108.平和主義者の罵詈雑言
シータはフッと笑いながらカラサトスを挑発する。
「いえいえ、無粋でした」
そう言って起き上がるカラサトス。その体に付いた土埃を払いこちらを向く。
「私は失礼するとしましょう……またお会いできる日を楽しみにしておりますよ?」
そう言い残してカラサトスは姿を消した。
それと同時に空間が正常に戻り、この一面の青空は元の大聖堂へと戻った。
辺り一帯は既にもぬけの殻であり、人っ子一人いやしない。
「何なんだ、あの化け物は……」
エルメスがポツリと呟く。
「……とりあえず、私は退く。お前はどうする?」
「ここを探索し奴らを追う、事態の収拾は先の神とやらを殺せばつくはずだ……」
エルメスは目を細め、大聖堂の入口を見据えた。
そしてシータは転移魔法で拠点へと戻って行った。
★
全人類――いや、全生命に響く“それ”は、言葉ですらない音だった。
鼓膜を震わせることなく、思考の内に直接流れ込んでくる奇妙な“放送”。
そこに映る二柱の怪物。『ゼン』と『アク』。
その映像が、人々の脳裏に焼き付くように刻み込まれた。
「何なんだ……これは」
誰かが呟く。
それはまるで、神話のワンシーンを切り取ったような光景だった。
花嫁は六本の腕で赤ん坊を抱きながら、虚空を彷徨う腕を振り回していた。
一方の騎士は巨大な黒剣を振るいながら、傾いた天秤を掲げていた。
「おい!何だよこれ!」「頭の中に映像と声が」「え、お前も?」
「おい!?今何て?楽園が始まるとか何とか」
人々は混乱し、恐怖し、そして――
少し時間が経った後再度あの声が流れてきた。
『楽園の説明を忘れていました、それは確かなユートピア』
『喚く混沌ゼンと悟る秩序アクは互いに互いを求め、歩み続けます』
『そして!この二柱が合流した時こそ!このユートピアが作られるのです!』
そう、叫び声が聞こえた時。頭の中に映像が流れる。
それは、生物が『善』『悪』に二分され『悪』側の生物が『善』側の生物に全てを捧げ生きる
世界。『悪』側の生物は『善』側の生物に傅き、そして全てを肯定し奉仕する。
そんな世界の光景だった。
「何だよ……これ……」
誰かが呟く。それは疑問であり、否定の言葉でもあった。
『私たちはこのユートピアを造り上げます!これは決定事項です!』
『では、またお会いできる日を楽しみにしております』
その言葉を最後に、放送は切れた。そして世界は沈黙する。
★
小国トルスートでは、乾いた大地に響く異様な地鳴りが、人々の不安を現実へと引きずり込んでいく。
それは、神の足音だった。
「な、なんだ……!? あの巨人は……!」
兵士の一人が叫ぶ。その声は、恐怖と混乱で上ずっていた。
遠くの地平線に、“黒い影”が一歩ずつ近づいてくる。
巨大な黒ローブを纏い、四本の腕を持つ巨人――アク。
その巨体は大地を震わせながら、ゆっくりと迫りくる。
「おいおい、待てよ。あいつこっちに来る気か?」
一人の傭兵が呆然と呟く。その言葉に、周囲の者はザワつき始める。
「はあ!?あんな奴が通ればこの国どうなんだよ!」
口々に騒ぎ立てる人々。
一方、短い時間が経ち。兵士たちはこの国を守るために準備を整えていた。
指揮官らしき人物の声が響く。兵士たちは急いで陣形を作り、アクに向かって魔法を構えた。
命令を出す指揮官。その表情には、緊張と恐怖が滲んでいた。
「撃て!」
指揮官の声と共に、様々な魔法がアクに直撃する。
だが、それは蟻の抵抗のようなものだった。
「……ああ」
