、本物の魔女だ。

 その時、クレイは異変を感じた。さっき、井戸に落ちたときと同じ感じだった。耳鳴りがして、彼は直感的に気づいた。

 きっとこの現象は一時的なものなんだ。さっきと同じ力が、ぼくを元の場所に戻そうとしている。

 その瞬間、不思議な風が吹いて、彼の回りで草切れが散った。彼はよろめき、その瞬間、足下に咲いていた白い花が散った。花は風の中を舞って、少女のそばに落ちた。

 少女はその花を見つめていた。そして何を思ったか、小さな手で拾い上げて、すっとクレイに差し出した。

 少女はクレイをじっと見つめていた。

 その眼差しで、クレイの心は一杯になった。このとき、彼は他ならぬ自分自身から願われ、呪われたのだ。彼は耳鳴りに耐えながら、少女に手を差し出した。

「教えて、ここはどこなんだ。君は———」

 白い花を受け取った瞬間、クレイの体は持ち上げられ、再び奇怪な渦に巻き込まれた。異様な感覚に襲われながらも、彼の耳には少女の言葉が鳴り響いていた。

「ここはノーチラス島よ」

 ノーチラス島、ぼくは必ず行くよ。あの謎の島へ。そして約束の通り、君の願いを叶える、ぼくは世界でたった一人の、君だけの騎士だ———

 その時かすかに声が聞こえた。少女の最後の言葉。幻聴だったのかもしれないけれど、それはこんなふうに聞こえた。

 さよなら、幽霊さん


 クレイは砂浜の上で、ぼんやりと空を眺めていた。漂流者のようにぼろぼろの姿で。空には星、輝く銀河系・・・

 彼は砂の上で溜息をついた。

「・・・・ぼくは何故こんな所にいるんだろう?何故こんな・・・・」

 その時彼は気づいた。いつの間にか、胸のポケットに白い花がさしてあった。それは小さな、可憐な花だった。

 何か大切なことが、絶対に忘れてはならないことがあったはずだ。彼はじっとその花を見つめて、失われた記憶を必死で取り戻そうとしていた。

 そして、11年の時が流れた。

 クレイはゆっくりと目を開いた。白い天井が見えた。

 彼の近くで、ひそひそと囁く声がしていた。

「どうなんだ」

「何とか持ちこたえたそうです」

「君のおかげだよ。君が輸血してくれなかったら」

「いえ、こんな私で役に立つなら・・・・・それよりあの子、どうなんですか」

「医者は奇跡だって言ってた。あの高さから落ちて助かるなんてね。おれも信じられないよ」

「・・・・・あの子、死のうとしたんですか」

「ああ、クレイが運ばれていった後、崖から身を投げたらしい。助かったなんて、全く信じられないよ・・・・・でもそのことで、不思議な噂があるんだ」

「何ですか」

「彼女を病院に運んできたのは、黒い服を着た少年だったらしい。彼があの子を応急処置したらしいんだけど、致命的な傷が全て適切に処置されてたそうだ。一体どうやったんだろうね。不思議なんだ」

