第1部
登場人物
クレイ・フェンネル・・・・・・特殊探査機操縦士
ペンクロフト・ヒューベル・・・特殊探査機担当技師・工学博士
シィナ・ライト・・・・・・・・博物館管理人
ケイン・アッカード・・・・・・保安局観測室主任
エリス・フォローズ・・・・・・保安局観測室オペレーター
カハール博士・・・・・・・・・生物学者
ミシェル・アッカー・・・・・・保安局局長
モーリス・キャンベル・・・・・考古学者
コートニー・キャンベル・・・・キャンベル教授の娘
エリック・タイラー・・・・・・遺跡調査担当の考古学者
クリス・アルメール・・・・・・クレイの子供時代の友人
アーベル・・・・・・・・・・・博物館に住む少年
Nautilusnautes
序
西暦2026年の夏、バミューダ諸島の沖合で原因不明の遭難事故が立て続けに起きた。ニュースが連日のように船舶や航空機の消失を報道し、まだ幼かった私は言いしれぬ不安を抱えてそれをみていた。やがて、カリブ海上の極めて局所的な位置で、幾多の事故の原因と臆される地磁気の異常が観測され、そしてそれと共に、空中にぽっかりと開いた黒く不気味な穴が発見された。
蒼い海上に突如として出現したその黒い穴は、刻々とその位置を変え、洋上を動き回った。私は海図の上に道に迷った台風のような軌跡が描かれていく様子をみて恐怖を覚えた。
その不気味な穴は、その正体が全く不明であったが、周囲の空間が明らかに歪曲していたため、物理法則上の特異点、いわゆるワームホールのようなものではないかと考えられた。やがてこの穴は「向こう側」が存在する「トンネル」ではないかと考えられるようになり、最初に見つかった場所にちなみ「カリビアントンネル」と呼ばれるようになった。私は雨後のナメクジのように海上を這い進む不気味な穴に戦慄しながらも、沸き上がる好奇心を禁じ得なかった。もしこの黒い穴が異空間につながる通路であるなら、この穴の向こうには一体何があるというのか。
やがて、いくつかの国の主導によりその通路を通過するための研究が開始され、数年後、準備を整えた探検隊は、恐る恐る「向こう側」の世界に足を踏み入れた。
異界めいたトンネルは、未知の惑星につながっていた。大発見ではあったが、子供だった私にとってはいささか拍子抜けなことに、そこは魑魅魍魎が跋扈する異世界などではなかった。そこには荒涼とした大地があり、茫漠たる海洋が広がり、天上から太陽に似た恒星が強烈な日差しを投げかけていた。全てが荒れ果てていて、そこはまるで黙示録に描かれる終末世界のようにみえた。
「インフェリア」と名付けられたその惑星は自転周期や公転周期が地球と類似していたけれど、夜空に広がる星ぼしは地球から見えるものとは全く異なっていた。そこが天の川銀河の何処かにある恒星系らしいことは分かったものの、結局、人類はその位置を特定することはできなかった。インフェリアは過去に何度か地球とつながったらしい。その証拠に地球由来の大気があり、地球から迷い込んだ生物が少数ながら存在していた。ただ今のところ、この星に独自の生命は見つかっていない。当初、インフェリアは静かな星にみえた。しかし、調査が進むにつれ、この惑星はその不可解で恐ろしい素顔を少しずつ現し始めたのだ。
<モーリス・キャンベル教授の手記より抜粋>
1-カリビアントンネル
旅行者にとって不運なことに、その日は南大西洋を記録的な嵐が襲っていた。
バミューダ島に設けられた飛行場のガラス窓を、大粒の雨が叩いている。水滴でぼやける窓の向こうを黒い空が覆い、その下にはそれよりも黒い海が大きくうねっていた。時折、灰色の波頭が防波堤を乗り越えて、雨に煙る滑走路まで飛沫を散らす。
今にも嵐に呑み込まれそうなこの小さな飛行場が、ここ数ヶ月ほど「インフェリア」へ向かう航空機の発着場として使われていた。インフェリアへの通路である「カリビアントンネル」は刻々とその位置を変えるため、それに合わせて使われる飛行場も変遷していくのだ。
インフェリア往き臨時便の改札ゲートは閑散としていた。インフェリア発見から半世紀近くがたった今でも、カリビアントンネルを抜けていくのは、そのほとんどが各国の研究調査団か、地球からの補給便に限られていた。インフェリアには当然人工衛星など浮かんでいないため、地球のようなGPSネットワークなど皆無であり、しかも正体不明の電磁障害が頻繁に生じるせいで、情報通信環境は未だ19世紀末から20世紀初頭の段階にある。まだ一般人が容易に行けるような場所ではない。それに加えて、こんな悪天候の日に、黒く不気味なトンネルを抜けようと考える人々は少ないらしく、飛行場の広いロビーにも数えるほどしか人がいない。
古いアナログ時計が午後六時を打ったとき、薄暗い飛行場のロビーに、出発を告げるアナウンスが響いた。
「インフェリア往き臨時便は、定刻より三時間遅れで離陸します。乗客の方々は、これより、係員の指示に従い、滑走路上の機体に乗り込んで下さい」
改札ゲートの前にいた人々は、無言で立ち上がって、戸外の嵐を不安そうに見ながら、ゲートを出ていく。ゲートには出国管理員がいて、無機質にパスポートをチェックしていた。パスポートの提示を求め、簡単に目的と行く先を尋ねている。多くの人はトンネルの向こうに開けた街、クレスポ市が目的地だった。異界探査の前進基地であるその街より他に、インフェリアで人が住める場所など数えるほどしかないのだ。だから、最後の乗客、まだ若く、学生のような雰囲気を漂わせた男がパスポートを提示したときも、管理員は返ってくる答えを半ば確信していた。
「君もクレスポ市だね」
「いいえ」
無気力そうだった管理員の瞼がぴくりと動き、彼はパスポートに書かれている名前を呼んだ。
「クレイ・フェンネル・・・行き先は?」
「ノーチラス島です」
感情のこもらない声で答えると、その乗客は管理員の横を通り抜けて、雨に霞む滑走路へ消えていった。管理員はその間、唖然とした表情で彼を見つめていた。不思議なものを見るような目つきだった。
