ユリアーネ、逃げる
読んでいただければ嬉しいです。
本日、四話目の投稿です。
よろしくお願いします。
トリスタンが怒りに任せて殴りつけたせいで、王の執務室の壁に施された鷲と王冠の紋章が揺れている。
王家の紋章を殴りつけるなんて、不敬以外の何物でもない。しかし、トリスタンが、そんなことを気にする様子は一切ない。
「こんな大層な紋章を掲げて、ユリアーネを探し出すこともできないのか!」
部屋の空気がビリビリと震えるほどの怒声を上げているのは、もちろんトリスタン。怒声を浴びせられているのは、国王と王太子だ。
王の執務室には、他にもシルヴェストルとアヒム親子が控えている。
「王弟一人に振り回されるとは、大層ご立派な政治力だな!」
何も言い返すことのできない国王と王太子に見切りをつけて、トリスタンは後ろに立つシルヴェストルとアヒムを振り返る。
「王弟から目を離さないと言ったな? ユリアーネを危険に晒す前に、王弟の尻尾を掴むのではなかったか? 王弟を見失い、ユリアーネも王城で消えた。どういうことだ!」
ユリアーネは性格上、卑怯なことはできない。後ろめたさから不安が顔に出てしまう。アリスティドとの距離が近いユリアーネに、黒幕が王弟だと伝えるのはかえって危険だと大人達は判断した。
こんなことなら、『王弟には絶対に近づくな! 念のためにアリスティドにも近づくな!』と言っておけばよかった。と誰の顔にも書いてある。
「揃いも揃って、いい大人が王弟ごときにいいように振り回されやがって。自分達の問題は自分達で解決しろ! 俺の娘を巻き込むな!」
トリスタンが再び紋章に怒りに任せた一撃を打ち込むと、紋章がガタガタと揺れて前に動き出した。
五人全員が立ち上がり、揺れながら少しずつ前へと進む紋章の前に集まる。
エンブレムのように象られた紋章が壁から進み出て、ガッタンガッタンと揺れる音が増してきた。何が出てくるのか全員が緊張の面持ちで見つめ、すぐに対応できるよう身構えている。
紋章と壁の隙間から声が聞こえてくる。
「私でギリギリ出られる程度の穴しかないなんて、これ絶対に設計ミスだわ……。あっ! お父様、引っ張って!」
埃と蜘蛛の巣まみれのユリアーネの頭が、壁から這い出た状態でトリスタンを呼んだ。
予想外の娘の登場に「ユリアーネ!」と叫んだトリスタンは、涙を飛び散らせて駆け寄り、ユリアーネの頭を掻き抱いた。
「お父様に会えて、私も本当に嬉しいのですが、できれば先に引っ張り出して欲しいです!」
後ろから王弟が追ってくることを恐れるユリアーネは、父親に助けを求めた。
無事を泣いて喜ぶ父親に抱き締められたユリアーネに、呆然とした様子で国王が尋ねる。
「……『北の棟』から、来たのか?」
「はい。王妃様の記憶のおかげで命拾いしました。隠し通路の存在を知らなければ、今頃王弟殿下に殺されていました」
ユリアーネの言葉を聞いた国王が、部屋の外に控える近衛兵達に指示を出している。王弟を捕縛する指示だろうが、果たしてまだ『北の棟』に残っているか……。
ユリアーネの帰還に安堵の表情を見せたシルヴェストルは、躊躇うことなくユリアーネに頭を下げた。
「危険な目に遭わせないと言ったのに、申し訳ない。王弟の動きに気付けなかった、完全に私のミスだ。謝って済むとは思っていないが、本当に申し訳なかった」
ユリアーネも囮を買って出たのだから、危険がないとは思っていなかった。しかし、さっきまでの王弟との会話は、本当に恐怖で思い出すと足が震えてしまう。
ヴィルヘルミーナの記憶のおかげで、同じように狂った男を知っていたから耐えられた。先にブリュノで耐性が作られていなかったら、王弟によって、いとも簡単に絶望の淵に追いやられていたはずだ。
「王弟殿下はわたくしを始末する気でしたから、王妃様やアデライト様を襲わせた件も自分が裏で糸を引いていたことを告白しました」