「・・・・・・そうですか」

 そして、クレイは再び眠りに落ちた。再び夢の世界へ———

「島、見えないよ」コートニーがつぶやいた。

「フェンネルさんがいるんだもの。何とかなりますよ」

 シィナがクレイに微笑みかけた。クレイは傍らに座る彼女を見た。

「ごめんよ。ぼくは君との約束をすっかり忘れていた」

「でもあなたはやって来て、約束通り私を助けてくれたわ」

「君もぼくを助けてくれたんだね」

「輸血のことですか?セルフサービスですよ」

 シィナが少し淋しそうに微笑んだ。

「コートニー」クレイは振り向いた。

「自殺しようなんてバカなこと考えちゃダメじゃないか」

「違うよ、クレイが死んじゃったと思って」

 コートニーはそっぽを向いた。

「外に飛び出したら、家の前の崖が崩れてたの。それからのことはよく憶えてない」

「うーん、もしかしておれのせいかな」ペンクロフトが口を挟んだ。

「そうだ、おまえが悪いんだ」クレイは微笑んで言った。

「いやすまんすまん、思わず気絶しちまったんだよ」

「ヒューベル博士、ひどいよ」

 コートニーが口を尖らせた。シィナはくすくす笑っていた。

 青い海の上を、フェルドランスはゆらゆらと漂流していった。

 クレイはゆっくりと目を開いた。病室は薄暗かった。消灯時間を過ぎているらしく、明かりはともっていない。替わりに、星明かりが窓から差し込んでいた。

 彼は頭を回した。頭を動かしただけで、体の至る所が痛んだ。

 彼のベッドの横にはもうひとつベッドが並んでいて、その上にも誰かが横たわっていた。シーツの膨らみ具合から見ると、どうやら子供のようだった。クレイは視線を走らせた。ベッドの頭側へ。

「くれい・・・・」

 かすれたような声がした。彼の隣に横たわっていたのはコートニーだった。白く包帯を巻かれた顔が、じっと彼を見つめていた。

 コートニー、そう彼は言おうとしたが、息が漏れるだけで声は出なかった。きりきりと胸も痛んだ。

「くれい、・・・・・ごめんね」

 なにいってるんだ、君がぼくを助けたんじゃないか

 クレイの口はそう動いた。でも多分、コートニーには伝わらなかっただろう。

「・・・・ごめんね」

 かすれた声で囁くようにコートニーは言った。

 泣くなよ、コートニー

 クレイはゆっくりと、シーツから手を出した。体中が痛んだけれど、彼は歯を食いしばって、コートニーの方へ手を伸ばした。コートニーは二、三度瞬き、同じように苦痛に顔を歪めながら、クレイの方へ手を差し出した。

 ゆっくりと、時間をかけて二人の手が伸びた。お互いの方に。

 クレイの広げた掌の向こうに、コートニーの小さな掌が見えた。彼は手を伸ばした。一杯まで伸ばしたけれど、しかし、手は届かなかった。

 クレイは少し笑って手を引っ込めた。コートニーは彼を見つめていた。クレイはそんな彼女の顔を見ながら、ぼくが知り合う女性は何故、こんなに悲しい人ばかりなんだろう、と思った。

 おやすみ

 今度は彼女に伝わったようだった。

「おやすみ。いい夢を見てね、クレイ」

 コートニーは青い闇の中で微笑んだ。


 かくして、ノーチラス島を襲った異変は幕を閉じた。クレイは重傷を負ったけれど、何とか一命はとりとめた。コートニーも助かった。街はほとんど破壊され、見る影もなくなってしまったけれど、フェルドランスのおかげで被害者は最小限に押さえられたようだった。夜が明けると、街の上には巨大な生物の死骸が横たわっていて、その横にはまるで寄り添うように特殊探査機の残骸が落ちていた。まるで神話の一場面のようだったと、それを見た人々は語っている。

 入院中に、クレイはペンクロフトから面白い話を聞いた。彼を救ったハンマーヘッド、モゲラはいつの間にか水中生活に適応し、今ではクレイの家がある湖に生息しているという。クレイはそれを聞いて笑った。それはいい。あそこなら人目にもつかないし。コートニーも喜ぶだろう。家の下に奇怪な巨大生物がいるという状況もなかなかいいじゃないか。

 そしてある日、意外な人物が見舞いにやってきた。クレイの病室に入ってきたカハール博士は、彼の目の前でマスクを外し、にっこりと笑った。

「元気かい?久しぶり。脳は無事みたいだね。フェンネル君」

 それが、彼の子供時代の友人だった、クリスとの再会だった。

 唖然とするクレイの前で、クリスは子供時代によくそうしていたように、悪戯っぽく笑った。

「さよならも言わずに別れちゃって、すまなかったよ。実はあの頃、うちの両親は私の頭がおかしいと思っていたらしいんだ。失礼な話だよ。それで両親は私を死んだことにして他所に引っ越したのさ。私はその後、精神鑑定を受けたり変な病院に入院させられたり、大変だった。ようやく疑いが晴れた頃は、もう何年も経っていて、あの町に君はもういなかった。こうして生物学者になって、この島に来て、また君に会えたときは、嬉しかったよ」

