プロローグ2
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このまま読んでいただければ、嬉しいです。
これでプロローグは終わりです。
夜に次の話を投稿予定です。次の話から主人公が出てきます。
ペンを走らせる音しか許されない部屋で、低く冷たい声が発せられる。
「話にならん、やり直せ」
この財務大臣の執務室には、誰もが知っている別名がある。『魔王の間』だ。そこに魔王として君臨するのが、部下が徹夜で仕上げた書類を一言で突き返した男、シルヴェストル・シュスターだ。
公爵家の嫡男として既に伯爵の爵位を得ている彼の領地は、右肩上がりで収益を上げている。不言実行で気が付けばいつも恐ろしいほどの成果をあげているシルヴェストルは、自分以外にも自分と同様の能力を求める。そのためシルヴェストルの部下達は、常に息も絶え絶えの状態だ。
そのシルヴェストルの下へ、血相を変えた国王が飛び込んできた。
国王とシルヴェストルは歳が近く、子供の頃より仲が良い。その気安さから、ノックもなく国王が『魔王の間』にやって来ることは多々ある。だが今日の国王の様子がいつもと違うのは、誰の目にも明らかだった。
搔きむしったのであろう乱れた黒髪、焦点が合わない赤い瞳。激しく取り乱した国王を見たシルヴェストルは、部下を全員部屋から出した。
呆然としている国王を無理矢理ソファに座らせ、シルヴェストル自ら水を注いだグラスを渡す。
「何があったのですか?」
シルヴェストルの問いかけに答える代わりに、国王は一気に水を飲み干した。そしてグラスを握り締めたまま、そのグラスを睨みつける。
「……ブリュノが、ミーナの前に現れた」
その名前を聞いただけで、シルヴェストルの怒りの沸点は最高潮になる。
シルヴェストルはハイマイト国の貴族としては珍しく、留学して他国の学校で三年間学んだ経験がある。留学先はクリステンス国だったため、シルヴェストルが三年生の時にヴィルヘルミーナが同じ学院に入学してきた。一緒の学院とはいってもヴィルヘルミーナは王族だ、挨拶する程度で二人に接点はなかった。
その二人の接点となった事件が、ブリュノが起こしたヴィルヘルミーナ誘拐未遂だ。
幼き頃からヴィルヘルミーナに対して異様なほどの執着を見せていたブリュノは、学院内は監視の目が緩むことを利用してヴィルヘルミーナを連れ去ろうとした。たまたまその現場に居合わせたシルヴェストルが、ブリュノを叩きのめしてヴィルヘルミーナを救ったのだ。
だから、ブリュノと聞いただけで当時を思い出し、激しい怒りが湧いてくる。それと同時に、ブリュノの空っぽの身体からドロリと滴り落ちる狂気を思い出し、身体に不快感がまとわりつく。
怒れる緑の目を国王に向けたシルヴェストルは、「そんなはずないだろう」と声を荒げる。
国王の赤い目にも、怒りと悲しみが湧き出してくる。国王はその感情を振り払おうと、頭を掻きむしるが上手くいかない。
「分からない、どうしてかは分からないが、ブリュノが現れ、ミーナが『淑女の証』で命を絶った……」
魔王の機嫌を損なわないために常に静かな執務室だが、今の静けさは別次元だ。二人の周りだけ、すとんと真っ暗な奈落の底に落ちてしまったような静寂さだ。
妻の死に直面した国王はともかく、たった今話を聞いたばかりのシルヴェストルは、ヴィルヘルミーナの死を現実として受け止められない。
「……王妃様は、本当に……?」
受け入れたくなくて、シルヴェストルは死をほのめかす言葉を発せられない。だが、自分の目の前でガックリと肩を落とす国王を見れば、確かなことなのだと思い知らされる。
諦めてしまった国王の態度に急に怒りが湧き、シルヴェストルの口調が荒くなる。
「『淑女の証』を使ったって、どういうことだ?」
シルヴェストルの疑問に、国王はうなだれるだけだ。
国王のこの態度を見れば、なぜヴィルヘルミーナが『淑女の証』を使ったのかが分かる。そしてそれは、シルヴェストルの胸に、ぽつりと黒い疑念を落とした。
「陛下は、王妃様の不貞を、疑っていたのか?」
シルヴェストルが静かな怒りを込めて問いかけると、国王がビクッと肩を震わせた。
この国王の反応で疑念を抱いていたと確信したシルヴェストルは、激しい怒りで語気も荒くなる。
「ブリュノは異常者だぞ? 『淑女の証』で証明させる必要は一切ないはずだ!」