その乗客が見えなくなったとき、管理員はふと、妙なものを視界に捉えて、管制塔の方を向いた。
暗い空の下、管制塔のアンテナの先で、蒼い炎が無数に瞬いていた。
「・・・・セントエルモの火だ・・・」
管理員はふと、さっきの乗客、インフェリア最大の謎といわれる、「あの島」へ向かう彼に、何か怖ろしいことが起こるような気がして、小さく身震いをした。
臨時便が離陸する重い音が聞こえた。管理員は空を見上げた。
この暗い空の向こう、海上300メートルのところに、カリビアントンネルが口を開けているはずだった。
2-ノーチラス島
———四ヶ月後
西暦2068年、七月末のその日、ノーチラス島上空の天候は快晴であった。島を囲む青い海は凪いで、夏の朝日を受けてきらきらと輝いている。かすかな風が草原の上を渡り、森の香りを島の右舷にある海岸まで運んできた。
小さな砂浜にはヤシの木が茂り、緑の葉が風に揺れている。砂浜の背後は切り立った崖になっていて、海に面したその崖の中腹には、洞窟がぽっかりと口を開けていた。洞窟はこの島の開拓初期に鉱物資源の調査のために掘られたものであったが、今では小さな格納庫に設えられており、そこから海に向かって橋梁のような白い桟橋が伸びていた。
ヤシの葉の上から一羽の鳥が飛び立った。少し羽ばたいて風をつかまえると、洞窟の前を旋回しながら上昇する。その鳥の琥珀色の目に、洞窟内部が映った。
洞窟内の格納庫は薄暗く、岩地にコンクリートを張った床には金属のレールが幾筋も走り、岩が剥き出しの壁に埋め込まれたボードには数式を書きなぐった紙が何枚も貼られている。それらのひとつ、「本日、AMP-01飛行実験」と書かれた紙が夏風に揺れていた。
そして、格納庫の奥には、鉄道の転車台のような円形の台座があり、その上に奇怪な形をした物体がうずくまるように置かれている。機体の各部からアンテナやセンサーが突き出し、装甲板に覆われた形態は一見すると戦闘ヘリか装甲車のように見えるが、それにしてはタイヤもローターもない。薄暗い中、その物体の周りだけ、青い照明が落ちていた。
格納庫の中からは、紺碧の海と、さわやかに晴れた空が見えた。
セミの声がしんしんと降ってくる。
クレイ・フェンネルは、その物体、多目的装甲探査機(Armored Multipurpose Pathfinder)の1号機である、AMP-01「フェルドランス」のコクピットに座って、飛行試験に際して行うべきチェックを進めていた。開け放しにしたハッチから夏の香りを含んだ微風が入り込んできて、緊張した面持ちの彼の頬を撫でる。
実験開始5分前。機体は既にアイドリング状態に入っていた。
「タービン出力異常なし。冷却装置も正常に作動中・・・」
彼は小声で呟きながら、チェックボードに書かれた項目をひとつひとつチェックしていった。今朝から既に二度、同じ作業を繰り返している。現在行っているのが本番前の最終チェックだった。
「センサー感度良好。データリンク正常。全航法装置異常なし。・・・駆動系も・・・」
手元のレバーを軽く握りながら押すと、機械音と共に機体の右側にあるアームの関節が伸びて、先端についているマニピュレータが開き、5本の「指」が空を掴んだ。
問題なし、とつぶやいてクレイは左手に持ったチェックボードの最後の項目に印をつけた。
今日が初めての飛行テストである。この機体は関節可動式マニピュレータや、二脚歩行システムなど複雑な様式を採用しているため、調整が難航していた。彼が専任操縦者としてこの島に来てから、すでに四ヶ月が経過している。予定が遅れに遅れた挙げ句、ようやく飛行試験が可能な段階になったのだ。
「急いでくれ。予定の時間より遅れている」
機体の通信機から、クレイの同僚であり、彼に待ちぼうけを食らわせた張本人でもある、この機体の設計開発者ペンクロフト・ヒューベルの声が響いた。
「了解」
クレイは答えるとハッチを閉めた。同時にコクピット内の計器に灯が点り、機体各部に装着された複数のカメラからの映像が操縦席を囲むディスプレイに映し出された。それにより、まるでガラス製の風防の中にいるかのように、周囲の景色が見えるようになった。前方にはレールの敷かれた格納庫があり、その先に海に向かって伸びる桟橋型の滑走路がある。白く伸びる滑走路は地面からかなり高い位置にあるので、両側から海岸に生えているヤシの梢が見えた。緑の葉が風にそよいでいる。続いて、機体の頭部にある多機能センサーユニットが周囲をスキャンし、格納庫内にあるものを机の上の鉛筆一本に至るまで捕捉し、ディスプレイ上に文字や図形で表示していく。そのせいで、見ている景色が透明なガラスを通したものではないことがわかった。
「全周ディスプレイ動作確認、最終安全装置解除、発進準備完了」
クレイは管制室にいるペンクロフトに報告した。
「よし。現在南東の風、風力2.0。天候は快晴。電波干渉もなし。条件は最適だ。計画通りのスケジュールでいける」
ペンクロフトの軽い口調が返ってきた。この男はいつも底抜けに楽観的だ。何かと心配性のクレイとは対照的だった。
クレイは小さくため息をつき、不安げに尋ねた。
「この前は直前でエンジントラブルが起きたよな?」
「何を言う、その問題は解決した。この段階までくれば大丈夫だ。四ヶ月もかけたんだ。飛ばないはずがない。信用してくれないとおれは悲しいよ」
そっちは悲しむだけですむかもしれないが、こっちは落ちるんだ、海に。
口には出さずに軽くため息をつくと、クレイは「起動する」と言って、左の操縦桿に手をかけた。
その時、格納庫内に重々しくも勇壮な音楽が響いた。ペンクロフトがオーディオを操作したらしい。洞窟の壁に反響する音を機体の高性能マイクが拾い、操縦席にも勇ましい音楽が鳴り渡る。
「なんだこれ?」
「知らんのか?1981年の西ドイツ映画『U・ボート』の挿入曲だ。潜水艦が急速潜行するときにかかるんだ。今の雰囲気にぴったりだろう?」
「急速潜行だって?海に沈むってことか?勘弁してくれ、縁起でもない」
