ユリアーネ、教師になる?
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トリスタンと話をした一か月後には、領地の学校で教師をするためにユリアーネは王都を発った。領地までは馬車で三週間だ、ひたすら揺られて、揺られ続けた。
領主であるトリスタンは海を渡って外国にいることが多いため、領地は叔父夫婦に管理を任せている。子供がいない叔父夫婦はユリアーネを娘のように思っていて、再会をそれは大変喜んでくれた。その歓迎ぶりは三年前まで使っていた客間を、十四歳のユリアーネに合うように模様替えしてくれていたほどだ。
ユリアーネは三歳から五歳までの二年間を領地で過ごしていたし、それ以降も三年前までは毎年領地を訪れていた。戻るのは三年振りとはいえ、変わった子供だったユリアーネの印象は誰にとっても強烈だ。使用人は誰もユリアーネを忘れていない上に、歓迎してくれている。その歓迎ぶりを表すように王都の料理長が送っていた固い焼き菓子のレシピでお菓子まで準備されており、領地に着くなりいつもの味を楽しむことができた。
お茶を終えたユリアーネが庭に向かって広い廊下を歩いていると、三年前の出来事が頭に蘇る。
三年前の今と同じ初夏の頃だったと思う。この廊下の前方から初老のメイドが歩いてきた。メイドは五人が横並びで歩いても問題なく行き交える広い廊下の端に寄り、通り過ぎようとするユリアーネに頭を下げた。そのまま立ち去ろうとしたユリアーネだったが、メイドが初めて見る顔だったので挨拶をしようと思い行動に移した。方向転換をして姿勢良く優雅に進むと、端に寄ったメイドの前で立ち止まる。
ユリアーネは手に持った菫色の扇子をスッとメイドに向け、「貴方は初めて見る顔ね。私はユ……」と自己紹介を始めた。
ユリアーネが名前を言い終える前にメイドが直立不動のまま倒れ、『ゴツン』という音と共に後頭部を床に打ち付けてしまった。その様子に呆然と立ち尽くすユリアーネの後ろから、侍女のマリーがメイドの様子を確認した。
するとメイドは薄茶色の目をカッと見開き、身体を震わせながらユリアーネを指差した。そして「ヴ、ヴ、……ヴィルヘルミーナ……」と喉に張り付く声を絞り出すと、再び白目を剥いて意識を失ったのだ。
夢に見るほどではなかったが、ユリアーネにとってなかなか忘れられない出来事になったのは間違いない。
「あの時のメイド、アリスは見かけないけど、どうしているのかしら?」
侍女のマリーに尋ねると、「アリスさんは腰を痛めてしまって……。今年から静養も兼ねてウィルターの別荘に配置換えになったのですよ」と答えてくれた。
「頭を打った後は、腰を悪くしたの……。何だか踏んだり蹴ったりね」
「でも、ウィルターは温暖ですし、腰の調子も良いようですよ。お嬢様が気にされていると知れば喜ぶでしょうから、伝えておきますね」
マリーはそう言って微笑んだ。
ユリアーネは翌日から領地にある学校の一つに赴き、自分より小さい子供だけでなく自分より大きい者にも読み書きや計算を教えた。ユリアーネ先生の第一歩だ。
しかし、人に教えることは、ユリアーネが思っていた以上に簡単ではなかった。元より知識があるユリアーネは、『分からない』という気持ちが分からない。だから『何でこんな簡単なことが分からないのだ?』と、顔にも言葉にも出してイライラしてしまう。
そんなユリアーネの態度は、生徒達からしたら『領主の娘であるお子様貴族が、先生気取りで偉そうにしている』としか見えない。お子様貴族が傲慢な態度で難しいことばかり言っているのが、面白いはずがないのだ。
今でこそ領主に従っているが、かつては領主を見下していた気性の激しい領民達だ。貴族なんかより、領民の方があからさまな態度で拒否の姿勢を示してくる。あっという間にユリアーネの授業には、誰も参加しなくなった。ユリアーネ先生の第一歩は、踏み出すと同時に崩れ落ちた。
トリスタンが言っていた『教師の真似事』という言葉が、やっとユリアーネの胸に響いた。
自分くらい優秀であれば、教師なんて簡単にできると思っていたのだ。優秀な自分が教えるのであれば、みんながありがたがって教えを乞うと思っていたのだ。