ユリアーネは言い難そうに奥歯に力を込めると、国王と王太子とアヒムを見た。言い辛いが事実を言わないことには始まらないと腹を括った。
「王弟殿下は、国王陛下や王太子殿下に対して、王妃様に不信を抱く偽りの情報を与え続けたと言っていました。例えば『王妃様とシルヴェストル様が想い合っている』や『王妃様が泣き縋って止めたから陛下が側妃を取れなかった』などです……」
思い当たることがたくさんあるのだろう、国王も王太子も渋い顔をして目を伏せている。
「宰相様に近づいたのは、シルヴェストル様を憎むよう仕向ける為です。王弟殿下はシルヴェストル様が自分の邪魔をしていることに気が付いていて、親子が協力して自分の前に立ちはだかるのを阻止したかった、と。あと、アリスティド様が王位に就くために宰相様に手を貸してもらう予定だったとも」
ユリアーネの言葉に、アヒムはゆっくりと目を閉じた。
伝えるべきことはたくさんあるのに、どの話をしても、王妃を信用せず傷つけた事実を並べることになってしまう。ユリアーネからは言いにくい内容ばかりだ。
どうしたものかとユリアーネが頭を悩ませていると、執務室の外から騒がしい声が聞こえてきた。
国の要である王の執務室を守る厚みと強度を備えた頑丈な扉が、今にも陥落の危機を迎えようとしている。ドシンドシンと何かが物凄い勢いで扉に当たる度に、ガッタガタと今にも外れそうに揺れている。それに伴って叫び声や怒鳴り声も激しい。
最も警備が厚い王の執務室が、今まさに襲われているのだ。もしかしたら、『北の棟』に残してきた王弟が暴動でも起こしたのかとユリアーネは不安で血の気が引いていく。
大きな怪物でも暴れているような騒ぎに、室内にいる全員が誰も動くこともできず固唾を飲んで揺れる扉を見つめる。
今までで一番大きな衝撃と音がするのと同時に、ノックもせずに扉が弾けるように開いた。集まる近衛兵を弾き飛ばして飛び込んできたのは、光り輝くシルバーブロンドだ。
髪を振り乱し、美しい顔は見る影もなく、血走った菫色の瞳を吊り上げ、歯を剥き出しにした恐ろしい形相のエリアスが、王の執務室に殴り込んできた。
ユリアーネの知るエリアスの温和な表情が消え去り、怒りに満ちた目がシルヴェストルを捉える。獣のようなエリアスは一直線に飛び出し、シルヴェストルの首根っこを押さえギリギリと持ち上げた。祖父を相手にしているとは思えない激しい怒りが身体中から迸っている。
「なぜユリアーネに、こんな真似をさせた? ユリアーネはどこだ? ユリアーネに何かあれば、貴方であろうと絶対に許さない」
激しい怒りを凝縮させた、低くざらつく怖いほどに静かな声だ。
全てがエリアスらしくなく、別人のように荒れ狂っている。驚いたユリアーネは、トリスタンの背中から一歩横に出て「エリアス、様?」と恐る恐る声をかけた。
予想外の声にエリアスはびくりと震え、驚きで見開かれた菫色の瞳がユリアーネを認識した。
「……無事で……」
そう言うと同時に、ユリアーネはいつの間にかエリアスの腕の中に囲われていた。
エリアスの抱きしめる力が強すぎて、思いの外厚い胸板しか見えず、表情は一切分からない。
トリスタンが「早く離れろ」と言わんばかりにわざとらしく咳払いをするが、エリアスは一向に気にせず、ユリアーネの埃と蜘蛛の巣だらけの頭に顔を埋めている。痺れを切らしたトリスタンが二人を引き離そうとするが、エリアスが無言でより力強く抱き込むだけだ。
ユリアーネも何が起きたのか分からない。なぜか心配されていたようだし、この一カ月が嘘だったような扱いをされている。
執務室の前がまた騒がしくなると、近衛兵や衛兵を引き連れたローランが部屋に入ってきた。元より険しい顔立ちのローランだが、その顔を余計に厳しく引き締めて兵に向けて合図を出した。それと同時に両手を後ろ手に縛られた王弟が、兵士達の間から国王の前に転がり出てきてきた。