 クレイは理解した。この島で初めて会ったとき、カハール博士が彼のことを凝視していた理由、そしてチューリップ事件の時、この無愛想な博士が柄にもなく暖かい言葉をかけてくれた理由を。

 そして、クリスは「女性研究者はこの島ではいろいろ制約が多くてね」と言ってまたマスクを嵌めた。

「私が女性ってことは秘密にしておいてくれよ。それと、これからまた島の探査が始まる。変な怪物が出現したら脳を採るから、手伝ってくれ」

 そう一方的に言い放ち、クリスは退室した。

 シィナはよくやってきて、入院中の面倒を色々看てくれた。アーベルのことも彼女から聞いた。しかし、クレイはアーベルが敵だとはどうしても思えなかった。クレイはあるときシィナに、幽霊を見たことがありますか、と尋ねた。シィナは、幻覚の中に出てきた幽霊はとても優しそうな人でした、と答えた。クレイはそれ以上、彼女には何も聞かなかった。

 島はいつも通り巡り続けた。秋が過ぎ、冬が来た。しかしこの島の冬は短い。たちまちのうちに春が来て、島には新たな緑が芽吹き始めた。海岸のヤシの木も元気を取り戻した。

 そしてそんな頃、クレイとコートニーは退院した。

 クレイの胸にはまだ包帯が巻かれ、コートニーは松葉杖をついていたけれど、二人の表情は明るかった。二人は時折よろめきながらも、道を歩いていった。石畳の道には陽光が溢れ、春の陽射しを敷石が跳ね返していた。遠くから復旧の続く街の音が聞こえてくる。

 クレイは少し後ろをついてくるコートニーを振り返った。彼女は松葉杖を扱いながらも彼を上目遣いに見て、嬉しそうに微笑んだ。

「ぼろぼろだね、君」

「クレイだって、そうだよ」

「うちまであとどれくらいだろう?」

「一時間くらいかな」

「長い道のりだ」

「元気だしてよ。着いたらコーヒー煎れてあげるから」

「君は怪我人だろ。いいよ、ぼくがやるから」

「クレイが煎れるとまずいから、だめ」

 二人の横に海が見えた。怪事件を運んできた海は、今は静かにさざ波をたてて揺らめいていた。

 クレイは立ち止まり、眩しそうに水平線を見つめた。


 一ヶ月後———

 アーベルは草原を歩いていた。色とりどりの花が咲く中を、彼はいつもの黒い外套を羽織って一人静かに歩んでいく。まるで哲学者の様な風貌だった。

 彼はふと、足を止めた。そして前を見た。風にさざめく草原の中に、クレイが立っていた。彼はアーベルを一瞥し、無表情に語りかけた。

「やあ、久しぶりだね、アーベル君」

「ああ、君か」

 アーベルはつぶやいた。

「・・・・・ぼくの正体についてはもう聞いたのか」

「ああ。シィナさんからね」

 二人は十メートルほどの距離をおいて対峙していた。

 二人ともしばらく黙っていた。春の風が過ぎていった。アーベルの外套がはためく。ノーチラス島の魔術師は何故だか淋しそうな表情をした。

「何故かな。君とは戦いたくないんだよ。フェンネル君」

 クレイは微笑した。

「ぼくだってそうだ」

「ぼくを殺さなくてもいいのか、君は憎しみを持つだろ、人間だから。あの時、フェルドランスを破壊したのはぼくなんだ」

「知ってるよ。でも、君に対しては不思議とその感情は起きない。・・・・・・何となく、君は君で激しく葛藤してたんじゃないかと、そんな気がしてる・・・・・いいじゃないか。お互い傷ついたし・・・・・・」

 クレイは少し間を置いて、続けた。

「確かに、ぼくたちは全く異なる存在だ。しかし、ぼくたちは共にこの島の乗り人(ノーチラスノート)という点では共通してる。それだけでも、争うことを止める理由にはなるだろう」