ユリアーネのプライドと期待は、粉々に弾け飛んだ。
誰も来ない教室に一人で立ち、屋敷に帰って枕に涙をこぼす日々の中、ユリアーネの心は折れた。
「もう、帰ろう……」
トリスタンに「やっぱりな」とガッカリされてもいい、この状況の方が耐えられない。そう思っていた時に、エリアスから手紙が届いた。
エリアスやコーイング家の近況が書き綴られている手紙の最後に、『誰かの為に頑張り、自分の知識を人の役に立てるために動き出したユリアーネを応援している』と書かれていた。手紙を抱きしめたユリアーネの心が震える。
いつもの悔し涙とは違う、自分自身を心から反省する後悔の涙が溢れて止まらない。
「私は、全然駄目だよ、師匠……」
その日、ユリアーネは誰に責任転嫁することなく、自分の愚かさを恥じて涙を流し続けた。おかげで、やっとスッキリした気持ちで眠りに落ちた。
翌日、いつもより緊張した表情で学校に到着したユリアーネは、「一言でいいから、今までの自分の態度を謝罪する時間をもらえないでしょうか?」とユリアーネの十歳は年上であろうカイザスタ先生に相談した。
先生はにこやかに「いいですよ」と快諾してくれ、「私の授業前に少し時間を取りましょう」と言ってくれた。今までの自分の態度を考えると、先生にも拒絶されるかもしれないと思っていた。だから、カイザスタ先生の協力は、ユリアーネにとって本当にありがたいものだった。
ユリアーネが教室に入ると、生徒達は激しい敵意を向けてくる。社交界でユリアーネに向けられてきた敵意は、可愛いものだったのだと思わざるを得ない。甘やかされた貴族の敵意なんて嫌味成分が高いだけで心を抉るものではなかったと、ユリアーネはこの場で思い知った。
刺すような敵意の中、心を決めたユリアーネは一歩前に進み出る。
「私は誰かの為に頑張り、人の役に立ちたくてここに来ました。ですが実際の私は、自分の為にしか頑張っていなかった。自分の知識をみんなに押し付けて人の役に立った気になって、自分が気分良くなりたかっただけでした。嫌な気持ちにさせてしまい、本当にごめんなさい。もう一度チャンスがもらえるなら、みんなの話を聞いて一緒に勉強をしたいと思います。授業に来てもらえるのを、待っています」
何とか笑顔で言い終えたユリアーネが教室を出ると、一番年配のドルトル先生が待っていてくれて「良く気づいて、良く言えましたね」と微笑んだ。
「ドルトル先生やカイザスタ先生のおかげです。自分の甘さが恥ずかしいです。信頼関係もない貴族の小娘が偉そうにやって来て、教師ですと言っても受け入れられるはずがありません」
「ここは平民学校です。ユリアーネ様とは、これまで生きてきた環境も、これから生きていく環境も違い過ぎるのです」
「ドルトル先生の仰る通りです。私はみんなの生活を理解しようともしなかった。自分の世界にしか目を向けず、ガートラン王立学園に通える学問を身に付けさせようとしてしまいました」
「学校がもっと地域に浸透していけば、いずれ王立学園を目指す子も出てくるかもしれません。ユリアーネ様の存在が、子供達の向上心につながると私は思いますよ」
「私に憧れる人はいるでしょうか? 嫌われていますから、王立学園を毛嫌いする方向に向かってしまいそうですね」
「これからですよ。今日からのユリアーネ様がどう行動するかが大事なのです」
自信を失ったユリアーネを励ますように、ドルトルは微笑んだ。
その日も次の日もユリアーネの授業には誰も来なかった。それでもユリアーネは気長に待った。最初に来てくれたのは、貴族に憧れるという七歳の女の子が二人だった。二人とお喋りをしながら興味があると言う貴族のマナーを楽しく教え、少しずつ読み書きも進めた。
生徒の生活を知るため、ユリアーネも積極的に外に出て見て回り、分からないことは領民や生徒に教えてもらった。すると、ユリアーネが生徒のことを知ろうとしているのが分かってもらえ、少しずつ生徒が戻ってきてくれた。
みんなの生活にどんな勉強が必要なのか教えてもらうため、街や港に出て実地授業をすることもしばしばあった。
港では計算ができない文字が読めないせいで、ずる賢い商人に騙されることもある。正にそんな場面に遭遇したユリアーネが、それを阻止する一幕もあった。