王弟は人好きのする優しい顔を悲しみで歪ませて国王を見上げると、「兄上、これは一体どういうことですか?」と悲壮感漂う声を上げた。
王弟の登場に心臓が跳ね上がったが、逃げてはいられない。ユリアーネが対峙しなくてはならない。
「エリアス様、離して下さい。王弟殿下に話があるのです」
小声でエリアスに頼むも、ユリアーネを危険に晒したくないエリアスは無言で首を横に振る。
「『北の棟』から隠し通路で逃げた私が出ていかなければ、王弟殿下のしたことを証明できず、話が進みません」
ユリアーネの必死な様子に、エリアスはため息をつく。仕方がないと分かってくれたのか、自分の腕の中からユリアーネを解放する。が、ユリアーネの右手が、エリアスの左手にガッチリ握られている。
ユリアーネとしては、こんな人前で手を握られるなんて恥ずかしくてとても居心地が悪い。しかし、顔を見るだけで足が震えるほど恐怖を感じる王弟の前に立つためには、エリアスが隣りにいてくれるのは心強い。
「どういうことなのか、ユリアーネ・コーイングに聞いてみるか?」
国王の言葉に王弟はとぼけて見せる。
「コーイング嬢ですか? 今日はアリスティドに会いに来ていると聞いていますが、何かありましたか?」
感心するほどの演技力だ。人の良さそうな容姿と体形だけではなく、話す雰囲気もおっとりとしていて、ユリアーネと対峙していた時とは印象が全く違う。
ユリアーネに視線を向けた国王の視線を辿って、王弟とユリアーネの視線がぶつかった。
一瞬で瞳に狂気を取り戻した王弟に、「何があったのかは、王弟殿下が一番ご存じですよね?」とユリアーネは決死の覚悟で微笑みかけた。
しかし相手は何年も尻尾を掴ませなかった王弟、一枚も二枚も相手の方が上手なのは経験済みだ。
ユリアーネに向けた狂気をすぐに隠すと、王弟は垂れ気味の瞳をくるくると動かしてにこやかな自分を演じる。
「私が知っているのは、ユリアーネ嬢がアリスティドに会いに来てくれたことだね。それと、王族専用の中庭を散策した後に侍女とはぐれて道に迷い、『北の棟』に迷い込んできたしまったことかな。もしかして、アリスティドの私室の場所を間違えて、王の執務室に来てしまったのかい? だとしたら、私の教え方が悪かった。申し訳ないね」
ここにいる全員が自分の本性を知っていると、分かっているはずだ。それなのに王弟は悪びれることもなく、優しい王弟殿下を演じ続ける。
ユリアーネの証言以外は、自分の罪を証明できる証拠が何もないと分かっているからだ。
そしてユリアーネの証言だけでは、王弟を罪に問うなんてことは不可能だ。
貴族や国民からの支持が絶大な心優しい王弟と、傲慢と悪名高い伯爵家の娘とでは、どちらの証言が有効かは一目瞭然だ。
ユリアーネはこのまま泣き寝入りかと、悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて仕方がないのに、奥歯を噛みしめるしかできない。
「ユリアーネ嬢は、何だか辛そうだね? 道に迷って怖い思いをしたかな? 家で休ませてあげた方がいいんじゃない?」
王弟の勝ち誇った態度に、怒りの炎が体中を駆け巡る。解放することが出来ない怒りを身体に抱え燻ぶらせたユリアーネは、自分の力のなさを思い知った。あんな思いをしたのに、自分にはやり返す術がない。悔しがるしかできないなんて、本当に情けない。
「そもそも、王弟殿下は立ち入り禁止の『北の棟』で何をしていたのですか?」
いつもはいい加減なローランが、厳しい視線と口調で王弟を責める。
「立ち入り禁止なのは知っているんだけど、子供の頃から『北の棟』が好きなんだ。祖先を思って祖先が住んでいた場所を散策するのが、私の唯一の息抜きだ。大目に見てもらえないか?」