 嘲笑しているのか困惑しているのか分からない不思議な笑みが、アーベルの顔に浮かんだ。

「君は変わった奴だな。人間にしては」

「それはどうも」

「これからどうするつもりだ?」

「フェルドランスの二号機がそろそろ完成するから、それで島の調査を進めることになるだろうね」

「複製装置か。バチが当たらないように気をつけろよ」

 アーベルの話し方はクレイを気遣っているように見えた。彼は人間の事を軽蔑し嫌悪していたはずだったのに、今はそうでもないようだ。とらえどころのない彼の物言いに困惑しながらも、クレイはアーベルの心遣いに素直に感謝した。

「ああ、もうあんな目には遭いたくないからね」

「彼女はどうする・・・・・シィナのことを聞いてるんだぞ」

 クレイは沈黙した。苦悩のような表情が浮かんだ。

「わからない。・・・・でも彼女はとてもいい人だ。ぼくよりもずっとね」

 それを聞くと、アーベルは彼にしては珍しく誇らしげな顔をした。

「そうだろう?当然だ。おれがずっと一緒にいたんだから」

「君はたいした奴だ。本当にそう思うよ」

「そうかい?そいつは嬉しいね。だけど」彼は皮肉屋のように笑った。

「シィナのことで、君が少し誤解しているようだから言っておく。君は彼女のことを聖女か何かのように思っているかもしれないが、彼女は君が考えているよりずっと強く、そして恐ろしい人物だよ。今回の件だって、彼女は自身の騎士として君を召喚し、使役し、父の仇たるマンディブラスを殲滅した。その間、君が何度死にかけても、彼女は最後の最後まで君に『止めろ』とは言わなかった。要するに、彼女はおれの弟子になる前から、既に立派な魔女だったのさ」

 アーベルの言葉にクレイは少し考えて、答えた。

「・・・・・確かに、そうだったかもしれない。でも、『行くな』とは言ってくれたよ」

「ほう、それは興味深いな」

 アーベルは少し意地悪そうに微笑んだ。

「もしそうなら、そんな彼女だからこそ、君の人生をもっとずっと面白くしてくれるだろうよ」

 草原を風が渡っていた。

「心残りはあるが、ぼくは行く。彼女のことは君にまかせる」

 アーベルの言葉に、クレイは黙って頷いた。

 いつしか、二人はすぐ近くで話をしていた。

 クレイは少し名残惜しそうにアーベルを見た。

「君はこれからどこへ行くつもりなんだ」

「旅に出るさ」

「何処へ?」

 アーベルは謎をかける手品師のような顔をした。

「君、マンディブラスの持つ性質については知ってるね」

「ああ。体内で新たに生物をつくれるんだろ」

「それがどういうことを意味するか、よく考えてみろよ」

 クレイは少しの間黙っていた。すると、じわじわと彼の顔に不安げな表情が浮かんできた。アーベルはクレイの表情を読みとって、頷いた。

「分かったかい。あれが一匹いるだけで、適当な環境さえあれば、『生態系』をつくることができるのさ。様々な生物をつくり、食物連鎖の経路を構成し、新たに生命の世界を組み上げることができるんだよ」

 クレイは頷いた。アーベルはそれから、とんでもないことを口にした。

「いわば、マンディブラスというのは一つの生物の名前ではなく、一つの生態系の名称と考えた方がいいだろうね。・・・・・そしてその性質は、奴の完全なる複製体であるぼくも備えているのさ。君の同居人にあげたハンマーヘッド、あれはぼくが創ったものなんだよ」