偶然の産物だったが、ユリアーネも生徒達も自分が思っている以上に読み書き計算が必要だと知った事件となった。それもあってか、生徒達も授業を真剣に受けるようになり、自分達が生きていくのにどんな知識が必要なのか一緒に考えていくようになる。
いつの間にかユリアーネ先生の授業をサボる生徒はいなくなったのだ。
「一年半前に初めて会った時は、貴族としての考えを押し付けてみんなに迷惑をかけました」
ユリアーネが別れの挨拶をそう切り出すと、生徒達はドッと笑って「本当にな」「嫌いだった」と口々に話し出す。
早いものでユリアーネが領地に来て一年半が経った。当初は一年の予定だったが、もっとみんなと一緒に学びたいと欲の出たユリアーネは、学院入学ギリギリまで期限を延ばしたのだ。その日々も、遂に今日で終わりだ。ガートラン王立学院に通うため、ユリアーネは今日領地を離れ王都に帰る。
「正直に言うと、もう駄目かと思っていたわ。でも、クレアとアメリが教室に来てくれた。他のみんなも戻ってきてくれた。みんなが私を見捨てずに一緒に勉強をしてくれたので、私も一年半前の自分より随分逞しくなれました。私は王都に戻ってしまうけど、みんなの先生であることは変わらない。だから、何かあれば連絡してください。私は協力を惜しみません」
「先生とうちの祖父ちゃんが作った肥料の改良をしたい時も連絡して良い?」
ユリアーネは満面の笑みで「もちろん連絡して」と答えた。
コーイング家の大きな馬車が遠くから近づいてくるのが見える。全員が別れの時なのだと実感し、和やかだった雰囲気が急にしんみりする。
一人二人と涙が伝播して、ユリアーネの瞳からも涙が溢れる。
「私、これでも、ここの領主の娘なの。だから、いつでもみんなに会いに来るわ」
ユリアーネが冗談交じりに言うと、生徒達も涙を拭いて「忘れてた、先生は貴族だったんだよな」「そうだよ、令嬢なんだよ」と一緒になって笑い出す。
馬車が着き、御者が扉を開ける。
生徒ひとりひとりと握手を交わしたユリアーネは、貴族令嬢ではなく『ユリアーネ先生』らしく「じゃあね」と手を振って馬車に乗り込んだ。
泣いている顔を見せるのは恥ずかしいが、馬車の窓を開けみんなの声が聞こえる間中、ユリアーネも声を上げ手を振り続けた。
三週間乗り続けた馬車が屋敷に入ると、馬車止めでそわそわした両親とフォルカーとエリアスが待っているのが見えた。入学試験で一度帰って来たが、その時はとんぼ返りで領地に帰ってしまったのだ。だから、今日が一年半ぶりの帰宅だ。
馬車が止まるとトリスタンに手を貸してもらって、ユリアーネは馬車から降りた。「ただ今戻りました」と淑女の礼を久しぶりに披露した。
ニヤッと笑ったフォルカーが「貴族だってこと忘れていなかったんだな」と揶揄ったのに対して、ユリアーネは「兄様の貴族らしい顔を見て思い出しました」と返した。
その様子に両親とエリアスはブハッと吹き出し、フォルカーだけ憮然としている。
クロエがギュッとユリアーネを抱きしめて、「待ってたわ、お帰りなさい、ユリアーネ」と言って迎えてくれた。順番にトリスタン、エリアスとギュッと抱きしめてくれたが、フォルカーだけ「生意気だ」とコメント付きで鼻を摘ままれた。
領地での生活も楽しく充実していたが、『ここが自分の家なのだ』と思うと、ユリアーネはホッとしつつ鼻をさすった。
五人がサロンに入ると、早速トリスタンがこの一年半の様子を聞きたがる。
ユリアーネはもちろん領地にいる者にも命じて、娘の様子は手紙で報告を受けていた。しかし、トリスタンはそんな報告では足りず、ユリアーネが心配で領地に駆け付けたくて仕方がなかった。だが、周りには「ユリアーネが帰って来るまでは領地に会いに行くことを禁ずる」と言ってしまった手前、会いに行くのを我慢するしかなかった。
「一カ月もしない内に尻尾を巻いて帰ってくるかと思ったのに、学園に入学するギリギリまでいたいから滞在を伸ばして欲しいと手紙をもらった時は驚いた」
「驚いたどころか、また白目剥いて倒れちゃったのよねぇ」
クロエの暴露に、今度はユリアーネが驚く。