国王は後悔で歪む自分の顔をシルヴェストルに見せない為に、両手で顔を覆った。手の隙間から掠れる声が発せられる。
「ブリュノのことは記憶から消えていた。忘れていたのだ……。ただ、お前とミーナの仲を、注進してくる者がいて……。私は、ミーナに辛く当たってしまった……だから、ミーナはブリュノの件も含めて私に証を立てたのだ……」
「馬鹿な……」
シルヴェストルは息をのんだ。
信じられなかった。
自分が国王に信用されていなかったことが。国王が王妃を信じていなかったことが。それでなくても辛い立場の王妃を国王自ら冷遇していたことが。王妃が何も言わずに冷遇に耐えていたことが。何もかもが、シルヴェストルには信じられなかった。
誰かが国王に吹き込んだ虚構が、真実に勝ったのだ。そんな馬鹿げたことが、こんな悲劇を、こんな結末を生んだなんて信じられなかった。
胸に一滴落とされた黒い疑念が、大きな渦となって身体中で暴れまわる。
シルヴェストルは真実をあえて言葉にして、被害者を装う国王にぶつけた。
「誰かが作り上げた物語を陛下が信じたことで傷つけられた王妃が、自分の身の証を立てるために『淑女の証』で命を絶ったのだな……」
真実を受け入れたくない国王は頭を抱え込み、「でも、お前達は、私に隠れて……」とブツブツ呟いていた。
『淑女の証』は、王妃の母国であるクリステンス国の女性王族が持つ懐剣だ。
かつて大陸の至る所で戦争が起きていた頃、城を落とされかけたクリステンス国の王妃は、伴侶や家族に自分の身の証を立てる手段を欲した。そして敵国の手にかかる前に、懐剣で自分の命を絶ったのだ。城に戻るなり、その事実を知ったクリステンス王は大いに怒り、相手国を滅ぼした。
それ以来クリステンス国の王女が、花嫁道具の一つとして持たされる懐剣が『淑女の証』だ。そして、最初に使った王妃以外に、今まで『淑女の証』を使った者はいない……。
シルヴェストルは、体中から力が抜けた。真実なんて一つもない、虚構に踊らされ、ヴィルヘルミーナは死んだのだ。
自分の過ちを認められずブツブツと呟き続ける男は、こんなにも愚かな人間だったのだろうか? シルヴェストルは落胆していた。
自分は今までこの愚かな王に尽くしてきたのか? 家族を犠牲にしてまで、尽くしてきたのか……。
「……アデライトは? 今日の午後からアデライトは王妃に会う予定だった」
シルヴェストルは、自分の妻の予定を思い出す。
身体を起こした国王が言い難そうに顔を歪める。それを見たシルヴェストルには、もう嫌な予感しかしない。
「……ミーナの侍女が、アデライトが礼拝堂にミーナを呼び出したと言っている。だから、アデライトがブリュノを手引きしたのだと……」
目の前の男が国王陛下だとか、年上だとかは、もう関係がなかった。信じられないほど愚かな男に、シルヴェストルは侮蔑の限りを尽くした視線を送った。
国王は滝のように汗をかき、しどろもどろで言い訳を始める。
「城に来るはずのアデライトが、来ていないんだ……。手引きしたと発覚することを恐れて、逃げ出したと思われている……」
シルヴェストルは王の言葉を無視して部屋から飛び出した。
アデライトは王妃が気を許している、唯一の大切な友人だ。アデライト自身も王妃を幼少の頃より尊敬しており、以来ずっと親交を深めてきた。そんなアデライトが王妃を裏切り、罠にかけるはずがない。アデライトは利用されたのだ。
すぐにそう気が付いたシルヴェストルは、自宅に戻りアデライトの予定を確認した。
最近気が沈みがちな王妃のために郊外の薬草園にハーブティーを買いに行ったと聞いて、シルヴェストルはすぐに薬草園周辺の聞き込みを開始させた。
人通りの少ない場所であったが、範囲を広げ粘り強く回った結果、物凄いスピードで山中に突っ込んでいく馬車を見たという子供がいた。だが残念ながら、子供は馬車が山に入っていく所しか見ていなかった。
山のどこにいるかは分からないので人海戦術で山中を隈なく捜索しているが、範囲が広すぎて今日中に見つけ出すのは困難かもしれない。しかし今日中に見つけられなければ、アデライトの命が危ない可能性が高くなる。
茜色の大きな夕日が辛うじて辺りを照らしているが、影に沈む部分の方が多くなり探す限界が近づいている。人の手が入っていない山中は、日中でも陽の光が届き切らず薄暗い。背の高い木々が夕日を遮り、暗がりばかりが増えていく。捜索が続けられる時間もあと僅かだ。そう思うとシルヴェストルは気持ちが逸り、大声で叫び出したくなる。