クレイは苦い表情で操縦桿を操作。曲に合わせるように、うずくまっていた機体の脚部関節が伸張して、フェルドランスはゆっくりと立ち上がった
「まあそう言うな、いや待てよ、この曲は魚雷を射出する最高にかっこいいシーンでもかかってた。なら今の状況にぴったりだ」
「魚雷の射出?その魚雷、どうなるんだ?」
「命中する。魚雷は爆発して、敵船は沈没する」
「最高に縁起が悪いじゃないか」
クレイはため息をついた。しかし、機体はよろめくこともなく、二脚でコクピットを地上三メートルの位置に持ち上げている。
「オートバランサー異常なし」
「了解、ターンテーブルを転回する」
ペンクロフトからの操作で、機体を乗せた転車台がゆっくりと回転し、格納庫の床に設置されたレールに接続した。
勇壮な音楽が鳴り響く中、クレイは軽く頷いて、右足でスロットルペダルを踏んだ。機体の奥から脚部関節を駆動させるモーター音がして、コクピットの下側についている脚が動く。ゆっくりと鳥のような動きで関節部が曲がった。滑るような動きで一歩踏み出し、フェルドランスはレールの上の台座に片足を乗せた。続いてもう片方の足も載せる。台座のロック機構が両足を固定すると、機体を載せた台座はゆっくりとレール上を移動していった。レールは格納庫の外、白い桟橋に設置された電磁式カタパルトまで伸びている。明るい光に誘引されるように機体は薄暗い洞窟を抜けて外に滑り出た。夏の朝日を浴び、淡緑色に塗装されたまっさらの装甲と金属色の関節部分が鮮やかに輝く。機体はそのまま海へと伸びる白い桟橋に運ばれていき、台座ごとカタパルトに接続した。
すでに音楽は聞こえない。クレイは正面ディスプレイを見た。
眼前には水平線が広がっている。いつもより一段高い位置から見る海は、いつもよりも蒼く輝いて見えて、クレイは少し感動して目を細めた。
白い桟橋が設けられた洞窟がある崖の上にはペンクロフトの家があり、海に面した見晴らしのいい部屋にはいろいろな機械がつめこまれていた。通信機、簡易レーダー、そしてフェルドランスからの情報を受け取る端末類。部屋はまるでSF映画に出てくる秘密基地のようだ。窓際にひとつだけ置かれた観葉植物の植木鉢が妙に浮いて見えた。その手作り感溢れる「管制室」の窓ガラス越しに、白衣姿のペンクロフトは桟橋に出てきた機体を見下ろしていた。
「いいね。美しい形だ。機能は形態に宿る、というやつだな」
眼下に見えるその機体は、一見すると戦闘ヘリに手足がついたような姿をしていた。胸部コクピット部は飛行機のそれのように前に伸び、その後方には様々なセンサーを内蔵した小さな頭部がある。機体側部には精密作業が可能なマニピュレータがあり、補助エンジンを内蔵した脚部が射出用の台座を踏みしめていた。機体後方にはバランサー兼方向舵として働く尾部が飛龍の尾のように伸びている。
この機体は、このノーチラス島のような究めて特殊な環境下での調査行動を遂行するために設計されたものだった。様々なデータを採取するためのセンサー類、陸海空いずれの状況でも行動できる駆動系、予測不能の危険に対処できる種々の特殊機器が小型の機体に詰め込まれている。
現時点で各種センサーの調整と、陸上ならびに潜水航行の簡易的なテストが終了していた。いずれも問題はない。しかし、飛行試験が最大の難関として残っている。調査地点への移動、ノーチラス島上空の調査、危険に遭遇した場合の迅速な撤退、などを考えると、この探査機には飛行能力がどうしても必要だった。
今日のこのテストが成功すれば、この機体は実質的に運用可能になる。そうすれば停滞しているノーチラス島探査計画も少しは進展するだろう。この機体を使って今まで人が入れなかった危険地帯を調べれば、この島の謎を解く鍵が見つかるかもしれない。
ペンクロフトは淡緑色の無骨な探査機を期待の眼差しで見つめていた。
「管制室、いいか?翼を展開する」
クレイの声がペンクロフトの思考を現実に引き戻した。彼の眼下でフェルドランスは背部に畳まれていた翼を左右に展開した。蜻蛉の羽根のような形をした両翼に陽光が反射してきらっと光る。続いてそれより小型の翼も開かれた。最初に開いた大きめの翼は文字通りの主翼で、小さめの翼は空中での機動性をあげるための副翼である。四枚の羽根を開いたフェルドランスは神話にでてくるドラゴンか、巨大な昆虫のように見えた。
素晴らしいじゃないか。ペンクロフトは目を見開いた。
「醒めないでくれよ、夢だったとしてもな」彼は呟いた。今日この日のために彼は今まで苦労してきたのだ。
ペンクロフトは計算用紙が散乱した机の上でペンを握りしめた。それから眼鏡を外して、双眼鏡で水平線を見渡した後、通信装置に向かって言った。
「よし。進路はオールクリア。カウントダウンを開始する」
ペンクロフトの秒読みの声が響くコクピットで、クレイは少し汗ばんだ手で操縦桿を握りしめた。この機体は、パイロットが左手で機体の方向を変える操縦桿を操作し、右手でマニピュレータを操作するようになっている。従って、機体には両腕がついているけれど、人のような「手」がついているのは右腕だけだ。左腕の肘関節の先には、手の代わりに、用途に応じて様々な拡張機器、場合によっては火器が取り付けられるようになっていた。今回は飛行試験のため、左腕には各種の記録装置を内蔵した複合観測ユニットがついている。
クレイはスロットルペダルに右足を乗せつつ、前に広がる海を見つめていた。穏やかに凪いだ水平線の彼方で海鳥が舞っている。
行けるだろうか、あの鳥の所まで
「12・・・11・・・10・・・」
クレイは飛行モードになっている機体の計器を見る。駆動系と航法モニターの表示に異常はない。スロットルペダルを踏んで、背部にある二基の新型ターボファン・エンジンの出力を上げた。金切り声のような鋭い音が大きくなってゆく。内圧正常、コクピットに小刻みな振動が伝わってくる。
「8・・・7・・・」