傭兵は絶望したように息を吐く。その視線の先には……当然無傷のアクがいた。
「速く!次の魔法を放て!」
指揮官が叫ぶ。だが、その時すでに遅かった。
神は蟻の抵抗に不快感を抱いた。
その為、蟻を潰すことにしたのだ。
卍天魔法
「【秩序啼く此黒剣】」
その黒剣を天井に掲げ、静かに振り下ろす。
その瞬間、世界が“縦”に割れた。
まるで空そのものが、ひとつのガラスであったかのようにヒビが走り、次の瞬間には、何もかもが割れてゆく。
トルスートの中央区――王宮も兵舎も市場も、すべてが音もなく崩れてゆく。
兵士の一人が目を見開いたまま、自分の体がスローモーションで崩れ落ちていくのを見た。
空気が、重力が、時間さえもまだ反応できていない。
けれど結果だけが、ただ在る。
「う、そ……だろ……?」
誰かが、崩れてゆくで呟く。
だがその声に答える者はいなかった。
トルスートは、全てを崩され物の数秒で形を失った。
★
一方その頃、海上都市ルグリナス―環状都市国家。海の上に浮かぶその都市は、美と調和を讃える信仰国家だった。
その空のど真ん中、静かに“何か”が落ちてきた。
最初はただの“点”だった。
次にそれは“星”となり、やがて“影”へと変わった。
「……あれは……流星?いや、違う、何か、巨大な人影のような……?」
騎士団の一人が空を見上げ、呆然と呟く。
そして、次の瞬間。
ゼンが空から逆さまに現れた。
六本の腕を広げた、花嫁のような姿。
長い布を引きずるように宙を歩きながら、ゼンは逆さのまま“にっこり”と笑った。
その表情には、喜びも怒りも悲しみもない。
ただ、“それが当然”であるという、何の疑問も持たない“狂気的な無垢”が宿っていた。
「おはようございます、皆さま……」
言葉ではなかった。
けれど、そこにいた誰もが、その声と言葉を認識していた。
ゼンの全身から伸びる無数の黒糸が、空中に花を描くように広がっていく。
「な、なんだ!?あの……腕、いや、糸……!」
「やばい、逃げろ!!」
だが、その“花”が開くより前に、全ては終わっていた。
ゼンの右上の手が、小さな赤子を優しくあやしながら。
左下の手が、空間をひと撫で、した。
「ああ、皆さまはこれから気付くのです。気付く暇さえ、ありはしないのだと」
「|【平和主義者の罵詈雑言】《ピースフル・ヘイト》」
その瞬間、ルグリナスは“裏返った”。
青い空は内側から黒へと反転し、建物の外壁と内壁がぐちゃぐちゃにねじれ融合する。
人々の記憶が変化してゆく
「……あれ?僕……誰……?」
「私、何でこんな事……?」
「「ああ、そうか……」」
「僕は悪人だ」「私は善人だ」
そして皆笑い出す。
「さあ、皆で笑いましょう。幸せになるのです……はい、そう、いい子ですねぇ」
ゼンは手の中を赤子をあやしてその頬を撫でる。
「ふぎゃー、おんぎゃー」
ルグリナスに響き渡る住人たちの笑い声。その叫びとも咆哮ともつかない声が、地上を覆い尽くしてゆく。
やがて、一人の青年が声を上げた。
「ああ!そうだ!俺は善人なんだ!」
続けて声が上がる。
「私は悪人です‼善人様、どうか奉仕を!!」
不可解なその現象に、その場にいた誰もが歓喜の表情を浮かべて、跪き、あるいは笑い転げた。
ゼンは空をゆっくりと歩く。逆さのまま。まるで全ての常識をあざ笑うように、白い布を風に揺らしながら。
その手の中の赤子を抱きかかえながら、もう二本の腕で顔を覆い隠し。
「いないいない――ばぁ」
手の中の赤子は笑いなどしない、ただそその産声を響かせる。