 クレイは呆然としていた。彼の前に立っている少年は、あまりに人に似すぎているために実感が沸かないけれど、自分とは全く違う生き物などだということが分かった。

「・・・・どうするつもりだ。また、人類を襲うのか」

 アーベルは笑った。

「さっき言ったじゃないか。もう君とは戦いたくないと。ぼくはもう一つの可能性を見つけたのさ。この一ヶ月の間にね」

「どういうことだ」

「この島だよ。君は見ただろう。あの異世界で。巨大な軟体動物を。君の知ってる地球にはあんな奴はいないはずだね。そこでぼくは考えたのさ。この島は、君の地球以外にも何回か世界を複製したのではないかと。そこで、そういう世界への入り口を探していたのさ。そんな世界のどこかに、ぼくの住める空き部屋がないかと思ってね。・・・・生物の発生しなかった世界もきっとあったはずだ。そんなところにぼくは自分の居場所をつくろうと考えたんだ。人間のような失敗は犯さずにね。人間のことはいろいろ見てきたから、こうしちゃダメだという見本は腐るほど手に入った。そういうところは感謝してるよ。人類の浅ましさと愚かしさにね。本当に見事な反面教師だった」

「入り口は見つかったのか」

「ああ」アーベルは彼にしては珍しく、少し晴れやかな顔をした。

「この島にあったよ。ぼくはあの『カリビアントンネル』のように、インフェリア上に浮かんでいるものを想定していたんだが、どうもあれは例外のようだね。観察しやすいように外に出したのかな。今は亡きこの島の持ち主が。地球以外のほかの世界への入り口はこの島の中にあった。場所は言えないよ。悪く思わないでくれ。ちょうどこれから行くところだったんだ」

「じゃあ、これでお別れだな」

「ああ」

「シィナさんには言ったのか」

「あのとき別れたきりだけど、置き手紙をしてきた。改めて、さよならと書いて」

「もう、帰ってこないのか」

「君たちが進化して、もっと建設的に接触ができるようになったら会いに来るよ。きっと」

 アーベルは淋しそうに笑った。そして歩き出した。クレイの横を通り過ぎて、草原の向こうへと歩き始める。

「・・・・・コートニーが悲しむよ」

「彼女によろしく伝えといてくれ」

 アーベルは振り返らずに答え、さっと手を振った。そしてそのまま歩き去っていった。草原の中を、彼の姿はだんだん小さくなっていった。クレイはその後ろ姿を黙って見つめていた。

 風が草原を揺らしていた。彼方に海が見えた。春の陽射しの中で彼は振り返って、もと来た道を歩きだした。


 一週間後、朝日の差す洞窟の格納庫で、クレイはフェルドランスのコクピットにいた。様々な計器の明かりが彼の顔を薄青く照らしている。数種類のモニターが作動していた。そのうちの一つ、機体横に付けられたマニピュレータ観測用カメラの広角モニターに、大きめのヘッドセットをつけたコートニーの顔がまるく歪んで映し出されている。

「腕部サスペンション異常なし、だよ」

 少女の声が無線機から聞こえた。彼女は、少し前に父親が回復して、今は再建された家に戻っている。最近、街にある学校に通い始めたそうだ。しかしこのあいだ「働かせて欲しい」と頼んできて、休日や学校帰りにここで働くことになった。見習い整備士となった少女はモニターの向こうで、持っているノートの上で忙しそうに鉛筆を動かした。