主翼と副翼の仰角をAIが自動的に調整する。正面のコンソールに配置された様々な計器の数値がめまぐるしく変わる。離陸位置に仰角固定。境界層制御装置が作動し、翼の上に高圧空気が噴射される。主翼のフラップが後退すると、電子音と共にディスプレイの端に青く「離陸準備完了」の表示がでた。
「5・・・4・・・」
ターボファン・エンジン出力上昇。機体が前傾し、脚部のショックアブソーバーに負荷がかかる。空へ昇るために身構えた鳥のようだ。操縦桿に伝わる振動を感じながら、クレイは水平線を見つめていた。白い雲の間に、置き忘れた夢のかけらが舞っているような気がした。
「・・・2・・・1・・・発進!」
ペンクロフトが手元のレバーを引いた。甲高い金属音、カタパルトが作動し、フェルドランスを載せたレールで火花が散った。
ヤシの葉を舞い踊らせながら機体が滑走路の端まで一気に滑っていく。そして射出された。青い海へ向かって。
「くうっ!」
予想外の加速度に呻きながらも、クレイはスロットルを全開にした。全エンジン出力最大、ディスプレイの片隅に蒼い光芒が見え、ぐうっ、と背後から推される感覚と共に、正面ディスプレイの景色が水平線から青空に変わる。
機首を上に向けた機体の後方で、エンジンの排気噴流が海面に叩きつけられ、水柱が吹き上がった。大きく展開した主翼が高圧空気をはらんで、機体を重力の束縛から解き放つ。機体は緩いカーブを描きながら、空へ昇っていった。
「対気速度800、仰角45度。上昇を続ける!」
ビリビリと震えるコクピット内でクレイが状況を報告。後方モニターに映る滑走路がどんどん小さくなる。正面のメインモニターに白い雲が広がった。瞬く間に雲を貫き、視界が濃い青でいっぱいになる。機体はさらに上昇。電波高度計のデジタル表示が目まぐるしく変わっていく。ついに2000メートルを突破した時、ようやくクレイはため込んでいた息を吐いて、機体を水平にした。巡航速度へスロットルを調節。コクピット内の振動が小さくなった。彼は周囲を見る。そこは深い青の世界だった。視界のずっと下に高積雲が薄い板のように広がり、その切れ間から紺碧の海が見えた。飛行状態は良好で、どの計器も正常を知らせている。フェルドランスは軽やかなエンジン音と共に、まるで鳥のように空を駆けていた。
「やったぞ!すごい!飛んでる!」
通信機からペンクロフトの絶叫が聞こえてきた。
「あたりまえだ。飛ぶように造ったんだろ、おまえが」
「やはりおれは天才、天才だったんだ!」
心ここにあらずといったペンクロフトの声が聞こえてきた。新進気鋭の若手研究者を自認する彼にしても、よほど嬉しいのだろう。
「よかったな」クレイは同僚に賛辞を送りつつも、遙か下を飛ぶ海鳥の群れを見やりながら、やや自嘲気味に呟いた。
「おれは本当にこれでよかったんだろうか」
クレイは昔から人の手で扱う機器の操作が巧みだった。その資質が飛行機の操縦と相性がよかったので、彼は今ここにいるのである。しかし、彼が本当に興味を抱いた世界はここではなかった。彼は彼自身の能力と憧れとを天秤にかけ、そして特技を活かす道へと人生の駒を進めたのだ。
クレイは天を仰いだ。コクピット上部には機体上空の景色がガラスを通したように映し出されている。
空、どこまでも青い空、一年前のあの日もこんな空だった。あの日、昼下がりの大学の掲示板に、彼は一枚の通知を見つけたのだ。
『ノーチラス島第13次探査計画、調査員募集』
———ノーチラス島
彼の足は止まり、不思議な引力に惹かれるように、その内容を読んだ。
『募集人員、特殊探査機担当、一、技術者、二、操縦士各一名。募集資格、一に関しては、学位取得者で観測用探査機設計の経験のある者。二に関しては航空機および特殊船舶の第一種免許取得者』
クレイは心臓の鼓動が早まるのを感じた。押さえがたい衝動がざわざわと沸き上がって、瞬く間に彼の心を一杯に充たした。
ノーチラス島、子供の頃から憧れていた謎の島、その探査計画に自分が参加できるかもしれない。第一種免許、それなら持っている。大学に入る前は学費を得るために観測用航空機の操縦士をしていたのだ。飛行機の操縦なら少しは自信がある。倍率は高いだろうけど、もしかしたら、もしかしたら採用されるかもしれない。
熱病にかかったような足どりでいつしか彼は歩き始めて、知らず知らずのうちに研究室へ戻っていた。
動物生理学講座、彼は大学院の博士後期課程の二回生だった。予定通りいけばあと一年で学位を取ることができる。そのための研究も大詰めを迎えていた。
しかし・・・・
「どうかしましたか?」
はっと我に返ると、ひとつ年下の後輩が、訝しそうに彼を見ていた。
クレイは人付き合いが苦手なせいで研究室の人々とはあまり親しくしていなかったが、この後輩だけは実験技術を教えたことがきっかけで、何度か話をしたことがあった。
「あ・・・・ああ」
クレイは口を開きかけた。しかし自分の決意を他人に知られることに怖れを感じて、
「・・・・いや、なんでもない」
彼はそう答えた。
それからの展開は早かった。研究室の面々に知られることもなく準備は進み、あとは出発を待つだけになったとき、クレイはその後輩に廊下で呼び止められた。
「ちょっといいですか」
後輩は冷めたような目でクレイを見ていた。。
「ノーチラス島探査計画に応募されたそうですね」
彼は厳しい顔をして、気は確かですか、と続けた。
「わかっていますか?トンネルの向こうは、行ったら最後連絡さえ滅多にできない。ノーチラス島はさらに状況が難しく、一年のほとんどは音信不通になる。その間、何が起こるか全くわからない。死者だって出てる。最初期の極地探検をさらに厳しくしたような状況です。そんなところに行くのは頭のおかしい輩か、地球にいられなくなった連中くらいです。愚かとしか言いようがありません。それに」
いつもは寡黙な後輩は、珍しく饒舌だった。
「実験はどうしますか?来年までに論文を出さないと学位がとれませんよ。あなた、苦学してようやくここまで来たのではなかったのですか。それを全て投げ出すというのですか」