トリスタンは照れた顔のままゴホンと咳払いをして、「最初は苦労したけど、領民と同じ目線になってからは素晴らしい先生ぶりだったと聞いているよ」と誇らしげに言った。
「お父様には本当に感謝しています。この経験が無ければ、私は自分の力を過信したままでした。『自分の知識を人の為に役立てたい』なんて今思えば、何の苦労も知らないお嬢様の戯言です。貴族としての務めからも逃げ出しておきながら、私は偉そうにも自分の知識があれば領地を良くできると思い上がっていたのです」
自嘲気味に当時の自分を振り返ったユリアーネの言葉に、四人が聞き入っている。
領地での生活を思い出しながら微笑むユリアーネは、荒波に揉まれただけあって四人が記憶している笑顔より少し大人びている。
「私は生徒達や領民にたくさんのことを教えてもらいました。だから、逃げるのは、もう止めます。政略結婚も受け入れます。社交界だってずる賢く渡り切ってみせます。それが領地の繁栄に、彼等の生活が豊かになることに繋がるのであれば喜ばしいことです」
想像以上のユリアーネの成長に、トリスタンも言葉が詰まってしまう。
かつてトリスタンが苦労したように、領民達にやり込められすぐに戻ってくると本当に思っていたのだ。それで自分の甘さを知れれば、それだけでもユリアーネの力になる。そう思っていたのに、トリスタンが思っていた以上に逞しく大きな成果を持って帰ってきた。
「……ユリアーネの決意は嬉しいよ。この一年半で本当に成長したのだなと改めて実感している。今まで以上に私達の自慢の娘だ」
そう言って成長した娘を眩しそうに見つめたトリスタンは、涙ぐむクロエに顔を向けた。涙を堪えたクロエは、ユリアーネに向かってトリスタンの言葉を肯定するようにうなずいている。
「だが、一年半前にも言ったけどコーイング家は、ユリアーネを政略結婚させるほど困窮していない。領地についても、ユリアーネが支援をする必要があると思うことを教えて欲しい。領主として私が責任をもって措置を講じる。それくらいの甲斐性は私にもあるつもりだよ」
「お父様、ありがとうございます。領地の気になる点は報告書にしてまとめましたので、後で提出しますね」
後でトリスタンに渡された報告書の束は、十センチを超えていた。
夕食を共にしたエリアスもそろそろ帰る時間だ。
ニッコリと微笑んだクロエがトリスタンとフォルカーの手を握り、「邪魔ばかり入って話足りないだろうから、エリアスを馬車まで送ってあげなさい」とユリアーネに言ってくれる。クロエの言う通りで、ろくにエリアスと話ができていなかったユリアーネは喜んで返事を返した。
ユリアーネとエリアスは二人で、少しひんやりとする外に出た。大きな満月が暗い空を照らし、月明かりで馬車までの道も青白い光に照らされている。
「一年半前の、ユリアーネの気持ちが分かったよ」
エリアスの突然の言葉がユリアーネには何のことか分からず、「えっ?」と間抜けな声しか出ない。
「急激に成長してしまったユリアーネに置いていかれた気になってる。俺ももっと頑張らないと、ちょっと追い付けない距離が開いたな」
「エリアス様は、ずっと人生の師匠です。今回だって本当は、お父様の言う通り尻尾を巻いて逃げ帰ろうとしたんです。そんな時にエリアス様からいただいた手紙に励まされて、何とかやり遂げられました。いつでも私の背中を押してくれるのは、エリアス様です」
ニッコリと微笑んだユリアーネに見とれていたエリアスは、ダークブロンドの髪を一房取るとそっと口づけた。そして衝撃のあまり無表情のまま固まったユリアーネに満面の笑みを向けた。
「ユリアーネの成長を側で見れなかったのも、こんなにも綺麗になったユリアーネを一番側で見ていられなかったのも悔やまれるよ。これからは、ずっと側で見守らせてね」
エリアスはそう言うと馬車に向かって小走りに走って行った。ユリアーネを夜風に当てないためだったのだろうが、呆然としているユリアーネはシュスター家の馬車が門から出て行ってもそのまま立ち尽くしていた。気を遣っていた侍女が迎えに出て来て、揺すり起こされ目が覚めた。
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