「駆動系、飛行前チェック終了。クレイ、大丈夫みたい」

「了解」

「次は動翼系だね」

「そう。これからテスト信号を送る」

「りょうかい」

 初等部の制服を着たコートニーは軽やかに機体の背後にまわっていった。

 クレイは正面ディスプレイを見た。洞窟の入り口から伸びる白い滑走路の向こうに水平線が見えた。

 青い空を映して、海が輝いている。一週間前の、あの日のように。


 アーベルと別れ、家に帰り着いたとき、クレイは家の横に人影があるのに気づいた。崖の所に立って、海を見つめている。長い髪と長いスカートが風に揺れていた。

「・・・・・シィナ」

 彼のつぶやきが聞こえたのか、彼女は振り返った。

「・・・こんにちは・・・・アーベルと会ってきたんですね」

「ああ、旅に出るそうだ」

 シィナは、そうですか、とつぶやいた。

「あの人もいなくなってしまった・・・・・」

 彼女は青い海を見つめた。遠くで舞う水鳥をじっと見ていた。

「私、どうすればいいんだろう」

 クレイは何も答えることができず、黙って彼女の華奢な肩を見つめていた。

 ぼくたちは異世界で迷子になった二人の子供のようだ、そうクレイはぼんやりと考えていた。

 やがて、海を見ていたシィナはクレイの方へ向き直った。そこに、クレイはかつて少年だった頃に出会った少女の面影を見た。シィナは妖精のような眼差しでクレイを見つめた。


「新型ディスプレイの表示は把握できてるな」

 管制室から、ペンクロフトの声が聞こえた。

「飛行モードでは、電波高度垂直スケールの表示法が前とはちがうぞ」

「わかってる。大丈夫だ。進路状況は?」

「テスト空域に障害物はない。問題ないさ。もう幽霊船は来ない」

 クレイは苦笑した。

「了解。———コートニー」

「なに?」

「機体を立ちあげる。黄色いテープの所までさがって」

「りょうかい」

 フェルドランスは脚部関節を伸ばした。鈍い機械音と共にコクピットを内包した胸部が持ち上がる。同時に背中に畳まれていた主翼が少し開いてバランスをとった。この二号機は機動性と強度向上のため、一号機に比べて尾部が短くなっている。そのせいで安定性が少し低下したため、主翼に姿勢制御を補助する機能が付加されていた。

「何だか鳥みたいだね」

 主翼を開閉させながら立ち上がるフェルドランスを見て、コートニーが笑った。

 機体は台座に載せられ、レールの上を動いていく。コートニーが細部をチェックしながら機体の傍を歩いていった。

 機体は洞窟を出て台座ごとカタパルトに接続された。

「カウントダウン開始」ペンクロフトの声が響いた。

 コートニーが桟橋の上を駆けていった。朝日が彼女を照らし、ブラウスが白く輝いた。青い海を背景にして彼女はフェルドランスの方を向き、手のひらを開いた。そして、ヘッドセットでペンクロフトの声を聞きながら、カウントにあわせて指を折り畳んでいった。

「8・・・・・・7・・・・・・」

 クレイは朝日を浴びる機体の中で、操縦桿を握りしめた。


 何処かで、鳥が鳴いた。

 シィナがクレイを見つめながら言った。

「また、博物館に来て下さいね」

「ええ・・・・いま、論文を書いているんです。この島でぼくが遭遇した生物に関する論文を。また資料を見せてもらいに行きますよ」

「いいですよ、喜んで。でも・・・・・・」

 そこでシィナは、今まで彼に見せたことのない晴れやかな顔で微笑んだ。

「いっそのこと博物館にお住まいになればどうですか?」

「え?」

「そもそもあなたの家ですよ」

 クレイのびっくりした顔が可笑しかったらしく、シィナはまた笑った。

「いつでも歓迎しますからね。お兄様」

 そしてシィナはあっけにとられているクレイの前で軽やかにくるりと身を翻し、坂道を走り去った。

「ではまたね。幽霊さん」

 シィナの囁きが、春の風に乗って微かに聞こえてきた。

 クレイは視線を草原の方に向けた。風が渡り草の揺らめく先に、緑の森が見えた。新緑が春の光にくっきりと映えて美しかった。


「3・・・・・・2・・・・・・1・・・・・・」

 コートニーの手が大きく動いて、海の方を指さした。

「発進!」

 魂を吹き込まれたように、カタパルト上の機体は滑走路を滑った。コートニーとフェルドランスがすれ違った。すれ違いざま、コクピットのクレイと、滑走路のコートニーの目があった。

 コートニー、あとでとっておきの変な話を聞かせてあげるよ。ぼくがもうひとりのぼくに出会った時の話を・・・・・・

 フェルドランスは青い空へ飛び立った。離陸時の風圧に髪をなびかせて少女がそれを見送っていた。

 クレイの前にノーチラス島の大地が広がっていた。山の稜線を輝かせ、緑の森を揺らして、まだまだ多くの謎を秘めた神秘の島は茫洋と佇んでいた。




 -  完  -

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