そんな時に、自分以外の大声が山中に響き渡った。
「だんなさまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
山中の谷間に潜っていた私兵が、シルヴェストルを呼ぶ。シルヴェストルと共に、医師や他の使用人も声のする方へと走り出した。
シルヴェストルが駆け付けた雑木林には、馬車が通れるような道はない。あるのは細い獣道で、道のすぐ脇は草木で覆われ底が見えないほど深い崖だ。
その崖には、明らかに何か大きいものが滑り落ちた跡がある。底にめがけて草木が抉られ、その道筋だけ土が剝き出しになっているのだ。この場所から馬車が落ちたのは間違いない。馬車が落ちた道筋が一直線の道になっているが、半分以上は暗い闇に覆われていて確認できない。
これほどの深さを落ちたのかと思うと、アデライトの身が心配でならない。だが、シルヴェストルにできるのは、無事を祈ることだけだ。
私兵が血だらけのアデライトを抱えて、道を上がって来た。
アデライトの真っ白な顔は、いつも以上に血の気がない。だらりと落ちて時計の振り子のように揺れる腕は、自らの意思で動く気配がない。胸から流れる赤い血が、アデライトらしい落ち着いた色合いのベージュのドレスを真っ赤に染めていた。
その様子を見たシルヴェストルは、アデライトを失う恐怖で動きが止まってしまう。
今朝は何の話をしただろうか? 確か朝食前に聞いた話では、王妃に会いに王城に行くと言っていた。シルヴェストルや部下達に何か差し入れでもと聞かれた気がするが、予算の確認の件で頭がいっぱいで聞き流した。そんな自分の態度に、アデライトがどんな表情をしていたかも確認していない。
いや、今更だ。結婚してから二十五年、ずっとこんな状態だ。目を見て話をしたのは、一体いつだろうか? 仕事に没頭する自分に寛容なアデライトに甘え切っていたのだと、今になって思い知らされる。
アデライトの惨状を前に頭が真っ白になったシルヴェストルに向かって、昔馴染みの医師が怒鳴り声をあげる。
「おい、しっかりしろ! 奥方には息があるぞ。お前がそんな風でどうする。この、未熟者が!」
医者の声で意識を引き戻したシルヴェストルは、ぶらぶらと揺れているアデライトの手を握った。
「アデライト、アデライト、大丈夫だ。もう大丈夫だ。医者もいる。安心しろ」
叫びながら、自分の役立たずさに愕然とする。励ます言葉さえも言えない、自分が側にいることでアデライトが安心できるか自信もない。
シルヴェストルが自分の不甲斐なさに立ち尽くしていると、また医者の怒鳴り声が辺りに響いた。
「今お前に出来ることは、奥方の手をしっかり握ることだ。しっかりやれ!」
シルヴェストルは緩みかけた手に力を込めた。
国王の執務室で一番目を引くのは、国王の執務机の背後だろう。国王の執務机の後ろに飾られた王家の紋章である鷲と王冠は大きく見事な金の装飾で、国王が国を背負っている様子を表している。
国王の背後が一番煌びやかだが、その他の壁にも金色で蔦や花が描かれている。臙脂色のカーテンにも金糸の刺繍がふんだんに施され、執務机を始めとした焦げ茶色の重厚な木製家具にも金色の装飾が使われている。歴代の国王は金色を好む人物が多かったことが見て取れる。
そんな煌びやかな部屋の中で、国王がシルヴェストルに頭を下げる。
「すまない……」
もちろん、国王が臣下に頭を下げる所を他の者に見せる訳にはいかないので、部屋の中には国王とシルヴェストルの二人だけだ。
シルヴェストルは何も言わずに黙って、一枚の書状を国王の執務机に置いた。
書状に目を落とした国王がハッと息をのみ、縋るようにシルヴェストルを見た。
「クライトン家を裁けないのは、本当に申し訳ないと思っている。しかし、王弟の妻が王妃を陥れたと他国に知れ渡れば、我が国の評判は地に墜ちる。クリステンス国とだって戦争になりかねない。国を守るために妻の死を捏造するのは、私だって本意ではないのだ」
シルヴェストルは何も言わない。ただ目が物語っている。「お前が守ったのは、本当に国なのか? 自分を守ったのではないか?」と。
国王はシルヴェストルと目を合わせていられず、書状をクシャリと握りつぶした。
シルヴェストルは右胸に手を置き、臣下の礼を取ると、何も言わずに王の執務室を後にした。