茶目っ気たっぷりに瞳を動かす王弟に、ローランは冷たく返す。
「ナイフを持って、ですか?」
「一人になりたくて行く訳だから、護衛をつけないだろ? だから護衛代わりの護身用だよ。今の所、埃や蜘蛛の巣を払うのにしか役立ったことがないけど」
何を言っても微笑みを絶やさずに、もっともらしい返事をする王弟。第一王子として修羅場をくぐって来たローランでも、歯が立たない。
自分の優位を確信した王弟が、堂々とした態度で国王に主張する。
「もう分かってもらえたんじゃないですか? 私がこんな扱いを受けるのは、間違いだということが。もう、腕が痛くて、縄を解いてもらいたい」
朗らかな王弟の態度に兵が思わず縄と解こうと近づくのを、国王が「下がれ」と低い声で遮る。
「兄上、私は自分をこんな目に遭わせたローランやエリアスやフォルカーを罰する気はありませんよ。立ち入り禁止の場所にいた私に非がないとは言えませんしね。ですから、早く縄を解いて頂きたいのですが」
王弟である自分を不当に捕まえた三人を不問にしてやるから、さっさと縄を解けとにこやかに言っている。このふてぶてしい男を野放しにするしかないのか?
「それは、できないな。お前には、このまま地下牢に行ってもらう」
国王の冷たい言葉にも、王弟は笑顔を絶やさない。
「何の罪ですかね? 『北の棟』を散策したにしては、厳しい処分じゃないですか?」
王弟が笑顔を絶やさないように、国王も険しい顔を崩さない。そして、国王の両脇に、王太子とシルヴェストルも同じく険しい顔で立つ。王弟の両脇では、第一王子とフォルカーが目を光らせている。
さすがにいつも通りにはいかないと悟った王弟がチラリとユリアーネを見たが、その視線をエリアスが遮る。
「みんな、どうしたのかな? 随分とピリピリしているみたいだけど……。泣き出しそうなユリアーネ嬢から、何か言われたかい? アリスティドの所まで送ってあげなかったから、機嫌を損ねてしまったかな? でも一人の意見に振り回されるのは、感心しないな。一つの言葉でも、人によって受け取り方が違うだろう? 決定的な証拠がないなら、私の話にも耳を傾けるべきだと思うな」
証拠がないなら罰せられないだろう? そう言いたいのだ。
このメンバーでは意見が偏るから他の大臣や貴族を呼ぶとなれば、誰一人ユリアーネの話など信じない。王弟の言葉が真実となり、ユリアーネは王弟を陥れたとして罰せられるだろう。
「ライサとクライトン家から証言を取っている」
国王の発言を、王弟は鼻で笑った。
「王妃様を長年にわたり虐げた挙句、陥れた輩を今さら信じる者がいますか? そんな罪人達の証言を信じて私を投獄するなんて、正気の沙汰とは誰も思いませんよ? このことが周辺諸国に与える影響を考えれば、誰も兄上の話に耳を貸さないでしょうね」
王弟の言う通りだ。ヴィルヘルミーナの死の真実を公に晒せばハイマイト国の立場が危うくなると分かっているのに、過去の出来事を蒸し返したいと思う貴族はいない。それどころか、国王を引き摺り下ろすには、もってこいの機会になってしまう。
「お前がこの程度で、自分の罪を認める訳がないな」
硬い表情をした国王の言葉に、王弟が半笑いで「私の罪とは?」と声高に問う。
国王がトリスタンに目で合図を送ると、トリスタンが取り出した古い書状を王弟の眼前に突きつけた。
「私の紹介状だ。何通も書いていますよ。それが何だと言うのです?」
「そうだ、お前の言う通り、お前の書いた紹介状だ。お前の紋が入った便箋に、お前の封蝋だな。もちろん、この紹介状が、お前の筆跡であるのも確認済みだ。門番に怪しまれずに城に入るには、証拠が残ると分かっていても王弟の客だと分かる物を持たせるしかないからな」
「何が言いたいのですか? これが何だというのですか?」