あの後輩、名前なんていったっけ、無愛想な奴だったが、彼だけが行くなと言ってくれた。もしかしたら、いい友人になれたかもしれなかったのに
確かにあの時、ぼくの心は壊れてしまったのかもしれない。結局全てを放り出してぼくは此処へ来てしまった・・・・
クレイは操縦桿を引いて機体を反転させた。雲の切れ間からノーチラス島が見えた。紺碧の海にぼっかりと浮かぶ小さな島。それは少し不気味な形をしている。島の片端にはまるで怪物が巨大な顎を半開きにしているように、二つの岬が突き出しているのだ。もう片側はまるでドラゴンの尾部のように見えるし、島の各所にはいくつかの小島が点在し、まるで背びれか背棘のようにも見える。その怪物めいた奇怪な輪郭のため、この島は爬虫類島とも呼ばれていた。
機体の旋回に合わせて、クレイの眼下で爬虫類の島が斜めに廻ってゆく。ここから見える景色は美しかった。島のほとんどは緑に覆われており、中央付近にあるカプローナ山にかかる白い雲とのコントラストが鮮やかだ。爬虫類のうなじにあたるところではマクロケリス砂丘が輝いて見える。尾側では翼竜のような形をしたハルピュイア湖が空の色を映してきらめいていた。先ほど離陸した桟橋がある海沿いの崖の上にはメイオラニア丘陵が広がり、草原の中に幾つもの小さな池沼が青く散らばっていた。
「・・・・ノーチラス島」クレイはつぶやいた。この島の何が彼をこうまで惹きつけるのか、彼自身にもよく分からなかった。
ともあれ、自分は今、この島の上を飛んでいる。
爬虫類の形をした島の周囲にはあちこちに白い波頭が見え、それらは蒼い海に航跡のような白い筋をいくつも残していた。まるで帆船が舳先で波を切り裂いて進んでいるかのようだ。それは比喩でもなんでもなく、この島の有様をそのまま表している。この島は実際、海に浮かんで航行しているのである。この奇妙な島を、人々はノーチラス島と呼んだ。
ノーチラス、ラテン語で「船乗り」を意味するこの島が発見されたのは2028年。この星の開拓が始まって間もない頃だった。その後の観測から、この島は北半球の二大陸に挟まれた広大な大洋を、幾つかの海流を乗り換えながら一定周期で回っているらしいことが明らかになった。この驚くべき事実に人々は驚愕し、すぐさま調査隊が派遣された。しかし、島が動く謎は半世紀近く過ぎた今も未だ解けていない。しかも、島は予想よりもはるかに奇怪で不可思議で、そして危険であった。すなわち、ある調査隊は島の深部に分け入ったまま帰ってこず、ある研究チームは島で発見された未知の岩石を分析中に謎の爆発事故に見舞われた。ノーチラス島は人類に提示された、現時点で考えうる最も魅力的な所ではあったが、そこは現時点で考えうる最も恐ろしい場所でもあった。
だから、どうしても必要だったのだ。いかなる状況下でも機能し、いかなる場所にも潜入でき、そして必ず帰還できる探査機が。
クレイは操縦桿を倒した。翼の仰角が変わる駆動音がして、ノーチラス島へ向けてフェルドランスは急降下した。
島がぐんぐん近づいてくる。深い森、それを縁取る草原、そして青く点在する湖のディティールが鮮明になっていき、草原の中を突っ切る石畳の道が見えた。クレイはその道に機首を合わせ、機体を引き起こした。
低空で機体がひるがえり、石畳の道を衝撃波がかすめる。道の崖側には白い木の柵がたてられている。その上にフェルドランスの黒い影が落ち、ポプラの並木が後方でざわめいた。
クレイの眼下に見える道は、なだらかに下って、海辺に開けた街まで続いている。文明世界から遥か離れたこの島に必要物資を持って遠征してくることは経済的にも負担が大きく危険も大きかった。そこで人々は島そのものに生活基盤を作ることを思いついたのだ。島の発見からおよそ半世紀が経った今、この島には小さな街が開けていた。アルケロンと名付けられたその街は、既に地質調査等が終了した所に作られており、未だに多く残る未調査領域のための前線基地として機能していた。したがって、街の住民の多くは各国の調査団及び様々な分野の研究者だ。不可解なことに建物は西欧のアルザス地方の家に似せて造られており、白壁に黒い木組みの家々が石畳の路地を挟んで寄せ合うように建ち並んでいる。白い壁が夏の日差しをうけて、街はまるで宝石箱のように輝いていた。
フェルドランスのモニターに美しい街が映っている。変な街だ、とクレイは思った。文明社会を遥か離れたこんな所にヨーロッパの街並みがあるなんて。辺境の地で暮らす人々に対する精神衛生的な配慮なのかどうか知らないが、違和感が大きすぎてかえって落ちつかない。
街に至る手前くらいのところで、クレイはフェルドランスの機首を内陸に向けた。鬱蒼とした森が見える。その森は街はずれから始まり、遥か彼方のカプローナ山の麓まで続いていた。深い森だ。数十メートル級の木々が隙間なく繁茂している。そして不思議な森だ。場所によって生えてる植物が違う。あるところは熱帯性の高木の間を蔦やシダが這い、またある所には寒帯地域にしか生えないような針葉樹が密生していた。これらの植物はもともと地球から「迷い込んで」きた種子が、ノーチラス島の未知なる作用により長い時をかけ繁茂したものだが、その鬱蒼とした様子はあたかも島が植物を使って自らの謎を覆い隠しているかのように見えた。事実、これまでにこの森の奧で多くの怪現象が目撃されていた。そういうこともあって、公式にはカプローナ山麓森林地帯という名がついているこの地帯を、島の人々は「還らずの森」と呼んでいた。実際、いくつかの調査隊はこの中に呑み込まれたまま消息を絶っていた。
フェルドランスは森の上を低空飛行。緑の絨毯が風にざわめいていた。
クレイは少しぞっとした。森の木々のざわめきはなんとなく、彼を手招きしているように見えた。
薄暗い管制室の中で、ペンクロフトは無線機のマイクを散らかった机の上に置いて、手元の端末で今日の実験条件の入力を始めた。顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。その時、入口のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