部屋に現れたシルヴェストルを見たアデライトは、菫色の瞳を見開いて驚きを露わにした。
「こんな昼間に旦那様が? わたくしは死んでしまうのかしら?」
「そういう冗談は止めなさい!」
シルヴェストルは普通にしていても険がある緑の瞳でアデライトを制した。
アデライトはクスクス笑っているが、その顔色は青白い。
あの日アデライトは、幸いにも命を取り留めた。しかし、命に係わる大怪我だったため、ベッドから降りることは一カ月経った今も叶わない。
「旦那様のご機嫌が悪いということは、陛下はライサ様とクライトン家を表立って罰する気はないのですね」
「そうだ」
「クリステンス国には真相を伝えたのですか?」
「一部だけな……。ブリュノが幽閉先を勝手に抜け出して王妃を襲い、身の危険を感じた王妃が自ら命を絶ったと伝えているそうだ。目の前で王妃の死を見たブリュノは、完全に自我を失っているそうだ。全く話が通じないから、ライサが手引きしたこともばれないと国王は踏んだんだろう。それにブリュノを国から出したのはクリステンス国の落ち度だから、そこを突いて責任の所在をうやむやにするつもりなんだ」
事件の顛末を口にする度に、シルヴェストルの怒りが膨れ上がる。
「国王は保身に走った! ずっと王妃様を守らなかったくせに、『国を守る』と大層なことを言って王妃様の死を弄んだのだ! アデライトの事件だってろくに調べもせずに捜査を打ち切った。何か隠しているに決まっている!」
吐き捨てるようなシルヴェストルの物言いに、夫の無念さを感じ取ったアデライトは静かに微笑んだ。
「悔しいですが、国を守るためには、仕方のないことなのでしょうね……」
この陰謀に巻き込まれて瀕死の重傷を負ったアデライトにそう言われてしまえば、シルヴェストルとしては何も言えない。
真相はお粗末なものだった。
自分が王妃になると思って準備していたのに、ヴィルヘルミーナにその座を搔っ攫われたと恨みに思っていたライサとクライトン家。王妃になる予定が王弟の妻では、手にする権力が小さいとずっと恨みを重ねていた。
ヴィルヘルミーナが嫁いで以来ずっと嫌がらせを繰り返してきたが、ついにそれだけでは飽き足らず、離縁の原因となる醜聞を作るに思い至った。どこでどう知ったのか、クリステンス国の幽閉先から抜け出していたブリュノが、ヴィルヘルミーナに一方的に連絡を取っていたことを掴み、それを利用することにした。
クライトン家側の言い分は、『愛人を城に引き入れるふしだらな王妃として醜聞を立たせ、それを理由に離縁させることで鬱憤を晴らしたかった。まさか命を絶つとは思わなかった』だ。
本来であれば裁判にかけて、ライサとクライトン家の罪は公にするべきだ。
しかし、王弟の妻が嫉妬のあまり他国から嫁いできた正妃を陥れたと広まれば、ハイマイト国は近隣諸国から他国を軽んじる国と軽蔑され、外交面でも不利になる。その上、クリステンス国に真実を知られれば、どんな報復が待っているか分からない。
それに、ライサやクライトン家のヴィルヘルミーナに対する嫌がらせは有名な話だ。それをずっと放ってきた国王の資質も問われるし、この様な結果を招いたのは国王のせいだと責められる。
だから国王は、全て、なかったことにしたのだ。ヴィルヘルミーナの死は病死とされ、ライサにもクライトン家にも直接的なお咎めはない。
ただ、代々宰相職を担ってきたクライトン家が、宰相職と公爵家の筆頭を辞した。そして当主が隠居して息子に代替わりし、国に納める税を倍にしたいと申し出た。
そして、クライトン家の息がかかった王城の職員も一掃された。
王弟はライサと離婚し、別の令嬢を娶った。
国王は『正妃はヴィルヘルミーナただ一人』と宣言し、新たに正妃を持つことはなかった。だが、それは王妃を愛しているからなのか、ハイマイト国内やクリステンス国の目を気にしてのことなのかは、分からない。
嫁いでから二十四年にも渡って妻が虐げられてきたのに、どうして助けなかったのか? 不貞の噂が絶えない妻を、実は自ら罰したのではないか? 国王に疑惑の目を向ける者は、城の中には少なくなかった。
この結末にシルヴェストルは全く納得していないし、国王には失望した。多少強引なところはあるのは国王としては当然で、シルヴェストルは優秀な国王だと尊敬していたのだ。