まだ笑顔と余裕が残っている王弟の前に、トリスタンは手紙を裏返して見せる。
「お前は知らないだろうが、紹介状の使い回しを防ぐために門番は、紹介状の裏に受け取った日付を必ず記入する。王妃の命日だ、お前にも忘れられない日だろう?」
王弟は唇を噛むと、「たまたま同じ日に友人を招いたに過ぎませんよ」としらを切ろうとする。
「その紹介状を持っていたのは、ブリュノと同行していたメイドだぞ」
「!…………」
「メイドはお前の行動を怪しんでいたそうだ。だから後々ブリュノの身の証をたてるために必要になるかもしれないと思い、門番に大金を掴ませて紹介状を渡さなかったそうだ」
「……」
「クリステンス国にわざわざ出向き、ブリュノが幽閉されている屋敷を一人で訪れた。そして、苦しんでいる王妃がブリュノの助けを待っていると適当なことを並べ立て、王妃を連れて逃げるように唆した。メイドはちゃんと話を聞いていたよ」
国王は事実を淡々と述べているようで、言葉の端々に怒りが感じられる。
「王妃様を思うあまり気が触れた、あのブリュノのメイドですよ? そんな女の言うことを信じるのですか? 確かに書状は私が書いたものですが、それを盗んだライサか誰かがブリュノを唆したのではないですか? こんな紹介状だけでは、ブリュノの下を訪れて唆したのが私だという証拠にはならない!」
声を荒げ余裕が薄れていく王弟の顔の前に、トリスタンが飴色に変色した小さな革の袋を差し出した。
途端に王弟の身体から力が抜けていくのが、誰の目にも見て取れる。
「見覚えがあるだろう? 私達の母が、健やかに成長するよう願いを込めて兄弟それぞれの紋を刺繍してくれた、世界に一つしかないお守り袋だ。私もお前も肌身離さず持っているはずなのに、お前はどこかに置き忘れたと言っていたな。実際はブリュノのメイドがお前を信じられず、何かあった時の保険として保管していたそうだ」
世界に一つしかない王弟のお守り袋をブリュノのメイドが持っていたのだ、もはや弁解の余地はない。
「ブリュノに王妃を連れ去るよう唆したのは、お前だな? フェルナン」
王弟がクスクスと笑い出し、どんどん大きくなっていく。
広く静かな王の執務室に、王弟の乾いた笑い声が怪しく響く。
言い逃れができない状態で可笑しそうに笑う王弟の姿に、ユリアーネは全身が粟立つほどの不気味さを感じた。おそらくそれはユリアーネだけではないはずだ。全員が薄気味悪いものを見る目を王弟に向けている。
「確かにブリュノを唆したのは私です。だから何だというのですか?」
王弟の怒りのこもった獰猛な目が国王を捉えた。
開き直るにも程がある。よくそんなことが言えたものだと、ユリアーネは飛び出しかける。
「王妃がシルヴェストルとの不貞を夫に疑われて傷ついていたのも、息子に疎まれて悲しんでいたのも、事実でしょう? 長年にわたって貴族達に虐げられ苦しんでいたのも、全て事実だ! だから、私は可哀相な王妃を助けてあげようとしたんだ。妻を、母親を、追い込んだ自分達の落ち度を棚に上げて、私を責めるのは見当外れだ!」
黙り込む国王と王太子の前に、シルヴェストルが静かに前へ出た。
「見当外れは貴方ですよ、王弟殿下」
この壮大な兄弟喧嘩に巻き込まれた被害者として、シルヴェストルには言いたいことは山のようにあるはずだ。だが、今は王弟を憐れんで見下ろしている。
「王妃様が追い込まれるように、陛下や殿下に偽りを吹き込んだのは貴方でしょう?」
「信じたのは兄上やマルスラン自身だ。私の言葉に惑わされる程度にしか、妻や母を信じていなかった。今更お前等が自分達を正当化したところで、王妃を追い込んだのは、兄上とマルスランであることは変わらない!」
自分が真実を言っていると疑っていない王弟は、正義感溢れる顔を興奮で真っ赤に染め上げた。
「そうだな、お前の言う通りだよ。自分の態度を正当化して、フェルナンに罪を擦り付ける気はない。ミーナは私を恨んで死んだ」