計算用紙がベタベタ貼られたドアが開き、温和そうな顔をした白髭の男が入ってきた。
惑星考古学者のモーリス・キャンベル教授である。ペンクロフトやクレイとは研究分野は違うが、家が近くだからこうして時々尋ねてきてくれる。これまで色々と世話を焼いてくれたし、彼らの機体にも興味を持ってくれていた。
教授は嬉しそうな表情で、フェルドランスの飛行状況を知らせてくる管制室の機器類を覗き込んだ。
「どうかね。今日の飛行実験は?」
ペンクロフトは微笑んで、しかし手を休めずに答えた。
「ああ。これ以上はないというほどにうまく行っています。いままで不調だったのが嘘みたいですよ」
「そうか。これでクレイ君の暗い顔をみなくてすむな」
教授は丸眼鏡の奥で笑った。
「そうですね。あいつは感情が表に出すぎるのです。でもこれで一安心かな。次の報告会では大きな顔ができそうです。キャンベルさんのほうは?今日は調査はお休みですか?」
「うん。今日は久しぶりに娘と散歩してる」
「娘さん?」ペンクロフトは訝しげな顔をした。いままでこの人に子供がいるなんて話は聞いたことがない。
「ああ。実は半年前に君たちと同じく地球から来ていたのだ。ちょっと向こうにいづらい状況になってね。内気な子で、あまり人前に出たがらないんだ。この家にも入りたくないと言って外で待ってる」
「ふむ」
ペンクロフトは、『いづらい状況』と聞いて、眉を曇らせた。
「学校に行きたくない、とかですか」
「まあそんなところだ」
「私にも経験があります。それに、クレイもいろいろ大変だったみたいですよ。この島にはそんな奴らが集まるんです。だから、この島に来たのはいいことだと思いますよ。娘さんにとって」
「そうであればいいが」
その時、無線機からクレイの声が聞こえてきた。
「現在、森林地帯上空。これからそっちに行く。実験を第二段階に移行しよう」
「了解。ミスラックスの準備は完了してる。いつでもいいぞ」
「これから何が始まるのかね?」
「飛行データ収集です。ミスラックスという無人飛行物体がフェルドランスを追尾しながら飛行し、機体の状況を詳細にモニターして、こっちに情報を送ってきます」
「ほお」興味津々といった顔で教授は窓の外に目をむけた。石畳の道の彼方に街が見える。その街外れの森の上をフェルドランスが飛んでいた。
「まるで怪物だな」
ペンクロフトの家の前の草原では一人の少女が小さな池の畔に立っていた。年は12、3歳位だろうか。白いワンピースを着て、鍔広の麦藁帽子を被り、両手に草原で摘んだ花を抱えている。
少女は聞きなれない音を聞いた。甲高い、何か怪物の絶叫のような音。音がした方に顔を向けた少女は、次の瞬間、驚きに目を一杯に見開いた。翼を広げた怪物、絵本で見たドラゴンのような物体が、一直線にこちらに飛んで来た。
怪物はみるみる大きくなり、黒い影が少女の上に落ちる。彼女の瞳が恐怖の色に染まった。
怪物は少女の頭上で、いきなり海の方へと急旋回した。風圧で周りの草木がざわめき、草原から草きれが散った。
「ああっ!」
少女は麦藁帽子とスカートを押さえながら悲鳴をあげた。手にもっていた花は風に吹き飛ばされて、辺り一面に舞い散った。
「ペンクロフト、いいぞ!」
「了解。ミスラックス射出!」
ペンクロフトがボタンを押すと、轟音がして、二階のベランダから白煙と共に一メートルほどの物体が打ち出された。それは空中で射出用の高電圧カートリッジを切り離すと、一瞬にして羽根をもった昆虫のような形態に変形し、ジグザグに動きながら、水平線の彼方へと飛んでいった。それを追ってフェルドランスも飛び去る。
「ほお。器用に動くもんだ」キャンベル教授は感心したように言った。「あの小さいのも君の発明かね?」
「ミスラックスですか?ええ。フェルドランスの支援用に開発した特殊機器のひとつです。深海探査などで実証されたことですが、有人探査機には補佐的に働く無人機械が不可欠なんですよ」
「なるほどね。AIを搭載した無人機に母機が入れない穴なんかを調べさせるわけか」
「ええ。それと、相互に連絡し合うことで不測の事態に対応できます。でもフェルドランスは用途が広いので、複数の支援機器が必要になります。現在開発中ですが、現時点で二機が稼動しています。空中観測用の『T-1ミスラックス』に、データ収集用の 『T-2ハリエット』。 これらは自走式観測ユニット(Self-propelled Pilotless Probe)、略してSPPと呼んでいます」
「いやはや。大した実行力だよ。君は」
教授は窓の外を見た。ミスラックスを追って、フェルドランスの機影が遠ざかってゆく。
「しかし・・・」
「しかし?何ですか?」
「何だかフリスビーを追いかける犬みたいだな」
ペンクロフトは苦笑した。
3-幽霊船
「そういえばキャンベルさん」
双眼鏡でフェルドランスが飛んで行った方角を眺めているキャンベル教授に向かって、ペンクロフトが尋ねた。
「例の『遺跡』の調査、どうなりました?」
「遺跡ときたか。何だかまるで人工物みたいに聞こえるじゃないか」
「でも、みんなそう呼んでいますよ」
「変な噂が立つのは困るんだがね」
双眼鏡を下ろし、やや真面目な顔をしてキャンベル教授は続けた。
「たしかに一部の人間は、あれが異星文明によって造られたんじゃないかと噂してるかもしれんがね、人工物であるという証拠はまだ一つもないんだ」
「でも、変じゃないですか。密林の真ん中に、地下へ垂直にのびる穴があるなんて。そんなものが自然にできるなんてことありえるんですか?」
「自然は偶然という底知れぬ力を使ってどんな奇蹟でも可能にする。侮らないことだ」
そうは言いながらも、この教授はあの穴が単なる自然のいたずらとは思っていないようだ。森林地帯の奥地にぽっかりと空いた底なしの縦穴。通常のセンサー類は内部に入ると何故か使用不能になってしまう。この島にある不可解な謎のひとつだった。