だが、信じていたのは自分だけで、国王は自分と王妃の不貞を疑っていた。いや、きっと未だに疑っているのだろう。
それに、アデライトが襲われた事件の真相だって全く解明されていない。あの日、ハーブティーを受け取った後に、王城に向かったアデライトは賊に襲われたのだ。賊から逃げるために山中まで追い込まれ、崖から馬車ごと落ちてしまった。
強盗事件として処理されているが、そんな単純なはずがないとシルヴェストルは考えている。王妃の事件が起こるのと同じくしてアデライトが賊に襲われるなんて、そんな偶然があるはずがない。
もちろんアデライトがブリュノを手引きしたという噂も消えた。当然だ、ブリュノの存在は綺麗に消え去ってしまったのだから。王妃は自殺ではなく、病死なのだ。
国王にとって不都合な事実は消されていく。シルヴェストルにとっては、何もかも納得がいかない。
アデライトの私室には、庭師が選んだ色とりどりの花が飾られている。外に出られないアデライトの目を少しでも楽しませたい庭師とメイド達が、毎日せっせと運んでくるのだ。
花が大好きなアデライトは、自ら庭に入って手入れをするのが日課だった。気が付くはずのない夫の目を喜ばせるために、毎朝摘みたての花を玄関に飾るのだ。アデライトに口止めされていた執事からその話を聞いたシルヴェストルは、アデライトの心遣いを全く気にも留めていなかった自分への怒りで震えた。
「私は財務大臣の職を辞したよ」
「そうですか」
あまりにもあっさりと話を受け止められ、かえってシルヴェストルの方が驚いてしまった。
「アデライトは、驚かないのか?」
「ふふふ、仕事を辞めていなければ、旦那様は今ここにはいませんよ」
アデライトとしては何気なく放った一言だが、シルヴェストルにとっては痛い言葉だ。瀕死の妻より、仕事が大事と言われているようでショックだった。だが、過去を振り返れば、そう言われて当然の態度を取ってきたのだ。
「今回の事件に納得いかない。時間に余裕ができたから、私なりに調べてみようと思う」
「わたくしは、反対です」
はっきりとしたアデライトの拒絶の言葉だったが、シルヴェストルは自分の聞き間違いだと思い「え?」と聞き返した。
固い意志を宿した菫色の瞳をシルヴェストルに向けたアデライトは、「反対です」ともう一度はっきりと言った。
出会ってから今まで一度も、シルヴェストルの意見に対してアデライトが反対の言葉を口にしたことはない。何かあれば、いつも「旦那様のお好きなように」と言って微笑むのだ。
そのアデライトが、厳しい表情でシルヴェストルの意見を否定している。シルヴェストルは信じられない思いで、アデライトの泣き出しそうにも怒ったようにも見える顔を呆然と見ていた。
「この事件がライサ様やクライトン公爵家の手に余る事態なのは、わたくしでも分かります。筆頭公爵家の手に余るのなら、黒幕の正体は、限られます……。危険です、危険すぎます! わたくしだって王妃様の無念を思うと辛いです。二十四年も助けの手が伸ばされず、挙句不貞を疑われ……。悔しいですが、わたくしには旦那様の無事が一番大事です。お願いします。この事件はもう、忘れて下さい」
傷が痛む身体で、そう言ったアデライトの目から涙が溢れ出している。
アデライトがシルヴェストルの前で涙を流すのも、これが初めてだ。シルヴェストルの知るアデライトは、嬉しくても悲しくても自分の前では笑顔だった。それだけこの件に関しては、アデライトも感情が抑えられない。
シルヴェストルはアデライトの涙を手で拭った。
「分かっている。だが、アデライトがそう思ってくれるのと同じように、私はお前を傷つけた奴が許せないのだ。忘れるなどできない。例え敵が、手に負えない相手でもな」
そう言ってシルヴェストルも揺るがない決意を込めた目をアデライトに向けた。この目は何を言っても聞かない時のものだとアデライトは知っている。
自分が反対したところでシルヴェストルが自分の言うことを聞かないのは、アデライトにだって分かっていた。ただ、この件の被害者として、事件の影に隠れる大きな闇を感じていて、言わずにはいられなかったのだ。
もう長くない自分は夫の身体を気遣えない、とは口にはできなかった……。
読んでいただき、ありがとうございました。
次の話は夜に投稿予定ですので、また読んでいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。