遭遇
毎度のことながら大変遅くなりました。
ふっと一つ息を吐いて空を見上げる。
漂白したような二つの満月は一人ぼっちの未宇を見ても嘲笑わなかった。
どうせなら散歩でもして帰ろう。
ゆっくり屋根から降りて、詩乃が駆けていった方とは反対向きに歩き出す。
静かな嵐のような人だった。
淡々としながらも自分のペースに巻き込んでいく。
しかし未宇はそれが嫌ではなかった。
未宇自身が人との会話を得意としていない上、華やかすぎる相手でも気後れするので、寧ろ話しやすいとさえ思えた。
様々な色や形の家が続く。
ぐねぐねと適当に歩き回ってみてもあまり変化がない。
やはり皆濃淡が少なく、どれも印象に残らなかった。
どれほど歩いたか分からないが、気まぐれに曲がった路地の先に公園が見えた。道路の右側に木の枝が大きく張り出している。
何と無く気になって、自然と足がそちらへ向かう。
公園の端まで来ると、存外広いことがわかった。
手前には木々が多く植えられ、ベンチや遊具が設置してある。
足元には背の低い雑草が生い茂り、端にはよく手入れされていそうな花壇もあった。
奥には子供たちが走り回れそうな砂場が見える。
未宇はどこか懐かしい気分になった。
こんな公園で走り回っていた時期もあったはずなのだ。
草花が揺れている。
風が吹くのか、と少しだけ意外に思った。
何故かこの世界では全てが止まっているように感じてしまう。
少しずつ、しかし着実に奥に進んでゆく。
遊具地帯と砂場は生垣で区切られ、中央に出入りできる隙間があった。
突然、激しく風が吹き抜けた。
樹木は互いに枝葉を叩きつけ、ガサガサと音を出す。
風が止んでも、慰め合うように葉を揺らしていた。
未宇はいつの間にか止まっていた歩みを再開し、生垣に近づいていく。
砂場に足を踏み入れたのとほぼ同時。未宇の左側から、ゴッというかぐちゃっというか、木を殴った音と緩い泥団子を落とした音を混ぜたような音が聞こえた。
音がした方を振り向くと鉈を持った少年がいた。
そしてその少年が将に今叩き殺したであろう人間が消え、鉈に付いた血が淡い薄暮の粒子に散っていく瞬間だった。
「あ」
頭が真っ白になった。
すぐに、逃げなくては、という焦燥に駆られるが、足はぎこちなく二三歩後退るだけで満足に動いてはくれない。
「あー。見たね、見たよね」
少年は昔話に出てくる妖怪のようなことを言いながら近づいて来る。
「んー、あれ?見覚えない顔だなぁ」
どんどん近づいて来る。それでも未宇は動けない。
「ここ来たばっかり?」
もう手が触れる距離である。反って下手に動く訳にもいかない。
無言を肯定と受け取ったようで流れるように続けた。
「ボクさぁ、不本意ながらある派閥に入ってるんだよね。反射的に殺さなかったのも何かの縁だし、どう?こっちおいでよ。守ってあげるよ」
そのまま未宇の腕を掴もうとするので、未宇は咄嗟に腕を引いてしまった。
あまりに予想外だったのか、少年は一瞬ぽかんとして、しかしすぐに目を細めた。
「へぇ。これは拒絶と受け取っていいよね」
真っ青になった未宇の首を素速く掴む。
「んぐっ」
片手とは思えない強い力で、未宇は抗う間もなく吊り上げられた。
苦しい。息ができない。
引き剥がそうと試みるが、指を滑り込ませることさえできない。
それなら寧ろ右手の鉈で殺してくれた方が痛いのは一瞬だろうに。
次第に手に力が入らなくなっていく。
視界もぼやけて少年の輪郭が崩れていく。
あるいはぼやけるのは涙のせいか。
「はっ、情けねぇ。付いて来ときゃよか……っ」
突然、少年の言葉が不自然に途切れた。
それと同時に少年の左肩の少し下辺りから黒い何かが勢いよく飛び出し、そのまま未宇の胸に吸い込まれた。
すぐに視界がクリアなモノクロに変わりやや下がったことで、未宇は自分が即死したことを知る。
貫かれた胸の上を圧えながら少年が振り返り、そこでやっと少年の背後から二人を襲った正体が見えた。
黒い犬。
やや大きめだが一般的の範疇に収まる大きさの犬である。
ただ異様なのは全身が漆黒であることだった。
「悪霊がぁっ」
少年は叫びながら大きく跳躍して犬に接近する。
犬も身を屈め、走り出すかに思えたが、次の瞬間、その身体が帯状に弛んだ。
そう、弛んだだけである。
ざわざわと蠢きながら弛んだ身体を起こすと、きゅっと帯が締まり大きな熊になった。
熊が咆哮を轟かせる。
少年はそれに驚く様子もなく、怪我をしていることを感じさせない動きで突っ込んだ。
二者が交差する。
熊の腕がばらりと解け数本の帯となって少年に迫る。
少年は右手を振って鉈で素早く三本の帯を切り、空いている左手で残りの帯を掴んだ。
そのまま勢いよく鉈を投げ、左手で掴んでいた帯をまとめて引き千切る。
千切り取られた短い帯は漆黒の粒子となって消えた。
少年の投げた鉈は熊の首筋に深く食い込んでいたが、熊はあまり気にする様子はない。
黒煙のように粒子を出しながらも再び身体を膨れ上がらせ、締まると今度は虎になった。
切られた帯も長さを取り戻す。
少年は依然として千切り続けていたが、ついに右肘のやや上に帯の攻撃を食らい、切断された。
それでも足を使って帯を千切るが、機動力を削がれてはその状態も長く続かない。
「くっっ、そ……」
すぐに左肩や脚、腹などを複数貫かれ、消えた。
虎もとい悪霊は犬の姿に戻り去っていく。
身震いと共に抜け落ちた鉈だけが残された。
未宇が砂場に入ってから五分も経たない内の出来事であった。
ちょっと少ないけど今日はここまで。