「まあ、君たちの探査機が実用段階に入ったら早速使わせてもらうことにするよ」
教授は眩しそうに海を見やりながら言った。風が出てきた。所々、白い波頭が見える。海は少し荒れてきたようだ。
その時、いきなり机の上の通信機が不快な音を発した。
フェルドランスからの警告音だった。非常事態を知らせる赤ランプが瞬いている。
一瞬でペンクロフトの顔色が変わった。
「クレイ!どうした」彼は通信機をひっつかんだ。
「故障か!」
「・・・・いや」困惑したようなクレイの声が還ってきた。
「ちがう、レーダーが未確認物体を捕捉した。・・・実験予定海域の中だ」
「・・・なんだって?」
ペンクロフトは怪訝な顔をした。
「そんなはずはない。今日のテストで使う領域に船舶の類はいないはずだ」
「いや、間違いない。ここから西北西約20キロメートル。反応の大きさからすると小型船だ。どうする?実験を続けるか?」
ペンクロフトは少し考えてから答える。
「いや。これからの実験は周りに人がいないという条件で許可を取っている。一旦中止しよう。それにしてもそんな所に船がいるのは、おかしい。ちょっと見てきてくれないか?その位置ならまだノーチラス島のレーダーには映ってないはずだ」
「了解。そっちからも一応保安局へ連絡しといてくれ」
「わかった」
ペンクロフトは通信機のヘッドホンを机の上に置くと、キャンベル教授の方を向いて肩をすくめた。
「まいりましたね。一体何なんでしょう?」
教授は暫く机に積まれた本の表紙を眺めていた。暫くそうしていてから、
「さあ」と言った。
クレイは前方を飛ぶミスラックスに帰還シグナルを送った。
ミスラックスは海鳥のように機体を翻し、すーっと滑るように陸の方へ戻っていった。クレイは実験が中断したことにいささか不機嫌になりながら、フェルドランスの機首をレーダーに反応がある海域へ向ける。方向転換のために機体が斜めに傾いたとき、海面すれすれを青い色をした魚が泳いでいるのが見えた。機体の頭部センサーが自動で対象をスキャンし、3D画像と共に学名を表示する。
Xiphias gladius
メカジキだ。でもそれくらい、AIに教えられなくてもわかる。
諸刃の剣のような長い吻で蒼い水を切り裂いて進む魚をクレイは目で追う。
この惑星インフェリアに土着の生物はいない。今泳いでいる生物は、地球から「迷い込んできた」ものだ。地球の歴史上、おそらく何度かカリビアントンネルが顕現することがあったのだろう。それは空中であったり、あるいは水中であったのかもしれない。その際に地球の生物のいくつかがトンネルを通り抜け、インフェリアに迷鳥のごとく紛れ込んだのだ。多くの種は当然のごとくこの星で生き残ることができなかったが、不思議なことにノーチラス等の近海でのみ、地球産のあらゆる生物が定着し生存している。この島の周りだけ、地球の生態系が再現されているのだ。この現象は「ノーチラス生命圏」と呼ばれていた。この島に街がつくられ、人々が最低限の補給のみで自給自足できるのは、このノーチラス生命圏の恩恵によるところが大きい。
クレイはぼんやりと考えた。生物をみるとなぜか懐かしく、やるせない郷愁にも似た感じがする。ぼくはやはり生物学の道へ行くべきだったのか。何でこんな所で探査機の操縦なんかやってるんだろう?過ぎ去った時を取り戻せるのなら、今度はどちらを選ぶだろうか?
“古き友は忘れられていくものなのだろうか”
“古き昔の想い出も心から消え果てるものなのだろうか”
スコットランドの古い唄の一節をクレイは呟いた。
半年前、別れ際に例の後輩がいった言葉が心に甦った。
———あなたは何かにとりつかれているとしか思えない。行けば必ず後悔する。警告はしました。あとは好きにして下さい
その時、フェルドランスのコクピットに電子音が響いた。光学センサーに反応、クレイははっとして現実に戻った。ディスプレイに、「目標捕捉」の文字が明滅していた。操縦幹を操作。機体を引き起こす。機首が垂直に天を仰ぎ、四枚の羽根が扇のように広がって急減速した。メインエンジンと脚部の補助エンジンが作動。機体は翼の高揚力制御とエンジンの推力偏向機構により超低速飛行で目標の上空を旋回する。
「ん?」
機体のモニターには、青い海と、そこに浮かぶ黒い物体が映し出されていた。
それは、ぼろぼろになった一隻の船だった。
「なんだ?あれは・・・・」
クレイはしばし呆然としてその不気味な船を見つめていた。
大きさや形は何の変哲もない小型船舶だった。しかし、形容しがたい異様な雰囲気をそれは放っていた。まるで子供の頃に見た悪夢のような・・・・・。
塗装ははげ落ち、甲板や舷側の至る所に亀裂が走っている。船体はかなり傾いていて、浮いているのが不思議なくらいだった。
船には人の気配はない。船の上は不気味な静寂が支配していた。ただ、波がぶつかるたびに船体が揺れ、ぎい、ぎいと不気味に軋んでいる。機体の集音装置が伝えてくるその音は、まるで呪われたこの船がしぼり出す呻き声のようだ。天気は快晴のはずなのに、その船の周りだけ、暗く、陰鬱な空気がたちこめている。
クレイの背筋を冷たいものが通りぬけた。何か違う。何かがおかしい。この船は普通じゃない。何故だかわからないけれど、これは、見てはいけないものだ。
そのとき唐突に、彼の脳裏を不吉な考えがよぎった。この不気味な船こそが、これからこの島で自分が遭遇する恐ろしい出来事の先触れなのだ。そして、自分はそれを見てしまった————。
「フェルドランス、どうした?応答しろ」
同僚の声が、別世界からの通信のように聞こえ、クレイははっとして現実世界に意識を引き戻した。
「こちらフェルドランス、船を確認した。その、何というか・・・幽霊船?」
クレイは答えて、モニターの映像を管制室に転送した。
「幽霊船だと?バカをいうな・・・」
しかしすぐに、ペンクロフトの呻き声が聞こえてきた。受け取った映像を見て、彼も何かを感じたのだろうか?