一気に十歳は老け込んでしまったように見える国王は、背筋はピンと伸びているものの、どこか弱々しくいつもの威厳が感じられない。
「陛下、それは違います!」
国王陛下の発言を力強く否定したユリアーネに全員の視線が集まった。
エリアスが思わず手を離してしまう貫録を放ち、堂々と国王陛下へ歩み寄るユリアーネの姿は、ヴィルヘルミーナそのものだった。
「王妃様は、命を絶つその時でさえ、国王陛下を愛しておられました。王太子殿下の幸せを願っておられました。愛するお二人がハイマイト国を守り繁栄させていくことを信じ、その足枷になりたくないと思われたのです」
これがヴィルヘルミーナの最期の願いだ。
「王弟殿下とは違って、王妃様の愛情は、見返りを期待しておりません!」
そう言い切ったユリアーネに見下ろされた王弟は、目の前に立っている娘がヴィルヘルミーナに見えてしまい瞬きを繰り返した。
「先程『北の棟』で、王弟殿下は『国王陛下と王妃様の愛は私達に劣る』と仰いました。少なくとも王妃様の愛は、王弟殿下達には劣らないと分かっていただけましたね?」
ヴィルヘルミーナが乗り移ったようなユリアーネの問いかけに、王弟は驚愕の表情のまま答えることができない。
「そもそも、王弟殿下が手にしたと思っている愛は、何なのでしょうか?」
『北の棟』では王弟への恐怖で口にできなかった事実を、ユリアーネは王弟に投げつけた。
「王弟殿下が愛し合っていたと仰る元婚約者は、王弟殿下との婚約が白紙になった後、傷心のあまり修道院に入られたと噂されています。しかし、事実は違いますよね?」
ユリアーネの言葉に、王弟の肩がびくりと揺れる。
「そもそも元婚約者と愛し合っていたという話が事実と異なります。事実は元婚約者を一方的に見初めた王弟殿下が、彼女の家族までも脅して強引に婚約を結んだ。それを隠すのと元婚約者を逃がさないために、二人は愛し合っていると偽の情報を流したのです。王弟殿下がそれほどまでに自分に執着していることを恐れた元婚約者は、婚約が白紙になったくらいでは逃げられないのではと不安になった。だから、信頼していた王妃様に密かに相談したのです。そして、王妃様の協力を得て、王弟殿下から逃れるために修道院に入ったと偽った。そして本当に愛し合っていた従者と共に、クリステンス国でひっそりと幸せに暮らしていた」
王弟の目に獰猛さが増し、『北の棟』で見せた狂気に彩られていく。そして、「やっぱり、あの女が……」と唸り声をあげた。
「国王陛下が側妃を取らないため、王弟殿下に側妃を取らせる声が上がった時に、真っ先に元婚約者を探しましたね。そこで結婚して子供にも恵まれて幸せに暮らしている家族を目の当たりにした。そして、真実を知った。元婚約者には当時から愛する人がいて、二人が愛し合っていると思っていたのは、王弟殿下だけだった、と」
王弟の顔は怒りで紅潮し、獣みたいに歯を剥き出しにして鼻息も荒い。憎しみのこもった赤い目をユリアーネに向け、今にも襲い掛からんばかりだ。
しかし、ユリアーネも負けずに王弟の赤い目を睨み返す。
「王弟殿下は、『自分達の愛は引き裂かれたのに、愛を手に入れた国王陛下が許せなくて、自分達の愛より二人の愛が本物かを試すことにした。私と元婚約者との愛と、兄と王妃様の愛、どちらが本物なのかを見極めたかった』と仰いました。そもそも愛を手にしていない王弟殿下が、一体何を見極めたのですか?」
金糸の刺繍が施された臙脂色のカーテンが風に揺れている。そのカーテンの間から、鮮やかな茜色の夕焼けが覗いていていた。
夜の闇に沈む前の太陽から放たれる眩い輝きの中、王弟の絶望が轟いた。
読んでいただき、ありがとうございました。
あと三話くらいで完結予定ですので、読んでいただければ嬉しいです。