その隣から、キャンベル教授の声も聞こえてきた。
「難破船か?」
「その声はキャンベル先生、そこにいらっしゃるんですか?・・・どう思われます?」
「うん。・・・不気味なのは間違いないな。海上にいるのに人の姿が見えないから、そう思うのかな・・・。まあいい、何とかして船の中を見れないだろうか?難破船なら生存者がいるかもしれない」
「そうですね・・・」クレイは暫く考えてから、ペンクロフトに尋ねた。
「SPPT-2は使えるかな?」
「多分。このあいだやったテストでは何の問題もなかった」
「わかった。これから射出する。船の上に降ろすから、その後のコントロールはそっちで頼む」
クレイが側面ディスプレイに指先で触れると、そこに十字型の照準線レティクルが表示された。それを指先でスライドさせ、その中心に船を入れると、フェルドランスのAIは目標を認識し、「目標捕捉」の表示がでた。クレイは船に機体を接近させながら席の左側にあるレバーを操作する。フェルドランスが船の上を飛び過ぎざまに腰部背面についている樽のような物体が射出され、真下にある船に向かって飛んでいった。それは船の上空で円筒形の蓋皮をふきとばし、映画撮影用カメラに脚がはえたような物体が中から現れた。それは両脚の間から姿勢制御バーニアを吹かしながら、まるで金属でできた鳥のように降下し、船の上に着地した。重みで甲板の一部が砕け、ぎい、と幽霊船が哭いた。
「よし!いいぞ」
ペンクロフトは機器が正常に動作する事に歓喜し、頬をほころばせた。
机の上の小型モニターには船上の物体から送られてきた映像が映し出されている。
「何かね?これは?」教授が横から覗き込んだ。
「さっき話した支援機器の一つですよ。自走式観測ユニット、SPP-T-2。通称ハリエットです。高性能AIによる自律行動が可能で、こちらの指示通りにも動いてくれます。ちなみにハリエットというのはぼくの幼なじみの人物の名前です。もう何年も会ってないですがね・・・。まあいい、ハリエット。自由探査を開始、データを全て転送せよ」
ペンクロフトの指令がフェルドランスで中継されハリエットに送られる。センサーだらけの頭部ユニットでそれをキャッチしたハリエットは、甲板上を歩き出した。内蔵モーターの駆動音をたてながらハリエットが一歩進むたびに、甲板が不気味な音を立てて軋んだ。眠りを妨げられた亡霊たちが、怒りの呻きを漏らしている、そんな音だった。
甲板の中央まで歩いたところで、ハリエットはメインカメラを回転させて、周りをサーチした。甲板の上は、壊れた機械の部品やロープが散乱している。波をかぶったのか、所々に大きな水たまりがあった。 水は青い空を映している。静まり返った甲板上で、空はやけに空虚なものに見えた。
その時、何かが軋む音が聞こえた。ハリエットのカメラが自動的に音のした方を向く。ドアがあった。風で軋んでいるらしい。 どうやら船室への入り口のようだ。
「あそこから中に入ってみましょう」
ハリエットから送られてきた映像を見ながら、ペンクロフトはハリエットに船内の調査を命じた。
ハリエットはロープ等を巧みにかわしながら、入り口のドアまで進んだ。ドアの向こうは暗く、ほとんど何も見えない。
自動的に暗視センサーのスイッチが入って、ハリエットは内部をスキャンした。
動体反応なし。
カチッと音がしてハリエットのライトが灯る。
そこは、船長室だった。殺風景な内装で、左右の壁には本棚や記録用コンピュータが並んでいる。机もあったが、何故かぐちゃぐちゃに荒らされていた。部屋の隅にはシンクがあるが、いまは暗がりの中でピタピタと水滴が落ちる音だけが響いている。
ハリエットは一歩、部屋の中に入った。
途端に、がちっという金属音がした。何かふんずけたらしい。足元にライトが灯る。
ペンクロフト側のモニターに、床の上にあるものが映し出された。
「・・・・これは・・・何でこんなものが?」
それは旧式の拳銃だった。モニター画面の中で、ハリエットのマニピュレーターがそれを拾い上げる。装弾数6発のリボルバーだった。しかし、弾倉は空になっていた。
「撃ったんですかね?何かを」
ペンクロフトのつぶやきに、キャンベル教授は無言で頷いた。
ペンクロフトがハリエットに船室内を走査を指示、送られてきた画像には、上と下へいく階段があった。上には操舵室、下には船員室や船倉があるのだろう。しかし、人の気配はない。
「誰もいませんね。下に降りてみますか?」
「ちょっと待て。コンピュータのデータをもらっていこう」
「そうですね」
ペンクロフトの命を受けたハリエットはコンピュータ机の所へ行き、マニピュレータから接続端子を突き出して、コンピュータに繋いだ。幾つかあるファイルをコピーする。その中に、「航海日誌」と書かれたファイルもあった。データのコピーが終わると、ハリエットは船長室の奥に向かった。そこには暗い廊下と、下に続く階段があった。ハリエットは階段を降り始めた。
ペンクロフト側のモニターの中で、暗闇をライトが丸く切り開いてゆく。階段を半ばまで降りたとき、あれっ、とペンクロフトが呟いた。
「どうした?」訝しそうに教授が尋ねる。
「壁に何か描かれてます」
ハリエットのカメラが回転し、階段の壁を照らし出した。
それを見たとき、キャンベル教授は、背筋がゾッとするのを覚えた。そして、それを見たことを本能的に後悔した。それは、恐ろしい事を、まさに想像を絶する恐怖を体験した人間によって描かれたものに違いなかった。おそらく半分狂った頭で描いたのだろう。線はひどく乱れ、全体の形も奇妙に歪んでいるが、それは確かに、ある物体を描こうとしたものだった。海の底から現れたある物体を。
「これは・・・」
教授は絶句した。
「これは何だ、もっと詳しく・・・・」
教授が言いかけた、その時だった。
いきなり、モニターの画面ががくんと傾いだ。
「ペンクロフト!船が!」
海上にいるクレイの声が飛び込んできた。
「傾いてる!」
ハリエットが階段の下を照らした。その途端真っ黒い水があふれ出した。どんどん階段を這いあがってくる。
「まずい!船が沈む!」
水は意識ある怪物のように迫ってきた。まるで禁断の地に踏み込んだ者に対する邪神の報復のように見えた。
「緊急待避!急げ!」
ハリエットは再び階段を登り始めた。水は後ろからすごい勢いで追いかけてくる。
甲板にでた瞬間に、水は階段からあふれだした。ハリエットは傾いた甲板の上のほうへ駆け上がる。背後から水が迫った。海の深淵から暗い触手が伸びてきたようにも見えた。
ハリエットは両脚の間にあるバーニアを最大出力で噴射した。甲板の屑を吹き飛ばし、一気に上昇。その瞬間、水がさっきまでハリエットがいた所を飲み込んだ。ハリエットの下で、幽霊船が沈んでいく。
ハリエットの推進剤が切れた。空中を漂う機体に、周回していたフェルドランスが滑り込んでくる。ハリエットの脚部からアンカーが出てフェルドランスに固定された。
「収容した!」
クレイの声に、ペンクロフトが「了解」と返す。
「ふう」彼は管制室で安堵の溜息をもらした。
「やばかったな」
「・・・ああ」
クレイはそう答えながら、さっき自分が見たものについて考えていた。船が沈み始めたとき、何かが船の下にいたような気がしたのだ。ほんの一瞬だったが、何か黒く大きなものが見えたような気がしたのだが・・・。
・・・・・錯覚だ。気のせいさ
クレイは自分に言い聞かせるように呟くと、機体を反転させて、この不気味な海域を去った。
その後にはただ、船の残骸がゆらゆらと海上を漂っていた。